「インターセックス」から「性分化・発達障害」へ

2006年2月3日 - 2:42 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

BBC のプロデューサから電話。英国で昨年放映したシリーズで、子どもにビデオカメラを渡して自分自身や周囲の人との会話を撮影させる『My Life As A Child』というドキュメンタリがあるのだけれど、それのインターセックス版を作れないかという相談。大人が編集するとはいえ、ナレーションを付けたりせずに子どもが撮ったままの映像で子ども自身の「現実」を映し出すというコンセプトは素敵だけれど、インターセックスに限って言えばかなり無理。

多分 BBC では、周囲から扱われるのとは別の性で扱われたいと言っている子どもとか、男の子にも女の子にもなりたくないと思っている子どものことを想像していたんだろうけれど、それならインターセックスの子どもでなくてそういう子どもを捜せばいい。その子がたまたまインターセックスということはあり得るだろうけれど、身体的にインターセックス「だから」性自認も非典型的だという思い込みは間違い。ついでなので、以前別のところで発表した「インターセックスについてのよくある誤解」をここに再掲しちゃおう。

【インターセックスについてのよくある誤解】

『インターセックスは男性器と女性器をあわせもっている(両性具有)』

あわせもってません。どちらか一方に完全に分化していないか、あるいは内性器と外性器がマッチしないといった具合に混ざっているだけです。

『インターセックスの人の性染色体は XX でも XY でもない』

内性器や外性器の「異常」をもって生まれる人の大半は、XX もしくは XY の性染色体をもっています。 XXY などの性染色体「異常」をもってうまれる人の一部には内性器や外性器の「異常」がみられますが、必ずしも直結しているわけではありません。

『インターセックスは「男でも女でもない性」である』

そんな題名の本もありますが、大多数のインターセックスの当事者は普通の男性もしくは女性として生活しています。「どちらでもない性」として生きたいと思う人も少数いますが、それはインターセックスでない人についても同じことが言えます。

『インターセックスの人の多くは間違った性別を与えられて苦しんでいる』

それはトランスジェンダー・トランスセクシュアル・性同一性障害。インターセックスの当事者の大半は、育てられた性別で普通に暮らしています。もちろん例外もありますが、それはインターセックスでない人の中に性同一性障害の人がいるのと同じ。インターセックスの運動は性別決定にともなう性器形成手術による弊害を批判してきましたが、性別決定そのものを否定しているわけではありません。

『生物学的に言ってヒトの性別は2つではない』

ヒトに性別がいくつあるかというのは自然を解釈して人間が勝手に決めたコトなので、「2つである」という説も「5つある」という説もどちらも「可能な解釈の1つ」という意味では等価です。が、「生物学」というディシプリンにおいては「ヒトの性別は2つ」とされているので、「生物学的に」言うなら「ヒトの性別は2つではない」というのは間違いです。

『セクシュアル・マイノリティの団体はインターセックスを含めるべきだ』

インターセックスの当事者団体は含めて欲しいとは思っていません。協力関係を持つことは賛成だけどね。

『性同一性障害はインターセックスの一種である』

そのように法律上解釈するべきではないか、というのがミルトン・ダイアモンド氏の見解ですが、医学ではそのような認識にはなっていません。また、インターセックスという言葉自体、「性分化・発達障害」という名前に変更されるようです。これからインターセックスについて分析するなら、ジェンダー/クィア理論より障害理論の方が役に立つでしょう。

『インターセックスは IS と略される』

そんなコミックがありますが、もともとトランスジェンダーの人たちが TS(トランスセクシュアル)、TG(トランスジェンダー)、CD(クロスドレッサー)などと並んで勝手に略しただけあって、インターセックスの当事者が言い出したことじゃないです。まぁいいけど。

『インターセックス萌え〜』

空想や同人誌で萌えるのは大いに結構ですが、あなたが萌えている対象(「プリキュアに魔法がかけられてペニスが生えてくる」みたいな?)は多分実際のインターセックスとは全然違うモノです。現実は違うと分かった上で「ふたなりもの」読んで妄想に浸る分には OK です。

『道に迷ったインターセックスの人は、地図を読めず人に道を聞くこともできない』

トンデモ本の読み過ぎです。

これ、一番最後に笑える内容を入れたつもりだったんだけど、どういうわけだか注目を集めてしまったのがその1つ前の「インターセックス萌え〜」の項目。おかげで「Macska さんはエロ同人にも詳しい」(maroyakasa さん) と言われたり、一時は「インターセックスについての誤解はとけても、わたしについての誤解が広まってないですかー?」という状況に陥ってしまったのだけれど、全ての責任は狩人氏にあります、多分。

