「消極的義務」の倫理――「トロッコ問題」の哲学者フィリパ・フットとその影響
2010年10月19日 - 12:01 AM | |今月三日、イギリス出身の倫理哲学者フィリパ・ルース・フットが九〇歳で亡くなった。あるとき「女性の哲学者はどうして少ないのか」というシンポジウムに参加してみたら、発表者が全員男性哲学者だった、というような冗談みたいな男性優位社会でもある哲学界において、二十世紀中盤におけるアリストテレス的な徳倫理の復権に大きく貢献した哲学者の一人であり、前世紀を代表する女性哲学者の一人として記憶されることになるだろう。
しかしなんといっても彼女のもっともよく知られている功績は、いわゆる「トローリー(トロッコ)問題」という思考実験を提示したことだ。最近話題のマイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学』を読んだり、かれの講義を収録したテレビ番組『ハーバード白熱教室』を観た人は、次のような設定に見覚えがあると思う。「トロッコ問題」には後述するように多数のバリエーションが生まれているが、以下はサンデル『これからの「正義」の話をしよう』から引用する。
あなたは路面電車の運転手で、時速六〇マイル(約九六キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。
ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気付く。
どうすべきだろうか?
実際にその場におかれた場合に即座に判断できるかどうかはともかくとして、思考実験としては簡単な問題だ、と思うかもしれない。どちらを選んでも事故が避けられないのであれば、五人の作業員の命を奪うよりは、一人だけを犠牲にするほうがはるかにマシな選択であることは明らかだからだ。しかし、問題は単純に助かる命の数ではない、ということを示すために、フットは次のような例をあげる。
大勢の人たちが、ある罪人を吊るし上げようと暴動を起こしている。あなたはかれらに罪人として名指しされている人物をかくまっているが、かれが実際には無実であることを知っている。しかし群集はそれを聞き入れようとはしない。かれを群集に差し出せば、かれ一人がリンチを受け殺されるかわりに暴動はおさまるが、かれを匿い続ければ暴動によって五人が命を落とすことになる。あなたはかれを群集に差し出すべきか?
この例においては、多くの人はたとえより多くの命を救うためであっても、殺されると分かっていて無実の人を群集に引き渡すべきではない、と考えるだろうし、フットもそれに同意する。そうだとすると、トロッコ問題においては五人の命を救うために一人の命を犠牲にすることが正当化されたのに、この例においてはなぜ認められないのだろうか?
またフットは類似した問題として、医療における次のような二つの例を対比している。第一のシナリオでは、ある患者が生存のために希少な薬を大量に投与することを必要としているが、同じ薬を五つに分けて他の患者に投与すれば五人の命を救うことができる。かりに一錠しかその薬がないとして、どちらに薬を与えるべきか?というもの。多くの人は、できれば全員を助けたいけれども、もし薬が一つしかないのであれば、五人を助けるほうを選ばざるを得ない、一人を見殺しにするのはやむを得ない、と判断するだろう。
第二のシナリオでは、それぞれ別の臓器の移植を必要としている五人の患者を救うために、一人の比較的健康な患者を犠牲にして臓器を取り出して良いか、というもの。このシナリオはサンデルも授業で取り上げているが、ほとんどの人はこうした行為は非倫理的だと考える。とするなら、一人の患者を見殺しにして五人の患者に薬を与えることは認められるのに、どうして一人の患者を殺してその身体から臓器を取り出し五人の患者に移植することは認められないのか?
