ポートランドの活動家、ボニー・ティンカーさんからわたしが学んだこと

7/4/2009 - 8:39 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

わたしの尊敬する活動家の一人で、わたしと同じオレゴン州ポートランドに住んでいたボニー・ティンカーさんが、旅行先のヴァージニア州で交通事故にあい、61歳という年齢で亡くなった。彼女は西海岸で最も歴史の古いドメスティックバイオレンス(DV)シェルター、Bradley-Angle Houseの創設者であり、ゲイやレズビアンをはじめとする性的少数者の人たちが作る家族を支援する団体Love Makes A Familyの代表としても長年活動を続けてきた。また、社会的公正と非暴力主義を掲げるクエーカー教の信仰者として、ポートランドにおける平和運動や人権運動でも中心的な活躍をしてきた。追悼にかえて、わたしが彼女から学んだことをいくつか記録しておきたい。

わたしがボニーさんを知ったのは、Love Makes A Familyの代表としてだった。わたしの友人が大学に通いながらこの団体でたまたま仕事をしており、イベントの手伝いなどに呼ばれて知り合った。部下を通してボニーさんを知ったこともあっただろうけれど、当時のわたしにとって彼女の運営スタイルはかなりいい加減に見えて、あるプログラムを実施するために得た助成金や基金からのグラントを別のところに使ってしまったりと、そのうち問題になるんじゃないかと呆れたこともあった。

また、部下であるわたしの友人に対しても、特に何か指示や指導をするわけでもなく、「これをやります」「やりました」という報告を受けるだけで放置しているようなところがあり、団体の運営とか経営ということに向いていない人なんじゃないかと思った。それでなんとかうまくいっていたのは、ひとえに彼女の真摯さと仕事ぶりに対する絶大な信用と信頼があったからで、彼女の資金管理に手続き上問題があると言う人はいても、私的な欲望のために流用したという疑いを持つ人は皆無だった。

Love Makes A Familyという団体が創設されたのは、1993年のことだ。当時わたしはまだポートランドにはいなかったけれども、この前年の1992年の11月にあった選挙において、オレゴン州とコロラド州で全米ではじめてとなる(そしてその後全国各地で繰り返される)「反同性愛」を掲げる住民投票が提案された。オレゴン州で提案された「住民投票第9項」は、「同性愛、児童性愛、サディズム、およびマゾヒズム」が「異常、悪、不自然、変態」であるということを、公教育を含め政府が徹底すべきだ、と規定するものだった。住民投票を提案したのは「オレゴン市民連合」と名乗るキリスト教原理主義的な保守団体(関連記事)。

この住民投票は全国のメディアの注目を集め、賛成・反対双方に州内外からたくさんの運動資金が舞い込んだ。激化する論争のなか、同性愛者と目された人たちに対するヘイトクライム(憎悪犯罪)は例年の何倍にも増え、ついにはルームメイトだったゲイ男性とレズビアンが自宅で爆弾テロの犠牲となった。と同時に、オレゴン州の性的少数者たちのあいだでは「家族や友人たちに反対の投票をするよう訴えなければ、社会的に抹殺されてしまう」という危機感が生まれ、ゲイやレズビアンだとしてカミングアウトする人も増えた。こうした住民投票は、80年代のAIDS危機に続いて、カミングアウトが広まる二度目の政治的契機となった(最近では、ゲイは家族や友人にカミングアウトするのが当たり前という風潮もあるが、これはごく最近生まれたものでしかない)。当時の状況は、ドキュメンタリ映画『Ballot Measure 9』に克明に記録されている。

この時ボニーさんらは、保守的なキリスト教会にはたらきかけて、「ゲイやレズビアンとクリスチャンの意見交換」という交流会を実施した。すなわち、ゲイやレズビアンたち(その中にはもちろんクリスチャンのゲイやレズビアンもいた)と教会の主要なメンバーが同人数で週一回、同じメンバーで6週間に渡って集まり、お互いを尊重しつつ、意見を交わすという試みだ。もちろんこのような対話に参加するような人だから、クリスチャンたちだってまったく聞く耳を持たない人たちではなかったのだろうけれど、住民投票にはどちらかといえば賛成、くらいの考えの人たちだった。

