上野千鶴子講演「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか」の危うい公私論

2005年12月23日 - 6:27 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

今度オークランドに行く時にはお気に入りのコリアンレストランに連れて行く予定のマサキくんによる The Survival 経由で上野千鶴子氏による講演「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか?」を読む。「初学者にも上級者にも面白いものを」との要望に応え、いろいろな事を広く語る内容でかなり分かりやすい内容だけれど、そのうちセクシュアリティについて論じた部分に危ういものを感じたので以下にコメントする。また、上野氏の引用が気になって言及されている文献を読んでみたところ文献利用に疑問を感じたので、それについても述べることにする。なお、講演の全文が公開されているサイトにおいては「引用は一切許可できない」と書かれているけれど、許可を得なければいけない理由が思いつかないので勝手に引用する。
講演の中のセクシュアリティと題された部分において、上野氏は自然科学としてのセクソロジーとは別に社会科学としてのセクシュアリティ・スタディーズが立ち上がった経緯を説明したあと、「私秘的な領域」すなわちプライバシーについて以下のような疑念を表明する。

この私秘的な領域は、実は、公権力の介入を排除する、私的な、市民の聖域だと考えてきましたが、ここに実は、トリックがあります。「公権力の介入の排除」とは、同時に、「公権力の関与の排除」でもあります。例えば、ここで性的虐待が行われていようが、「私知らないもん」と公権力がいえる。例えばDVが行われていようが、「私いま殺されそうだから来てください」とおまわりさんに電話かけても、「あんたたち夫婦でしょ」とおまわりさんにシカトされる。というのがプライバシーです。
[…]
私的領域不介入の原則とは、私的な領域を市民社会のルールが通用しないアウトロー地帯にしたっていうことなんです。すごいことですこれは。このアウトロー地帯のなかで、誰が一番強いかっていうと、力が強いのは金持ってるやつ、オヤジですよ。オヤジが一番強いんです。そうするとオヤジの専制権力の行使が、不介入の原則によって公権力によって保障される。
[…]
そうすると私たちは、プライバシーは誰をいかに守ってきたのか。[…] 公私の領域をもう1回再定義してみよう、なんでこんなもんがあるんだろう、誰がなんのためにこんなもの作ったんだろう、というのは、近代社会の内面そのものにさかのぼるような、根源的な問いです。

伝統的に、家庭内が私的領域とみなされていたためにその中で起きる子どもの虐待やドメスティックバイオレンスといった問題に対して公権力が介入せずに来たことはその通り。そして、「個人的なことは政治的である」にはじまる第二波フェミニズムの一派は、私的なこととされてきた家庭内の役割や性のあり方までもが家父長制の刻印を色濃く受けていたことを明らかにしてきた。でも同時に、フェミニストたちはプライバシーの権利を拡張することで避妊や妊娠中絶の権利を勝ち取ったり同性愛行為を取り締まる法律を廃止する戦略もとってきたわけで、プライバシーの概念は「オヤジの専制権力」ばかりを強化するものではないと思う。第一、公権力の力が及ばないところはアウトロー地帯だなんて、私的な領域における女性たちの抵抗や連帯を無視した一方的な断言だと思うし。
その話は後で続けるとして、ここで上野氏は「公私の領域の再定義」という「応用問題を解いた」文献として、Robert Michael, John Gagnon, Edward Laumann & Gina Kolata の「Sex in America: A Definitive Survey」(1994) を登場させる。

その一つの応用問題を解いた、とても面白い文献に、私は出会いました。それはですね、「Sex in America」という 4000 人以上のアメリカ人を対象にした性行動調査のデータなんですが、それをやったアメリカの研究者たちがものすごく面白い概念を作り出しました。[…]
(スライドを見せながら)見てください、private sex と public sex。 public sex ってなんだと思います? 人前で、人に見せながらやるセックスのことだと思います? […] 彼らの理論はこうです。セックスには、sex with a partner、と、sex without a partner、というものがある。この二つを区別している。私たちは、sex with-out a partner のことを別名、マスターベーションと呼んでいる。 […]