フットは「トロッコ問題」の初出となった一九六七年の論文(“The Problem of Abortion and the Doctrine of Double Effect.” Oxford Review [Trinity 1967], 5:5-15)において、こうした疑問に対して論理的に一貫した説明を試みた。彼女はまず、カトリック教会が妊娠中絶に関して掲げている「ダブル・エフェクト原理」を考察する。ダブル・エフェクト原理とは、十三世紀の神学者・哲学者トマス・アクィナスに遡るカトリックの伝統的な考え方であり、意図された危害と、予見はされるものの意図されているわけではない副次的な危害を区別する。
トロッコを待避線に切り替えて一人の作業員を轢き殺したとしても、それは意図されたことではない。あくまで意図したのは、五人の命を助けることだ。それに対し、群集に無実の人を差し出せば、それが仮に五人の命を救うためであっても、直接かれの死を意図することになる。というのも、もし仮にトロッコにはねられた一人の作業員が幸運にも命を取り留めたとしたら、再び戻って轢きなおす必要はどこにもないが、もし無実の罪人を吊るした縄が切れてかれが死なずに処刑台から逃げてきたら、再び引き渡す必要がでてくる。それはすなわち、作業員の死は意図されたものではないが、無実の罪人の死は意図されたものであり、かれが殺されないことには意図が実現しないことを意味する。
同様に、薬を五人に与えた結果、一人の患者が亡くなったとしても、それは意図された死ではない。薬の量が足りないために、やむを得ず全員を救うことができなかっただけだ。しかし一人の患者を殺して臓器を取り出すことは、たとえより多くの患者の命を救うという目的があったとしても、かれの死を直接意図していることになる。よって、ダブル・エフェクトの原理において、両者は倫理的に異なる扱いを受けるべきとされる。
学問的な哲学の領域においては、カトリック教会のこうした伝統的な考え方は、哲学的思考に必要な厳密さを欠いた単なる教義論として、軽く見られがちだった。たしかに、なにが本来の意図でありなにが副次的なものなのかを判別するのは難しい。
フットも扱っている妊娠中絶に関するカトリック教会の見解にしても、矛盾しているように見える。たとえば妊娠中の女性に子宮がんが見つかり、子宮を切除しなければ彼女の命が脅かされる場合には、母体を救うための手術が認められる。その結果胎児の命は奪われることになるが、それは意図されたものではなく副次的な結果であり、したがって容認できる、というのがダブル・エフェクト原理の考え方だ。
しかし妊娠・出産に問題が起きて胎児を中絶・除去しなければ母親の命が危ないという場合は、母親の命を救うためであっても、胎児を殺してはいけないとされている。なぜなら胎児を殺すことは意図的な殺人である一方、中絶を避ける結果生じる母親の死は意図されたものではなく、予見されるものの自然に起きる死だからだ。しかしその違いは、同じ行為――胎児を母体から除去する――をどう解釈するか、どう表現するか、という違いでしかないように思える。
こうした弱点を認めつつも、フットはダブル・エフェクト原理に一定の評価を与える。それは、この原理が人々の倫理的な直感にある程度の論理的な説明を与え、また「より大きな危害を避けるため」という理由さえあれば何をやっても構わないとする結果主義的な倫理観に歯止めをかけると期待するからだ。そのうえで、彼女はダブル・エフェクト原理と似ているけれども、より優れた判断基準として、「消極的義務/積極的義務」という区別を提示する。
この区別をフットはニュージーランドの法学者ジョン・ウィリアム・サーモンドの著書『Jurisprudence』から導入するが、『自由論』で有名なアイザイア・バーリンの「消極的自由/積極的自由」のほうがよく知られているだろう。バーリンのいう消極的自由とは、「〜からの自由」と表現されるように、国家や他者の制約や拘束を受けずに行動できることであるのに対し、積極的自由とは、「〜への自由」と表現されるような、生存や自己実現のために必要なケイパビリティやリソースをあてがわられるところまで含めた概念とされる。
サーモンドおよびフットは、こうした「消極的自由・消極的権利」にはそれに対応する「消極的義務」が、そして「積極的自由・積極的権利」には「積極的義務」が存在する、と指摘する。すなわち消極的義務とは他者に危害を加えたり生き方を不当に制約しない義務であり、積極的義務とは庇護を必要としている子どもや病人、社会的に不利な状況に置かれ積極的自由を制限された人たちなどを支援する義務のことだ。こうした概念は、最近ではトマス・ポッゲ著『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』でも援用されているが、当然のことながら一般的には積極的義務よりは消極的義務のほうがより強い義務となる――たとえば、遠くの国で自然災害によって命を脅かされている人をとくに支援しようとは思わない人も、救いを求めているかれらを片っ端から殺戮しても構わないなどとは夢にも思わないだろう。
トロッコや薬の例では、五人を救うために一人を犠牲にしなければならないという設定は他の例と同じだ。しかしこの二つの例では、いずれも同種の義務(トロッコの場合は人命を奪わないという消極的義務、薬の場合は病人の命を救うという積極的義務)のあいだの衝突であり、どうしても犠牲が避けられないのであれば、できるだけ犠牲が少ないほうを選ぶしかない。質的に同じ義務が衝突しているのだから、あとは犠牲の大きさを量的に比較することができるのだ。
