「トロッコ問題」記事への追記――思考実験の功罪、ダブルエフェクト原理、フィリパ・フットの真意
2010年11月13日 - 9:17 AM | |前回の記事「『消極的義務』の倫理――『トロッコ問題』の哲学者フィリパ・フットとその影響」では書ききれなかったネタがあふれるほど余っているので、おまけとしてそのいくつかを書いてみる。というのも、サンデルの授業で紹介されているだけでなく、最近おこなわれた中森明夫さんと宮台真司さんのイベントでこの「トロッコ問題」が取り上げられるなど(宮台さんはちょっと間違って覚えていたようだけれど)、ここのところトロッコ問題への関心が高まっているようなので、もうちょっとこのサンデルブーム、トロッコ問題ブーム(?)に便乗してみようかと。
まず最初に、トロッコ問題というかこの種の思考実験へのよく聞く異議申し立てとして、思考実験の設定自体が人工的すぎる、という意見がよく見られる。これにもいくつかパターンがあるけれども、一つは作業員の人数が五人対一人と言ってもその人たちが誰であるかによって答えが違ってくるではないかというもの。もう一つは設定自体が不自然であり、現実には他の選択肢があったり、与えられた選択肢の帰結がそれほど確実ではないではないかというもの。
第一の異論はたとえば、もしその一人の側が自分の親しい人であったなら、仮に反対側に百人の赤の他人がいても親しい一人を守ろうとするかもしれないし、それらの人たちの民族的あるいはその他の属性によっても、当人の偏見や選好によっては判断を変えるかもしれない。そういう個人的な関係や偏見が関係ないとしても、その一人が大勢の命を救う能力のある名医であるのか、あるいは逃亡中の大量殺人犯であるのかによって、判断が揺らいでもおかしくない。あるいはその作業員が実はトロッコの整備員で、トロッコが暴走したのはその人の怠慢が原因だったとか、さらに酷い設定だとかれは実は五人を事故に見せかけて殺すつもりでわざとトロッコのブレーキを破損させていた(線路が切り替えられて待避線にトロッコが来る可能性は考えなかった)、みたいな背景があったとすれば、それは現実の判断には影響するだろう。
第二の異論について言えば、自分が運転手なのかスイッチのそばに立っている傍観者なのかにもよるけれども、大声を出して注意をよびかけるとか、なんとかトロッコを脱線させるとか、選択肢にない方法を取って両方の命を救おうと考える人が多いようす。人間として、いきなり一人か五人かどちらかの命を選べと言われて簡単に選べるわけがなく、ごく当たり前の反応だと思う。そもそも、選択肢のどちらか一方しか選べない、そしてどちらかを選んだら確実に五人か一人かのどちらかが死ぬ、という設定は、多くの人が感じている通り、まったく不自然だ。
はたして倫理学というのは、このような不自然かつ不自由な設定を持ち出して、不愉快なそして非建設的な決断を迫るような、非倫理的な営みであっていいのだろうか? そのようなありえない状況における倫理的な判断についてあれこれ空想上の議論することが、現実に倫理的なジレンマに直面し、悩みながら厳しい選択を取らざるをえない――そしてどのような選択をしたとしても、その結果とともに生きなければいけない――人々にとって、何の役にたつのだろうか? そういった疑念は、わたしたち一般人だけではなく、専門教育を受けた倫理学者たちからもあがっている。
そのうえであえてこうした思考実験の効用があるとすれば、その最も大きなものは、「自分の価値観を知り、考え直す」ことだと思う(いや、ほんとうは「純粋に考えることそれ自体が楽しいから、あるいは素晴らしいから」というものもあるかもしれないが)。すなわち、こうした思考実験は、わたしたちが普段とくに意識せずに行っている道徳的・倫理的判断が、いったいどういう基準に基づいているのか、そしてそれは妥当な基準かどうか、立ち止まって考える契機となるのではないか、ということだ。
普段の道徳的判断は、現実にわたしたちがさまざまな感情的こだわりや利害関係を持っている場でくだされるため、そうした感情的な意味付けや利害の影響を受けやすい。また、現実には不確実性がつきものなので、それを口実にして倫理的判断から逃れることもありがちだ。たとえばトロッコのスイッチを切り替えても五人が助かるかは分からない、と自分を言い聞かせて何もしないことを正当化したり、声を出したら作業員が気づいてくれるのではないか、という希望的観測にすがってスイッチに手をかける決断をおそれたりするということは、あっておかしくない。
