しがらみも責任もないからこそ、言えることもある、という話/kgrさんへ
2009年12月24日 - 5:41 AM | |「チャレンジド」の話題でブログを再開し、続いて在日特権を許さない市民の会(在特会)による朝鮮学校に対する攻撃とそれに対する(主に日本人の)抵抗について取り上げたが、もちろん「挑戦」(チャレンジ)と「朝鮮」をかけているわけではない(って誰もそんなこと思わないって)。某秘密主義メーリングリストの中で、「在特会がどれだけ悪い奴らなのかお前はわかっていない、本来なら差別思想は警察が取り締まるべきだ」みたいなことを言う人たちと、たった一人で不毛な議論をしたのちに、いきなり公開のブログでわたしに対する批判記事が出て、それなら公開の話で反論してやろうと思ったの結果が前エントリだった。
とはいえ、これだけ長い間停止状態だったブログでひっそり書いても、知り合いくらいしか読まないかなぁと思っていたのだけれど、思った以上にブックマークやtwitterなんかで反響を集めてしまって、まあその過半数は基本的にいつものように議論をおそろしいくらい単純化して分かった気になってる(そのうえでわたしに賛成する人と、反対する人の両方いる)なんだけれども、いわゆるはてなサヨク勢力のみなさんからは、総攻撃を受けた感じ。常野さんの革命が実現したら、わたしだけじゃなくてわたしの友人まで含めて粛清されちゃうみたいだし。でもメーリングリスト内での(あるいはその延長の伊田さんによる)おかしな非難に比べて、きちんとわたしが言っていることを理解したうえでの批判には、いろいろ学んだり考えさせられたりすることがあった。
問題となった集会の当日、集会が妨害されないようにボランティアとして「自主的な警備」に参加したkgrさんは、前記事のコメント欄にて次のように教えてくださいました。
macskaさんの反排外主義が排外主義に転じてしまうことに対する危惧は僕も共有しているつもりです。また、前田さんの書き方というかテンションというか、悪の在特会を警察と協力して正義が「殲滅した」みたいな風に読めてしまったとしたら大変残念です。ただ、「「反在特会」側が安易に警察に頼り、法に頼り、敵対者を排除・殲滅しよう」したというのは現場にいた僕の認識では大きく事実と異なります。 (略) 括弧付きであっても「反在特会側」として、上のような内容のことを書いたらあそこにいた人々をひとまとめに排外主義的だと規定しているように読めます。
前田さんや、その他主催者や関係者の方の多くが、わたしの批判が当てはまるような、在特会だけを悪者として排除すれば良いというような意識の持ち主ではなかった、ということは、このkgrさんのコメントや、ひびのまことさん、その他の方の報告を読んで、理解しました。「反在特会側」をひとまとめにしてしまっているように読めるのは、書き方に注意が足りなかったと思います。すみませんでした。
実は、事後の報告を読むまでもなく、事前に回ってきた集会の案内を読んだ時点で、この集会の主催者たちは在特会を特異な存在として切り捨てるのではなく、わたしたちみんなが支え、加担してしまっている日本の民族政策——とは名付けられていないけれども、そう名付ける必要すらないほどに「自然なもの」として大多数の人々に受け入れられてしまっている、日本人中心主義のこと)を問題視し、在特会の存在や行動はその一つの表れであると捉えている、という認識は持っていました。それだけに、集会が終わったあとの報告を読んで、「話が違うではないか」と驚いたのです。
で、もう少し背景を説明すると、このときわたしが読んだのは、前田さんが公開MLであるCMLに送った報告そのものではなく、その報告が某秘密主義MLに転送されたものだったのだけれど、その際転送者によってタイトルが(元は単に「[集会報告と御礼]12・19緊急報告会 民族差別を許すな! 京都朝鮮学校襲撃事件を問う」だったのが)「在特会の妄動を見事に撃退しました」と改題され、さらに、在特会などの右翼は「民衆」が連帯して警察に取り締まりを要請すれば撃退できる、この教訓を広く共有しよう、という紹介文が追加されていました。それ以外の教訓や集会の内容については、転送者はまったく何も書いていませんでした。
そういう「前文」に続いて前田さんの報告を読んだことで、紹介者の私見や思想と前田さんのそれを一続きのものとして読んでしまったということはあると思います。また、前田さんの報告自体、約2600字の報告のうち、集会の内容に関する報告は400字以下、全体の15%にもならない量で、警察や警備に関する内容が60%以上というように、「在特会の妨害をどう止めたか」ばかりが目立報告になっていました。報告の最後でも、
人種主義、人種差別、排外主義は、被害者に対しては異様に攻撃的な形で現象しますが、実は、人間の弱さの現われでもあります。他者を侮蔑し、貶め、辱めることによって、自分の優位を確認したがるメンタリティは、おそらく多くの人々の中に潜んでいるのかもしれません。在特会のような異常な犯罪集団による扇動が一定の効果を持つのもそのためでしょう。こうした「病」を放置しておくと、あっという間に社会に広がるかもしれません。人種差別の蔓延を防ぐために、適時に的確に声をあげていくことが大切です。
