上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性

2006年6月26日 - 7:34 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ついに発売された双風舎『バックラッシュ!』。その宣伝用キャンペーンサイトを現在も chiki さんとわたしで毎日更新中なのだけれども、実際に『バックラッシュ!』を受け取ってみたら、やはり危惧された内容が掲載されていた。というより、これまでフェミニズムの内外でジェンダーフリー論争に参加しながらすっきりしなかったネガティヴな部分が、はっきり示されたような気がする。上野千鶴子氏のインタビュー「不安なオトコたちの奇妙な〈連帯〉——ジェンダーフリー・バッシングの背景をめぐって——」のことだ。

長いインタビューなので議論は多岐に渡っているが、わたしがここで注目するのは「ジェンダーフリー」概念とセクシュアルマイノリティの関係。当ブログを普段から読んでる人にはおさらいになるけれど背景を説明しておくと、保守陣営から「ジェンダーフリー教の教祖」とまで名指しされている上野氏だけれど、実際のところ彼女はフェミニストの中でもジェンダーフリーという概念にかなり否定的な意見を述べてきた論者だった。例えばフェミ系ミニコミ誌「くらしと教育をつなぐWe」の2004年11月号に掲載されたインタビュー「ジェンダーフリー・バッシングなんてこわくない」ではこう言っている。

わたし自身は、“ジェンダーフリー”は嫌いだし、使いません。なぜかというと、日本語で定着しておらず、馴染みもないカタカナ言葉をあえて使う理由がまったく理解できないからです。

[…]

フェミニズムという業界、とりわけ行政フェミニズムにとっては、「ジェンダーフリー」バッシングは最大の問題かもしれません。ただし、女性にとっての問題という意味では、たいした問題ではありません。どちらに転んでも女の現実は変わらないのですから。どちらが勝っても負けても、どちらも得るものも失うものもたいしてないでしょう。ですから、「ジェンダーフリーを使うな」と言われたら、「あっそう、じゃあ、やめるわ」と言っておきゃそれで済む。かわりに、もっとわかりやすく、かつ定着した日本語があるのですから。「男女平等」を使えばよい。[…]「ジェンダーフリー」という用語を捨てたからといって、何も失うものはありません。

さらに、こうした態度によってそれまで「ジェンダーフリー」をキーワードとして運動してきた人から誌上で批判を浴びると、次のように痛快に再反論している。

いやあ、教育現場がこんなに異文化とは知らなかった。[…] それにしても、義務教育現場でのバックラッシュと締め付け、それに対する現場の人々の萎縮はこわい。メディアの言論統制もこわい。わたしのインタビューのタイトルをよく見て欲しい。バックラッシュはこわいけど、「ジェンダーフリー・バッシングなんてこわくない」。バックラッシュとは闘いたいが、ジェンダーフリーは擁護したくない、という立場はあってよい。

(「くらしと教育をつなぐWe」2005年2月号より)

こうした発言をしてきた当人が「ジェンダーフリーという言葉を使う危険がある」として講演をキャンセルされるという事件が起きたのは皮肉だけれど、それはまた別の話。

「ジェンダーフリー」派は、「男女平等」という言葉は男女の違いを前提として「異なる、しかし対等な扱い」を許容するから時代遅れなのだという。しかし『バックラッシュ!』掲載の山口智美さん長谷川美子さんの論文を読めば、そして男女共同参画基本法以前の日本の女性運動の歴史を学べば、「ジェンダーフリー」派によるこうした議論は間違いだと分かる。ましてや、80年代からはじまっている男女混合名簿(というか、単なるあいうえお順の名簿)推進運動まで90年代以降に起きた「ジェンダーフリー」運動の成果にしてしまう議論に至っては、もはや歴史修正主義に近い(斉藤正美さんによる「ジェンダーとメディア・ブログの 6/16 の記述の [3] を参照)。日本の女性運動が推進してきた「男女平等」という言葉は、決して「性別特性論」などに与するものではなかったはずだ。

ところが、フェミニズム内部で「ジェンダーフリー」に対する否定的な意見が聞かれるようになるにつれ、全く別の面から「男女平等よりジェンダーフリー」を主張する声が聞かれるようになってきた。その代表的な論者が、このブログや斉藤さんのブログでさかんにコメントを寄せてくださっている HAKASE さんであり、『バックラッシュ!』キャンペーンブログでチャットにお招きした筒井真樹子さんだ。ゲイという立場から発言している HAKASE さんと、全ての人に共通のジェンダーライツという観点を提示している筒井さんではやや立場が違うのだけれど、「ジェンダーフリー」にセクシュアルマイノリティの問題や性別二元論を疑う視点まで含めようとする点が共通している。

もちろん「ジェンダーフリー」を最初に考案した人たちは、セクシュアルマイノリティの権利や性別二元論の解体を主張するつもりで「ジェンダーフリー」という概念を提案したのではない。そのことは、「ジェンダーフリー」の初出とされる東京女性財団作製の冊子「Gender Free」がまったく強制異性愛主義を疑わないばかりかそれを前提としていることから明らかだ。しかし実際の実践の現場において、「ジェンダーフリー」の看板の元で例えば学校でレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー (LGBT) の当事者を招いて生徒の前で話をしてもらうといった具合に、一部で先進的な試みが行われたこともまた事実だ。また、「ジェンダーフリー」の意識啓発としてセクシュアルマイノリティに対する差別への取り組みも行われた。にもかかわらず「ジェンダーフリーではなく男女平等」に方針転換するのは、せっかく始まったばかりのセクシュアルマイノリティに関する教育プログラムを頓挫させることになるのではないかと HAKASE さんらが恐れるのももっともだ。

最近、伊田広行氏を批判し山口・斉藤両氏を評価するエントリを書いたところ、すかさずこの点についてチェックを入れてきたのも筒井さんだった。伊田氏にも同調できないがとしたうえで、筒井さんは以下のようにコメントした。

いや、私は山口さんや斉藤さんの批判も無条件で受け入れるわけにはいかないと思っていて、結局彼女らの批判も、フェミニズムは「女」しか語れない、ということを前提に、「ジェンダーフリー」概念は不要であって性別二元制を前提にした「男女平等」さえ達成できれば、というようなものに見えてならないわけで、じゃあLGBTIや、性別二元制におさまらないクィアの立場はどうなるんだ、という疑問は常々あるわけです。

「男女平等」だけでいいのか、という懸念はまったく正当なのだけれど、とりあえず山口さんや斉藤さんについては「LGBTIや、性別二元制におさまらないクィアの立場」を無視してもいいというわけではないということはわたしも承知しているし、筒井さんも同様だと思う。その上で、頭の中で留意しているだけでは不十分であり、ジェンダーフリーの利点についてもきちんと議論してそれが失われないようにするべきだとする HAKASE さんのコメントは有効だ。

ここまできてようやく本題に入るけれど、わたしが不安に思っていたのはわたしたちの誰よりも有力なフェミニストであり、「ジェンダーフリーではなく男女平等」を主張する上野千鶴子氏がこの問題をどう考えているのかということだ。これまで出版されているものを見たところ、上野氏が想定している「ジェンダーフリー擁護派」には、筒井さんや HAKASE さんのようなセクシュアルマイノリティや性別二元論におさまらないクィアの立場の人が含まれていないように思うからだ。そして、今回出版された『バックラッシュ!』の上野記事を読んでその答えが分かった。それは、わたしが想定していた限り最悪のものだった。同インタビューから引用する。

ふたつめの論点は、「ジェンダーフリー教育」の名のもとに、「男女平等教育」には置き換えられない何が実践できたのか、という問題です。「ジェンダーフリー教育」の実践家たちがやってきたことは、たとえば『男でもなく女でもなく』の著者である蔦森樹さんを教室に呼んだり、トランスセクシュアルやゲイ、レズビアンなどをあつかったセクシュアル・マイノリティ教育などでした。

「ジェンダーフリー」といえば、すぐにセクシュアル・マイノリティを取りあげるという短絡に、私は違和感を持っています。 […] たしかに、トランスセクシュアルやゲイ、レズビアンなどの人びとを連れてきて直接会わせれば、生徒たちはショックを受けるでしょう。こういう人がいるということがわかるし、差別してはいけないということもわかる。だが、だからといって生徒たちのヘテロセクシュアリティ(異性愛)は揺るぎませんし、それ以上に彼らをとりまく強制異性愛システムは変わりません。

現在でもスクールセクハラだけでなく、セックスの強制や避妊なき性交、そして望まない妊娠が、一〇代のあいだでは多く見られます。かつてのわたしのゼミで、自分の初体験が「強要されたセックス」だったという女性が五割を越したことにショックを受けたことがあります。しかも、若年層の性暴力はなくなっていません。輪姦だってなくなっていません。はじめての性体験が輪姦だったという女の子もいます。スーフリ問題にしろ京大アメフト部の問題にしろ、日常茶飯のごとく起きています。発覚してみたら、当事者は以前から習慣的にやっていたということがわかったわけですね。性規範の変動のせいで一〇代の性体験はスティグマ(不名誉、屈辱)ではなくなりましたが、あいかわらず自分の望まないセックスを強いられるという点では、トラウマ(心的外傷)でありつづけています。

そういった状況のなかで、ノーといえない女や避妊を要求できない女、つまり性的な自律性を持てない女が、ヘテロセクシズムのなかでいまだに若い世代に再生産されていることは、驚くべきことです。そういう女の子たちに、性的な主体性や自律性を身につけさせるのには、どうしたらいいのかを考えると、一〇代の子どもの教育現場で重要なのは、「ジェンダーフリー教育」などいうものではありません。それ以前の問題として、性が他者との関係であり、その関係のなかでいかに相手を尊重するかということ、つまり人権を前提にして成り立っていることを教えることです。

[…]

性別二元制のもとに、さまざまなセクシュアリティが配置されていて、その配置のなかでマジョリティとマイノリティという、さらなる序列化がおこなわれているといえます。そう考えてみると、ジェンダーフリー教育を唱える教育者たちが、いったい何をやってきたのかということを、再考せざるを得なくなります。たとえば、ジェンダーフリーという標語があったおかげで、トランスセクシュアルやゲイといったセクシュアル・マイノリティについて教えることができた、というジェンダーフリー教育の実践者がいます。しかし、そういう実践者の声を聞くたびに、基本的な何かを踏みはずしているのではないか、という気持ちを、私はもっています。

