ウィキリークスのジュリアン・アサンジ逮捕をめぐる流言、そして「強姦」と「『強姦』」のあいだ

2010年12月26日 - 9:30 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

二〇一〇年秋頃より米国の軍事・外交文書をインターネットや既存メディアを通して大量に暴露し、世界中の話題をさらったウィキリークスの責任者、ジュリアン・アサンジの英国での逮捕劇については、確かな情報がごく限定的にしか伝えられていないにも関わらず、ウィキリークスやアサンジの行動を支持する側、またそれらを非難する側の双方の論者により、憶測やうわさ話をまじえて、さまざまな意見が交わされている。
この問題に関心を持つ多くの人が知るように、アサンジの逮捕用件は、実のところウィキリークスの活動とはまったく関連がない。英国滞在中のかれに対する逮捕状がスウェーデンで出され、国際刑事警察機構によって国際指名手配されたのち出頭・逮捕、そして保釈された容疑は、二人の女性に対するレイプ、性的暴行、不法な性行為の強要というものだ。
スウェーデン当局は、八月の時点でこれらの容疑について捜査をはじめていたが、それ以後もアサンジはヨーロッパ各国を自由に回りながら、ウィキリークスに関連した活動を続けていた。国際刑事警察機構を動かすなど、かれに対する法的な追求が強化されたのは、ウィキリークスが米国の軍事・外交文書を大量に公開しはじめてからであり、性犯罪の容疑に対する正当な責任追及であるというよりは、米国およびその同盟国の意思にもとづいた、アサンジとウィキリークスの活動を抑えつけるための実力行使ではないか、という疑いを持つ人は少なくない。
その代表的な人物が、『ボウリング・フォー・コロンバイン』『シッコ』などで知られるリベラル派のドキュメンタリ映画監督マイケル・ムーアだ。かれはアサンジの弁護士にかれの保釈金を支払うと申し出ただけでなく、そのことをニュース番組で聞かれて次のように釈明した。「アサンジはそもそも何の容疑も受けていないし、このこと全体(アサンジの容疑)が非常に疑わしい。権力に不都合なことを明らかにしようとする人は、かならずこのような嘘や人格攻撃を受けることになる。かれが犯したとされている犯罪というのは、合意あるセックスの最中にコンドームが破れてしまったというだけであり、英国ではそれは違法ではない。」
ムーアが前半で言わんとしていることには、わたしも同意したい。アサンジの容疑が国際問題にまで昇格されたタイミングはたしかに怪しいし、米国政府はアサンジを性犯罪容疑でスウェーデンに送るのではなくスパイ容疑で米国に移送させようとしている、という報道もある(どうやって知ったんだよとは思うけど)。
また、アサンジの逮捕とほぼ同時にウィキリークスのウェブサイトが各国のインターネットプロバイダから排除されたり、寄付を集めるための口座を凍結されたりという形での追求も起きており、米国とその同盟国らが総力をあげてウィキリークスを潰しにかかっているようにも見える。
アサンジには、かけられた容疑に対して(あるいはスウェーデンへの移送に対して)万全の弁護を受ける権利があるし、米国の圧力によって不当な扱いを受けないための支援をムーアがしたいというなら、ぜひそうしてほしいと思う。けれども、ムーアのメディアでの発言は、アサンジを擁護するあまり、性暴力の訴えに対する「ごくありふれた、事態を矮小化し、被害者を貶め、泣き寝入りを強いる」主張に陥っている。
上に書いたとおり、アサンジに対して挙げられた容疑はレイプ、性的暴行、不法な性行為の強要の三つだ。「合意あるセックスの最中にコンドームが破れてしまっただけ」というのは、アサンジを支持する多くのコメンテータやブログが、かれに対する具体的な容疑も明らかにならないうちから大々的に広めてしまった話だが、実際にかれにかけられた容疑はそれよりはるかに深刻だ。もちろん、容疑が事実かどうかは裁判で争われる性質のものであり、予断を持つのはおかしいだろうが、容疑自体を矮小化して誤魔化すのはもっとおかしい。