しかし暴動の例は「暴動の参加者を事故から守る」という積極的義務と「無実の人を殺さない」という消極的義務の衝突であり、単純に人数だけで比べることはできない。また臓器移植の例も、「臓器移植によって命を救う」という積極的義務と、「臓器を取り出すために健康な人を殺さない」という消極的義務が衝突している。これらの例においては、質的に異なる義務が衝突しているのであり、量的な比較は適さない。少なくとも、どちらを選んだほうが犠牲が少ないかというような、単純な結果主義的な比較によっては、倫理的な判断はくだせない。もちろん、消極的義務と積極的義務が衝突した場合に、常に消極的義務が優先されるということはないかもしれないが、それだけ消極的義務――すなわち消極的自由の擁護――は倫理的に重大だということだ。
フットは、「消極的義務/積極的義務」という基準がダブル・エフェクト原理と異なる倫理的結論を示すケースも提示している。やや非現実的な設定だが、それは次のようなものだ。
病室に五人の患者がおり、ある特別な気体を部屋に満たすことでかれらの命を救うことができる。しかし同じ病室に別の病気の患者がおり、この気体はかれの命を奪ってしまう。何らかの理由により、病人たちを別の部屋に移すことや、部屋の中に区切りを設けることはできない。つまり、五人の患者を救おうとすると、必然的にもう一人の患者は絶命してしまう。
六人目の患者の死が意図的なものでないことは明らかだ。臓器移植の例と違い、だれもかれを殺そうとしていないし、殺すことで利益を得ることもない。つまりかれの死は五人を救うための副次的なものにすぎず、ダブル・エフェクト理論においてこの気体の流入は正当化されることになる。しかし多くの人は、それが正当な行為だとは認めないだろう。
この例を「消極的義務/積極的義務」という視点に即して判断すると、違った答えが導き出せる。五人を救うことは積極的義務であり、もし弊害がないのであれば実行すべきだが、わたしたちは「患者を殺さない」という、より強い消極的義務を負っている。したがって、一人の患者を犠牲にすることは、少なくとも五人と一人という人数の比較だけによっては、正当化できない。
さて、フットの主張を延々と解説してきたが、この「トロッコ問題」は一九六七年の初出以来、倫理学におけるひとつの思考実験という枠を超えて、さまざまなバリエーションを生み出し、さまざまな分野で援用されている。ある有名な(サンデルも紹介している)バリエーションでは、トロッコの運転手ではなく線路の上に立っている人が横にいる大きな人を線路に突き落としてトロッコを止めて良いかどうかという問いになっているし、別のバリエーションでは無人のトロッコに何かをぶつけて崖の底に落とすことができるがその下に人がいる、という設定だったりする。
おもしろいところでは、待避線がループになっていて、一人の作業員がいる場所を通ったあと線路は五人の作業員が働いている本線に戻るような構造になっていたらどうか、というバリエーションもある。トロッコは一人を轢いた時点で止まるものとすると、五人を助けるために一人を犠牲にするという点はオリジナルの設定とまったく同じ。しかし違うのは、オリジナルでは「五人を救う」ことだけが目的であり、一人の作業員を轢くのはその副次的な結果でしかないのに対し(だから、運良くその作業員がトロッコを避けることができればそれが一番良い)、このシナリオではまさに「一人の作業員を殺してトロッコを止める」ことによって五人を救う(もしその作業員が避けてしまったら困る)点が違う。トロッコは作業員を轢いた時点で止まるのだから、待避線の先がループになっているかどうかは何の関係もなさそうなものだが、判断基準によってはこれが大きな倫理的な違いを意味することになる。
フットの時代、こうしたシナリオは、哲学者たちによって「わたしたちが漠然と感じている倫理的判断の論理的な基準はなにか」を解き明かすための思考実験として論じられた。しかしいまではこうした設定は、人間の行動原理分析や脳機能解析においてよく使われているように思う。一見同じように見える状況(五人を救うために一人を犠牲にする)なのに、人々が異なる倫理判断を下すとき、そこにはまだ発見されていない一貫した――ダン・アリエリーの行動経済学についての著書の書名『予想どおりに不合理』が示すような――原理が隠されているかもしれない。哲学だけでなく、進化心理学・行動経済学・神経倫理学などさまざな分野において、そうした原理の解明は続けられている。
ニューヨーク・タイムズの死亡記事において、イリノイ大学の哲学者ローレンス・ソラムはフットのことをこう言っている。「彼女はなにか特定の視点や立場を主張した人物としてではなく、人々の考える方法そのものを変えた人物として記憶されるだろう。彼女は根本的に違ったものの見方を人々に示した。それをできた哲学者は少ない。」
フットは、「トロッコ問題」という思考実験を提示することによって、分野を超えた研究者たちのイマジネーションを喚起し、哲学のみならずさまざまな学問領域に影響を与えた。いまではジョークとして、それらを総称する「トローリーオロジー」(トロッコ学)という学問領域すら提案されているくらいだ。また、哲学という男性中心的な分野において、第二波フェミニズムが生まれるより早くから活躍したパイオニア的な女性の哲学者という観点からも、学問にも、続く世代の研究者たちにも、大きな影響を与えた生涯だった。
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(この記事は、メールマガジン α-Synodos(アルファ・シノドス)第62号(10月15日発行)及びシノドスブログに掲載されたものを再掲しました。)
2010/10/21 - 18:35:25 -
>第二のシナリオでは、それぞれ別の臓器の移植を必要としている五人の患者を救うために、一人の比較的健康な患者を犠牲にして臓器を取り出して良いか、というもの。
これは例として適当でないのでは?