わたしが疑問に思ったのは、ここで「private sex と public sex」という用語が使われていること。今の社会では sex はデフォルトで private なことだと思われているから private sex という言葉はあまり聞かないけれど、public sex という言葉なら一般に使われる用語で、人に見られる可能性があるような野外や公共の建物などで行うセックスのことをそう言う。「人前で、人に見せながらやるセックスのことだと思います?」って、その通りだよ(笑) で、既にそういう意味を持つ言葉をそれとは全く違った意味で使用するのは不思議だと感じたので実際に「Sex in America」を読んでみたところ、「public sex」という言葉が上野氏の言った意味で使われている例は皆無だった。それどころか、public と private という言葉は、この本の大部分において上野氏が言うような新しい意味ではなくごく普通の使われ方をしている。以下に例をあげると、

Perhaps never before in history has there been such a huge disparity between the open display of eroticism in a society and that society’s great reluctance to speak about private sexual practices. [p.8]

というときの「private sexual practices」はマスターベーションという意味ではなくごく普通に「私的な性行為」という意味だし、

Americans have strong and often clashing views of the merits, even the morality, of various sexual practices, but there is a limited amount of reliable data on whether the views so publicly expressed extend to the private world of sexuality or whether what people say and what they do are entirely different matters. [p.133]

という部分では「公的に発される言説」と「私的な性の世界」という形で「public/private」という対が使用されている。パートナーとのセックスとマスターベーションを比較した文章ではない。さらに、

But the public world of sex, as portrayed in books and movies, increasingly is emphasizing the sort of sex that, our survey says, appeals to men. [p.150-151]

では「public world of sex」という言葉が一般向けの書籍や映画におけるセックスの描写という意味で使われている。ここまで挙げてきた例は、全て public/private という言葉のごく普通の用法。ここから分かる通り、「Sex in America」が public/private という対に特殊な意味を込めたというのはあまり当たっていないように思える。
上野氏の解説に近い部分を挙げると、マスターベーションについて書かれた章の出だしの以下の部分がそれに当たる。

Sex with a partner is the public world of sex. It is a world of stakeholders and expectations, of performances and judgments, of negotiations and problematical outcomes. It is, like all social worlds, a place in which what a person does has consequences. There is another world of sex, however, one that is partially independent of this public world. This is the world of fantasy, of the private consumption of erotic materials and self-masturbation.
In this secluded personal realm, you do not have to pay as much attention to others, and the goal of personal pleasure can become central. It is a world without the need to negotiate with others and where there is no worry about whether your partner is satisfied. It is a world largely without social constraints, although even in the world of fantasy, the demands of society can intrude. […]

ここでは確かに、sex with a partner を「public world of sex」と位置づけた上で、それを「private consumption of erotic materials and self-masturbation」と対比させてある。しかし、「public sex」という言葉で sex with a partner を指すといった乱暴な再定義は行われておらず、また、後述するが上野氏が主張しているように「パートナーとのセックス」を公的なものと再定義しているわけでもない。上野氏は「ものすごく面白い概念」とベタ褒めしているけれど、もとの著者はそんな概念のつもりで言ってたわけではないので、彼女の引用は不正確だ。
「Sex in America」の著者たちがマスターベーションについて研究しようと思った理由は2つある。第一に、これまで調査されていないマスターベーションの頻度を調べること。第二に、マスターベーションとパートナーとのセックスがどのような関係にあるのか明らかにすること。具体的には、セックスするパートナーがいない人が代替手段としてマスターベーションをするのか、またもしそうであれば、パートナーに不自由しない人はマスターベーションしないのか。ちなみに、パートナーセックスとマスターベーションとの違いに研究者が注目した背景として、この研究は当初政府機関からの HIV/AIDS 研究のための資金で行われており、HIV 感染にほとんど関係なさそうなマスターベーションについての研究は控えるよう議会から圧力がかかったことが挙げられる。(つまり、上野氏はフーコーのおかげでセクシュアリティ研究が可能になったと言うけれど、実際には HIV/AIDS という具体的な脅威に対処するために性についての知識が必要となっただけ。)
「Sex in America」におけるセクシュアリティ研究の結論として、上野氏はこんな事を言う。

