レズビアンの(ほとんど)いないダイク・マーチ

6/20/2004 - 7:52 am | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ダイク・マーチ@ポートランドに行って来た。ダイク・マーチというのは文字通りゲイ・コミュニティ及び一般社会におけるレズビアン(ダイク)たちの地位向上を目指して行われる行進で、1993年にニューヨークで Lesbian Avengers という団体が道路通行許可も得ずに2万人の女性を集めたのが最初。ポートランドのダイク・マーチも地元の Lesbian Avengers の支部が毎年プライド・パレードの前日に実施していて、600〜800人程度が参加している。わたしは例年同じ時期に行われる全米女性学協会の大会に出かけているので参加できないのだけれど、今年は学会の方をスキップしたおかげで久々に参加できた。

Dyke March 2004面白い事に、ダイク・マーチといっても参加者全員がレズビアンであるという事でもない。主催者の一人でもある知人に「でも、本物のレズビアンってこのうち何人くらいいるんだろうね」って言ったら、「それほど多くないと思う」と応えていた。というのも、わたしの世代以降だと何でもあり的な「クィア」としてのアイデンティティを持っている人が大半で、「レズビアン」を自称する人なんてほとんどいない。これは地域的なものもあって、たまに田舎街の大学に講演で呼ばれて同じ感覚で発言すると顰蹙を買うわけだけど。

もちろん、上の世代のレズビアンたちには、こうした最近の傾向に批判的な人たちもいる。彼女たちは、「クィア」という性別不詳のアイデンティティが主流になるということは、「女性」を不可視にしてクィア・コミュニティの男性中心主義に加担することではないか、と言う。たしかに、もともと男女関係ないはずの「同性愛者」だとか「ゲイ」だという言葉が自動的に「ゲイの男性」だけを指す言葉として使われつつあるように、「クィア」という言葉だってそういう危険はある。でも、それより以前の問題としてクィア・コミュニティ内部でトランスジェンダーやトランスセクシュアルの人が目立つようになり、「自分は女性か」「自分の性愛の対象は常に一定か」という時点で「わたしはレズビアンである」と言い切れない層が増えているのは事実であって、ただ単に「レズビアン」を拒絶しているわけでもない。

サンフランシスコのダイク・マーチでは、昨年主催者が「ダイク・マーチの参加者は女性に限ります」という発表をしたことで大きな論争を巻き起こした。「ダイク」というアイデンティティは元来「レズビアン」と同一であるとされ、さらに「レズビアン」は常に「女性」である、という大前提が通用したのは過去の話。バイセクシュアルの「ダイク」、異性愛者の「ダイク」だって今では珍しくないし、トランスジェンダーの人の中には「自分はダイクだけれど女性ではない」とアイデンティファイする人だってたくさんいる。さらに、これまで何十年もの間一緒にダイクとして活動してきたのに、男性にトランジションした途端にコミュニティを追い出されるのはおかしいと感じるFTMトランスセクシュアルの人だっている。「性自認や性的指向に関わらず全てのダイクの参加を認めよ!」というスローガンはシュールな感じがするけど、現代的なクィア・コミュニティの内情を表してはいる。もちろん、昔からのレズビアンの一部は「ダイクが女性を愛する女性の事を指すので無ければ何だというのか」って言うんだけど、アイデンティティってそんな単純なモノじゃないのよ。

Fundie at Dyke Marchそれはともかく今年のポートランドのダイク・マーチだけど、ちょっと低調だった気がする。ダラダラ歩くだけで、メッセージが何もないんだもの。主張を書いたサインを掲げている人もごく少数。右にある写真は、道端からたった一人で「同性愛者は地獄に堕ちよ」みたいな事を叫んでいた宗教右派の活動家だけれど、そいつがメガホンで馬鹿みたいな事叫んでくれたおかげでその部分だけ一番盛り上がった。というか、マーチやってる側はメガホンすら持っていなかったりして、反対派の方がよっぽど準備ができている。もともと Lesbian Avengers は直接行動のグループだったはずなんだけれど、今では毎年こうやってダイク・マーチを企画するだけの活動しかやっていない。道路の使用許可だってちゃんと取ってるし。

まぁ、今年の3月に同性婚が認められるようになった(その後裁判になり、係争中は同性婚停止)ようにポートランドは圧倒的に同性愛者に寛容な街で、特に主張するような事もないのかも知れない。そうすると、政治的な行進から「お祭り」に性格を変えて行くのもいいのかも。でも、どうせお祭りなら音楽を鳴らしてダンスしながら行進できるようにして欲しいな。ただ歩くだけじゃ退屈でしょ?