というように書かれていて、ここでは確かに「問題は在特会だけではない」という意識があるのは分かります。しかしここで「人間の弱さ」のような普遍的なものを挙げられても、日本における「日本人中心主義」をどう正すのか、あるいはひびのさんの言うようにもっと身近に「朝鮮学校をどうやって守るのか」という課題を掲げるにしても、前田さんの総括は物足りなさすぎると思うのです。在特会やその他の差別主義団体の行動に適時声を上げていくことが大切である、というのは当たり前のこととして、それでは明らかに不十分でしょう。
また、在特会のことを「異常な犯罪集団」「病」と表記し、それに対し自分たちのことを「市民」と規定したうえで、警察は「万全の警備」と「よく統制され」た「見事な体制」によって「暴力集団」の「違法活動」を「監視」し、自分たち「市民の安全」をよく守ってくれた、という記述は、わたしが懸念を感じるのに十分なものでした。
また、前田さんは、CMLに投稿された別の記事でも、集会中止を訴える在特会が門前払いされたことを、「本当に馬鹿な人たちです。前日に押しかけて事務所で怒鳴りまくり騒いだために、こんながさつで、愚劣な人間の言うことを聞く必要がないとバレてしまったことに、まったく気づいていません」と書いています。在特会は馬鹿でがさつで愚劣であるということに特に異論はないですが、「馬鹿だから、がさつだから、愚劣だから、押しかけて騒ぐから」、そういった相手の話など聞く必要がない、というような論理は、さまざまな差別や迫害を受けている人が声を挙げたときに、それを黙らせるために使われてきたものだと思うので、とても抵抗感があります。
前田さん自身は、もちろん、在特会だけを「自分たち日本社会」から切り離して非難したり排除するだけで済む問題ではない、ということを、しっかり理解されていると思います。警察がしばしば在日コリアンの運動や生活を叩き、「日本人中心主義」を強化する役割を担ってきたことも、わたしが言うまでもなく、当たり前に意識しているでしょう。報告に集会の内容ではなく警備の話ばかりが書かれていたのは、まさに主催者の一人として警察や施設の警備員やボランティア自警団との連絡やその他の仕事で忙しく動き回っていたために、自分以外の発言者の話をじっくり聞くことができなかったからであろうと思いますし、無事に集会が行われるか心配している全国の支持者に対して、「とりあえず、集会は行うことができました」と報告したかったという動機もあったかもしれません。また、これからも警察と批判的に関わりつつ、時には在特会のような団体から人々を守るために協力していかなければいけない、そのためには当日の警察の動きを褒めるなどして、一見手放しで警察を信頼・歓迎しているような表現をするのも、仕方がない部分があります。
これくらいのことは、わたしだって分かっています。というのも、わたしも同じ経験をしているからです。インターセックス医療について医者と議論する時や、売春者に対する支援を市にかけあう時など、わたしが本当に言いたいことを我慢して、そのかわり少しでも物事を好転させるために「いまわたしが言うことで、なにかを変えられるかもしれないこと」を言うということは、よくあります。前田さんも、もしかすると直接会って本音で話しあえば、多少は意見が違うところがあったとしても、ここ数日の間にかれの発言を読んで感じたような不快感や不信感は、感じなくなるのかもしれません。
それは分かるんですが、相手の立場やおかれた状況から、「ああ言わざるをえないんだよなあ」ということが分かったとしても、それで黙ってしまっていいのだろうか、という疑問がわたしにはあります。たとえば、以前保守的な価値観に訴えるかたちで、夫婦別姓選択制を求める団体の関係者と議論したときは(あれも某秘密主義MLだったな)、相手の人からはっきりと「あなたの言うことはわかっている、でも自分たちは自民党の政治家たちに夫婦別姓の利点を納得してもらうために行動しているのだから(つまり、本当に保守的な価値観を肯定しているわけではないから)批判してくれるな」みたいに言われたのですが、そんなことを言われても黙るわけにはいかないでしょう。皇帝ルルーシュとしてゼロレクイエムをやるつもりなら、せめて仮面をかぶりつづけてくれよと思います。
何が言いたいのかというと、前田さんが立場上、あるいは戦略上、熟考したうえでああいう文章を書いたというのであったら、わたしはそれを認めるしかないけれども、だったらわたしが立場上、あるいは戦略上、そうした前田さんの戦略に気がつかないかのように批判を寄せることも認めてください、と。しがらみも責任もないからこそ言えること、言っておくべきことというのも、時にはあるとおもうのです。第一、たくさんの人が「前田さんがああ言うのは立場上分かるし自分でもそうするから文句は言えないけど、なんだか気分悪い」と思い続けるのも、良いことじゃないでしょ?
