ネオリベラリスティックな衝動に抗して(ミーガン法 Part 4)
2004年12月31日 - 12:11 AM | |以前からここのサイトではいわゆる「ミーガン法」について反対論というか慎重論の立場から様々な資料を紹介してきたのだが、先日奈良で起きた小学一年生誘拐殺害事件に関連して容疑者が昨日逮捕され、その容疑者が過去にも女児に対する強制わいせつ容疑で逮捕された経歴のある人物であると判明したことで、過去に子どもへの性犯罪を犯した人の再犯を防止するための対策が社会的に議論されるのは避けられない情勢になった。なんばりょうすけ氏による大手新聞各社の社説のまとめを見ても分かる通り、ミーガン法に類するものを要求する世論が強まるのは確実。ところがいくらミーガン法に問題が多いとはいえ、「現状のまま何もしない」という主張では、「子どもを守れ」という口実で吹き上がるネオリベラリスティックな衝動に対抗できるはずもない。ではどうやって対抗するか。
対抗戦略の1つ目は、再犯対策の目的が何であるかという問題設定でイニシアティヴを握ることだ。ミーガン法であれ何であれ、その目的は前科者をいたずらに罰したり苦しめたりすることであってはならない。なぜなら、罰は罰金刑なり禁固刑なりで与えるものであり、もし現行制度では罰が軽過ぎるというのであれば重罰化の議論をするべきであって、ミーガン法の議論とは関係ないのだから。ミーガン法的な施策が容認されるとすれば、その目的は「コミュニティが前科者を受け入れ、社会復帰を支援するうえで、最低限必要なコミュニティの安全を守るため」すなわち「コミュニティが前科者と共生するため」でなければいけないはずだ。具体的な施策の是非を論じる前に、施策の目的が前科者の排除や懲罰ではなく「コミュニティと前科者の共生」であるという大きな前提をミーガン法推進論者にも合意してもらおう。それ以外の目的は別の施策でお願いというコト。
戦略の2つ目は、ミーガン法の仕組みを細かい部品に分解することだ。大きく別けても、ミーガン法には性犯罪前科者に関する「情報を集めること」(前科者に登録を義務づける)と、その集められた情報を「一般に告知すること」があり、「告知」と一言で言っても政府が積極的にコミュニティに告知を行うものと、知りたい人が政府に聞けば答えてもらえるという受動的なものがありうる。積極的告知の中には、前科者が引っ越す前に警察官が地域にビラを撒くという直接的なものや、学校や医療機関といった特別な公的施設にだけ伝えるというものがあるし、受動的告知には特定の人物について聞けば前科者かどうか答えてくれるものや、地域名をウェブサイトで入力するだけで前科者のリストが全部手に入るものまである。
米国の前例で見ると、前科者の個人情報を一般に告知することは、前科者やその家族に対する暴力や雇用・就職差別に繋がることが明らかであり、本来の目的である「コミュニティと前科者の共生」に大きく反することがわかっている。でも、公開前科者のうち再犯の危険があると判断された人たちに住所の登録を義務づける程度なら、その情報が厳重に管理される限り大きな問題にはならないだろう。登録された前科者は全国どこにいても再犯しないためのカウンセリングや相談を受けられるような仕組みにしておけば登録された人にとってもメリットがあるし、小中学校や医療機関など日常的に職員が他の大人の視線を受けずに子どもと接するような職場に限って、求職者が性犯罪前科者であるかどうかチェックできるようにするというようにも利用できる。最悪の場合、事件が起きたあとの捜査にも役に立つだろう。そう考えると、前科者に住所の登録を義務づけるまでであれば容認できないこともない。多少の問題は残るが、「ミーガン法丸ごと反対」ではなく「一般告知に反対」という形であればより賛同を得られるかもしれない。
3つ目の戦略は、当たり前すぎて明言するのもアホらしいけれども、ウソや誇張を徹底的に排し、事実を元に施策の「有効性」そして「対費用効果」を議論するよう仕向けることだ。例えば、ほかの犯罪に比べて性犯罪の再犯率が特に高いという主張が再三なされるけれど、それを示すこれといったデータはどこにもない。米国での数字として「他の犯罪の10.5倍」とか「40%にも及ぶ」と言う連中がいるけれど、もしこれらの数値が正しければ論理的に言って他の犯罪の再犯率は3.8%という脅威の低さとなってしまう。話にならない。
