DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ

2005年12月18日 - 3:25 午前 | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

サブカル路線に走った軽い記事に混じって「女性学年報」第26号に掲載されたマツウラマムコ氏の論文「『二次被害』は終わらない 『支援者』による被害者への暴力」を読む。マツウラ氏はこのブログにもたまにコメントをくださっている方で、性暴力やドメスティックバイオレンス(DV)への取り組みにおける「支援者の暴力」の問題に関してわたしと似たアプローチを取っているのだけれど、わたしが常々問題としているような「DVシェルターにおける権力構造」みたいなある意味社会設計によって解決可能な問題よりさらに奥にある解決不可能な構造的問題まで射程を伸ばしている点で評価できる。
わたしの「支援者」批判の論理は大きく2つに分けられる。1つはDVシェルターをはじめとするフェミニズム系の団体にありがちな構造上の問題であり、もう1つはそれを支えるフェミニズム発祥のイデオロギーというか「気分」だ。前者について詳しく言うと、例えばシェルターにいて被害者と支援者のあいだには大きな権力の差が存在するのに、規則や権力の濫用について被害者が苦情を訴えられるような構造になっていない。またルールを決めて生活についてあれこれ指図する人が同時に悩みを聞くカウンセラーであり、さらに同時に住居の管理者(かれらの一存で被害者はシェルターを追い出される)であるという役割の重複もこの構造的問題に含めて良いと思う。このような状態で権力の濫用が起きない方がおかしいわけで、個別のスタッフを非難していても問題は解決しない。
後者のフェミニズムの「気分」とは、一言で言うと「同じ女どうし」「女たちの助け合い」という美化されたイメージが支援者の頭の中や一般社会にあるために、先にあげたような構造を改善しようという声があげにくいことだ。そうしたイメージは被害者と支援者(兼管理者)とのあいだにある権力関係や利害関係を見えにくくするだけでなく、それが発見されたときに交渉や妥協を通じて利害を調停するのではなく、「同じ女どうし」というファンタジーを脅かす要素として利害の衝突自体がいけないかのようにそれを隠蔽する方向に作用する。また、「管理する者」と「管理される者」のあいだにカウンセリングの関係が成り立ち得ないことは論理的には明白なはずなのだけれど、「同じ女どうし」というイメージが先行するためにそうした歪な「カウンセリング」が堂々とまかり通っている。その結果、マツウラ氏の言うように、

私はサバイバーと話し合っているうち、「支援者」と呼ばれる人たちに傷つけられた人がとても多いことに気づいた。その支援者のふるまいは加害者にそっくりであると思えることも多かった。

という事態が起きているのに、一般社会ではほとんど誰も気付かずに

DVや性暴力のことを知らない一般の人たちは支援者は被害者と一体であると思っている。だから被害者について知りたいと思うとき、支援者や研究者に話を聞く。なかでも民間の無償で取り組んでいる支援者は、行政機関での被害者への「二次被害」をも理解し、一番近くで被害者によりそっていると思われている。

という事になるのだ。(「二次被害」というのは性暴力の問題においてよく言われる言葉で、被害を受けた人がそれを訴え出たときに周囲や警察に信じてもらえなかったり、お前が悪いんだと責められたりすることを指す。)
ここで引用した部分から分かる通り、マツウラ氏とわたしとでは「DVや性暴力の問題において、支援者と呼ばれる人たちが被害者をさまざまな方法で傷つけている」という認識で一致しており、「一般社会は支援者に被害者を代弁させたり、支援者の行為が全て被害者のためだという思い込みをやめるべきだ」と思っている。しかし、一応は研究者(この問題について調査していた当時)として改善のための「提案」(例えばシェルター外部に苦情を受け付ける窓口を作れ、とかカウンセラーはシェルターの外から入れろ、とか)をしなくてはいけない立場にいたわたしに比べて、マツウラ氏の批判はより根本的であり、その内容はわたしの議論に輪をかけて「救いがない」。これは悪い意味で言っているのではなくて褒め言葉。
まずマツウラ氏は、支援者を含む「第三者」、すなわち被害者でも加害者でもない人たちについて、異性愛者と同性愛者の関係を例に引きつつこのような分析を行う。

「第三者」たちは被害者のおかげで自分たちは「異常なところのないもの」つまり暴力という不幸な目にあわない「まともな普通の人間」であるとの地位を「何もせずに」手に入れているといえる。つまり「第三者」は被害者を「被害者」と名づけることで、被害者でない自分たちを「普通の人」としている。
(略)
 ここで名前のない「第三者」が自分のポジショナリティを自覚できるように、それが誰を指すのか明らかにしよう。「第三者」とは、無自覚な傍観者である。「中立」であると称しながら強い立場の加害者側から見て被害者を見捨てる「被害者ではない普通の人」のことである。つまり、「第三者」とはサバイバー/被害者ではない、あなた自身のことである。他の誰でもない、あなたのことである。あなたがサバイバー/被害者でないかぎり、この「あなた」の呼びかけから逃れられる人は一人もいない。