大変膨大なデータをもとに理論を構築していったわけですが、驚くべきことを言い出しました。まず、sex with a partnerとsex without a partnerとはまったく異なるカテゴリーに属する。マスターベーションとは、「自己の、自己身体とのエロス的な関係」のことをいう。この定義は私の定義です。彼らが十分には言わなかったことを私が彼らに代わって言ってあげている(笑)。で、パートナーつきのセックスは、「自己の、他者身体とのエロス的な関係」です。これは、だとしたら、代替できるはずがない。マスターベーションっていうのは「自己身体とのエロス的な関係」、それがちゃんと結べない人が、ましてや「他者身体とのエロス的な関係」など結ぶとはもってのほかだ。マスターベーションもちゃんとできない人に、パートナーつきのセックスができるわけがない、ということになった。かつ、データからはっきりわかったことは、パートナーつきのセックスにおいて、性的アクティビティーが活発な人ほど、マスターベーションの頻度も多い、その逆ではない、っていうことです。

この中で「Sex in America」で実際に主張されているのは、「パートナーつきのセックスにおいて、性的アクティビティーが活発な人ほど、マスターベーションの頻度も多い」という部分と、「マスターベーションはパートナーセックスの代替物ではない」という部分だけ。もしマスターベーションがパートナーセックスの代替物であるなら、パートナーセックスをする機会がない人ほどマスターベーションをしているはずであり、またパートナーセックスをたくさんやっている人はマスターベーションをしないはずなのに、そうではないから後者の主張は前者から当たり前に導き出せること。しかし、「まったく異なるカテゴリーに属する」とか「マスターベーションもちゃんとできない人に、パートナーつきのセックスができるわけがない」というのは上野氏による勝手な解釈。「彼らが十分には言わなかったこと」ではなく、「彼らが全然言っていないこと」なのに、それがかれらの主張の含意であるかのようにすり替えている。
この章を最後まできちんと読むと、「パートナーつきのセックスにおいて、性的アクティビティーが活発な人ほど、マスターベーションの頻度も多い」という事実の背景にある単純な理由が種明かしされている。パートナーセックスやマスターベーションの頻度が高い人と低い人では、性に対する態度や意識自体が全然違っていて、しかもそれは性別・年齢・人種に強く関連していて、「若い白人男性」だけが突出してパートナーとのセックスにもマスターベーションにも積極的なのだ。

Data like these explain why white, college-educated people who are living with a partner are most likely to masturbate. They are members of a group that tends to experiment with sex. Although they may be religious, they are less responsive to religious strictures.
In contrast, young women who are not masturbating are more inexperienced at sex–many are still virgins–and most are not actively experimenting with sexual techniques. Older people who are having less sex in general are also less likely to masturbate.
Many blacks are part of a social group that is conservative and conventional about sexual behavior. They, too, are less likely to masturbate.
So even without much open discussion of masturbation, even with the stigma that still hangs over the act, we find that the practice is so strongly influenced by social attitudes that it becomes more a reflection of a person’s religion and social class than a hidden outlet for sexual tensions.