しかし、ムーアのような有名人や、かれをインタビューしたリベラル系コメンテータのキース・オルバーマンらは、あるいはアサンジを支持する多数のブログやソーシャルメディアでは、「コンドームが破れただけ」「スウェーデンのような特殊な法律のある国以外では犯罪ではない」という、すでに否定されているはずの「解説」で、容疑の深刻さを否定し続けている。
テクノロジーやガジェットについて詳しい人気サイト・ギズモードの本家英語版では、十二月三日に「ジュリアン・アサンジにレイプの容疑はかかっていない」という記事を掲載した。その記事では、アサンジにかけられた容疑はスウェーデン法に特異な「不意打ちの性交渉」というものであり、いわゆる「レイプ」とはまったく異なるものだ、「被害者」とされる女性たちもレイプされたとは言っていない、という趣旨のことが書かれている。
しかし実際の容疑が次第に明らかになると、ギズモードはその記事を撤回したうえで、次のように釈明した。「こうなると、あきらかに違った話になってきます。レイプ、性的暴行、不法な性行為の強要は、とても深刻な訴えです。これらは以前話していた『不意打ちの性交渉』とは異なります。」 間違いを認め訂正するというのは勇気がいるし、素晴らしいことだとは思うのだけれど、深刻な話だけに、そもそもはじめから、不確かなネットの噂に過ぎないような内容の記事を、ギズモードのような影響力のあるサイトには掲載しないで欲しかった。
ところが、このギズモードの十二月三日の記事を(さらに煽り口調に改変して)翻訳・掲載したギズモードの日本語版、ギズモード・ジャパンでは、「サウンドバイトにご用心。国際指名手配のWikiLeaks創始者ジュリアン・アサンジ、『性犯罪』容疑の中身とは?」という記事がいまだに(十二月二四日現在)掲載されている。「不意打ちの性交渉」でありレイプの訴えはない、という解説もそのままだ。
よく読むと、記事全体を撤回・訂正した本家と違って、日本版では本文の末尾に次のような文が掲載されている。「以上の記事が出た直後、スウェーデン検察庁から『レイプ、性的虐待、違法な強制』と容疑倍増で正式な逮捕状が出て、結果オーライになった、というわけですね。いやあ…。」 「いやぁ」ではない。ネットの噂に騙されて誤報を掲載し、性犯罪の訴えを矮小化することに加担しておきながら、ふざけすぎている。
はてなブックマークやツイッターでのこの記事に対するコメントを読んでみても、読者が「本文は誤報、追記部分が正しかった」と理解しているとは思えず、ほとんどの読者は「スウェーデンにしかない特異な『不意打ちの性交渉』」が逮捕容疑なんだと思っている様子。まさしく「サウンドバイトにご用心」とこちらが言いたい。
ムーアやギズモードやその他の多くのアサンジ支持者たちは、どうしてそれほどアサンジの性犯罪容疑を矮小化しようとするのだろうか。かれらがアサンジは無実だと信じたいのはわたしにも理解できるが、「アサンジには深刻な容疑がかけられているが、事実無根であり無実」と主張するのではなく、容疑そのものを矮小化しようとしていることには、別の理由があるように思う。
国際ジャーナリストの小西克哉は、TBSラジオ「デイキャッチ」十二月一四日放送において、メインパーソナリティの荒川強啓を相手に、アサンジの「容疑内容の細かなディテール」を語っている。かれの解説する内容は欧米の報道やネットのうわさ話をまとめたもので、だいたい次の通りだ。
アサンジは八月にスウェーデンに招かれ、イベント関係者の女性の部屋に泊めてもらった。彼女は女性運動家であり、ブロンドの美人でもある(というディテールが必要だと小西が思っていることは興味深い)。彼女は出張しており部屋にはいないはずだったのだが、一日早く帰ってきたため、アサンジと一緒に食事することになり、その後合意のあるセックスをしたが、コンドームが破れてしまった。翌日、彼女はそのことを訴えるでもなく、アサンジのためのレセプションを開いた。
