「日本人中流階級フェミニスト」の自画自賛/上野千鶴子氏『We』インタビュー

2006年12月17日 - 9:15 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

今回は雑誌『くらしと教育をつなぐWe』8/9月号掲載の上野千鶴子さんインタビュー「生きるためには思想がいる」を取り上げる。この雑誌は、『バックラッシュ!』掲載インタビューをきっかけに上野千鶴子さんとメールのやり取りをしてた時に、彼女から「自分のフェミニズムへのスタンスが分かる」として送っていただいたもの(ありがとうございました)。タイトルから分かる通り、このインタビューは上野さんが今年発表した『生き延びるための思想』をもととしているのだけれど、わたしはこの本はパラパラと一度見た事があるだけなのでインタビュー単体としてコメントする。
まず、前回上野さんを批判したときに「長いインタビューのうちごく一部だけ取り上げて全体を評価していない」と言われたので(とゆーか、別に一部だけ批判してもいいじゃないかとは思うけど、彼女がそういう批判を嫌う人だということが分かったので)、とりあえずインタビュー全体から分かる上野さんのスタンスというものを書き出しておく。インタビューの内容は上野さんの学生時代の話からはじまりどのような経緯で彼女がフェミニストとなったのかという話もあって興味深いけれども、彼女がこの記事で言う「自分のスタンス」を要約するとだいたい次の通り。

・自分は自分一人で今のような考えに辿り着いたわけではなく、たくさんの女性たちの言葉から学んできた。それへの恩義としてフェミニストを自称している。
・小泉チルドレンに代表されるような「国策フェミニズム」に違和感がある。対等に競争して敗者は自己責任というのは自分の求めたフェミニズムではない。
・フェミニズムは自己申告であり、異端審問もなければ破門も除名もない。誰もが声をあげられる。誰も他人を代表せず、他人に代表されない。
・フェミニズム内部のノイズと抗争はフェミニズムを活性化する。
・フェミニズムに全国組織はいらない。ゆるやかなネットワークがあれば十分。

これだけ見るとなかなか魅力的な内容で、わたしもおおいに共感できる。わたし自身、現在では必ずしも「女性」や「ジェンダー」を政治的関心の中心とはしないにも関わらず「フェミニスト」を名乗り続けているのは、自分がどこから来たかというルーツを示すためであり、自分の政治的感性を育ててくれた人たちに敬意を表するためだ。
でもわたしが上野さんの発言に違和感を感じていたのは、そして前回のやり取りで議論したのは、彼女のフェミニズムが「男性/女性」以外のさまざまな分断線、例えばセクシュアリティや民族や階級といったものにどれだけきちんと関われるかという部分だったはず。そしてそうした議論の最中に「これを読めば自分のスタンスが分かる」といって送ってくれた資料なのだから、そうした点についてきちんと論じているのだろうと期待したのだけれど、残念ながらその意味では満足のいく内容ではなかった。
例えば、稲邑編集長の「私はフェミニズムはこれまでのさまざまな差別撤廃闘争の最後の仕上げだと思っている」という発言をうけて、上野さんはこう言う。

フェミニズムが差別撤廃の最後の運動じゃないかということについて言うと、これまで貧困や人種、階級、植民地、部落は問題にされてきたが、全部男の運動だった。それまで誰も問わなかったのが女性差別であり、歴史的に登場した最後の差別だった。

ツッコミどころが多過ぎてどこから始めればいいのか分からないけれど、まったく稲邑さんも上野さんも、何を根拠にこんなことを言っているのだろうか。どうしてそんなに女性差別だけが、そして女性運動だけが特別だと言えるのか。また、どうしてそんなにさまざまな社会運動において女性たちが果たしてきた役割を否定して「全部男の運動だった」と切り捨てられるのか。
というか、そもそもわたしと上野さんはセクシュアルマイノリティに対する差別について議論していたはずなのに、その最中に「これを読めば自分のスタンスが分かる」として送られたこの記事を読む限り、セクシュアルマイノリティに対する差別の問題もそれに対する抵抗運動もまるで存在すらしないかのようだ。
さらに、上野さんは次のように言う。

