「完璧な愛」が隠蔽する国際養子制度の帝国主義的歴史

2006年1月28日 - 3:35 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ここのところ林道義氏とのくだらないやり取りが続いてしまって、以前からの読者が離れてしまったのではないかと心配になってきたのだけれど、今回以前別ブログで少し触れたところリクエストがあった「国際養子縁組問題」について取り上げる。とはいえ、日本は国内の子どもを海外に送り出すことも海外の子どもを養子として引き受けることもほとんどしていないのであまりピンと来ないかも知れないので、ハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーの話からはじめてみたい。以下は、少し古いのだけれど映画情報サイトの「FLIX ムービーサイト」に掲載されたジョリーの半生についての記事から引用。

【知性 国連大使としての、知性あふれる横顔】

 『トゥームレイダー』の撮影で、海外ロケに行ったアンジーは、さまざまな海外の情勢に目を向けるようになります。特に彼女が興味を持ったのは、撮影でも行ったカンボジアの地。

 2001年に、彼女は国連難民事務所の親善大使となり、カンボジアを訪問。2002年には、カンボジアからマドックスちゃんを養子として迎えました。

 以降、コロンビア、アフリカなど世界中で貧困に苦しむ地域を訪問しては、女優アンジェリーナ・ジョリ−として、その凄惨な状況を世界に伝え、多額の寄付をしています。

 また、カンボジアには地雷の埋まっている土地に家を購入。もちろん、地雷は撤去されましたが彼女の言葉だけではない行動力に2003年には、国連から表彰され、現在ではワシントンの連邦議会でエイズ孤児救済のスピーチを行うほど彼女の功績は認められているのです。

【愛 完璧な愛を手に入れて、光り輝く母アンジー】

 2002年3月、アンジーに神様から人生で一番の贈り物が届きました。カンボジアからの養子マドックスちゃんです。アメリカ人は、やはりアメリカ人の養子を迎える中、カンボジア人の息子を迎えたアンジ−。

 彼女の行動は多くの人々に影響を与え、マドックスちゃんは、母親となったアンジーに大きな影響を与えたのでした。そして、母親となったアンジーからは以前のような過激な発言は飛び出すことが一切なくなり、表情もぐんとソフトになりました。

 「おなかを痛めようがそうでなかろうが、私にとってのかけがえの無い子供であることには変わりない」と話すアンジ−は、母親としての自信にあふれ、以前よりも一段と輝きを増しています。

 そして、今年彼女は、エチオピアからもう一人の養女ザハラちゃんを迎えました。契約には『Mr.&Mrs.スミス』で共演したブラッド・ピットも同行。熱愛報道の中、彼を依然として恋人と公表しないのは、小さい子供たちのことを思ってのことなのかもしれません。

わたし的には、現カレのブラピよりも彼女の以前の恋人だったとされる日系人スーパーモデル・ジェニー・シミズの方が気になるわけだけど(シミズさんカッコいいです)、それはともかくこの記事では、ジョリーがカンボジアとエチオピアから有色人種の子どもを養子として引き受けたことが、「完璧な愛」として彼女の母親としての「輝き」を強調することになっているばかりか、国連親善大使としての「言葉だけではない行動力」の裏付けとしてまで評価の対象となっている。

そのような「愛情」の物語として国際養子問題が語られるとき、子どもは「神様からの贈り物」として処理されてしまい、そこに「実の子を失った親」「実の親を失った子」が存在していたことが見失われる。その子が親を失った理由に社会的な要素が大きく関わっている可能性は大きいのにそこを不問とし、まるで「神様からの贈り物」であるかのように「養子に出される子ども」の存在を所与のものとすることで、養子縁組の存在は美談として語られることができるようになる。そしてそれは、「血のつながりがないかにも関わらず」「人種も国籍も違うにも関わらず」子どもを受け入れて愛しているという理由において、一般の親子の愛情よりもさらに上の究極の愛、「完璧な愛」にまで美化される。

