「加害者は決して完全悪ではない」こそ反DV運動の教訓

2006年11月30日 - 12:22 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

以下に報告するのは、以前から何度か話題のソースとしている某秘密主義ジェンダー研究系メーリングリストで過去数日にわたって続いたドメスティック・バイオレンス(DV)についての議論について。わたしと意見をたたかわせた相手の中心的な人はDVについての著書もある男性の学者なのだけれど、リストのルールによってリスト外での引用不可とされているので名前を伏せ、直接の引用は避けることにする。わたしは学術的な議論は公に開かれているべきだと思うのでこのメーリングリストには非常に不満があるのだけれど、貴重な情報源でもありルール違反を理由に追放されては困るので、「名前を出さない」「直接の引用はしない」というところまで妥協しちゃっています。
議論の焦点は、DVにおいて「加害者完全悪論」は良いか悪いか、そしてDVを通常の暴力と同様に犯罪として処罰することがDV解決に繋がるかどうかという点。「加害者完全悪論」というのは、この場合「絶対に加害者は暴力的であることをやめたりしない、だから被害者は加害者と別れて逃げるしかない(あるいは加害者は処罰を与えてこらしめるしかない)」という暗黙の了解のことを指すが、そうした考え方はバックラッシュ勢力からの「DVへの取り組みは家族を破壊する」という批判を招くのみならず、多くの被害者たちが必ずしも加害者であるパートナーとの離婚・離別を希望してはいないという現実を無視しているのではないかという意見が最初にあった。
バックラッシュ勢力から批判を浴びるという点についてはこの際どうでも良い。というか、できるだけ批判を浴びない方が望ましいのは確かだけれど、DVの問題に適切に対処するために必要な考え方であれば一部の勢力から批判を浴びてでも主張する価値はあるはず。重要な問題は「加害者完全悪論」が本当にDVに適切に対処するために役に立つのかどうかという点にある。
ここで登場するのが、前述の男性ジェンダー研究者。かれは「加害者完全悪論」はバックラッシュに対抗するためにもDVの被害を受けている女性たちを支援するためにも不可欠であり、今後もより徹底してDVの犯罪化(被害者と加害者のあいだに存在する関係性を考慮に入れず、DVを通常の暴力行為と同じように処罰していくこと)を進めていくべきだと反論した。
かれによれば、そこには米国における「教訓」があるという。いわく、米国では過去ずっと「DVを法的に取り締まることは家族を破壊する」という批判があったにも関わらず、「女性への暴力防止法」(VAWA = Violence Against Women Act) はブッシュ大統領をはじめとする保守派にも支持されている。なぜならそれは、米国においてまがりなりにも「DVは犯罪」「加害者は処罰を」という社会的合意が徹底されているからだ、という。
こうした意見を読んでわたしがまず最初に思ったことは、かれの言う「教訓」とは米国の「誰にとっての」(誰の視点から見た)教訓なのだろうか、ということだ。というのも、米国の非白人や移民やクィアのコミュニティにおいてDVに取り組んでいる人たちのあいだでは、「加害者完全悪論は解体するべきだ」「犯罪化ではDVは解決できない」という考え方がかなり広く共有された認識となっているからだ。これらのコミュニティにとって過去数十年の反DVの取り組みの教訓とは、まさしく「加害者完全悪論や犯罪化は間違いだ」というものなのだ。
たとえば、非白人女性のリーダーシップを重視するシアトルの反暴力団体 Community Against Rape and Abuse が作成した「暴力を許さないコミュニティ」へのガイドラインの最初の項目は「すべての人の人間性を尊重しよう」と書かれている。加害者を「わたしたち一般人」とは異なったモンスターのような「他者」として扱うことは解決に繋がらない、という考え方だ。加害者と被害者の関係を100対0のような絶対的なものとして考えるべきではない(それはもちろん、例えば80対20くらいで被害者の方にも落ち度があるなどと言いたいわけではない)、というのは、これらのコミュニティがDVに取り組む上で絶対に必要な前提だ。
なぜか。そもそもこれらのコミュニティはDV以前の問題として差別や貧困や人種プロファイリングや移民法や同性パートナーシップへの攻撃などによる「家族の破壊」の攻撃を日常的に受けている。そのような現実のなか、「DVは犯罪だ」「加害者は完全悪」といったスローガンは、それらのコミュニティに対する公権力による日常的な暴力を正当化・深刻化することになってしまう。また、これらのコミュニティに属する加害者がメディアで「完全悪」として報道されると、即座にコミュニティ全体にそのイメージが適用され、社会的な迫害を深刻化してしまうケースも多い。
また、公権力による過剰な介入により家庭やコミュニティが破壊されることを恐れるあまり、被害者が誰にも相談できず孤立するという問題も起きている。あるいは、現行のDV防止法に定められているように医療関係者らが独断でDVを通報できるような制度は、加害者の処罰を望まない被害者や警察と関わることを恐れる被害者が、必要な医療や支援も受けられないような状況に追い込まれる。必要なのは被害者が主導権を握ったまま解決を探れるような相談窓口や支援窓口であり、「DVは犯罪だから処罰しなければならない」「加害者は完全悪」というモデルはそれを不可能にする。
そうでなくても、「DVは犯罪」「加害者は完全悪」という考え方は、加害者を「わたしたち」とは違った種類の人間だとして処罰・監視することで対処しようとするネオリベラリズムの論理に奉仕するものでしかない。加害者は決して完全悪のモンスターではなく、「わたしたち」の誰もとそれほど違わない普通の人間であり、「わたしたち」の誰もが偶発的な条件によっては「加害者」となりかねないという想像力がはたらかないような人は、結局「支援者」としての自分と「支援される」側の被害者とのあいだに不健全な権力関係を築く危険が大きいので、被害者支援に一切関わるべきではないと思う(過去記事「DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ」参照)。
そもそも、「DVは犯罪」という認識は事実として間違いだ。なぜなら、精神的・経済的な支配を含んだDVのすべてが犯罪であるわけではないし、DVの深刻度は犯罪としての重さと比例しない。場合によっては、刑法的な犯罪をおかしたのはDVの被害者の側であるというケースすらあり得る。それは、刑法は個別の行為にあてはまるものであり、特定の人間関係においてある行為が持つ総合的な意味にまで踏み込めないからだ。そのような部分まで判断する能力も権限も警察にはない。