そのレセプションでアサンジは別の女性と知り合い、コンドームをつけて合意のあるセックスをした。ところが翌日かれは、コンドームを付けないまま、まだ寝ている女性と無理やりセックスをした(小西の言葉では「やっちゃった」)。そのことを知った女性はコンドームを付けてなかったことが不安になり、最初の女性に相談したところから、訴えでることになった。(ここで荒川が「あらー」と感嘆の声。)
ムーアと同じく、小西も第一の女性とのあいだで起きたことは「コンドームが破れただけ」だと説明しているが、いくらスウェーデンでもコンドームが破れただけで違法になったりはしない。コンドームが破れたあと、女性が停止するよう求めたのに応じなかった(無理やり続けた)、というのが容疑だ。また、小西は彼女が「翌日すぐに訴え出るのではなく、逆に予定通りレセプションを開いた」ことを強調することで、あとから彼女が訴え出たことには何か別の理由があるかのような含みをもたせているが、イベントを運営している人がイベント終了までとりあえず何も無かったかのように振る舞うことは、それほど不思議ではない。
第二の女性とのあいだでは、まだ寝ている相手に無理やり性行為を押し付けた(日本の法律でも準強姦罪)とされる行為を「やっちゃった」と軽く表現し、コンドームの不使用だけが問題だったかのようにまとめている。このように、小西と荒川の論調は「アサンジは事実無根だが深刻な疑いをかけられている」というものではなく、明らかに「アサンジがやったとされることなんて、仮に事実であったとしても大した問題ではない」というものだ。
繰り返すように、わたしはアサンジがこれらの行為を実際にやったと決め付けるつもりはない。それは裁判の場で公正に(すなわち、米国の不当な介入などを排して)争われるべきだ。けれども、かれにかけられている容疑の深刻さを薄め、被害者の信憑性を攻撃するような発言は、容認できない。「スウェーデンに特有の『不意打ちの性交渉』」という言説は、アサンジを訴えた二人の女性だけでなく、多くの性犯罪被害者たちが経験する、そうした被害の矮小化と犠牲者非難(暴力などの被害を受けた人に、その暴力に関する責任があるとする言説)に便利な言辞的ツールなのだ。
犠牲者非難についていえば、既に英語圏ではさまざまなブログで広まっていた話だが(というか日本語圏でも陰謀論系のところでは書かれていた)、在米ジャーナリストの高濱賛が日経ビジネスオンラインというメジャーなサイトのブログに掲載した「ウィキリークスのジュリアン・アサンジっていったい何者か」という記事で、アサンジの性暴力被害を訴えた女性の一人にCIA(米国中央情報局)との繋がりがある、という「怪情報」を掲載したことには驚いた。
高濱は「怪情報」がソースであると断りつつ、この女性は「左翼シンパということになっている」けれども、実はCIAが資金を出している反カストロ派団体に所属していたことがあるから、「アサンジをなんとかとっ捕まえようとした CIAが」彼女を「使って『強姦容疑』で告発させ、逮捕されるように仕組んだとしても不自然ではない」としている。
この「怪情報」というのは、以前ある左翼雑誌に掲載された記事が大元だが、簡単にまとめると、CIAとの繋がりがある人が運営していた雑誌に彼女が記事を寄稿したことがある、というだけの話。彼女自身になんらかの繋がりがあるという情報は、少なくともこれまでのところ一切でていない。にもかかわらず高濱は、この記事で彼女は「使われて」いる(自分の意思ではない)可能性があり、いずれにせよ彼女の訴えは鍵括弧のついた「『強姦容疑』」、すなわち本当の意味での強姦容疑ではない「不意打ちの性交渉」の一種だということを示唆している。