それはともかく、本題に戻る。すなわち、ジェンダーの問題について扱うのでなければ、インターセックスの子どもにビデオカメラを渡してどういう映像が撮れるというのか。インターセックスの活動家たちが一番に訴えてきた問題は、不必要な形成手術の強要や自分の身体についての情報が本人に知らされないことなどだけれど、まさか手術や周囲の欺瞞によって傷ついている子ども自身にそれについてレポートさせることなんてできるわけがない。

逆に、傷ついていない子どもを登場させるとしたら、それはインターセックスだからとおかしな扱いをされずに普通に育った子どもだから、もはやインターセックスについての番組ではなくなってしまう。いや、わたしは「インターセックスの子どもが作った、インターセックスとは全然関係ない映像」でもいいと思うし、それはそれなりに画期的だと思うんだけど、それは BBC が期待していたものとは違うでしょ。

そうは言っても、インターセックスについての、この「表現のしようのなさ」はなんとかしたいと思うんだけどねー。大人が作るにしても、「ジェンダーの問題にする」「トラウマ話にする」以外に、インターセックスについてなんて語りようがないじゃない。それだから、典型的なジェンダーであるために自分のジェンダーを説明する必要を感じず、また医療を変えるための運動にコミットしていない大半のインターセックスの人たちは、そもそも自分がインターセックスであることを語る動機を持たない。

わたしも、以前はインターセックスについてのコミュニケーションがもっと開かれれば、よりたくさんの人がカミングアウトするようになるんじゃないかと思ってたのね。同性愛者や両性愛者の運動でも、トランスジェンダーでもそうだったもの。でも実際には、インターセックスを巡る状況は脱医療化ではなく「より優れた医療化」の方向に向かっていて、そこではカミングアウトを通じて他のインターセックスの人たちと繋がる必要性はあまり見出されていない。せいぜいサポートグループが必要、あたりであって、そのサポートグループというのも自助グループではなく医者主導のものだ。そういった方針をアカデミックに批判するのは容易だけれど、それが実際の当事者やその家族のニーズに沿ったものである以上、否定はできない。上で書いたような「インターセックス」から「DSD(性分化・発達障害)」への用語変更も、こうした文脈で起きているわけだ。

ちょっと前に ISNA (北米インターセックス協会)のシェリル(・チェイス= ISNA 代表)と会った時に今後団体の名前をどうするのか聞いてみたところ、彼女は ISNA は黒人市民権団体のNAACPと同じだと言っていた。 NAACPの「CP」は「Colored People」の略で、これは日本語の「有色人種」とは違い黒人だけを指す、今では使われない用語なのだけれど、NAACP だけは今でもその呼称を使っている。それと同じく、「インターセックス」という用語が時代遅れになっても団体名は変えるつもりはない、ということらしい。あれ、でも以前は「インターセックス」という語がウザくなったら、ISNA を略称としてではなく正式名称(イスナの会、みたいな)にしちゃうかも、という話をしていたような。いずれにしても、しばらくしたら「インターセックス」を自称するのは非典型なジェンダーを持つ当事者と活動家だけになっていて、大半の当事者は DSD を持つ障害者というアイデンティティに落ち着くのかもしれない。

そもそもどうして「インターセックス」という言葉はそんなに嫌われるのか。それは、この語がどうしても「男性・女性という性別の中間」という語源の通りの印象を与えるからだ。インターセックスの症状を持つ当事者の大多数は自分のことを標準とは違った身体的特徴を持つ「男性」もしくは「女性」であると認識しており、自分の身体がその中間にあるとはあまり考えない。事実、インターセックスとは男性もしくは女性の標準的な定義の「外側」を指す言葉であって、必ずしも両性の中間的なものだけを指す言葉ですらない。多くの当事者は、自己認識に反する「中間の性=インターセックス」というラベルを自分に当てはめることはないし、かれらの家族はなおさら自分たちの子どもが「中間の性」であると受け入れようとはしない。かれらが受け入れるのは、あくまで「先天性副腎皮質過形成」「アンドロゲン不応症候群」といった診断名であって、「インターセックス」という大きなカテゴリではない。