その基本とは、性別二元制のもとにおかれ、男性的主体化と女性的主体化をそれぞれ果たそうとしている思春期の男女に対して、いったい何を伝えるべきなのかということです。男に愛されるために、女は自分の性的なオートノミー(自己決定権)を放棄しなければならないのか。避妊のないセックスは、性暴力ではないのか。そもそも、性的な自己決定権がない状態で、セックスをしていいのかどうか。私のいう基本とは、そういうことです。そういったことを、思春期の男女に、しっかりと伝えることができるのかどうか、ということです。そして、そうやって性の自己決定権を伝えることを「男女平等教育」といって、何が悪いのだろうかという気持ちがあります。そしてそのなかに、セクシュアル・マイノリティへの関心も、当然のようにはいってくるでしょう。

ここを読んで驚くことは、上野氏が生徒は必ず全員がヘテロセクシュアルだと強引に信じ込んでいることだ。彼女にとって、セクシュアルマイノリティとは「ジェンダーフリー教育」のもと外の世界から連れてこられるまったくの「他者」であり、かれらとの出会いは生徒にとってただ単に「ショック」でしかない。生徒たちは「差別してはいけない」他者として、「関心」をもたれる対象としてのみセクシュアルマイノリティの活動家や著述家と出会うだけであり、それは生徒自身の性的主体化にとって何の意味も持たないことだと決めつけている。

もちろん、女性差別と強制異性愛主義の中で「性的な自律性を持てない女性」が大量にうみだされていることは問題だろう(とはいえ、この場合「相手の性的自律性を尊重できない男性」の方が問題なのだと思うが)。しかし、同性愛やバイセクシュアルの子どもが「自分はこうなんだ」と気付き、言葉を与えられ、堂々と生きることができるというのも、その子の性的自律性にとって同じくらい重要なのではないか。トランスジェンダーの子どもが、性別二元制に閉じ込められることなく自由に自分のありかたを模索できるような環境がーー仮に結果的に「男性」もしくは「女性」というスタンダードな性自認に落ち着いたとしてもーーその子の性的自律性にとって必要ではないだろうか。

そもそも、「自分と違う人がいる」ということを知り、それにも関わらずお互いを尊重することを学ばずに、セックスの時だけ相手との関係を尊重することなんてできるのだろうか。性的な自律性や自己決定能力を育てることを目的とするのは良いとして、その決定の対象を異性愛性行為に限る理由なんて特にあるはずがない。ただ単に、上野氏の想像力が生徒がセクシュアルマイノリティであったり性別二元論におさまらないクィアであったりすることを想定できないだけの話だ。

続けて、上野氏はこのような事も言う。

みっつめの論点は、「ジェンダーフリー教育」がとりあげたセクシュアル・マイノリティの人びとが、ジェンダー秩序、すなわち性別二元制から解放された自由な人びとだと、私はまったく思わないということです。ヘテロセクシズムも、ホモセクシュアリティも、トランスジェンダーも、性別二元制のさまざまな効果にすぎません。ジェンダー秩序がなければ、同性愛も存在しないし、トランスセクシュアルも存在しない。だからこそ、ジェンダー秩序の解体が、共通の目標になりえます。それを日本語で「男女平等」と呼ぶのがどうしていけないのでしょうか。

性別二元制の核にあるのは、男が女と差異化することで、みずからを性的主体として主体化するというアイデンティティの形成です。ゲイやトランスジェンダーの人たちのなかにも、性的主体化をめぐるミソジニーがあるかどうか、をわたしは疑っています。よって、ゲイとフェミニズムが共闘できるかと問われれば、ミソジナスでないゲイとなら、と私は答えます。こういう発言をすると、ゲイの活動家から強烈なバッシングを受けることになるでしょうが、ミソジナスでないゲイという存在を、私は想像することができません。ミソジナスでないゲイとは、男性性を美化しないゲイということになりますが、お目にかかりたいものですね。

要するに、「セクシュアルマイノリティのどこがそんなに偉いのか」ということだけれど、誰もセクシュアルマイノリティの人たちは「性別二元制から解放された自由な人びと」だと言っていない。生徒の中にもさまざまなセクシュアリティやジェンダーの持ち主がいることに想像が及ばない上野氏は、どうやらセクシュアルマイノリティが教育現場に呼ばれる理由はかれらが「性別二元論から解放された自由な人びと」であり、いまだ自由ではない生徒たちのお手本となると見なされているからだとでも勘違いしているのではないか。学校でセクシュアルマイノリティについての教育が行われるのは、第一に今の社会では自分とは様々な面で違った人たちと平和的に共存しなければいけないことを学ぶためであり、第二にいま現在自分のセクシュアリティやジェンダーの問題で悩んでいる子どもたちにロールモデルを提供するためだ。

ゲイやトランスジェンダーの中にミソジニーがあるから共闘できないという発言も酷い。それを言うなら上野氏のようなフェミニストにもホモフォビアやトランスフォビアがあるから共闘なんてお断りだと相手方からも言われるだろうが、それ以前に「ゲイとフェミニズムの共闘はできるか」という質問設定自体が間違っている。なぜならそういう問いは、レズビアンやその他のクィア女性の存在を抹消することになるからだ。レズビアンに対して「同性愛の問題はゲイ男性と、性差別の問題はヘテロ女性と」共闘すべきだと指し示すのは、結局「女性運動は全員ヘテロ、同性愛者運動は全員男性」のフリをしろということにほかならない。本来ならば「同性愛の問題にはヘテロ女性が支援者として協力し、性差別の問題にはゲイ男性が支援者として協力する」でなければならない。

第一、ミソジナスでない相手としか共闘できないというなら、ミソジニーを一切内面化していない女性なんていまの世の中のどこにいるというのか。仮にその点を問わないにしても、「ゲイとフェミニズムの共闘は想像できない」と言う上野氏のようなフェミニストを、レズビアンやその他のクィア女性が受け入れるわけがない。このように、「ゲイとフェミニズムの共闘」を否定することで、上野氏は「女性同士の共闘」すら実質的に成り立たなくしている。

この点は、さすがにインタビュアーの人も気になったのだろう、二度に渡って彼女の発言をフォローするような誘導質問をしている。

—— 上野さんのおっしゃりたいことは、こういうことでしょうか。いろいろなセクシュアリティがあって、セクシュアル・マイノリティにも多元性がある。にもかかわらず、あらゆるセクシュアリティのなかに、性別二元制が避けがたく入りこんできてしまう。つまり、性別二元制との距離関係で、性的アイデンティティが形成されていってしまう、と。もちろん、これはセクシュアリティに序列をつける(ヘテロを優位に置く)という意味ではありません。

上野 距離関係ではなく、性別二元制という重力が瀰漫した状況のもとで、トランスジェンダーもホモセクシュアルも生まれている、ということです。

—— けっしてセクシュアル・マイノリティについての啓蒙を否定するわけではないが、現実に性別二元制という空気が蔓延する状況のなかにおかれている子ども——各自がどのようなセクシュアリティを持っているのせよ——たちに、教えるべきベーシックな内容があるのではないか、ということですね。そういう教えるべきベーシックな問題系を考えつつ実践することが、ジェンダーフリー教育ならぬ男女平等教育である、と。

上野 「男女平等」に関する言語闘争について一言いうと、「ジェンダーフリー」はローカルな言語です。日本国内でしか通用しないという意味で。一方、「ジェンダー・イクオリティ」はグローバル・スタンダードです。「ジェンダー・イクオリティ」には、「男女平等」という訳語をあてるほかありません。「ジェンダー平等」という訳語も可能ですが、この訳語だと「ジェンダー」が訳されないままです。

これを見たときわたしは思わず爆笑してしまったのだけれど、インタビュアーが必至になって上野氏の発言を好意的に解釈しようとフォローしているのに、彼女はおそらく意図的にそれに抗っている。「セクシュアリティに序列をつける」わけではないですよね、という確認に対して関係ない部分に反応しているし、「けっしてセクシュアル・マイノリティについての啓蒙を否定するわけではない」ですよね、という確認に対してはいきなり「ジェンダーフリー」という言葉の是非に話題を変えることで、インタビュアーのフォローを拒絶している。ここで一言「そうですね、ところで〜」と言っておけば随分と印象も変わったのになぁと思うけれども、このような対応からはセクシュアルマイノリティ、ことにゲイやトランスジェンダーへの不信の深さが余計に目立って感じられる。

ここまでくると、どうやら上野さんが「ジェンダーフリーより男女平等」を主張することのかなり大きな要因として、本来なら「男女平等」、特に「ヘテロ女性」の問題を扱うべき(だと彼女が信じている)「男女平等」が「ジェンダーフリー」と置き換わることで、セクシュアルマイノリティに関する教育が可能に「なってしまう」ことへの反発があるのではないかと感じる。非常に残念だし、日本のフェミニズムや女性学の「業界」でこうしたホモフォビックな、あるいはトランスフォビックなバックラッシュ言説が容認されており、反「バックラッシュ」を標榜する書籍にまで登場してしまうというのは、いかに「多様な言説を集めた」本とはいえちょっとわたしの理解を越えている。

ほかにもオタクバッシングとかブレンダ論争のおかしな解釈とか、「男たちに一番認められて出世したのはあんただろ」とか、いろいろ言いたいことはあるのだけれど、その辺りは他の方に任せます。セクシュアルマイノリティの扱いだけは特に酷いと思ったから誰よりも先に書いておいた。で、そんなに批判しまくったあとで悪いんだけれど、面白い論文もたくさん載っているから双風舎『バックラッシュ!』買ってください(笑) 400ページ超で1900円(+消費税)だから、上野氏のページを全部破り捨てても(そこまでしなくていいと思うけど)十分価値あります。

53 Responses - “上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性”

  1. 芥屋 Says:

    >>
    彼女にとって、セクシュアルマイノリティとは「ジェンダーフリー教育」のもと外の世界から連れてこられるまったくの「他者」であり、かれらとの出会いは生徒にとってただ単に「ショック」でしかない。生徒たちは「差別してはいけない」他者として、「関心」をもたれる対象としてのみセクシュアルマイノリティの活動家や著述家と出会うだけであり、
    >>
    それはまさにtpknさんが草師匠に指摘していることで、実際にあのようなジェンフリ論(セクシュアルマイノリティ認識)が教育や政策の現場にいくらでもあるから、上野も「違和感」を表明したくもなるんじゃないでしょうか。
    >>
    同性愛やバイセクシュアルの子どもが「自分はこうなんだ」と気付き、言葉を与えられ、堂々と生きることができるというのも、その子の性的自律性にとって同じくらい重要なのではないか。
    >>
    そうですね。ただし、macskaさんに説くような話じゃないのですが、その「気付き」が周囲の無責任な誘導によってなされるケースも見ました。島田伸介のやってた番組だったと思いますが、ある大学生の男の子A君が、親友の男の子B君に恋慕の感情を抱いて、悩んで番組に相談したんです。
    よくある話かどうかはわかりませんけど、そんなに珍しい話でもないと思う。ホモセクシュアル・バイセクシュアルというのではなくても、ある同性の人に恋慕の情をいだくこともあるというのは。私もそういう経験はあるんですが、ない人もいるでしょうけど、結構いるような気もする。
    A君のケースも、B君にだけそのような恋慕の感情が湧いているのであって、A君が常から同性に色恋の情をいだいているわけではないことは見ていて明白でした。だからA君はとまどい、悩んでいたんです。これに対して「珍しい話でもないんだよ?」「でも悩むよね、それは」と、彼の気持ちと一緒になってやれる人もいるでしょうし、そうあってほしかったのですが・・・
    でもその番組では、出演者の大人たちがよってたかってA君に「同性愛者であることに気付かせ」て「同性愛は悪いことじゃないんだよ?勇気を持って告白しようよ!」みたいな誘導をしちゃってた。で、告白して、B君もすごくショックを受けて、A君はフラレて、落ち込んでしまった。
    その後、「また出会いもあるよ、自分の人生に自信をもって」みたいな感じだったかな、出演者みんなで笑顔を送っていたんだけど、無責任なこと言うなよ、って思いました。やってることって、要するにその人の今ある状況に添うのじゃなくって、ただ流行の思想に乗っかって、その人をカテゴライズしただけ。
    草師匠的な「気付きの時がくるといいですね」って、こういう流行性「お導き」の臭みが濃厚なんですが、現にこういう空気が世相にあるわけで。上野の言いたいことと、macskaさんの言いたいことの間には、状況的にかなり溝があるなぁ。
    >>
    そもそも、「自分と違う人がいる」ということを知り、それにも関わらずお互いを尊重することを学ばずに、セックスの時だけ相手との関係を尊重することなんてできるのだろうか。
    >>
    言うは易く行うは難し、ですね。

  2. Sakino Says:

    きちんとした整理をありがとうございました。無視されようとも、前をむいて、きちんと書き続けていくしかない、ということなのでしょうね。とりあえず、こういう言説を反バックラッシュとして許してしまっている現状から逃げださない、ということなのかな、と思います。とりあえず、御礼まで。

  3. macska Says:

    あのー、別のところの議論をこちらに持ち込んでこられても訳が分からないのでやめてくださいー。
    なんのことかと思いました。

  4. 芥屋 Says:

    「別のところ」?あっ、そうか、「草師匠」とはxanthippeさんのことです(すいません)。前エントリおよび掲示板で続いている議論で、このエントリの主題そのものですから。
    http://macska.org/forum/YaBB.cgi?board=gender;action=display;num=1149994590

  5. makiko Says:

    全編読んでませんが、上野さんが全く外れたことを言ってるわけでもないことがコワイというか、痛しかゆしというか。
    >「ジェンダーフリー」といえば、すぐにセクシュアル・マイノリティを取りあげるという短絡
    というところなんか、私もそっくりイダさんにぶつけてやりたいですし(笑)、
    >セクシュアル・マイノリティの人びとが、ジェンダー秩序、すなわち性別二元制から解放された自由な人びとだと、私はまったく思わない
    という点は、少なくともL&Gだけでなく、TあるいはGIDの立場の人も積極的に性別二元制を肯定してきた経緯もありますから。
    もう少し補足しておけば、ジェンダーフリーとセクシュアルマイノリティが短絡であるとすれば、この言説が、セクシュアルマイノリティ当事者でなく(蔦森さんを除いて)、イダ氏のようなジェンダー学の専門家の側から言われてきたことに問題があるわけですね。それで、かわいそうな人として、セクマイ当事者が教育現場で喋らされたところで、別の意味で害の方が大きい気がする(苦笑)
    そしてむしろ、これに対して当事者の側は、大多数のL&Gのように無関心を装うか、GIDはジェンダーフリーとは違う、と積極的に主張してきた経緯があります。あるいは、全否定ではなくても、私たちのやっていることは性別二元論を前提として、その選択の自由だ、と言った人もいます。
    また、コミュニティ内でも、おのれの男性性なり権力性に無自覚なゲイ男性なんて、掃いて捨てるほどいますし(笑)、トランスでもMTF、FTM両方にそういうのはいると思います。
    しかし、上野さんについて言えば、蔦森さんを何度も講演の現場に呼んでいたのも上野さんですし、アカー系のゲイ研究者と接点も多くあったはずです。何があったんでしょうか?単に無関心というだけでなく、積極的に否定的な態度を示される根拠が思い当たりません。GIDなんかが称揚され、女性問題が埋没しつつあるというのなら問題ですけど、どうもそういう文脈でもなさそうですので。いずれにせよ、やはり人は自分のことしか考えられないのかな、と思いました。
    それから、ジェンフリ論争の中でセクマイが忘却されるという論点は、私が先に言ったのではなくて、もともとtummygirlさんが先に書かれてます。
    http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20060202

  6. しゅう Says:

    どうでもいい事かもしれないんですが、なぜ両性の平等といわずに男女平等なんだろうと(゚゚
    勿論これでも二元論から脱却してはいないのだけど、混合名簿がジェンフリを出発点にしていないのなら尚更、憲法にも謳われているこの言葉が出てこないのは違和感あるんですけど・・・

  7. HAKASE Says:

    話題に取り上げていただいてどうもです.自分のハンドルネームが出てきたので誤解されてたらどうしよう・・・とか一瞬思ってしまったのですが(^^;,私が書き込みを始めたときに感じてた危機感を,とても的確に表現していただけて,感謝してます(私のは個人的な意見がほとんどで論者ってほどじゃないですが・・・)
    上野さんの文章については引用部分(特にふたつめの論点のところ)を読んでちょっと残念だなぁと感じました.私自身は講師の経験のある人のWebページを読んだ程度だけど,セクシャルマイノリティによる授業って良い試みだと思ってました(生徒の中に当事者がいるってだけでなく,いろんな視点を提示できるってことなども含めて.もちろん,自分が当事者のひとりだというのもあるんだけど).
    なので,具体的にどんな授業を見てこういう結論を出したのか(もし実際に授業を見てないなら,授業に関連したものでもいいので)を,上野さんには,できれば明らかにして欲しいなぁ・・・,と感じました.
    #性別二元制その他についてもいろいろと思うところはあるんだけれども,うまくまとまらないので書くのは止めておきます(^^;

  8. ともみ Says:

    この上野さんのインタビューの差別性に関しては、私もまったく同感です。生徒が全員へテロセクシュアルと信じ込んでいるらしく、生徒の中の多様性にあまりに無頓着であり、結果差別的でもある面、HAKASEさんご指摘のように、いったいどんな現場をみてこのような判断になっているのかが謎である点など、問題だらけ。「男女平等教育」が性別特性論に基づいていたという認識のおかしさに関しては、上野さんと同感しますが、でも、教育においてセクシュアルマイノリティに関わることよりも、まずヘテロ女性にのみあてはまる事柄を「ベーシック」として扱うべきだ、というような上野氏の考え方には、私はまったく賛同できません。
    私自身も、セクシュアルマイノリティの当事者の方々をおよびした授業というのは自分でも実践してきたし、macskaさんが言われるような意味において、非常に意義深い機会だと思っています。
     この他にも、この上野さんのインタビューには問題点がいろいろあると思いました。また私も書いていきたいと思ってます。まずはmacskaさん、重要な問題について口火を切ってくださって、どうもありがとうございました。

  9. Josef Says:

    「男女平等」だと「なら女も戦争へ行け」というふうな平等論に絡め取られてしまうので私はこの言葉を使わない、私のフェミニズムは「男女平等」ではなく「女性解放」だ—-と言ってたのは上野千鶴子でしょう。いくら文脈によって概念の位置価は変化するといったって、キーになる言葉を「使わん」と言ったり「使え」と言ったりしてたら言論としての信用はなくなりますね。

  10. 芥屋 Says:

    macskaさんが別の人のところで語っているところも読んで、私も認識をあらためました。何だか、いろいろ錯綜してますけど、こういうときは「何が問題なのか」を見つめたいと思いましたので、自分のとこに書きました。くれぐれも、上野個人の問題であるかのようにしてほしくはないのですが・・・

  11. 芥屋 Says:

    >しゅうさん
    「両性の平等」でも「男女平等」でも言ってることは同じで、「女だからといって差別しちゃダメですよ」がもともとにあるわけですよね。でもそこから「同性愛や性転換などを迫害するのもダメですよ」が自動的に導き出されるわけではないことは、論理的にも現実的にもおわかりでしょう。
    この辺をすっとばして「男女平等でいいじゃんよ」というときに切り捨てられるのは何か、ということだと思うんですよね。tummygairlさんとは観念論とか男女観で大いに違いはあるんですが、そんなことの相違より、リンク先で書かれていることは誠実な論だと思います。だから「ジェンダーフリー」といってたのではなかったか?というあの論は、埋もれるべきではないと思いました。リンクでご紹介の方、感謝です。

  12. 芥屋 Says:

    ほんとはこっちで続けたかったけど、macskaさんが迷惑だ、迷惑だというので、これ以上はやめときます。

  13. makiko Says:

    あ、私もここで上野さん個人の問題に還元するつもりはないです。
    いわゆるバックラッシュの中で、女性運動やLGBTIの運動が保守化して、同化主義へと引き寄せられるのを恐れているわけで。

