「蔑視」と「偏見」/自衛的行為を装う「合理的な差別」に対抗するための倫理

2007年3月26日 - 12:02 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前回に引き続き、差別について。ただし今回は、別ブログで予告した通り「蔑視による差別行為」と「偏見による差別行為」の区別についての説明が主題。この区別はスティーヴン・レヴィット&スティーヴ・ダブナーの『ヤバい経済学』では「選好による差別 taste-based discrimination」「情報による差別 information-based discrimination」として紹介されているけれど、なぜそんな区別が必要なのか全然説明されていないので、まずはその辺りから。なお、「情報による差別」はわたしの経験だと「統計的差別 statistical discrimination」と呼ばれることの方が多いので、経済学の文献をあたるときはそちらで探すと吉。

『ヤバい経済学』における問題の箇所は、二章の中盤くらい。レヴィットが2003年に発表した、クイズ番組「ウィーケストリンク」における差別の研究(論文そのものはこちら)が題材。「ウィーケストリンク」は日本でも放送されたらしいのだけれど、知り合いの日本人が「聞いたこともない」と言うので一応ルールを説明してみる。

「ウィーケストリンク」は、六名もしくは八名の回答者が参加して、次々と出されるクイズに順に答えながら賞金獲得を目指すクイズ番組だ。回答者たちが連続して正解するごとにポットのお金が指数関数的に増えていき、一人でも誤答するとポットのお金が全て失われる。また、回答者は質問を聞く前に「バンク」と宣言することで、その時点でポットに溜まっているお金を賞金総額に加えることができる。ただし「バンク」を宣言したあとは連続正解回数が途切れたこととなり、またゼロからポットのお金を増やさなくてはならない。各ラウンドの最後で、全ての回答者が「ウィーケストリンク」(最も弱い回答者)を投票し、最多の票を集めた回答者はそのラウンドで脱落する。最終ラウンドまで残った二人の回答者がクイズで直接対決して、勝った方が全ての賞金を独占する。

このゲームが面白いのは、必ずしも最も正解率の低い回答者が脱落するわけではないという点にある。ゲーム開始当初は確かに賞金総額を落としそうな「正解率の低い」回答者が落とされることが多いのだけれど、最終ラウンドに残った相手と直接対決して勝たねば賞金を得られないので、後半に入ると比較的弱い回答者たちが結託して、自分よりクイズに強そうな回答者を脱落させることがよくある。つまり、前半は弱い回答者を落とし、後半は強い回答者を落とすというのが、優勝を目指す人にとっての戦略となる。そして、仮に合理的に考えて脱落させられるはずの人が脱落せず、脱落しないはずの人が脱落することがあればーーそして、そうした「例外」が特定の人種や性別や年齢の回答者に集中して起きていればーーそこに差別の存在が考えられるというわけ。

そう考えたレヴィットが実際に「ウィーケストリンク」のビデオを全部集めて確認したところ、黒人や女性の回答者に対する差別的な扱いは確認されなかった、という。すなわち、黒人や女性の回答者は、クイズの能力から予想されると同じペースで脱落し、あるいは勝ち進んだということ。レヴィットはそのことを、過去50年間において最もさかんな人権運動だった黒人市民権運動と女性運動の成果により、少なくとも全国の視聴者の目の前では黒人や女性に対する差別を避けようとする意識が回答者のあいだでも広まっていることのあらわれだと解釈している。

その一方、レヴィットが「ウィーケストリンク」のデータから確認されたというのが、お年寄りに対する「選好による差別」(蔑視型差別)と、ラティーノ(ヒスパニック)に対する「情報による差別」(偏見型差別)だ。前者は対象に対する嫌悪感などから側にいたくない(一緒に働きたくない、近所に住みたくない、ほか)という動機による差別行為であり、後者は対象の能力や特性についての思い込みを理由とした差別行為を指す。それが「ウィーケストリンク」においてどのように見出されるかというと、お年寄りの回答者はクイズの能力とは無関係に脱落させられやすい傾向があるのに対し、ラティーノの回答者は常に実際のクイズの実力よりも能力を低く見積もられる(そのため、前半には脱落しやすく、後半は脱落しにくい)傾向があるという。どちらも、年齢や民族といった属性により差別的に扱われていることは同じだけれども、この違いは現実社会において大きな意味を持つ。

もちろん、現実社会において雇用差別を受けた人にとっては、自分の属性に対する嫌悪感(蔑視)が理由であるのか、それとも自分の属性に対する思い込み(偏見)が理由であるのかは、大した違いがないように見える。どちらも、自分の個人としての実力を正当に評価してもらえなかったという点では同じだものね。でも、企業の側から見ればそれらは全く違っている。蔑視型差別は、経営陣や採用担当者の個人的な嫌悪感を理由に有能な人材をみすみす採用し損ねかねないという意味で、非合理的だ。非合理的な選択をする企業はそれだけ自業自得の損害を抱えるわけで、究極的にはより合理的な競合他社との競争に負けて淘汰されるかもしれない。つまり、蔑視型差別はそれがあまりに非合理的であるからこそ、市場競争によって自浄効果がはたらくなり、差別者が淘汰されるなりすることが理論的にあり得るわけ。

ところが偏見型差別の方は、その偏見がある程度の統計的事実を元にしている限りにおいて、企業にとって損害にはならないどころか有利にはたらく。例えば、「女性は結婚・出産を機に退職する割合が高いので、雇うとしても重要な地位は任せられない」という判断は差別的だけれども、「女性は早期退職する割合が高い」という部分が統計的に事実でさえあれば、会社の利益にとっては十分に合理的なのね。逆に、「性別に関わらず本人の能力と成果だけで判断したい」と考える真っ当な企業のほうが、せっかく経験を積ませて実力をつけた女性社員に早期退職されて損を出し、淘汰されかねない。

結局、偏見というのは単なる思い込みではなくて、多くの場合ある一面の統計的な事実を言い当てていることが多々あるわけ。例えば「同和は怖い」とか「外国人に注意」というイメージは偏見と言えば偏見だけど、実際に差別や貧困を原因とした生活の苦しさがあって、それを背景に一部に犯罪に手を染める人がいたり、犯罪組織との関わりみたいなのが生まれてくる要素がある。あるいは、過酷な差別を受けて来たからこそ、それに対抗する反差別運動が「糾弾」型になり、それがさらに「怖い」イメージを増大したということもあるかもしれない。

そういう、ある一面の事実を元として、例えば「被差別部落出身者は怖いから、関わり合いになるのを避けよう」とか「外国人が周囲にいる時は気を付けよう」みたいな偏見が、ある意味自衛的な合理性を帯びてしまっていることは否定できない。しかし、だからといって権力やリソースを握るマジョリティの側が、自らを潜在的な被害者と位置づけてマイノリティの側を差別し排除することが、「自衛」の名のもとに無制限に認められて良いわけがない。そして、「差別をした者が得をし、差別をしない者がバカを見る」ような状態は、社会的公正の観点からも、差別撤廃に向けたインセンティヴ配分という意味からも、到底容認できないことは明らかだ。よって、雇用や住居などの重大かつ公共的な側面においては、強権的に差別を一律禁止し、違反者を厳しく取り締まるしかない。自主的な対策に任せていたのでは、抜け駆けによる利得の誘惑を無効化する術がないからね。

当ブログで過去に扱った例では、米国において少なくない有名私立大学が女子入学希望者を差別しているという件がある。その理由は、男子の卒業生の方が出世して高い地位に就く可能性が高いので大学の評判にとって良い、同じ理由でより寄付金が期待できる、そして男子のスポーツクラブを増やした方が宣伝や収益の面で都合が良い、というものだが、明らかに偏見型の差別だ。つまり、大学は女子を嫌っているわけではなく、女子を差別することが大学にとって合理的であり、男女を平等に扱うことは非合理的だからこそ、差別するということ。こうした状態では、差別を一律禁止して罰則を設けるなどの強権的な手段によってインセンティヴ配分を是正しない限り、不公正は温存されてしまう。

一般に「差別」という言葉から多くの人が思い浮かべるのは、「蔑視型」の差別だと思う。つまり、ある特定の集団に対して憎悪や敵意を抱く人が、その集団に不利益なことをするという構図。でも、純粋に蔑視だけを理由とした差別行為は差別者当人にとって不合理だから、ある程度の自浄効果は期待できるし、教育や啓蒙によって取り除くこともできる。深刻なのは、差別者本人にとって合理的な(あるいは合理的に見える)、「偏見型」の差別のほうだ。明らかに行為者の内面的な差別心を伴う蔑視型の差別と違い、偏見型の差別では、個人や企業が「自分は差別心を持っているわけではないけれど、自分に降り掛かる不利益を防止するため」という口実により、良心の呵責を感じないまま差別に加担してしまう。

このように蔑視型の差別と偏見型の差別は、一見似ているけれどもインセンティヴの方向が全く逆を向いている。前者は差別者当人の合理的な利害に反する可能性が高いけれども、後者は利害の点から見て合理的な選択ですらある。そのことから分かる通り、反差別の呼びかけによって仮に非理性的な蔑視の類いを撲滅することができたとしても、それだけでは平等な社会が実現するとは限らない。非理性的な蔑視が取り除かれたあとに、より洗練された統計データによる、完璧に合理的な差別社会が生まれる可能性だってあるわけ。

そういう状況について考えていくためにも、差別には「偏見型」のものもあるという点はより多くの人に理解してもらう必要があるし、差別的な扱いを合理性によって正当化する論理に対抗するための公共的な倫理というか、合理性を多少犠牲にしてでも守るべきものは何かという点について、きちんと考えていかなくてはいけないのかな、と思う。非合理的な差別に反対するのに「それは非合理的だ」以外に特に理由はいらないけれども、行為者の視点から見て合理性のある差別行為に反対するためには、やはりそれなりの理由をきちんと説明することが必要になってくるだろうし。

61 Responses - “「蔑視」と「偏見」/自衛的行為を装う「合理的な差別」に対抗するための倫理”

  1. macska Says:

    うわ、The New Republic 最新号に『ヤバい経済学』批判が載ってるよ。というか、レヴィット本人への批判って感じじゃなくて、かれ一人だけなら許せるけど、かれの真似をしてクレバーかつ奇妙な研究をやりたがる経済学専攻の学生ウザイって感じかな。ウィーケストリンクにおける差別をいくら究明したとしても、それが実社会における差別を理解するのにどれだけ役に立つというのか、と言われれば、そりゃ確かにその通りだし。あと、山形浩生さんが紹介していたエミリー・オスターの「アジアの行方不明の女性」の件は、TNR の記事では「既に反証された話」みたいな扱いになってるよ(オスターのサイトにはそれに対する反論も出ていて、わたしの見たところそこそこ納得がいくのだけれど、それでもオスターの元の論文がB型肝炎の影響を過大評価していたように思う)。訳そうかなぁ…
     ちなみに、元祖ポップ経済学者(って呼ぶのは嫌がらせみたいだな)スティーヴン・ランズバーグの『More Sex is Safer Sex』という本が来月出るらしいので『ヤバい経済学』みたいなのが好きな人は要注目。タイトルになっているのは、Slate の連載で昔書いていた、エイズの危険を訴えるキャンペーンはエイズの蔓延を深刻化させるとか、もっと多くの人が不特定の相手とセックスすれば性感染症は減速するとか、そういう話だと思う(それでは減速しないという反論に対して、「仮に感染数が減らなかったとしても、コストが同じままより多くの人がセックスを楽しめるのであればパレート改善になる」と、功利主義をセックスに適用して振りかざしたランズバーグは漢だと思う)。
     なんか差別の話とほとんど関係ないコメントでごめん。ってブログ主だけど。

  2. Tetsujin Says:

    初めてコメントします。
     「女は結婚退職しやすい」とか「同和は怖い」といった「ある一面の事実」にもとづく思いこみ(偏見)による差別が、ときには「利害の点から見て合理的な選択ですらある」という指摘はたいへん興味深く、また或る意味で勇気ある指摘と思いました。
     偏見型の差別が利得によって報いられることがあるという事実は、人間が正義(この場合は「平等」のこと)を求める傾向と、利得を求める傾向とが、方向として一致するとは限らない、という事実を示していると思われます。つまり、善を求めて損をすることもあれば、利を求めて悪を行うこともある。あらっぽく言えば、功利主義は倫理的な原理として十全ではない(全面的に間違いではないが、何かが不足している)ということでしょう。で、功利的思考に何を追加する必要があるのか考える必要がある、というのがマチカさんの御提言と思いますので、以下、回答を試みます。
     偏見による差別は、女性と結婚退職の例で言えば、特定の一個人である女性が、その所属集団である女性集合について統計的に推定される「結婚して退職する」という属性を、たぶん備えているであろう、という予測から生じます。この予測が過去・現在・未来の事例で十分よく裏付けられるならば、「洗練された統計データによる、完璧に合理的な差別社会」に一歩近づきます。
     すると、完璧に合理的な差別社会に向かわないために必要なことは、思うに、この「予測」をとにかく破ることです。
     予測の破り方は二つあるでしょう。第一は、女性個人が統計的推定を破るように行動することです。つまり、結婚しても退職しないこと。第二は、差別から利を得るかもしれない側(たとえば、企業の人事担当者)が、特定の女性個人が統計的推定を破るような行動を取ることができると考える、ということです。第一は、ここで論じるまでもないでしょう。第二が、功利的思考に何を追加する必要があるのかという問題と関わりがありそうです。
     私の結論をあっさり言えば、合理的な差別者に追加されるべきものは、〈人間は、その所属集団から推して或る属性を持つことが統計的に予測されるとしても、その統計的推定を破って当該の属性を持たないことが個人としてできる、と考える〉という発想です。つまり、人間は統計的推定から自由に行動しうると考える、ということ。この考え方を合理的差別者側に追加するとはどういうことかというと、要するに、個人は自由な存在だ(その所属集団から行動パターンを推し量ることは不当だ)という原理を、差別から利を得るかもしれない側が、自己利益よりも優先する、ということです。徹底的に単純化すれば、個人主義と自由主義という倫理的原理を自己利益の追求よりも優先することです。
     大変あたりまえの回答で、ばかばかしく見えるかもしれませんが、個人は所属集団を結局のところ超えられない、という発想が、偏見型差別の基盤の一つであるように思われるので、一言しました。