ここだけいきなり読めば、あまりに過剰な決めつけであるように読めるかもしれない。だけれど、「第三者」をこのように社会的権力関係の上に定義することが、後の「支援者」に対する批判に生きてくる。なぜなら、「支援者」とはマツウラ氏の言葉では「『第三者』のなかでも…積極的に被害者に近づき至近距離から暴力をふるえる立場にある」存在だからだ。また、自助グループの中で被害者同士が語り合うことや元々友人だった同士で相手が困っている時に話を聞いたりすることを「支援」とは呼ばない(ただの友情だ)ように、対等な関係において困っている人を助けることは「支援」とは言わない、とマツウラ氏は指摘する。つまり性暴力やDVにおける「支援者」とは、はじめから「支援」が目的で、すなわち一方が他方を助けるという非対称な関係を作るために被害者に近づく人のことだ。そしてそうした「支援」は、簡単に「支配」に転化し得る。
具体的な支援者による暴力のサイクルとして、マツウラ氏は「脅す」→「あぶり出し、呼び寄せる」→「支援/支配する」というモデルを提示している。まず「脅す」では、例えば母親に対して「DVを目撃した子どもたちは女の子なら将来被害者に、男の子なら将来加害者になる」と繰り返し言ったりして、支援者のもとに来て支援を受けるよう圧力をかける。被害者が「支援者」を必要とする以上に、「支援者」の側が「被害者」を必要としているのだ。そうして「支援者の支援を受ける」という選択肢しか残らないようにしておきながら、それを自分で選択したのだと思わせるのが「あぶり出し、呼び寄せる」の段階。そして支援者の元に来た被害者は、個人情報を握られシェルターなら夜寝るベッドまで支配されて、「支援者」に対して従順になるよう要求される。そうした支配が一見「支援」という形で押し付けられるため、抗議するのはなかなか難しい。
支援者の中には、「対等の立場で支援したい」とか「サバイバーの視点から支援したい」と思っている人もいるだろうけれど、マツウラ氏に言わせればそれこそが問題。「支援というものはそもそも上下関係を含んでいるものであり、対等になりえない。対等になりえない支援を『対等である』と権力を握っている側の支援者が判断できるということが、そもそも支援者の権力である」とマツウラ氏は指摘しており、これはわたしの「フェミニズム的気分=『同じ女』幻想」批判にも通じるポイントだ。むしろ「支援者」たち(及び、全ての「第三者」たち)が権力者・社会的強者としての自らのポジショナリティを自覚して、自分たちが「代弁」せずとも被害者たち自身が発言できるような社会改革を押し進めることが必要なのだ。
マツウラ氏の分析に「救いがない」というのは、「支援者」たちが自らのアイデンティティを一貫するために被害者に搾取的に依存していることをはっきりと描き出してしまったからだ。さらに、「支援者」が被害者と対等の関係を目指したり、被害者の視点から物事を見ようとすることは、そうした権力関係をあいまいにして隠蔽するだけの効果しかないという。わたしはこれまで、DVシェルターで起きるさまざまな問題について指摘しつつも、現場のスタッフについては「支援者たちは基本的に良心的な人たちで、ただかれらは大きな責任とサバイバーに対する権限だけ与えられているのにシェルターの仕組みに手を加えるだけの権力がない、こうした環境は人をダメにする」とか、「支援者たちはシェルターのシステムがどこかおかしいと思いつつも、『虐待された女性運動症候群』[*1] にかかっていて身動きが取れなくなっている」とか擁護しながら「制度が悪い」と主張してきたのだけれど、マツウラ氏は「支援者」たちの心理的な背景まで踏み込んでいて鋭い。
この論文はサバイバーとして言うことだけきちんと言っていて、支援者たちに安易な解決策を与えたりしていない。批判とともに解決策もセットで提示することが職業倫理であると思い込んでいた(それは、サバイバーとしての自分の立場を政策研究者としての仮面で隠して自分の地位をその他のサバイバーより上に押し上げようとする行為だったのかもしれない)わたしからみると、そのことがまず画期的で素晴らしい。被害者支援を志す人は、全員この論文を読んで一度その「救いようのなさ」に打たれて絶望のどん底まで落ち込むべきだと思う。わたし自身を振り返っても、元サバイバーとして「自分なら優れた支援者になれる」と思い込んでシェルターに勤務し、そこで自分のフェミニスト的な「良心」の限界に気付き絶望したところから今の取り組みは出発している。支援者たちが「自分は被害者たちを助けたい」「被害者と対等の立場で支援している」というフェミニスト的な「良心」に絶望しなければ、かれらはいまこの分野で必要とされている制度改革を遅らせることしかできないのだ。
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注:「虐待された女性運動症候群 (battered women’s movement syndrome)」というのは「虐待された女性症候群 (battered women’s syndrome)」という言葉のパロディ。元の語は「DVの被害を受けた女性はなぜ逃げ出さないのか」という疑問に答えるために作り出された言葉で、DVを受けると「学習された無力感 (learned helplessness)」に苛まれるのだ、という被害者に失礼な論理。「女性運動症候群」の方は Jennifer Baumgardner さんが言い出したパロディで、フェミニズムの団体が抑圧的になっているのに「この団体が潰れたら大変なことになる」と思い込んでなかなかフェミニスト活動家が離脱できなくなってしまうこと。元の言葉はサバイバーの主体性を否定するために援用されることが多くわたしは使わないことにしているのだけれど、パロディの方はDV業界の様子をとてもよく表しているし、業界関係者に話をする時に使うとうまく話が通じるのでよく使っている。


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