このように「実の親」の存在を消却することによって美化された物語は、何も有名人のアンジェリーナ・ジョリーだけについて語られるわけではなく、養子を巡る言説の一般的なパターンだ。しかも、ドゥルシラ・コーネルが「At the Heart of Freedom(邦訳:自由のハートで)」で論じているように、家族関連の法律というかたちでも「実の親の消去」は徹底されている。コーネルは、養子縁組がただ単に「中心的な扶養義務」の委譲にとどまらず、子どもに関する全面的な権利と義務といった一切の関わりの委譲として法的に規定されることを、国家が特定の「母親」のあり方を強要するもので不当であると批判している。

国際的なものかどうかに関わらず、養子縁組を政治的な論評の対象にすることは難しい。その難しさの一部は、上に書いた「親」とくに「母親」の「完璧な愛情」にケチをつけることの困難で説明がつくが、もう1つ、「親のない子ども」という誰が見ても保護を必要とする対象が相手であることも、その難しさに結びついている。養子制度に少しでも批判的なことを言うと、すぐ「じゃあ親がいないまま見殺しにした方がよかったというのか、飢えさせればよいというのか、孤児院に入れておいた方がよいというのか」と反論されてしまう。しかしこうした反論も、その子が親を失った社会的な事情を忘却して「親のない子ども」の存在を所与とみなしてのみ発することができるものだ。

国際養子制度の歴史はそれほど古くなく、1950年代にオレゴン州のデイヴィッド・ホルトという牧師が朝鮮戦争後の朝鮮半島に残された戦争孤児についての新聞記事を読み、「この子たちを救わねば」と思い立ったことにはじまる。かれの要求を聞いた米連邦議会は数ヶ月のうちにこれを認め、ホルトは妻のバーサ・ホルトと共に世界最大の養子斡旋機関となるホルト・インターナショナルを設立する。この団体の理念は今も昔も「子どもたちを正しいキリスト教の家庭で育てること」であり、ここから養子を受け取るためにはキリスト教を信仰していることを示す書類に署名をしなくてはならない。

当時、養子として米国に渡った子どもの多くは、朝鮮人の母親と米国人の父親を持つ子どもたちだった。もちろん米国人兵士と現地の朝鮮人女性とのあいだに恋愛関係や合意あるセックスが一切成立しなかったとは思わないけれど、米兵によってレイプされた女性や、武力もしくは経済的理由によって売春させられた女性の子どもが多かったことは容易に想像できる。また、朝鮮人の両親を持つ子どもが孤児となった例では、両親はどこへ行ってしまったのか。戦争や貧困の犠牲になった者が多数いたことは確実だ。こうした子どもたちは、まだ市民権法も成立しておらず一部では人種隔離政策が続いていた米本土やヨーロッパの国々に送り込まれた。

当時の韓国政府も、米国への養子「輸出」を積極的に奨励した。韓国の経済が日本による植民地支配とその後の朝鮮戦争で貧窮していたなか、戦争孤児たちに十分な食料や医療を与える余裕はなかったし、またいつ停戦が破られるか分からない状況においては米国の中流家庭にできるだけ多くの「韓国系住民」を送り込むことは政治的にもプラスになるという計算もあっただろう。いずれにせよ、当時の韓国政府には他に取れる政策などなかった。そして、子どもを海外に積極的に輸出するという政策は、民主化が完成する90年代初頭までずっと続き、通算で合計50万人以上の韓国人の子どもたちが日本と英国を除く先進国に養子として送られていった(ちなみに、絶対的な人数で一番多いのは米国で、人口あたりで多いのはスウェーデン)。

以前講演においてこうした歴史的経緯を話したところ、80年代に養子として米国に送られた韓国系の学生がこう言ってきた。「50年代において韓国政府が他に対策を取れなかったことはよく分かる。でも僕が生まれた80年代までには韓国の経済は大きな成長を遂げていて、国外に子どもを送り出さなければいけない経済的な理由はなかったはずだ。婚外子をやたらと隠避したり、血の繋がりばかりを重視するといった韓国の伝統的な価値観が問題なのではないか。」 そう、文化の問題はもちろん関係がある。実際、70年代までは貧困家庭の子どもが多く養子として輸出されていたけれど、80年代以降は未婚のまま出産してしまった中流階級の女性の子どもが多く養子にだされており、婚外子や未婚の母に対するタブーがなければかれらの多くは国外に送られずに済んだかもしれない。でもそれは、韓国人や韓国系の人たちが問題化していけば良いものだと思うし、現にそういう動きは韓国にも国外のコリアン・ディアスポラの間にもあるから、わたしが言うまでもないんじゃないかと思ってるだけ。