なぜこれほどまで多くの人たちが、アサンジの容疑は「不意打ちの性交渉」の類だと――正式な容疑が「レイプ」その他であるとはっきりしてからも――思いたがるのだろうか。それは、「レイプ」あるいは「強姦」という言葉を聞いて頭に浮かぶ犯罪と、現実にアサンジが犯したとされる犯罪とのあいだに、大きな落差があると多くの人たちが感じるからではないだろうか。
ギズモードが最初に「ジュリアン・アサンジにレイプの容疑はかかっていない」と書いたとき、それは単に法律上の事実の問題としてレイプの容疑がかかっていないと言いたかっただけではないだろう。ギズモードが言わんとしたことは、アサンジにかけられた容疑は、高濱の言う「『強姦容疑』」であり、鍵括弧なしの、本物の「強姦容疑」ではない、ということではなかったか。現に、「レイプ」という言葉に鍵括弧を付けることで矮小化するような表記法は、英語圏のブログやツイッターなどでも多数見られた。
多くの人が思い描く本物の「強姦」とは、主に見知らぬ他人や、その他の絶対に性交渉を持ちたくないような人により、無理やり体を抑えつけられ、暴力をふるわれ、あるいは暴力をふるうと脅され、やるすべなく相手の意のままにされてしまう、そういうものだろう。それに対して夫婦や恋人同士のあいだで起きるような行為は、たとえそれが「寝ているうちに」でも「コンドーム使用を拒絶して無理やり」でも、「強姦」とまで呼ぶのは大袈裟だ、と感じる人が多い。ギズモードが当初、アサンジのことを「不届き者ではあるかもしれないけれど、レイプ犯ではない」と書いたように。
日本をふくめ、世界の大多数の国の性暴力を取り締まる法律は、こうした世間一般の感覚に忠実に作られている。たとえば、日本の強姦罪や強制わいせつ罪は「暴力または脅迫」を用いた場合のみに成立するように定義されているばかりか、かりにそうした暴力があったとしても、夫婦ではお互いの関係が決定的に破綻していない限り強姦罪は成立しないと解釈されている。そうした定義に当てはまらないけれども、ある人の性的尊厳や自己決定を侵害するような行為は、いわゆる「『強姦』」として、法的にも社会的にも「強姦」よりかなり低く扱われがちだ。
フェミニスト法学者たちは、こうした各国の「強姦」観は女性の貞操を家父長の所有物として扱う歴史的伝統から成り立っており、それが夫婦間のレイプや性労働者に対する性暴力の軽視、そして「強姦」に対する「『強姦』」の矮小化に繋がっている、と指摘している。歴史的に夫婦間のレイプが問題とされてこなかったのは、女性の性が彼女自身のものではなく夫の所有物だとされてきたからであり、また性労働者への性暴力が問題とされないのも、彼女たちがそもそもどの男にも所有されない、貞操を持たない存在だとされるからだ。この前提において、取り締まられるべきなのはある男(父や夫)の持つ女性の身体と性への所有権が「他の男」によって不当に侵害されること、すなわち「よその男によって身内の女が寝取られること」のみだ。
もちろん、いまでは時代は変わっており、多くの国では女性の性や身体を男性の所有物とみなすような法制度はおおかた是正されてきている。けれども、「性暴力をふるうのは見知らぬよその男、そして被害者は純真な女に限る」「暴力または脅迫のある性暴力が一番深刻」という前提と、「強姦」と「『強姦』」のあいだの法的・社会的な扱いの格差は、いまだになくなっていない。それらが残る限り、現実の性暴力の大多数を占める「『強姦』」被害が矮小化され、多くの被害者たちが非難され沈黙を強いられることは、これからも続くだろう。
こうした問題を解消するためにフェミニスト法学者たちが主張するのは、「強姦罪」をはじめとする既存の性暴力関連法規を廃止するなり大幅改正するなりして、個人の性的尊厳と自己決定権の尊重を「性暴力禁止法」の中心に据えることだ。すなわち、同意を得ずに性行為を押し付けること――ここには、一方がコンドーム使用を求めているのにもう一方がそれを拒絶するなども含む――自体が暴力として認識されるべきだ、とかれらは主張する。そうすることでようやく、夫婦でも性労働者でもレセプションでスーパースターに出会って部屋に付いていったミーハーなファンでも、同意のない性行為の押し付けから守られることになる。