  14. 芥屋 Says:

    macskaさん、ごめんね、一応返事だけさせてください。
    >makikoさん
    「運動の保守化」と「同化主義」について、市井の一右翼人としての意見を書きます。「男女共同参画社会政策」って、議会においては反対党なし、これを掲げない官公庁なし、財界もです。これってすごい状況ですよね、翼賛政策です。理由はみなさんが嫌というほど知っていることだから、こまごま書きません。少子化とグローバリゼーションを最重視した「国際競争力を回復するため行財政改革が必要」だから。大沢だって「経済理論一本でどこまでやれるかやってみたかった」とも言ってるくらい、政財界の念頭にあるのは、今ここで賛否の意見を戦わしている次元など論外です。で、およそ、こういう国家総動員的な国策コングロマリットが成立するときというのは、もっとも時勢の空気に適応した凡俗かつ刺激的な、大衆受けする中身の無いスローガン的な言説が採用されパシリをつとめるわけです。
    さて、上野のゲイ観について、私は「ありがちな三島由紀夫のイメージっぽいなぁ」と感じたのですが、
    http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20060628/p2#c
    macskaさんとt-kawase さんの会話を読むと、やっぱりそうみたいですね。三島の女性観、さぁ、私はここでそれを論じる気もありません。冷笑したければすればいい。それより三島は、こうも言ってるんだ。
    国民総動員的な体制ができるとき、右と左の両極は切り捨てられて、真ん中すべてをベルトコンベアーに乗せるのが政治の冷徹な法則だと思ふ・・・だったかな、正確な引用は忘れましたが、私もそう思う。良いの悪いの言ったって、そうでしょう。
    「ジェンダーフリーは、こんな当たり前のことでしかありません!デマにだまされないでください!」・・・そうですか、すべてがデマだったんですか、どうぞみんなをベルトコンベアーに乗せていってくださいな。
    ジェンダーとセックスが独立していることがわかった、としてTS臨床例を医科学的な傍証として持論の補強にしたのは上野でしょう。今さら「男女平等でなぜ悪い」ですか。セクマイの存在を間違って掲げる悪弊の先鞭を切ったのは、上野じゃないか。その粗悪なエピゴーンネンが草師匠でしょう。あんなの、掃いて捨てるほど地方行政にかかわっているってば。で、そのうちこれも切り捨てられるのは目に見えてるんですが、「狡兎死して走狗煮らる」も古くからの世の常です。でも、それって上野ひとりの責ですか?
    しかし、かくいう私だって、「tummygirl的なジェンフリ期待だってありえたはずじゃないか」は完全に忘失しておりました。意見が同じなのではありません。でも、あれは言わねばならないことだ。言っても政治状況的に都合悪いから肝心な場面で黙殺されるでしょうけど。でも、お二人とも、どうもありがとうございました。

  15. macska Says:

    うーん、芥屋さん、あなたを排除したいわけじゃないのよ。批判は歓迎だけどもうちょっと文脈をちゃんと読んで、相手の主張の意味を考えてから批判してくださいねということ。揚げ足取りどころか、揚げてもいない足を無理矢理引っ張り上げているような批判が多いと感じるのです。誰でもそういうことはあるけれど、あなたの場合なんだかそういうのがやたらと多くて、正直言って相手にしていて徒労感を感じます。それでも、コミュニケーションを断ち切りたいとは思っていないです。
    とはいえ芥屋さん自身にそういう意識がないのであれば、困りましたね。というわけでちょっと考えてみたのですが、今後「おかしいな」と思う点があれば、いきなり批判するのではなく疑問の形で示していただければもうちょっと有益なコミュニケーションが取れるのではないでしょうか。よろしければ、少しそれを試してみて欲しいです。

    ジェンダーとセックスが独立していることがわかった、としてTS臨床例を医科学的な傍証として持論の補強にしたのは上野でしょう。今さら「男女平等でなぜ悪い」ですか。セクマイの存在を間違って掲げる悪弊の先鞭を切ったのは、上野じゃないか。

    いや、それは上野に限らずセクシュアルマイノリティではないジェンダー論の学者によくある話で、セクシュアルマイノリティの存在を理論を支える道具として利用しながら、理論を利用してセクシュアルマイノリティを支えようとは考えもしない。非常に問題です。
    わたしは実際にこうした傾向について調べたことがあります。インターセックスについて授業に取り上げている女性学/ジェンダースタディーズ/クィアスタディーズの教師たちにアンケートに答えてもらったところ、大多数はジェンダーの社会構築説を説明するためにインターセックスを取り上げており、インターセックス当事者が現実に社会で直面している問題を取り上げた人はほとんどいなかった(後者を大いに取り上げた人が一人だけいて、その人は著名なFTMトランスセクシュアルの学者)。この調査については5年くらい前に全米女性学会で発表して女性学の学術誌にも掲載されたので希望する方がいればお送りします。
    そういう意味も含めて、上野個人だけの問題ではないというのは全く同意。しかし上野さんの占める地位や影響力の大きさから、これはいくらなんでもあんまりなんじゃないかと思うわけです。

  16. 芥屋 Says:

    うーん、つうか「文脈で」というとき、男は「論理的に」だとするのに対し、女は「気持ちを」なんですよね。そりゃわかってるんですけど、わかってりゃ「できるか」と言えば、「それができれば男と女の言葉の溝なんて、とっくになくなっとるわいなぁ」って思うわけで。
    それはさておき、「批判が唐突過ぎる」ということなら、気をつけます。取り急ぎ、自分に関するとこまで。

  17. ジェンダーとメディア・ブログ Says:

    「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?
    『バックラッシュ!』http://d.hatena.ne.jp/Backlash/の上野千鶴子氏インタビュー記事における「ジェンダーチェック」に関する記述を読んで、上野氏の「草の根フェミ」とは何を指すのか、具体的に述べられておらず、上野さんは女性運動について知らないで書いておられるの

  18. HAKASE Says:

    makikoさん.
    確かに,男性性なり権力性に無自覚なゲイ男性,たぶん僕も含めて(?)いっぱいいるように思います.僕も,気付かずに女性蔑視的なことしてしまって後で失敗した〜と反省した経験があるし,コンビニの店員さんはやっぱ男性の方がいいなぁ〜と,(態度には出さないけど)内心思ってしまったりするくらいには,ミソジナス(この言葉はじめて知った・・・)だったりします・・・.
    ただ,教育の話とかについて,一部なんだけど実感を共有できないなぁ・・・と思う部分があるので質問がてらちょっと書いてみます(時間あればでいいので気が向いたら教えてもらえると嬉しいです.たぶん,他の方の議論でも役立つはず・・・と思いつつ・・・(^^;)
    昔,すこたん企画さんのところの講演に関する話などをWeb上で結構リアルタイムに読んでた時期があって,その頃の印象なんですが,ホントに初期の初期のころを除いたら,少なくとも講師の側としては,ショックを与えたりとか「かわいそうな人」にされるという意図はなくって,ノンケにも役に立つ話をしようとしてらしたという印象がありました.ただ,確かにそれがうまく伝わってない学生さんも(特に最初のころは)ある程度はいたようで,それをとても悔やんでらしたという印象があります.だけど,Webページを読んだ限りでは,そういう人も徐々に減っていったみたいで,当時,僕もそれをちょっと嬉しがったりしてました.
    で,そのせいか,「かわいそうな人として」教育現場でしゃべらされる,というご指摘について,「同性愛者」に限定すると僕にはあまり実感できないです(僕個人としてはかなり昔の話のように感じてしまいます).アメリカでのインターセックスの例(でいいんですよね?それとも日本の例?)はmacskaさんがあげてらっしゃるのですが,GIDの講演の場合では,実際に「かわいそうな人として」よばれた具体的なケースがあったのでしょうか?また最近もあるのでしょうか?もしあるなら,そのケースは確かに改善した方がいいと僕も思います.(それとも,「もし仮にそういうことが起きたら」という仮定の話でしょうか?それなら理解はできるんだけど・・・)
    あと,「「バックラッシュ」の中で,女性運動やLGBTIの運動が保守化して、同化主義へと引き寄せられる」という懸念ですが,個人的には,バックラッシュをしている側は同性愛については,はなから否定的で排除する方向(あるいは無視する方向,あるいは『治療(←カッコ書き)』する方向)のような印象を自分は持っているんで,どう「取り込まれる懸念」があるのか,今の自分にはちょっと想像ができません.もし「同性愛」に関連したもので,具体的な懸念があるなら僕自身もちょっと考えてみたいので,教えてもらえると助かるなぁと思います.

  19. o-tsuka Says:

    蔦森さんをしてセクシュアルマイノリティという分類で括られるのは凄く違和感あるなぁ……

  20. 芥屋 Says:

    >macskaさん
    >というわけでちょっと考えてみたのですが、今後「おかしいな」と思う点があれば、いきなり批判するのではなく疑問の形で示していただければ
    これについて、そうしてみようと思います。ただ、こうしても今度は「え?何でそういう疑問が湧くの?」ということが出てくることがあると思うんですよね。そういうときには逆にmacskaさんのほうからそのまま問い返していただけないでしょうか。私のほうからもお願いがあるとすれば、しばしば疑心暗鬼な言葉が返ってきて辟易することがあるのです。
    例えば、前に私のところで「つくる会」について雑談していたときのこと。産経系右派を「反共リベラル」と私が表現していたことについて、後でmacskaさんから「トラップだと気付いていましたが、ひっかけようとしても無駄です」みたいに言われました。「そんなトラップなんぞ張ったりしませんよ・・・」とウンザリして会話をうちきっちゃったことがあるでしょ?
    ここ3つのエントリの中で、私の批判意見が唐突になっているという自覚はあるのです。それは、これまで会話の途中で私の「内心」への疑心暗鬼な言葉を返されることがしばしばあったので、指摘したいことの要点だけ、論理だけ書きたくなっている面も強いのです。その結果、「macskaさんがどういう気持ちで書いているか」ではなく「どういうつもりにせよ、書いたことの論理としてこうなるのはおかしいのでは?」という傾向を帯びるわけです。そうなると、
    >相手の主張の意味を考えてから批判してくださいねということ
    ここに、その「意味」をめぐって行き違いも生まれるのです。自分が外部に表現したことの「意味」は、その表現者の内心に占有されるものではありませんよね。ここのところ、私の意見はそこにウェイトを置いているのです。それがmacskaさんにとって「揚げてもいない足を無理矢理引っ張り上げているような批判が多いと感じる」理由だと思うんですよ。

  21. macska Says:

    ただ、こうしても今度は「え?何でそういう疑問が湧くの?」ということが出てくることがあると思うんですよね。そういうときには逆にmacskaさんのほうからそのまま問い返していただけないでしょうか。私のほうからもお願いがあるとすれば、しばしば疑心暗鬼な言葉が返ってきて辟易することがあるのです。

    わかりました、努力してみます。

    ここ3つのエントリの中で、私の批判意見が唐突になっているという自覚はあるのです。それは、これまで会話の途中で私の「内心」への疑心暗鬼な言葉を返されることがしばしばあったので、指摘したいことの要点だけ、論理だけ書きたくなっている面も強いのです。その結果、「macskaさんがどういう気持ちで書いているか」ではなく「どういうつもりにせよ、書いたことの論理としてこうなるのはおかしいのでは?」という傾向を帯びるわけです。そうなると、