ISNA をはじめとするインターセックスの活動家たちはどう考えてきたか。90年代中盤における初期のインターセックス運動では、「インターセックス」という言葉に対する隠避はあまり見られなかった。というより、初めて自分が感じていた不全感の宛て先が見つかったという感激の方が多かったように思う。当時のインターセックス運動は「インターセックス」という医学用語を自分たちのアイデンティティとして取り入れただけでなく、現在では「インターセックス」よりさらに隠避される傾向がある「ハーマフロダイト」(hermaphrodite) というギリシア神話起源の言葉すら自称していた(当時の ISNA のニューズレターが「Hermaphrodites with Attitude」というものであり、またこれはかれらが96年にアメリカ小児科学会で抗議行動を行った時の団体名としても使われた)。

こうした動きは、明らかに ACT-UP から Queer Nation や Lesbian Avengers に続くクィア・ムーブメントのアイデンティティ・ポリティクスに影響を受けている。しかし残念ながらというか、やはりというか、インターセックス・ムーブメントにおけるアイデンティティ・ポリティクスはすぐに行き詰まった。もともと当事者の人数がゲイやレズビアンに比べてかなり少ないことに加え、インターセックスの症状を持つ人たちの多くはインターセックスのコミュニティやカルチャーといったものには興味を示さなかった。かれらの多くが求めていたのは「癒し」であり、また普通の男性もしくは女性として生きることであって、インターセックスというアイデンティティを受け入れようとはしなかった。

それだけならまだ良かったのだけれど、身体的にインターセックスではないのにアイデンティティ上の理由からインターセックスを自称する人が多く寄って来るようになった。つまり、「男性でも女性でもない」という自己認識を持った人や、「生まれた時与えられた性別がしっくりこないのは、なんらかの手術で無理矢理性転換されたからに違いない」と思い込んだ人たちが、自分はインターセックスだと思い込んで加入するようになったのね。かといって、「医療からの解放」を訴える当時のインターセックス・ムーブメントとしては「仲間に入る前に医者による診断書を見せろ」と言うわけにもいかない。その結果、確たる基準もないまま、単に個人的に相性が悪いとか共感できないというだけで「あいつは偽物だ」という糾弾が起きるようになり、それが必ずしも間違いばかりではなかった(実際にインターセックスではない人が多数入り込んでいた)だけに全体が険悪な雰囲気に陥った。もう「癒し」どころではないから、ますます本当にインターセックスの症状を持っていて、自助グループのようなものを求めて近寄ってきた人たちが離脱することになる。

幸運なことに、インターセックスの運動にはクィア・アイデンティティ・モデル以外にもいくつかの道筋があった。その重要なものの一つがラディカルな障害者当事者運動であり、それとポスト構造主義的な学術理論が結びついた障害学だった。批評的障害理論 (critical disability theories) は、わたしたちの社会における身体とは肉体そのもののことではなく、常に社会制度によって意味付けられていることを指摘する。日常的な用法において「障害」とは本人あるいは周囲に不便を強いる身体的特性として理解されており、その意味から言えばインターセックスは特に何の不便も起こさないから「障害」ではないとも言える。けれどポスト構造主義以降の障害学においては、「障害」(disability) とは身体そのものの属性ではなく、身体を基準化し適合・不適合(正常・異常)に分ける社会制度によって作り出されるものだから、インターセックスこそ社会制度に先立つ本質的な「不便さ」をどこにも見つけることができない、ある意味「純粋な」障害であるとも言える。

障害者、とくに障害を持つ子どもと医療の関わりにおいて当時衝撃を与えた論文に、リサ・ブラムバーグの「Public Stripping」というものがある(Shaw B, ed. 1994. The Rugged Edge: The Disability Experiences from Pages of the First Fifteen Years of The Disability Rag. Louisville KY: Advocado Press. 所収)。ここで彼女が「パブリック・ストリッピング」と呼んでいるものは、比較的珍しい障害を持つ子どもが、医学生やインターンの教育のため、あるいは医療関係者の好奇心を満たすために、多数の学生や看護婦、医者らの求めるままに裸もしくは半裸の状態でいろいろなポーズを取らされたり写真を撮られたりすることだ。米国の障害者運動においてもこの問題はブラムバーグが論文を発表するまでほとんど隠蔽されていたのだけれど、この論文は「自分も同じような体験をした、自分だけかと思っていた」という大きな反響を呼んだ。仮にこういった行為が医学生の訓練上必要な点を認めたとしても、担当でない医者や看護婦、さらにはソーシャルワーカーまで興味本位に覗きに来たケースも多数あるし、最低限の心理的なケアすらされていなかった(もっとも、どう心理的にケアすれば大勢の大人の前で裸で展示されることに子どもが「平気」になるのかなんて、わたしには想像できないけど)。