7 Responses - “レズビアンの(ほとんど)いないダイク・マーチ”

  1. Mマムコ Says:

    Macskaさんこんにちは。「レズビアン」のマツウラマムコです。
    ポートランドでは、「ダイク」「クィア」にそんな意味があって、いろんな人がそのことばに共感をもっているんですね。
    それに比べて、わたしは「レズビアン」「女」というグループ分けに寄りかかりすぎているなあとおもいます。
    わたしの知っている人でも、「レズビアンっていったって、じゃあ女って誰?」というふうに考えて、「バイセクシャル」「ポリセクシャル」と名乗っている人もいます。でもわたしはそういう考えに触れると、なぜか傷ついてしまうんです。なぜなのか自分でもわかりません。自分の保守的なところとか、無知なところをさらけ出すのは実は嫌なのですが、思い切ってコメントをMacskaさんに送ります。
    確かに考えてみると「女」っていったい誰なのか、だから「レズビアン」と言ってしまうわたしは本当に保守的なのだとおもいます。頭ではわかるんです。でも、なぜか受け入れられない。
    わたしはやっと最近女を好きな自分を受け入れられるようになってきました。受け入れられるようになって初めて「ヘテロだらけ」な世の中で女のほうが好きという自分が何が苦しかったかをやっとことばにできました。女を好きということで嫌な思いをしても涙すら出せなかったのが、やっと傷ついて、涙が流せたという感じです。
    だからどうしても、「ヘテロではなくレズビアン」という意味で、クィアでもバイセクシャルでもなく、「レズビアン」と名乗りたいと感じます。
    反対に「女が好きで生きてきてこんなことがつらかった」というわたしの意見を聞こうともしなくて、「わたしは女を好きになったことないけど、性はグラデーションだから、わたしもクィアで、あなただけがつらいなんてことない。もっとがんばれ」なんていう人もいて、そんなときのクィアって何?とおもいます。
    わたしがこれからもっといろんなことを言葉にして、いろんなことを知って、「レズビアン」「女」という分け方のせいで傷つけられる人たちがいるとわかったら、そして「レズビアン」「女」という分け方が居心地よかった自分こそが、その人たちを傷つけていたとわかったら、「レズビアンというよりダイク/クィア/ポリセクシャル」と言えるようになるんでしょうか。

  2. Macska Says:

     コメントありがとうございます。
     「女」「レズビアン」にこだわっても別に「保守的」じゃないと思います。
     クィア理論的には、「女」とか「同性愛者」とかいうアイデンティティにこだわる事は、同時にそうしたカテゴリの固定化と周縁化に加担することになるっていう議論はあるわけですが、かといってみんながそれをやめれば「男」とか「異性愛者」の中心性が失われるわけでもないですし。作家の Dorothy Allison が言うところの「ヘテロセクシュアリティを先に脱構築せよ」ってやつですね。
     面白い事に、レズビアンを自称する若い人がこれだけ少なくなっているのに、ダイク・マーチを主催するグループの名前は Lesbian Avengers のままです。どこかの支部が「The Avengers」(って、そりゃアメコミのタイトルでしょーが)に変えたという噂も聞いたことがあるのですが、それ以外はだいたいどこでも「レズビアン」の名前のまま。それがどういう事かというと、運動のルーツを明らかにするという事ではないのかとわたしは思っています。
     考えて見ればわたしがフェミを自称するのも同じことで、はっきり言って文字通りの「女性問題」あるいは「ジェンダー問題」は必ずしもわたしの政治的関心の中心ではありません。そうした問題は他の社会問題と同じくらいのウェイトを持っているけれど、他の問題と比べて特に「女性」あるいは「ジェンダー」というアングルが大切なわけではない。それでもやっぱりわたしが単なる「ヒューマニスト」にならずにフェミを自称するのは、自分の思想的なルーツを示しているつもりだったりします。つまり、現時点でわたしがどこにいるかという事ではなくて、わたしがどこから出発してどこを経由してきたかという道筋を示す符号として使っています。