もちろん、わたしが「何か言うべきだ」と思う一番の理由は、前田さんが立場上やむを得ないという形で書いている言葉が、多くの読者にベタに受け取られて、それが前田さんの意図しないかたちで警察権力の膨張を支え、あるいは「悪い奴や邪魔者は排除する」という考え方を増長させ、めぐりめぐって在日コリアンを含む在日外国人たちをさらに迫害することに繋がる危険があるからです。というより、某秘密主義MLにおけるわたしへの反論や批判を見る限り、「在特会はこんなに酷い犯罪集団であり、警察はかれらを逮捕すべき」みたいに前田さんの文章をそのまま、あるいはさらに単純化させて受け取っている読者が少なくないことは容易に想像がつきます。それに、誰かがくさびを打ち込まなくちゃいけない。前田さんには気の毒だけれども、誰も何も言わないよりは、言った方がいい。そう思います。メーリングリストの中で、あるいはブックマークやその他の場所で、弊害は出てきているわけですから。(と同時に、ブクマから判断するに、わたしのエントリからも弊害が出ているようなので、それはこれから対処します。)
kgrさんは、さらにこのように書いています。
前田さん個人や他の参加者について、私はよく存じ上げていませんが、確かに警察に安易に協力を要請した嫌いはありますが、少なくとも今回の事例に限っては、彼や私やその他の参加者が在特会を殲滅しようとはしていないと断言できます。もちろん、「殲滅」の意味にもよりますけど、「酷い連中は、法を侵害する連中は、どんな扱いを受けても仕方がない」というような行為はしていません。前田さん個人は、ヘイトスピーチを犯罪化すべきとお考えのようですし、「市民」という言葉の使い方が微妙だというのもわかりますが、どんな扱いを受けても仕方がないと考えているとまでは読み取れないなあ、と当日起きたことを鑑みるとと思います。
(略)
ただ、私たちが彼らを殲滅しようとしたという風に評価なさるのであれば、また、反オウム市民活動や在特会自体と同質だとされるのであれば、それには全く同意できません。
えっと、これは難しいなあ。確かに、在特会とまったく同じではないでしょうし、かれらが在日コリアンに対して要求していること(日本から出て行け)に比べれば、集会の会場に入るなというのは、規模や深刻度がまったく違う行為です。にもかかわらず同質だとわたしが思ったのは、単に警察に頼ったこととか、在特会のメンバーを排除したこととか、そういう行為のレベルではありません。そうした行為を手放しで正当化し、それどころか今回学んだ「教訓」として広く伝えるべきだというような、ためらいのなさ、歯止めのなさが、わたしはとても心配なのです。
もちろん、今回の集会の主催者や関係者の方たちは、安易に警察の警備を要請し、在特会メンバーの排除を決めたわけではないのでしょう。かれらが問題点やリスクをよく考えたうえで、苦渋の決断としてそうした行為を取ったことは、前エントリを書いた時点では確信がなかったのですが、いまでははっきりと分かります(教えてくださったみなさま、ありがとうございました)。でも、少なくとも某秘密主義メーリングリスト内での反応からは、そうした苦渋が「在特会を撃退した!」と喜び勇む、多くの人たちのあいだでは、共有されていないと思います(かれらが集会に参加した人なのかどうかは分かりません)。そういう人が少なからず発生することがわかっているのに、あのような報告によってそれにお墨付きを与えてしまったという意味では、やはり主催者側にとって反省材料ではないかと思います。
もちろん、そんなことはわたしなどに言われなくても自覚している人もたくさんいるでしょうし、実際に議論もされているかもしれませんが、わたしを含め外部にはそんな問題があると考えたこともないような人だって大勢いるので、仮に内部で既に議論されていて対処がとられつつあるのだとしても、外部は外部でそういう議論を公に放つことに意味はあると思います。
2009/12/25 - 21:33:53 -
レス、ありがとうございます。macskaさんが、主催者の報告、あるいはシンパの転送の仕方からまるで在特会を撃退することが最大の目的になっているように受け取られたこと、そして、その結果、自らも荷担しているはずの空気のような日本人中心主義の醸成が等閑視されているように受け取られたこと、にもかかわらず、あくまで自らを正しい市民と位置づけていることが反オウム市民活動と同質ではないかと感じられたこと、よく理解できました。
在特会に反対していく活動がいわゆる日本人にとって楽しいものになってしまっている、というのは
思い当たる節があります。ひびのさんが指摘されるような、macskaさんの空気のような日本人中心主義批判も甘美な反省に回収されてしまうという点も含め、今回のやりとりを当日参加していた友人達とシェアしようと思っています。
なんか優等生的なコメントで自分でもちょっと気持ち悪いですが、お返事させていただきます。