分かりますか? 要するに、「パートナーセックスとマスターベーションの両方の頻度」を基準に「頻度の高い人」と「頻度の低い人」を比べているつもりだったはずが、実は単に「若い白人男性はパートナーとのセックスもマスターベーションもやりまくっている」ことが確認されただけという笑い話のような結論。著者たちは、若い女性や黒人や年輩者は「若い白人男性」に比べてそれぞれ別個の宗教的・社会的・文化的理由によって性に対して消極的な傾向があるという記述をしているけれど、「若い白人男性」だけ突出して性に対して積極的なら逆にかれらがそんなに積極的な社会的・文化的理由の方を追求すべきだったように思う。ま、どっちでも結論は同じだけどね。
さて、おかしな事になってきた。さっきまでは、「パートナーセックスの頻度が多い人は、マスターベーションの頻度も多い」ことが「sex with a partner と sex without a partner とはまったく異なるカテゴリーに属する」ことの根拠として挙げられてきたのだけれど、もし特定の社会集団がパートナーセックスにもマスターベーションにも積極的であり、他の社会集団はどちらにも消極的であるなら、全く同じデータが今度は逆に「もしかしたらパートナーセックスとマスターベーションは似たようなもので、だからこそ一方に積極的な人は他方にも積極的なのではないか」という方向に考える材料になる。少なくとも、「まったく異なるカテゴリーに属する」という見解は「Sex in America」では否定されており、ましてや性に消極的な女性や黒人や年輩者を、性的なスキルの足りない「マスターベーションもちゃんとできず、パートナーつきのセックスなどできるわけがない」人たちであると決めつけるようなことはこの文献が伝えようとしている事実からかけ離れている。
(しかし、そんなにパートナーセックスに積極的な「若い白人男性」たちの相手をしていると思われる「若い女性」たちのセックスの頻度が低い、というのはなんとなく納得がいかないような。少数の女性が多数の男性を相手にしているのか? それとももしかしたら調査に現れた差異は現実の差異ですらなくて、単に「若い白人男性」が見栄をはって「ああ、セックスなら頻繁にやってるよ」と答えているだけなのかも?)
このように上野氏による「Sex in America」利用にはいろいろと疑問が浮かぶのだけれど、わたしがこうした文献利用が問題だと思うのは、ただ単にそれが間違っているという事ではない。問題なのは、上野氏がこうした「Sex in America」の曲解によって、自身の持論である「公私の再定義」(公的領域の拡張)にまるでアメリカのセクシュアリティ研究者がお墨付きを与えているかのように見せかけている点だ。
「公私の再定義」とはどういうことか。上野氏はこのように説明する。

こういうことがわかるとなにがよいかっていうとprivate sexっていうのは、自己の自己身体とのエロス的な関係にのみ切り詰められます。私の身体においてのみprivate sexというものは成り立ちます。ではpublic sexとはなにか。自分以外の人との関係、これはコミュニケーションです。コミュニケーションにあたるのがすべてpublicになります。となると、コミュニケーションならば、あなたの体を使ってよろしいか、あなたの体に触れてよろしいか、あなたの体に侵入してよろしいか、については、当然のように、相手の合意と、人権の尊重が必要になります。[…] ところが、もし私たちが、public sexというものを、相手のあるセックスと定義するならば、相手が妻だろうが娼婦だろうが愛人だろうが誰であろうが、どういう人が相手だろうが、相手の合意と人権の尊重のないセックスはすべて、強制された性行為、すなわち強姦になる。当然のことです。