50年代の朝鮮半島に続いて先進国に多数の養子を送り出したのは、70年代のヴェトナム・カンボジア両国だ。両国からの子どもの輸出はヴェトナム戦争のあいだずっと続き、終戦直前になっても既に米国から「注文済み」の子どもが数百人単位でいたため、サイゴン陥落までのあいだにチャーター機に子どもばかりを押し込んで空輸する「オペレーション・ベイビーリフト(赤ちゃん空輸作戦)」が実施された。米軍の保護もなく、南ヴェトナム軍が崩壊するなか数百人の子どもを乗せて強引に離陸した航空機の一部は、北ヴェトナム軍に米軍の軍用機と誤認されて撃墜された。

その次に養子を送り出すようになったのは、80年代の中南米各国。ニカラグアで左派のサンディニスタが政権を取ったことに危機感を感じた米国は、中南米各国の親米軍事政権やCIAによる訓練を受けたコントラなどの右派軍事組織を積極的に支援したけれど、同時にグアテマラ・ホンジュラス・エクアドルなどの各国から子どもを輸入することもはじめた。人の動きだけを見ていると、まるで米国が他国に軍隊を進めると、それと入れ替わりに子どもたちが米国へと送り込まれているようだ。

さらに冷戦終結後は旧ソ連や東欧からの養子も増えており、また近年「頭のいい女の子が手に入る」と評判の中国からの子どもの輸入が爆発的に増えている(米国で海外からの養子を希望する人の8割は女の子を希望している)。一方、ホンジュラスやカンボジアでは一部の養子斡旋機関が誘拐や人身売買によって子どもたちを集めていることが社会問題となり、一時的に海外への子どもの輸出がストップしたことがあるし、韓国では90年代後半から「子どもの国外輸出は国の恥であり損失」という考え方が強くなり、国内における養子受け入れを増やすような政策が取られると同時に、海外で育った韓国人養子に希望すれば国籍を与えて帰国を支援するなどの措置も取っている。

自身も韓国生まれの養子であり韓国とスウェーデンでの調査を行ったストックホルム大学のリ・サムドル氏は、韓国における最近の変化の説明として、欧米に多数の養子を送り込んでいる国のなかで韓国は唯一の経済的に発達した民主主義国家である点を指摘している。かれによると、特にヨーロッパにおいて自分の意志で移民した韓国系住民が少ないのに、養子として送り込まれた韓国人の子どもがやたらと目立つことは、韓国が今でも昔のままの貧しい軍事独裁国家であるという誤解を与えており、韓国の印象を著しく悪くしている。韓国の政治指導者が方向転換しつつあるのはそのためだ。

米軍がイラクに侵攻しサダム・フセインの政権を転覆した直後の2003年4月、国務省は以下のような書類をウェブサイトに公開した。

The Department of State has received many inquiries from American citizens concerned about the plight of the children of Iraq and wondering about the possibility of adoption. At this time, it is not possible to adopt Iraqi children, for several reasons. (国務省はイラクの子どもたちの置かれた状況を心配する多くの米国市民から、イラクからの養子引き取りについて多くの質問を受けました。現時点では、いくつかの理由によりイラクの子どもを養子とすることは不可能です。)

もちろん、養子引き取りについて質問したたくさんの米国人たちは、子どもたちを戦争に伴うトロフィーであると思っているわけではないと思う。かれらは真面目にイラクの政情混乱で子どもたちが困っていることを心配しているのだろう。しかし、そうした政情混乱をもたらし、今でも混乱の中心的な元凶となっているのは、イラク全土における米軍の存在ではないか。朝鮮半島でもヴェトナムでも中南米でも、どうしてそんなに孤児が増えたのかーーすなわち、死んでいて子どもを育てられない親や子どもを育てる余裕のない親が多いのか、売春やレイプによる望まない妊娠で生まれたために親に受け入れられない子どもが多いのかーー考えれば、その原因の一部は米軍の存在そのものに求められる。「完璧な愛」「子どものため」を掲げる養子縁組言説では、そういったところが隠される。