以前出した米民間団体 National Center on Institutions and Alternatives の 1996 年の調査によると性犯罪の再犯率は13%弱で、他の犯罪と比べるとむしろ低い方だという。この数字をある人に紹介したところ、いや問題となっているのは「子どもに対する」性暴力の再犯率なんだという反論があったのでそちらも調べてみると、自分の子どもに対する性虐待で逮捕された人の再犯率は5%前後、対してそれ以外の子どもに対する性虐待で逮捕された人の再犯率は16%という研究が見つかった (Greenberg D, Bradford J et al. 2000. “Recidivism of child molesters: a study of victim relationship with the perpetrator.” Child Abuse And Neglect. 24(11):1485-94.)。この数字が絶対だとは思わないが、テレビのコメンテータが無根拠に言うほど再犯率が高くはないと分かると思う。
コミュニティ告知自体の有効性についても、前回紹介したとおりエヴァーグリーン州立大学の1995〜97年の研究があり(というか、これ以外この種の調査が存在しない)、出所後54ヶ月以内に再犯する確率は告知制度導入の以前と以後で一切有意な差が認められなかった。コミュニティへの一般告知は、「コミュニティと前科者の共生」のうち「前科者の社会復帰」を事実上不可能にするばかりか、コミュニティにおける子どもの安全すら守っているとは言い難いのだ。
さらに話を広げると、子どもに対する性的虐待の大多数は被害者の家族内で起きており、また性暴力の大多数は警察に通報すらされていないのが現実であるのに、少数の前科者を監視していれば子どもが守られるとどうして考えられるのか。奈良の事件は確かに悲惨だけれど、子どもに対する暴力の例としては非常に特殊な例だ。前科者監視には注ぎ込まれるコスト(ここでは金銭的なものだけではなく、社会的な注目度や政治的な意志も含むとする)に見合うほどの効果が認められないというだけでなく、より効果のある性虐待予防キャンペーンなり社会復帰支援活動に充てるべきリソースを削ぐことになる。
なんばさんが紹介している産経新聞の社説では「女児に異常な興味を示す、このようなロリコン趣味者を今後、どのように取り締まっていくか」と、まるで犯罪行為でなく幼児性愛の性的な指向を持つ事自体を取り締まるべきだといった論調もあるけれど、これも「子どもに対する性的虐待は、幼児に異常な興味を示す人によって行われている」という間違った認識がベースとなっている。現実には、世間から見てごく普通の生活を営む両親や学校の先生などが、「たまたま身近に存在する、自分の思いのままになる対象」として子どもに手を出している方が圧倒的に多いに決まっている。
本当に子どもを性暴力から守ろうとするならば、「前科者や幼児性愛者とどうやって共生するか」という課題とともに、「子どもに対して大人一般が持つ圧倒的な『力』の濫用としての(性)虐待をどうやって防ぐか」といった課題として問いかける必用があるのに、産経新聞に代表される論調はあくまで性暴力を「一部の特殊な人だけがする行為」として「ロンリコン趣味者」をスケープゴートを仕立て上げたうえで、より一般的な、新聞でも報道されにくいような被害を隠蔽して、それらに対する有効な対策を取れないような方向に議論を捩じ曲げている。
もちろん一部の論者はネオリベラリスティックな監視社会を実現する目的で、確信犯的に方便として「子どもを守るため」という論陣を張っているのだろう。けれど、本気で性暴力や子どもの虐待に取り組んでいる人たちは、この動きに決して乗ってはいけない。それ以外の人で奈良の事件についてメディアの報道を見てショックを受けた人も、そうした感情的なやりどころの無さを悪用して極端な社会施策を推進しようとしている勢力がある事に気付くべきだ。それと同時に、奈良で起きた事件ほど極端でないにせよ、性暴力の被害は毎日、一見「普通」に見える家庭や教室で起きているということにも気付いて欲しい。
コトは、単に一部の変質者を排除すれば済むという問題ではない。わたしは、わたしが認識している限り「性暴力」の加害者ではないけれど、それは自分が性暴力の加害者より優れた人間だからだとは思っていない。これまで生まれて生きてきた場所と状況とタイミングが少し違えば、加害者になっていた可能性は十分にあると思う。それに、わたしたちの社会には性暴力というものをやたらと特殊なモノだと決めつける傾向があるけれど、もっと広く「自分の欲望のために周囲の人を傷つけること」(あるいはグローバルな資本主義を通してわたしと繋がっている地球の裏側の人を傷つけること)と捉えてみると、考えてみたら日常茶飯事だ。どうして性暴力の加害者だけがわたしと全く別の人種だと信じることができようか。
