わたしの頭も「あめりかん」に浸食されたらしいという話

2004年12月4日 - 7:07 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

南アフリカ共和国のケープ・タイムズ紙などの報道より、インターセックスの子どもに対して本人の意志に関係なく行われる性器矯正手術を規制するための法案を南アフリカ人権委員会が検討中。南アフリカ人権委員会のページを見たところ、さすが「人権」というものを国民が血を流して勝ち取った歴史の近い国だけあって、人権委員会の権限はかなり強そうだ。
とにかく、いくつかの報道記事を読んでいて思い出したこと。10月にサンフランシスコのインターセックス活動家と集まってサンフランシスコ人権委員会に対してどのような要求をするかという話をしていたのだけれど、その中で「子どもの性器に対する手術を禁止するように求めるのは戦略的によくない」ということをわたしが説明している時、オーストラリア出身の活動家から「それってアメリカ的な考え方だね」と思わぬタイミングで言われてしまって、「げげっ、わたしってアメリカ的なのぉ?」ってちょっとだけ落ち込んだのだ。
だって、わたしがもともと生息していたアメリカの女性学の業界では、例えばマルクス主義を分かってない奴がポストモダニズムがどうだとか延々とバカみたいな事言ってたし、左派的な活動家業界でも未だにソ連のアフガン侵攻がどうしてダメなのか分かってない人が「対テロ戦争反対」叫んでいたりするので、横で呆れているカナダやヨーロッパの研究者や活動家に混じって「アメリカ人ってバカだなぁ」と一緒に軽蔑してたわけよ。だから、わたしの事をアメリカ的と言われるのはとってもショック(笑)
インターセックスの問題でわたしのどこが「アメリカ的」かというと、それは「政府と医療の権力関係」ということを考慮に入れた点。普通の先進国だと、その医療行為は人々を傷つけると分かったら政府が介入して禁止するという事に何ら躊躇しないわけだけど、アメリカ人は外交面ではあれだけコロッとウソだらけの侵略戦争に騙されるのに、内政面では政府のことを全然信用しないわけね。だから、政府が何でもかんでも決定してしまう社会はおかしいという認識があって、それが「医療は医療が規制するもの」という原則になっている。具体的な例で言うと、ある医療行為が不当行為として損害賠償の対象となる(と裁判所に判断させる)要件は何かというと、「同じ分野の他の医者の行為と比べて極端に違うかどうか」なのよ。普通の先進国なら政府が乗り出して最低限の基準みたいなのを設けるところでも、米国では医療の問題は医療自身に規制してもらおうという論理が強い。
わたしが例の議論で何を言ったかというと、わたしたちが何か要求するなら、それが実現可能なことかどうか考えながらやった方がいいという事。インターセックスの問題1つ解決するために、「政府は医療に介入しない」という100年以上続く伝統的な縄張りを変更させられるだけの政治力がウチらにあるわけ? ないのであれば、仮に同じ事を要求するのであっても、違った言い方するなりしてできるだけ「政府による医療の縄張りへの侵入だ」と気付かれない方法を取る必要があるわけで(笑) だから、「アメリカ的な考え方だね」というのは、別にわたし個人の意見に対して視野が狭いという意味で向けられたのではなく、「なるほど、この戦略では通用しないという、オーストラリア人の自分には思いもよらないような理由があるわけだ」と感心されたんだと思うけれど、わたしにとってはそれがとても新鮮に感じられた。
アメリカにおいて政府が信用されないためばかりに、結果的に国家が果たすべき機能が果たされずに放置されているのであれば困った話。それが例えば健康保険であったり、教育であったり、環境規制であったりするわけで、医療の規制を医療に任せる程度ならともかく「環境保護のための規制は汚染企業に任せる」じゃジョークとしか考えられない。ジョークと言えば、最近ブッシュ政権がウクライナの大統領選挙に関して「不正があったから結果は認められない」と言い出したのも圧倒的にジョークでしょ。とゆーか、パレスチナやらイラクで同じ事やられたらジョークじゃ済まないよねぇ…(って、ウクライナもジョークじゃ済んでないけど)

2 Responses - “わたしの頭も「あめりかん」に浸食されたらしいという話”

  1. 芥屋 Says:

    こんにちは。お久しぶりです。
    へぇ〜、って思いながら読んでたのですが、
    >それが「医療は医療が規制するもの」という原則になっている。
    …およびその具体例のところは解りやすいのですが、そこで初歩的な疑問。「医療が医療を規制する」中で起きる様々な事柄についての調整ないし最終的なオーソライズみたいなものは、政府(StateでもGovermentでもいいですけど)、何か公的な役割を「期待されている」ということはないんでしょうか。
    何故そう思ったかというと、
    >「政府は医療に介入しない」という100年以上続く伝統的な縄張りを変更させられるだけの政治力がウチらにあるわけ? ないのであれば、仮に同じ事を要求するのであっても、違った言い方するなりしてできるだけ「政府による医療の縄張りへの侵入だ」と気付かれない方法を取る必要があるわけで
    …に、つながる部分に関してです。「個々の具体的な競合には不介入」であることを原則としつつ、「相互規制」が順調に行われるためには「放任」は許されないはずなので、ある意味で強力な「政治の力」による「自由な相互規制の保障」みたいなコンセンサスがあるのだろうか?と感じたのでした。
    そのオーストラリアの人が感じたのとは違うだろうし、私はアメリカの医療制度そのものに関心があるわけではないのですが、「あめりかん」て何だろう(政治風土篇)みたいな感覚での疑問でした。

  2. 芥屋 Says:

    唐突すぎたかも。補足です。
    >「あめりかん」て何だろう(政治風土篇)みたいな感覚
    何でまたそういうことを感じてたかというと、いま読んでる『丸山真男』(水谷三公)の中で、マッカーシズムに言及された箇所があったのですが、丸山真男は「反・反共主義」の立場からマッカーシーの赤狩りを「反共が誘発するファシズム」の文脈でのみ説いていたことに対し、水谷氏はそれを充分に認めつつも、禁酒法との共通要素を挙げ、英国との類似の事象とどう違った経過をたどったかに触れ、アメリカの政治風土に内在するものを示唆していたのです。
    そういったこともあって、この医療の話とは直接の関連はありませんが、上記のレスになった次第です。

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