また、もし軍隊にその原因を求めなかったとしても、そこに経済的な格差があることは誰の目にも明らかだろう。現に、欧米諸国からアジアや南米やアフリカに子どもが養子として送られることはない(というか、実際にはあるけれど、それは欧米出身の白人が祖国から養子を迎えるときのみ起こる)。養子を巡る貿易は、ほとんど常に欧米諸国が輸入する側だ。そして仮に米軍の存在が直接原因となっていなかったとしても、国際的な経済構図において世界銀行やIMFからの政策欲求(規制緩和、福祉削減など)に従わさせられた途上国において子どもを手放さざるを得ない親が増えるとすれば、軍事的か経済的かに関わらずそこにははっきりと帝国主義の刻印は刻まれている。

ここまで国際的養子問題について扱ってきたけれど、国内の養子問題についてもほぼ同様の事情がある。ドロシー・ロバーツ著「Shattered Bonds: The Color of Child Welfare」は、米国における「子ども保護」の制度がいかに人種差別的に機能するかを書いた代表的な書物だけれど、この中でロバーツは貧しい非白人の親に対する偏見が、かれらの家庭におけるあらゆる問題を社会政策の失敗としてではなく、かれら自身の道徳的欠如として扱うような政策に帰結していることを指摘している。

子どもを「保護」するために強制的に里親に出す制度と言えば、通常は親など周囲の大人によって虐待されたり放置されたりした子どもを守るための制度だと思うだろう。ところがロバーツによると米国では、「保護」される非白人の子どもの過半数は虐待されたわけでも親の身勝手で放置されたわけでもなく、ただ単に親が貧しくて十分な食費や光熱費が負担できなかったり、家族を養うために複数の仕事をかけ持ちするため子どもと一緒にいてやれなかったりするケースだ。つまり、子育てをする親に経済的な支援をするなり、いくつもの職をかけ持ちせずとも家族を養えるだけの賃金が支払われていたりすれば、全く問題がなかったはずなのだ。しかし70年代以降、そうした貧困層への福祉は縮小を続けており、また法定最低賃金の上昇はインフレ率にまったく追いついていない。

その代わりに、里親制度につぎ込まれる予算は年々増えている。連邦政府の厚生省が「家族の分断を防ぐため」に州に与えている予算は3億ドル(350億円)以下なのに対し、里親支援のためにはその10倍以上の50億ドル(5800億円)も支出している。これに加え、養子縁組を成立させた件数に応じて州政府に報奨金が支払われるし、養子を受け入れた家庭にも膨大な税制上の優遇措置がある。貧しい家庭を支援して子どもが里親に出されるのを阻止しても州政府は貰えるはずの報奨金を失うだけだし、子どもを失わないように頑張ったとしても優遇措置なんてなにもない。子どもを親から引き離さないような施策をしても当人以外の誰にも何の得もないのに、引き離して別の家庭に受け入れさせた途端に利益を得る人がたくさんでてくる。これでは、州政府が貧困問題の解決に力を入れないわけだ。こうして、非白人のコミュニティでは、貧困であることだけを理由として親子の縁を切り裂かれる。

さて、里親制度につぎ込まれるお金の一部は、受け入れ側の家庭への補助金として支払われる。どうせ補助金を出すなら、もとの家庭に支払われてさえいれば多くの場合そもそも里親制度に子どもが出される必要はなかったはずだと思うのだけれど、2人3人と受け入れればこれがかなりの額になる。すると、当然補助金として支払われるお金を目当てに里親に名乗り出る人がでてくるのね。審査があるし講習も受けなくてはいけないのだけれど、中流階級の家庭にとってはそれほど難しくない条件。この審査というのがうまくできていて、貧困層の人が里親として名乗り出ればすぐに「補助金目当て」とみなされて弾かれるのに、特に適格でなくても中流家庭であるとみなされれば合格しやすい。利益目的に子どもを何人も受け入れた人がすることといったら、剰余価値の最大化に決まっている。つまり、できるだけ生活に最低限必要なものだけ与えて、できるだけ多くを里親自身のために残しておこうと考える。そういう状態であっても、一応食料も衣服も与えているし放置もしていないということだと問題にはされにくい。

