米国の大学入学審査で「男性優遇措置」が行なわれる理由

2006年11月29日 - 12:24 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

山口智美さんのブログエントリ「学術会議のジェンダー関連シンポのフシギ」及び「アファーマティブアクションと大学についての雑感」に関連して、米国の大学において女子学生の割合が増えている件について。
米国の大学ではすでに女子学生が過半数を越えていて、むしろ「男子の学力低下が問題となっている」という話がコメント欄からはじまっていて、それに対して山口さんが「女性全体は良くても、他のマイノリティの要素が絡む場合どうなのか」という妥当な意見を書いているのだけれど、一つあまり知られていない事実がある。それは、「男性を救済するアファーマティヴアクション」は既に大々的に実施されており、しかもそれがアファーマティヴアクション反対派がおおいに批判する「クォータ制」という形式を取っているという事実だ。
この問題が注目を浴びたのは、今年3月に New York Times に掲載された「To All the Girls I’ve Rejected」という論説がきっかけ。著者の Jennifer Delahunty Britz という人は、ある私立大学の入学審査責任者であり、またちょうど今年大学に入学した娘がいる。記事によると大学入学希望者に占める女性の割合は増える傾向にあり、全国的に56%にもなるという。そして、そうしたアンバランスを是正するため、入学審査の段階で評価の高い女性より評価の低い男性を優先的に入学させることは私立の有名大学では広く行なわれているようだ。
問題を複雑にしているのは、一定以上女子学生の割合が増えたキャンパスは、男子だけでなく女子にとっても魅力的ではなくなると入学審査担当者たちが考えていることだ。記事ではよく説明されていないのだけれど、つまりは実際の女子学生の成績とは関係なく、外部からみたとき女子学生の割合があまりに高い学校はステータスが低いと見なされ、その結果より優秀な学生が次の年次からその大学を避けるようになるということだろう。
さらに想像すると、卒業してから高収入を得るかどうかは大学の成績にはそれほど関係しない。出産や育児というライフコースから考えても、一般社会における女性差別の現状から見ても、大学時代の成績が悪い男子学生のほうが、成績の良い女子学生より卒業後いい地位につき高い収入を得るということは十分ありそうだ。だからこそ女子学生の多い大学はステータスが下がると思われているのだろうし、卒業生からの寄付に財源の多くを頼る名門校が「女子学生の割合が一定以上に増えること」を懸念する理由の一部はそこにあるのかもしれない。
性差別問題に詳しい知り合いの法学教授に世間話の合間に聞いてみたところ、教育機関における性差別禁止を定めた法律にも原因があるという。連邦法上、私立大学は入学審査において性差別をすることは認められているけれども、入学した学生は対等に扱わなければならない。ここには大学において各種スポーツチームに参加する機会の平等も含まれるが、その基準となるのが「提供されているスポーツチームの数や種類が、学生の男女比を反映しているか」という点だ。
例えば、学生の男女比が半々なのに男子だけフットボール、バスケットボール、野球と3つクラブがあり、女子にはソフトボールしかなかったりすると、性差別だということになる。しかし試合に多数の客が集まり、大学の宣伝に役立ったりチケットの売り上げが大学に還元されるのは男子スポーツだけなので、大学当局の本音としてはできるだけ男子スポーツだけを増やしたい。そこにも、女子学生の割合が増えることを嫌がる理由があるのではないかという話だ。
しかしアファーマティヴアクションの是非が問われるときに、こうした「男性優遇」の現実が問題とされることはまずない。というより、そもそもこうした「男性優遇」をアファーマティヴアクションとはそもそも呼ばない。もちろん、「男性優遇」措置は男性志願者を救済することが目的で行なわれているわけでも、過去や現在における「男性差別」の影響をオフセットするために行なわれているわけでもないのでアファーマティヴアクションではないのだけれども、アファーマティヴアクションの是非だけ問うておきながらこうした「男性優遇」を放置するのはバランスに欠ける。
アファーマティヴアクションについては既に述べている通り、実質的に平等な競争を実現するために、過去や現在の差別によって不利な境遇に立たされた人にリードを与えるというもの。「誰がどれだけリードを与えられるべきか」という点において誰もが納得する基準を作り出すことが困難であるという現実的問題を除けば、陸上競技で外側のトラックを走る選手が見かけ上より前のポジションからスタートできるというのとまったく同じこと。現実にどう実施するかについては議論があるだろうけれども、その意図するところはあくまで「より機会平等的な条件で競争をしよう」ということに他ならない。
しかし米国の大学で実際に採用されている「男性優遇措置」は、男女バランスを一定以上傾けてはならない(というより、「女性を一定以上増やしてはならない」)というだけの結果平等主義であり、クォータ制であり、大学の商売を優先して能力ある女性から機会をうばうことだ。アファーマティヴアクションの弊害を叫ぶ人たちは、こういう問題についてはどのような解決を提案するつもりだろうか。
わたし自身は、入学するにふさわしい基準を満たした志願者の中から、特定の性別や人種やその他の背景に学生が偏りすぎないように、それらの要素を多少加味して入学審査を行なうことは間違ってはいないと思う。つまり、必ずしも個人単位でトップから成績のいい順に合格にするべきだとは思わない。
しかしそれは、キャンパスにおける多様性の維持が大学関係者のみならず社会全体にとって価値があることだからであって、大学運営上の計算(期待で切る将来の寄付額、スポーツチームの数、外部から見たステータス)を理由に「商売に都合のいい性別や人種の学生を優先的に入学させる」ことがあってはいけない。というより、そういう要素を理由とした選別こそが、反差別の法律が禁じようとしていた種類の選別であったはずだと思う。

2 Responses - “米国の大学入学審査で「男性優遇措置」が行なわれる理由”

  1. 田中 Says:

    >連邦法上、私立大学は入学審査において性差別をすることは認められている
     じゃ、法律的にはどうしようもないのでは。
     私立大学でのクォータで割を食ってるぶんについて、公立大学でも女性クォータを設定する、くらいでしょうかね。考えられる対策は。
    >そういう要素を理由とした選別こそが、反差別の法律が禁じようとしていた種類の選別であったはずだと思う
     「理由」を立証するのが難しいのではないでしょうか。

  2. ともみ Says:

    トラバどうもです。
    そうですねー、おそらく男子スポーツの影響、大きいでしょうね。(とくにフットボールやバスケ)そういえば、一時期タイトル9反対の言説がメディアによく出て来ていた時、よく登場していたのが「つぶされた男子スポーツ」の人々だったような。
    今現在私がいるのは私立大学ですが、アファーマティブアクションなんてまるでやる気なさげ。スポーツは弱小なのでたいした影響がないかもしれませんが、寄付がらみの商売優先のカオリはぷんぷんします。
    「キャンパスにおける多様性」のある教育環境は大学にとっても、学生にとってもより質の高い教育をするためにはプラスだし、そういう環境から出て来た学生も多様な人々がいる社会にとってプラスであると本当に思います。
    ところで、1986年、青山学院大学の国際政経学部の入学案内パンフで学長が「この学部は女子を少数(25%以下)におさえたい。女子は遠慮してほしい」と公言しており、それに対して行動する女たちの会が抗議しています。(手持ちのニュースレター『行動する女』1987年1月号より)20年前の日本の私立大学で、50%どころか、25%というひどいケースがあったというわけですが、この動機も今のアメリカ私立大学が「男性優遇」するのに共通するところがありそうですね。

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