井上輝子氏「『ジェンダー』『ジェンダーフリー』のつかわれ方」脚注に見る山口智美さんへの怨念

9/12/2006 - 4:32 am | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

今年の3月に行なわれた「『ジェンダー』概念を話し合うシンポジウム」の内容をもとに編纂した「『ジェンダー』の危機を越える!ーー徹底討論!バックラッシュ」を著者の一人である上野さんからいただいた。とは言っても、たまたま他に送ってもらうものがあり、著者コピーが一部余っていたからついでに送ってくださったのだけれど、せっかくいただいたものを無駄にしないために気になった部分を何回かに分けてコメントしたいと思う。今回は和光大学教員で日本女性学会理事の井上輝子さんの「『ジェンダー』『ジェンダーフリー』のつかわれ方」について。

…と書き出してしまったけれども、実のところわたしがコメントをつけたいのは本文ではない。本文については、これは他の記事も同じなんだけれど、「ジェンダー」という言葉の解説に伊田広行さんによる、そんなに間違ってはいないものの特にスタンダードでも何でもないようなものをシンポジウム全般において一斉にスタンダードとして採用しているところがやや気色悪いのだけれど、とくにおかしな部分はないように思う。ごく普通に「ジェンダー」「ジェンダーフリー」用語の使われ方や使用頻度を検証した内容だ。

伊田さんとの関係でついでに言えば、この論文の一番最後のまとめの部分では、「ジェンダーフリー」という言葉を使ってはいけないという一部の風潮を批判したうえで、こういう記述もある。

他方で、「このご時世だからこそ、ジェンダーフリーの旗を掲げるべきだ」「一度使い始めた以上は、この用語を使い続けるべきだ」といった原理主義的要請がフェミニストたちに投げかけられる例も耳にする。だが、言論の自由とは、ある用語を使用する権利と同様、使用しない権利も保障する原理であるはずだ。禁止も強制も、言論の自由になじまない。「ジェンダーフリー」も「ジェンダー・センシティブ」も、あるいは「男女平等」も、使用する当事者がそれぞれの定義において、使用したい(または使用すべき)と思う時と場合に応じて自由に使用できるものでなくてはならないだろう。

ジェンダーフリーという言葉を擁護するあまり、「ジェンダーフリー概念を批判する人(その使用に躊躇する人)は、いまの政治的文脈を見誤っている」「ジェンダーフリー概念は自信をもって使ったらいいものであり、これを使わないということは男女共同参画の流れを後退させるもの」(本書 p.244-245 伊田広行論文より)という「原理主義的」立場に立つ論者といえばわたしの知る限り伊田氏氏しかいない。不当なジェンダーフリーバッシングへの反論であればわたしも再三行なってきたが、だからといって様々な理由でジェンダーフリーを「使用しない」人を恫喝するようなこうした発言はおかしいと思う(過去エントリ「フェミニズムを私物化する男性ジェンダー研究者」参照)。そういう意味では、女性学会のメインストリームの中からも伊田氏の「原理主義」への批判がでてきたことは歓迎したい。

ただし、井上さんがここで「言論の自由」を持ち出すのはちょっと違うような気がする。伊田氏だって言論の自由を認めていないわけではないだろう。そうではなく、問題はフェミニズムの中に複数の路線や戦略が共存することができるかどうかということであって、伊田さんは自分の路線だけが絶対でありその他の路線は敵を利するものだと恫喝している点が問題なのね。それから、用語をそれぞれの論者が自由に定義して使用すればいいというのは、間違ってはいないのだけれど無制限に主張できるようなことではないと思う。コミュニケーションが成り立つ(かのようにふるまっても社会が崩壊しない)ためには、わたしが使う言葉とあなたが使う言葉のあいだに、多少のブレはあるにしてもだいたい互換性があると信用できなくちゃいけないわけで。井上さんはメディア研究者だからそんなことは百も承知だと思うけれど、そこで「言論の自由」を持ち出すとどんな定義でも好き勝手に使えるみたいな話になってしまいそうで、誤解を招くんじゃないだろうか。

