自由市場は「統計型差別」を解決できるのか/苺畑カカシさんへ2

2008年2月24日 - 5:52 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前回書いたエントリへの返答を苺畑カカシさんから早速いただいた。わたしは彼女のブログを定期的にチェックしているわけではないので前回自分について書かれていることにしばらく気付かなかったのだけれど、カカシさんは即座に反応してくださったようだ。内容を読むと、これまでに比べて多少まともな議論になっている(少なくとも、こちらの主張が何かということをある程度理解したうえで反論してくださっているーーただし、わたしの論理のどこがおかしいのか指摘しようともせず、ただ自分はこう思うと言うだけだが)ようで、今後もその調子でお願いしたいところだ。わたしがリベラルを名乗るのは、ただ単にリベラルな政治思想を主張しているというだけでなくて、異なる意見の持ち主が議論を通じてより良いアイディアを出していくというプロセスを大切にするというところまで含めてのことなので、まともに議論ができるというのはすごく大事だと思う。
というわけで、カカシさんの反論をみてみよう。まずは彼女が自分の意見を一言でまとめて表明している部分。

私は何度も差別をなくす法律など存在しないと主張してきた。差別をなくすためには差別主義の法律を取り除くことによって、後は市場に任せ、なるべく政府が介入しないことが一番いいことなのだと私は信じている
http://biglizards.net/strawberryblog/archives/2008/02/post_659.html

反論をする前に一応確認しておきたいのだけれど、わたしは必ずしも差別をなくすための最も良い方法は法律を通すことだとは思っていない。例えば別ブログのエントリ「『負のインセンティヴ・スパイラル』実験と、良いアファーマティヴアクションのあり方」において、「負のインセンティヴ・スパイラル」を止めるためにある種の奨学金が有効かもしれない、という提案をしているが、その奨学金を民間で作って運営するということは可能だろう。民間によってできることは「なるべく」政府が介入しない方が良いというところまでは、わたしはカカシさんに同意する。しかしそれはあくまで「なるべく」の話であって、政府の役割が全く皆無であるとは考えない。
さらに誤解がないように付け加えると、カカシさんのこのエントリには「人権擁護法など必要ない。差別は自由市場が解決する。」というタイトルがついているけれども、わたしは人権擁護法という特定の法案の是非を論じてはいない。市場に任せているだけでは解決しない差別問題も存在し、何らかの(政府もしくは民間による)対策を考える必要があるかもしれない、という一般論を述べているだけだ。この対策には、例えば1964年公民権法のようなものも含まれる。
それだけ確認したうえで、カカシさんの議論をたどってみる。

要するにだ、自分が嫌いな人間とはつきあいたくないという嗜好による差別は不経済なので、いずれは自由市場が解決してくれるが、ある種の人間は統計的に見て劣っているという偏見は市場では解決できないという意味。
[…]
先ずここで考えなければならないのは、エミちゃんのいう「統計的な差別」の元になっている統計が事実であった場合、雇用主が対象の集団を差別する権利は認められるべきだということだ。もしも女性が早期退職するという傾向が事実だった場合、すぐやめる人を訓練するのは不経済だから雇いたくないと考える雇用主の意志は尊重されるべきだとカカシは考える。

