同性間DVの取り組みから学んだ「公共的想像力」(ミーガン法 Part 6)

1/3/2005 - 7:40 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

まえのエントリでわたしが「本当に性暴力を無くすためには、『自分も加害者になっていたかもしれない』という想像力を持つことが必要である」と書いたのに対し、なんばさんから個人的あるいはリベラリズムという観念的なレベルでは同意するとしつつも、現実に小児性愛やサディスティックな欲望とも無縁な「一般の善良な人」にそういう想像力を求めるのは無理ではないかというコメントがある。さらに、そのなんばさんの発言を読んだ matuwa さんも、もとからリベラリズムの立場に共感している人以外の人たちに納得させるのは難しいというコメントをしている。なんばさんの発言については先にレイ・ワイヤ&ティム・テイト著「なぜ少女ばかりねらったのか」の話題の方にコメントしてしまったけど、この話題も重要なのでもう少し考えをまとめてみる。

なんばさんの図式に入れて考えてみると、わたしは小児性愛者でもないし、サディスティックな性的欲望も特に持たない(相手が希望するならSの役割をやってもいいけど)。だからもちろん、自分が将来のいつの時点かにおいて、自分の性欲を満たすために子どもを誘拐したり、嫌がる相手を無理矢理押さえつけて性行為を強要する「かもしれない」とは、なかなか想像できない。だから、わたしが「自分も加害者になっていたかもしれない」と言う時、それは実際に幼児性愛指向の持ち主である人が、「自分も加害者になるかもしれない」と言うのと少し意味は違うと思う。

今回起きた奈良の事件に関係して言うなら、わたしはむしろ被害者の方に「自分もそうなっていたかも知れない」というものを感じる。特に気になったのは、容疑者とされている男性が新聞配達をやっていたという点。というのも、わたしが小学生だった頃、わたしの家族が住んでいたアパートの側にブランコと砂場しかないような小さな遊び場があったのだけれど、そこで遊んでいると頻繁に新聞配達(読売新聞だった)のお兄ちゃんが来ていろいろ話をした記憶があるからだ。「親に内緒」という約束で50円・100円といった単位のお小遣いを貰ったりしたこともあったし、新しいファミコンのゲームがあるからという口実でそのお兄ちゃんの家に連れて行かれそうになったことも何度かある。結局いつも最後のところでお兄ちゃんの側から「今日はやっぱり都合悪いからまた今度〜」と言い出したおかげでついにその男性の家に連れ込まれることはなかったけれど、あれは何だったんだろうな、と今では考えさせられる。当時のわたしは幼かったので「どうして新しいファミコンのゲームで遊ばせてくれないのかな」と思っていたけれど、今にして思えば、連れて帰りたいという欲求と、いやそれだけはやってはいけないという理性の間で彼は板挟みになっていたのかも知れない。

同じころ、わたしの家にいたずら電話がよくあった。わたし以外の人が出るとすぐ切れるのだけれど、わたしが出ると「パンツの中に手をいれてごらん」「あそこにさわると気持ちいいよ」という言葉と、あと荒い息づかいが聞こえてきた。その頃のわたしはパンツの中だとかあそこと言われても何のことだか分からなかったし、あの荒い息づかいから相手がおそらくマスターベーションしていたことすらも理解できなかったので「変ないたずら電話だな」と思っていた。それからしばらくして、新聞配達の男性がわたしの家を訪れて、「これまで毎日お宅に新聞を配達してきましたが、故郷に帰ることになったので今日で最後です」と母に挨拶していたけれど、あれも不思議だった。いくら最後の日だと言っても、わざわざ一軒ずつすべての購読者に挨拶するわけじゃないだろうに。もしかして、あの時わたしが一人で留守番していたら危険だったかもしれない。

