発達障害のあるアーティストによるドラァグショー報告/社会参加支援の一つの試みとして
2010年1月25日 - 11:15 PM | |前エントリに続き、最近のシゴト報告。こんどは、今月11日に行われた発達障害者とその他のゲストによるドラァグショーについて。わたしの最近のさまざまな活動をガチ報告するという趣旨のこの「わたしの最近のシゴト」シリーズだけれど、本当に「お仕事」として給料を受け取っているのはこの件だけだったりする。てゆーかわたしのブログの読者でもわたしがいまどういう仕事をしているのか知らない人が多いと思うので(よく大学の教員だと思われるけど、そのキャリアコースからはとっくに脱落しました…と打ち明けたら小谷野敦さんがなんだか珍しく優しかったなw)説明すると、発達障害のある人たちを支援する非営利団体でごちゃごちゃ雑務をやってます。というのも2008年の終わり頃にわたしの友人というかハウスメイトがその団体の代表に就任したのだけれど、前の代表がダメな人で、銀行口座の残額ほとんどゼロで借金100万円近くみたいな状態で引き継いでしまったので、立て直すために呼ばれたのがはじまり。オフィシャルな役職は「ボランティアのマネージメント係」という弱小ポジションだけれど、実は代表の相談役も務める特務スタッフ、みたいな。
この団体が提供するサービスは大きく分けると3つあり、第一に、発達障害のあるクライアントたちのお金の管理支援。第二に、社会参加訓練のためのグループ活動。最後が、職業訓練。発達障害といってもさまざまな程度があるけれども、うちの団体のサービスを受けているのは、一人でアパートに住んでいたり、家族や知人とともに住んでいても一人で外出できるなど、比較的自立度の高い人たち。オレゴン州はディレクトペイメントの制度を導入しており、サービス支給該当者にはそれぞれ決められた額のサービス購入費が割り当てられ、各自自分のニーズに合ったサービス提供者を選んでサービス契約を結ぶようになっている。以前書いたことがあるように、実際には本人ではなく家族が選んでいたり、サービス提供者側の問題もあったりで、理想的な制度ではないのだけれど、とりあえず個人がより自分に必要なものを選べるように工夫された制度ではある。
うちの団体は、わたしやわたしのハウスメイト(かのポートランドステート大学女性学部卒)が働いていることも関係して、他の団体より特に障害者運動やその他の社会的・経済的公正を求める運動の影響を受けていることが特徴になっている。たとえば金銭管理のサービスでは、他の団体は文字通りクライアントの銀行口座を管理して、クライアントが家賃や公共料金の請求書などを持っていけば勝手に払ってくれる、という形で運営しているが、わたしたちの団体はこれとは違い、クライアントと一緒に週間予算・月間予算を決め、請求書などへの支払いもクライアントが小切手に署名するのを見届ける、という方式を取っている。こうした方式を取ることで、クライアントは自分がどれだけのお金を(主に社会保障から受け取って)持っているのか、どういった用途にどれだけ使っているのかを把握することができるし、欲しいものを買うためにはどこをどれだけ我慢すればいいのかみたいなことも判断できるようになる。そうするうちに金銭管理の方法を学ぶことができるので、中にはプログラムを「卒業」して自分のお金を完全に自分で管理することもできるようになる人もいる。こうしたサービスを行っているのは、ポートランド地域ではうちの団体だけだ。
社会参加プログラムは、もともとはソーシャルワーカーがクライアントと一対一で付き添って、映画やボーリングに行くなり公園を散歩するなりの活動を支援することで、社会に溶け込めるようにする、というものだが、実際には初めから最後までソーシャルワーカーに頼り切り、またソーシャルワーカー以外の人と交流することもなく、社会にちっとも溶け込むことができないというのが常態だった。そこでうちの団体ではグループ活動としてクライアントを多数集め、そこにボランティアの人たちを何人も投入することで、他のクライアントやボランティアとの交流を通して、社会参加に必要な対人能力、コミュニケーション能力をつけてもらおう、という活動をやっている。ここではボランティアはソーシャルワーカーの真似事をする代わりに、クライアントと対等な一人のコミュニティメンバーとして、一般社会からの代表としてクライアントと触れ合うことになる。職員とクライアントという特殊な関係に適応させるのではなく、職員は職員で支援が必要な場合に出てくるけれども、クライアントにとってもっとも価値があるのは他のクライアントやボランティアなど「ソーシャルワーカー以外」との交流だというのが、わたしたちの考えだ。ってまあそこまで理論武装したのはわたしだけれども、活動そのものはわたしが加わる以前からそんな感じだった。