問題にされにくい「虐待」の例と言えば、白人の親による人種差別的な扱いもそれに含まれる。親から子への人種差別的扱いということはそもそも制度上想定すらされていないから、それが人種差別的な蔑称で呼ぶといった悪質なものであれ、子どもを傷つけるつもりでなくても白人の親にはよく分からずについ言ってしまう言葉であれ、これまで問題とされたことがない。非白人の子どもを育てている白人の親向けのガイドブックには、「非白人の子どもの親として、自分や子どもが他の人に差別的な扱いを受けたときにどうすればいいか」という事は書いてあっても、「白人の親として、気付かずに人種差別的な言動をしないためにはどうすればいいか」という項目はない。もし何の悪意がなくても差別的言動を取りかねないことを認めてしまうと、「人種的な違いにも関わらず子どもを受け入れた完璧な愛」というファンタジーが崩壊してしまうからだろうか。

当たり前だけれど、非白人の子どもを養子として受け入れる白人の親たちは、自分たちは人種差別なんてしない良識派だと信じていることが多い。そしてかれらが考えることが、「この子には、自分の生まれた文化に触れながら育って欲しい」ということだ。ところがこの善意が、かれら親たちをときには最も醜悪な文化剽窃者・文化捏造者に変える。例えば、韓国系の移民やその子孫が集まって独自の文化を保持しようとしているところに乗り込んで、わがもののようにあれこれ要求して場を仕切ろうとする白人の親という例はよく見るし、中国人の娘に彼女自身の文化を伝えたいからと言って和太鼓の演奏会に連れてくるような例もある。

これまでの話は、政治的な側面から見てきたけれど、子どもたちの立場に立つと生育上・発達上の問題も重要だ。まわりに白人ばかりしかいないような地域に連れて来られ、周囲の人種差別的な扱いを家族にも誰にも相談できずに悩んだという経験を持つ人は多い。あるいは、他の非白人と違って英語の発音や家庭環境から自分は「より白人」なんだというおかしな優越感を身に付けてしまい、そのため後に非白人の仲間を作るのに苦労したという声も聞く。また、非白人のコミュニティや団体ではかれらは「半白人」と見られてしまうことが多く、自分はアジア人としてアイデンティファイしたいのに、どこか「偽物のアジア人」であるかのように感じる人もいる。

これまで、こうした「異人種間養子制度」(実態は、非白人の子どもが白人家庭で育てられること)を一番古くから問題化してきたのは、全国黒人ソーシャルワーカー協会をはじめとした黒人団体だった。かれらの批判は、白人家庭に育てられた黒人の子どもは、自らの人種的アイデンティティを確立できず白人に対して劣等感を抱くことになるというものだ。次に、ロバーツら非白人のフェミニストたちにより、現行の「子ども保護」の制度が、実際には非白人の女性を「母親として不適格」と決めつける不公平なものだとする批判があがった。この批判の背景としては、「母親として不適切」とばかりに貧しい女性や障害を持つ女性に対して避妊手術が強制されるなどした優生主義への抵抗がある。しかし、この問題はまだ理論面でも運動面でも、さまざまな視点がうまく接続されていないように思う。

まず第一に、国際養子制度と国内の異人種間養子制度の議論が完全に分断されている。前者は主にアジア系の人たちにとって語られ、後者は主にアフリカ系の人たちによって問題とされているけれど、基本的な構図は同じなのだから連携すべきだ。これは、国内におけるネオリベラリズムへの抵抗と、国際的な帝国主義への抵抗を接続するということにもなる。

第二に、母親や少数民族コミュニティの損失だけでなく、子ども自身の被害に注目する視点がもっとあって良い。先に挙げたコーネルの議論もそうだけれど、特にフェミニストのあいだでは「母親への不当な扱い」「母親の損失」ばかりが注目され、子ども自身がどう感じているか、どう生きているかを調査した研究が少ない(前出のリ・サムドル氏が頑張ってますけど)。

