「アジアン・ライブズ・マター」のようなBLMからの派生標語を「避けるべき」理由

2020年6月23日 - 3:25 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ふたたびブラック・ライブズ・マター(BLM)運動に関連して、わたしがとても大切だと思うけど、ツイッターで説明しようとしたところ、あまりうまく伝わらなかったと思うことがあるので、もう少し丁寧に説明してみようと思う。なお、BLMの日本語訳としては、人類学者の竹沢泰子さんの案「黒人の命を粗末にするな」が良いと思うので、ここではそれを採用する。竹沢さんについては、「『慰安婦』問題と未来への責任 日韓「合意」に抗して」(2017年、大月書店)に寄稿した文章において、「慰安婦」問題に関連して彼女が米国でおこなったことをわたしは批判しているが、それは別としてBLMの訳はこれまで見てきたものの中で一番語弊がなく、本質を表していると思う。

わたしがここで解説したいと思うのは、「ブラック・ライブズ・マター」という標語にに共感したほかの被差別集団の人たちが、「ブラック」の部分に自分たちの名前を入れて、「〜ライブズ・マター」と呼びかけることの是非について。結論から言うと、そうした標語の改変がBLMへの共感とリスペクトから発していることは理解しつつ、できれば避けてもらいたい。以下は、わたしがBLM創始者の一人であるパトリス・カラーズさんやその他のBLM運動関係者たちの考えをわたしが聞いて、その中でおよそのコンセンサスだと理解した内容の説明になる。

日本語圏のこの議論にわたしが関わったきっかけは、ツイッターで「ジャパニーズ・ライブズ・マター」と「コリアン・ライブズ・マター」の標語を同時に見かけたことだ。経緯としては、BLMに共感して、ツイッターなどにおいてBLMのための行動も起こしていた在日コリアンのツイッターユーザやその仲間の日本人たちが、海外で差別や暴力を受けている黒人たちに連帯すると同時に、日本においても在日コリアンたちへの制度的差別を問題とすべきだという意識から、「コリアン・ライブズ・マター」という標語を使い始めた。

それに対して「コリアンは在日特権をもっている、日本人こそ差別されている」と主張する日本人の差別主義者たちが、「コリアン・ライブズ・マター」への対抗として「ジャパニーズ・ライブズ・マター」という標語を使い始める。さらにそれに対してレイシズムに反対する人たちは「ジャパニーズ・ライブズ・マター」というハッシュタグにあえて美味しそうな料理の写真を一斉に投稿し、グルメで埋め尽くすという興味深い反撃をおこなったが、それはまた別の話。とりあえず「ジャパニーズ・ライブズ・マター」については、問題外という以外に何も言うことはない。

わたしは、「コリアン・ライブズ・マター」という標語を使っている人たちの、「日本における在日コリアンへの制度的差別を問題とすべきだ」という意識には全面的に賛同する。かれらの多くが、真摯にBLMに共感し、そして支援の声を送っていることも承知している。そしてわたし自身がジャパニーズの一人として、在日コリアンの人たちがどのように制度的差別に抵抗するのか、あれこれ偉そうに指図する立場にいないことも痛感している。

しかし同時に、わたしはアメリカのBLM運動関係者や参加者と近く、自らも関わってきたことで、日本語圏でものを書いているほかの多くの人よりはBLMの基本的な考え方を理解していると思うし、またアメリカに住んでいるアジア人として、アジア系アメリカ人が黒人運動と連帯するときに起こるさまざまな難しさや間違いについても知っている。実際、BLMが始まった当初は、それこそ「アジアン・ライブズ・マター」という標語を使うアジア系アメリカ人活動家もいたし、それで論争が起きた。そうした経験と知識をもとに、「〜ライブズ・マター」という派生標語がどうして「よくない」ことだとされるのか、説明したい。

それを一言で言うと、BLMとは「黒人の命があまりに軽く扱われている、粗末に扱われている」という状況を変えるために、黒人が作り上げた言葉だからだ。そこから「黒人」を消して、ほかの集団に取り換えるのは、そもそもの訴えである「黒人の命を粗末にするな」というメッセージを消し去り、黒人よりほかの集団の命を中心に据え、結果的に黒人の命をさらに粗末に扱うことになる。