殺人を意図する意図しない以前に個人の所有権の侵害の方が問題で認められないという答えになるのでは?
臓器はその人個人の所有物だから人を救う為といえど取り上げて良い訳が無い
一方、薬を投与してもらえる権利はある個人に帰属するものではなく公に共有されているもの
共有されているものは皆で話し合って決めるべきで最終的には多数決もあり得るけど個人のものは認められない
(一台の車を皆で共有していてその車をどの様に使うかは話し合いになるが個人の車の場合はそうはいかない)
2010/10/22 - 03:51:35 -
単に所有権の問題ということであれば,たとえば所得税の累進課税なんてのは,金持ちからたくさん税金を搾り取ってみんなに分け与えるものの典型例ですよね。
2010/10/23 - 04:13:54 -
>しゅうさん
所有権という概念は社会の価値観において相当大きなウエイトを占めているしそうでないと困ります
我々が臓器移植を強要されないのも所有権が重要視されているからです
臓器移植をしないと死ぬ人がいてドナーは提供しても死なないとしても移植を強要されないのは殺人の意図という概念からではなく所有権からです
薬にしたってそれが個人の所有物であればその人に使う権利があります
上記の例は殺人の意図という概念を説明するには適当ではありません
所得によって税率が違うこととが不公平かどうか、仮に不公平だったとしてそれが概念的に所有権の侵害に当たるかどうかは論理をしてみないと分らないことでしょうが収入と身体は同等に扱われるものではありません、税率と違い個人の身体を社会が共有するなどということは未来永劫認められないことです
よって臓器移植を強要されないのは身体には強固な所有権があることが認められるからです
2010/10/23 - 08:51:58 -
zxcさん、
しゅうさんも遠まわしに言っているのだと思いますけれど、ここで問題となっているのは、倫理的な判断です。倫理的な判断というは、「法律でこうなっているから」とか「世の中の多数がこう思っているから」といって、それが正しいと直接導き出せるようなものではありません。法律や世の中の常識がどうであろうと、それとは関係なく、これは正しい、これは間違っている、という主張は可能です。もちろん、あなたの価値観として「法律で決まったことは正しいのだ」とか「世の中の多数に従うのが正しいのだ」と主張するのは、それも一つの倫理観なので構いません。が、そこで議論を終えてしまっては倫理学の意味がなくなってしまいます。
フットがトロッコ問題の論文で仮想敵としているのは、功利主義者です。功利主義にもさまざまな分派がありますが、もっとも簡単なものは、結果的に幸福や快楽を最大化できる行為が良い行為である、とする倫理観です。その論理に基づけば、たとえ無実の人を殺しても、所有権を侵害しても、そうして失われるもの以上の利益を社会が得るのであれば、その行為は正当化される――と主張できます。もっとも功利主義の中にも、「一般的に世の中の幸福や快楽を最大化するような規則に従うのが良い」とする規則功利主義もあり、そちらの考え方では「所有権を保護するほうが社会にとって利益になる」と判断されるかもしれません。しかし、それは身体に何か特別の価値があってその侵害は「未来永劫」認められないからではなく、たまたまその社会においてそういう規則にしておいたほうが利益になるからです。
また、収入と身体はまったく別だとする考え方も、あなた自身の価値観としてはアリですが、自明ではありません。リバタリアンの論者には、強制的な収税は強制労働に等しく、従ってわたしたちはみな国家に部分的に所有された奴隷である、と主張している人もいるんですからね。あんまり説得力があるとは思いませんが…
2010/10/26 - 08:17:24 -
macskaさん
法律が臓器提供を強要しないのは倫理観からでは?