  3. uumin3の日記 Says:

    macskaさんの捉えている差別…
     macska dot orgより  差別についての、ごく基本的な考え  「蔑視」と「偏見」/自衛的行為を装う「合理的な差別」に対抗するための倫理  先日からの「差別 (more…)

  4. macska Says:

    Tetsujinさん、こんにちはです。コメントありがとうございます。
     第一の、女性が統計的推定を破るように行動すれば良いというのは、確かに女性の早期退職率が男性と同じになるのであれば長期的には偏見型差別による利得が消滅するので有効でしょうが、現実に「女性は早く退職する割合が高い」ということが事実であり続ける限り、個々の女性がどんな行動を取ろうと差別はなくなりません。なぜなら、企業の側から見て「その女性」が早期退職するのかしないのかは、確率論的にしか予測できないからです。
     そうした問題に対処するには、あらかじめライフコース別の職種を準備しておくという方法も場合によっては可能かもしれません。例えば、コースAは給料が高いけれど技能が身に付かず将来的な昇給や昇進も少なく、コースBは初任給が低いかわりに知識や技能を身につけることができるような職務内容で将来的には幹部候補。これだと、はじめから結婚・出産と同時に退職するつもりの人はコースAを選び、キャリアを積みたい人はコースBを選ぶようになるので、「すぐに辞める人材に投資して損を出す」リスクは軽減できます。
     しかし現実には、就職する時点でどれだけ将来のライフコースを求職者自身が知っているのかという問題もありますし、ライフコース別という口実で女性に特定の企業内役割を押しつける形に使われてしまうおそれも大きい。第一、求職者の求める職種と企業が求める人材が一致するとも限らないわけで、本来自分の考えるライフコースと違うコースに就職せざるを得ない人だって出てくるはず。
     それに、こうした方法で対処できるかもしれないのは、「偏見型差別」の中でも一部だけ。例えば、「同和は怖い」みたいな偏見型差別をコース別職種で解決しようとしても不可能だし。
     第二の提案は、企業は求職者を属性ではなく個人で判断しろということだけど、それが合理的ならとっくにそうしているのね。でも、個人の適性や能力、あるいは将来どういうライフコースを歩むかということは、実際に雇って仕事をさせてみなければ分からない面があるわけ。もちろん、心理テストや面接を繰り返して詳しく調べることはできるけど、調べるコストだってばかにならないし、いくら調べても確実なことはやっぱり分からない。そういう時に、その人の所属集団についての統計的な知識をもとに判断することは、低コストである程度の効用をもたらすので、企業にとって合理的なの。
     Tetsujinさんは、利益の追求より個人主義を優先させろと企業に求めているようなのだけれど、それはあまりに無力。本文中に書いた通り、「統計的な情報によって差別をする企業が得をし、差別をしない企業が損をする」ような状況自体を変えないと、倫理的にふるまう企業がより非倫理的な競合他社との競争で淘汰されかねない。会社を潰し社員とその家族を路頭に迷わせてでも「個人主義」を貫け、なんて要求できないし、仮に貫いた企業があったとしても潰れてしまっては意味がないよね。
     逆に、差別をすることが企業にとって損であるような状況を作り出すことができたら、問題のかなりの部分は解決可能になります。それがインセンティヴ配分の是正ということです。具体的には、偏見型差別に対する世論の圧倒的な反発を生み出すことができれば、企業はイメージ戦略上からもあんまりおおっぴらに差別はできなくなりますし、行政が徹底的に取り締まって違反した企業から莫大な罰金を取り、差別による利得よりも摘発されるリスクの方を大きくすればいい。でも現実には、どうやって摘発するのかとか(内部告発?)、難しいのだけど。

  5. 札幌運転所隣人 Says:

    度々すいません。そもそも私が本ブログにコメントするというのも、喩えは乱暴なが
    ら高速道路を自転車で入っちゃったような感じで、ちょっと何なのですが。
    では、本題。本文並びにコメントに女性の結婚・出産退職についての言及がありまし
    たので、それについて。私の勤める地方の中小企業に於きましても従前は採用前(条
    件、枠等)・後(各種待遇)に拘わらず万事本文の通り。私も別に意識すらしていま
    せんでした。良い、悪いは別として労働力は量重視の時代でしたので。ところが諸般
    の事情により今や深刻な人手不足に悩んでおり且つ人材育成の体力も失ってしまって
    いて、現場としましては女性の結婚退職は痛手、というのが本音です。いままでがい
    ままででしたので、結婚退職を望む方を無理にどうの、こうのとは言えませんが、や
    はり、実務者としてベテランの層です、出来れば留まってほしいものです。産後の復
    職も同様。質を提供して頂ければ大助かりです。
    さて、本文内容に戻ります。現状では、一面、この人手不足、そしてもうひとつ、性
    別・キャリアを問わず人材が流動的になっているという実態が、現職の女性従業
    員の各種待遇改善の動機(圧力、といったほうが正しい?)には、なっております。
    つまりは、これもひとつのループ(都合、「主回路」と表現させてください)なのでし
    ょうか。待遇格差(合理的、偏見型差別)の解消圧力はやはり合理性だった、と
    いったような。
    ただ、昨今、実際の企業の中でも効果的な「補助回路」も徐々にではありますが
    機能しつつあるように見受けられます。この点は確かなものと思います。だいいち、
    コンプライアンスなどという言葉だって、今まで聴いたことすらなかった訳ですから。
    *「補助回路」=ここでは、企業にとって様々な外的圧力と捉えていただければ。

  6. tetsujin Says:

     丁寧な返答のコメントありがとうございます。しばらく考えてました。
     私が書いたかぎりのことは正確に理解していただいており、マチカさんの批判に私としても異存はありません。なかでも、「現実に「女性は早く退職する割合が高い」ということが事実であり続ける限り、個々の女性がどんな行動を取ろうと差別はなくなりません」という点、および、「利益の追求より個人主義を優先させろと企業に求めているようなのだけれど、それはあまりに無力」という点は、まさにおっしゃるとおり。今ある差別をどうやって無くして行くか、という現実の政策課題としては、私の書いたことはピント外れと言わざるをえない。
     以下に書くことは、いただいた返答コメントへの直接の応答というよりは、マチカさんがブログに書かれたことのうちの、どこに私が反応し、どういう問題に答えようとしたのか、という点についての補足です。
     私が反応したのは、「差別的な扱いを合理性によって正当化する論理に対抗するための公共的な倫理」という言葉や「合理性を多少犠牲にしてでも守るべきものは何か」という言葉だったのだと思います。
     「合理性」を、《自己利益を最大化するということ》と仮に定義しましょう。すると、「差別的な扱いを合理性によって正当化する論理」は、次のようなものになるでしょう。すなわち、《統計的推定に基づく差別は、差別する側の自己利益を最大化しうる(合理的でありうる)。よって、自己利益の最大化(ないし幸福の追求)の権利が各行為主体に認められるかぎり、統計的推定に基づく差別は正当である》。マチカさんが提起している問いは、こういう論理をしりぞけるためにどんな「公共的な倫理」が必要なのか、という問題であると私は解釈し、これに答えようとした、と言ってよいと思います。
     マチカさんが私へのコメントで触れた「インセンティヴの配分の是正」というやり方は、ペナルティ等を適切に設けることによって、統計的推定に基づく差別が不合理な行為(自己利益を最大化しない行為)に変貌するようにする、ということでしょう。これが有効だという点には賛成です。この場合はしかし、行為主体は自己利益を最大化するように行動せよ、という倫理的な原理は手つかずで残っています。別に残っちゃいけない、と言いたいわけではありません。
     この場合、マチカさんが元のブログで書かれた「差別的な扱いを合理性によって正当化する論理に対抗するための公共的な倫理」は何になるだろうか? という問いに対しては、《公共的な倫理としては、各人は自己利益を最大化せよ、という功利的な原理で間に合う》と答えることになります。急いで付け加えると、私は、この答えが間違いだと言いたいわけでもない。んでは、私は何を言いたかったんでしょうね。
     えーと、私が考えていたのは、《統計的推定に基づく差別が、差別する側の自己利益を最大化しうる》という事実はそのまま保存して、なおかつ、《統計的推定に基づく差別は正当である》という主張を倒したいなら、どうしたらよいか、という問題だったんですね。ちなみに、差別が不利益になるようにインセンティヴを配分し直す、と回答するのは、この問題に対する答えとしては、差別から利益が得られるというユーウツな事実を保存していないので、没になる。
     もちろん、そんなユーウツな事実なんか保存する必要はない、という批判は一般的にはアリです。ですが、《差別が利益を生むことは事実あるけれど、それってやっちゃいけないんだよ》と言うためには何が必要か、という問いに答える場合には、このユーウツな事実をちゃんと保存しておくのでないと(逆にいえば、そんな事実消してやる、と息巻くと)、問答としてかみ合わない。
     没にならない回答パターンは、どうやら意外にも(でもないか)、《自己利益を追求するだけではダメなんだよ》という道徳的お説教になる、と思われます。
     以下、話を端折ります。自己利益の追求を抑制する道徳的お説教は、全能の神とか万世一系の皇統とかアーリヤ民族の栄光とか、とにかくいろんな原理に基づいて垂れ流されうる。で、偏見型差別一般の問題に関して私が同意できる道徳的お説教は、《各個人は、その所属集団のメンバーに高い確率で見出される或る属性を超えて、自由に自己実現しうる。だから統計的推定に基づいて差別するのは、たとえキミの自己利益にはかなうとしても、個人の自由な自己実現の可能性という原理に反するから、ダメなんだよ》という理屈かなと思った。そして、これはマチカさんの求める「公共的な倫理」の一候補になりそうだな、とも思った次第。
     ひとつひとつの偏見型差別を無くして行くには、それぞれの差別の実態に合ったきめ細かなインセンティヴの配分の是正が必要になると思います。でも、すべての偏見型差別の実例にこのやり方で逐一対処するなら、たぶん作業量は膨大になる。で、それはそれでやるとして、いわばイデオロギーの水準で、偏見型差別を一挙に倒すためには、上のようなタイプの公共的な倫理に訴えて、自己利益の最大化という原理そのものに制約を設ける、というのも一つの手かな、と考えたようなわけです。

  7. macska Says:

    なるほど、「差別的な扱いを合理性によって正当化する論理に対抗するための公共的な倫理」という言葉からそのように考えたわけですね。
     わたしは確かに「倫理」が必要であるという議論をしています。でもそれは、倫理に反する行動を取る主体に対してお説教するためじゃなくて、どういう状況が社会的に容認できないかを判断するためです。文中から言えば、

    権力やリソースを握るマジョリティの側が、自らを潜在的な被害者と位置づけてマイノリティの側を差別し排除することが、「自衛」の名のもとに無制限に認められて良いわけがない

    この部分が、わたしが下した倫理的判断なんですね。
     しかし、だからといって倫理的に行動することが自己利益に反するような状況のもとで、倫理をただ説くのは無力。「一般論として、そういうことが横行する世の中は良くない」と分かっていても、社員の生活がかかっているのにみすみす競合他社に出し抜かれても良いと思うような経営者はほとんどいないでしょ。
     もちろん、もし「統計的推定に基づく差別はいけない」という価値観が社会全体に強く共有されて、例えばそうした差別をする企業の商品を多くの消費者がボイコットするくらいになれば、それは有効だよ。でもそれは、道徳的なお説教が効いたのではなく、ボイコットされることの損失や企業イメージの損壊が、差別行為によって得られる利益を超えると判断されただけで、「自己利益の追求」という点では変わっていない。もちろん、それで差別がなくなるならそれでいいんだけど、現実にそれだけでは解決しそうにない。
     結局、倫理をストレートに訴えるのにはあんまり効果が期待できない。だって世の中は倫理的な人ばかりじゃないし、比較的倫理的な人だって生活がかかっていたら倫理的な逸脱をしてしまうことがあるから。わたしたち一人一人は、どんな犠牲を払ってでも倫理的信念を曲げずにいられるほど強くない。だからこそ、社会政策を設計する立場の人たちが、的確な倫理的判断によって「倫理に頼らなくてもうまくまわる仕組み」を作らなくちゃいけないわけ。

  8. muse-A-muse 2nd Says:

    差別をめぐる審級について (あるいは「人権と国家」)…
    センシティブな話題で当事者の気持ちもあるのでどうしようかなと様子見してたんだけど、そろそろいいかなっていうか、特定の事件とは結び付けない形の一般的(公共的)なギロンと (more…)

  9. ラクシュン Says:

    >つまり、蔑視型差別はそれがあまりに非合理的であるからこそ、市場競争によって自浄効果がはたらくなり、差別者が淘汰されるなりすることが理論的にあり得るわけ。
    現実ではそうはならないでしょう。 嫌悪感に対する我慢のコストが非合理的選択による損失を上回る場合は? 多少有能であっても、顔じゅう痣だらけの人を雇用しなかったからといって、誰がそれを非難するでしょう。
    >しかし、だからといって権力やリソースを握るマジョリティの側が、自らを潜在的な被害者と位置づけてマイノリティの側を差別し排除することが、「自衛」の名のもとに無制限に認められて良いわけがない。
    だったら何故元犯罪者やニート(就労希望者)たちが「アファーマティヴアクション」から除外されるのですか?(←想定外だと思うから)
    私がこう言うのは、macskaさんの定義(すぐ下のエントリ等)に基づくmacskaさんの理論によれば、これらの集団も「差別」被害者の条件を満たしているからです。もちろん自業自得ということでも構わないのですが、「統計的差別」や「統計的事実」を「偏見」として批判するならそれなりの但し書きが必要かと。元犯罪者の再犯率は「偏見」なしの確率1だから「合理的な差別」 、は事実に反するのでどう書けばいいのやら…。
    あとは無ければいいのですが、「被差別部落出身者」・「外国人」・「女性」・元犯罪者・ニートの間に救済の優先順位が設定されているのであればそれを教えて欲しいと思います。

  10. macska Says:

    ラクシュンさん:

    現実ではそうはならないでしょう。 嫌悪感に対する我慢のコストが非合理的選択による損失を上回る場合は?