上野氏が問題とするのは、過去に(そして現在も)「家庭や性は私的領域である」とするイデオロギーのもと、子どもやお年寄りへの虐待や夫婦間における強姦、ドメスティックバイオレンスといった問題が「私的な問題」と片付けられていたことだ。しかし、それらへの解決策として「公的領域」を「コミュニケーションのすべて」にまで拡張し、また「公的領域」を「国家権力(警察・司法)」とイコールの関係で結びつける議論は、ネオリベラリスティックな監視社会化が進む現在において非常に危うい論理ではないか。
そもそも、そんなに私的領域というのは「オヤジの専制権力」ばかりが横行する「アウトロー地帯」なのか、あるいは常にそうであるのか。わたしは、私的領域の中でも対等な関係を作るための試みは可能だと考えるし、それが困難だった時代においても女性たちによる私的な抵抗や連帯は存在していたと思う。もちろん、最終的に私的なコミュニケーションが円満に決着できずに何か大きな侵害が起きた場合には、公的権力を呼び出せるような仕組みにする必要はある。公私の再定義を行わなくてもそれが可能な証拠に、いくら私的な空間であっても人を殺せば公的権力はちゃんと出てくる。つまり、性虐待やDVにおいて公的権力が必要な介入を行わないとしたら、それは私的領域だから踏み込めないのではなくて、かれらの恣意的な判断でしかない。
また、子どもの虐待やDVを無くすためには、それらを単なる私的な事件と位置づけるのではなく社会的な問題として見ることが必要だという点には合意する。しかし子どもの虐待やDVを「社会問題化」することは、すぐさま公的権力の肥大化に無批判的に依存することと同じではない。わたしが一番に必要だと思うのは家庭でも国家でもなくその中間にある共同体や教育や市民社会による予防的な取り組みだ。それは公共的な取り組みではあるけれど、私的領域(と従来されていたもの)に土足で踏み入れるような国家権力依存のやり方とは全然違う。上野氏は介護保険のような例をあげて「介護の社会化」あるいは「私事であったケアの脱私事化」を評価するのだけれど、むかしは共同体内で相互扶助が当たり前だったのが近代化・核家族化によって不可能になったから別の形で相互扶助の仕組みを作り直しただけじゃないの。そういった大規模な相互扶助制度の媒介としての国家の役割を例にあげて、際限ない警察権力の肥大化まで正当化しちゃうのはおかしい。
このようにわたしが言うのは、プライバシーというのは女性の権利を守るために重要な概念だと思うから。上にも書いたけれど、避妊する権利や妊娠中絶の権利を守っているのも「プライバシー」だし、最近では「合意ある大人同士のあいだで起きる同性愛行為を取り締まるのはプライバシー侵害」という判決が米最高裁で出て一気に同性愛者の市民権が認められるようになってきた。そもそも、望まない性行為や性的接触を拒否できる権利の根源的な根拠は、それはわたしたちがプライベートな身体を持つ個人であるという事にあるはず。さすがに上野氏もそこまでは否定していないけれども、コミュニケーションなら何もかも「公的領域」にさらけ出して国家権力の取り締まり対象とするようなやり方では、その根本のところが危うくならないだろうか。
わたしの専門である米国におけるDVへの取り組みで言うなら、警察の介入に依存するようなやり方はサイテーで、最終的手段というか一種の必要悪だと思っている。例えば、米国では近年 mandatory arrest law と呼ばれる法律が作られているのだけれど、警察官が「DVが行われていた」と信じれば「被害者」とされた人がDVを否定しようが、パートナーを逮捕しないでくれと泣き叫ぼうが、取りあえず「加害者」を逮捕して連れて行け、という内容だ。これは、まさに上野氏が主張する「公私の再定義」に沿った法律だと思うけれど、米国のDV反対運動は当初良かれと思ってこうした制度を推進した。なぜなら、被害を受けた時点では「自分が〜をちゃんとしなかったからいけないんだ」と自分を責めたりしていて被害を認識できない被害者が多いし、とにかく加害者を隔離すれば、DVやシェルターについて説明したり、必要なら荷物をまとめて逃げ出すだけの時間的余裕ができるからだ。
ところが現実にはこの法律はさんざんな結果を残している。まず第一に、この制度は被害者個人から「警察に訴えるかどうか」という選択肢を奪うことになった。翌日には留置所から加害者が帰ってくるわけで、暴力がエスカレートする危険もあるし、入居者が逮捕されたという理由で住居からの立ち退きを迫られることだってあり得るというのに、そうした重大な結果を招きかねない決定を下す権利が他人の手に奪われてしまったのだ。次に、一度逮捕されて翌日に釈放された加害者は、その経験からどうすれば逮捕されないかを学習する。家の外に警察が来ていると分かった時点で加害者が自分の体に爪で引っ掻き傷を付け、これは対等な喧嘩だったのだとか「自分の方が暴力をふるわれた」と言い出すケースがかなり多いのね。さらに、警察官にどちらが加害者なのか区別がつかなければ(同性間DVでよくある)両方とも逮捕されてしまう事すらある。この問題について詳しく調査したニューヨークの Urban Justice Center という団体は、警察の誤認によって被害者が逮捕される確率は「危険なほど高い」としており、それによって被害者たちは健康を害したり教育機会や職を失って経済的自立を阻まれるだけでなく、友人や家族との関係が悪化するという被害を受けている。こうした弊害の1つ1つがかれらをよりDVから逃れにくくしていることは言うまでもない。(資料:Haviland M, Frye V et al. 2001. “The family protection and domestic violence intervention act of 1995: examining the effects of mandatory arrest in New York City.” Available from Urban Justice Center, 646-602-5612)