私はそれに賛同して倫理的に所有権の価値を主張しています、法で決まっていることや多数の判断が何でも正しいとは思っていません、倫理の問題だということはもちろん理解しています
シナリオ1と2で考えるなら殺人の意図を説明するより所有権の侵害を主張した方が誰しもが納得すると思います、仮に臓器を取り出してもドナーは死なないとしても強要は認められないですし薬にしてもその人のものなら取り上げることは出来ません、殺す意図が無くても認められないのはそれ以前の問題だからです
>その論理に基づけば、たとえ無実の人を殺しても、所有権を侵害しても、そうして失われるもの以上の利益を社会が得るのであれば、その行為は正当化される
第二のシナリオで例えれば1人の人間から臓器を取り出して5人の人間が救えるなら失われる以上の利益を得ることが出来るという考え方になりますが、身体が社会に共有され他者を救うために臓器が強制的に取り出されるような社会が幸福だと考える人はいないでしょう、常に怯えて暮らさないといけなくなります
>もっとも功利主義の中にも、「一般的に世の中の幸福や快楽を最大化するような規則に従うのが良い」とする規則功利主義もあり、そちらの考え方では「所有権を保護するほうが社会にとって利益になる」と判断されるかもしれません。しかし、それは身体に何か特別の価値があってその侵害は「未来永劫」認められないからではなく、たまたまその社会においてそういう規則にしておいたほうが利益になるからです。
身体の所有権が保護されるのが社会の利益になるのは当然のことです、たまたまというのならどの様な社会だと身体の所有権が認められないようになるのでしょうか?コーマック・マッカーシーの小説、ザ・ロードのような荒廃した世界ですか?今後、我々が社会のあり方の理想を追求していく上でその様な価値観が支持されることは未来永劫無いと言えるでしょう、あるとすればそれは追い込まれた極限の世界です
>また、収入と身体はまったく別だとする考え方も、あなた自身の価値観としてはアリですが、自明ではありません。リバタリアンの論者には、強制的な収税は強制労働に等しく、従ってわたしたちはみな国家に部分的に所有された奴隷である、と主張している人もいるんですからね。あんまり説得力があるとは思いませんが…
収入の一部は税金として共有されますが身体が(労働ではなく)社会に共有されることは有り得ないといっています、これは自明といってもいいのでは?
リバタリアン論者も臓器提供を強要するのが正しいなんていっている人はいないでしょう、いるとすればそれはとりあう価値はありません(その人は殺人の意図を説明しても納得しないでしょう)
2010/10/26 - 09:35:19 -
現実に法律がどう決まっているかという話でしたら、はい、法律はある程度その社会における倫理観の反映でしょう。
でもここでは、法律ではなくて倫理の話をしているのですね。倫理の話において所有権を持ち出す場合、それは社会における多数派の倫理観の反映として決められた法律における権利ではなく、「自然権」としての所有権を主張していることになってしまいます。そしてその自然権の主張では、強制的な徴税も重大な権利の侵害である点で、臓器提供の強要と同じです。
所有権はなににも優先するという倫理観にあなたはコミットするわけですか? だったらなおさら、なぜ徴税は許されるのか分かりません。仮に命は関係ないとすると、政府が収入を強制的に取り上げるのは良くて、薬を取り上げてはいけないのはなぜですか?
そのとおりですね。それに、怖くて病院に行けなくなってしまいます。
個人が身体や財産を所有する、という概念は、かならずしも普遍的な社会の仕組みではありませんよ。家族や共同体ではなく個人が基礎的な単位となっていて、各個人が自分の身体や生き方を自由にできるのは、世界の、人類の歴史の中で、ごく限られたローカルなことではないですか?
わたし自身は、そういう社会に慣れ親しんでしまっているので、そういう社会に住みたいと思いますし、そうでない社会で生きていかなくてはいけないとしたらものすごいストレスになるでしょう。でも、たまたまわたしが慣れ親しんだ社会が普遍的にもっとも優れた社会であり、それ以外の文化を持った社会は劣っているとは思いません。
ありえないどころか、現実にあるでしょう? 世界中が欧米風リベラル社会だと思っているのですか?