さて、以上は前置き。というのも、わたしが注目したのは井上さんの論文の本文ではなくて脚注の方なのね。まずは「ジェンダー」「ジェンダーフリー」という用語の使用頻度の変遷をデータベースを使って調べた部分についていた脚注2:

(2)山口智美さんが、国立女性教育会館 (NWEC) の女性情報 CASS データベースを使って、新聞記事での「ジェンダー」使用頻度の推移を調べた結果がホームページに出ていたが、それによると新聞記事では1995年から98年と2000年から02年の二つの時期に波がある。山口さんはこれを「行政と女性学による広報」「女性学と行政のラインますます曖昧に?」と解釈している。確かに行政資料の刊行は新聞と同様のカーブを描いているが、図書出版自体は、03年以後も増加傾向を示している。むしろ、新聞が行政の動きに連動したと解すべきだろう。

これだけ読んでも、なんのことか分からないと思う。脚注でコメントするなら「ホームページに出ていたが」じゃなくて該当ページの URL くらい明記しろよと思うのだけれど、問題の論文は「『ジェンダー』概念をめぐる2つの波と行政・女性学・女性運動」というもの。井上さんの表記では分かりにくいのだけれども、山口さんはこのうち第一の波(1995〜98年)を「行動する女たちの会」「家庭科の男女共修をすすめる会」ら70年代以降運動の中心であった草の根団体から「ジェンダーチェック」で有名な東京女性財団や政府の男女共同参画、そして著名女性学者・ジェンダー学者らへと主役交代する時代として描き出しており、また第二の波(2000〜02年)を男女共同参画社会基本法のもと、さらに行政と女性学者の関係が増す時代として指摘している。

井上さんは、新聞や行政資料における「ジェンダー」使用頻度のグラフが山口さんの指摘通りM字型を描いていることを認めつつ、国会図書館のデータベースを調べた結果としての図書出版における「ジェンダー」の使用頻度はそれとは違い2003年以降も増加していると指摘している。でも、書籍のタイトルに「ジェンダー」の語が含まれているかどうかというだけで数えた場合、2003年以降は「反ジェンダーフリー」派によるアンチ本の増加が無視できないくらい多いんじゃないかと思うんだけれど。それはともかくとして、井上さんは「むしろ、新聞が行政の動きに連動したと解すべきだろう」と言うけれど、それがどのように山口さんの主張とは違った解釈になるのか分からない。これまで一貫して女性学の主流のあり方を批判してきた山口さんに一矢報いてやりたいという意図ばかりが空回りしているような気がするが。

そういう意味ではさらに面白いのが脚注10。長くなるが引用する。

(10)「くらしと教育をつなぐWe」2004年11月号で山口智美が「ジェンダーフリーをめぐる混乱の根源」で問題提起して以来、「ジェンダーフリー」使用の妥当性を疑問視する声が、フェミニズム内部でも少なからず聞かれるようになった。「グローバル・スタンダードに立たない和製英語である」(上野千鶴子)、「この用語の日本への導入元とされるバーバラ・ヒューストンの誤読である」(山口智美)、「行政フェミニズムの用語であって、草の根運動とは無縁」(斉藤正美)、「ジェンダーの制度の問題を心のもち方の問題にすり替えた」(山口智美)などが、それである。

「ジェンダーフリー」は和製英語であり、gender-free は英語圏では使用されていないかどうかについて Google で英語の gender-free を検索してみたところ、約10万件がヒットした。最初に出てきたのは、Gender-Free Legal Writing、Gender-Free Language など言語関係の項目で、”Nonsexis Wordfinder: A Dictionary of Gender-Free Usage” といった辞書も発行されていることがわかった。言語論以外の項目も多く、例えば、Elizabeth’s Gender Free Universe の説明には、Celebrating and promoting Gender Freedom and Gender Equality by pushing forward the cutting edge of gender politics とあり、日本で使用されている用法と大差ない使用例があることがわかった。