    単に嫌悪感があるから差別するのではなく、コスト計算をした上で利益を損害の方が上回るからと差別するのは、蔑視型差別ではなく偏見型差別になります。本文ちゃんと読んでね。

    多少有能であっても、顔じゅう痣だらけの人を雇用しなかったからといって、誰がそれを非難するでしょう。

    それは、ラクシュンさんは非難しない、というだけであって、差別であるとして非難する人はいくらでもいるでしょう。しかし、差別をした方が差別をしないよりも利益になるなら、単に非難することでは問題は解決しません。だからこそ、この種の差別は米国の法律 Americans with Disabilities Act of 1990 では違法とされているのですね。
    上でコスト計算という話をしましたが、もし「多少有能」どころか「ものすごく有能」だったら不快感を我慢してでも雇う方が得だという判断もあり得るわけですね。だからそれは、コスト判断による差別であって、嫌悪感による差別とは言えない、というわけです。

    だったら何故元犯罪者やニート(就労希望者)たちが「アファーマティヴアクション」から除外されるのですか?(←想定外だと思うから)

    除外してませんが(入るとも言っていないけど)。本文ちゃんと読んでね。

    もちろん自業自得ということでも構わないのですが、「統計的差別」や「統計的事実」を「偏見」として批判するならそれなりの但し書きが必要かと。

    「偏見型差別」というのは、 information-based discrimination や statistical discrimination に対応するわたしの作った言葉ですから、批判の意味で「偏見」と呼んでいるわけではないです。
    但し書きについては、わたしは「偏見型差別を自衛行為として正当化することを、無制限には容認できない」と(いう意味のことを)書いてますが、逆に無制限で排除するべきだとも書いていないでしょ。さらに、法律やボイコット運動などを通して偏見型差別禁止を企業や個人に押しつける場合、どうしてそれが押しつけられなければいけないのかという理由を公共的倫理としてきちんと説明しなくてはいけない、とも言っています。本文ちゃんと読んでね。

    あとは無ければいいのですが、「被差別部落出身者」・「外国人」・「女性」・元犯罪者・ニートの間に救済の優先順位が設定されているのであればそれを教えて欲しいと思います。

    そんな優先順位あるわけないし、優先順位はこうだという主張(上野千鶴子氏が同性愛者よりも「女性」を優先することや、赤木智弘氏が被差別部落出身者より「弱者男性」を優先することなど)をわたしは一貫して批判してきたわけですが。本文ちゃんと読んでね。
    あとついでに言っておくけど、「優先順位はこうだという主張」をわたしが批判しているのは、みな同等に重要だという意味ではないですよ。「みな同等に重要だ」という主張だって、「優先順位はこうだという主張」の一種だからね。

  11. ラクシュン Says:

    >単に嫌悪感があるから差別するのではなく、コスト計算をした上で利益を損害の方が上回るからと差別するのは、蔑視型差別ではなく偏見型差別になります。本文ちゃんと読んでね。
    私が言った「我慢のコスト」とは「嫌悪感」の度合のことです。つまり精神的コストのことです。
    >それは、ラクシュンさんは非難しない、というだけであって、差別であるとして非難する人はいくらでもいるでしょう。
    いくらでもいる訳ありませんよ。世の中にはいろんな病気(皮膚病?)がありまして、極稀にどうにもこうにも見るに耐えないものまであるのです。
    …正直になりましょうよ。
    >しかし、差別をした方が差別をしないよりも利益になるなら、単に非難することでは問題は解決しません。だからこそ、この種の差別は米国の法律 Americans with Disabilities Act of 1990 では違法とされているのですね。
    以上の理由から、(少なくとも特異なケースにおいては)非難する人がいないんだってば。
    >上でコスト計算という話をしましたが、もし「多少有能」どころか「ものすごく有能」だったら不快感を我慢してでも雇う方が得だという判断もあり得るわけですね。だからそれは、コスト判断による差別であって、嫌悪感による差別とは言えない、というわけです。
    「有りうる」どころか、多くの人がそうするでしょう。そして「ものすごく有能」という特別の条件を必要とすることが「嫌悪感による差別」を暗黙裡に肯定していますね。
    >除外してませんが(入るとも言っていないけど)。本文ちゃんと読んでね。
    触れないことで「差別」する方法もあると思います。
    あと、「せっかく経験を積ませて実力をつけた女性社員に早期退職されて損を出し、淘汰」されるという場合、文脈からいえばその理由は、統計を無視したことにあるはずです。「実力」と勤続年数に相関関係があるとも思えないし。

  12. ラクシュン Says:

    >そんな優先順位あるわけないし、優先順位はこうだという主張(上野千鶴子氏が同性愛者よりも「女性」を優先することや、赤木智弘氏が被差別部落出身者より「弱者男性」を優先することなど)をわたしは一貫して批判してきたわけですが。本文ちゃんと読んでね。
    あるんですよ。 macskaさんが優先順位についてと「元犯罪者」や「ニート」を被差別者として語らないのは、macskaさんが「元犯罪者」や「ニート」をある意味で差別しているからではないでしょうか。
    「被差別部落出身者」「女性」「性的マイノリティ」「障害者」たちをそうではない者(=普通の男)と対立させることで差別を語る人にとっては、「元犯罪者」(=普通の男)や「ニート」(=普通の男)が差別の対象であっては困る部分があるはずです。
    「実際に差別や貧困を原因とした生活の苦しさがあって、それを背景に一部に犯罪に手を染める人がいたり」、例えばこういうことも言えなくなりますから。ここでは贅沢な普通の男の犯罪と「被差別部落出身者」の犯罪とを対比させることで「被差別部落出身者」の犯罪が差別の結果のように語られています。
    なので、少なくとも<普通の男>とそれ以外の対象との間には優先順位が原理的に要請されると思います。
    まぁ「元犯罪者」「ニート」に関して語らないのはmacskaさんに限ったことではありませんが。

  13. macska Says:

    私が言った「我慢のコスト」とは「嫌悪感」の度合のことです。つまり精神的コストのことです。

    そのコストが経済的なコストのことではないのであれば、経済的な利益と非経済的なコストを比較してどちらが上回ると判断すること自体がそもそもおかしいです。
    いかに不快であっても「多少有能」どころか「ものすごく有能」なら不快感を我慢してでも雇うかもしれない、という点はラクシュンさんも認められているのですよね。つまり、あなたの言う「精神的コスト」は経済的な利益によって埋め合わせ可能であるということになり、そうであるならば「精神的コスト」はそれを埋め合わせるのに必要な金額と同額の「経済的コスト」として扱うことが可能であるということになります。すなわち、「精神的コスト」を経済的なコストとは別の論理で扱う必要性がありません。

    世の中にはいろんな病気(皮膚病?)がありまして、極稀にどうにもこうにも見るに耐えないものまであるのです。
    …正直になりましょうよ。

    「見るに耐えない」と感じることや、雇用したくないと感じることは、それ自体非難されるべきだとは思いません。しかしラクシュンさんは、そういう人を「雇用しなかったからといって、誰がそれを非難するでしょう」と書いているので、障害や疾患に対する不快感を理由に「雇用しないこと」については、それが差別だとして非難する人はいくらでもいると言っているのです。
    自分の不快感に正直になるということは、不快感を理由とした差別を正当化することとは別のことであるはずです。不快に感じること自体は多くの人に理解されるでしょうが、だからといって差別しても「誰も非難しない」なんてのは、あなたの勝手な思い込みです。

    触れないことで「差別」する方法もあると思います。

    そういう場合もあるというのはその通りですが、この場合そうだという根拠をあなたは何も挙げていませんね。仮に「本物の天才は世間には理解されないものだ」という言明に事実が含まれているとしても、それは「世間に理解されない自分は本物の天才である」とは限らない、みたいな。

    あと、「せっかく経験を積ませて実力をつけた女性社員に早期退職されて損を出し、淘汰」されるという場合、文脈からいえばその理由は、統計を無視したことにあるはずです。

    そうですよ。まさにそういう論旨の主張をしているのですが。
    何の話だと思ったんですか?

    macskaさんが優先順位についてと「元犯罪者」や「ニート」を被差別者として語らないのは、macskaさんが「元犯罪者」や「ニート」をある意味で差別しているからではないでしょうか。

    わたしだって差別心くらいあるでしょうから「差別なんてしていない」と言うのは避けようと思いますが、全く無根拠にそんなことを言われても困りますね。わたしが誰かを差別しているのではないかと言うのであれば、具体的にどういう発言からそれが伺える、みたいに指摘して欲しいのですが。

    「被差別部落出身者」「女性」「性的マイノリティ」「障害者」たちをそうではない者(=普通の男)と対立させることで差別を語る人にとっては、「元犯罪者」(=普通の男)や「ニート」(=普通の男)が差別の対象であっては困る部分があるはずです。

    わたしは「『被差別部落出身者』『女性』『性的マイノリティ』『障害者』たちをそうではない者(=普通の男)と対立させる人」ではないですし、「被差別部落出身の男性」「ゲイの男性」「障害者の男性」が「普通ではない男」であり、「犯罪者の男性」「ニートの男性」は「普通の男」であるという区別が理解不能です。自分が抱いている偏見をわたしに投影しないでいただきたい。
    わたしがDV加害者小児性愛者(どちらも男性が多数を占め、元犯罪者やニートと同じく社会的に蔑視されている)についてどういう発言をしているかを読めば、あなたの言うことは無茶苦茶な言いがかりに過ぎないことが分かると思います。
    「元犯罪者やニートを差別している」とか「元犯罪者やニートを差別しなければ都合が悪いのだろう」じゃなくて、「元犯罪者やニートについても扱って欲しい」という要望なら考えてもいいんですけどねぇ。

  14. ラクシュン Says:

    >macskaさん
    >そのコストが経済的なコストのことではないのであれば、経済的な利益と非経済的なコストを比較してどちらが上回ると判断すること自体がそもそもおかしいです。
    だったら「慰謝料」なんて概念自体無効では?
    というか、それを言うなら「(産む)機械」ではない人間の行いを、「経済」の一観点からのみ炙り出そうとする方がまずおかしいと思うのですが。
    >つまり、あなたの言う「精神的コスト」は経済的な利益によって埋め合わせ可能であるということになり、(…)
    後は意味が解らないので仮にそうだとしても、例のタイプの人が並の能力の持ち主ならわざわざ無駄なコストを注ぎ込まなければならない理由(動機)がないでしょう。とはいえ、一般的な軽度の障害者の雇用なら企業のイメージアップに貢献するというメリットもあると思いますけど。
    近くのスーパーなどでも。
    >しかしラクシュンさんは、そういう人を「雇用しなかったからといって、誰がそれを非難するでしょう」と書いているので、障害や疾患に対する不快感を理由に「雇用しないこと」については、それが差別だとして非難する人はいくらでもいると言っているのです。
    ですから私の認知環境においてはそんな人はいないと言っているのです。何処かにいるにしてもです。したがってmacskaさんの念頭にあるのが飛びぬけた能力の持ち主だからそうなるというだけでしょうと思ったりで。実際、「いくらでもいる」と言われる雇用差別がらみの文脈で語られるのは「女性」≫「障害者」>「同和関係者」=「性的マイノリティ」といったところです。
    >自分の不快感に正直になるということは、不快感を理由とした差別を正当化することとは別のことであるはずです。不快に感じること自体は多くの人に理解されるでしょうが、だからといって差別しても「誰も非難しない」なんてのは、あなたの勝手な思い込みです。
    そう言うmacskaさんのような人たちが経営者だったとしても、私が例示したような人を雇う確率は低いのではないかとさえ思えます。具体的なデータなどはありませんけどね。私は差別の正当化が目的なわけではなくて、一番過酷な差別に晒されている人(個人的想像)たちを無視した反差別運動というものに空虚さを感じているだけです。因みに私が経営者であれば絶対に雇わないということではありませんよ。人間なんて最終的には気分次第ですから。

  15. ラクシュン Says:

    >そういう場合もあるというのはその通りですが、この場合そうだという根拠をあなたは何も挙げていませんね。仮に「本物の天才は世間には理解されないものだ」という言明に事実が含まれているとしても、それは「世間に理解されない自分は本物の天才である」とは限らない、みたいな。
    何の根拠かはともかくとして、「元犯罪者」と「ニート」の例は挙げています。そしてこれらの集団は雇用差別をうけていますが「差別」として語られることはないというこで十分でしょう。
    >そうですよ。まさにそういう論旨の主張をしているのですが。
    何の話だと思ったんですか?
    でしたら「女性社員」のケースでは、経営者が統計を無視(orそれに逆行)する致命的かつ非合理的選択をした結果にすぎないということであって、「差別をした者が得をし、差別をしない者がバカを見る」といった類のことではないような気がします。macskaさんの意見では「蔑視型差別」と「偏見型差別」が異質なもののように扱われていますが、私から見れば両者は殆ど同じものですよ。人間が判断することですから境界線の曖昧さが付き纏うだけのことではないのでしょうかね。
    「深刻なのは、差別者本人にとって合理的な(あるいは合理的に見える)、「偏見型」の差別のほうだ」、どちらも当人たちにとっては合理的なんだと思いますよ。
    技能的には何も問題がなくても、言葉づかいが若干荒いということで採用されないケース(健常者)などの場合、私などはそれはそれで常識的判断だと思うのですが、macskaさんにとっては非常識or非合理なんでしょうね。
    >わたしだって差別心くらいあるでしょうから「差別なんてしていない」と言うのは避けようと思いますが、
    「私と変わらないと思いますけど」って言われたら心外でしょうね。
    >わたしは「『被差別部落出身者』『女性』『性的マイノリティ』『障害者』たちをそうではない者(=普通の男)と対立させる人」ではないですし、
    もう言いませんが、直接そう思わなくて済むトリックがあると思っています。
    「性的マイノリティ」は失言ですので撤回します。