逆です。臓器提供を強要するのが間違っているのと同様、強制的な収税も間違っている、というのがリバタリアンの考え方です。必要悪だとしても、せいぜい人頭税を認める程度でしょう。
2010/10/28 - 05:20:35 -
>そしてその自然権の主張では、強制的な徴税も重大な権利の侵害である点で、臓器提供の強要と同じです。
>所有権はなににも優先するという倫理観にあなたはコミットするわけですか? だったらなおさら、なぜ徴税は許されるのか分かりません。仮に命は関係ないとすると、政府が収入を強制的に取り上げるのは良くて、薬を取り上げてはいけないのはなぜですか?
税金は社会のシステム利用料と考えることが出来ます、サービスを受ければ対価を支払うのは当然で所有権の侵害にはなりません、さらにその対価がお金になるか薬になるか臓器になるかで程度が違います、あなたは殺人の意図という問題さえ無ければ(死なない程度のものなら)徴税と同じいう理屈で臓器提供の強要を認めるのですか?私は薬からして認めません、全ての所有権は何よりも優先されるというのではなく何の所有権かによります
>個人が身体や財産を所有する、という概念は、かならずしも普遍的な社会の仕組みではありませんよ。家族や共同体ではなく個人が基礎的な単位となっていて、各個人が自分の身体や生き方を自由にできるのは、世界の、人類の歴史の中で、ごく限られたローカルなことではないですか?
>ありえないどころか、現実にあるでしょう? 世界中が欧米風リベラル社会だと思っているのですか?
話が摩り替わっています、ここで問題にしているのは臓器提供の強要です、それが強要されないのは臓器の所有権の大きさだといっています、一口に所有権の侵害といっても幅があるわけです、例えば、喧嘩になって腕を押されても大した罪にはなりませんが殴って歯を折られれば重罪です、前者を持ち出して「人権はそれほど優先されるものでない」として後者が重罪なのは「過度に危害を加えてやろうとする意図があるからだ」とするのはおかしいですよね?意図も罪の大きさに関係はしますがそれよりも理不尽に侵害される損失の大きさが問題なのです
2010/10/28 - 05:35:46 -
「あなたは殺人の意図という問題さえ無ければ(死なない程度のものなら)徴税と同じいう理屈で臓器提供の強要を認めるのですか?」と問いましたが
>臓器提供を強要するのが間違っているのと同様、強制的な収税も間違っている、というのがリバタリアンの考え方です。必要悪だとしても、せいぜい人頭税を認める程度でしょう。
と書いているのであなたがリバタリアンかどうかは知りませんが質問の仕方を変えます
徴税を持って臓器の所有権を軽視できますか?
2010/10/28 - 08:38:39 -
リバタリアンなら、そのサービスを受けることに同意した覚えはない、強制的に受けさせるのは所有権の侵害である、と考えるでしょうね。商品を一方的に送りつけてお金を出せと要求しても、認められないでしょう?もし商品を送りつけたのだからと無理やり代金を取り立てれば、所有権の侵害になりますよね。
もし強制的な徴税を肯定するのであれば、「身体には所有権があるから」という理由で臓器提供の強要を否定することはできない、という論理の問題を指摘しています。所有権は絶対ではないと認めているのですから、どうして臓器に対する所有権は特別なのか論証される必要があります。
まさにあなたは「全ての所有権は何よりも優先されるというのではなく何の所有権かによります」と言っていますが、その理由が説明されていないと思うのです。今回、あらたに「程度の違い」という主張がでており、なるほど臓器を没収するのは収入を没収されるより程度が重いというのには納得できるのですが、薬を没収することが臓器の没収と同等というのがよくわかりません。
また、程度によるということであれば、たとえば五人を助けるために臓器を没収するのは許されないが、五十人を救うためなら許される、みたいなこともありうるのでしょうか? 程度問題ということは、すなわち原理的な理由によって禁止されるわけではないということになるので、損失に対して得られる利益が大きくなれば正当化されるのではないでしょうか。
所有権から臓器没収を否定するのは、あまりよい論拠ではないと思うのです。
2010/10/28 - 09:11:35 -
zxcさん
言い切れないかもしれませんが,所有権は紹介されている基底的な倫理観を権利概念に翻訳したものと考えることはできないですかね。所有権は消極的義務の対象であることを保証するもの(侵害を「受けない」)と考えると,消極的義務の倫理的優先と同義となってきます。