念のため、ハワイ大学で社会言語学の教鞭をとっているかつえ・レイノルズさんに問い合わせたところ、彼女は、日本の新聞がこの語を和製英語であると解説していることに激怒し、講義の手紙を出したばかりだった。レイノルズさんによれば、少なくとも1980年代でのアメリカの性差別撤廃のための言語改革運動のなかで gender-free は多用されていて、その後も gender-free writing が学校教育に取り入れられるなどされてきた。例えば、Chairman をジェンダー・ニュートラルな chair という用語に置き換えたり、文書を受動態で書く事でジェンダーを含む代名詞を使わない工夫をするなどの運動が展開されてきたという。

Google で使用言語を英語だけに限定して「gender-free」で検索すると、確かに9万件ちょっとヒットする。しかし、言語学的な意味で「gender-free」という表現が存在することは周知の事実であり、他にも「性別の区別がない」という意味で使われていることは、わたしが調査した「英語文献における『ジェンダーフリー』を見つかる限り紹介」でも明らかにしている。そんな分かり切ったことを今さら言語学の教授に聞いてどうするという気がする。そういう一般的な表現としてではなく、教育論もしくは社会運動としての「ジェンダーフリー」という用語は英語圏には存在しないからこそ、ヒューストンの誤読だとか和製英語だとか言われるわけ。

もっとも、英語圏で通用しない用語は駄目だとはわたしは思わない。上野さんや山口さんも実は「英語圏で通用しない」からという理由で「妥当性を疑問視」しているわけではないと思う。それより深刻な指摘は、「行政用語であり、草の根運動から遊離した言葉である」「制度ではなく心のもち方の問題にすり替えた」の方だと思うのだけれど、どうでもいい論点についてどうでもいい証拠を挙げておきながら、肝心の問題については何も答えていない。もし井上さんがジェンダーフリーを本気で擁護するつもりなら、「たしかに行政主導の言葉だったが、これまで10年の歴史の中で運動の中に取り込んだ」とか「当初は心のもち方を問題とした用語だったが制度を問題にする用法もあり得る」みたいに主張すればどうかと思うのだけれど。ここもまた、山口さんらに反証(のようなもの)を突きつける意図だけが空回りしているように思う。本文はそこそこ妥当なのにね。

さて、次にこの本について書くときには、金井淑子さんの「トランスジェンダーからの撹乱的問いかけ、ジェンダー概念再考」を取り上げる(と思う)。ちなみに金井さんは横浜国立大学教員でトランスジェンダー当事者ではない。ところでトランスジェンダーと言えば田中玲さんから『トランスジェンダー・フェミニズム』をいただいたのでそちらの感想も書かなくちゃいけないし、「くらしと教育をつなぐWe」最新号の上野インタビューにも言いたいことがあるし、あと一部週刊誌で安倍政権の文科大臣と予想されている某氏に関係したスクープ記事を執筆中だったり。そういうわけで、どういう順序になるか分からないけれど気長にお待ちください。

6 Responses - “井上輝子氏「『ジェンダー』『ジェンダーフリー』のつかわれ方」脚注に見る山口智美さんへの怨念”

  1. ふぇみにすとの論考 Says:

    [女性学]井上輝子氏脚注についてのmacska氏エントリーに…

    macskaさんが「『ジェンダー『『ジェンダーフリー』のつかわれ方」脚注に見る山口智美さんへの怨念」というエントリーを書かれている。これについて若干思うところを書いて (more…)

  2. 廿日市 Says:

    ■ 使用上の注意をよく読んでお使いください…

    http://macska.org/article/154#comments (more…)

  3. 電気屋 Says:

    英語に明るくないので教えていただきたいのですが、”free”と”freedom”は違いますよね?
    当然”gender-free”と”gender=freedom”もまるで違う言葉なんじゃないでしょうか。
    ためしに”gender-freedom”でググってみたところ9190件hitしました。
    もう一点。
    言語学の中での”gender-free”って名詞に性別が定められていない言語を示す言葉ですか?
    たしか仏語だか独語だかはすべての名詞に性別があると聞きました。
    だとすると、日本語にはそうした要素はありませんから、”gender-free”な言語である、といった用法でよいのでしょうか。