ところが週ごとに意見を交わしていくうちに、かれらの考えは予想もつかなかったほど変わっていった。同性愛は罪だと思っていたとしても、キリスト教徒として同性愛を肯定できないとしても、そこから住民投票によって相手を「異常」と決めつけ、社会的に排除することには飛躍がある。毎週顔を合わせて対話を続けるうちに、同性愛は罪であるという信仰は変わらなくても、目の前の同性愛者たちに親しみを感じ、かれらの人間性を否定できなくなってしまっていたのだ。

こうした対話の手法は、ボニーさんが寄って立つクエーカー教の伝統に即したものだ。クエーカー教は正式名称をReligious Society of Friends(キリスト友会)というが、『20世紀少年』に出てくる「ともだち」教団と違い、徹底した平等主義と非暴力主義を信奉している。ここでいう非暴力主義とは、単に物理的な暴力をふるわないということではなく、すべての人の人間性を尊重し、ないがしろにしないということだ。同性愛者に対する差別を肯定している相手であっても、一方的にそれを断罪し、あんなやつと話しても何も良いことがないと切り捨てるのは、クエーカーたちの考えでは「暴力」にあたる。非暴力主義を徹底するなら、とても許し難いような酷い主張を掲げている人にこそ、真摯に向き合い対話を試みなければいけない。

クエーカーにもさまざまな分派があり、その中には同性愛や同性婚についてさまざまな意見がある。ボニーさんが属するグループは当然のことながらその中でももっともリベラルな考えを採用しているところだが、それは決して偶然ではない。レズビアンである彼女をはじめとして、たくさんのゲイやレズビアンのクエーカーたちが、十年以上の時間をかけて対話を続けてきた結果、ようやく「自分たちの信じる平等思想は、同性愛者や同性婚にもあてはめられるべきだ」という合意を作り出したのだ。そうしたプロセスを、クエーカー以外の人も使えるような手法にしたものが、ボニーさんが作り出した「LARAメソッド」だ。LARAとは、Listen, Affirm, Respond, Addの略で、それぞれ「聞く」「承認する」「応答する」「追加する」という意味だ。

わたしたちは、意見の異なる相手を目の前にしたとき、特にその意見が自分にとって到底受け入れ難いとき、その意見のどこが間違いなのか、つい率先して叩きたくなる。しかしその結果相手が自分の間違いを認めて撤回するということは稀で、かえって相手を頑にしてしまうことが多い。クエーカー的に言うと、こちらが暴力的に相手の議論を粉砕しようとするから、相手は粉砕されてはかなわないと防御を固めてしまっているのだ。

LARAメソッドでは、まず第一にするべきことは、「相手の言い分を聞くこと」だ。もちろんその内容は、差別心や偏見の露呈であったり、あるいは論理的な自己矛盾を抱えたりしていて、とても受け入れられるものではないかもしれない。けれども、相手がそれだけ熱心に何かを主張するということは、どこかにそうした主張を成り立たせている、広く社会的に共有された「正しさ」が含まれているからだ、というのがボニーさんの考えだ。そしてその「正しさ」を声に出して承認することで、まずは相手との共通の土台を作り出すことが重要だ、と彼女は教えてくれた。

たとえば、「同性婚は家庭を破壊する」という意見を言う人がいたとする。はっきりいって、これはまったくの被害妄想あるいは言いがかりみたいなもので、そこに何ら「正しさ」はないように思える。でも、よく注意してみると、そこには社会や家庭のあり方がどんどん変化していく中、伝統的な家庭の良い部分が失われていることを嘆いている気持ちがあるのではないか。同性婚反対を掲げる主張の中の、そうした素朴な心情の部分には、同性婚に賛成の人たちだって共感できるはずだ。いきなり相手の主張を攻撃するのではなく、まずそうした根底の部分で相手を承認し、共感を示すことが必要だ。

そのうえで、相手の主張にはきちんと「応答」する。家庭を崩壊させているのは本当に同性婚なのか、同性カップルが結婚することで安定した家庭を持つことだってできるのではないか、など、いろいろな対応が可能だろう。そして最後に、相手が考慮にも入れていなかったような情報や、自分の個人的な経験・見聞きしてきたことなどを「追加」する。たとえばここで、自分の知り合いの同性愛者が、二十年付き添ってきたパートナーが亡くなる時に「家族でなかったために」病室に入れてもらえなかった、みたいなエピソードがあれば、有効かもしれない。これらはあくまで例でしかなく、「こう言われたらこう答える」的なマニュアルに頼るのではなく、実際に自分が思うことを、相手との対話の中で言っていくことが重要。