  16. ラクシュン Says:


    >「元犯罪者やニートについても扱って欲しい」という要望なら考えてもいいんですけどねぇ。
    いちおう今回の目的はそれではないのでお気遣いなく。
    一番の目的はたしか、「元犯罪者やニートを差別している」というより、「元犯罪者やニートは差別されている」と書くこと。

  17. ラクシュン Says:

    内容的にとっちらかってしまったので私の意見を要約しておきます。
    <蔑視型差別>
    ・蔑視型差別は、際立った能力の持ち主(性格的に特に問題なし)の非雇用は「不合理」でOK。
     (それ以外のケースでの合理/非合理は状況や観点に依存)
    <偏見型差別>
    ・有能な女性社員を多く採用した経営者は、企業にとって純粋に「不合理」な選択をしたにすぎない。
    ・数字自体に責任はない。
    ・女性社員のケースにおいて、「差別をしない者がバカを見る」が違うと思うのは、経営者がバカを見たのは「差別」をしなかったからではなく、フェミニストたちによって植え付けられた<逆向きの“偏見”>(男女は同じ)に経営者が支配されていたか、経営者自身が統計データすら眼中に無いほど無能だったと思うから。
    ある統計上の傾向を100%と見なす傾向を「偏見」というなら、「女性差別」問題にはそんな極端な偏見はない(若しくはかなり薄まっている)と思います。
    それより私が今回のことで懸念するのは、「あヤッパリな」「だからなんだぁ」といった落胆の方です。この種の落胆の影響が大きいと思えるのは、それが↑にある<逆向きの“偏見”>の結果のように思えるからです。
    ・・・・・・・・END・・・・・・・・・・

  18. cider Says:

    ひとつだけ。企業にとってもっとも利益があるのは「有能かもしれない」人間を「採用しないこと」ではなく、「有能かもしれない」人間の労働をたとえば統計情報などを理由に「安く買い叩く」あるいは、「不安定な待遇で我慢させる」こと。この点ではmacskaさんの言う蔑視型差別と偏見型差別の差異は大きくでますね。

  19. GBG Says:

    大変お久しぶりです。いつも勉強になります。
    さて、今回の蔑視型差別と偏見型差別も、、目から鱗が落ちる思いで拝読いたしましたが、一つ基本的であろう質問があります。
    アメリカでは、例えば自動車保険は個人の事故歴、違反歴のほかに居住地によって、保険料(premium)が変わりますよね。貧困地区は高くなります。これも、保険会社が、「あの危ない地域に住んでいるということは、自動車泥棒に遭うかもしれないし、当て逃げされるかもしれないし、、」と、利益を最大化しようとして、統計的に「合理的」な差別をしていると言えませんか?
    だとすれば、そういうのも糾弾、というか、批判の対象になりますか? 反差別運動の文脈で。
    それとも、女性社員の採用を回避するのとはケースが違うと考えますか。
    と言うのは、女性社員の場合は、「女性は早期退職する割合が高い」としても、それは、「産休後に職場復帰しづらい制度や社会の構造」そのものを変えていければ、「早期退職する割合が高い」とされる女性の採用を回避することの「合理性」が低くなっていくので、「公共的倫理」を補完できる。
    しかし、先にあげた自動車保険の「地域別格差」は、貧困地区とそうでない地区の格差は、半永久的に存在する。(もちろん、どこが貧困地区とされる場所は変わっていくでしょうけど)
    だから、そういうのまで、偏見的差別のカテゴリーに入れない。
    そうとも考えられるのですが。
    ん〜。わかりづらかったらすみません。

  20. macska Says:

    アリゾナから帰宅しました。しかし明日はモンタナへ…
    ラクシュンさん:

    だったら「慰謝料」なんて概念自体無効では?
    というか、それを言うなら「(産む)機械」ではない人間の行いを、「経済」の一観点からのみ炙り出そうとする方がまずおかしいと思うのですが。

    わたしは「コスト計算をするまでもなく不当な扱いをするのを蔑視型差別、コスト計算をしたうえで不当な扱いをするのを偏見型差別」と整理したうえで、そういう整理をしなければ見えにくい問題があることを指摘しています。そういう趣旨をあなたは理解できてますか?

    ですから私の認知環境においてはそんな人はいないと言っているのです。

    わからないヒトですねー。あなたの周囲にいないことはとっくに分かってますよ。でも、世の中にはそういう人だってたくさんいるんですよ、とわたしは言っているの。それなのに「でも自分の周囲にはいない!」って言い返されても、それじゃ反論でもなんでもない。バカじゃない?と思われるだけ。

    そう言うmacskaさんのような人たちが経営者だったとしても、私が例示したような人を雇う確率は低いのではないかとさえ思えます。

    だから、まさにそれがわたしが主張していることなんですよ! 差別はいけないと思っている経営者であっても、社員の生活を預かっていることを考えれば、コスト計算に合わない人をあえて雇うというのはありそうにないですよね。それが「本人に能力や適性がないからコスト計算にあわない」のではなく「社会の偏見や自分たちが感じる不快感がもたらす損失が原因でコスト計算にあわない」場合、それは偏見型の差別となるわけです。そして、一般論として差別に反対する立場の経営者であっても、経営上の理由により差別に加担してしまうことが多々あるからこそ、偏見型差別が深刻だと言っている。わたしが言っていることをそのままわたしに言い返して反論した気にならないでください。

    でしたら「女性社員」のケースでは、経営者が統計を無視(orそれに逆行)する致命的かつ非合理的選択をした結果にすぎないということであって、「差別をした者が得をし、差別をしない者がバカを見る」といった類のことではないような気がします。

    あのー、その2つは全く同じことを言っているのであって、全然対立しないんですけど。たとえば、「女性社員は早期退職する割合が有意に高い」という統計が事実だったとして、「だからといって差別してはいけない」と男女を対等に扱う経営者と、「統計上男性を雇った方が安全だから男性を優遇しよう」と判断する経営者がいた場合、前者が損して後者が得をするということが起こりえるわけです。その場合、前者の経営者は「統計を無視する致命的かつ非合理的選択をした」と言うこともできるし、「差別をしなかった」と言うこともできるわけで、どちらも同じことを言っているのね。一方が正しくて他方が間違いという話ではないの。

    「深刻なのは、差別者本人にとって合理的な(あるいは合理的に見える)、「偏見型」の差別のほうだ」、どちらも当人たちにとっては合理的なんだと思いますよ。

    あのさ、わたしは(少なくとも当事者にとっては)合理的なコスト計算に基づく差別と、そうでない差別を区別して定義しているわけですよ。そのように定義された言葉を、定義に反するような使い方して何か言おうとしても無意味ですよ。

    <蔑視型差別>
    ・蔑視型差別は、際立った能力の持ち主(性格的に特に問題なし)の非雇用は「不合理」でOK。
     (それ以外のケースでの合理/非合理は状況や観点に依存)

    蔑視型差別は常に非合理的だとわたしは言っていないの。そうじゃなくて、合理的だとか非合理的だとかそういう判断基準ではなく、コスト計算をするまでもなく嫌悪感や不快感をベースに拒絶するのが蔑視型差別である、と言っているわけ。

    ある統計上の傾向を100%と見なす傾向を「偏見」というなら、「女性差別」問題にはそんな極端な偏見はない(若しくはかなり薄まっている)と思います。

    100% でなくても、統計上有意な差があって、差別することによるコスト(裁判のリスク、評判の問題など)より期待値が大きければ、差別することは十分に合理的な判断になるの。勝手に「100% と見なす傾向を〜」と定義を変更しないでね。
    GBGさん:

    だとすれば、そういうのも糾弾、というか、批判の対象になりますか? 反差別運動の文脈で。
    それとも、女性社員の採用を回避するのとはケースが違うと考えますか。

    保険というのはかなり特殊な産業でして、もうちょっと別の議論が必要になってくるのでのちのち別に取り上げようかと思います。とりあえず簡単に答えると、統計的に予想されるリスクによって保険料が変わることは保険がビジネスとして成立するために絶対に必要ですが、かといってどのような統計でも利用して良いというわけではなく、場合によっては差別として問題になり得ます。しかしそこに確かな基準があるわけではないという点が、またややこしいのですが…
    そういう事まで含めて、「統計によって差別することを無制限に認めることはできない」と言いつつ、逆に無制限に駄目だとも言いきれないわけです。

  21. ラクシュン Says:

    >macskaさん
    >でも、世の中にはそういう人だってたくさんいるんですよ、とわたしは言っているの。それなのに「でも自分の周囲にはいない!」って言い返されても、それじゃ反論でもなんでもない。
    だからそれを解った上で、私の認知環境から判断して、そんな人は「たくさんいる」とは言えないのではないかと言っているんですよ。
    >それが「本人に能力や適性がないからコスト計算にあわない」のではなく 「社会の偏見や自分たちが感じる不快感がもたらす損失が原因でコスト計算にあわない」場合、それは偏見型の差別となるわけです。
    あのー、私が挙げた例ですが、あれを「偏見型の差別」と言い張るのはかなり無理があると思います。誰がどう見たって「蔑視型」ですよ。
    だって「蔑視型」について、
    「お年寄りに対する「選好による差別」(蔑視型差別)」
    「前者は対象に対する嫌悪感などから側にいたくない(一緒に働きたくない、近所に住みたくない、ほか)という動機による差別行為」
    「自分の属性に対する嫌悪感(蔑視)」
    って書いてあるじゃないですか?
    >そして、一般論として差別に反対する立場の経営者であっても、経営上の理由により差別に加担してしまうことが多々あるからこそ、偏見型差別が深刻だと言っている。わたしが言っていることをそのままわたしに言い返して反論した気にならないでください。
    「偏見」や「差別」問題が「深刻」で根深いというのは昔からそうですよ。
    差別を「蔑視型」と「偏見型」に分類したことがそんなに画期的なことなのですか?
    >わたしが言っていることをそのままわたしに言い返して反論した気にならないでください。
    本文を読んだだけではそこまで解らないのが普通だと思うんですけどね。
    あいやっ、自分の読解能力に疑問符を抱いてない訳でもないんですけどね。

  22. macska Says:

    ラクシュンさん:

    だからそれを解った上で、私の認知環境から判断して、そんな人は「たくさんいる」とは言えないのではないかと言っているんですよ。

    ああそうですか。って、わたしは別に具体的に「何割くらいいる」とか言ってるのではなくて、「誰がそんな事をいうだろうか」つまり「そんな人は(ほとんど)いない」と言いきれるほど皆無というわけではないだろう、と言っているわけです。あなたの周囲にはいないかもしれないけれど、わたしの周囲にいるのであれば「誰が〜」とまで言い切ることはないんでは。

    あのー、私が挙げた例ですが、あれを「偏見型の差別」と言い張るのはかなり無理があると思います。誰がどう見たって「蔑視型」ですよ。

    そういう誤解を呼んでしまったという意味で、わたしが訳語を工夫して「偏見型」「蔑視型」という用語を作ってしまったことは失敗だったかな、と感じたわけです(コメント欄の上の方参照)。両者を区別するのに重要な点は、コスト計算をするかしないかということです。

    差別を「蔑視型」と「偏見型」に分類したことがそんなに画期的なことなのですか?