この反応には驚いたのだけれど、カカシさんはこの例に限らず「統計型差別」一般を全て「雇用主の権利」として尊重するのだろうか。「統計型差別」のほかの例として、次のようなケースについても考えて欲しい。
1)ラティーノやアジア系の人には、白人に比べて英語の発音に訛りがあったり語彙が少ない人の割合が多い。業務には電話による顧客とのカスタマーサービスが含まれるのだが、履歴書の名前がラティーノやアジア系の求職者を、名前だけを理由に書類段階で拒絶しても良いかどうか。
2)ある企業では、クリスマスなどキリスト教の重要な祝日は社員が集まらないので会社自体を休業しているのだが、ユダヤ教徒はそれとは別にユダヤ教の祝日に休みを取ることがある。営業日に個人の宗教を理由に休まれては業務に差し障りがあるので、(実際に休むかどうかは分からなくても)ユダヤ教徒の求職者を一律採用しないことにしても良いかどうか。
3)大学の評判は卒業生が将来どれだけ成功するかによって決まり、また卒業生がより成功すれば入学希望者が増えるだけでなく、卒業生からの寄附金をより多く集めることができるので、社会に出た卒業生が活躍することを歓迎する。しかし現実社会にはいまだに差別があるし、女性は結婚・出産等によってキャリアコースを外れる割合が高いので、できるだけ男性を多く卒業させることが大学の利益にかなうことになる。ある有名私立大学は、入学審査及び学業の採点において、男性に甘い点を付けることにしたのだが、そうした戦略は尊重されるべきかどうか。
4)あるバーでは、同じ時間で黒人の客が一人あたり使う金額は白人の客が使う金額よりかなり少ない。従って、店が込んでいるときに黒人の客がたくさん入っていると、その日の収益に悪い影響が出る。バーの経営者は、いっそ店を白人専用にして「ホワイト・オンリー」と書かれた看板を掲げたいと考えたのだが、その意志は尊重されるべきかどうか。
これらはもちろん極端な例だけれど、非現実的なわけではない。名前による差別の存在は実証的な研究で判明しているし、有名私立大学における女性差別的な入学審査は広く知られている。最も極端と思える最後のものも、セントルイスでバーを経営している友人から受けた相談を元にしている。
繰り返すように、わたしはこれらの事態において常に政府の介入が必要だとは考えていない。例えば最後の例なら、いまどき白人客だってそんな差別的な店には入りたくないだろうし、多くの人がボイコットすれば方針を変えざるをえない方向に経営陣は追い込まれるだろう。でも、1964年公民権法が施行される前後の米国では、少なくない白人がこうした差別を間違っているとも恥ずかしいとも考えていなかったわけで、民間に任せていれば解決したとは到底思えない。基本的に政府の介入は少ない方が良いけれども、必要な場合もあるとわたしは思うわけ。
しかしカカシさんは、あくまで市場が解決してくれると言う。

もちろん、女性だからといって誰もが早期退職をするわけではない。女性でも長期就職を望んでいるひとはいくらでもいる。それが単に傾向だけで判断されるのは不公正だというエミちゃんのいい分は理解できる。しかしながら、私はこういう統計的な差別もいずれは自由市場が解決すると考える。何故ならば、どの経営者も全く同じ動機で従業員を雇うとは限らないからだ。
新しい零細企業で企業自体がどれだけ長持ちするか分からないようなところなら、短期でもいいから有能な人を安く雇いたいと思うかもしれない。そういう雇用主なら若い女性を雇うことは多いにありうる。または子育てを終わらせて長期にわたってできる仕事をさがしている中高年の女性なら結婚妊娠による退職の恐れがないため雇われる可能性は高くなる。年齢差別でスーパーのパートのおばさんくらいでしか雇ってもらえない中高年の女性は多少給料が安くてもこうした企業での就職を歓迎するだろう。

さて、この説明を読んでもどのように統計型差別が「解決」されるというのか分からない。「選好による差別」が市場によって解決されるという時、それは「有能な人材を黒人だからとか女性だからといって雇わない企業は、他の企業にそれらの人材を取られて競争に負け、市場から撤退するから、長期的には差別はなくなっていく」という意味だった(もちろんその「長期的」というのは、in the long run, we’re all dead という言葉を思い出すけどね)。つまり、ここでいう「解決」とは、今は差別があったとしても、いずれなくなるという意味であったはずだ。しかし統計型差別を「自由市場が解決する」と言うとき、カカシさんは別の意味で「解決」という言葉を使っているように見える。
「新しい零細企業で企業自体がどれだけ長持ちするか分からないようなところなら、短期でもいいから有能な人を安く雇いたいと思うかもしれない」というのは、将来いつかの時点で差別がなくなるという話ではない。本来ならより安定した職について高い給料を貰える(あるいは、将来の昇給が期待できる)地位に付く実力のある人が、女性であるというだけの理由で、より不安定で安い地位で使い捨てられ、また中高年になってから安い賃金で雇われると言っているのだ。いったいそのどこが「解決」なのだろうか。
前回のエントリでも書いたのだけれど、差別が問題なのは、差別された側が不安定な仕事しか就けなかったり、安い賃金しか得られないことだけではない。長期的に見てより問題なのは、いくら頑張ってみても結局努力に見合うほどには報われないのだからはじめから努力しない方が得だという意識を植え付けることによって、頑張って自分の生産性を向上させるインセンティヴを損なうことだ。例えば、せっかく専門的な知識や技能を身に付けても、「女性は早期退社する可能性が高いから、重要な経験を積める任務や将来の出世に繋がる任務は任せないで、適当に雑務をやらせておこう」みたいな扱いを受けてしまうのでは、知識や技能を身につけるためのコストを払った意味がない。コストをかけても元が取れないのであれば、はじめからコストはかけずに淡々と雑務をやっていた方がマシという考え方にどうしてもなってしまう。そしてもし多くの女性がそう行動したとしたら、雇用主はなおさら重要な任務は女性には任せられないと考えるようになるだろう。
カカシさんの言う「解決」は、長期的には差別がなくなるという意味ではなく、逆によりみんなが差別に適応して、男女がそれぞれ与えられた性役割分担を淡々とこなす(それに抗っても損するだけ)ようになることのことじゃないんだろうか。そういう価値観を主張するのは自由だが、それは個人主義とも機会平等を前提とした自由競争とも相容れない考え方だ。
市場が解決した例としてカカシさんはスチュワーデスの例を挙げるけれども、なんだかおかしい。