わたしは、ボニーさんほど徹底した非暴力主義者ではないし、LARAメソッドを常に使うほど忍耐強くもない。けれども、本当に誰かを説得したいときどのような態度で臨むべきなのか、一見到底対話も成り立ちそうもないような相手とどのように話をすればいいのか、彼女の活動から多くを学んだ。

もう一つ、わたしがボニーさんと話をしたのは、DVシェルターのあり方についてだ。実は、わたしは彼女がはじめたDVシェルターで働いていたことがあるのだが、当時すでに彼女はシェルターとは一切関わっていなかったので、シェルターの活動の中で出会うことはなかった。けれども、次第にわたしはシェルターがそれ自体DV被害者に対して暴力的な制度であると感じるようになり、シェルターで働くのを辞めた。

たとえば、そのシェルターでは、飲酒や麻薬の使用を防ぐためとして定期的にシェルターに滞在している女性の尿を検査する仕組みになっていたのだけれど、他人の尿をカップに入れたり、水を入れて尿を薄めることがないように、スタッフが女性に付き添ってトイレまで行き、実際にカップの中におしっこを入れているか確認するという決まりがあった。これなど、プライバシーの侵害どころの問題ではないと思うのだけれど、ほとんどのスタッフは何の疑問も持っている様子がない。

わたしはこのようなやり方に加担したくないと思ったので、自ら検査を希望してきた一人だけ(定期的に検査を受けなくてはいけない、というプレッシャーがあることで、なんとか麻薬を使わない意志を持ち通している)を除いて一度も検査をしたことがないのだけれど、わたしがやらなければ他のスタッフがやるだけで、全く解決にはならなかった。わたしはそれが嫌になって、シェルターのあり方を外から批判し、それに代わる被害者支援のあり方を模索する活動をするようになったのだけれど、その中でこのシェルターの創設者であるボニーさんに聞き取り調査をしたことがある。

彼女によると、このシェルターがはじまった当初は、単にDV被害者というよりは、売春や麻薬の罪で捕まった女性が滞在することが多かったという。彼女たちは犯罪をおかしていたのだけれど、それは夫やボーイフレンドに強要されてであったりすることが多く、刑務所に入れるより自立支援の対象として見なされていた(米国でも70年代にはこのような雰囲気があった)。当時、このシェルターでは飲酒や麻薬使用についての規則は特になく、周囲に迷惑をかけるような行動があればそれは行為の問題として−−ときに、飲酒や麻薬使用にともなう行為としてだが−−対処された。80年代になって政府が「麻薬との戦争」を宣言し、シェルターでも飲酒や麻薬使用そのものを禁止する規則ができても、定期的な検査などなかったし、違反してもいきなりシェルターを追い出されることもなかった。

しかし90年代のどこかの時点で、規則は絶対化し、少しでも違反があれば−−とくに弊害がなくても−−厳しく取り締まるようになった。そして90年代終わり頃には、麻薬を使っているかどうかの判定を本人の申告やスタッフの勘に任せるのではなく、警察が使っているような器具を使って定期的に検査する方が「フェアである」とされるようになった。わたしが聞き取り調査をした時点では、ボニーさんはシェルターでこのような変化が起きているとは知らなかったそうで、自分がはじめたあのシェルターがいまそんな警察国家みたいな形になっているとは、と嘆いていた。

ポートランドを含むマルトノマ郡では、2004年の3月から数ヶ月間に渡り、一時的に同性婚が認められた。ボニーさんは同性のパートナーと20年以上に渡って一緒に暮らしていて、同性婚の実現のために長い間いろいろなところにはたらきかけていたのだけれど、この時の同性婚合法化にはまったく関わっていなかった。マルトノマ郡より少し先に、サンフランシスコにおいてニューサム市長の判断で同性婚がはじまっていたのだけれど、そのときボニーさんが郡当局やLGBTの権利を推進する団体に問い合わせても、「ポートランドでは同性婚は非現実的すぎる、まったく考えていない」という答えしかかえってこなかった。しかし舞台裏では、郡やその団体は同性婚実施について秘密裏に話を進めていて、ボニーさんの問い合わせからそれほど時間もたたないうちに同性婚の合法化が発表された。