第三に、これは特に運動面においてだけれど、過去から現在に続く歴史の中で非白人たちが経験した、各種の「家族離反」の体験の一部として「養子としての流出」を位置づけるべきだ。上に書いた優生学のみでなく、奴隷制や植民地主義にはじまり、米国先住民の子どもに対する強制的な長期隔離教育、日系人の強制収容から、「黒人男性の3分の1は刑務所生活を経験する」と言われるほど不公平な社会制度や司法のあり方まで、そう明示的に意識されていたわけではなかったとしても、非白人の家庭やコミュニティを破壊し分断しようという試みがなかった時代はない。養子問題をその中に位置づけることによって、それは実際に養子に出された子どもや子を失った親だけの問題ではなく,米国の人種的正義に関心のある人全てが引き受けるべき問題となるし、そういった厳しい状況の中で培ってきた抵抗の歴史から学ぶこともできる。

例えば、伝統的に黒人コミュニティの中では法的な養子制度よりはるかにルースな形で、一時的に余裕が無くなった親の子どもを親戚やコミュニティの一員が期限や制限を特に定めずに預かって育てる慣習がある。もしかするとこうした伝統はアフリカの文化まで遡る事ができるのかもしれないけれど、それが一般化していまも残っていることには、いつ親と子がバラバラに引き離されるか分からない過酷な奴隷制を経験してきたことが関係あるはずだ。コーネルに指摘されるまでもなく、「養子に出されるのが良いか、それとも元の家庭で貧困に喘ぐのが良いか」という極端な二択を迫るような現行制度より優れたモデルだと思う。

念のため言っておくと、わたしは「養子は同人種間に限るべきだ」と主張しているわけではない。そんな主張はわたしがしなくても人種差別主義者の連中がやってくれるだろう。わたしが言っているのは、「養子に出される子どもに常に非白人が多く、養子を受け入れる余裕のある家庭に常に白人が多い」ことや、米国や世界銀行などの介入によって引き起こされる国際紛争や経済危機によって孤児を生み出し、それを「救う」ことで自画自賛する先進国世論の不当さであり、それを「完璧な愛」と美化したり「それなら何もしない方が良いのか」と反発するような短絡的な思考がそうした不当さを覆い隠すことへの懸念だ。子どもを養子として受け取ることで問題解決とするのもおかしいし、逆に養子に受け取らなければ良いんだろというのもやっぱりおかしい。本当に問題なのは、養子縁組そのものではなく、養子縁組の問題から垣間見える、わたしたちが住む社会の仕組みそのものなんだから。

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10 Responses - “「完璧な愛」が隠蔽する国際養子制度の帝国主義的歴史”

  1. セリーヌ Says:

    要するに身に覚えのない借金を引き受けるアメリカ人が占領地の子供に見に覚えのない借金を背負わせているというか身に覚えのない借金を背負って生きるキリスト教徒はみんなアメリカ人なのであるって話ですか(こんな書き込みじゃ何とも答えようがないかもしれませんが)

  2. chiki Says:

    濃密な文章! 国家単位でも個人単位でも、国際養子の話が単に<道徳的気前のよさ>のアリバイ作りになってしまうことで経済・社会構造問題が覆い隠されることの問題は深刻ですね。確かに現に二項対立に迫られている状態ではある程度の道徳的気前のよさがないとアウトになりますが、しかしそれは<ある程度の道徳的気前のよさ>のみを前提にしているシステム(二項対立)が強固にあるからで。そのままだとどうしても個人に負担が過剰にかかるし、一方で何かに頼ろうとするとすごく大きなセクションに頼らなくてはならなくなって顔が見えなくなる。1〜3の提案は、問題点を指摘しつつ、ファンタジーを解きほぐす為の見通しの良いグランドビジョンを端的に言い当てているように思います。細部は違いますが、アンバランスな自己責任論をファンタジーで覆い隠すことによって生じる問題はさまざまな場面で見受けられます。Macskaさんはシェルターの話でも、ある種のファンタジーによって個人に負荷が加わりすぎる状態に懸念を表明していていましたし、それは(私を含め)耳慣れない国際養子という個別の問題であっても、他の問題にも応用可能な普遍的な話になっているように思います。ああ、普通に感想文になってしまった(笑)。