「自分は障害者としてこんなに差別された、こんな暴言を言われた、公共の場から排除された」と訴えるのは比較的容易い。でも、「自分はたくさんの医学生の目の前に裸のまま教材として展示された、医者や看護婦に興味本位に見物された」と言うのはとても勇気がいる。他に同じような扱いを受けた人なんているかどうか分からないとなるとなおさらだ。その困難は、性的虐待を受けた子どもが周囲にそれを打ち明けるのと同種の困難だと思う。それに加えて、障害を持って生まれた子どもが幼いうちから教え込まれる「障害者役割」は、医者やヘルパーなどを全面的に信頼しかれらの行為に一切文句を言わないことを要請する。なぜなら、「障害者役割」の最大のポイントは、障害者を囲む人々の「善意と愛情」を否定せず、常にその受動的な受け手としてふさわしく振る舞うことだからだ。

インターセックスの運動は、障害者運動における同時期の取り組みとは独自に「パブリック・ストリッピング」を発見した。インターセックス運動においてそれに対応する用語は、「メディカル・ディスプレイ」(医学的提示)だが、ここには実際にインターセックスの症状を持つ子どもが経験するパブリック・ストリッピングとともに、かれらの身体を映した無機質的な写真が目線だけ黒く塗りつぶされて医学書に掲載されることも指す。インターセックス運動に深く関わってきた医療歴史学者のアリス・ドレガー(「わたしたちの仲間 結合双生児と多様な身体の未来」著者)は、こうした医学写真が被写体を匿名としそのプライバシーを保護すると同時に、かれらの人間性を奪い取っていることになると指摘している。シェリル・チェイスはさらに鋭く、「目線を黒い長方形で隠す本当の目的は、写真を見ている人が被写体によって見つめ返されることを防ぐためだ」と言う。 (Dreger A. 2000. “Jarring bodies: thoughts on the display of unusual anatomies.” Perspectives in Biology and Medicine. 43(2):161-172.)

インターセックスの運動に関わる前、ドレガーはヴィクトリア朝における「ハーマフロダイト」医療に関する論文で博士号を取っている。その頃彼女の関心は完全に過去にあり、現在においてインターセックスの医療がどうなっているのか全く意識してはいなかった。ところがその論文をきっかけにインターセックス当事者から連絡を受けるようになり、詳しく調べてみて驚愕したという。 (Dreger A. 2004. “Cultural history and social activism: scholarship, identities, and the intersex rights movement,” in Locating Medical History: The Stories and Their Meanings, ed. by Huisman F and Warner JH. Baltimore: Johns Hopkins University Press, pp. 390-409.) 彼女からみて、インターセックス医療は現代医療の基本的な原則にことごとく違反しているように見えたのだ。すなわち、例外としてではなく常態として真実を患者やその家族に伝えないような治療方針や、必要性や安全性が確認されていないのに自分では判断のできない幼い子どもに手術が強制されている点などだ。

ところが2004年に発表した論文で彼女はこう言い出す。自分はインターセックスの子どもに対する医療は現代医療における異常事態だと信じ,この事を広く訴えさえすればすぐにもこうしたおかしな医療は再考されるだろうと考えていた。ところが、医学界の反応は思った以上に鈍かった。その大きな理由は、わたしが医学のあり方についてナイーヴすぎたからではないか。すなわち、インターセックスへの「治療」方針は実のところ例外的どころか、「異常な身体(や精神)」を持つとされた子ども(や大人)に対する医学の一般的な対応そのものだったのではないか。「わたしはもはや、かつてのように自分は医学の小さな影の部分を暴いているとは思わなくなった。今では、わたしは自分が石鹸の泡にまみれて滑る足下を踏み締めながら、巨大なゾウを押して動かそうとしているように感じている。」

身体的症状が直接苦痛を起こすのであれば、それを直すことは医療として当然のこと。しかし、医療はそれだけでなく社会的な苦痛まで解決しようとしてしまう。本来不必要な外科手術に絞っても、インターセックス以外にも生まれつき短い肢体を伸ばすような手術をしたり、口唇裂・口蓋裂症の治療など、必ずしも全てのケースで手術が必要なわけではない。ドレガーが詳しく調べている結合双生児に至っては、重要な器官を共用していないなど軽症な場合は容易に切断手術が可能だとはいえ、時には意図的に片方を殺害してまでもう片方に「正常」な生を与えようとすることがある。頭蓋顎顔面の発達異常では、仮に健康上問題がなくても、世間の激しい偏見と差別にさらされ通常の生活ができないため、外科手術が必須だったりする。もっと身近な話をすると、身長が低い子どもに成長ホルモンを与えたり、注意欠陥・多動性障害の子どもに薬を与えることも、本人及び周囲の社会的な問題を解決するために医学が利用される例だろう。