  3. tumg Says:

    私もちょっとびっくりしました。
    私の知っている範囲だと、「クイア」っていうのが性自認も性的指向も問わないというのはあっても、「ダイク」になると、周囲にどう見えるかはともかく、当人は「女性」(それがどう定義されるものであれ)を愛する「女性」という使われ方しかしていなかったので。

    この場合の「ダイク」というのは、そうすろと「クイア」とはどう違ってくるのでしょうか。FTMトランスセクシュアルの例があげられていることから想像すると、「女性」を愛する「女性」としての歴史というか、そういうある種の時間軸を導入した概念ということになるのですか?それとも、ダイクに共感できる人はみんなダイクということでしょうか。

    私は、自分がクイアだと言うことはあっても、「<女性><のみ>を愛する<女性>」であったことはないし、現時点で「女性」をパートナーにしているわけではないので、「レズビアン」にしても「ダイク」にしても、何となくそれを自称する人たちの経験をアビューズする気がして、自分では名乗ることができなかったのですが。

  4. Macska Says:

    私の知っている範囲だと、[…]「ダイク」になると、周囲にどう見えるかはともかく、当人は「女性」(それがどう定義されるものであれ)を愛する「女性」という使われ方しかしていなかったので。

    えーと、世間的には(というかクィア・コミュニティ内部の多数派でも)それが普通だと思います。

    でも、わたしの周囲というか、だいたい西海岸のわたし以降の世代だと、かなりわけが分からなくなっています。とは言っても、生まれてずっと男性として過ごして来てトランスジェンダー/トランスセクシュアルでもない人がある日いきなり「ダイク」を自認するケースはまずないから(ウソ、実はありますーーRebecca Walker編「To Be Real」のGreg Tate「Born To Dyke」参照)、「クィア」ほど何でもアリじゃない。

    個人的には、ダイク的なカルチャーというかコミュニティというモノがあって、そこに慣れ親しんでいるか、あるいはコミットしている人がダイクなんじゃないかと漠然と思っています。その中には、元々<レズビアン>(すなわち<女性><のみを>愛する<女性>)を自認していたけれどだんだん自己認識が変わった人もいれば、最初からそうでは無かったけれども<レズビアン>の仲間に囲まれてそういう意識を身につけた人もいる感じ。

    でも具体的にどういう要件があればダイクなのかというのは難しい。本人がそう自認すればそうだ、というのが一番プラクティカルだけど、「じゃあヘテロ&ノントランスの男性がダイクを自認すればダイクなのか?」って聞かれるとやっぱり自信持てない。かといって上で挙げているカルチャーとかコミュニティとの関わりというのも十分じゃなくて、どこかに唯一のダイク・カルチャーなりダイク・コミュニティが存在するわけでもない。

    サンフランシスコのダイク・マーチに関する論争で、中心になって議論を起こしたのは白人FTMトランス・ヒップホッパーの Katastrophe (Rocco Kayiatos)さんと、メヒコ系のジェンダークィア・シンガーソングライター Storm Florez さんの2人。どちらもダイク・コミュニティ出身のアーティストで(とゆーか、わたしが競演したことある相手だ)、今では<女性>を自認しない人たち。でも、地元のFTMコミュニティから「お前ら<女性>じゃないくせに何でダイク・マーチに出たがっているんだ?」ってバッシングされちゃった事から分かるように、「ダイク」を<女性>と結びつけている人だって多い。というか、最初に言ったようにその方が普通。