最近の旅客機や銀行で働く女性の容姿や年齢層をみてみれば、20年や30年前とはかなり違うことに気付かれた人は多いはずだ。昔は容姿端麗で妙齢の女性だけしか雇わなかった航空会社や銀行だが、最近のスチュワーデス(最近は機内乗務員と呼ぶのかな?)にはかなり昔は美人だったかもしれないといった風の人が結構多い。これは無論ある程度歳のいった従業員が解雇された時に年齢差別を理由に訴訟を起こしたりしたことが直接の原因だったといえばそうかもしれないが、安い航空運賃を競い合って航空会社同士の競争が激しくなるにつれ、若くて美人の女性ばかりを雇う余裕が経営者にはなくなってきたということのほうが現実だ。

この主張が正しいならば、スチュワーデスの給料は若くて美人の女性が最も高くて、年齢を重ねると減給されていることになるけれど、もちろんそんなことはない。ベテランスチュワーデスの給料は(労組の働きもあって)比較的高く、特に航空運賃の安いディスカウント系航空会社において近年採用された若い人ほどパートタイムだったり派遣社員だったりして待遇が悪い。その背景にはもちろんカカシさんの言うような航空業界の過当競争や、旅客機使用の一般化があるけれども、決して運賃を安くするために中年女性を雇っているわけではない。米国において年齢差別は政府によって禁止されているしね。ていうか、もし市場において中年女性は性別及び年齢によって差別されるから安上がりで歓迎されているのだというのがカカシさんの論理なのであれば、それは市場が性差別及び年齢差別をちっとも「解決」していないことの証拠であるはずで、どうしてそれが自説の論拠になると思うのだろうか。
もう一つの例としてカカシさんが挙げるのは、次のようなものだ。

また、1980年代のバブルの時期に、日本企業は世界にずいぶん広く事業を進めた。当時日本国内では女性蔑視がひどすぎてまともな仕事につけなかった日本女性たちは海外へ脱出した。日本相手に商売をしたい海外企業は日本語がはなせる教養高い日本女性を競って雇った。おかげで日本女性は外資会社の従業員として日本企業の男性ビジネスマンと同等に交渉する立場にたった。
海外へ進出した日本企業が雇った地元の職員のなかにも日本を出て海外で暮らしている日本人女性が多かった。もともと日本人だから日本企業のやり方には慣れてるが、日本並みの給料を払わず地元の給料で足りるということで、海外在住の日本人女性は日本企業にとっても重宝な存在だった。つまりだ、女性は短期で退職するから雇わないという統計的な理由での差別は、このように別な形で市場が解決してくれたということである。