さらに言うと、インターセックスはよく「セクシュアリティに関する不安」を想起する点が他の障害とは違うと言われるけれど、ドレガーはそれがインターセックスに限った話ではないことを明らかにする。例えば結合双生児の切断が「人間的な」生活にとって絶対に必要と言われる根拠を問うてみると、最終的に行き着くところは「双子の弟や妹が横にいては性生活が営めないではないか」ということになる。また逆に、「セクシュアリティに関する不安」、例えば同性愛者に対するホモフォビックな反応は、同性愛行為の身体性を抜きには考えられない。このように、セクシュアリティに関する不安と身体的差異に関する不安は複雑に絡み合っていて、インターセックスだけことさらセクシュアリティに関する不安を喚起させるわけではない。同性愛指向がかつて医療の対象とされたことからも、これは分かる。

「異常とされた身体」に対するこうした医療は、多くの場合現実に本人及び周囲の生活をより円滑にするのだから、安易に否定されるべきではない。しかし同時に、それらを要請するような社会制度や、障害のある身体を改造することで社会に適応させ、同時に社会制度上のバイアスを温存する医学的パラダイムに対する批判も必要だ。過去に同性愛者とされた人たちに対して行われた非人道的な「医療行為」とその他の「社会的苦痛を解消する」医療とのあいだには、はっきりとした境界はないのだから。

ドレガーが、そしてインターセックスの運動がその点に気付いたことは、当初からインターセックスを障害理論の延長で捉えていたわたしにとっては歓迎すべきことだ。しかしそれは同時に、運動面と理論面の乖離という状態を引き起こしかねない危うい気付きでもある。なぜなら、理論的に言ってわたしたちはインターセックス医療を「より良く」するだけの部分的改革に満足せず医学的パラダイム全体を批判すべきなのは分かっているのけれど、同時に医学界の内部でインターセックス医療を「より良く」する努力を積み重ねる以外に現実的に変化を生み出す術がないこともやっぱり分かりきっているんだもの。現実の障害者運動と障害理論の関係を見ていても、両者のあいだに基本的な親和性があるのは事実としても、例えば「所得保証」のような障害者運動側の身も蓋もない、しかし切実な政治的要求に関しては「それも一つのあり方だ」以上の正当性が見出せずに理論の側が戸惑っているように思える。

DSD という用語の是非に話を戻すと、わたしは基本的にこの用語を受け入れることにした。その一番の理由はプラグマティックなもので、要するに「インターセックス」という言葉の弊害が大きすぎたからだ。なかには「障害」という括りに疑問を感じる人もいるけれど、DSD というのは少なくとも多くの当事者及びその家族が自称できる言葉であり、その点「インターセックス」よりはるかに優れている。「障害」という言葉が持つネガティヴな印象については、逆に「障害」であるからこそ障害者運動や障害理論に繋がることができるのだ、とポジティヴに捉えてみたい。それに、「医療化」に伴うさまざな問題を解決するには、インターセックスを「脱医療化」することでなく、医療そのものを変革する方が良いとわたしは思っているし。

同様の論争は「性同一性障害」についてもあるのだけれど、「〜障害」という用語はスティグマの原因となるので脱病理化すべきであるという論理にわたしは賛成しない。いかなる障害・疾患カテゴリも、医療サービスへの需要を把握し効率的にそれを提供する目的においてのみ正当化されるものだとわたしは思うので、性同一性障害にせよインターセックスにせよ何らかの医療サービスを必要とする当事者が存在するならそうしたカテゴリがあってもおかしくないと思う。必要なのは、いくつかの障害・疾患カテゴリを脱病理化することではなく、病理概念そのものの脱病理化だ。もちろんそのためには、やはり「正常/異常」のコードで作動する医学的パラダイムを根こそぎひっくり返す必要があり、それを考え出すと変革が絶望的に見えてこないでもない。

けれど、障害者運動や障害理論にはそうした問題を見据えるだけの射程があるし、これまでの運動や研究の蓄積がある。わたしが DSD という用語を肯定するのは、インターセックスを障害=異常と位置づける医学的パラダイムに共軛的に参加しその斬新的な変革を求めつつ、同時にそうしたパラダイム全体を疑うことができる障害者運動や障害理論の蓄積に、インターセックスの運動や理論を接続したいという考えからだ。