別の例を挙げると、医者などの医療関係者に対してDVによって負傷した人が患者としてやってきたら警察に通報するよう方向付ける法律がある。日本の「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」でも、「その者の意思を尊重するよう努めるものとする」としながらも「配偶者からの暴力によって負傷し又は疾病にかかったと認められる者を発見したときは、その旨を配偶者暴力相談支援センター又は警察官に通報することができる」としており(第6条2項)、被害者の承認なく通報しても「秘密漏洩罪の規定その他の守秘義務」に違反しているとは見なさない(第6条3項)、と書かれている。医者以外についても、「配偶者からの暴力を受けている者を発見した者は、その旨を配偶者暴力相談支援センター又は警察官に通報するよう努めなければならない」(第6条1項)と書かれている。
これはつまり、DVの被害者は医者とのあいだにも周囲の友人など相談相手とのあいだにもプライバシーを期待できない、全てのコミュニケーションが公的領域に曝け出される危険があるということだ。こうした法律がどのように作用するかというと、傷を治療するために医者に診てもらったり周囲の人にDVについて相談したりすると勝手に通報されかねないので、通報して欲しくなければ(あるいは、通報するタイミングを他人に決められたくないなら)医療も受けられないし相談もできないという立場に被害者が追い込まれる。こうした「被害者の孤立化」こそが、DV被害者にとって一番危険だというのに。
このように、上野氏の言うように公私を再定義するだけではDV被害者を本当に救済することにはならず、国家権力の肥大化によるさまざまな不合理によって被害者の立場をさらに悪くする危険が大きい。ときには警察による介入が必要な場合があることは認めるけれど、フェミニズムの立場から国家権力の肥大化を推進するなんて間違った戦略だと思う。それよりもわたしたちフェミニストは、私的な人間関係に公正さを打ち立てるような試行錯誤、及びそういった試行錯誤を奨励するような教育環境の整備をするべきではないだろうか。それを「パブリック=公共」と呼ぶならそれでも構わないけれど、少なくともそれは国家権力とは切り離されたものであるはず。とゆーか、「パブリック」でいきなり国家権力を持ち出しちゃうなんて、それじゃ小林よしのり氏と同じじゃん。(それ以前に、コミュニケーションの全てを公的領域に入れてしまうような論理を主張しておきながら、「引用は許可できません」はないでしょーが。)
そういった試行錯誤の例として、わたしが方々に宣伝して回っているプログラムだけれど Northwest Network という団体の Friends Are Reaching Out (F.A.R. Out!) というものがある。この団体はシアトルのクィア・コミュニティを対象とした反DV団体なのだけれど、F.A.R. Out! はDVの被害を受けても警察に通報することに抵抗の強い非白人のクィアたちのコミュニティを対象に設計された(その際、サンフランシスコの Asian Women’s Shelter の Queer Women’s Project が行っていたプログラムが参考にされた)。このプログラムでは、お互いに「ずっと繋がっていること」にコミットした親しい友人たちのあいだで関係性についての会話を持つことで、そしてお互いに定期的に連絡を取るようコミットすることで、もしメンバーの中の誰かがDVの被害者もしくは加害者になりかかっていたらどうやってそれに気付くのか、そしてどのように友人たちに介入して欲しいのか明確にすることが基本だ。そうすることで、国家権力を呼び出さざるを得ないほど問題が深刻にならないうちに周囲の人たちが対処することができるようになる。それは同時に、より親密な関係を長く続けることに役に立つので、参加者とって十分にメリットがある。そうした会話をファシリテートできる人を育成して派遣する費用は、留置所やシェルターを維持する費用に比べてはるかに低いはずだ。
ネオリベラリズムは、公的な福祉制度や公共サービスの私営化 (privatization) を進めると同時に、監視社会化という形で私的な領域=プライバシーへの公的権力の侵害をも推進する。わたしは決してプライバシーを絶対視するべきだとも私的領域は完全に国家権力から自由であるべきだとも思わないけれど、フェミニズムにとって私的領域というのはただ単に家父長による横暴を保護するだけのものではないはず。どのような文脈でプライバシーを主張することが誰の利益になるのかを問題とするのはいいけれど、それはやはりケースバイケースで見て行かなければネオリベラリズム的な私的領域への侵害を後押しするだけになってしまう。上野さんのような主張では、性的虐待やDVをなくすためという美名のもと女性をエンパワーするのではなく警察権力をエンパワーしてしまうという結果を招いてしまうとわたしは懸念しているのだ。