これは、黒人があらゆる人間の集団の中で一番粗末に扱われているとか、ほかの集団の命は黒人ほどには粗末に扱われていないということを意味しない。黒人のほかにも命を粗末に扱われている人は世界中にたくさんいるし、黒人の中にもほかの黒人よりさらに粗末に扱われている命がある。在日コリアンの置かれた境遇はアメリカの黒人が置かれたそれよりマシだから一緒くたにするな、みたいなことでは一切ない。そのような比較はできないし、するべきでない。

また、いまはBLMが注目を集め、ようやく「黒人の命を粗末にするな」というメッセージが浸透し始めているのだから、ほかの集団の運動のためにその標語を流用して世間の関心やリソース(資源)をかすめ取るな、ということでもない。ほかの運動はそれぞれ必要だし、BLMはほかの運動とリソースを奪い合うゼロサムゲームを行うつもりはない。BLM周辺の運動においては「アバンダンス(abundance、豊富さ)」という概念がよく使われるが、これは「世の中にはわたしたちみんなが自由になるための十分なリソースがある」という考え方を指す。

差別や暴力と闘っている人たちは、まさにその差別や暴力のせいで私生活においても運動においてもリソースが足りなくて苦労することが多いので、いつの間にか世の中のリソースは常に足りていなくて、ほかの人を押し除けてでもリソースを確保しなければ生き残れない、と思いがちになる。しかし実際には世の中にはリソースが満ち足りており、問題はそれが一部の人たちに独占されていることだ、だから差別や暴力の被害を受けている者同士で取り合わなくても、みんなが自由になるために必要とするリソースを確保することは可能である、という考え方になる。

「〜ライブズ・マター」の標語がよくないのは、だから、上で挙げたような理由ではない。そういうことではなく、「黒人の命を粗末にするな」というメッセージから黒人を削除して、黒人以外の集団をそこに入れる行為そのものが、黒人の命を粗末に扱う一環である、として批判されているのだ。

一方で、BLMの運動においては、「黒人女性の命を粗末にするな」、「黒人トランスジェンダーの命を粗末にするな」のように、「黒人」を残したまま黒人の中のより命を粗末に扱われがちなサブグループに特に注目を集めるような標語は奨励されており、頻繁に使われている。わたしがある日のデモで直接見かけたものだけでも、「黒人の子どもの命を粗末にするな」「黒人移民の命を粗末にするな」「黒人セックスワーカーの命を粗末にするな」などさまざまな標語が掲げられていた。

これは、BLM運動自体が、上で言及したパトリス・カラーズさんに加え、アリシア・ガーザさん、オパール・トメティさんという、さまざまな社会運動に関わってきた経験を持つ三人の黒人クィア女性たちによって創設されたことと無関係ではない。彼女たちは、BLMをはじめから「黒人差別と戦う」だけの運動としてではなく、多種多様な背景と経験を持ったすべての黒人たち命を守る、インターセクショナルな運動として生み出したのだ。すべての黒人の命を守るためには、「黒人に対するレイシズム」だけを問題とすることでは不十分。たとえば、黒人女性の命が粗末に扱われるのを止めるには、人種差別と闘うだけでなく、あるいは人種差別に加えて性差別とも闘うだけでもなく、人種差別と性差別が複雑に組み合わさり融合された、黒人女性が経験している固有の複合差別と闘わなければいけない。「黒人女性の命を粗末にするな」はそのために有効な標語だ。

その意味からも、黒人を消去した「〜ライブズ・マター」がよくない理由は、決して「いまは黒人差別に集中すべきだから」などという理由ではない。むしろBLMの運動そのものが、「黒人差別だけに集中する」という方針を取っていないのだし。「アジアン・ライブズ・マター」や「トランス・ライブズ・マター」といった派生標語を避けるべき理由は、あくまで、それらが「黒人の命を粗末にするな」というメッセージから黒人を消去し、黒人以外の命を中心に据えることで、黒人の命を粗末にすることに加担してしまうからだ。