さらに言うと、DVを厳しく取り締まるような法制度を作れば、こんどはその法制度そのものが加害者によって被害者を虐待する道具として利用されるというのがこれまでの教訓。例えばDVのケースで必ず加害者を拘束しなくてはいけないという制度を導入したところ、警察が家の前に気付いた加害者が自分の手で胸に引っ掻き傷を作り、自分こそが被害者だから相手を逮捕しろと言うなどといった例がある。あるいは被害者の「正当防衛」を警察が認めるなら、精神的に圧迫して被害者の側が先に手を出す(押し退けるなど)するようにしむけて「自分は正当防衛だ、先に手を出したのはあいつだ、聞いてみたらいい」と言い逃れる。怒りの感情を押さえるプログラムに参加させられた加害者は、自分の感情を押さえつつ被害者をわざと怒らせるという虐待をする。
そうしたこともあり、警察による介入を中心に据えたDV対策では、明らかに違法な身体的暴力を減らすことはできても、精神的・経済的な支配など「犯罪」とは認定しがたい種類のDVがその分増えるだけ。つまりは単純な暴力による支配がより洗練された支配に置き換わるだけで、本質的に何も変わらない。そうした事実は加害者向けプログラムについてのさまざまな調査を見ればはっきりと分かる。
誤解をして欲しくはないのだけれど、「加害者完全悪論は解体すべきだ」というのは加害者の責任をうやむやにして良いということではないし、ましてや被害者の側にも落ち度があるということでも決してない。加害行為に対する責任は厳しく問いつつ、「完全悪」という言葉によって加害者となった人たちが「わたしたち」とは全く別の種族であるかのように想像力の圏外に放逐してはいけないと言っているのだ。また、「DVの犯罪化」路線に反対するということは、DVを犯罪として取り締まることの一切に反対という意味ではない。いつどういう形で加害者の責任を問うのか、そして加害者と別れるのかどうかといった決定を、できる限り医者や「支援者」や警察ではなく被害者当人が決められるような取り組みが望ましいと言っているのだ。
その他の犯罪と比べてDVが特殊なのは、被害者が加害者と親密な関係にあり、被害を受けたからといって必ずしもそうした関係を全て捨て去りたいと思うわけではないという点だ。被害者が「別れたくない」と言うのを無理矢理別れさせるわけにはいかないし、被害者が望みもしないのに加害者を処罰することは、被害者の安全にかならずしも寄与しない。逮捕拘留もしくは処罰を受けた加害者がどういう常態で帰ってくるのか、それによって被害者の安全がどう脅かされるのかまで考えなければ処罰することが被害者の安全に繋がるかどうか分からないはずだ。
ところが議論相手の学者はそうとは思わないようで、被害者が加害者と「別れたくはない」と希望するなら、そうした希望は社会的に容認すべきではないと答えた。そして、家庭が戦場のような状況であると感じる被害者だっているのだから、そうした極限状況への想像力はどうなんだと聞き返す。しかし、そうした極限状況への想像力を働かせればどうして「被害者の意志を尊重しない」という結論になるのか不明だし、「被害者のことを考えろ」と言いながら、自分の期待とは違った反応を見せる被害者の意志は「社会的に容認されるべきではない」と言うのは一貫しない。
しかし、それにも増して驚いたのは、この論争を聞いていたもう一人の別の男性ジェンダー研究者のコメントだ。かれは、「別れたくはない」という被害者の意志を尊重するかどうかという問題において、このようなことを言ってのける。「リベラリズムの原則に従えば、心理的な支配や多少の暴力も含む非対称的な関係を当事者同士が望むのであれば、基本的に他人が立ち入る問題ではない」。この人は特にDVについて研究や運動に関わっているわけではないようなのだけれど、いくらなんでも酷すぎる。暴力的な夫と別れたくないという人に向かって「ああ、あなたは暴力をふるわれるのが好きなんですね、だったらご自由に」と言うみたいなものでしょ。
言うまでもないけど、DV被害者が加害者のもとを離れないとき、それは別に被害者が「心理的拘束や軽度の暴力」を希望しているということにはならない。そうした拘束や暴力は希望しないけれども、その関係から他に得ているものがあるから別れたくないというだけの話だ。ある時点における総合的な判断として「別れない」ことを選んだからといって、まるで本人が暴力を希望しているかのように言うのはおかしいし、本人が暴力を希望しているという前提に立ってリベラリズムの論理で肯定して良いわけがない。
リベラリズムの原則から正当化されるのは、例えばS/Mのような合意ある非対称な関係性を納得済みで生きたい人はそうすれば良い、ということのはず。しかしDVの被害者は、仮に「今の時点における総合的な判断として別れない」ことを選択したからといって、暴力や支配を受けることに合意したわけでも納得しているわけでもない。十分な選択肢も与えられず、合意も納得もしていない不公平な扱いを「自己決定」の美名で容認するのはおかしい。というより、リベラリズムの原則として自己決定を尊重するというとき、自由な選択ができるための文化的・経済的なリソースの配分がきちんと行なわれないと、それは不十分な選択肢を強引に押しつけるだけのネオリベラリズムの論理に成り下がる。
わたしが「被害者の意志を尊重すべきだ」というとき、それはなにも自己決定させるべきだというリベラリズムの原則論をただ言っているわけではない。通報するかしないか、処罰を求めるか求めないか、あるいは今すぐ別れるか別れないかといった重要な決定をするとき、それらの決定がどのような結果を招くのか、そしてどうすれば最も安全なのかを誰よりもよく理解しているのは被害者当人であることが多いし、そうでなくともそうして導き出された決定の結果を誰よりも負わされるのは被害者当人だからこそ、よほどの事がない限りそうした決定権を他人が奪い取ってはいけないと思うのだ。当事者が言うならまだしも、周囲が「加害者は完全悪だ、徹底的に処罰せよ」というのは勇ましいだけの無責任な主張だと思う。
そして被害者当人の主体性を尊重するということは、単に何もせず被害者の思うままに任せるということでもない。先に述べたように、自己決定が本当の意味で自由であるためには十分な選択肢がそろわなければならない。それは例えば、精神的なサポートだけでなく法的・経済的な支援も準備することで、経済的な理由で加害者のもとに戻らなければいけないような状況(=ネオリベラリスティックな「不十分な選択肢の押し付け」)を解消するということも含まれる。それを実際に行なうのはまたとても難しいのだけれど、だからといって単純に「DVを犯罪として取り締まる」というだけの不十分な取り組みを「アメリカの教訓」などと宣伝しないで欲しい。
(追記)この記事に関し、できるだけ相手の発言を歪めないように報告しているつもりですが、直接の引用にならないように表現や言い回しを変えてわたしの言葉で紹介しています。もし発言を紹介された方がこれを読んで紹介内容や表現に不満でしたら、読者がもとの文書を直接読んで判断できるように元の発言を全文公開することで対処したいと思いますので、わたしまでご連絡ください。

