「女性学部」の名称変更をめぐる論議、あるいは「ジェンダー」を掲げることの限界

2010年1月24日 - 9:02 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ここのところしばらく、といっても半年くらいのことだけれども、いろいろ忙しくなってブログの更新頻度が減っていた。ほかのことに関わっていて忙しいうちは、そのほかのことについて「後でブログに書こう」と思っているのに、書く時間や気力がないままにまた次のことで忙しくなってしまったりすると、書きたいことがどんどんたまっていって追いつかなくなる。まぁ時事問題についてのコメントみたいなものは、わたしが言わなくても他の誰かが似たようなことを書いているだろうし、あとから遡って書いてもタイミング的に遅すぎるけど、自分の身の回りで起きていることについては後から書いても意味があるだろう、ということで、これからいくつか「わたしの最近のシゴト」をテーマに報告してみる。といっても、いま一番書きたいのは先週の出来事なので、こんな前振り必要なかったような気もする。その書きたいこととは、わたしが以前学生として通い、授業を教えたこともある、ポートランド・ステート大学(PSU)女性学部の「名称変更」をめぐる議論について。
米国ではここ5〜10年くらい前より、各地の大学で女性学(Women’s Studies)の学部やプログラムの多くが女性とジェンダー学(Women’s and Gender Studies)や単にジェンダー学(Gender Studies)のように名称変更されている。これは、もともと女性学としてはじまった研究領域の中から、ジェンダー理論やクィア理論を含め、「女性」というカテゴリを自明としない研究、「女性学」というフレームワークからはみ出るようなジェンダーとセクシュアリティの研究が行われるようになったことを主な理由とするが、むろんそれだけではない。「女性学」という名前はそもそも、それ以外のこれまでの学問すべてが、学問的客観性や政治的中立性を装いながら実は女性を制度的に排除したものであったことへの批判を込めた呼称であり、その存在を快く思っていない関係者も少なくない。「女性学」をより中立的な用語と思われている「ジェンダー学」へと置き換えることは、学問的正統性という評価と引き換えに、そうした政治性を失うという印象もあるため、大学によっては学部内から改称の声が高まるより先に、政治性を抹消しようと大学当局の側から改称を押し付けられることもあるという。
さいわい、PSUでは上からの押し付けがあったわけではなく、改称の動きは女性学部の内側からでてきたという。その主な理由はというと、この大学では数年前から女性学部の中にセクシュアリティ研究プログラムが発足しており、女性学というよりはセクシュアリティ研究コースを受講するために女性学部に入る人も出てきているからで、学部の名前が「女性学」のままというのは分かりにくいし、セクシュアリティ研究プログラムがあるということすらあまり知られていない。あと、これはかなりくだらない理由だと思うのだけれど、学生が受講可能なクラスのリストは学部ごとにアルファベット順に掲載されるので、「女性学」(Women’s Studies)より「ジェンダー学」(Gender Studies)の方がずっと前の方に表示されて学生の興味を引くのに有利だ、という事情もあるらしい。
さて、PSU女性学部ではしばらく前から内部で名称変更についての議論を続けていたようだけれども、来週にも最終決定する前に、一般の学生や過去の卒業生、そして女性学部と何らかの関わりを持つ外部の人にも意見を聞こうということで、先週木曜日に公開の議論が設けられた。参加者は約40人程度で、女性学部や関連学部の講師らが10人、学生が25人、その他がわたしを含めて数名といった印象。って本人が立場を名乗らない限り、誰が学生で誰が講師なのか年齢や外見からは分からないのがこの大学なんだけどさ。このミーティングの決定には拘束力がなく、最終的な決定は学部の「理事会」が下すということなのだけれど、ミーティングの最後に行う採決によって最も支持の多い案2つは理事会に報告されるという。
ミーティングでは、ホワイトボードに新しい学部名の候補が7つ(「女性学」のまま変更しないという案を含む)並べられ、参加者たちがそのうちどの案に賛成するのか、そしてその理由は何かを述べるという形で議論は進行したが、話を聞いていると早い段階において二大勢力がはっきりしてきた。最大勢力は比較的若い学生やセクシュアリティ研究プログラムの関係者を中心とした、「ジェンダー&セクシュアリティ」という言葉を入れることを主張する人たちで、現在の学部が行っている授業内容を正確に反映するためには「女性学」という名前では不十分で、ジェンダー&セクシュアリティ学という言葉を入れるべきだとかれらは主張した。それに対抗するのは「女性学」から「女性」が抹消されることを懸念する人たちで、その多くは1970年代以来ずっと女性学という学問を生み出し支えてきた世代。上野千鶴子さんが「ジェンダーフリー」じゃなくて「男女平等」でいいじゃないか、と言っていたのに似ている。