  4. macska Says:

    議論がくだらないところで混乱してたので予告ののち削除させていただきましたが、電気屋さんのコメントまで消してしまったのはやりすぎだったので復活させました。

    英語の話になるまえに大前提ですが、和製英語に何ら悪い点はありません。「ジェンダーフリーは和製英語である」とか「英語として通じない」という指摘は、「ジェンダーフリーとはヒューストンという教育学者によって提案された、米国でも使われている言葉である」という間違った権威付けを批判するために行なわれているのであり、和製英語であればダメだとはわたしも山口さんも言っていません。逆に、英語できちんと伝わる表現であっても、日本語として誤解を招きやすく意味が通じないのであれば導入する必要はないはず。肝心なのは、日本語として意味が通用しているかどうか、理解を深めるかどうかです。

    それを前提にすれば、「こう変えれば英語として通じるのでは」というのは無意味な議論だと分かると思います。英語として通じたとしても、日本語として通じなければ仕方がないですからね。ですが、田中さん@廿日市が応えるべきだと言うので電気屋さんの疑問にわたしなりの回答を書いておきます。

    「gender freedom」ですが、単なる「gender free」の名詞形である場合と、日本語の「ジェンダーフリー」に近い「ジェンダーの自由」の意味で使われる場合の両方あると思います。しかし、「近い」と言っても現実の「ジェンダーフリー」の用法は「自由」そのものではなく「自由な状態」を指すので、英語の「gender freedom」の後者の意味と同じでもない。結局、英語としてそのまま通用するということにはなりません。

    言語における gender-free というのは、文法的な意味でのジェンダーがないという意味もないことはないでしょうが、男性と女性を区別するような表現を避けるという意味で使われるのが一般的です。

    さらに言えば、gender-free な表現を進めようと主張する人の大半は、言語からそういう区別を一切取り除くべきだと言っているわけではないです。取り除くべきだとされているのは、不特定の第三者について代名詞を he とするような男女非対称な言語的慣習や、「看護婦」など性別を固定化する一般名詞などであり、男性だと分かっている第三者について「he」と呼んではいけないだとか、看護職に就いている女性のことを「看護婦」と呼ぶことまでも駄目だという主張ではありません。

  5. 電気屋 Says:

    こちらのブログは週に1-2度のぞく程度なので、「あれ、なんかコメントいっぱいついてる」とは思っていましたが私の質問意図とは少々それた話になって行っていたのでどうしたもんかと思っていたら、イキナリ全部なくなってて面食らいました。
    廿日市さんのとこで経緯は拝見しました。
    私の質問意図はほぼ廿日市さんが書いておられる通りです。
    一つ目は「ジェンダーフリー」は英語圏の方には”gender-free”と言うより”gender-freedom”と言ったほうがより近いニュアンスなんじゃないかと思ったのが元です。
    二つ目は聞きかじりの知識から、文字通り文法的な性別の有無を示す専門的な用語として”gender-free”という用語があるように思えたのでそれを確認しようと考えたのです。
    今回のエントリーで批判されている井上さんの文章で、”gender-free”でググった件とか”gender-freedom”の用例とかはどうも牽強付会では?という印象を持ったのですが、知識不足から来る誤った印象だといけないので質問させていただきました。
    上記のことでお分かりいただけるように、私自身も「ジェンダーフリー」と”gender-free”は違う言葉という認識です。
    言葉は意図したとおりの意味が伝わればそれでよいので、来歴がどうとかは枝葉末節でしょう。
    なので、こんな強引なリクツ使ってまで「ジェンダーフリー」=”gender-free”に拘泥するのもなんだかなあ、と今回のエントリー見て感じたワケです。
    拙い質問に真摯に答えていただいた皆様、ありがとうございました。
    たいへん勉強になりました。

  6. ぽこりん Says:

     若い女性たちがフェミニズムをもっと知りたいと考えた途端、「ジェンダー・フリー」 なる論争から読み解かなければならないとはね。まあ、本を売りたい人と暇つぶししたい人には結構なネタだと思う。

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