    その前に書かれたコメントもあわせ、「自分=論理、相手=感情」と芥屋さんが認識しているのは分かりましたが、わたしから見るとまったく逆。わたしが論理を尽くして説明しているのに感情的に否定ばかりしているように思っています。まぁこれは、お互い相手からはそう見えるのだと理解して自省するということで手打ちにしましょう。

    ここに、その「意味」をめぐって行き違いも生まれるのです。自分が外部に表現したことの「意味」は、その表現者の内心に占有されるものではありませんよね。

    そりゃそうですが、「ああそれはそういう意味ではなくてこうですよ」と説明したにも関わらず、誤解した意味での批判を繰り返されると「わざわざ説明したのに、読んでいないのか」と感じるわけです。それから、「意味」が読み手にも依存するのは事実ですが、あんまり奇抜な解釈ばかりする人は相手にしていて徒労感を感じるだけです。

  22. 芥屋 Says:

    >その前に書かれたコメントもあわせ、「自分=論理、相手=感情」と芥屋さんが認識しているのは分かりましたが、わたしから見るとまったく逆。わたしが論理を尽くして説明しているのに感情的に否定ばかりしているように思っています。まぁこれは、お互い相手からはそう見えるのだと理解して自省するということで手打ちにしましょう。
    なるほど、そう見えるんだと思ったので、ちょっと待ってください(笑)。私は「自分=論理、相手=感情」と認識しているのではありませんよ。私もあなたも没感情で文をかけないはずです(自動書記じゃないんだから)。「なぜこのような論理で書くか、どのような意味を持たせて筆者が書いたか」ということを問題にするのか、しないのかで違いがありますね、ということです。そのことを、ちょっと別の話題に移して(かつエントリの主題に即して)こまかくなりますが、書いてみましょう。
    A.批判→反論→相互理解
    B.批判→反論→平行線
    この2つについて、公開討論の場合はAとBとで、それぞれに異なった価値があると思っているのです。Aに該当する例として、先日のt-kawase さんとmacskaさんのやりとりを挙げてみます。
    http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20060628/p2#c
    t-kawase さんがなぜカチンときたか、なぜ上野を擁護したくなったかがmacskaさんに伝わり、macskaさんはそれを受け止めつつ、今度はt-kawase さんの擁護の問題を指摘して、t-kawase さんもそれに気付く・・・という流れです。Aの成果が出ていると思いますよ。(ただしBになってもいいから「あ、ここはもっと掘り下げてほしかった」というものもあるんですよね。それは次のレスで書きます。)
    ラクシュンさんに先日、「コモン・ノレッジ」という考え方を紹介していただいたのですが、これを二者間についていえば「それについてAさんが知っているということをBさんが知っている、ということをAさんも知っている、ということをBさんも知っている・・・」という相互認識の形成のことで、このコモン・ノレッジがあるのとないのとでは意思・行動に飛躍的な違いが出てくるとするものです。
    t-kawase さんとmacskaさんの間で批判→反論→相互理解がスムーズに進むのは、その場の論点について、お二人の間にコモン・ノレッジが形成されやすいからだと思うのですね。それが何故かは言うまでもないでしょう。これに対してmacskaさんと私の間ではコモン・ノレッジの形成は非常に難しいと思うのです。これは、たとえば政治信条ひとつとっても、次のような違いが出てくるからです。
    「フェミニズムにもいろいろある中でmacskaのフェミニズムはおよそこうだからこの話題でこう言う」ということについて考えてみます。これはt-kawase さんとmacskaさんの間では形成しやすいですよね。その結果、批判→反論→相互理解がスムーズに進む。ところが「それを芥屋が知っているということを、macskaが知っている、ということを芥屋も知っている・・・」というコモン・ノレッジが、なかなかできにくいように思うのです。これはある程度、仕方がない・・・何故かといえば上記の逆「日本の右翼思想にもいろいろある中で芥屋の右翼思想はおよそこうだからこの話題でこう言う」ということを、macskaさんが知っている必要があるか?ということが背景にあるわけで。どう思われます?
    私はそれをmacskaさんが知っている必要は今までのところないと思ってるんですね。ほとんどそういう話はしたことがないのもそのためです。右翼を自称したことによる偏見は、だから責めたことがないと思います。ともかくそう私は考えていますので批判→反論→平行線でも良いと考えているのです。ただしそうすると「それをmacskaが知るよしもない、ということを芥屋は知っている、ということをmacskaが知るよしもない、ということを芥屋は知っている・・・」みたいなスパイラルがあるわけですね。そのためmacskaさんとしては徒労を感じることになるのではないかな、と。私は、どうしたらいいんでしょうね、困ったな(苦笑)

  23. macska Says:

    あのですねー、わたしは芥屋さんが右翼とか保守を名乗るからって全然偏見持ってないつもりですが。もちろん、自分が気付いていないだけでちょっとくらいはあるかもしれないから、具体的に「ここは偏見を元に書いている」みたいなことを言われたら反省してみようくらいには思います。(むしろわたしは左翼に対して偏見を持っていると自覚しています。)
    でも、芥屋さんとのあいだで話が通じないのはそれとは別で、端的に芥屋さんが「議論のできない人」だからだと感じています。もちろん芥屋さんから見ればお互いさまで、わたしの方が「議論のできない人」に見えるかもしれないとは思うのですが、もしそうならそんな相手のブログに居座って延々と関わる意味ないですし、どうして絡んでくるのかなぁと思うわけです。
    議論の結果、意見の違いが平行線をたどるというのはあっても良いのですが、わたしの主張を芥屋さんが捩じ曲げて矮小化して叩いているだけという種の平行線が延々と続くのは困ります。だってそれだけのことなら、わたしが関与する意味がないもの。芥屋さんが勝手に頭の中で「macskaというのはけしからんやつだ」みたいに思っていればいいだけの話。平行線そのものが悪いと言う気はないけれど、少なくともこれまでと違ったパターンを見せて欲しいです。

  24. 芥屋 Says:

    うーん、あのですね、悪意なんかないってば。何でここに書くのかって聞かれたら「向き合うべき主張が述べられているから」でしかありませんよ。
    さて、t-kawase さんとmacskaさんのやりとりを見ていて、「あ、ここはもっと掘り下げてほしかった」と私が思ったことというのは、t-kawase さんの次の問題提起です。
    >僕が問題にしたかったのは、「上野千鶴子をして、ここまでホモフォビックな発言をさせたゲイグループのミソジニーの深さ」ということである
    これについては、彼の前日のエントリの中でも強い語調で語られています。
    >数年前の僕の教え子で、インカレの某サークル(ゲイや性的マイノリティが集まるサークル)に入っていたのがいたのだが、彼女が一番このサークルで嫌だったことは「男の子が、私たち女を物凄くバカにすること」だったそうだ。ある意味ありがちな男性ゲイのミソジニーなわけだが、こういうのはゲイだろうがビアンだろうが、ストレートだろうが、端的に許されない態度、人間としてダメな態度だろう。
    具体的にどういうことだったのか、それがわからないのでゲイの男と女の子のどっちがどっちだとは、私は何とも言えないのですが、私に湧いた疑問は「なぜ、もう少し具体的に語られないのかな?」ということなんですよ。これだけ読むと、私には次のような疑問が出るのです。
    「その女の子たちに、悪気はなくても、何かゲイの男の子たちを立腹させたり不快にさせたりするような言動はなかったのだろうか?」
    私が何故このような疑問を持つのか、それも説明しますと、たとえば沖縄の問題。本土の反戦思想の人が沖縄の人に対して持ちがちなアレコレについて、沖縄の人が立腹したり不快な思いを抱いて、沖縄を「善意で」訪れた本土人に対して「あなたはどこまでいっても典型的なヤマトンチュだ」とネガティヴな語感をもたせて言う。すると言われた人がものすごくショックを受ける。ただし、またここでアリガチなのは、そこでまた過剰に「ヤマトであることの原罪感」を抱く。
    それと似た要素の話だったりすることは全くないのだろうか?と。以下、そういう場合もあるんじゃないかという前提なのですが、私がこれを例に出すのは、以前このあたりのことをmacskaさんがチラッと言及していたことがありますよね。でも、「これと同じだね」じゃないんですよ。「同じ要素もあるけど、言われた後の反応が違うよね」と。
    その女の子たちに、悪気はなくても、何かゲイの男の子たちを立腹させたり不快にさせたりするような言動はなかったのだろうか?それへの反発がゲイへの男の子から女の子へ表現されているのに、当の女の子たちが「ゲイのミソジニー」のせいにして身勝手に傷ついてしまったり憤ってしまったりすることはないのだろうか?もしかしてそういうことかもしれないという思考を経ることなく「ゲイも男であって、やっぱり女性差別」みたいなことで語って済ませてしまうなら、それって「ノンケの女と男によるゲイへの差別」かもしれないのに。
    以上、私の感じた疑問とその理由を書いてみました。t-kawase さんとmacskaさんの間では百も承知の話であって、わざわざ言及するまでもないことだったかもしれませんが、やっぱりまったく知らない人も見ているのですし、そのへんはどのようにお考えかだろうかと、聞いてみたくなったのです。

  25. 芥屋 Says:

    あ。
    >わたしは芥屋さんが右翼とか保守を名乗るからって全然偏見持ってないつもりですが。
    保守じゃないですよ、革新ですよーって言ったことあると思うのですが、こういう偏見がありますよね〜ってことです。で、それは別にいいんですよ。

  26. makiko Says:

    >HAKASEさん
    GIDの場合は、ほとんどそうだと思いますよ。反対に、かわいそうでない(かわいそうさを演じることができない)人は露骨にお呼びがかからないですから。
    その辺、L&Gと事情は異なるかもしれません。前の発言は、やはり自分のことしか考えられない私の発言ということで、オマエモナーしていただければ結構です(笑)。
    それから同化主義と同性愛についてですが、「私たちは性的指向以外は普通の男または女です」ってことを前提に、婚姻の権利なんかも含めて、ヘテロの人と同等の権利を得ようと活動やっている人は、私の考えでは同化主義ですね。「治療を済ませば普通の男または女です。だから戸籍変えてください」ってやっているGIDと同じく。
    これは隣の芝生なのかもしれませんが、L&Gのカルチャーってそんな薄っぺらいものじゃないと思うんですが。。。
    MTFTGと男性の特権についてですが、私自身も、男として教育を受け、男として働いてきた歴史がある以上、無縁ではないと思います。ある女性(レズビアン)の団体で、そういう生活史がある以上連帯できない、と言われたこともありますし、フェミニズムとかかわるには、以前よりは慎重でなければならないと思っています。

  27. 芥屋 Says:

    「同化主義」って、そういう意味だったんですか(´・ω・`)
    「セクシュアルマイノリティ」と対比しての「普通の男、普通の女」というとき、「ノンケでストレート」のことだと思うんですが、そういう意味で「同化主義」というなら「人の数だけセクシュアリティはある」と言ったほうがいいのでは(LGBTというそれぞれのくくりもどうなのかな?)とか思っちゃいますね・・・
    仮に「普通の」を「ノンケの」だけに限っても、たとえば「レイプ以外の性行為が志向できない」「幼児にしか性的に興奮しない」ようなセクシュアリティの持ち主の場合、それを「普通のセクシュアリティの人」って言えないと思う。それはすごく極端な例だとしても、「自由恋愛主義者で不倫という考え方を一切もたない人」とかも「普通」かなぁ、とか。
    いや、そういうのはもともと「セクシュアリティ」とは言わないのかもしれませんが、そうなるとそもそも「セクシュアリティ」というカテゴリー概念って何なのかな、と。「組み合わせの要素としての、♂と♀」をもとに、どういう組み合わせ方があるかと分節したものである・・・となるように思うんですが、じゃぁ、そこで何が何に「同化」なんだろうか、と。「設定された分節を越境すること」のような気もします。
    何となくですが、「在日韓国人であることをやめて日本国籍を取得するのは同化主義だ」とか、「エタ・ヒニンとして賎視された先祖の身分をこそ誇りこそすれ、先祖の身分を隠して溶け込もうとするのは同化主義だ」とか、あの種の語感を感じてしまったのは私だけかな。私自身は、そう言いたくなる側の気持ちの側にシンパシーを感じる心性はあるのですけど、それだけに、そこから「同化主義」として他者を非難するなら、これはこれでやはり批判されるべきことのようにも思えて。tpknさんは、その点で私より先学なので、すごく参考になるんですね。

  28. 芥屋 Says:

    「男としての特権性」について。確かにあると思います。と同時に「女としての特権性」もあると思います。ただしすべての男女がおのおのの「特権性」を等しく受益しているわけではない、そこに「権力構造がある」というのなら同意できます。
    私はフェミニストの言う「男はゲタをはかせてもらっている」にすごく同意していた時期があるんです。だって「おれの人生振り返って、たしかに男であることで恵まれていた」と思えるからです。だから「男の特権がある」ことに素直に同意できたし、同じように「女の特権がある」に素直に同意できる女は、「あたしの人生振り返って、たしかに女であることで恵まれていた」と思える人なんだと思う。
    でも「男はゲタをはかせてもらっている」のは事実の一面であっても、「ゲタをはかせてやっているのに、はかせがいのない男」「男のくせにゲタをはきこなせない男」に対する女の抑圧や暴力性、むきだしの権力性(しかもえてして男を使っての権力性)というものに気付いたのは、ラクシュンさん(かなり独特なメンズリブ)と何度も衝突する中で、やっとわかったことなのでした。
    このエントリの主題とズレちゃうようですが、サクサクと「男の権力性・特権性」だけが自明のこととして話が進むのも、ジェンダー学のサイトとして異様な気がします。私が思うに、陽の権力性としては「男の特権性」があり、陰の権力性として「女の特権性」があると考えます。フェミニストの主張がまがいなりにも少なくない男たちから受容されているのに対し、メンズリブの主張は「男のくせに何を言っておるか」として男女双方から嘲笑されるか黙殺されるかしがちで、サッパリ受けない。「男>女の権力構造」など本当にあるのか?とさえ思うのは、こうしたことからです。

  29. makiko Says:

    >芥屋さん
    いや、例に出されている韓国人や部落の人の件と、同じ意味で使っているつもりですけど。
    かれらにしても、完全埋没するために、一時的に「権利獲得」のためにカムアウトすることもあったわけですし。
    ただ、人の数だけジェンダーやセクシュアリティがある、という言い方は、耳あたりはいいですけど、その分性別二元制であったり、異性愛中心主義そのものの凶暴性をたなに上げてしまうことになっているのではないか、という懸念を最近抱くことが多いですね。セクシュアリティは十人十色だけれど、みんな人間です、と補足すれば、問題点はかなり明確になりますよね?
    だったら、おっしゃっているように、ペドの人やスカトロの人、SMの人…、どこまで十人十色の範囲に入れるのか、と。わかりやすいセクシュアリティだけを受け入れたつもりになっている人に限って、そこから逸脱するセクに対しては、あれはだめだ、ということになるからさ。
    それで、ペドフィリアやスカトロやSMは、他人に害を与えるから、としたり顔で言う人が出てくるわけだけど、それを言うならヘテロセクシズムだって十分他人に害を与えて来ているわけで(つまり性暴力一般は、ヘテロセクシュアルの間にでも見られるという単純なことですが)、その辺のルール作りはまったく別の問題として整備していくことなんですよね。

  30. makiko Says:

    >「男としての特権性」について。確かにあると思います。と同時に「女としての特権性」もあると思います。ただしすべての男女がおのおのの「特権性」を等しく受益しているわけではない、そこに「権力構造がある」というのなら同意できます。
    これは私も同意です。私の上野さんに対する違和感の多くもここから来るわけで。

  31. 芥屋 Says:

    おわ、掲示板のほうのtpknさんとシンクロしとる・・・
    >makikoさん
    >これは私も同意です。私の上野さんに対する違和感の多くもここから来るわけで。
    なぜ上野が「男たちに一番認められて出世した」かと言えば、実は「知識人タイプの男が理知的な女に言ってほしいことを、一番言ったフェミニストが上野だったから」だったりしませんかね(`・ω・´)
    >いや、例に出されている韓国人や部落の人の件と、同じ意味で使っているつもりですけど。
    そうなんですか。じゃぁ気のせいではなかったということで・・・たぶん、気持ち的にはわかるんですけど(「誇りたい、誇るべき」)、やっぱりtpknさんの意見に同意なんですよ。というのが、
    >かれらにしても、完全埋没するために、一時的に「権利獲得」のためにカムアウトすることもあったわけですし。
    ここでいう「かれら」が、カテゴライズしすぎじゃないかと思うのです。仮に部落問題に限ってみても、「先祖を誇りたい人」と「先祖を隠したい人」は別人であることのほうが多いわけでしょう。そのとき、ただ先祖の身分が同じだったからといって「おいおい、隠すなよ、誇れよ」というなら、何で先祖が同じだからというだけの理由で、それを誇る誇らないという完全な自意識の事柄について、他者から非難されなくてはいけないのか。
    問題は、当事者個々人の意識の持ちようの是非ではないはずなんですよね。誇っても隠しても全く差別事象の解消の役に立っていない現実のほうに問題があるわけです。誇ろうが隠そうが、それは本当に個々人の自由で済む状態であるべきなんですよね。先祖が農家であることを誇ろうが隠そうが全くその人の自由であって何らその人の社会的な得失に関係しないのに対し、先祖がエタ・ヒニンと呼ばれた人の場合は、そうではないわけですから。何かそれと似たものを、セクマイの「同化主義批判」にも感じたわけでなんですよ。
    >ただ、人の数だけジェンダーやセクシュアリティがある、という言い方は、耳あたりはいいですけど、その分性別二元制であったり、異性愛中心主義そのものの凶暴性をたなに上げてしまうことになっているのではないか、という懸念を最近抱くことが多いですね。
    草師匠的なものならそうですね。tummygirl的なものなら、じっくり考えたいと思います。
    >セクシュアリティは十人十色だけれど、みんな人間です、と補足すれば、問題点はかなり明確になりますよね?
    た、確かに・・・。この以下の箇所、まったく同意です。そのうえで「その辺のルール作りはまったく別の問題として整備していくこと」については、私は既存の刑法に触れる触れないという線だけで考えたほうが良いように思うのですが、どうなんでしょうか。「どのセクシュアリティをも認めるべきだ」という方向ではなく・・・いや待てよ?
    ・・・わかなくなりました(´・ω・`)コンガラガッチャッタ

  32. macska Says:

    芥屋さん:

    と同時に「女としての特権性」もあると思います。

    というのは、理論的には「特権」という言葉の誤用なんです。もちろん、芥屋さんはそういう理論がおかしいと主張しているのでしょうし、一般用語としてはそういう使い方をするんでしょうが、こういう議論のレベルではスタンダードな使い方とは違うのでいきなり自分の思う通りの用法で使うのはどうかと。
    その点に注意してということなら、

    ただしすべての男女がおのおのの「特権性」を等しく受益しているわけではない、そこに「権力構造がある」

    というのは正しい。「特権」というのは個人の問題ではないので、特定の男性個人がどのような境遇にあるかなんてことを決定付けることはありません。

    サクサクと「男の権力性・特権性」だけが自明のこととして話が進むのも、ジェンダー学のサイトとして異様な気がします

    それは芥屋さんがジェンダー学についてご存知ないからではないでしょうか。というか、このサイトいつからジェンダー学のサイトになったんでしょうか?

    フェミニストの主張がまがいなりにも少なくない男たちから受容されているのに対し、メンズリブの主張は「男のくせに何を言っておるか」として男女双方から嘲笑されるか黙殺されるかしがちで、サッパリ受けない。「男>女の権力構造」など本当にあるのか?とさえ思うのは、こうしたことからです。

    あのですね、それはただ単に歴史的に女性差別が深刻だったからで説明がつきます。
    makikoさん:

    MTFTGと男性の特権についてですが、私自身も、男として教育を受け、男として働いてきた歴史がある以上、無縁ではないと思います。ある女性(レズビアン)の団体で、そういう生活史がある以上連帯できない、と言われたこともありますし、フェミニズムとかかわるには、以前よりは慎重でなければならないと思っています。

    男性の特権、という言葉自体は他のものに置き換えることができる可能性がありますが(わたしは特に賛成できませんが、Diana Courvant は male privilege、men’s privilege、masculine privilege を区別して使っています)、それと無縁でないというのはその通り。でも、トランス以外の女性だって全く無縁じゃないんです。また、「特権がある」ことをもって「連帯できない」とするならば、あらゆる面で全く対等な人間関係なんてないのでこの世に連帯なんてものは一切成り立ちません。要するに、それはトランス排除のための屁理屈に過ぎません。「ポジショナリティに留意しつつ、連帯の努力をする」のが正しい。
    あ、みなさま、本題から逸れる話題を続ける場合はできるだけ掲示板を利用するようお願いします。今回も50前後でコメントを打ち切ります。

  33. 芥屋 Says:

    とは言え、makikoさんの言われる「同化主義」批判について、こういうことなら同意できる、と思う面もあります。これまた部落問題からの類推ですが、ある人が自分の先祖を隠すことに成功する。そのうえで、部落出身者を差別したり差別を正当化することに参加する。この場合、その「同化主義」は厳しく批判されるべきでしょう。すごく辛い話にはなるんですが・・・
    ましてGIDの場合には、たとえばMtFの人の場合「元は男だった」ことと「(今の医療技術では)完全に女にはなったわけではない」こととあるのでしょうし、「普通の女になりました」で済まない現状がある以上、やはりそこに「隠しきれないのに隠しきろうとすること」による問題の隠蔽作用がでてきてしまう・・・ということなのでしょうか。この問題のことをおっしゃっているなら、私は現時点でお手上げです。ずっと以前、TG対TSの激闘を見ていて、そのあまりの深刻さに・・・

  34. 芥屋 Says:

    >macskaさん
    男の特権というときと、女の特権というときの、特権の中身が違うだろうにというなら同意です。でも、中身が違うにしても特権は特権なのであって、男のものだけを特権と呼び批判することが可能なような「理論」が通用するのは、それこそが「女の特権」でしょう。
    >>「男>女の権力構造」など本当にあるのか?とさえ思うのは、こうしたことからです。
    >あのですね、それはただ単に歴史的に女性差別が深刻だったからで説明がつきます。
    それじゃただのトートロジーですよ。

  35. macska Says:

    芥屋さん:

    でも、中身が違うにしても特権は特権なのであって、男のものだけを特権と呼び批判することが可能なような「理論」が通用するのは、それこそが「女の特権」でしょう。

    いい加減な理論をふりまわさないように。
    そもそも、特権を持っていることを批判したことはわたしは一度もありませんよ。
    いいですか、ジェンダーの規範は男性にも女性にも存在します。それが幸せだと思う人も苦しいと思う人も(あるいはこの部分はラッキーだけどこの部分は嫌だという人も)、男女ともにいるでしょう。「男性の特権」というときは、そういう個人の価値観の議論はしていないのです。
    うーん、芥屋さんとこの問題で話をするのはやめにします。延々と親切に説明してあげるほど暇じゃないし、そんな意欲も湧かないので。異端だから悪いとは言いませんが、あなたの主張は学問的に言って異端の説(というか、よくある素人の思いつき)ですよということは自覚しておいてください。

    それじゃただのトートロジーですよ。

    引用方法が不当です。「『男>女の権力構造』など本当にあるのか?」という部分への反証として書いたのであればトートロジーですが、そうではない。芥屋さんが言うような観測への説明として、「男>女への権力構造」(という表現は厳密にはおかしいとおもうのですが、とりあえず従います)などない、という説明よりも、ただ単に「歴史的に女性への差別が深刻だったから」という説明のほうがよっぽどシンプルで理屈に合うと言っているのですよ。
    また、観測自体も疑わしい。というのも、フェミニズムに賛同する男性のほうが本当にメンズリブに賛同する女性より多いのか、疑問があります。また、フェミニズムに賛同する男性(だけでなく、女性も)の多くは、メンズリブを嘲笑したりなんてしないでしょう。

  36. 芥屋 Says:

    >macskaさん
    >そもそも、特権を持っていることを批判したことはわたしは一度もありませんよ。
    そうですね。macskaさんが、ではなくて私とmakikoさんが言ってるのは上野ですよ。
    >「男性の特権」というときは、そういう個人の価値観の議論はしていないのです。
    わかってますよ。社会構造の話でしょう。何故、私がそれを「わかってない」と思われたのですか?
    >あなたの主張は学問的に言って異端の説(というか、よくある素人の思いつき)ですよということは自覚しておいてください。
    自覚してますよ。そういう「学問」が通用していて私のような意見が「異端視」されている現状、それこそが「女の特権」の証明でしょう。つまり、客観的事実として観察されるということです。
    >「『男>女の権力構造』など本当にあるのか?」という部分への反証として書いたのであればトートロジーですが、そうではない。
    反証かと思いました。
    >ただ単に「歴史的に女性への差別が深刻だったから」という説明のほうがよっぽどシンプルで理屈に合うと言っているのですよ。
    近代以降の不合理として立ち現れたと見ています。ただ、男女間の不合理について、女のそれのほうが男のそれより「深刻に受け止めてもらいやすかったから(今でも)」ということでもあるでしょうね。
    >フェミニズムに賛同する男性のほうが本当にメンズリブに賛同する女性より多いのか、疑問があります。また、フェミニズムに賛同する男性(だけでなく、女性も)の多くは、メンズリブを嘲笑したりなんてしないでしょう。
    だって現に「学問的に異端」なんでしょう?ご自分で現認されたとおりだと思いますが。

  37. 芥屋 Says:

    というか、現実に女だというだけで受ける不利益、というべき事象は実際にあるのですから、それを問題にするのは当然なのですね。私が言ってるのは、その逆が「ありがちな素人意見として学問的に異端視されている」という現実ひとつとっても、「女であることの特権性」というものも巨大である、という片面の事実だけですよ。

  38. macska Says:

    私が言ってるのは、その逆が「ありがちな素人意見として学問的に異端視されている」という現実ひとつとっても、「女であることの特権性」というものも巨大である、という片面の事実だけですよ。

    無茶苦茶です(笑) 一部のフェミがなんでも女性差別だと決めつけるのと変わりません。
    いいですか、社会的な理論というのは、個別の件を説明するために生まれるわけではなくて、たくさんの例を説明するために生まれるわけですね。社会的属性による「特権」という議論であれば、人種とか階級とか国籍とか障害とか、そういうさまざまな属性に通じる一貫した説明が理論となるわけですね。
    そういう中で、学問的にも一般社会的にも、性別に関して言えば「男性」が中心化され、普遍化され、そして権力側に位置づけられている、というのが当たり前の常識なわけです。そのように認定されたのは女性権力の巨大さの証拠である、というのは、アドホックで訳の分からない被害妄想じみた妄言でしかありません。
    もちろん、他のさまざまな社会階層化に比べて、性別というのは階層が水平であり他の属性とは違う、従って男性中心化とは別に女性中心化も起きているのだという可能性はあります。というか、そういう立場だってまったく論理的に不可能ということはない。あるいは、性別だけでなく他の属性でもそういう現実があるのに理論がそれを把握しきれていないと論じることもできるかもしれない。しかし、そういう仮説を支持するような観測がありません。
    でも、「女性差別があると人々が認識していること(そしてその逆が認識されないこと)」自体が女性権力の巨大さの証拠である、みたいな議論ではそうした仮説の根拠とはなりませんし、はっきりいって屁理屈の域を出るものではありません。しかしそういう主張を世間に嘲笑されたからといって、また「みろ、だから男性は抑圧されている」なんて言うのはやめてください(笑)
    芥屋さんは、特権性がどうしたという話ではなくもっとユルく「男として生きて得したこと、損したこと」みたいな自分の価値観や体験に即した言葉で自分の考えを語ってみてはどうかと思います。そのレベルなら、男性でも女性でもお互いいろいろありますよ。特権性という言葉はそれとはまた別の話です。

  39. 芥屋 Says:

    >macskaさん
    うーん、何でこれが議論になっているのでしょうか。言っちゃいけないことなのかな?
    >>私が言ってるのは、その逆が「ありがちな素人意見として学問的に異端視されている」という現実ひとつとっても、「女であることの特権性」というものも巨大である、という片面の事実だけですよ。
    >無茶苦茶です(笑) 一部のフェミがなんでも女性差別だと決めつけるのと変わりません。
    「男であることの特権性がある」からといって「なんでも女性差別だと決めつける」一部のフェミがいるのは事実でしょうし間違ってますよね。では、いったい私がどこで「なんでも男性差別だ」なんて言ってますか?「女であることの特権性がある」からといって、「なんでも男性差別だと決め付ける」ことにはならないでしょう。
    つまり、ただ「男であることの特権性がある」という指摘をしているだけなのに、それだけでもう「これは、なんでも女性差別だと決めつけるものだ」とする一部の反フェミがいますが、あなたのその論理はそれと同一なのですよ。
    >社会的属性による「特権」という議論であれば、人種とか階級とか国籍とか障害とか、そういうさまざまな属性に通じる一貫した説明が理論となるわけですね。
    一貫した説明が必要であるとする立場からの理論でしょう?それはそれでいいと思いますよ。要はmacskaさんが言われるように、理論のために現実を利用するのではなく、現実のために理論を利用するべきなのであって。
    >そういう中で、学問的にも一般社会的にも、性別に関して言えば「男性」が中心化され、普遍化され、そして権力側に位置づけられている、というのが当たり前の常識なわけです。
    抽象的に「人間」と言いつつ、具体的に考えれば「男のことでしかないじゃないか」という男性中心主義批判(男性の透明化)には同意できますし、また、男をして「権力(必ずしも狭義の政治権力のことではない)の側にあれ」とする要請が強いのも事実として同意します。ただし、男が女を支配するために、ではなくて、まずは女が男に要請するところとして、でしょうけど(それが悪いと言ってるんじゃないですよ)。
    >そのように認定されたのは女性権力の巨大さの証拠である、というのは、アドホックで訳の分からない被害妄想じみた妄言でしかありません。
    男性権力の巨大さを言うと、「被害妄想だ」とする反フェミが多いのですが、それと一緒ですね。
    >芥屋さんは、特権性がどうしたという話ではなくもっとユルく「男として生きて得したこと、損したこと」みたいな自分の価値観や体験に即した言葉で自分の考えを語ってみてはどうかと思います。そのレベルなら、男性でも女性でもお互いいろいろありますよ。特権性という言葉はそれとはまた別の話です。
    それだと、上でご自分でおっしゃってた、
    >「男性の特権」というときは、そういう個人の価値観の議論はしていないのです。
    これに反してしまいますよ。私が「男の特権性」と「女の特権性」というとき、そういう個人の価値観の議論はしていないのです。なぜに「女の特権性」を指摘した側は、個人の価値観に細粒化するよう求められるんでしょうか?
    では出勤前にて、ひとまずこれで。

  40. macska Says:

    「男であることの特権性がある」からといって「なんでも女性差別だと決めつける」一部のフェミがいるのは事実でしょうし間違ってますよね。では、いったい私がどこで「なんでも男性差別だ」なんて言ってますか?