フェミニズム批判をする人の中には、貧困を問題にしないのがフェミニズムの限界、しょせん中産階級の女の運動、という言い方をする人(ほとんど男性)がよくあるのですが、それは見当違いな批判です。階級闘争という、貧困をイヤというほど問題にしてきた文脈がまず前提としてあるなかで、そういう解放の思想がついに問うことのなかったもの、最後の差別、つまり生き物として種類が違うんだから違ってあたりまえだろう、という前提を突き崩していったのがフェミニズム。その担い手がたまたま中産階級の女だったのは、歴史上しかたがない。運動をする余裕と言語があるのは中産階級の女なのだから。

これまたツッコミどころありすぎ。「生き物として種類が違うから〜」という、他のさまざまな抑圧にも共通して使われた論理を女性差別特有の論理として挙げるあたりからしておかしいし、「運動をする余裕と言語」を独占しながらそうした自分たちの階級的特権を解体しようとしなかった「中産階級の女」たちが、どうして本当に「貧困をイヤというほど問題にしてきた」と言えるのだろうか。
そもそも「階級闘争」を主張していたかつての左翼運動や学生運動だって、大学生ら当時の特権層が主導していたものであったはずで、かれらがどれだけ貧困問題について理解していたというのか。「階級闘争」というマルクス主義の言葉自体、特権層の言語だよ。
そして運動の中心から排除された当時の貧しい女性たちだって「ウーマンリブは自分たちを救ってくれない、自分たちの意見を反映してくれない」と言っていたに違いないのに、「フェミニズムが貧困を十分に問題としていないという批判のほとんどは男性による」という意味の記述によって彼女たちの存在を二重にーーまず現実の発言を、そして彼女たちが発言したという事実をーー抹消している。
だいたい、戦後すぐの日本が限りなく貧しかった時代に医者の娘として生まれ、多くの女性がまだ大学進学すらできなかった時代に大学院に進学し、いまや東大大学院教授の地位にまで登りつめた人間が、いったい何の資格をもって、フェミニズムは既に当たり前の「前提」として貧困問題に十分取り組んでいる、という判断をくだせるのか。
わたしのこういう批判も、上野さんは全部想定済みと言うだろう。というのも、彼女はこのインタビューでこうも発言している。

白人中産階級フェミニズム批判と同じように、日本人中産階級フェミニズム批判としてマイノリティフェミニズムからの批判が出てきたときに、私なんか、日本国籍はあるし、高学歴エリート女だし、東大なんかにポストがあるし、一番ターゲットになりやすくて、「帝国のフェミニスト」呼ばわりした。そう言われるたびに、おお、出てきた出てきた、って思ってた。

これを読むと、上野さんはまるで自分が批判を浴びたのは彼女が日本国籍を持つ高学歴エリートの東大教授だからであって、自分の思想内容とは無関係であるかのようにふるまっている。しかし「マイノリティフェミニズム」(その呼び名なに?)は、なにも上野さんがそれらの属性を持っているから批判しているわけではないだろう。批判の内容が正しいかどうかは個別に判断する必要があるとしても、それは間違いなく彼女の思想と言動に対してなされたものであるのに、「おお、出てきた出てきた」とはまったくなんと無責任かつ無神経な反応だろうか。
しかし、稲邑編集長もこれに迎合してこんなことを言う。

それは、言わせる余地があった、ということですよね。男の運動だったら抑圧してパージしちゃったのを、言わせる隙間があった。フェミニズムが、そういう、上野さんが言うような、<アンタが言うならアタシもっていう、コトバを誘発する、思想の装置>をもしつくれたのだったら、そのことだけでも存在価値はあったと思う。