もっとも、アメリカにおいて「アジアン・ライブズ・マター」を訴えることと、日本において「コリアン・ライブズ・マター」を訴えることは、形式的には似ていても社会文脈的には実は違うことなのではないか、という疑問はあるだろう。そしてそれらは、たしかに違うものなのかもしれない。それでもなおわたしは、「黒人の命を粗末にするな」から「黒人」を削除することは避けるべきだと感じる。なぜなら日本にも黒人は居住しており、在日コリアン差別とはまた違った対黒人特有の差別や偏見を経験しているからだ。日本におけるBLMは、そういう人たちの命の大切さを中心に据える運動であるべきだとわたしは思うので、その中心から黒人を外すのは、やはり避けて欲しい。

もちろん、最終的にはそれはわたしが決めることではなく、日本に住んでいる黒人とコリアンの人たちが決めることだと思う。わたしにできるのは、どうしてアメリカにおいて「アジアン・ライブズ・マター」や「トランス・ライブズ・マター」のようなBLM派生の標語が一時期広まって、それが「黒人に対するレイシズム」の一貫だと理解されるようになり次第に避けられるようになったのか、という理由をシェアすることだけ。そうすることで、アメリカにおけるBLM運動周辺で起きたような、アジア系アメリカ人やその他の集団とBLMアクティビストたちとのあいだの無用な衝突や傷付け合いが、日本において少しでも避けられればいいな、と願っている。

3 Responses - “「アジアン・ライブズ・マター」のようなBLMからの派生標語を「避けるべき」理由”

  1. WANG ZIDU Says:

    ブログ拝読いたしました。失礼ですがご意見とちょっと違う見解を持っております。
    「黒人の命を粗末にするな」という方針と「アジアン・ライブズ・マター」などの派生の標語とそんなに矛盾していますか?と思いました。類似標語があればBLM運動の中心は薄くなる恐れがあれば、日本の皆さんはそれを避けても、BLM運動の反対者側はその手を使えばすべとおしまいでしょう。
    そして「黒人の命を粗末にするな」の標語より、「全弱体民族の粗末にするな」の方が広く納得されるじゃないかと、思いました。
    もし今回のBLM運動で「黒人の命を粗末にするな」という目標がうまく実現できれば、つぎはどうする方がいいでしょう。また、「アジアン・ライブズ・マター」運動や「インディアンライブズ・マター」運動を相次いてやりますかな。
    以上は私の愚見です。もし失礼な言葉遣いがあれば、お詫び申します。

  2. admin Says:

    すみませんが、「どうして」アジアン・ライブズ・マターが「アンチ・ブラック・レイシズム」だと批判されたのか、理由を読んでいただけましたか?
    同意するかどうかは別として、とりあえず「どうしてそう言われているのか」を理解していただかないと、話にならないです。

  3. WANG ZIDU Says:

    ご返事いただき、大変ありがとうございます。
    「どうして」については、まえのコメントを書く前に、すでに「“黒人の命を粗末にするな”というメッセージから黒人を消去し、黒人以外の命を中心に据えることで、黒人の命を粗末にすることに加担してしまう」という段に注目いたしました。
    実は、「どうして」アジアン・ライブズ・マターが「アンチ・ブラック・レイシズム」だと批判されることの理由―メッセージから黒人を消去すると黒人の命を粗末にすることに加担してしまうことについて異議を持ち、それをめぐってコメントを書きました。(まだ日本語で考えたものを表すのがうまくできなくて申し訳ありません)
    以下はこちらの主観的な意見ですが:人権運動は「全体」で、黒人運動は人権運動のなかの「部分」である。「部分」を達成すると「全体」に有利であることはわかりますが、「部分」を達成するために「全体」あるいはほかの「部分」のことを抑えることは、よくないかなと思いました。
    記者先生のブログを拝読し、ほぼ同意(赞成)致しますが、この段だけに対して、理解できますが、違う見解を持っております。
    おかしいコメントになるかもしれませんが、ご容赦くださいますようお願い申し上げます。

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