4 Responses - “「加害者は決して完全悪ではない」こそ反DV運動の教訓”

  1. アヴァロンの水辺Blog Says:

    エイリアンという他者の話…
    毎回大変勉強になるmacskaさんのブログにおもしろい話がでてた。他者性・エイリアン性に関する男女の感じ方の一例に思えたので書いてみる。
    「加害者は決して完全悪で (more…)

  2. a Says:

    ただの加害者の自己弁護だな、
    加害者など支援組織があるから企業を語り大手を振ってやりたい放題やってるんだろ?
    私は熊本県八代市に住んでいます、福岡の詐欺師共の私利私欲の被害に遭い政治組織G罠に利用され挙句の果てにメーカーSでオーダーしたパソコン等により盗撮盗聴されています。金も返さず権力を行使するゴミ共から逃げ、金を取り返す為には何か方法はないですか?こんな異常な民族に利用されるくらいなら自殺してもいいと思っています。できればその後、戦争にでもなって滅べばと願っていますがwとにかく金を返して貰いたいです。当然、政治屋が絡んでいるので警察弁護士等まるで役に立ちませんでした

  3. macska Says:

    すげーコメント。
    記念に保存しておきます。

  4. shin Says:

    元彼のDV病に何か道はないかと探っていたら、ここにたまたまたどり着きました。私は端から見ると単なる被害者ですが、そんな単純な見解で片付けられるのに違和感を覚えていました。それでは何の解決にもならないのです。私に何かできることがあるでしょうか…。少しずつでも、自分なりに探っていくつもりです。
    この記事には人としての優しさを感じました。
    人間はもろく弱い。
    決してモンスターではありません。
    同感です。

コメントを残す

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>