4 Responses - “上野千鶴子講演「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか」の危うい公私論”

  1. xanthippe Says:

    こんばんは  
    public sex という言葉については、ちょっと前の沖縄米兵によるレイプ事件で耳にしたことがありますので、上野さんの使い方はかなり上野さん流になっちゃってるみたい、と私も確かに思います。
    masckaさんが疑問に思われる点はぜひご本人にフィードバックしてあげてください。
    んで、ご懸念の点なんですが。
    日本で警察がDVで動いてくれるようになったのはほんのつい最近です。それでもいまだに警察官全員が理解しているレベルではないです。 つい最近まで、「奥さん、まあ仲良くやってください」といって帰るのはざらだったんですすから・・・。 中には専門家の助言を得ながら女性警官が警察内部の被害者への対応マニュアルを作っているところもありますが、地域差があります。
    ですからmasckaさんのご懸念はもっともなのですが、実態的には、日本はまだまだ警察を頼りにしなければならないような状況があるのではないでしょうかね・・・。まあ、情けないといわれれば情けないかも。 地域力が落ちていますから、日本。下手に地域住民がうろうろすると、引っ越していっちゃうってこともあるし。
    それと、医療機関に通報義務を負わせると、DVや虐待の被害がかえって医療機関に見えにくくなる、という心配はもちろん私たちも考えました。 ポスターを張ってもらったり、相談窓口のカードをトイレにおいてもらったり、と手探りで皆さんやっておられます。

  2. Macska Says:

    xanthippeさん、こんにちはですー。
    > ですからmasckaさんのご懸念はもっともなのですが、実態的には、日本はまだまだ
    > 警察を頼りにしなければならないような状況があるのではないでしょうかね・・・。
    うーん、段階の問題なのかなぁ。被害者が警察を呼び出した時にちゃんと対処してくれる事は必要ですけど、そのために私的領域を狭めることは必要ないと思うし、被害者当人ではなく国家権力をエンパワーするような対策はフェミニズムから見て問題アリだと思うんですが。DVをその他の暴力と同じように扱うべきだというのは被害者がそう望んでいるなら構わないのですが、DVというのはやはり他人同士のあいだにおきる暴力と違ったところもあって、警察がどんどん介入することが必ずしも被害者にとって良いこととは限らないと思うのです。
    > まあ、情けないといわれれば情けないかも。地域力が落ちていますから、日本。
    > 下手に地域住民がうろうろすると、引っ越していっちゃうってこともあるし。
    うん、そりゃあもともと地域社会の繋がりがないのに、DVがあった時だけいきなり共同体のフリをしたって効力ないでしょう。 F.A.R. Out! は、そういう頼りない地域社会ではなく、お互いに繋がりを維持することにコミットした友人同士の絆をDV予防に使うという点で優れたプログラムだと思っています。
    > それと、医療機関に通報義務を負わせると、DVや虐待の被害がかえって医療機関に
    > 見えにくくなる、という心配はもちろん私たちも考えました。ポスターを張っても
    > らったり、相談窓口のカードをトイレにおいてもらったり、と手探りで皆さんやって
    > おられます。
    そうですね、そういえばわたしが最近入院してた病院のトイレにも、女性のための相談電話の番号が書かれたカードが置いてありました。ほかにも米国では美容室に相談窓口のパンフレットを置いたり、美容師さんを対象にDVについての知識を付けてもらうといった取り組みがされています。なぜなら、女性が長い時間座って世間話をする場所だから。日本ではおそらく多くの被害者の緊急避難場所となっているに違いない24時間営業のファミレスとかコンビニにパンフを置くことが有効じゃないかな、という話を以前 chiki さんとしました。

  3. TransNews Annex Says:

    上野千鶴子講演「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか」の危うい公私論
    上野千鶴子講演「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか」の危うい公私論 mascka dot com
    今度オークランドに行く時にはお気に入りのコリアンレストランに連れて行く予定のマサキくんによる The Survival 経由で上野千鶴子氏による講演「ジェンダー・セクシ�…

  4. Freezing Point Says:

    忘却と隠蔽
    本田由紀(id:yukihonda)氏による「ひきこもり」という語の運用を批判する指摘(ワタリ氏)が、その批判そのものにおいて、さらに誤りを重ねている。  もう最近では学校や会社に行っていても、「心が引きこもっている」と他人を非難したり、自己にレッテルを貼ったりす…

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