ここで書いたことは、わたしにとって特に精神的トラウマとなって苦しめられたような経験ではないのだけれど、今回の事件で新聞配達の男性が容疑者だと聞いて(それが偶然の一致に過ぎないにせよ)少しばかりはショックを受けたし、またあの時何か1つ歯車が外れていれば(あるいは噛み合っていれば)危険だったんだと再確認するきっかけになった。そういう意味から言えば、今回のケースでは特に、個人的にはわたし自身の想像力は加害者との「入れ替え可能性」より被害者との「入れ替え可能性」により敏感だ。

「反ヲタク国会議員リスト」雑記帳なるブログでは、ミーガン法関連のわたしのエントリ(Part 5 まで)を「フェミニズムへの造詣に深い方が執筆されたという点が非常に興味深いッスね」というコメントとともに紹介している。わたしから見るとこの文を書いた人が「フェミニストが書いたという点を非常に興味深いと感じている」ことの方がよっぽど興味深いのだが、確かに世の中には「女性と子どもを守る」という口実で検閲・監視・重罰化といった国家権力の拡張路線に同調する「フェミニスト」も存在する。そこまでいかなくても、差別や暴力の被害者としての「女性」あるいは「子ども」の立場を絶対化するばかりに、「自分も加害者の側に立っていたかもしれない」という想像力はあまり重視されない傾向が一部の女性団体にはある。

わたしにとっても、最初はそうだった。フェミニズムの運動で最初にわたしが関わったのは、性暴力とドメスティック・バイオレンス(DV)の被害者を支援する活動だった。その頃のわたしは、性暴力やDVの加害者は絶対的な悪であると思っていたし、そう信じることで絶対悪と闘う自分自身を正義と位置づけていた。もちろん、そうした単純な図式にはもともと無理があるもので、どうしてもしっくり来ない部分も無いわけではなかった。だって、正義の味方のはずの被害者支援団体の中でも不当なことや理不尽なことはたくさん起きているのだもの。わたしがそうした図式を吹っ切ることができたのは、フェミニズムの活動や女性学に関わる中で、性やジェンダーの問題だけでなく、人種や階級・障害といった問題を複合的に扱う理論や運動と出会ったことだった。全ての属性において完全に特権的な人もいなければ、全く何の権力も持たない人もいないのだとしたら、単純に「被害者/弱者」の側に立って「加害者/強者」を糾弾するということもできなくなる。自分自身の「被害者性」とともに「加害者性」についてどう責任ある行動が取れるか、そしてその上で他者にどう関われるかという課題に向き合うことになる。

性暴力やDVの問題についてわたしが特に考えさせられたのは、同性カップル間におけるDVの問題について関わるようになってからだ。「男性から女性への暴力」に関わっているあいだのわたしは加害者を当たり前のように「自分とは全く異質な人間」として絶対悪視していたが、特にレズビアンカップルのDVについて学ぶようになってからはそうは言っていられなくなった。といっても、加害者も女性だからというわけではない(それだけであれば、加害者の女性を「女性の中の例外」として扱えば済む)。異性愛カップルにおけるDVに比べて、どちらがどちらを支配しているのか複雑なケースが多いからだ。異性愛DVでは、身体的な暴力を奮う側がほとんど同時に精神的な支配も及ぼしているという明快なケースが多いのだが、同性間DVではそこが違い、当事者双方が「自分は被害者」と感じていることも多い。身体的な暴力が一切起きない場合も、異性愛DVに比べるとはるかに多い。そうであっても、同性間DVでは双方お互い様だとか被害が軽いというわけではなく、精神的な支配のパターンに注視すると異性愛DVと同じくらい深刻な信頼関係の崩壊が見られるわけだ。

わたしは過去・現在を通して、自分のパートナーに身体的な暴力をふるったことはない(相手の希望に応じてスター・パドルでお尻を叩いて小さな星マークを付けたことならあります)。でも、人間関係上のヘゲモニーを握るためにわざと相手を困らせたりイラつかせたりということをやらなかったかといえば、やっていたと思う。というか、一般的に言ってパートナーシップというモノには、常にヘゲモニーを巡って闘争が付き物なのね。例えば、甘えた声を出して不本意な相手に何かをしてもらうよう働きかけるのだって、見方によってはヘゲモニー闘争でしょ。そうしたやり取りが一方向に行き過ぎずにお互いが受け入れ可能な範囲で留まっているうちは良いけれど、一方が他方を支配あるいはコントロールしているという段階になるとそれはDVと同じ状態。そう理解したとき、わたしにとってDVとは「自分以外の誰かの問題」でなくて、「自分自身と地続きの問題」になった。