男の運動であろうと女の運動であろうと、権力を持つ側は常に権力を持たない側の不平不満を抑圧しパージしてきたし、それにも関わらず権力を持たない側は常にその隙間をぬって声を挙げてきたのではないだろうか。過去の左翼運動内部において女性たちが声を挙げた時もそうだったはず。
少なくとも、フェミニズムだけが他の運動と違って少数派にもおおらかに異論を言わせる余地を与えたなんてのはまったくの欺瞞。「マイノリティフェミニズム」は、上野さんら日本人中流階級フェミニストたちによって意見を言う「隙間」を分けて貰って発言したのではなく、何度も声を奪われながらも隙間をぶち破って発言している。また、フェミニズム以外の「マイノリティ」運動の中でも女性たちは同様に「隙間」を自ら作り出して声をあげているはずだ。
もしこのインタビューを通して上野さんによるフェミニズムの立場からのセクシュアルマイノリティの問題への関わりを判断するなら(そういう意図で送られたはず)、わたしはそこにやはり大きな危惧を抱かざるを得ない。彼女は一応「貧困や人種、階級、植民地、部落」、そしてセクシュアリティといった多様な問題に関心を抱いているような様子は見せる。しかし、それらはほとんど常に「女性」問題から切り離された別個の問題として登場し、また「男の運動」であるそれらはフェミニズムより古くて閉鎖的だと決めつけられてしまう。そして、それに比べてフェミニズムはこんなに素晴らしいと自画自賛している。
しかしわたしが「貧困や人種、階級、植民地、部落」その他の問題をフェミニズムの中で訴えるとき、それはただ単に、フェミニズムとは別個の問題としてそれらに興味を持てと言っているわけではない。わたしはそれらがフェミニズムにとって、そして多くの女性にとって重要な課題であると考えており、なおかつフェミニズム内部でそれが不当に軽視されていると痛感しているのだ。「それらは男の運動」と切り捨てることはできない。むしろ、それらさまざまな社会運動の中心部が男性によって占有されていることに気付いたなら、フェミニズムの中心部が「日本人中流階級フェミニスト」によって占有されていることにも気付き、危機感を抱くことはできないのだろうか。のんびり待った挙げ句「ああ、出てきた出てきた」なんて手を叩きながら見ている場合じゃないと思うのだが。

9 Responses - “「日本人中流階級フェミニスト」の自画自賛/上野千鶴子氏『We』インタビュー”

  1. ふぇみにすとの論考 Says:

    [フェミニズム] 『We』上野千鶴子インタビュー中のフェミニ…
    macskaさんが、Weの上野千鶴子インタビューについてのエントリーをたてていた。非常に重要な論点が提示されたエントリーだと思う。いい機会なので、macskaさんが触 (more…)

  2. ぽこりん Says:

    はじめまして。私は「中産階級フェミニスト」でなく、ただのパート労働志望者です。つまり前の仕事を辞めて別の仕事を探している間でこのサイトを見つけました。小谷野敦さんの「すばらしき愚民社会」を読んで触発され、検索していて辿り着いたわけです。
     正直、上野さんの発言箇所を読んで、思わず大笑いしてしまいした。私は上野さんの著作を読んでも面白いとは思わないし、論理的でも実証的でもないし、認識の間違いは一杯あるし、と思います。でもここでの発言はものすごく私にはよくわかります。こんなに可笑しくて笑ったのは久しぶりです。貴女は賢い方なので、頭でフェミニズムを理解しようとしていらっしゃるように私には思えます。上野さんは身体で考えているので、いい方は悪いかもしれないですけど、野人的直感で言葉を選んでいるのだろうなと思います。多くの誤解があって、一度にここが問題だと伝えるのは難しいのですが。
     たとえば「貧困や人種、階級、植民地、部落」その他の問題にも、「そこに多くの女性にとって重要な課題であると考えており、なおかつフェミニズム内部でそれが不当に軽視されていると痛感しているのだ」と貴女が考えるのは、そうですか、としか言いようがありませんけど、しかしそれらの貴女にとっては研究対象でしかない世界にも、そこにフェミニストがいるかどうかは別として男女の権力関係は
    存在します。左翼の女たちが挙げた声を圧殺したのは左翼の男たちにも責任はあるでしょうが、他の誰でもない、そこにいた女たちによる自滅だったと私は思っています。
     「階級闘争という、貧困をイヤというほど問題にしてきた文脈がまず前提としてあるなかで、そういう解放の思想がついに問うことのなかったもの、最後の差別、つまり生き物として種類が違うんだから違ってあたりまえだろう、という前提を突き崩していったのがフェミニズム。」
     