この考え方は、実のところ政府の考え方とかなり違っていて、おかげでサービス料金の支払いをめぐって政府との衝突が絶えない。政府の考えは、というより制度が前提としているのは、クライアントにとっての価値はソーシャルワーカーが独占的に所有していて、ソーシャルワーカーがクライアントに常に目を配り手を取ってあれこれ助けることが、サービスであるという考え方だ。この考え方の元では、グループで活動は一対一のサービスに比べて、スタッフによるサービスが少ないので価値が低く、もう一人クライアントを追加するたびにクライアント一人当たりが享受できる価値はどんどん目減りしていくことになる。それに対しわたしたちは、クライアント同士あるいはクライアントとボランティアのあいだで行われるコミュニケーションの試行錯誤こそが価値の源泉であり、スタッフの主な役割は、そうした試行錯誤が円滑に行われる環境を整備することと、何か問題が起きた時や特に支援が必要なときに必要な対処を取ることだと考えている。この考えに基づくならば、クライアントを一人追加することは必ずしも一人ひとりが受け取る価値を減らすことにはならず、むしろ逆にさらにさまざまなコミュニケーションと関係構築の機会が増えると考えられる。
要するに、スタッフの注意という限られたパイをクライアント全員で切り分けていると考えるか、スタッフだけでなくクライアントやボランティア一人ひとりが一皿ずつ料理を持ち寄っていると考えるかという違いだが、わたしはソーシャルワーカーだけが価値の源泉であるという考え方は傲慢だと思う。一人のクライアントに一人のスタッフが付き添ってサポートするという形のサービスが必要な人もいるだろうけれども、わたしたちの団体がやっているようなサポートの方がいいという人も大勢いる。もし仮に、わたしたちのサービスがクライアントたちにとって価値のないものであれば、かれらはあっという間に契約を打ち切って他の団体に流れるだけだしね。
クライアントを一人の大人として扱う考え方を徹底するのもうちの団体の特徴で、とくに発達障害のある(成人の)息子や娘の性の問題の扱いに困った親やそのソーシャルワーカーらから相談を受けたり、クライアントを紹介されたりすることが多い。相手が高校生だろうと親戚のおばさんだろうと気にせず「セックスしよう」と呼びかける男性だとか(もしそれに応じる女子高生でもいたら、犯罪者になってしまう)、逆に男性からセックスしたいと言われると断ることを知らない(断ることが「できない」のではなく、断ってもいいということが分からない)女性など、発達障害者の性をめぐっては困難が多い。と同時に、そういった危険を避けようと、必要以上に性について発達障害者の息子や娘が話たり考えたりするのをタブーとして扱ったり、大人として普通に性的な関係を求めたり性的欲求を満たそうとすることを否定しようとしたりする親やソーシャルワーカーも少なくないが、「発達障害者の性」を見て見ぬふりしたところで解決にはならないのが明らかだ。
その中でも特に大変なのは、ゲイやレズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーなど性的少数者の発達障害者だ。発達障害のある人たちは、性的主体であること自体すら否定されがちなのに、さらに性的少数者であるという可能性は、ほとんどの親やソーシャルワーカーは考えもしない。米国では、未成年の性的少数者の人たちが家族にカミングアウトしたところ家から追い出された、ということが少なくないが、発達障害のある性的少数者にとって、家から追い出されればグループホームのような施設以外に行くところがない場合が多い(そしてそれらの施設もかれらのセクシュアリティを肯定してはくれない)。だから自分が同性愛者だと気づいても、それをカミングアウトすることは、発達障害のないゲイたちにはなかなか理解できないくらいに困難だ。
ところがうちの団体は、「さまざまなセクシュアリティのクライアントを受け入れ、うまく支援している」ことが業界内で知られるようになったのか、あるいは単に扱いが面倒な性的少数者をまとめて引きとってくれる団体として重宝されるようになったのか分からないが、最近の数カ月に新たに紹介されてくるクライアントの半分以上が性的少数者という状態になっている。こんなに需要があるのであれば、発達障害者のある性的少数者のグループを新たに作ろう、その創設イベントとしてドラァグショーでも開こう、という会話をしだしたのが、4ヶ月ほど前。そこから話が急に進み、というかわたしが中心となって進めて、速くも今月そのドラァグショー開催にこぎつけた。