もちろんそこでいうDVは、シェルターで勤務していた時に毎日目にしたDVとは随分違って見える。シェルターで出会った被害者は、例えば体中ボコボコに殴る蹴るされてアザだらけだったりして、見るからにものすごい暴力の被害を受けたという感じがする。でも、支配とコントロール、恐怖感、絶望感といった精神的な側面に注視するなら、全く身体的暴力を受けていなくても同じくらい傷ついている被害者はたくさんいる。わたしはいくら相手のことを怒ってもあんなにアザだらけになるほど誰かを殴れるとは思えないけれども(1、2発殴ったあと、自分が泣き出しそう(笑))、精神的な虐待であればやりかねないな、と思ったりする。なぜなら、わたしには相手に自分のことを聞いて欲しい、自分のことを構って欲しいという欲求があるからだ。そして、それと同時に、いかに自分の欲求を満たすためであれ、他人を支配・コントロールしたくはないという意志があるから、常に「ヘゲモニー闘争」が行き過ぎていないかチェックして、支配的なパターンをパートナーとの間に作らないようにしようと努力する必要があると感じている。

こうした自分の実感を元とした「加害者性」と比べて、自分には子どもに対する性暴力を働く危険があるという実感はわたしにはない。その点は、なんばさんが言う「セーフティゾーンにいる善良な人」とそれほと違わないわけで、そういった危険に対するわたしの想像は「リアル」ではない。それでも、わたしは自分が小児性愛者でないことが単なる「偶然」にすぎないことを知っている。また、時と場合によっては自分が「自分の欲望のために周囲の人を傷つける」ことがあることも知っている。そこまで考えたとき、小児性愛者が、あるいは性暴力の加害者が、自分とは切り離された全く別の存在だとは思えないのだ。わたしが「これまで生まれてきて生きてきた場所と状況とタイミングが違えば、自分も加害者となっていたかもしれない」というのはそういう意味だ。

そもそも、本当に小児性愛者でもしかしたら自分はいつか歯止めが効かなくなって犯罪をおかすかも知れないと思っている人は、想像力なんて必要ない。生の実感だけで「自分も加害者になりかねない」と理解できるし、何らかの対策が必要だということも考えるまでもなく分かるはず。想像力と言う以上は、生の実感として自分がその問題にどう関わるのか感じていない人が、いくつか前提を違えたら自分にとっても人ごとではない(何かせねばならない)と気付くような感性のことを言うはずだ。

なんばさんや matuwa さんは、こうした議論は「(立場入れ替えの想像力を重視する)リベラリズムの立場に共感する者」にしか通じないのではないかと言っている。それは確かにその通りなのだけれど、だったらもっと共感してもらえるような形でリベラリズムを語るしかないでしょーが。いきなり「あなたも加害者になりかねない」なんて言ってもさすがに共感しては貰えないだろうけれど、きちんと説明すれば一定の相手には通じるよ。別にリベラリズムという思想を広めようということじゃなくて(それは怪しすぎ)、性暴力を減らしたいという動機からミーガン法的なものを支持してしまう人に対して、ミーガン法ではどうして効果がないのか説明した上で、本当に性暴力を減らすために他にどういう考え方が有るのかと語ればいいんだもの。

わたしがこれまでこのシリーズで書いてきたことだって、ミーガン法の是非という議題に、リベラリズムの立場からどう対処できるか、そしてどういう対案を出せるかということを実証的かつ分かりやすく書いてきたつもり。部分的には「リベラリスト以外には通用しない」としても、単なる「加害者の人権」論からのミーガン法反対論に比べればよっぽど説得力があるでしょ。これらの資料や論理が、日本におけるネオリベラリスティックな「公共的想像力の破壊」を少しでも押し止める役に立てば良いと思っているのだけれど。

10 Responses - “同性間DVの取り組みから学んだ「公共的想像力」(ミーガン法 Part 6)”

  1. おーつか Says:

    先ほど放送されたテレビ朝日の報道バラエティでは「再犯率は50%強」なる数字が提出されてました。どこまで上がるんだろう?