     まさにその通りなのです。ただそういう記憶が薄れてゆく中で、フェミニスト、あるいはフェミニズムという言葉を安直に使う人が多くなってきた、というかそれが現実政治の場でしか言語化されなくなったように思えます。
     匿名お許し下さい。名前を出すほどの人間ではありませんので。

  3. ぽこりん Says:

     行換えを変な風にしてしまいました。すみません。
     ついでに、マルクスも、男と女の闘争は最後の階級闘争、と言っていますよ。出典は何でしたっけ、エンゲルスの「家族・私有財産・・・」だったかも。

  4. ぽこりん Says:

     リブとフェミニズムは生まれ方が違うんじゃないですか。単純に第一波とか二波とか、よく言われているけれども、80年代の私なんかとは感覚が違います。田中美津さんんついては私にも大変大きな、目から鱗が落ちるとはこういうことかというほどの感銘を受けました。しかし彼女が打ち立てたものは、70年代に流行したサルトルの実存主義的「わたし」の組み立て方だという印象を受けました。その後彼女が何を提示してくれたのか、私は詳しくは知りません。
     しかし日本のフェミニズムは、おっしゃるような「組織運動」 を果たして目指していたのでしょうか? 日本婦人会議や云々と言われますが、労働運動の中の青年婦人部を母体にして出来上がっていた伝統的な日本の組織運動は、新規参入のファミニズムを受け入れるに十分な容器ではありませんでした。例えば山川菊江批判なんて許されるような構造ではなかったと思います。
     その中で西野留美子が「山川菊江賞」を貰ったりして、非常に驚きましたけど。 「従軍慰安婦」問題でご活躍のようですが。(余談です)
     新左翼の中から自己発見した女性たちは、生まれ直した途端、結局「目指すものがお互いに違う」 ということで、解散しました。その過程でもその後も、誰がフェミニストとして認められるべきか、誰がそうでないかという、どうでもいい論争に明け暮れて、みんなクタクタになっていました。エコフェミだの上野さんだの小倉知加子さんだのの論争もお互いを引き裂くのに一役買っていた気がします。一種のヘゲモニー争いというのでしょうか。
     その後、こちらは阪神大震災からの立て直しの最中、優生保護法と「母体保護法」 の問題で何度か東京へ行きましたけど、関東の女性たちは流石に政治の中心地に居住しているせいか、みなさん大層な「政策通」ではありましたが、女性の組織化なんて話題にも上りませんでしたよ。私もほとんど個人的なネットワークでの参加でしかありませんでした。
     NPO法ができて、地方では自治体主導で女性協議会が推進され、「男女共同参画社会」 作りが始まりましたけど、これも日本の「女性組織」 に勘定されるわけでしょうか。
     日本のフェミニストは多かれ少なかれ組織アレルギーです。組織運動では所詮 「声のでかい者が勝つ」 式の運営体質になりがちだし、外国人と有名人には弱い。それだけ自分に自信を持てない人が多いということです。「中産階級フェミニズム」 は状況が行き着いた結果なのであって、それ自体を責めても始まらないことなのではないでしょうか。
     

  5. ウベ Says:

    macskaさん、はじめまして。
    ぽこりんさんのコメントにコメントします。
    「中産階級フェミニズムは状況が行き着いた結果なのであって、それ自体を責めても・・・・・」とありますが、流れでできたわけではなく、あえて中産階級フェミニズムを作り上げている行為主体に着目すべきではないでしょうか?