これもまた、有能な在外日本人女性は比較的安上がりだから雇ってもらったというだけの話で、差別の問題は何も解決されていない。差別が解決するということは、個人の資質や能力に応じてそれにふさわしい待遇で雇われるようになるということであるはずで、そんなに能力も教養も高いはず日本人女性が「日本並みの給料は払えないけど、地元の給料なら雇ってもいいか」みたいな扱いを受けるのは、市場によって統計型差別が「解決」されていないことの証拠だ。もちろん、どんな形であれ一緒に働けば偏見は減るかもしれないけど、わたしが問題としているのは統計型差別であって、偏見を理由とした「選好による差別」ではない。統計型差別というのは、まったく偏見を持っていない人であっても、冷静な合理的計算によって加担してしまうという点がおそろしいのだ。
要するにカカシさんの言う「市場による解決」は、職の安定性も賃金も落ちるけどどこかに仕事はあるよというだけの話であって、差別そのものはちっとも解決されていない。「選好による差別」については、少なくとも超長期的には現実に「差別が解決される」筋道をきちんと示しているのに、統計型差別の「解決」はそうではないようなのだ。ていうとつまりカカシさんが言っているのは、「賃金や労働条件を完全に市場に任せたら(そして市場が完全なら)、労働力がパレート効率的に配分されて、失業(労働力の需給バランスが合わずに余剰が生じること)は減るよ」というだけのことになってしまう。それ自体はまったくごもっともだと思うのだけれど、しかしそれと差別の解決はまったく別の問題だ。
もしカカシさんが「差別の解決なんでどうでも良い、完全雇用の実現だけがとにかく重要なのだ」というならそれも一つの考え方だけど、市場にまかせておけば差別が解決すると標榜するのはおかしい。少なくとも、統計型差別を市場がどのように解決するのか、カカシさんは一切示していない。カカシさんが市場を重視するのはいいと思うのだけれど、原理主義的な市場信仰にまで昇華させちゃうのはちょっとどうかと思うな。
とはいえ、とりあえずカカシさんが「ただ、市場の解決には時間がかかる […] だからそういう状況を見ていると差別廃止の速度を早めるために誰かが手助けする必要があるという考えが生まれるのは十分に理解できる」とか、「女性だからといって誰もが早期退職をするわけではない […] それが単に傾向だけで判断されるのは不公正だというエミちゃんのいい分は理解できる」と今回書いていたことは、これまでのやり取りに比べて一歩前進だと思う。前回書いた通りわたしは、右翼でも左翼でもそれぞれかれらなりの正義感や公正感から何らかの主張を紡ぎ出していると思うので、カカシさんがわたしの主張にもそうした公正性の核があることを見出してくれたのは嬉しい。嬉しいというのは、ただ単に自分の「言い分」を評価してくれたからというのでなく、対話するうえでの共通の土台を見出せる望みが出てきたと感じるから。その点だけは感謝している。
あと最後にしょーもない部分に一言。わたしのことを、

例の自他共に認める左翼系リベラル、レズビアンでフェミニスト(でも絶対マルクス共産主義者ではないと主張する)小山のエミちゃん

とわざわざ書くのは、いい加減うざいし気色悪いからもうやめない? わたしはリベラルでありフェミニストであるとは認めているけど、自分は左翼ですと言った覚えはないし(そう見えるかもしれないとは自覚しているけど、「自他ともに」は認めていない)、レズビアンだとも言っていない(このあたりはカカシさんには分かりにくいかもしれないけど、このあたり参考にしてね)。わたし自身のセクシュアリティは今の議論に全く関係ないのではないかと思うけれども、その関係のないことを書いたり、「でも絶対マルクス共産主義者ではないと主張する」とわざわざ表記するあたりは、はっきり言って気色悪い。macska というペンネームで書いているのに、わざわざ本名で「エミちゃん」と書くのも嫌な感じだし。
もしカカシさんにわたしに嫌がらせする意図がなく、異なる意見の持ち主にも最低限の礼節を尽くすべきだという考えの持ち主なのであれば、次からこういう表記はやめてもらえないでしょうか。事実と違うことをいろいろ言われても別に痛くも痒くもないんだけど、非常にうざい(そう書けばわたしにダメージを与えられるとほくそ笑む低俗な知性の存在が頭をよぎる)ので。

One Response - “自由市場は「統計型差別」を解決できるのか/苺畑カカシさんへ2”

  1. ちぃ Says:

    はじめまして。
    児童性虐待の本を読み「ソドミーとは?」と検索し、こちらでソドミー法(これは知っていた)の記事を読みました。随分と時間を遡った所に語源があって苦笑。
    macskさんの記事をいくつか読みました。大量のコメントでのやりとりで、ソドミーと関係ない、時々思うことで頭が一杯になりました。
     時々思うこと。私は多様性が認められる社会を望む。そのためには、少し苦しいが、私が尊敬できない事柄の存在も認めなければならない。
     
     日本。本日、3/14。午後6時ごろから現在11時まで断続的に強い雨と風。暖かい空気もあり、寒くはないのですが降りすぎです^^;
    前線の影響で、静岡では去年につづき家屋に被害が出ました。帰宅ラッシュの時刻、首都圏の路線ではダイヤが乱れました。遅れた夕食に血糖値下がりすぎて(低血糖症なので)、イライラ。
     
     macskaさんの文章に、誤読の可能性を低くする気遣いを感じました。
    今日の幸せです。^−^

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