    「蔑視型」「偏見型」という用語はわたし独自のものですが、この区別そのものは学術的に一般的なものです。どうしてそれが重要なのかは本文中に書いてあります。あなたにそれが理解できない(内容を理解したうえで納得しないのではなく、そもそも内容自体を理解できていない)のは困ったものですが。

    本文を読んだだけではそこまで解らないのが普通だと思うんですけどね。

    あなた以外は少なくともあなたよりは理解しているように見えます。
    ていうか、「どこが重要なのか理解できない、それはお前の書き方が悪いからだ」、と思いたいならそう判断していただいて結構ですから、もういい加減にしてくださいね。異論・反論ならともかく、本文をきちんと読めば解ける程度の誤解を延々と書き込まれるのは迷惑です。

  23. ラクシュン Says:

    >(…)「誰がそんな事をいうだろうか」つまり「そんな人は(ほとんど)いない」と言いきれるほど皆無というわけではないだろう、と言っているわけです。
    見方はいろいろでしょうが、macskaさんの理論ですら、並みの能力の持ち主に対する差別には言及していないのだからやはり皆無に近いのだと判断しておきます。今回の私の関心事は、「差別」とは認識されない差別、社会的に見過ごされる差別ということだったのですが、やはり私の例示したケースなどは重要視されていないということだと思います。
    やはり差別の糾弾には差別を利用するしかないのかな。
    >そういう誤解を呼んでしまったという意味で、わたしが訳語を工夫して「偏見型」「蔑視型」という用語を作ってしまったことは失敗だったかな、と感じたわけです(コメント欄の上の方参照)。
    どうもおかしいと思いました。
    >どうしてそれが重要なのかは本文中に書いてあります。あなたにそれが理解できない(内容を理解したうえで納得しないのではなく、そもそも内容自体を理解できていない)のは困ったものですが。
    大して「重要」じゃないのかもしれませんよ。 というかはやく言えば、能力差が無いにも拘わらず雇用されないというのが雇用差別の基本でしょう。しかしmacskaさんが言っていることではその種の差別はほとんど範疇外(蔑視型)ということでしょう。私の「現実ではそうはならない」というのはそのことを指しています。
    >あなた以外は少なくともあなたよりは理解しているように見えます。
    ホントにそーなんですかぁ…。それはそれで悪いことだとは思いませんけど。
    >ていうか、「どこが重要なのか理解できない、それはお前の書き方が悪いからだ」、と思いたいならそう判断していただいて結構ですから、もういい加減にしてくださいね。
    はい、ではお言葉に甘えてそうさせていただきます。
    コメント数も25をオーバーしていますし。

  24. macska Says:

    ラクシュンさん:

    見方はいろいろでしょうが、macskaさんの理論ですら、並みの能力の持ち主に対する差別には言及していないのだからやはり皆無に近いのだと判断しておきます。

    それが誤読だっての。能力がどうだという話は、あなたの議論が成り立たないことを示すために例示しただけなのに、それがわたし自身の主張の中核であるかのように言うのは、そもそもわたしの言っていることを全然わかっていない証拠です。わかった上で反論されるならよいのですが、何度説明してもわからない人の相手はしてられないです。

    というかはやく言えば、能力差が無いにも拘わらず雇用されないというのが雇用差別の基本でしょう。

    あのさ、差別された当人にとってはどちらも同じ、ということは、すでに本文中に書いているわけ。だから「きちんと読んでね」とわたしは言っているんだけど。

    しかしmacskaさんが言っていることではその種の差別はほとんど範疇外(蔑視型)ということでしょう。

    はぁ?勝手におかしな理解しないで、書いてあることをきちんと読んでください。
    ラクシュンさんとのこれまでのやり取りは、あなたが本文をきちんと読んでさえいればまったく不必要なことだけです。新たな論点は何もないし、わたしは本文に書いてあることの言い換え以外何も書いていないです。

  25. しゅう Says:

    蔑視型差別→嗜好による差別のほうが分かりやすいかな?(゜゜
    蔑むには逃避はどうあれそれなりの理由が要るし、女性蔑視と女嫌い(女性憎悪)じゃ、じぇんじぇん印象違うもんねー。
    弱者男性は救済の定義をすり合わせたほうがいい気もしますね。
    弱い立場に居る男性に対して、安易な自己責任論を押し付けたり、意識が低い、社会的責任が乏しいとバッシングをする人は男女問わず居るわけで。
    そういった偏見への対策はジェンダーブラインド(男女の別なく)ではまずかろうとおもいます。

  26. バジル二世 Says:

    >しゅうさん
    >女嫌い(女性憎悪)じゃ、じぇんじぇん印象違うもんねー。
    でも、憎むのも口実があるのじゃない? 蔑視にあるのと同じように。つか、ヘイトクライムだって合理化が行われているんじゃないすか。「アイツら社会のゴミだから」いじめちゃおうって。

  27. Josef Says:

    >蔑視型差別→嗜好による差別のほうが分かりやすいかな?(゜゜
    「嗜好」とか、macskaさん自身が訳している「選好による差別」とかの方が「蔑視」よりはいいかもしれませんね。
    それ以上に私がmacskaさんに言いたいのは「偏見型」は特に誤解されやすいのではないかということです。この二分法のキモは差別にも感情に発するものと計算に発するものとがあるということだと思います。だから言葉もその区別がくっきりするものを選んだ方がいい。その点、「偏見」という言葉はどうしても感情的・心理的な意味で取られやすい。たとえば「彼はAという属性への偏見を持っていないが、コスト計算上、結果としてAという属性を持つ人々を差別せざるをえない」という記述は可能ですが、これは「偏見型」に分類されます。すると「彼は…偏見を持っていない」と表面上矛盾する、つまり「偏見はないけど偏見型」みたいに「偏見」が二重の意味を持ってしまい、無駄に分かりにくくなる。
    macskaさんの訳、「選好による差別」と「情報による差別」のままの方がずっと分かりやすいと思いますよ。

  28. ラクシュン Says:

    (切り上げたつもりだったけど…)
    >それが誤読だっての。能力がどうだという話は、あなたの議論が成り立たないことを示すために例示しただけなのに、それがわたし自身の主張の中核であるかのように言うのは、そもそもわたしの言っていることを全然わかっていない証拠です。
    本文の中にも「蔑視型」が「非合理」な理由として、「有能な人材をみすみす採用し損ねかねない」と書かれています。ここでは「有能な人材」≡企業収益に大きく貢献する人材、ということでしょう。そして「有能」とは「能力」の度合である以上、どう控えめに見積もってもこの部分に一方的な私の「誤読」があるとは言えないのではないでしょうか。
    >あのさ、差別された当人にとってはどちらも同じ、ということは、すでに本文中に書いているわけ。だから「きちんと読んでね」とわたしは言っているんだけど。
    「どちらも同じ」というのは、普通の「女性」には当てはまったとしても、美醜的に明確な欠陥を抱えている当人には「同じ」ではないと思います。 「能力」“だけ”を見てもらえないという点では両者には共通性がありますが、女性の場合の婚姻退職率という事前確率に相当(体が弱い等)するものが後者には見当たりません。
    >はぁ?勝手におかしな理解しないで、書いてあることをきちんと読んでください。
    ホントに誤解なんですかぁ?
    だったら損失コストはどこから補填されるのか?
    >ラクシュンさんとのこれまでのやり取りは、あなたが本文をきちんと読んでさえいればまったく不必要なことだけです。新たな論点は何もないし、わたしは本文に書いてあることの言い換え以外何も書いていないです。
    あいま、macskaさんの完璧主義にとって「不必要」という可能性が脳裏を過りました。
    人間って、究極理論っぽいものを突っつきたくなる心理ってあるじゃないですかぁ。プ
    なのでとりあえず、私があげた幾つかの例は、その理論に対する反例のようなものだ考えたほうがイイかもしれませんね。それを否定しようとするからヘンになってくるんじゃないのかな。
    人間はどの階層の誰であれみんな差別的です。逆に言えば、差別被害者は、その立場に誇りを持って差別者側を見下す立場(対称的関係)に立てなくて差別被害を訴えている以上、差別者側に内面化されている差別感情から無縁でいられる訳がない。そこにはそのまんまのコピーがあるだけですよ。
    (したがって、自分の差別行為に因果関係(男が〜だから〜)を持ち込もうとする人間はホントのところでは愚の骨頂。)
    であと、「寛容」を説く人がパフォーマティブな側面で「不寛容」になるということはよくあることですよね。ですから、macskaさんの考えが(万が一)間違っていなかったとしても、理論の運用面においては、その理論自体が差別的に機能しうるということは考えておいたほうが良いかもしれませんね。
    もう充分言ったからホントにあとは自由に言って・・・・・シンドイし

  29. macska Says:

    モンタナから帰宅しました。
    しゅうさん:

    蔑視型差別→嗜好による差別のほうが分かりやすいかな?(゜゜

    実はエントリを書く前に「選好による差別」「情報による差別」を「蔑視型差別」「偏見型差別」と呼ぶのはどうだろうか、と知り合い数人に訪ねたところ、一人だけ「分かりにくい」と言ったのを除いては後者で大丈夫だという答えだったのでそのように書きました。が、これだけ誤読を招いていることを見ると、やっぱり分かりにくかったようです。
    わたしが「蔑視型」「偏見型」で良いのではないかと思ったのは、「蔑視」「偏見」という言葉を対にしたとき、前者はただの好き嫌いであり後者は何らかの思い込みという意味を持たせられるのではないかと思ったからです。が、対ではなく個別に見れば「蔑視」「偏見」という言葉では分かりにくい(Josefさんのまとめの通りです)。
    一部の人のコメントには、なんでこんな簡単なことが理解できないのだと不思議に思いましたが、どちらの用語の方が分かりやすいか確認できたことは意義があったと思います。

    弱い立場に居る男性に対して、安易な自己責任論を押し付けたり、意識が低い、社会的責任が乏しいとバッシングをする人は男女問わず居るわけで。
    そういった偏見への対策はジェンダーブラインド(男女の別なく)ではまずかろうとおもいます。

    具体的な対策としてはジェンダーによる違いに気を配る必要はあるあるでしょうが、救済を求める時点で「弱者男性」だけに注目し同じように苦しんでいる女性がいることを無視するのはいけないでしょう。
    ラクシュンさん:

    本文の中にも「蔑視型」が「非合理」な理由として、「有能な人材をみすみす採用し損ねかねない」と書かれています。

    だからさ、能力を挙げたのはひとつの例でしかないの。能力以外にも、企業(というか差別している行為者)の利益に繋がるものなら何でもそこに当てはまるの。それが分からないのであれば、いくらなんでも頭悪過ぎ。

    だったら損失コストはどこから補填されるのか?

    質問の意味が分かりませんが。
    差別を禁止した場合、各企業が被るコストですか? それなら、すべての企業が同じルールで競争することによって相殺されると考えられます。もちろん、そうすると全体の生産性が下がるわけですから、何でもかんでもすぐ禁止するのではなく、社会全体においてどういうトレードオフなら許容できるのかをきちんと議論する必要があります。

    私があげた幾つかの例は、その理論に対する反例のようなものだ考えたほうがイイかもしれませんね

    反例を出していただけたら嬉しいのですが、「わたしが言った通りの事実を、言葉を変えて言っているだけ」なので反例にすらならないのです。

  30. ラクシュン Says:

    すいません、私はどうもマチュカさんを貝かぶっていたようです。 マチュカさんは、雇用差別を単に分類してみたかっただけなのですね。そしてその分類によるメリットはほとんど無かった、と。それは当然そうでしょう。私が言っているように、「蔑視型差別」(選好による差別)に対する批判なんて、現実的には考えにくいんですよ。
    「差別者が淘汰されるなりすることが理論的にあり得る」、「あり得る」で簡単に片付けられていますが、そんな可能性なら何千年前からあり得たのですよ。
    マチュカさんは、何も言っていないに等しいのです。マチュカさんは何一つ新しいことを言っているわけではなくて、単に現実をなぞっただけ。

  31. macska Says:

    ラクシュンさん:

    マチュカさんは、雇用差別を単に分類してみたかっただけなのですね。そしてその分類によるメリットはほとんど無かった、と。

    雇用差別に限った議論をしているわけではありませんが、メリットは当然ありますよ。そしてそのメリットとは、本文で説明している通り、単なる不合理な行為としての差別(選好による差別)とは別に、経済的な合理性を追求した結果としての差別(情報による差別)が存在することをきっちり認識できることです。
    例えばリバタリアンと呼ばれる政治的立場を取る論者は、「性や人種などを理由に差別するのは不合理であり、そのような不合理なことをする企業は勝手に損をして淘汰されるだけなので、政府の介入は必要ない」と言います。しかし、そのようなコストを度外視した不合理な差別とは違った、むしろ合理性を追求するタイプの差別があるという認識は、差別の解消を市場に任せることの限界(そして、政府が介入した方が良いかもしれない根拠)を示すことになります。
    これは一例ですが、差別の議論と言えば「選好による差別」ばかりが意識されるのに対し、それとは別種の、本人に何ら差別意識がなくても加担してしまう、加担せざるを得ないようなタイプの差別の存在を認識することは、差別にどのように対処するかを考えるうえでかなり有意義だと思っています。

    マチュカさんは、何も言っていないに等しいのです。マチュカさんは何一つ新しいことを言っているわけではなくて、単に現実をなぞっただけ。

    この部分は半分その通り。わたしの行っていることはスタンダードな学問的認識であり、何ら新しいことではありません。が、多くの論者はそうしたスタンダードな学問的常識をわきまえずに差別を論じるので、そうした学問的常識を一般向けに解説することはそれ自体意義があることだと思います。
    ただ、一般向けに分かりやすい用語を考えたつもりが、その用語が別の方向に混乱を招いてしまったという意味では、その「一般向け解説」にやや失敗したというのは確かですね。その点は反省していますが、一般向けに解説しながら、わたしもどのように解説すればいいのか学ぶことができたというわけで、結果的には良かったと思います。

  32. macska Says:

    バジル二世さんとの対話は、以下のページに移しました。
    http://d.hatena.ne.jp/macska/20070415/p1
    もうレスする気はないとの事ですので、これ以上長引かせるのはやめてね。

  33. ラクシュン Says:

    あと気になるのは、「弱者男性を救済しろ」(だっけ)の件について、つまり<「弱者男性」への社会的な手当の必要性」>についてのmacskaさんの意見、<「是非とも必要である、ただし男性に限って議論するのはおかしい」>についてです。この主張が議論になった当初の文脈から切り離した(正確に覚えていないので)場合、私はこれはこれで有効な主張として成り立つケースがあると思います。macskaさんの主張が一見もっともらしく見えるのは、そこに経済力の格差がそのまま男女の生活水準に反映されるような社会が前提されているからだと思います。
    しかし現実はぜんぜん違いますよ。各種社会制度の男女格差を見れば明らかだと思いますが、徹底的に「弱者男性」に厳しいのです。
    ホームレスの男女比はその一つの象徴例にすぎません。

  34. ラクシュン Says:

    >各種社会制度の(…)
    社会保障制度4部門の中の、公的扶助、社会保険、社会福祉の意味でした。

  35. ラクシュン Says:

    あと、ホームレスを最貧層の最弱者と定義すれば、「弱者男性を救済しよう」という倫理的言明自体はトリビアルに成立しますよね、言うまでもないことですが。
    ではでは。

  36. macska Says:

    「ホームレスを最貧層の最弱者と定義」することに同意しません。というか、そのような「抑圧の重さの比較」をするべきではない、とわたしが考えていることは、既に説明していますね。
     どちらにしても、「弱者男性」の話は邪魔だから別のところに移したばかりですし、ここであまり続けないで欲しいです。

  37. ラクシュン Says:

    >非理性的な蔑視が取り除かれたあとに、より洗練された統計データによる、完璧に合理的な差別社会が生まれる可能性だってあるわけ。
    想像できる具体例としては、9.11で女性消防士が一人も死ななかったという事実(情報)に基づいて、女性消防士を不採用にする、といったケースが考えられますよね。
    しかしこればっかりは「情報による差別」は正しいでしょう。
    つーかあれから死んでるの?