正面からぶつかるかと思われた両勢力だけれど、両者はあっさりとお互いの意見を受け入れた。「ジェンダー&セクシュアリティ」という言葉を入れたい人たちも「女性」という言葉を残す意義には同意し、「女性」という言葉を残したいという人も変化が必要なことは認めると言う。考えてみれば、「自分にとってこの語は大切なので入れてくれ」というのは言いやすいけれども、「あなたが大切にしているこの語は入れたくない」というのはお互い言いにくいわけで、このままいくと両者の意見をどちらも汲み入れた「女性、ジェンダー&セクシュアリティ学」(Women’s, Gender and Sexuality Studies)という案に落ち着くという結論が早々と見えてしまった。
ところがここで、これまで発言していなかったネイティヴアメリカンの女性がこう言う。「ジェンダーやセクシュアリティというアカデミックな用語は、自分の家族やコミュニティには通じない。ただでさえ女性学部には非白人の学生が少ないのに、ジェンダーやセクシュアリティといった言葉はネイティヴアメリカンの学生をいま以上に女性学から遠ざけてしまう。」 ところが、彼女の意見について誰も何も応答しようとしないまま、また白人女性たちによって「ジェンダー&セクシュアリティ」もしくは「女性」という語の必要性を述べる発言ばかりが続く。しばらくして、今度は黒人女性が手を上げて、「これはとても言いにくいのだけれど」と前置きしたうえで、やはり「ジェンダーやセクシュアリティという言葉を学部名に入れることは、マイノリティ学生を遠ざけることになる」と発言。しかしまた誰もそうした懸念に応えようとしないまま、議論の残り時間が5分になってしまった。
わたし自身は、どちらかといえばジェンダー理論やクィア理論をやる人間なので、個人的な好みからいえば「ジェンダー&セクシュアリティ」派に近い感覚がある。けれども、非白人の女性たちがこうして重大な懸念を表明しているのに、誰もその懸念を解消するような意見を言ったり妥協案を提示しようとせず、まるで彼女たちの発言がなかったかのようにしているのが気にかかった。白人同士の間では、「ジェンダー&セクシュアリティ」派の人も、「女性」派の人も、お互い相手の意見を尊重して、両者ともに納得できる案(女性、ジェンダー&セクシュアリティ学)を選ぼうとしているのに、非白人女性の発言だけ無視されているのはおかしい。このまま議論時間が終了し、採決を取ると、非白人女性の声が反映されないまま「女性、ジェンダー&セクシュアリティ学」という名前が圧倒的な支持を受けてしまう。
そこでわたしはこのミーティングではじめて手を上げて、次のように言った。「残り5分とのことですが、そろそろ議論も出尽くしたようなので、非白人女性だけでコーカス(グループの一部だけによる意見交換)するために残りの時間を使わせてください」。この要求を聞いた学部のえらいひとは、「そんなことはミーティングの最初に言ってくれなくちゃ困るよぉまったく、9時までにこのミーティング終わらせなくちゃ建物の管理人に怒られるし自分も9時きっかりに帰宅しなくちゃいけないから少しでも長引いたら途中で退席しなくちゃいけないしぃ…」とダラダラと言い訳がましいことを言ったあと、うさんくさいものを見るような会場全体からの視線を感じたのか、3秒ほど黙り、「本当に5分だけでいいのね」と認めてくれた。そして白人は全員部屋から退出し、発言したネイティヴアメリカンの女性と黒人女性を含む、非白人の参加者6名だけ部屋に残った。
わたしがこのコーカスを要求したのは、せっかく勇気を出して発言しても誰も耳を傾けようとしないことにイラついているだろうと思ったことと、議論中に発言しなかった非白人女性たちの意見も聞きたかったから。というのも、もともとわたしは「女性学部」という名前が特に良いとは思わないのだけれど、もしわたしを除いた非白人女性の全員あるいは大多数が「女性学部」という名前を残すべきだと言うなら、その判断に同調するつもりだった。とはいえ、彼女たちが「あんた何やってんの、コーカスなんていらねーよ」とか言って白人と一緒に退出してしまうという不安もあったのだけれど、ちゃんとみんな部屋に残って「提案してくれてありがとう」「これいいアイディアだったね」と言ってくれたので安心した。
話を聞いてみると、やはり「ジェンダー」「セクシュアリティ」という言葉は、学部に興味を抱くための文化的・階級的な敷居を高くする恐れが強い、という意見で一致した。つまり、それらの語を入れることは、非白人の学生や、貧困層出身の学生を、いままで以上に学部から遠ざけてしまうということになる。わたしも、彼女たちの懸念は正しいと思う。(もっとも、女性学の学位なんてとっても役に立たないので、学生を近づけない方がかれら自身のためである、という考え方も、間違ってはいない。けど、それをいま女性学をやっている学生や講師が主張しちゃいけないと思う。)もちろん、非白人の中にもセクシュアルマイノリティだっているけれども、そういう人たちの多くもやはり文化的・階級的な理由からジェンダーとかセクシュアリティという言葉にピンとこない人が多い。