【追記】のちに、日本におけるDSDの訳語として「性分化疾患」という呼称が採用されました。また、英語圏における呼称ははじめ「disorder of sex differentiation(性分化障害)」と「disorder of sex development(性発達障害)」のあいだで揺れていたのですが、正式に後者が採用されています。その後の展開については、エントリ「医者の『米国のインターセックス当事者運動は、それほど医療批判をしなくなっている』という見解について」も参照してください。

22 Responses - “「インターセックス」から「性分化・発達障害」へ”

  1. しゅう Says:

    面白さがビンビン伝わってくる記事ですね(゚゚
    これがMacakaクオリティヾ(´Д`)ノ
    医学的の常識をひっくり返すとは実に壮大な話ですね。

  2. AJ Says:

    訳書紹介感謝です。
    ところで本筋と外れますが、
    >そのように法律上解釈するべきではないか、というのがミルトン・ダイアモンド氏の見解ですが、
    の箇所やや疑問です。
    Diamondの主張はあくまで医学的なものだと思います。
    Diamondの性同一性障害はインターセックス説を、特例法成立前の「インターセックスは戸籍変更可能、性同一性障害は不可」という状況を打破すべく、戸籍を変更したいと望んだ性同一性障害当事者が引用したということだと思います。

  3. Life is Survival Says:

    インターセックス DSD について、 macska さんの記事
    http://macska.org/article/129 シェリルさんの 目線を黒い長方形で隠す本当の目的は、写真を見ている人が被写体によって見つめ返されることを防ぐためだ という言葉がすごく印象的でした。 「病理概念そのものの脱病理化」という理論が腑に落ちるのと同時に、 macska …

  4. June Says:

    わたしはちゃんと最後の項目で笑いました!
    (て、反応するとこそこかい。)
    障害理論は不勉強なので、少し考えます。前回に引き続いて濃い記事ですね。

  5. macska Says:

    しゅうさん、AJ さん、コメントありがとうございます。
    June さん、適切なポイントで笑ってくれて嬉しいです。

    Diamondの主張はあくまで医学的なものだと思います。
    Diamondの性同一性障害はインターセックス説を、特例法成立前の「インターセックスは戸籍変更可能、性同一性障害は不可」という状況を打破すべく、戸籍を変更したいと望んだ性同一性障害当事者が引用したということだと思います。

     ダイアモンドさん、この件についてあんまりちゃんとした論文書いてくれないから、その辺り分かりにくいんですよねー。
     わたしの理解が何を根拠としているかか一応説明すると、ダイアモンド氏がオーストラリアの In Re Kevin 裁判に提出した書簡です。これは性同一性障害の人が婚姻法上、性別移行後の性別として扱われるべきかどうか争われた裁判ですね。その書簡において、ダイアモンドはインターセックスの人の性別変更が全面的に認められる点を指摘したうえで、性同一性障害がインターセックスであるかどうかには立ち入らないまま、両者は生物学的に似た要因を持つと思われるので性同一性障害の人も同様に性別変更を認められるべきだ、と主張しています。
     …というのは記憶から話していますが、どういうわけかちょっと前までこの裁判の資料をたくさん置いてあったサイトが閉鎖されちゃったんですよねー。また捜してみます。

  6. AJ Says:

    了解しました。
    ご教示ありがとうございました。

  7. おーつか Says:

    日本国内で「トランスジェンダー」が「GID」に流れが変わり、「アイデンティティ化」が「治療化」に変化していった経緯を思い起こさせます。
    ちょっとせつないなぁ。

  8. ko Says:

    おーつかさん、はじめましてです。
    ちょいと面白いと思ったのでしつもーん。
    その「せつなさ」って、どんな感じなんですか?

  9. TransNews Annex Says:

    「インターセックス」から「性分化・発達障害」へ mascka dot org
    「インターセックス」から「性分化・発達障害」へ mascka dot org
    BBC のプロデューサから電話。英国で昨年放映したシリーズで、子どもにビデオカメラを渡して自分自身や周囲の人との会話を撮影させる『My Life As A Child』というドキュメンタリがあるのだけれど、そ�…

  10. Konbu d’Arc Says:

    昨年の「Creating Change 2005 レポート」での記述と併せて拝読しました。

    「disorder」という言葉を外すことで正常とみなされることを目指すよりは、「disorder があっても、いわゆる正常でなくても、快適な人間らしいくらし」ができるようになることを目指す方がいいじゃんって気がする。どうせそのうち遺伝子学がもっと発展すると、この世に disorder を持たない人なんて一人もいないんだ、「正常」な人間なんて一人もいないんだ、みたいな事になるだろうしね。