  38. macska Says:

    ラクシュンさん、あなたは 911 当時に NYFD において女性消防士が何人いたか知ったうえで、こういう主張をしているんですよね? 醜いなあ。
    知らない人が騙されると困るので解説しておくと、当時 NYFD で雇用されていた消防士は約 11400 人で、そのうち女性は 28 人(0.25%)。これは全国平均から比べても1割以下という、極端に低い割合です。これだけ少ないと、配置の偏りや単なる偶然で女性消防士の被害者が出ないことだって十分あり得るわけで、911 当日に女性消防士が救助活動を躊躇したという証拠は一切ありません。
    もしこんな事実を根拠に女性差別をするなら、少なくともそれは「洗練されたデータによる、完璧に合理的な差別」ではなく、「データの恣意的な利用による、恥知らずな差別の合理化」でしかないでしょう。わたしの記述の実例としてまったく不適切です。
    だいたい、消防士の仕事って死ぬことじゃないと思うんですが。
    死んだかどうかで評価されてもなぁ。

  39. ラクシュン Says:

    >これだけ少ないと、配置の偏りや単なる偶然で女性消防士の被害者が出ないことだって十分あり得るわけで、
    前によそで話題になったときと数字が違っていませんか? そしてあのときは女性消防士が死ぬ確率の方が高かったじゃないですか。ごく僅かだけど。
    >だいたい、消防士の仕事って死ぬことじゃないと思うんですが。
    これはごもっともな意見です。しかし「情報による差別」主義にとっては情報がどうアップデートされるかが問題になってくると思います。でなきゃ「洗練された統計データによる、完璧に合理的な差別社会」なんて別に恐くないでしょう。
    しかしやっぱり・・・

  40. ラクシュン Says:

    >しかしこればっかりは「情報による差別」は正しいでしょう。
    やはり、9.11の事例だけで「正しい」と断言することはできないと思うのでここは撤回したいと思います。私の思い込みもいっしょに入っていました。

  41. cider Says:

    「合理的(選択)」と「合理化」とが区別されているようなので考えてみると、macskaさんが「合理的」と呼ぶのが偏見型差別のうち統計的データによって実証されるものだけだとすれば、すくなくとも雇用に関する偏見型差別はすべて「合理化」に属すると思う。企業の選択は「結果として」経営を存続できていることによってその「合理性」が図られるのだから、企業の選択の合理性は事後的にしか確認できない。
    早期退職の可能性が高いカテゴリーの人物を雇用したとしても、結果として企業が存続できていれば、その選択は合理的「だった」ことになる。「合理的」だったことが確認されるためには、実際に様々な選択を様々な企業が為し、その結果として企業活動の存続に関する差異化がなされなければならない(そしてデータはその時点でとられなければならない)。
    そうではなく、事前にリスクを予期して偏見型の選択がなされる場合には、その選択自体が合理的かどうかはいまだ確認されていないのだから、偏見はその選択を(心理学的・社会心理学的な意味で)「合理化」するものであるに過ぎない。またそのような予期に基づく選択は各企業間の差異化によって達成される合理性に影響を与える。差別については常に言われることだけれど、取られた統計が差別の「原因」となる個々人の特性を表すものなのか、偏見に基づく社会的選択(つまり差別)の「結果」を表しているのかは、統計が社会の中で行われている以上判然としない。
    市場モデルに基づく限り「合理的な差別」の問題よりも「差別の合理化」が常に問題になるし、なってきたわけで、(企業の存続ではなく)企業利益に結びつく差別は企業内の「組織論上」の「合理化」において機能してきた、というのが古典的な理解だと思いますが。

  42. 田中 Says:

    >差別的な扱いを合理性によって正当化する論理に対抗するための公共的な倫理
     日本では、均等法およびそれに付随する一連の通達が、いちおうこれを提供しているのだと思います。ので、法学の議論のレベルでは、macska さんが指摘した問題はすでにクリアされている……はずです。で、現状の問題点は、差別禁止法が「強権的」でないところと、そもそも強権を発動しにくい領域 (家族とか) での不公平に対抗できないというところにあるのだと思います。

  43. 田中 Says:

    ↑上のコメントは、「統計的差別」についてのものです。で、
    >「情報による差別」はわたしの経験だと「統計的差別 statistical discrimination」と呼ばれることの方が多い
    macska さん自身の解説によるかぎり、この説明はまちがいです。「統計的差別」は「情報による差別」の下位概念、だと思います。前者は「対象の能力や特性についての思い込みを理由とした差別行為」すべてをふくむのであり、その思い込みがどこからきているかを問わない。統計的推測にもとづくものであってもよいし、そうした根拠を欠く単なる「思い込み」でもよい。また、正確な推測である必要もない。実際「ウィーケストリンク」においては
    >ラティーノの回答者は常に実際のクイズの実力よりも能力を低く見積もられる
    ということですから、差別者はあやまった推定をおこなっているわけですよね? よりまとも (unbiased) な推定をおこなうほうが当然合理的ですから、合理的な差別者にとって、ラティーノの回答者の能力を低く見積るインセンティブはありません。
     結局のところ、「蔑視」と「偏見」のちがいは、いったん relevant なものさしにおきかえたうえで差別がおこわれるかどうかという点なのでしょうが、macska さんの論点からいえば、そこではなくて、経済合理性があるかどうかこそが問題のはずです。ですから、「不偏推定量による統計的差別」とそれ以外を区別するべきなのだと思います。「偏った推定量による統計的差別」「非統計的推測による差別」と「選好による差別」とをわける必要はない。あとのほうでは「その偏見がある程度の統計的事実を元にしている限りにおいて」と限定して述べている箇所もあるわけですし。

  44. macska Says:

    なんでこう次から次へとユニークな解釈がうまれるのか、よほどわたしの説明がヘタだったのかもしれません。全て文中で説明済みだと思ったんですけどね。忙しいのでちょっと勘弁して欲しいのですが、誤読を前提にコミュニケーションが進んでしまうのは困るので。
    ciderさん:

    、macskaさんが「合理的」と呼ぶのが偏見型差別のうち統計的データによって実証されるものだけだとすれば、

    誤読です。何度も書いているように、主観的に経済的合理性に基づいた計算を行なうかどうかだけが判断の基準。ラクシュンさんが911に関連して言っていたのは、そうした主観的な経済的合理性を「正しい」という意味の「合理的」にすり替えたから、それはおかしいと指摘したまでです。
    「情報による差別」には、一般的に「偏見」と呼ばれる種の、まったく不合理な、しかし判断当事者にとっては主観的に合理的に思えるものが含まれます。例えば、特定の人種は無能だから雇わないという予断があったとして、その予断が間違いであれば(あるいは、統計的にその集団の能力が劣るというのが事実だったとしても、きちんと個別に選別するコストの方が、一律に雇わないことのコストより安ければ)、当人にとっては合理的な判断であっても、客観的には不合理です。
    しかし、世の中の方向性としてはそうした不合理な予断は減っていく方向に向かっているし、客観的に不合理であれば判断当事者にとっても不利益になるので、そういう種類の差別は今後も減っていくと思われます。その場合、「情報による差別」の根拠として偏見にかわって、より緻密な統計情報に基づく、経済的合理性に基づく差別が今より深刻になるかもしれません。とまぁ、そういう話をしているわけで。
    田中さん:

    macska さん自身の解説によるかぎり、この説明はまちがいです。「統計的差別」は「情報による差別」の下位概念、だと思います。

    いやだからですね、そう区分するのが合理的(この場合は、理にかなっているという意味)だとわたしも思いますが、両者は等価な学問的な用語として実際に通用しているので、そのように説明するのは「まちがい」ではありません。

    結局のところ、「蔑視」と「偏見」のちがいは、いったん relevant なものさしにおきかえたうえで差別がおこわれるかどうかという点なのでしょうが、macska さんの論点からいえば、そこではなくて、経済合理性があるかどうかこそが問題のはずです。

    うーん、しかしわたしは学問的に流通している概念を正しく紹介したうえで、自分が重要だと思う論点を指摘したいわけでして、両方説明する必要があるでしょう。「情報による差別」と「選好による差別」を区別するのに、ウィーケストリンクの例は(具体的なデータによる検証が可能という点で)よくできていますし。

  45. ラクシュン Says:

    >何度も書いているように、主観的に経済的合理性に基づいた計算を行なうかどうかだけが判断の基準。ラクシュンさんが911に関連して言っていたのは、そうした主観的な経済的合理性を「正しい」という意味の「合理的」にすり替えたから、それはおかしいと指摘したまでです。
    なんだかまた難しくなっていてよく解らなくなってきましたがぁ、いちおう言っておきますと、私が「正しい」という判断を撤回したのは、女性消防士の死亡率は男性消防士のそれより低くなるだろう、という個人的な予測(未検証)から結論を導いてしまっていたからですよ。

  46. cider Says:

    「誤読です」以下のパラフレーズは今回のエントリーのmacskaさん意図として私が想定していたものと寸分違わなかっただけに、ほっとすると同時にギョッとするわけですが。
    まず、「ウィーケストリンク」の研究は、市場的な統制環境下で、差別を測定・実証しようという試みであって、市場における差別の「合理性」を解明したものではないですね。
    macskaさんも前提となさっているように、「差別」は市場の構成要素ではなく環境に属する情報であり、市場自体は「真偽にかかわりなく」情報に準拠して挙動を生み出していきます。
    ウィーケストリンクにおいても「情報」は「エージェントにとっての選択の根拠」にはなっても、それが合理的な選択である保障はなく、選択の結果、ある人が排除されることの恣意性は変わりありません。だからゲームとして面白いわけですが。
    市場において、エージェントの挙動を生みだすトリガーとなる情報自体は事実である必要も合理的である必要もなく、このことは「差別」に限らずあらゆる「情報」に言えますし、「蔑視形」「偏見型」も同様に(市場にとっての)外部情報なのですから、合理的である必要はありません。もちろん合理的であってもよいのですが、それが利益に直結するわけではありません(だからウィーケストリンクを研究すると「差別」が実証できるわけで)。なぜなら最重要視すべき情報は他のエージェントの挙動履歴(内部情報)だからで、その挙動の「結果」が市場においては差異化されるわけですが、それにしても生き残ったエージェントの選択が「当該時点の市場での生存において」合理的な選択「だったこと」が遡及的に明らかになるに過ぎません(物理現象と異なり、コミュニケーション空間である市場では、選択の合理性は事後的にしか明らかになりません)。
    そうすると、前半部のウィーケストリンクの議論と、後半に登場する「統計的事実と合理的差別」の議論の間には距離があり、結果として結論である「インセンティブの方向変え」に関する部分の説得力が半減してしまっているように見えます。市場モデルに則って差別の解消を目指す根拠として挙がっているのは「一般に「差別」という言葉から多くの人が思い浮かべるのは、「蔑視型」の差別だと思う」というmacskaさんの予想だけなので。弱者男性云々のコメントはどれも頭を傾げたくなるものでしたが、それとはぜんぜん別なところで今回のmacskaさんのエントリーには議論の余地があるでしょう。
    実際の経済における、たとえば性差別は、純粋に市場モデルの上に成立しているわけではなく、経済構造とその外部情報(文化構造)の関係というモデルは古典的なフェミニズムの理論で説明されてきたもので、この二元構造ならばある条件の下で相当な確度で企業は(市場内外の)利益をうみだせます。いつものmacskaさんなら「市場の検討と同様に反差別の呼びかけ(文化構造への働きかけ)「も」重要だ」というところだと思いますが。
    >「わたしたち一人一人は、どんな犠牲を払ってでも倫理的信念を曲げずにいられるほど強くない。だからこそ、社会政策を設計する立場の人たちが、的確な倫理的判断によって「倫理に頼らなくてもうまくまわる仕組み」を作らなくちゃいけないわけ。」
    「啓蒙に疲れた知識人のシニシズムへの反転」はよく見られるものですが、アーキテクチュアルな管理に抵抗するためにアーキテクチュアルなメカニズムを導入することで何が失われるのかが問題なわけで、「議論」や「合意」を重視するいつものmacskaさんからこういう意見が出てくると、少々がっかりします。 minxのほうでのお話(そちらの前半の投稿にはまったく賛同できませんでした)の続きということで、このような流れになってしまったとしたら残念に思います。

  47. 純子 Says:

    なんか、Macskaさんの思考のパターンが分かってきたな。
    簡単に言ってしまうと
    何も考えないで、「あの人たち嫌い」とパッと言ってしまうのが蔑視型差別。
    多くの人が「あの人たち嫌い」と思っているから、その人たちを雇うと会社に不利益が出るかもしれないと「合理的」に考えて雇わないのが偏見型差別
    ということでしょうか?
    問題は、
    「あの人嫌い」とパッと言ってしまう人は、本当に何も考えていないのか? 「合理的」に考えたはずの人は、本当に合理的に考えているのか? ひょっとしたら大バカものかもしれないぞ?
    ということでしょう?
    どこの誰が、何を基準に、この人は考えなし、この人は考えありということを判定しているのでしょうか?
    >よほどわたしの説明がヘタだったのかもしれません。
    うん、思いっきり説明不足だと思う(^^)

  48. macska Says:

    純子さん:

    なんか、Macskaさんの思考のパターンが分かってきたな。

    本文を読めばフツーに分かることです。分からない人は、「偏見」とか「合理的」という言葉が、文脈上どういう意味で使われているのか読み取れない人でしょう。ウィーケストリンクの例をちゃんと読めば分からないはずがないわけで。
    今回、確かに独自に工夫した訳語があんまり良くなかったし、もっと上手に説明できただろうと言われればそれは確かにその通りだと思うのだけれど、あんまり低い読解力の読者のレベルに合わせて書くのもどうかと。わたしは別にブログを読んでもらって商売してるわけじゃないからね。

    ということでしょうか?