「トロッコ問題」のような思考実験においては、そういったものを取りのぞくことで、純粋に自分の道徳的基準は何かを考えることができる。もし自分が取るであろう行為と道徳的判断が異なるのであれば、自分の精神的な弱さに気付かされるなり、道徳的判断のほうがおかしいのではないかと考えなおすなり、あるいは自分をふくめた人間とはそうした矛盾をかかえた存在なのだと諦観し受け入れるなり、自分をよりよく知り、自分のあり方について振り返って考えてみる機会になるかもしれない。また、それを通して自分とは異なる道徳的基準を持つ他者により寛容になれるかもしれない。あえて言うなら、それらがこうした思考実験の効用と考えられると思う。
いっぽう、こうした思考実験を政策論議に応用することには、さまざまな対立する利害があるときに議論を整理するという効用があることを認めつつも、慎重でありたい。たとえば限られた医療予算の配分をめぐって「一錠しかない薬を一人の重症患者に与えるのか、それとも五人の患者に分けて与えるのか」という思考実験を応用することは、医薬品の補給路が一時的に閉ざされた被災地のような極限状態を除いては、医療予算の不足という根本的な問題から関心を逸らすことになってしまう。一錠しかない薬をどう分配するか結論の出ない議論を繰り返すよりは、より多くの人たちに必要な薬を届けるにはどうすればいいかを考えるほうが、倫理的な姿勢だろう。
もっと深刻なケースだと、テロ容疑者に対する拷問の是非についての米国の議論において思考実験が悪用されている例が思い出される。その議論では、次のような思考実験が提示される。「二十四時間以内に炸裂する爆弾の位置を知るテロリストを捕獲した。なんとかその位置を供述させようとしているが、口を割らない。もし供述が得られない場合、爆発により何百人もしくは何千人もの人々が犠牲になる。この場合、拷問によってテロリストの口を割らせることは正当化されるか?」
このように言われると、「それでも拷問するべきではない」とはなかなか言いにくい。なぜならそれは、一人のテロリストの権利を守るために、何千人もの一般市民が犠牲になっても仕方がないということになってしまうからだ。しかしこれはあくまで思考実験の中での話であり、現実社会において拷問が許されるかどうかという議論とは別のものだ。なぜならこの思考実験では、
1)その人は本当にテロリストである
2)その人は本当に爆弾の位置を知っている
3)爆弾が本当にある
4)爆弾の爆発が迫っている
5)爆弾が爆発すれば数百人以上が犠牲になる
6)拷問しなければ爆弾の位置は分からない
7)拷問すれば爆弾の位置が分かる
8)爆弾の位置が分かれば犠牲が防げる
というような、現実にはほとんど確証を得られないようなことが、まったく疑いようのない前提として提示されている。これは、トロッコ問題において「トロッコはかならず五人か一人のどちらかを殺してしまう、両方を救う方法はない」ということが動かせない前提として規定されていたことと同じ。しかし、現実の政治においてトロッコのスイッチをどうするかという議題が取り上げられることはないが、テロ容疑者に対する拷問の是非は現実の政治的課題となっている。拷問を容認するような方向に世論を誘導したい人たちは、非現実的な思考実験と現実を意図的に混同することによって、「大勢の命を救うためには拷問もやむをえない」と思わせようとしている。そのような意味からも、この種の思考実験にたいして違和感を感じるのは悪いことではない。
続いて、フットが取り上げたカトリック教会の伝統的教義「ダブル・エフェクト原理」について追加の解説。前回の文中で説明したように、これは「意図された危害」と「予期されていたとしても、意図されたわけではない、副次的な危害」を区別し、異なる道徳的評価を与える原則だ。より詳しくは、ダブル・エフェクト原理によってある行為が道徳的に正当化されるには、次の全ての条件を満たす必要がある。
1)その行為そのものが良い行為であるか、少なくとも道徳的に中立な行為でなければならない。
2)危害は、その行為が目的を達成するための手段であってはならない。
3)危害は、その行為の目的を達成するときに生じる意図せざる結果でなければならない。
4)その行為によって達成される良い効果は、少なくともその危害に見合ったものでなければならない。
このうち、前回の文中では単純化して第三条件だけを解説したが、それ以外も満たさなければダブル・エフェクト原理に合致したとは言えない。