    今までMacskaさんが「障害理論」と「DSD」を関連して述べられていたことや、ドレイガー氏の『私たちの仲間』の内容と、うまく繋がったような気がします。

    「〜障害」という用語はスティグマの原因となるので脱病理化すべきであるという論理

    上記の主張(論理)は私もよく見かけます。やはり「障害」という言葉が「正常か、それとも異常か」というオール・オア・ナッシング的なレベルでしか捉えられていない背景があるのですね。さらに加えて、「障害(かわいそう)だから、〜してあげなくっちゃ」という、「正常こそがスタンダードです!」的な考え方を基礎にしているということが理解できました。
    上記の解釈が前提となりますが、DSDの医療問題を「脱医療化」することでは、問題の解決にはならないですね。「障害者運動や障害理論の蓄積に、インターセックスの運動や理論を接続」することの方が、よっぽど現実的に思えてきました。

  11. ko Says:

    しかし・・・・、面白いタイミングですね。

  12. おーつか Says:

    未分化だった子どもの頃を懐かしむ年寄りの繰り言です。<ko さん

  13. ko Says:

    >未分化だった子どもの頃
    ああ・・・、なんか良いなあ・・・・。

  14. ばらいろのウェブログ Says:

    「インターセックス」と「性分化・発達障害」
    医療の領域で、「インターセックス」という言葉が「性分化・発達障害(DSD/disorders of sex differentiation)」に変わるらしいです。

  15. makiko Says:

    いや、私も、
    >「〜障害」という用語はスティグマの原因となるので脱病理化すべきであるという論理
    は、単なるそれを言う人の障害者フォビアの裏返しでしかないと思いますし(この点については某M橋さんと大喧嘩しましたが(笑))、社会構築主義的な障害学を性同一性*障害*に応用することは、かなり前から脳裡にはあるのですが、ただ、そういったアプローチに「転向」することが、ジェンダーの問題を隠蔽することになりはしないか、という懸念はやはり残ります。
    翻ってMacskaさんは以前から、インターセックスの人が、ジェンダーを脱構築したいと考えるフェミニストや、サードジェンダー的な立場のトランスジェンダーに搾取されてきたことを指摘されてきましたし、どちらかと言えば私はその、搾取する側なのかもしれませんが、にもかかわらず、インターセックスを理解する手段としてのジェンダーモデルに*代えて*、障害学モデルを提唱するということの、政治的意味合いを十分認識されているのでしょうか?
    私には、現在たけなわのいわゆるバックラッシュ対策として、インターセックスは(伝統的な)男であり女であって、サードジェンダーではない、と言うことに主眼が置かれているように見えてなりません。あるいは、Macskaさん自身が意図していなくても、そういう文脈で理解されていく危険性は否定できませんよね。
    >インターセックスを巡る状況は脱医療化ではなく「より優れた医療化」の方向に向かっていて
    というのは、日本の主流のGIDだけでなく、主流のトランスジェンダー(!)の運動も同じで、ただ私は医療を必要としていない以上これには乗っていない、というところなのですが(私は自己規定を表す言葉としては、現在「トランスジェンダー」は使っていません)、Macskaさんは、この立場を日本のGID/トランスジェンダーについても、そうあるべきだとお考えですか?
    ただ、これを一旦肯定したところで、医療におけるジェンダー・バイアスの問題は消えることはないだろうし、身体のジェンダー化という問題に向き合わなければならない当事者がいることは変わりなく、(インターセックスにとっても性同一性障害にとっても)必要なのはジェンダーモデルとの決別として障害学モデルを打ち立てることではなく、ジェンダー論と障害学を橋渡しする作業ではないかと思うのですが。

  16. セクマイ(Sexual Minority)雑感 Says:

    ISについて(macskaさんの記事)
    http://macska.org/article/129
    わたしは最近、あんまりとことんまで考えるということをしないようになってきているので、macskaさんのブログもちゃんと読んでいなかったのだけれど、さっき読んでみたら、わたしがここに書いたことをきっかけとして記事を書いていたり�…