ボニーさんは、誰よりも早い時点から同性婚実現のために活動していたのに、仲間であるはずのLGBT権利擁護団体に嘘までつかれて、蚊帳の外に置かれた。当然、「同性婚が実現したのは嬉しいけれども、LGBT権利擁護団体には裏切られた」という複雑な感情を抱いたはずが、そこで彼女は終わらなかった。同じように蚊帳の外に置かれ、「密室で勝手に決めるな!民主主義を否定するな!」と憤る同性婚反対派に歩み寄り、こう語りかけた。「あなたがたが怒るのもよく分かる。自分も10年以上この問題に取り組んでいたのに、あなたたちと同じように蚊帳の外に置かれた。でもわたしたちにとって同性婚はこんなに大切なのだ〜」。自分が不当に扱われた経験をベースに、意見の異なる相手に歩み寄り、共感的な関係を築いたうえで、自分の意見を伝えようとするボニーさんに、まさにLARAメソッドの実践を見た気がした。

ひびのまことさんが国際バイセクシュアル会議の基調講演者として米国に招待された(って、わたしが推薦して招待させたんだけど)とき、ひびのさんはポートランドにもしばらく滞在したのだけれど、その時わたしが特にひびのさんに会わせたいと思い、実際に一緒に会いに行ったのが、ボニーさんだった。わたしとボニーさんがつい早口の英語で話を進めてしまうために、ひびのさんが十分に会話に参加できなかったと後から気付いて、ごめんなさいと謝るほかなかったのだけれど、二人を引き合わせることができて良かったな、くらいには思っている。

ボニーさんが亡くなったのは61歳という、まだまだ早すぎる年齢だったけれども、地元で辛抱強く草の根運動を続けることで、わたしを含めたくさんの人たちに影響を与えた人だと思う。彼女のfacebookアカウントには、事故の一報が入って以来、多数の追悼メッセージが殺到している。わたしは積極的に自分の知り合いをfacebookアカウントに追加するということをしていなくて(基本的に、相手から誘われたら登録している)、ボニーさんとfacebook上のお友達になっていなかったので、メッセージを書き込めないことが残念。でもこうして日本語のブログで書くことで、彼女を知らない人にも、彼女のことを知ってもらうことができるからいいかと思う。

2 Responses - “ポートランドの活動家、ボニー・ティンカーさんからわたしが学んだこと”

  1. ミヤマアキラ Says:

    こんにちはです。ポートランドといえば、とある友人がプロセスワークのファシリテータの資格をとるためにアーノルド・ミンデルに師事しに行った土地名としてまず記憶していました。ボニーさんの対話の手法とプロセスワーク(最近では世界的な紛争や葛藤を解決するためのワールドワーク、オープンフォーラムとも呼ばれています)の手法って、もしかして共通点があるんじゃないかしらと思ったんですが、もし関係なかったらすみません。

  2. ひびの まこと Says:

     ポートランドでお会いしてお話を聞いた時、ボニーさんに聞けばよかったと後で後悔したことがあります。それは、国家や刑事手続きについてどう思うのかということ。
     誰かが何かの行為をしたこと理由にして、物理的な暴力によって人の自由を制限することが、犯罪者に対する法律による刑事手続きです。物理的な暴力を用いて、本人の意志に反して、監禁しまた労働することを強制し、場合によっては殺すというあり方は、米国や日本を含む多くの国で容認されています。犯罪加害者を逮捕し拘留し裁判にかけ判決を下し有罪なら刑務所に監禁し場合によっては死刑にするというこの一連の手続きは、徹頭徹尾、暴力主義的なものだと私は思います。実際に物理的な暴力も使われています。私たちの社会が、こういう暴力主義的なプロセスを、「私たちの社会」の内部におけるトラブルの解決方法として持っているということについて、ボニーさんはどう思うのか、聞いてみたかった。
     macskaはこういうことについてボニーさんと話したことはないですか?もしあったら、どんなお返事だったか、教えて下さい!(あとよければ、macskaさんの意見も聞いてみたい♪)

    ※人に聞くだけだと申し訳ないのでざっと書くと、私は、「非暴力」というのは、絶対に実現が不可能なことであることを承知の上で目指し続けるべきもの、みたいに思っています。

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