コーカスを続けていると、5分を少し過ぎた頃にさっきのえらいひとがドアをノックしてきた。そして白人たちが再び部屋に入ってきて、すぐに採決が行われた。採決の前にコーカスから報告をしないかと言われたけれども、わたしや他の非白人の人たちは報告をしないでそのまま採決に臨ことを選んだ。もし採決前に「わたしたち非白人女性は全員が『女性学』維持に投票します」とでも発表すれば、おそらく「白人が多数派であることに開き直って、非白人女性の懸念を却下している、人種差別に鈍感だ」と思われるのを恐れて「女性学」に投票するなり、棄権する白人が出てきて、採決をひっくり返す可能性がでてくることは分かっていたけれども、そこまではやりたくない、と思ったのだ。わたし個人は女性学部の白人たちにどう思われても実害がないけれども、彼女たちは明日からもクラスメイトとして、同僚として、あるいは学生と講師という関係において、白人が大多数の環境で暮らしていかなければいけないのであり、あまりにかれらの不評を買うことは得策ではない。コーカスで他の非白人女性との連帯を確認し、ガス抜きができただけで、十分だった。
採決の結果は、一位が予想通り「女性、ジェンダー&セクシュアリティ学部」(Department of Women’s, Gender and Sexuality Studies)で、二位が非白人女性がまとまって投票した「女性学」(Department of Women’s Studies)維持。票数から見ると一位と二位の差は大きいのだけれど、ほぼ人種によって票が割れた(白人の大多数が前者に投票し、非白人の大多数が後者に投票)ことを考えると、単純に多数決で決めるのは問題。とはいえ、非白人女性の懸念を深刻に受け止める必要があるからと、大差で一番人気があった案を却下することも、またやりにくいだろう。とりあえず、理事会にまわされる「最も支持の多い案2つ」に「女性学」維持を押し込むことができたのは良かった。コーカスを開いてお互いの意思を確認していなければ、どうせ「女性学」は勝ち目がないからと他の案にばらけて投票していたかもしれないからね。
帰宅後、理事会に向けて次のような手紙を出した。まず第一に、公開の議論と言いながら、非白人女性の発言がことごとく無視されていた。第二に、彼女たちの懸念は重大かつ深刻であり、真摯に応答すべきだ。第三に、人種によって票が分かれた以上、単純に多数決で決めるべきではない。結論として、わたしは「女性学およびジェンダー&セクシュアリティ学部」(Department of Women’s Studies and Gender & Sexuality Studies)を提案するが、そうでなくても、多数派の意見を尊重しつつ、非白人女性たちの懸念にも配慮した名称を選ぶべきだ。
「女性学およびジェンダー&セクシュアリティ学部」という名前の利点は、まず「女性」「ジェンダー」「セクシュアリティ」という、多数派が望んでいる3つの語がすべて含まれていること。そして同時に、会話では短く「女性学部」と呼ぶことが可能であり、またこの学部の中に女性学とジェンダー&セクシュアリティ学が共存するという形になるので、ジェンダーやセクシュアリティという言葉にピンとこない人でも「女性学」をやりに入ってくることができる。あと、これは感覚的な問題なんだけれども、Women’s, Gender and Sexualityという並びって、「Women’s」だけが仲間ものはずれみたいで気分悪いじゃん。
というわけで、わたしはこの「女性学およびジェンダー&セクシュアリティ学部」という、人気一位と二位の候補をくっつけた名前がいいと思うのだけれど、どうしてもこの案でなければいけないというつもりもない。どのような結末になるとしても、非白人女性たちの懸念を理事の人たちがきちんと受け止めた痕跡を見せて欲しいと思う。
ところで上のコーカスの話を読んで、「すごいなあアメリカではそんなことができるのか」と思った人がいるといけないから一応言っておくと、普通そんなことしないしできませんから、誤解のないように。それができたのは、ひとえにわたしが現時点で女性学部と直接の関係を持たない「部外者」だったから言い出せたことで、さらにわたしがフェミニスト文筆家・活動家として米国フェミニズム業界である程度知られていることも無関係ではないと思う。普通の学生や非常勤講師では、とてもそんなこと言い出せないし、もし言い出したら痛い目に合う。もう一つ重要なのは、ポートランドという非白人人口の少ない町では、白人中流階層リベラルたちのあいだでは「人種差別はいけない」という価値感だけ広く共有されている割には、現実に人種差別をしてしまったり抗議されたりと非白人とあれこれやりあった経験が少なく、人種差別者だと名指しされることに必要以上に極端に怯えている人が多いという点。そうした条件が重なって、最後の五分で突然コーカスを要求という反則技が決まったのであって、普通そういうことは起きないし、今回のミーティングに来ていた人も驚いたはず。というわけで、あんまり一般的にそういうことが起こると思わないでください。

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