さまざまに歪曲され、まるで、たいしたことではない「『強姦』」の代名詞であるかのように言われているスウェーデンの「不意打ちの性交渉」とは要するに、そういう法律だ。わたしはスウェーデンの法制度についてそれほどよく知るわけではないし、もちろんまだ改善の余地はあるかもしれないとは思う。けれども、個人の性的尊厳と自己決定権の尊重を保護しようとしているという点で、スウェーデンの性暴力関連法には他国より優れた側面があると考えている。
フェミニスト著作家として知られるナオミ・ウルフも、アサンジに対する容疑の詳細が明らかになる前の段階で、あとから思えば軽はずみな記事を発表した一人だ。国際刑事警察機構への手紙と題した十二月七日付の記事で、彼女は「コンドームが破れただけ」という噂に便乗しつつ、アサンジの逮捕を「国際刑事警察機構がデート中に自己中な男を捕まえる世界的な捜査をはじめた」と表現した。「オレゴン州コーヴァリスに住んでいるマーク・レヴィンソンを逮捕してください!かれはガールフレンドが三インチも髪を切ったのに気づきもしないんですよ!」
しかし詳細が分かってきた一三日には、彼女のトーンは一変する。自分はフェミニストとして過去に性暴力被害者の支援に関わってきたと説明したうえで、次のように続けた。世界中の大勢の性暴力被害者たちは、アサンジによる被害を訴えている女性よりはるかに深刻な暴力を受けたにもかかわらず、ほとんど見向きもされていないのが現実。なのに今回の件に限って、突然スウェーデンと英国という二つの国が必死になり、国際刑事警察機構まで動員して、アサンジの法的責任を追求しようとしているのは、いったいどう解釈したらいいのか?
ウルフはこう言う。もし各国当局が性暴力の問題に真剣に取り組む覚悟を決めたというのであれば、すなわちアサンジだけでなく全ての性暴力加害容疑者を追求し、二人の女性だけでなく全ての性暴力被害者を支援するというのであれば、そうであったなら、いいだろう、アサンジを牢獄に放りこむがいい。けれども現実はそうではない、と彼女は指摘する。
それぞれの政府は、性暴力に関して決して何かの政策転換を行っているわけではなく、ただ今回の、普段なら不起訴で終わるような事件――不起訴だから事実無根というわけではなく、多くの現実の性暴力被害は不起訴に終わっている――が国際的な大事件に拡大させられている。それは性暴力の容疑そのものとは無関係で、アサンジがウィキリークスの責任者であり、ウィキリークスがいま米国政府をはじめ多くの権力者たちに睨まれていることだけが理由だ、というのだ。
アサンジの法的追求は、一見性暴力被害者の言い分が尊重されているように見えるかもしれないが、フェミニズムの主張が実現したわけではなく、フェミニズムの言辞が国家によって都合よく利用されているだけである、とウルフは主張している。
わたしも、アサンジが国際刑事警察機構を通して逮捕されたことには、かれがウィキリークスの問題で「時の人」となっていることと無関係だとは思えないし、かれが責任を追求されることでフェミニズムの目的が実現されるとも思わない。フェミニズムの主張が国家に都合よく利用される危険は、ウルフのようなリベラル・フェミニストよりも、かねてから反性暴力・反ドメスティックバイオレンス運動における警察依存・国家依存を批判してきたわたしのほうが、ずっと分かっているつもりだ。
けれども、ウルフが最初の記事でまったく被害を訴える女性たちの声に耳を傾けようともしなかったばかりか、辛辣なからかいの対象とし、ネット上のうわさ話をもとに「コンドームが破れただけ」「不届き者ではあるかもしれないけれど、レイプ犯ではない」と書いたことを思うと、彼女がいまさら「国家のフェミニズム利用を許すな」と言っても説得力がない。彼女こそ、「フェミニスト」という肩書きを左翼運動に利用させているだけに見えてしまう。