    それだけじゃないですが、取りあえず間違いではありません。

    どこの誰が、何を基準に、この人は考えなし、この人は考えありということを判定しているのでしょうか?

    そのように個々の例を分類するための区別ではなく、差別という社会的問題を考えるうえで概念上区別が必要だと言っているのですが。(より正確には、差別が選好によるものだけに限らないこと、そして「選好による差別」は減る傾向にあったとしても、「情報による差別」は今後より精密化して深刻な問題になりかねないこと、ですが。)
    実際に判定するには、ウィーケストリンクのように詳細なデータが残るような仕組みが必要ですが、それにしたって個々のプレイヤーの個別の投票行動が選好によるものか情報によるものかなんて判定はできません。あくまで全体を見たとき、こうした傾向があると指摘できるだけ。

  49. Taso Says:

    ものっそい遅いレスで流れ読めてないかもしれませんが、
    「偏見型」、よりは、「統計型」差別の方が実情に近いかも??
    その統計型の中でも、許容されうるものと、許容されないものがあって、
    その差は、その差別の存在によって深刻な何かが発生するかどうか・・、つまり影響の面?かなと思いました。

  50. Josef Says:

    >エージェントの挙動を生みだすトリガーとなる情報自体は事実である必要も合理的である必要もなく、[中略]生き残ったエージェントの選択が「当該時点の市場での生存において」合理的な選択「だったこと」が遡及的に明らかになるに過ぎません。(ciderさん)
    これは今回のmacskaさんの論点ではありませんよ。蔑視による差別は一般に周知されているが、それとは別に、計算に基づく合理化された差別もあるんだよ、ということが納得されればとりあえずOK、というエントリだと思います。
    生き残ったエージェントの選択が生き残ったがゆえに合理的「だった」と事後的に言い得るとしても、それをもってその選択が差別じゃなかったことになるわけではない、という点が重要です。つまり事後的に判明する「合理/非合理」は本エントリの焦点ではないということです。
    ciderさんが引用するmacskaさんの次の文は確かに気になるところがあります。
    >わたしたち一人一人は、どんな犠牲を払ってでも倫理的信念を曲げずにいられるほど強くない。だからこそ、社会政策を設計する立場の人たちが、的確な倫理的判断によって「倫理に頼らなくてもうまくまわる仕組み」を作らなくちゃいけないわけ。
    公共的倫理は一部のエリートが持ってれば良く、庶民はエリートの配分するインセンティヴの上でひたすら私的利益を追求してりゃいい、みたいにも読めますからね。倫理のお説教は無意味、と倫理的啓蒙を軽視する傍ら、市場への権力介入を強く要請しているのもそういう印象を強めます。
    しかしながらこれは合意形成の軽視ではなく、むしろ「倫理に頼らなくてもうまくまわる仕組み」へ向けての合意形成の要請でしょう。車の排ガスが地球環境に有害であっても、有害性を叫んで倫理に訴えるだけではメーカーは赤字や倒産覚悟でコストをかけようとはしない。そこで有害性についての「議論」と「合意」の上で一律に「規制」の網をかける。こういう意味での「議論」や「合意形成」が軽視されているわけではなく、このエントリもその役割を果たそうとするものだと思います。

  51. ラクシュン Says:

    >(…)それとは別に、計算に基づく合理化された差別もあるんだよ、ということが納得されればとりあえずOK、というエントリだと思います。
    というか、macskaさんが言っているのは「合理化」された”雇用差別”ということでしょう。そして、”雇用差別”以前の段階からは、逃げてる…としか思えない。
    したがって強引に
    >そんな優先順位あるわけないし、優先順位はこうだという主張(上野千鶴子氏が同性愛者よりも「女性」を優先することや、赤木智弘氏が被差別部落出身者より「弱者男性」を優先することなど)をわたしは一貫して批判してきたわけですが。本文ちゃんと読んでね。(マチュカ氏)
    「優先順位」を批判しているというのはウソですよ。以前に何処かで、倫理的な優先順位を口にしたことがありましたよね。私流に要約すれば、”男が好き放題やってきたわけだから男は後回しだ”、みたいなことですよ。
    このことは、”ジェンダリング”(性役割の押し付け合い)は無くならないというmacskaさんの過去の断言とも符号すると思います。ほぼ原理的に無くならないものと想定されているものに対する意義に順位が無いわけがないと思うから。

  52. macska @ シカゴ大学 Says:

    ラクシュンさん:

    というか、macskaさんが言っているのは「合理化」された”雇用差別”ということでしょう。そして、”雇用差別”以前の段階からは、逃げてる…としか思えない。

    「雇用差別」はただの例にしか過ぎないのですが… 他の種類の差別でもまったく同様に「情報による差別」と「選好による差別」の区別は(現実に個別の例を見分けるのは困難だとしても、概念上は)成り立ちますよ。もちろん、もしかしたらラクシュンさんにとって重要だと思える点をわたしが見逃している可能性はあるので、どういう風に逃げていると思うのかきちんと説明してくだされば助かります。

    「優先順位」を批判しているというのはウソですよ。以前に何処かで、倫理的な優先順位を口にしたことがありましたよね。私流に要約すれば、”男が好き放題やってきたわけだから男は後回しだ”、みたいなことですよ。

    だから、それはそういう意図で書いたことではないと既に釈明しました。「弱者男性」優先主義を掲げる相手に、そんな事を言い出すなら他にもっと優先されるべき人がいるだろうと言ったまでで、優先主義そのものを認めるわけではありません。例えるなら、イラクに貧困層出身の兵士たちを送り出すブッシュ政権を批判する意図で「そんなに戦争がしたいならブッシュ自身が行け」と言うようなもので、そう言ったからといって別に「ブッシュ自身が行くならイラク戦争賛成」というわけではない、というかそういう次元の話ではないわけ。が、そんな釈明では分かりにくいというなら、あれは思ってもいない失言なので撤回しますと言ってもいいです。
    「優先順位反対」という立場は、前にも言った通り、わたしにとって信念の最も根本的なものです。キリスト教徒にとって「イエスは神の子である」というのと同じくらい中心的な信念であるので、それを否定したらわたしの信念とは全く似てもつかないモノとなってしまいます。それだけ言っても、「いやウソだ、お前はそんな根本的な信念は持っていない」と言うつもりですか?

    このことは、”ジェンダリング”(性役割の押し付け合い)は無くならないというmacskaさんの過去の断言とも符号すると思います。ほぼ原理的に無くならないものと想定されているものに対する意義に順位が無いわけがないと思うから。

    わたしは性役割規範が性差別や人種差別と比べてことさら恒久的だとは思わないし、そんな事言っていませんが(ていうか、そもそもジェンダリングなんて言葉知らないし)。勝手にこちらの信念を決めつけられたあげく、言ったこともない発言を挙げられて強引にそのでっち上げられた信念にこじつけられるとは、迷惑です。
    ていうかさ、ここで書いたことは、既に説明したよね? ラクシュンさんは、一度批判をしだすと、それに対してきちんと釈明しようがしまいがおかまいなく、まったく釈明が存在しなかったかのように延々と同じことを言い続ける癖があるみたいですが、そういう態度をあんまり続けて見せると周囲の人は「こいつと話しても意味がない、無視するほかない」という結論にどうしてもたどり着きます。気をつけてね。

  53. ラクシュン Says:

    >だから、それはそういう意図で書いたことではないと既に釈明しました。
    私が言っているのは他所の掲示板のことですよ。
    >「弱者男性」優先主義を掲げる相手に、そんな事を言い出すなら他にもっと優先されるべき人がいるだろうと言ったまでで、優先主義そのものを認めるわけではありません。
    何れにしても、この「優先されるべき人がいる」という判断そのものに「優先順位」が混入しているわけで、私の主張のに対する反論になっていませんよ。
    >わたしは性役割規範が性差別や人種差別と比べてことさら恒久的だとは思わないし、そんな事言っていませんが(ていうか、そもそもジェンダリングなんて言葉知らないし)。勝手にこちらの信念を決めつけられたあげく、言ったこともない発言を挙げられて強引にそのでっち上げられた信念にこじつけられるとは、迷惑です。
    えっ? 「そもそもジェンダリングなんて言葉知らない」と言われても、macskaさんは過去に「ジェンダリング」という言葉を使っていますよ。他所で。
    >ていうかさ、ここで書いたことは、既に説明したよね? ラクシュンさんは、一度批判をしだすと、それに対してきちんと釈明しようがしまいがおかまいなく、まったく釈明が存在しなかったかのように延々と同じことを言い続ける癖があるみたいですが、そういう態度をあんまり続けて見せると周囲の人は「こいつと話しても意味がない、無視するほかない」という結論にどうしてもたどり着きます。気をつけてね。
    私は一応その点については自己点検をしている(不備は有りうる)つもりなのですが、へぇー、macskaさんほどビックになれば、そんな強気な発言ができるんだぁー。
    #いやーコモン・ノレッジって恐いなぁー・・・・

  54. macska @ シカゴ大学 Says:

    ラクシュンさん:

    私が言っているのは他所の掲示板のことですよ。

    具体的にどういう発言なのか明記していただけないと、それがラクシュンさんの誤読あるいは曲解によるものか、それともわたしの失言なのか不明ですが、この際どちらでもかまいません。もしわたしがそう言ったのだとしたら、それはわたしの本意ではありませんし、わたし自身が厳しく批判する種の発言です。しかしそうした例外があったとしても、わたしの基本姿勢として差別の比較や優先順位付けをするべきではない、というのは一貫させているつもりです。もし今後それから外れた発言を見かけたら、どうぞ「前に言ったことと違うではないか」と批判してください。

    何れにしても、この「優先されるべき人がいる」という判断そのものに「優先順位」が混入しているわけで、私の主張のに対する反論になっていませんよ。

    なにこの論理の分からないヒト?
    「優先されるべき人がいる」とは言っていないんですよ。そうじゃなくて、「優先されるべき人がいるとすれば、『弱者男性』がそれではないだろう」と言っているわけで。
    ちなみに、これ誤解していたら困るので言っておきますが、わたしは「優先される人がいない」とも「みな等しく扱われるべき」とも言っていません。優先されるべきカテゴリや人がいるかいないかと論じること自体が議論設定の間違いであると考えているのです。

    macskaさんは過去に「ジェンダリング」という言葉を使っていますよ。他所で。

    「ジェンダー」という英単語を動詞的に使うことは普通の英語表現としてありえます。しかし、少なくともあなたが言うような意味でその語は使わない。そして、わたしも英語の文章の中でならともかく、カタカナ用語としてそんな言葉を使ったことはありません。おかしな言いがかりはよしてください。
    これだから、ラクシュンさんが「他の掲示板でこう言っていた」というのは怪しいんだよなぁ。
    # 一応「ジェンダリング」「macska」で検索したけど、ヒットしませんでした。

  55. cider Says:

    たとえばウィーケストリンクではゲームのルール上、クイズ能力分布の最適化によって賞金を吊り上げると同時に「自分が脱落しない」ような選択をすることが求められる。いま当該プレイヤーが老人ではなく、当該プレイヤーに他のプレイヤーのクイズ能力の優劣を判断できるような情報が与えられていない、あるいはクイズ能力が拮抗していると見積もられ誰が落ちてもいいと判断される場合、ゲーム外のカテゴリー情報から、他のプレイヤーが同様の状態ならば老人を脱落させるのではないかという予期が得られれば、当該状況での老人への投票はもっとも「合理的」な選択と言える。(その場のプレイヤーの誰一人にも)老人に対する「憎悪や敵意」などなくとも、他のプレイヤーがそう考えるのではないかという予期が一致すれば差別は「結果として」現象するし、同時に「計算どおり」自己利益は保たれるが、それは「蔑視型の差別」としてカウントされる。レヴィット&ダブナーが操作的な概念として分類を行っているのは明らかで、この研究からわかるのはクイズ能力と差別の相関だけであり(その意味では差別の質的な差異は実証されているけど)、プレイヤーの「憎悪や敵意」を実証することはできない。クイズ能力+人間関係っていうクイズ番組はほかにもたくさんあるけど、たとえばアタック25でパネルの数や戦略を度外視して、老人のパネルばかり狙ってつぶそうとするような出場者は見たことがない(macskaさんのいう「憎悪や敵意」に駆られた蔑視型差別主義者の選択はそういうもの)。また、さすがにそういうアタック25のプレイヤーは優勝する可能性は少ないだろうけど、「差別」がゲームの構成要素ではない以上、蔑視型であろうと偏見型であろうとゲーム自体に差別に対する「自浄」作用はない。さらに、差別という外部情報に依拠することがゲーム内で「結果として」合理的選択であることが認知されれば、外部の差別自体に「合理的」根拠を与えることになる(「だって企業にとっては死活問題だし、現実は甘くないんだよね」的な差別合理化はこうして機能する)。
    >蔑視による差別は一般に周知されているが、それとは別に、計算に基づく合理化された差別もあるんだよ、ということが納得されればとりあえずOK
    >簡単に言ってしまうと何も考えないで、「あの人たち嫌い」とパッと言ってしまうのが蔑視型差別。多くの人が「あの人たち嫌い」と思っているから、その人たちを雇うと会社に不利益が出るかもしれないと「合理的」に考えて雇わないのが偏見型差別
    という理解はレヴィット&ダブナーの研究からは言えないことだけど、Josefさんや純子さんがmacskaさんのミスリードに乗るのはまあ、自由。(当のmacskaさんは「それにしたって個々のプレイヤーの個別の投票行動が選好によるものか情報によるものかなんて判定はできません。」とか「現実に個別の例を見分けるのは困難だとしても、概念上は…」とか最近になってたくさん留保をつけていて、はじめからわかっていてミスリードを誘ったのか、途中で気づいたのかはわからないけど、とりあえず筋は通していますね。)
    このエントリは「差別を蔑視に由来するものだと考えて理由もなしに批判する古い反差別主義者」を「仮定」し、その「無力さ」を強調するために書かれたもののように思う。そして最近こういうタイプの上げ底言説がホント多い。
    macskaさんに異論があるのはこのエントリだけだし、貴重な情報をいつも楽しみにしているので一時の気の迷いだと思いたいけど。