第一条件は、たとえばどのような良い目的のためであっても、殺人を行うことは認めないということだ。カトリック教会ではこの点は徹底しており、たとえ世界の全人類を救うためであっても、たった一人の人を殺すことは正当化できない。第二条件は、ループしている待避線の例を考えてみると分かると思うが、待避線にトロッコを送り出すことで一人の作業員が犠牲になるのは正当化できるとしても、その作業員の体を障害物として使ってトロッコを止めることは正当化できない。なぜならその作業員に対する危害そのものが五人を救う手段になっているからだ。第四条件は、常識的なことだが、いくら意図せざる危害は許されるといっても、どんなに大きな犠牲でも正当化されるわけではないということ。たとえば待避線の側に一人ではなく十人の作業員がいるときに、本線にいる五人を救うためにトロッコの方向を変えて良いと思う人はいないだろう。
ここでもう一度、カトリック教会における妊娠中絶に対する見解についてふりかえってみる。カトリック教会は母体が危険にさらされている時にすら妊娠中絶を認めていないが、それは胎児の命を母親の命と対等とみなすカトリック教会にとって、母親の命を救うために胎児の命を奪う妊娠中絶は、ダブル・エフェクト原理の第一および第二の条件に合致しないからだ。母親の命を救うことはもちろん良い目的だが、どれだけ良い目的のためであっても胎児の命を奪うことはカトリック教会の見解では「殺人」にあたるし(第一条件違反)、その「殺人」によって胎児の命を奪うことが母親の命を救うための手段であると解釈される(第二条件違反)。
それに対し、妊娠中の女性に子宮がんが見つかった場合、彼女の命を救うための子宮切除が認められる(その結果胎児が死ぬのも容認される)のは、女性の命を救うという行為そのものが道徳的に良い行為であり子宮切除という手法も道徳的に問題がなく(第一条件)、手段は殺人ではなく子宮切除であり(第二条件)、胎児の死は子宮切除にともなう副次的なものであり(第三条件)、母親の命は胎児の命と少なくとも同等の価値がある(第四条件)というように、ダブル・エフェクト原理におけるすべての要件を満たしているからだ。
おもしろいことに、フットは結果主義的(一人より五人の命というような、結果だけを重視する考え方)の道徳論を否定し、それに歯止めをかけるという意味でダブル・エフェクト原理を評価しておきながら、彼女自身はこの「母親の命を守るための妊娠中絶」について、より結果主義的な判断を取り入れた主張をしている。彼女の立場を整理すると、次の通りだ。
母体が危険にさらされており、妊娠中絶によって彼女の命が助かるとした場合、考えられるのは次の三つのケースだ。一つめは、母親が死亡したら、その母胎にいる胎児も死亡してしまうケース。この場合、いずれにしても胎児は死亡してしまうのだから、助かる命を一つでも助けたほうが良い。妊娠中絶をおこない、母親の命を助けるべきだ。二つめは、母親の命を助けるためには中絶手術によって胎児を殺さなければならず、胎児を助けるためには母親を殺して身体から胎児を取り出さなければいけない(どちらも選ばなければ両方死んでしまう)ケース。どちらを選んでも手術によって一方を殺し一方を生かすことになるわけで、どちらの命も同等と考えるならどちらを選ぶのも同じだが、「おそらく」母親の命を選ぶべきだ、とフットは主張する。(ダブル・エフェクト原理では、どちらを殺すこともできないので両方とも殺すことになるだろう。)
フットがもっとも困難だと考えるのは、母親の命を救うためには妊娠中絶が必要だが、母親を(積極的に殺すのではなく中絶手術を行わないことによって)見殺しにして胎児を救うことができるケースだ。第二のケースでは、母親と胎児のどちらかを殺さなければ両方死んでしまうという状況において、「命を奪わない」という消極的権利同士が衝突していたが、ここでは胎児の「殺されない」という消極的権利と、母親の「命を救われる」という積極的権利が対立している。ダブル・エフェクト原理のみならず、フットの主張する「消極的/積極的義務」の論理においても、母親を見殺しにして胎児の命を守るべきである、という結論が導きだされてしまう。
そのことにフットはもちろん気づいたうえで、おそらくそれに納得がいかなかったのであろうか、彼女はこの難問に答えを出そうとはしない。そのかわりに、こうした困難があることが、多くの人が妊娠中絶に対して大きな懸念を感じる理由なのではないか、とまとめている。