シナリオ1の薬が,薬を大量に必要とする1人の人の「ものである」場合を考えると,とりあげることによってその人を殺してしまうわけですから,意図を持って1人を殺し5人を救うという積極的義務よりも,意図して殺してはならないという消極的義務が優先されるという論理と重なってきます。この論理は臓器の場合と同様ということになります。
2010/10/28 - 09:37:29 -
徴税は「行政サービスの充実」など,積極的義務の領域ですので,ほとんどの人が徴税には「倫理的に」反発しますし,許容する場合にはその使途について多くの条件をつけるはずです。徴税を条件付で特定の対象(国家)に所有権侵害(消極的義務の保証の侵害)の免許を与えるものと考えると,紹介されている倫理観の説明を援用して,これだけの歴史を経ても徴税に対する不満が残っている理由を説明できるようにも思います。
2010/11/02 - 06:54:56 -
>リバタリアンなら、そのサービスを受けることに同意した覚えはない、強制的に受けさせるのは所有権の侵害である、と考えるでしょうね。商品を一方的に送りつけてお金を出せと要求しても、認められないでしょう?もし商品を送りつけたのだからと無理やり代金を取り立てれば、所有権の侵害になりますよね。
同意以前に人は皆生まれながらに社会システムの恩恵を受けています、また税金の支払いを拒否して社会システムを利用しないことを望む人はいないでしょう、やろうと思えばホームレスになれば税金は徴収されません、もっともこの場合は税金だけ免除され社会システムの一部を利用している形になりますが。
>もし強制的な徴税を肯定するのであれば、「身体には所有権があるから」という理由で臓器提供の強要を否定することはできない、という論理の問題を指摘しています。所有権は絶対ではないと認めているのですから、どうして臓器に対する所有権は特別なのか論証される必要があります。
>まさにあなたは「全ての所有権は何よりも優先されるというのではなく何の所有権かによります」と言っていますが、その理由が説明されていないと思うのです。今回、あらたに「程度の違い」という主張がでており、なるほど臓器を没収するのは収入を没収されるより程度が重いというのには納得できるのですが、薬を没収することが臓器の没収と同等というのがよくわかりません。
>また、程度によるということであれば、たとえば五人を助けるために臓器を没収するのは許されないが、五十人を救うためなら許される、みたいなこともありうるのでしょうか? 程度問題ということは、すなわち原理的な理由によって禁止されるわけではないということになるので、損失に対して得られる利益が大きくなれば正当化されるのではないでしょうか。
物事を単純化し過ぎではないでしょうか?所有権を一口で語って「所有権は公共の利益より軽い」と定義することがおかしいのです、倫理というものは数学ではありません、ケースに応じて形を変える生き物です、よって定義的なアプローチは細分化して精度を高める必要があります
生命に関わるレベルでの所有権(A)とそうでない軽微なものの所有権(B)とで分けて考える必要があります、「Aは理不尽に侵害されてはいけない」という原理は成り立つでしょう、よってAは五人だろうが五十人だろうが侵害されません。Aはなぜ侵害されないかというと多くの人の価値観としてそれは不可侵だと考えるからです、侵害されるものの大きさとそれを侵害される社会に住む生涯を通じての不安感をそれによって得られる利益と天秤に掛けても納得がいく話でしょう
逆に殺人の意図というのなら死なない程度のものなら臓器の没収が認められてしまいますが?
2010/11/02 - 06:59:12 -
cider さん
>意図を持って1人を殺し5人を救うという積極的義務よりも,意図して殺してはならないという消極的義務が優先されるという論理と重なってきます。
消極的義務と所有権の侵害は表裏一体の同義だと思います、私が主張しているのは消極的義務を所有権の侵害で説明するべきではないかということです
>徴税は「行政サービスの充実」など,積極的義務の領域ですので,ほとんどの人が徴税には「倫理的に」反発しますし,許容する場合にはその使途について多くの条件をつけるはずです。徴税を条件付で特定の対象(国家)に所有権侵害(消極的義務の保証の侵害)の免許を与えるものと考えると,紹介されている倫理観の説明を援用して,これだけの歴史を経ても徴税に対する不満が残っている理由を説明できるようにも思います。
不満があるにも関わらず民主主義になって尚も徴税が無くならないのは多くの人はそれを所有権の侵害とは考えないか考えるにしても致命的侵害では無いので認めているからでしょう