  56. macska @ シカゴ大学 Says:

    ciderさん:

    クイズ能力+人間関係っていうクイズ番組はほかにもたくさんあるけど、たとえばアタック25でパネルの数や戦略を度外視して、老人のパネルばかり狙ってつぶそうとするような出場者は見たことがない(macskaさんのいう「憎悪や敵意」に駆られた蔑視型差別主義者の選択はそういうもの)。

    そんな極端な話じゃなくても、番組の中で瞬時に何かを決めなければいけない時に、あんまり意識せずともある特定の傾向が出てしまったりすることってあるでしょ。クイズ番組に出て賞金を狙っている以上、戦略を度外視してまで特定の他人を妨害することは考えられないわけで、わたしもそんな事は言っていない。

    当のmacskaさんは「それにしたって個々のプレイヤーの個別の投票行動が選好によるものか情報によるものかなんて判定はできません。」とか「現実に個別の例を見分けるのは困難だとしても、概念上は…」とか最近になってたくさん留保をつけていて、はじめからわかっていてミスリードを誘ったのか、途中で気づいたのかはわからないけど、

    ミスリードのつもり全然ないけど、そういう個別の行動を「これは蔑視型、これは偏見型」と分類するためのものだと解釈されるとは全く考えもしませんでした。
    ていうか、ダブナーは研究者じゃないですよ。論文はレヴィット個人名義です。

    このエントリは「差別を蔑視に由来するものだと考えて理由もなしに批判する古い反差別主義者」を「仮定」し、その「無力さ」を強調するために書かれたもののように思う。

    いや、そうじゃなくて、「差別を蔑視に由来するものだと決めつけて、自分は差別主義者ではないけれどと心の中で(もしくは公に)言い訳しながら、経済合理性(あるいは「現実の厳しさ」)を口実に差別に加担するメタ差別言説」の過ちと、それが単なる道義的な批判や人々の意識向上によっては解決されないことを強調するために書かれたものです。

  57. ラクシュン Says:

    >「優先されるべき人がいる」とは言っていないんですよ。そうじゃなくて、「優先されるべき人がいるとすれば、『弱者男性』がそれではないだろう」と言っているわけで。
    >ちなみに、これ誤解していたら困るので言っておきますが、わたしは「優先される人がいない」とも「みな等しく扱われるべき」とも言っていません。優先されるべきカテゴリや人がいるかいないかと論じること自体が議論設定の間違いであると考えているのです。
    あの、この理屈は何なのですかー?
    優先順位が無いなら、「優先されるべき人がいるとすれば、『弱者男性』がそれではないだろう」なんてこと言えるはずが無いでしょう。
    >そして、わたしも英語の文章の中でならともかく、カタカナ用語としてそんな言葉を使ったことはありません。おかしな言いがかりはよしてください。
    そんにゃことはありません。(`・ω・´)  たしかに”あり”ます。そして言い掛りではありません。
    奇妙な言葉だったのでハッキリ覚えています。
    つーかそんなにむきになって否定することでもないと思うけど。
    それほどmacskaさんの立論にとってマズいことなの?
    >「雇用差別」はただの例にしか過ぎないのですが… 他の種類の差別でもまったく同様に「情報による差別」と「選好による差別」の区別は(現実に個別の例を見分けるのは困難だとしても、概念上は)成り立ちますよ。
    そうなのですか? じゃあ「自分はアイツを個人的に蔑視しているから付き合いたくないし、仮にアイツと仲良くしていれば自分が周りからヘンな目で見られるからどちらにしてもアイツとは付き合わない方がイイ」というケースにおいて、その区別が何の役に立つのですか?
    macskaさんの主張は、ほとんど情報量のないトートロジーですよ。
    なんかアホ臭くなってきたのでもう止めますよ。
    しかし一つ気になるのは、ゲームでの「ラティーノ」と「お年寄り」の勝率などはどうなっているのでしょう。つーか、老人以外の人たちにとっての老人は「蔑視」といったネガティブな理由からではなく、単に未知の存在だからその知識の予測が立たないといった理由から最初に落とされて、「ラティーノ」は敵視されにくい(好感度が高い)から残されるといった傾向が現れているだけなのではないのかなーなんて思っていたから。

  58. macska @ シカゴ大学 Says:

    ラクシュンさん:

    優先順位が無いなら、「優先されるべき人がいるとすれば、『弱者男性』がそれではないだろう」なんてこと言えるはずが無いでしょう。

    だから、優先順位が「ない」とも主張していない、と何度も言ってるでしょうが。
    わたしは優先順位があるないという「現実認識のレベル」で「弱者男性優先論」を批判しているのではなく、パフォーマティヴな政治として「優先順位を主張すること」を批判しているのです。これだけ言ってそれが分からない人はもうどこか別のところに行ってって感じ。

    つーかそんなにむきになって否定することでもないと思うけど。
    それほどmacskaさんの立論にとってマズいことなの?

    別に全然まずくないけど、まったく言ったこともない用語を「言った」と決めつけられたら、そりゃ否定するでしょフツウ。検索しても出てこないし、あなたの記憶違いです。

    そうなのですか? じゃあ「自分はアイツを個人的に蔑視しているから付き合いたくないし、仮にアイツと仲良くしていれば自分が周りからヘンな目で見られるからどちらにしてもアイツとは付き合わない方がイイ」というケースにおいて、その区別が何の役に立つのですか?

    役に立つかどうかはその場合によるでしょ。差別を考えるうえで役に立つとは言っているけれど、個々のケースを議論するのに常に役に立つとまではさすがに言っていない。
    雇用差別以外で役に立つ例としては、例えば昔(というか今でも一部では)中流階級以上の白人だけが住んでいるコミュニティに、ビジネスで成功した中流もしくはそれ以上の収入のある黒人が引っ越そうとしたら、激しく反発を受けて、近所の白人たちがお金を出し合ってその家を先に買い取ってしまったというケースがありました。ところがそうした白人たち個々に話を聞いてみると、人種差別はいけないとみんな思っているわけです。入居を希望する黒人自身は、社会的信用のある立派な人物だと分かっていてもね。いけないと思いつつどうして差別に加担するかというと、それは黒人が住み着いたら地価が下がって、かれらが持つ家の価値が下落すると恐れているから。
    かれらだって他の場面では人種差別に反対する立場であり、黒人蔑視なんてけしからんと思っていても、自分の財産が何百万円という単位で目減りすることを受け入れてまで人種差別反対を貫くのは難しい。これなどは、雇用差別ではないけれど「情報による差別」が機能する例であり、差別対策と言えば個々の人たちの内面的な差別意識を取り除けば済むみたいな取り組みでは解決しない例です。

    なんかアホ臭くなってきたのでもう止めますよ。

    それをあなたに言われたくないわけですが、せっかくなのでぜひ止めてください。
    50コメントを既に超えているし。

  59. Josef Says:

    >という理解はレヴィット&ダブナーの研究からは言えないことだけど、Josefさんや純子さんがmacskaさんのミスリードに乗るのはまあ、自由。
    ミスリードも何も、レヴィットの研究からエントリーの主張が導き出されるという関係にはなっていないでしょう。蔑視を伴わなくても合理化された差別があることは別に新しい主張ではありませんしね。
    ウィーケストリンクはそこからこのエントリの主張がはじめて導き出される「根拠」ではなく、単なる話の枕。簡単に統計のとれるクイズゲームを調べると参加者による年寄りとヒスパニックに対する異なるタイプの選別が確認でき、従来から言われてきた—この通りの言葉ではないにしても—“taste-based”と”information-based”の差別に相当しそうだという。この研究の話を枕にして、このエントリは総論的に2つのタイプの差別があることを、とりわけ認識度の低いと思われる後者の差別に重心を置いて語っています。言い換えればウィーケストリンクの話がなくても、2つのタイプの差別の傾向と対策は語れるわけで、実際のところ、ウィーケストリンクの部分は読み飛ばしたっていいわけ。

  60. ラクシュン Says:

    無いと思ってた過去ログがたまたま見つかったので…。
    「ジェンダリング」は「ジェンダリズム」の誤読の可能性が高そうです。この点は失礼しました。
    ところでこの用語は「優先順位」の有無の流れから出てきたものですが、以下はmacskaさんの過去の発言です。
    >私は「抑圧」という言葉を社会的権力構造を前提に使うので、「男性に対する抑圧」などというモノの存在を認めていません(男性の一部がキツいと感じる事も含めて、男性を上位に置く抑圧装置の一部)。 ジェンダーの抑圧(ジェンダリズム)なら男でも女でも受けますが、男性は集団としてセクシズムを受けないと考えます。
    ここでは、「男性」カテゴリー以外にとってのジャマモノを組織的に排除した上で、macskaさんが「男性は集団としてセクシズムを受けない」と考える根拠は…
    >今の社会では、男性が「集団として」社会的・経済的・政治的権力構造の下部に位置付けられる事がないからです。
    となっています。
    >わたしは「『被差別部落出身者』『女性』『性的マイノリティ』『障害者』たちをそうではない者(=普通の男)と対立させる人」ではないですし、「被差別部落出身の男性」「ゲイの男性」「障害者の男性」が「普通ではない男」であり、
    なので、「少なくとも<普通の男>とそれ以外の対象との間には優先順位が原理的に要請される」というのはそのとおりでしょう。なぜなら論理的には、ここでもほぼ「女性」限定の意味合いを持つ「セクシズム」が是正されるべき反倫理的な対象であり、「男性は集団としてセクシズムを受けないと考え」る人にとって、なおかつ「普通の男」が「権力構造の下部に位置付けられる事がない」ならば当然そうならざるを得ないからです。ここまでくれば法則的な帰結。
    これで、マイノリティかつ弱者のカテゴリー(=強者臭いmacska氏でイイのかな?)と、マジョリティかつ弱者の女性カテゴリーを非等価(後者が「上=強」)と考えるはずの人が、マジョリティかつ弱者=男という主張や、マイノリティかつ弱者=「弱者男性」のカテゴリーを無視しているという私の素朴な印象にも根拠が与えられそうな気がします。
    しかし、「「男性に対する抑圧」などというモノの存在を認めてい」ないなら、「性的マイノリティ(MTF等)」に対する「抑圧」も認めないのかな? 半分認めるのかな???
    そして、「優先順位はこうだという主張(上野千鶴子氏が同性愛者よりも「女性」を優先すること」に対する一貫した「批判」というのは、レズに限られる、とか?
    そういう世界はよく知らないけど。
    あと「情報(or偏見)による差別」について触れるなら、このような「情報」そのものの偏りが引き起こす「差別」ということもありますよね。“偏った情報”は常に判断を誤らせます。サンプルに偏りがあれば全体のありさまは把握できません。
    もちろん統計調査においてもサンプル数とサンプルのランダム性を比較するなら後者のほうが格段に重要です。
    …オマケ、『ナイトメア』(小倉千加子)の書評を読んだだけですが、こんな「情報」だけが一方的に何十年も垂れ流されてんのよ。正直まだやってたのかと驚いた。
    この人ってマジョリティかつ強者でしょうに?

  61. macska Says:

    ラクシュンさん:

    なので、「少なくとも<普通の男>とそれ以外の対象との間には優先順位が原理的に要請される」というのはそのとおりでしょう。なぜなら論理的には、ここでもほぼ「女性」限定の意味合いを持つ「セクシズム」が是正されるべき反倫理的な対象であり、「男性は集団としてセクシズムを受けないと考え」る人にとって、なおかつ「普通の男」が「権力構造の下部に位置付けられる事がない」ならば当然そうならざるを得ないからです。

    それは、セクシズムだけが取り上げるに足る重要な問題であるという前提がなければ成り立ちませんね。

    これで、マイノリティかつ弱者のカテゴリー(=強者臭いmacska氏でイイのかな?)と、マジョリティかつ弱者の女性カテゴリーを非等価(後者が「上=強」)と考えるはずの人が、マジョリティかつ弱者=男という主張や、マイノリティかつ弱者=「弱者男性」のカテゴリーを無視しているという私の素朴な印象にも根拠が与えられそうな気がします。

    「気がします」だけなら何とでも言えますが。

    しかし、「「男性に対する抑圧」などというモノの存在を認めてい」ないなら、「性的マイノリティ(MTF等)」に対する「抑圧」も認めないのかな? 半分認めるのかな???

    バカすぎ。「男性」が男性であることを理由に抑圧されているとは考えない、それはわたしが抑圧という言葉をこのように定義するからだ、と説明しているわけですが、個別の男性が「男性」以外の側面(人種、国籍、障害、その他)で抑圧されることは当然あるでしょ。セクシズムが唯一の抑圧というわけではないのだから。
    そもそも、「ジェンダリズムによって男性が抑圧を受ける場合がある」とわたしは書いているわけよ。それをちゃんと理解していれば、「『男性に対する抑圧』の存在を認めない」という記述を「男性はいかなる要素によっても全く抑圧を受けない」という解釈は明らかに間違っているわけ。つまり、そんな方向に解釈できる可能性はゼロ。それが分からないのであれば、頭が悪過ぎて話になりません。

    そして、「優先順位はこうだという主張(上野千鶴子氏が同性愛者よりも「女性」を優先すること」に対する一貫した「批判」というのは、レズに限られる、とか?

    わたしの書いたもののどこを読めばそういうバカげた解釈が可能なのか全く不明。相手が何を主張しているか普通の日本語で書いてあることを理解できないバカはいい加減退場してください。