そもそもフットがダブル・エフェクト原理や「消極的義務の倫理」を議題に挙げているのは、上記のとおり結果主義に対する懸念からだ。「いずれにしても胎児は死亡してしまうのだから、助かる命を一つでも助けたほうが良い」というのは結果主義的な議論の一種であり、フット自身がそうした主張を展開することもあるのだけれども、彼女はそれが際限なくどのような行為でも正当化し得ることを懸念している。
たとえば彼女は、結果主義的な道徳観を持つ者は、悪質な独裁者やテロリストの言いなりにならざるを得ない、と指摘している。かりに独裁者なりテロリストがあなたをこう脅したとしよう「一般市民を一人殺せ。さもないと二人の一般市民を殺すぞ。」 どうせ一人殺すのであればその独裁者を殺せれば一番良いのだけれど、例によって思考実験の世界の住民には残念ながらそういうことはできないとすると、一般人を殺すか殺さないかしか選択肢はない。しかし人殺しに加担することを拒否すれば、本来一人だけ死ぬところが二人の人が殺されることになってしまう。もちろん同様に「二人殺せ、さもないと五人殺すぞ」「百人殺せ、さもないと千人殺すぞ」といくらでもエスカレートが可能であり、結果的な差し引きでしか善悪を判断しない人は、結局凶悪な独裁者やテロリストの言いなりになるしかない、とフットは言っているのだ。
はっきり言って、いくらなんでもあまりに無茶な思考実験だと思う。でもここで重要なのは、この思考実験が結果主義への批判として妥当かどうかということではなく、フットが有名な「トロッコ問題」を通して何を主張しようとしていたかということだ。彼女は、一人の作業員をトロッコで轢き殺すことを正当化するために――より大きな目的のために、少数の犠牲を正当化するために――こうした議論をしているわけではない。逆に、結果主義的な判断によって少数の犠牲が正当化されることに歯止めをかけるために――どれだけ独裁者やテロリストに脅されても「人殺しに加担はできない」と言い張るために――その論拠を考えたのだ。
「トロッコ問題」のよくある紹介のされ方を見ると、まずオリジナルの「トロッコ問題」において「五人を助ける」と多くの人が回答したあとで、トロッコのスイッチを操作して方向を変えるのではなく、線路の上の方に立っている大きな男を線路の上に落としてトロッコにぶつけて止める(男性は死亡する)ことは許されるか?というシナリオ(ジュディス・ジャーヴィス・トムソンが考案したバリエーション)が続けて取り上げられることが多い。多くの人は、人間を落としてトロッコを止めるのに使うなど許されない、と回答するが、そこには「一人を犠牲に五人を助けるという構図は同じなのに、どうして判断を変えるのか?」という疑問が生じる。そういった取り上げられ方がされることで、まるで「トロッコ問題」とは「トロッコの方向を変えることが正しいと考えるなら、男を線路の上に落とすのも正しいと考えるべきだ」という、結果主義的な価値観を主張するための思考実験であるかのような誤解まで見られるが、これはフットの考えとはまったく逆だ。
前回の記事のブックマークでrnaさんが「個人的には五人を轢き殺すのは事故だけど、待避線の一人を轢き殺したら殺人、って感覚があるんだよね」と書いている。そう感じている人にとっては、五人を助ける「積極的義務」と一人の命を尊重する「消極的義務」では後者のほうが重大という判断が生じるのが当然。また、前回も言及したトマス・ポッゲ著『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』では、途上国の貧困は先進国によって産み出されたものであり、途上国を支援することは「積極的義務」(途上国の貧しい人たちを貧困から救済すること)ではなく「消極的義務」(先進国が行っている経済的な加害行為を止めること)である、という議論が行われている。もちろんこの論理は国内の貧困にも適用可能であり、国内外における再分配政策を、慈善行為としての弱者救済ではなく、社会的公正のための一種の原状回復施策へと捉え直すためにも、フットの考え方は有効かもしれない。
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(この記事は、メールマガジンα-Synodos(アルファ・シノドス)第63号(11月1日発行)及びシノドスジャーナルに掲載されたものを再掲しました。)
2010/11/14 - 06:15:16 -
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