もちろん、実際に加害したかどうかというのは大きな違いではあるし、そうした論理は実際に加害行為を犯した人を免罪する理由にはならない。というのも、ぶっちゃけた話、加害者にそれなりの責任を取ってもらわなければ社会が成り立たないからだ。でも同時に、将来の被害者と加害者双方のために被害の発生を減らすための最大限の努力をする責任が社会にあるとわたしは思うし、実際に被害を減らすための有効な対策を立てることは、「誰でも、自分でも、加害者になりうる」という前提で考えなければ不可能だと思う。結局、いかにそれが醜悪な空想であるように思えても、「性暴力の加害者は、かならずしも特殊な人ではない」「場所と状況とタイミングによっては、自分も加害者になっていたかもしれない」と想像することができて、はじめて「わたしたち」の社会は「わたしたち」自身の問題として「性暴力」に取り組むことができるのだろう。
これまでのミーガン法関連記事:
1)いわゆるミーガン法について
2)ミーガン法ふたたび
3)ミーガン法にトドメをさす
2004/12/31 - 19:57:26 -
[考察]奈良小1女児殺害事件の容疑者タイーホ
新聞各紙が社説や記事内でミーガン法に触れている。以下一覧。 産経新聞 >> 米国や英国では、地域により再犯の恐れが強い性的異常者については、顔写真や住所を公表している所も…
2005/01/02 - 15:07:51 -
[社会] 「誰でも、自分でも、加害者になりうる」のか
トラバを頂いた macska さんのエントリネオリベラリスティックな衝動に抗して(ミーガン法 Part 4)について。実に実践的な提案が多く含まれ参考になります。 >> でも同時に、将来の…
2006/11/20 - 21:48:48 -
理念とか考え方としてはこちらに書いてある事はよく分かるし、再犯率の低さとか、マスコミや政治の捏造とかいうのも、よく分かる。しかし、再犯率が13%というのは、それしかない、低いと考える事も可能だし、13%もあると考える事も出来ますよね?自分にも子供がいますが、仮に隣人に性犯罪者が引っ越してきたとしたら、気にするなというのは無理です。自分が加害者になる可能性があると言う話も分かりますが、実際には性犯罪を起こさない人が世の中の大半の人なわけです。いくら特別視するなと言っても、無理があると思います。私たち自身の問題であると考えるためには、実際に性犯罪を起こす人が大半であるという世の中にならなければ無理だと思います。あなたはおそらく女性なのでしょうが、男性の性欲や性犯罪については、残念ながらあなたが男性にならない限りは永遠に分からないだろうと思います。
2007/01/20 - 06:58:18 -
子どもに対する性的虐待の大多数は被害者の家族内で起きているのならば、なぜ「少数の前科者」を放置せよとなるのですか。DVの取り締まりに力を入れればよいだけでしょう。
たまたま身近に存在する、自分の思いのままになる対象」として子どもに手を出している方が圧倒的に多いに決まっている、とのことですが論拠は何ですか。
この論説は所々に無理があるので価値が低いと思う。
私ならば幼児性愛者の情報は子供だけに知らせるのが良いと思います。もし私がアメリカの田舎町の聖職者で出所者から相談を受ければ、子供たちが集まる場所で子供たちだけを対象に情報を開示します。出所者を立ち合わせた上で。出所者本人に自分が危険な人物であることと更生を望む心情を語らせます。この時に公の場所以外では決して彼に接触しないように皆に要請します。子供の口から大人に伝わるリスクもありますが、再犯のリスクとの平衡を保つ上では最も望ましいと思います。副作用がある方法悉く拒絶は賢明ではないでしょう。
尚、私だって子供にとって最大の脅威はDVだろうと思うし、幼児性愛者の如き異端者は隔離せよとなれば、隔離の行き着く先は金持ち地主は貧乏人を隔離することになるので隔離には反対です。
2011/01/26 - 02:09:34 -
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