  6. 札幌運転所隣人 Says:

    はじめまして。
    本文並びに各コメントを拝見いたしました。
    本論につきましては私はド素人で、多分に頓珍漢な書き込みで大変恐縮ではありますが、
    ここにあります意見の相違、主眼の定めどころの違いなどは、或いは世代の違いによるのも一因
    ではなかろうか、(あまりひと括りにするのもよろしくないが、時代によりその方が持ち合わせている
    骨身に沁みた認識なり価値観といえばいいのか)と感じました。
    野人的直感にも、然るべき前提があるように思えます。

  7. ぽこりん Says:

    「中産階級フェミニズムは状況が行き着いた結果なのであって、それ自体を責めても・・・・・」とありますが、流れでできたわけではなく、あえて中産階級フェミニズムを作り上げている行為主体に着目すべきではないでしょうか?
    まだこのログが残してくれてたなんて気付きませんでした。1年6ヶ月ぶりのお邪魔虫ですね。「中産階級フェミニズムを作り上げている行為主体に着目すべきでは」 について。
    どう着目せよ、と言っておられるのかわかりませんが、もともとどのような社会運動も出自は中産階級ですよ。社会主義運動だってそうだし、日本最初のフェミニスト平塚雷鳥さんもそうです。小林多喜二は自ら蟹工船に乗船した賃労働者だったわけでもありませんし。どう生きるべきか悩みを抱えながら餓死まで至らないで済むためには、それなりの身分保障が必要じゃないですか? かつて大政翼賛会に担ぎ上げられた雷鳥さんは、戦後「絶対平和主義」運動に転身しました。ですがこれの続きは左翼(山川菊枝)の反戦反核運動に取り込まれて女性運動としての独自の視点を失って行きました。字数を減らすために敢えて極論します。中産階級女性に残された領域は「主婦論争」だけでした。上野さんは賢明な方ですので、「主婦論争」からデビューされました。「あえて中産階級フェミニズムを作り上げている行為主体」というわけです。でもこう言ってはなんですが、女性運動は元々の居場所に回帰しただけです。またそうすることで、社会から浴びせられるフェミニストへの攻撃を多少なりと緩和させることに成功したと言えます。本節的には中産階級であろうと貧困階級だろうと、女性にかけられる攻撃は同じです。誰かが生き残るのであれば、それが誰であっても構わないのじゃないですか。
    札幌運転所隣人さん:そうですね。自分が生きている時代と場所で一生懸命生きればいいので、その人がフェミニストであるかどうかなんて、どうでもいいことだと思えます。

  8. ぽこりん Says:

    追伸。最近産経新聞の「山谷えりこさんへのインタビュー」が話題になっています。「ですから国と個人を対立させて、結婚も男と女を対立させて、家族を対立させようとしているんです。今、うちの娘がジェンダー学を学んでいるんです。ジェンダー学って今、3分の1くらいの大学で必須科目なんですって。ノート見せてもらったら、結婚は男による女の支配だ、家事・性の奴隷である、って書いてあるんです」http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090801/plc0908010801004-n3.htm
    <結婚>というと戸籍への登録に依ってしか夫婦と認められない制度を指します。ですから日教組が<結婚>を差別の元凶と言うならば、それは「女性にとっての敵=国家」というふうに読み替えられてしまうでしょう。勿論、国家が男たちの支配を支援しているにせよ、女性が目指すのが女と男の自由な関係であって、国家そのものではないはずです。再び左翼運動に取り込まれてしまうのではないかと少々気がかりです。上野女史のご意見を伺ってみたいところです。

  9. あかるくいきる Says:

    ぽこりんさん。おこさまが、ジェンダー学を学んでいるとのこと、おもしろいですね。私の大学生時代はそんなものありませんでした。確か15年前だったかしら、誰もジェンダーのことは言いませんでした、社会学部でしたが。どの学者もジェンダーについて講義の関心がなかったという印象でしたね。流行は変わるのだな。結婚は男による女の支配だ、家事、性の奴隷であるなんて、教科書に書いてあるんですか?それとも、講師の先生がいったのですか。すごいこと言いますね。まあ、結婚によらずとも、そういうことが起きる場合は多々にしてあるし、家事というのは、実は性もそうなのだけど、結婚しなくても、それに捕われているなと思うこと多いですね。I’m just a prisoner of love, prisoner of house cleaning, house maintenance, preparing food, looking after partners, children, family, and prisoner of thinking about sex. Do not deny it.

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