  17. macska Says:

    makiko さま、
    多忙と病気でコメントに今まで気付きませんでした、ごめんなさい。
    最近日本で起きている種類のバックラッシュに迎合したものではないことは、わたしが日本ではなく米国の活動家であり、たかだか日本で起きている現象に何ら配慮する必要がなにもない事から分かってもらえると思いますが(笑)、そういう文脈で解釈されてしまう可能性は確かにありそうです。基本的に著者は自分の書いたものがどのように利用されるかコントロールできないとはいえ、予防線はもうちょっと張っておいて良かったかも。
    本文で、インターセックスを DSD と置き換えることに対する2つの有効な懸念について書きました。1つ目は医療パラダイムを受け入れるのかという問題で、答えは医療パラダイムではなく医療パラダイムを相対化するディスコースに参入するのだと応えました。
    2つ目の、「ジェンダーやセクシュアリティの議論から距離を取るのか」とう懸念について、本文では回答が不十分でした。その点が、「ジェンダーモデルから障害モデルへ」転換することが、保守的なジェンダー観への迎合ではないかという疑念を解消できなかった理由だと思います。
    で、十分な答えをしたいと思います。それは、ジェンダーやセクシュアリティの議論においては、インターセックスを障害学や障害運動の範疇に入れることによる影響は、インターセックス側よりも障害側に大きく出てしかるべきだということです。つまり、障害運動にインターセックスを接続することで、障害運動や障害学の蓄積を一方的にインターセックスの側に流し込むだけではなく、インターセックスの側からジェンダーやセクシュアリティについてのポリティクスを障害運動に流し込むという関わり方もできるのではないかということです。
    障害運動ではいまだにジェンダーやセクシュアリティについての議論は少ないですから、インターセックスがその中で活動するということは、それだけでかなり障害運動内を撹乱することになるんじゃないでしょうか。わたしは、障害運動はラディカルにジェンダーやセクシュアリティを課題化することができるように変化するべきだと思うので、インターセックスを接続することがそのきっかけの1つとなるのであれば有意義な相互接続となると思っています。
    それは、makiko さんの言われる「ジェンダー論と障害学を橋渡しする作業」とそれほど違わないのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
    で、あと質問にお答えします。
    > Macskaさんは、この立場を日本のGID/トランスジェンダー
    > についても、そうあるべきだとお考えですか?
    わたしは GID 医療を求めていないので外野からの勝手な口出しになってしまいますが、医療を必要とする人たちの運動についてはインターセックスとだいたい同じ論理でいいと思います。「より優れた医療化」という短期的プロジェクトと、「医療パラダイムの転換」という長期的プロジェクトの2枚作戦ですね。
    トランスジェンダーの運動というのは、それとは別にあって欲しいのですが、日本はそれがないんですよねぇ… というか、その方向の発展を makiko さんに期待しまくりです。

  18. makiko Says:

    こちらもカメレスすみませんです…
    >最近日本で起きている種類のバックラッシュに迎合したものではないことは、わたしが日本ではなく米国の活動家であり、たかだか日本で起きている現象に何ら配慮する必要がなにもない事から分かってもらえると思いますが(笑
    え゛?それはないっすよ(笑)
    このブログは林道義セソセエも、世界日報の記者サマもお読みでつから(苦笑)
    だいいち、日本語でほぼ日本語圏の読者に対して書かれてるわけですし。
    ということで、本ちゃんの議論は別スレでします。

  19. 里花@元セクマイ雑感 Says:

    #お返事不要#
    お久しぶりです。
    この記事、また読んで少しだけ理解を深めた気がします。
    わたしには、まだまだ時間がかかります。
    情報化社会って、こういうことを「話題になった時だけ気にしてあとは忘れてしまう」というところがあるのかもしれません。
    いえ、わたしだけの傾向なのかもしれませんが。
    自分が前にここを読んでしょーもない記事を書いたことすら、忘れてしまっていました。
    自戒を込めて、あと、万が一また来たことすら忘れてしまうようなら、それを自分に思い出させるために、ここに足跡を残しておきます。

  20. みのり Says:

    はじめまして
    >サポートグループというのも自助グループではなく医者主導のものだ
    わたしどもは自助グループを目指しています。もちろん医師主導ではありません。

  21. インターセックス | ってどうよブログ Says:

    […] macska dot org ? Blog Archive ? 「インターセックス」から「性分化 … […]

  22. m.n. Says:

    ほとんどインターセックスについてはまだ分からないですが・・・自分が別の先天障害を持っている経験から思ったことがあります。インターセックスと言う概念の存在、そしてその概念を当事者がどう考えているケースがあるのか・・・社会はそれだけは知っていても良いと思うし、それさえ知っていれば十分だと思います。後は当事者が判断して自分の周りの人や信頼できる人に何を伝え何を伝えないか判断すると思います。無論それも自己の満足感なのでしょうが…
    生意気言ってすみません。

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