    ダイク・コミュニティでFTMの人やジェンダークィアの人たちをどう扱うかっていうのはもっと大きな議論だけれど、わたしの基本的な考えは「特に呼び込む必要はないけれど、追い出す必要だってない」というところ。「自分は<女性>じゃないんだから入りたくない」という人は勝手に出て行けばいいし、「自分は<女性>ではないけれど、これまで通りダイク・コミュニティの一員だと感じる」なら入ってもらえばいいじゃん。どんな明示的なルールを作るにしても個人のアイデンティティの複雑さを全て考慮に入れる事はできないのだから、当人たちにその判断を任せてしまった方がずっと合理的だと思うし、それが「性別二元制」に寄りかかったマジョリティの側の倫理だと思う。

  5. Yoko Says:

    この話、ここにレスしていいのか迷ったけど、
    日本時間ではすでに22日の今日、Judy Garlandの35回目の命日だそうな。

    つうことは、この5日後の1969年6月27日にThe Stonewall Riotが起こったわけで、その意味ではぜひ知っておいてほしいもんです。

  6. ひっぴぃ ♪♪ Says:

    >わたしの世代以降だと何でもあり的な「クィア」としてのアイデ
    >ンティティを持っている人が大半で、「レズビアン」を自称する
    >人なんてほとんどいない。

    なんてのを読むと、個人的な感覚に基づいて正直に言うと、すっごくうらやましい感じがあります。
    そして、

    >これは地域的なものもあって、たまに田舎街の大学に講演で呼ば
    >れて同じ感覚で発言すると顰蹙を買うわけだけど。

    というのを読むと、また現実に戻ってくる感じがします。

    わたしは、はじめは「バイセクシュアル」として登場して、その後トランスしたということからも分かるんだけど、「レズビアン」「ゲイ」を強調する運動や動きが、個人的な感覚を正直に書くと、好きではないです。「レズビアン・ゲイ・パレード」という名前も嫌いです。
    「100人村」にも、「90人が異性愛者で10人が同性愛者です」って書いてあるけど、こんなことをされるとわたしの居場所がないです。「強制異性愛を相対化するために」という目的のために「10人」のことが書いてあることが分かり、またその肯定的な効果も分かるからこそ、わたしはますますやりきれない気がするし、黙らされるような気にもなります。

    なんだけど、例えば上の方にマツウラさんが書かれていることも、(安易にこういっていいのかな、というのもありますが)よく分かる気もします。いきなり「クイア」なんて言われても、なんかごまかしているだけのような気もしなくもない。

    >反対に「女が好きで生きてきてこんなことがつらかった」という
    >わたしの意見を聞こうともしなくて、「わたしは女を好きになっ
    >たことないけど、性はグラデーションだから、わたしもクィアで、
    >あなただけがつらいなんてことない。もっとがんばれ」なんてい
    >う人もいて、そんなときのクィアって何?とおもいます。

    確かに、「自分/あなただけがつらいわけではない」というのはその通りだけど、
    うん、こういう言い方をされると、少しむっとしますね。
    言葉を利用して、対話が遮られているような気もします。
    お互いがいいたいことを言って聞けるような感じで話せたらなと思います。

    ちょっと遅いコメントだったかしら。
    しかも長いし。

  7. マツウラ Says:

    まちゅかさんありがとう。「フェミ」を名乗るのは思想的なルーツ。いいこときいた。わたしもいまのところ「レズビアン」というのは大事なルーツで、(ルーツといえるほど飛翔できてないけど)まだこだわる必要を感じる。だから無理せずに、でもいつかこの自称が変わるかもしれない、と思いながら生きてみようと思います。
    ひっぴぃさんもありがとう。うれしかったです。確かにレズビアンゲイという名称は、だれかの居場所を奪っていたんだ。私もその言葉に鈍感だったので、深く反省しました。そしていろいろ書いてくださったのでひっぴぃさんの考えもよくわかりました。うれしかった。「いきなりクィアだとだまされているかんじがする」と思ってしまう私はただたんに保守的でアホなのかと思っていましたが、そうじゃなくて、どうしてそう思うのかもうすこし詳しく考えたほうがよさそうですね、じぶん。

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