最初の記事を「なかったこと」にして、第二の記事だけで評価したとしても、彼女が性暴力の問題について真剣に考えているようには思えない。彼女の主張は結局「アサンジに対する容疑は取り下げられるべきだ、なぜなら同様の件においてスウェーデンが国際刑事警察機構を巻き込んで英国警察にアサンジ逮捕を依頼するとは考えられないから」ということになってしまう。それは要するに現状維持であり、性暴力への取り組みをどこか変えるよう求めているようには見えない。性暴力の被害者は泣き寝入りするのが世界標準なのだから、アサンジの容疑がかりに事実であったとしてもかれの責任を追求すべきではない、という話になってしまう。
記事に対する読者の反応を読んでみても、彼女に賛意を示したうえで、「アサンジ逮捕はひどい、もしあれが許されるなら、すべての男性はレイプ犯に仕立て上げられるおそれがある」というようなコメントが多く、「コンドームが破れただけ」「不届き者ではあるかもしれないけれど、レイプ犯ではない」という認識が広く共有されている――それにウルフはいっさい抗おうとしていない――様子が分かる。
とはいえ、ムーアやウルフのようなそれぞれ左翼業界、フェミニズム業界での有名人がこうした発言をしたことで、一部のフェミニストブロガーらのあいだからはそれらに対する批判も起きており、アサンジの逮捕を契機に「強姦」と「『強姦』」のあいだと「性暴力禁止法」のあるべき形についての議論を少しは進められそうな気はする。アサンジの容疑そのものについて言えば、いまだに分かっていないことが多いが、米国の不当な介入を警戒しつつ、裁判の場で真実が明かされることを期待して、これからも見守りたい(英国からの送致もどうかと思うのだけれど、公正な裁判を受けられることの何らかの保障と引き換えに、アサンジが自主的にスウェーデンに行くのがベスト)。
* * * * * * * * * * * * * * *
(この記事は、メールマガジン α-Synodos(アルファ・シノドス)第66・67合併号(12月25日発行)及びシノドスジャーナルに掲載されたものを再掲しました。)

2 Responses - “ウィキリークスのジュリアン・アサンジ逮捕をめぐる流言、そして「強姦」と「『強姦』」のあいだ”

  1. Tweets that mention シノドスジャーナルで既に公開してるけど、重ならない読者もいるから自分のブログにものせたよ> ウィキリークスのジュリアン・アサンジ逮捕をめぐる流言、そして「強姦 Says:

    […] This post was mentioned on Twitter by hyakmangok matsuri, グリルドチーズ願望 and others. グリルドチーズ願望 said: "多くのアサンジ支持者たちは、どうしてそれほどアサンジの性犯罪容疑を矮小化し […]

  2. mizusumashi Says:

    > たとえば、日本の強姦罪や強制わいせつ罪は「暴力または脅迫」を用いた場合のみに
    > 成立するように定義されているばかりか、かりにそうした暴力があったとしても、夫
    > 婦ではお互いの関係が決定的に破綻していない限り強姦罪は成立しないと解釈されて
    > いる。
    〔…〕
    > フェミニスト法学者たちは、こうした各国の「強姦」観は女性の貞操を家父長の所有
    > 物として扱う歴史的伝統から成り立っており、それが夫婦間のレイプや性労働者に対
    > する性暴力の軽視、そして「強姦」に対する「『強姦』」の矮小化に繋がっている、
    > と指摘している。
    諸外国についてはともかく、日本に限っていうと、この種の主張について、以前からいくつか疑問を持っています。