  3. xanthippe Says:

    朝鮮戦争のときも、ベトナム戦争のときも、もっと前なら日本の占領時代も、同じ構図があったんでしょうね? ベトナム戦争のときは、養子縁組でたくさんのベトナム人の子どもたちがアメリカに受け入れられるというのは、ニュースでも見た記憶があるのですが、なんとなく胡散臭さを感じていました。
    アメリカの軍事優先主義が、戦争や紛争を起こした国や国民の生活を破壊するだけでなく、植民地支配のようなものを家庭の中にまで持ち込んでいるって事なんですよね・・・?
    「贖罪」ではなく、「完璧な愛」って姿勢があるところが原因なんですかね?

  4. セリーヌ Says:

    そういや読書感想文書けとゆうような宿題をいつもみこすり半劇場で終わってしまうのがひそかな悩みだった(でも社会人になったからもう悩まなくていい!)

  5. yumesaki Says:

    コメントの欲しい真面目な話題にはあまりコメントが貰えない、と仰るのでコメントするです。
    でも、やっぱりね……テーマが重いのね。 重いから迂闊に口を開くわけにはいかない。 そもそも「重いテーマから逃げたがる人」も居るだろうし(そう多数派でない事を望みたいが……少数でない事実も事実として受け止めないといけないだろう)。
    で、実際、macskaさんが望んでいるのは、その場限りのお追従や、場当たりの慰めではない筈。(こういう上辺のまやかしが大嫌いなことは文章をちゃんと読めば、そして思考停止しない人なら分かるに決まっている)
    macskaさんが望んでいるのは、この重さをヘンに軽くしたりなぞせずに「重いものは重いままに」受け止めて、各人の心の奧底に一旦沈めて熟成を待つことで、やがて重い口を開く人が一人二人と現われてくる……そのタイムラグを待てる忍耐は重いテーマを投げ掛けた主の責務であるとは言えまいか?
    このテーマを受けて一旦心深く沈めてみて、時が満ちると共に浮上してくる「何か」これを重視するのが私の流儀である。 その「何か」が形を取り始めた時には(macskaさんの好みに合わない方向である可能性もあるが)私なりの何かはお返しできると思うので、この言葉を信じて待って下さい、としか現段階言えませぬ。 別にお返しする義理もないのだけども、そう表明するのが信義だろうと感じた何かがあったと伝えるだけでも意味があると考えて書きました。

  6. ジョージア Says:

    くだらないのはおまいだよ。
    バカサヨクフェミが

  7. dvcr Says:

    「多人種国家」成立の帝国主義的側面がかいま見られるようで興味深い文章でした。
    国際養子制度に絡んでくるのは「完璧な愛」の物語に加えて、
    自由市場にのせれば優秀な子供が手に入り子供も助かるすばらしさよ、という物語もあるのではないかと思いました。

  8. monju Says:

     実際に国際養子縁組をしたヨーロッパ在住の者です。家族全員肌の色が違います。アメリカだけではなく、ヨーロッパの現状にも興味をもってください。また違った視点から国際養子縁組が見えてくると思います。

  9. C plus M | 「子どものために」ってのは嘘だろ。 Says:

    […] この件とは直接関係ないのだけれど異人種間の養子とか国際養子制度についての素晴らしいエントリが macska さんによって書かれているので、そちらも参考にどうぞ。 :: 7/14 追加 […]

  10. nao Says:

    アメリカ在住日本人です。幸せそうな異人種間養子縁組の例を目の当たりにすることが多いです。が、こちらの論文を拝見するまで、養子のバックグラウンド、ルーツの尊厳にまで考えが及びませんでした。全世界の実の親子が安心して一緒に暮らしていけることは理想であり不可能ですが、養子縁組を合理的な解決策としてもてはやすと、先に養子縁組ありきといった本末転倒なケースも実際に起こっており、ますます理想的な世界のあり方から離れていくのかもしれないなと思いました。今現在、養子の方、養子を迎えた方、我が子を養子に出された方、みんなが平等であるという当たり前のことが社会的に、制度として?法的に?もっともっと前面に出るといいなと思います。

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