ドラァグショーに出たのは、発達障害者10人に加え、ゲストで参加してくれた地元のドラァグクィーン3人、そして日本から遊びに来たスペシャルゲスト・まさきくんとそのお母さんのユニット。クライアントたちの大多数は観客の前でのパフォーマンスなんて生まれて初めてのことだし、全員集まってのリハーサルを一回しか行えなかったように練習も不十分。パフォーマンスに参加した人の全員が性的少数者というわけではないけれど、多くはそうで、家族に対してカミングアウトしていない人も何人かいるのに、みんな力いっぱいパフォーマンスして、超満員の観客(あまりに来場者が多かったために、20人くらい入れなかった)を湧かせてくれた。関係者以外の客はひやかしに来るんじゃないかとか、ドラァグ初挑戦のクライアントたちのパフォーマンスを嘲笑する人がいるんじゃないかとかいろいろ心配したけれども、とにかく観客とパフォーマーの一体感がすごくて、まったく杞憂だった。多くの人が口々に、これまで見た中で最高のドラァグショーだったと言ってくれた。
一番感激していたのは、わたしの同僚のスタッフたちだったと思う。自立支援と言えば響きはいいけれども、日頃から頻繁にクライアントと向きあってさまざまな活動をしていると、かれらの成長や自立確立に気づくことがなかなかない。むしろなんど同じことを言っても理解してもらえなかったり、同じ間違いを何度も繰り返したりで、徒労感を感じることの方が多いくらいだ。でもこの日ドラァグショーに出演したクライアントたちは、ほんの6ヶ月前、1年前、2年前くらいには、自分のセクシュアリティを恥ずかしがっていたり、罪悪感のあまり被虐的になっていたり、同性愛者だとばれないためにスタッフにいもしないボーイフレンドやガールフレンドの話をしていたり、カミングアウトすると何が起きるか怯えていたのに、いまこうして目の前で堂々と観客の注目を浴びてパフォーマンスをしているのだから。
また、性的少数者ではないクライアントたちには、同性愛者やトランスジェンダーなどにかなり酷い偏見を持っている人が少なくないのだけれど、グループ活動に一緒に参加している性的少数者のクライアントとふれあうことで、かなりホモフォビアやトランスフォビアが中和されてきたのも事実。この日も、ほんの1年前であれば「同性愛者なんて汚らわしい」と決めつけてとてもドラァグショーなんて来なかったであろうクライアントが、仲間のパフォーマンスを見て一番前の席から声援を送っていた。これもまた、クライアント同士、あるいはクライアントとボランティアのコミュニケーションと関係構築を中心に据えたグループ活動プログラムの成果と言えると思う。
LGBTグループは来月から活動開始するが、とりあえずの予定には自助グループのようなものを実施しながら、たまにはゲイバーやその他のイベントに出かけたり、プライドパレードに参加することと(性的少数者ではない人も巻き込んで、団体として行進したい——性的少数者だけの活動も必要だけれど、それ以外の仲間も一緒にやれるイベントも必要)、二回目のドラァグショーを企画することも含まれる。ドラァグに関しては、ユニットとして売り込んで、障害者運動やクィアコミュニティのイベントにパフォーマーとして呼んでもらうのを狙うというアイディアもある。ドラァグショーの成功で、そうした活動をするための資金もかなり稼いだ。わたしにとっても、こういう楽しい企画を仕事としてできるというのは嬉しいし、そうした活動を通してますます発達障害のある性的少数者たちの社会参加が進めばいいと思う。
2010/01/26 - 16:59:23 -
私は普段から出演者やボランティア、スタッフと交流を持っているわけではないから厳密なことは何も言えないけれど、 macska さん同様にボクもショーは大成功だったと思う。舞台袖で他の出演者たちといっぱいいっぱい話したのだけれど、みんなすごく緊張して、でもすごくわくわくして順番を待っていたし、ステージに上がったらしっかりと、でも同時に本人もすごく楽しそうに演技をしていた。終わって袖に戻って来てもまだ興奮が冷めず、すごく嬉しそうにみんなとキャーキャー騒ぐ (笑)という。
今回の旅行はこれまでに行った旅行の中でベストでした〜! あなたにも、このイベントに関わってくれた全ての人にも、本当に感謝。第2弾、時期がよかったら行くわ〜ほほほ。
2010/05/31 - 06:09:01 -
こんばんは♪ 久しぶりにのぞかせていただきました。お元気そうで何よりです。
いろいろご迷惑をかけた頃からだいぶ時間をとったので、まあ、すこしはいいかなあ・・・?と。(^^;
今の仕事柄、発達障害の子どもさんをもった親ごさん同士が当事者となられた紛争にかかわることがたまにあります。発達障害といってもさまざまなので、こういったショーに参加できる人たちは「自己実現」(といっていいのかな?)ができるようになるんですから、すごいですよね。
そういうイベンができる下地はまだ日本にはないんでしょうね・・・。