    まず、夫婦間では強姦は成立しないと考えられている/考えられていた、それは女性差別である、というような主張をときおりみますが、そういう趣旨を述べた判例なり、有力な法学者の論文なりが実際に示されているのをみたことはないように思います。また、たとえ戦前であっても、大審院や法学者がそういうことをいうのは、ちょっと考えにくように私は思います。たんに私が不注意だとか、勉強が足りないとかいう可能性は大きいですが。
    次に、強姦罪や強制わいせつ罪が暴力または脅迫を用いた場合のみに成立するように定義されているのはたしかですし、それゆえ女の性的自由の保護に欠ける、という議論は理解できます。しかし、そのことと家父長制を結びつけるのは、無理があるだろうと思います(macskaさんが結び付けているのかは分かりませんがそうとも読めます)。
    もし、女が父や夫の所有物であり、そしてその「所有物」には貞操性(?)という価値があり、強姦はその価値を侵すがゆえに彼ら(父や夫)に対する犯罪である、と考えるのであれば、女に対する暴力等が手段として要求されることは辻褄が合いません。そのような考え方からは、もし暴力等を手段として要求するならば、父や夫に対する暴力等でなくてはならないなずです(「殺されたくなければ娘を差し出せ」)。
    以上二点から、強姦罪が父や夫の所有物を侵す罪である、という法解釈が日本で実際に行われていたのか疑問です。
    ところで、なぜ強姦罪の被害者が女に限られるのは男女差別ではないのかという点について、日本の最高裁は次のように述べています:
    > 男女両性の体質、構造、機能などの生理的、肉体的等の事実的差異に基き且つ実際上
    > 強姦が男性により行われることを普通とする事態に鑑み、社会的、道徳的見地から被
    > 害者たる「婦女」を特に保護せんがためであつて、これがため「婦女」に対し法律上
    > の特権を与え又は犯罪主体を男性に限定し男性たるの故を以て刑法上男性を不利益に
    > 待遇せんとしたものでないことはいうまでもないところであり、しかも、かかる事実
    > 的差異に基く婦女のみの不均等な保護が一般社会的、道徳的観念上合理的なものであ
    > ることも多言を要しないところである。
    おそらく、「典型的類型だけを処罰するのは合理的」あるいは「多発するものほど禁圧の必要が高く、禁圧の必要が高いものほど重く処罰するのは合理的」といったことでしょう。しかし、苦しい理由付けだと私は思います。強姦罪が重大な犯罪であるというのであれば、被害者に男女の区別を設けるのは不自然ですし、とくに法定強姦についてはそうです(「13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする」)。
    やはり、被害者が女に限られることの理由付けとしては、女の貞操には価値があるが、男の貞操には価値がない、という価値観に法は立っているのだと説明するのが、素直だろうと思います。
    もっとも、法が女の貞操には特別な価値があるという立場であったとしても、その価値の所有者・処分権者が誰であるかということは別問題です。その価値の処分権者は、父や夫であるという考えることも、その女自身であると考えることもできるでしょう。そして、性労働者の性暴力からの保護が低いことを正当化している理由をあえて探すとき、前者の家父長制云々を持ち出すまでもなく、後者の考えから説明するほうがもっと容易だろうと思います。前者であれば「すでに失われてしまった価値を再度侵すことはできない」ということに過ぎないのに対し、後者であれば そ れ に 加 え て 「自ら放棄した価値は保護に値しない」という理由を持ち出せるので。
    ここでは、家父長制云々といった議論は、不必要なだけではなく、問題の要点を覆い隠しているのではないかと思えます。

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