  2. Macska Says:

    おーつかさん、お久しぶりです。

    なんばさんの12月31日のコメント欄で書かれていることですが、ある人が番組で「再犯率41%」と報道した TBS に連絡をとってそのソースを聞いたところ、警察庁のページにある PDF ファイルが元だったという話です。が、実際そのファイルをダウンロードして見たところ、再犯率とは関係のない数字を間違って引用しているだけだったらしい。
    http://d.hatena.ne.jp/rna/20041231

    まったくもう、くだらないですよねー。
    リベラリズム的な想像力の公共圏を目指すか、ネオリベラリズム的な監視社会へ行くかという形で正面から議論したいところなのに、その議論の前提となるデータがまず間違いだらけなんだもの。

  3. deadletter Says:

    トラックバックがうまく入らなかったのでコメント欄で失礼します。僕の知り合いがそのテレビ朝日の番組の挙げた「50%強」という数字について問い合わせたのですが、ほんとにいいかげんな対応で頭にきたそうです(電話口で激怒してました)。こういう数字が一人歩きすることの危険性について彼らはほんとうに無自覚なんですねえ。

  4. マツウラ Says:

    すばらしい記事でした。

  5. macska Says:

    うーん、テレビ朝日の話も酷いですね。やっぱりテレビ局への問い合わせは、(相手に知らせた上で)テープに録音するか FAX など記録の残るモノで行うべきか。

    マツウラさん、いつもありがとうございます。

  6. 小市民 Says:

    犯罪者の方の心理については熟考されておりますが、犯罪被害者の方の心理については殆ど触れられてませんね。
    児童ポルノ規制と同時に語ったりするなど、たかがしれますね。

  7. required Says:

    >>犯罪者の方の心理については熟考されておりますが、犯罪被害者の方の心理については殆ど触れられてませんね。
    >>児童ポルノ規制と同時に語ったりするなど、たかがしれますね。
    たかがしれてるのは君の知性ではないか?
    そんなに相手にしてほしいのかい(笑

  8. ジェンダーとメディア・ブログ Says:

    DV講演会に参加して…

    昨日、富山県民共生センターであった戒能民江さん(お茶の水女子大)の講演会に行って来た。http://www.sunforte.or.jp/kouza/C/kouza_ (more…)

  9. ニセアカシア Says:

    macskaさん、ミーガン法No.6拝読致しました。もし、自分もシチュエーションが違っていれば、加害者になってしまったかもしれない。その可能性はゼロではないという「想像力」が必要だ。積極的に悪いことをしたいと思っているわけではないけど、62歳の私でも何らかの状況に陥れば、暴力を振るうかもしれない、という自分への客観的洞察力を持つべきだとのご指摘、心から共感します。
     人間てあらゆる意味で、とことん弱い存在ですね。
    「時」の流れ以外には、何一つこの世に「絶対」というものはないと、つくづく実感させられている身では、何かを決め付けることの危険性をしっかり認識したいと思います。
     ただ、DV被害者のもの凄い被害を聴いたときは、感情的にはこんな奴「死刑だ!」と内心思ったりします。勿論、言葉に出してはいいませんが、仲間に愚痴って気持ちを宥めます。
    人間は暴力という手段と永遠に付き合っていくのかもしれません。
    やはり、悲観的になっています。

  10. pon Says:

    NEW OPEN

    是非ご覧ください!!

    http://l9378s.x.fc2.com/ 

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