    あー、またこのパターンだ。
    あのね、なんでも「女性差別だ」と決めつける人はいますけど、「なんでも女性差別だ」なんて言うひとはいませんよ(笑) 「なんでも」の部分は実際に「なんでも」と言うんじゃなくて、その場その場でいろいろな言葉に置き換わるわけです。
    芥屋さんも、たしかに「なんでも男性差別だ」とは言っていない。当たり前です。そんな事言う人がどこにいますか(笑) 芥屋さんが「女性の特権の巨大さだ」ときめつけたことを、なんでも「女性差別だ」と言うバカフェミと変わらない、と指摘しているのに、「なんでも男性差別だなんて言っていない」なんてそんな間抜けな反応を示されても困ります。

    つまり、ただ「男であることの特権性がある」という指摘をしているだけなのに、それだけでもう「これは、なんでも女性差別だと決めつけるものだ」とする一部の反フェミがいますが、あなたのその論理はそれと同一なのですよ。
    […]
    男性権力の巨大さを言うと、「被害妄想だ」とする反フェミが多いのですが、それと一緒ですね。

    これも芥屋さんのよくあるパターン。芥屋さんは男性差別と女性差別(あるいは男性の特権と女性の特権)をパラレルな関係にあると見ているから、その前提の中ではこうした指摘が成り立つのは分かります。しかし、そんな前提は共有されていない。共有されていない前提をもとに「あなたの発言はこれと同じだ」と言われても、「それはあなたの頭の中だけの話」でおしまい。

    一貫した説明が必要であるとする立場からの理論でしょう?

    違うってば。同じ文中で説明していることを全く読まずに第一印象だけで反応するという、これまたよくある芥屋さん論法。一貫した説明が必要だというのではなくて、現に一貫した説明がなされているわけです。それに対して、性別に関してのみ別の説明が付くのだとするのであれば、それはきちんと論証されなければいけない。それを飛び越して、いきなり別の説明を押し付けているから、芥屋さんの議論は論理的にダメなのです。

    ただし、男が女を支配するために、ではなくて、まずは女が男に要請するところとして、でしょうけど

    男が女を支配するためだなんて誰も言っていませんし、「女が男に要請するところとして」という説明は論証されていません。

    これに反してしまいますよ。私が「男の特権性」と「女の特権性」というとき、そういう個人の価値観の議論はしていないのです。

    えええええーっ? そんなバカなーっ。やっぱり芥屋さん理論は相手にしないほうがよさそうです。

  41. HAKASE Says:

    makikoさん.お返事どうもです.
    後半の議論,追えてないので話しがずれてたらすいません.主に最初のレスに対してお返事を書きたいと思います.
    GIDの場合「かわいそうなひと」として呼ばれてしまうことが多いんですね.私はたまたま虎井さんの講演を聞いたことがあって(時期は確か特例法ができる少し前くらい),そういう感じではなかったので,教育現場ではどうなんだろう?と思ってました.そういう部分は改善していった方が良いと思います.
    それと,同化主義については同性婚を念頭に置いておられたんですね.私自身は(Webページとかを興味本位で見てまわった範囲での理解なんですが),運動されてる人は,「選択肢を増やす」という方向や,さしせまった問題(病気のときの面会とか,相方が亡くなった時の問題とか,2人で部屋を借りにくいという問題とか)を解決するという方向の人が多いような印象を持ってます.女性学の話とかの影響もあるのか,「結婚そのものを疑問視する人もいること」は配慮しながら活動してる印象が強いです.
    逆に運動とかと関係ない居酒屋レベルだと(たぶん僕もどちらかというとこっちかな・・・)さしせまった問題の話は出るけど,「ノンケと同等の結婚の権利」みたいなのは少ない印象です.もちろん,「結婚したい」という人もいるので,そういう人たちも含めてできるだけ納得できる形になるといいなと思ってます.
    あと,「私たちは性的指向以外は普通の男または女です」って感覚は高校生のころくらいまでは私もかなり強く持ってたので,そう言いたい気持ちはわかります.でも,その『普通』のせいでいろいろ嫌な経験をした今は(少なくとも私は)こうは言わないですね(^^;
    makikoさんがおっしゃるようなGIDの方が多いのだとすると,同性愛者とはずいぶん違うんだなぁという印象を持ちました.「同化策で取り込まれる」ということへの危機感,以前よりもわかった気がします.と同時に,もしかしたら,同性愛者の活動とかが何かの参考になるかもしれないとも思います(具体的に言えなくて申し訳ないですけど).

  42. HAKASE Says:

    macskaさん.上の書き込み,本題から外れた話題になってしまってすいません m(_ _)m
    えーと,ちょっとむりやりぎみですが,上の書き込みは本題とからめて「同性愛者の方では,女性学を参考にしたり配慮しながらいろいろやっている一面もあります」って話を含んでるものとして読んでいただければ・・・と思います.

  43. 芥屋 Says:

    またこのパターンですね・・・
    >芥屋さんは男性差別と女性差別(あるいは男性の特権と女性の特権)をパラレルな関係にあると見ているから、その前提の中ではこうした指摘が成り立つのは分かります。
    パラレルとは見ていませんので、そのような「前提」などありません。というか、あくまで想像なのですが・・・「男も女も等質・等量・等価の抑圧を受けているのであーる」みたいな「前提」を満たしがたいがために、あれこれとそれに見合う材料を狩猟してきて実際にある差別事象を相殺しようとする人がいますが、そのような意見に多く接してきたであろうmacskaさんは、おそらくそれが頭に浮かんだのではないかと感じました。私のはそういう相殺論じゃないんですよ。たぶん、
    >「男>女への権力構造」(という表現は厳密にはおかしいとおもうのですが、とりあえず従います)
    ここでカッチリつめていくと議論上は良いと思うんですが、要は「上野の構造論はおかしいですよね」と私とmakikoさんが同意するとき、上野の「男による女の支配」という構造論のことを言ってるんです。そんだけの話ですので、構造論そのものはこのエントリのお題じゃないし、またいつかの機会にしましょう。

  44. ラクシュン Says:

    >>それじゃただのトートロジーですよ。
    >引用方法が不当です。
    これは自己確証という意味でしょう。

  45. ラクシュン Says:

    あと、観測者の存在そのものが観測結果を誤らせることを「観測選択効果」というようです。
    (´・ω・`)?.。o(こんなことで「理論」「仮説」「観測」なんて用語が使えるんですかね)

  46. makiko Says:

    >HAKASEさん
    虎井さんの、特例法直前の言説は、まさに同化主義そのものだった気がしますが、「はやく戸籍変えて女の人と結婚したい」とか(笑)。ここは虎井批判のスレではないので、これ以上やめにしますが。
    L&Gの活動には、GIDの活動よりもはるかに蓄積がありますし、層の厚さがあるのは私も認めるところですが、(フェミニズムに対するのと同様に、)すべてを無条件に受け入れるべきではないと思っています。同性パートナーの問題にしても、私がここの管理人さんにも寄稿頂いて、本を作った頃に比べて、例の府議さん中心に起こっている動きはちょっと違うかな、と思うところもありますので。ただ、ここではスレちになりますのでやめにしておきます。
    >芥屋さん
    >私とmakikoさんが同意するとき
    一応、暫定的には同意しましたが、芥屋さんの立ち位置と私の立ち位置は、やはりそれなりに違うと思いますので、ご了解頂ければと思います。

  47. 芥屋 Says:

    >一応、暫定的には同意しましたが、芥屋さんの立ち位置と私の立ち位置は、やはりそれなりに違うと思いますので、ご了解頂ければと思います。
    もちろんわかっております。上野の構造論がおかしい、と言ってもどうおかしいと感じているかは異なるでしょう。makikoさんは異性愛中心主義批判への視点からそう述べられているのでしょうし、かといってそれを語り合う必要もないかもしれませんしですね。お気になさらないでください。

  48. macska Says:

    ページが重くなっているのでこのあたりでコメントを打ち切ります。
    議論を続けたいかたは、掲示板の方でお願いします。
    あーくだらない。

  49. さくねこ”垂れ流し”にっき Says:

    [ジェンダーフリー]今週末にでも「バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」買いに行こう!
    バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか? 作者: 宮台真司, 上野千鶴子, 斎藤環, 小谷真理 出版社/メーカー: 双風舎 発売日: 2006/06/26 メディア: 単行本(ソフトカバー) id:seijotcpさんに 本書は立場の違う論者がそれぞれ濃密な議論を展開しているものなの

  50. 歩行と記憶 Says:

    [考える]やっぱし僕はフェミニズムの素人だなぁ…。
     双風舎谷川社長の叱言メッセージについて考えていたら、macskaさんの上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性に遭遇しました。上野さんに対する痛い批評は、「軽々しく男女平等」って言うなよということでしょうが、「ジェンダーフリー

  51. フェミニズムの歴史と理論 » 「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性 Says:

    […] 今日は、ブロガーの tummygirl さんによる「マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだす」というエントリ、及び小山エミさんの「上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性」を紹介する。 […]

  52. フェミニズムの歴史と理論 » 草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは? Says:

    […] 『バックラッシュ!』の上野千鶴子氏インタビュー記事における「ジェンダーチェック」に関する記述を読んで、上野氏の「草の根フェミ」とは何を指すのか、具体的に述べられておらず、上野さんは女性運動について知らないで書いておられるのではないかと思った。同インタビューについては、先にmacska氏がセクシュアルマイノリティの扱いについて厳しく論じておられ、議論になっているところでもある。当ブログでは、上野氏の原稿を読み、フェミニズムが起こした「ジェンダーチェック」批判が表に出ていないことに改めて気づかされたので、ここでは、運動経験者として行政に関わった体験について記しておきたい。フェミニズム内部から行政主導の「ジェンダーチェック」が「検閲」にあたることを怖れて阻止されたケースが確かに起きていたことを明確に記しておく必要があるからだ。 […]

  53. 「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは? « フェミニズムの歴史と理論・ミラーサイト Says:

    […] 『バックラッシュ!』の上野千鶴子氏インタビュー記事における「ジェンダーチェック」に関する記述を読んで、上野氏の「草の根フェミ」とは何を指すのか、具体的に述べられておらず、上野さんは女性運動について知らないで書いておられるのではないかと思った。同インタビューについては、先にmacska氏がセクシュアルマイノリティの扱いについて厳しく論じておられ、議論になっているところでもある。当ブログでは、上野氏の原稿を読み、フェミニズムが起こした「ジェンダーチェック」批判が表に出ていないことに改めて気づかされたので、ここでは、運動経験者として行政に関わった体験について記しておきたい。フェミニズム内部から行政主導の「ジェンダーチェック」が「検閲」にあたることを怖れて阻止されたケースが確かに起きていたことを明確に記しておく必要があるからだ。 […]