『アメリカ発 DV再発防止・予防プログラム』へのコメントへのコメントと、サポートグループの不可能性

4/29/2010 - 9:54 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

いつみても「キリンが逆立ちしたピアス」っていいブログ名だよなあと思ってしまうのだけれど、その id:font-da さんが、山口佐和子著『アメリカ発 DV再発防止・予防プログラム』を紹介している。わたしもこの本については「某秘密主義ML」(検索キーワード)で知り、気になっていたので、信頼できるレビューが出てきて助かる。いずれ入手するつもりだけれど、いつになることやら。

それにしても、「アメリカ発」の報告なら、なんでわたしに取材に来なかったんだ!という自意識過剰はともかくとして、どれくらい米国の反DV運動の中におけるさまざまな視点や主張を集めているのかという点は気になる。肝心なところは、大手団体に連絡して紹介してもらう先を取材していては全然見えてこないはずなので、著者自身が運動内部の状況をよく理解しているか、そうした状況がわかっている内部協力者が必要なはず。いやわたしに声がかからなかったから文句言ってるわけじゃなくて。

以下、本は読んでいないので山口さんの記述についてはコメントできないけど、font-da さんのコメントに追加コメントしてみる。

先日も、警察がDVに積極的に介入する方針が発表された。大手新聞社の中には、DVを「男女間暴力」と表記していた。これは、異性愛主義があらわになる典型的な表記である。「配偶者間」という、(現行法では)異性間でしか行えない婚姻という関係を特権化したような窓口名は、こうした社会状況を固定化する働きをするだろう。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100429/1272511880

米国でのここ5年くらいの業界トレンドは、DV (domestic violence) に代わり、IPV (intimate partner violence) という用語が頻繁に使われるようになってきたと思う。かならずしも「家庭内」であるとは限らない、未婚のパートナーやその他の親しい人たちによる暴力を含めるための変更だと思う。

そもそもDVという言葉自体、おもに白人中流階層の女性たちのあいだではじまった「妻への虐待」に対抗するための運動が、各地で組織化されたり行政を動かしたりする中で、人工的に作り出されて使われるようになった言葉だった。当時、多くのフェミニストたちはDVという言葉を「男性から女性への暴力であるという一方向性を隠蔽し、性差別撤廃という本来の最終目標を脱線させようとするものだ」と批判した。しかし、この変更によって夫から妻への暴力だけでなく、未婚カップルや同性カップルにおいて起こる暴力、そしてもちろん妻から夫への暴力も含むようになったのだし、正しかったと思う。第一、DVを性差別とのみ関連付けるような主張自体がかなり怪しいわけだし。

IPVという用語も、さらに適用範囲を広げる言葉であり、基本的に良いことだと思う。けれども、それが民間における個々の実践からというよりは、行政のプログラムを通して全面的に——font-daさんが「正統化」と呼ぶプロセスによって——起きていることには、なんとなくイヤな気はする。個々の人や団体が納得して変えていっているだけならいいんだけど。(そういえば「修復的司法」という言葉も、それまで主に人種的マイノリティの運動として各地であったさまざまな用語を一掃するかたちで登場し、押し付けられてきた経緯があるし…というのはまた別の話。)

また、山口さんは米国の加害者プログラムのスタッフが「文化によって加害者にさほど差があるわけではなく、アメリカの加害者プログラムを日本風に変えなければ通用しないということはありえない」と語り、そのナラティブを分析することなく同調している。どのような立場の、どのような経歴の人の発言であるかすら、説明されていない。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100429/1272511880

この発言は酷すぎ! そもそも「アメリカの加害者プログラム」がさまざまな文化的背景を持つアメリカ人加害者たちに同じ程度に有効だということすら、ものすごく疑わしいのに。だけど、加害者プログラムの関係者といろいろ話した経験から言うと、この発言も驚くには値しない。あの人たちは、反DV運動の主流派よりさらに人種や文化についてまったく考えていないもの。それでいて、加害者プログラムで働く人たちの給料は被害者支援をしている人よりずっといいから(個々の労働者の性別とは別の問題として、こっちは女性賃金ベースで、向こうは男性賃金ベース)頭にくる。ていうか、加害者プログラムは「どの文化の人にも等しくあんまり有効ではない、単なる無駄」というなら、その通りかもしれない。

font-daさんは、ファシリテーターがいるDV被害者のためのサポートグループを山口さんが「セラピーグループとセルフヘルプグループの中間にある」と規定していることを紹介している。セラピーグループとは専門の訓練を受けたカウンセラーなど専門家がファシリテーターを行うグループであり、セルフヘルプグループは同じ問題(この場合はDV被害)を経験した人たち同士による支え合いを行うグループを指すが、サポートグループでは「ファシリテーターはグループメンバーの支援とピアとして教えるということが本質的要素なので、資格や経験にとらわれることはない」としている。それに対してfont-daさんはこう書いている。

セルフヘルプグループが、「専門家を入れない」という点にこだわるのは、「専門家と被害者との権力関係」の悪影響を懸念するからだ。この「グループメンバーの支援」「ピアとして教える」という権力関係こそが問題とされているのだ。「資格や経験にとらわれることはない」と書いてあるが、そのことこそが、権力関係を不可視化し、「まるで、お互いがピアであるかのような錯覚を招くのではないか」という危険が出るだろう。セラピーグループであれば、権力関係が可視化するため、被害者の側が、初めからそういうものとしてファシリテーターに対処することもできるかもしれない。それが、「ピアでありながら、権力を持つ人」という入り混じった状態のファシリテーターであれば、その権力に抵抗する負担はより大きくなるのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100429/1272511880

この懸念には全面的に同意。ていうかもともとはわたしが書いたものにfont-daさんが同調しながらこれを書いているんだから、同意して当たり前だけど。そのうえで、「専門家と被害者との権力関係」だけに注意すれば——たとえば、特定のファシリテーターを置かずに、サバイバー同士が交代で担当するなどすれば——権力関係のない、「ピアどうしの」支え合いができるのか、という点に、わたしはさらにこだわりたい。

世の中には、「専門家と被害者(当事者)との権力関係」だけでなく、社会的地位や収入や人種や国籍などさまざまな面において権力関係が存在しており、サポートグループが行われる部屋に入った瞬間にそれが消滅したりはしない。わたしは自分の経験からしてもサポートグループというのがとにかく苦手で、良い経験をしたことがないのだけれど、それはサポートグループが前提としている、「自分たちは同じ問題を抱えている/経験している」ことを通しての繋がりや支え合いというのが、ひとりひとりの社会的なポジショナリティに基づいた特有の経験を、常に抹消するからだ。

「DV被害を受けた」という一つの共通点があったとしても、そのDV被害がどのようなものであったか、そしてその被害によってどのような困難を抱えたかは、個人的な運や巡り合わせだけでなく、その人が社会の中でどのような権力関係を生きているのかによっても影響を受ける。しかし「同じ経験をしたから分かり合える、支え合える」という前提のもとでは、基本的にマイノリティの側はマジョリティと違った部分を抑圧して、マジョリティの経験した物語に同調することを強いられる。マイノリティとなった人たちだけで別のグループを作っても、その場の中でまたマイノリティはどうしても生まれてしまう。

「専門家と被害者との権力関係」であれば、まだ対処も可能だ。というのも、専門家と被害者のあいだの権力関係は、「大人と子どもの権力関係」や「教師と生徒の権力関係」と似ていて、それが本来の目的——被害者の快復と自立、子どもの安全と成長、生徒の学習——に沿うように行使される限りにおいて、必ずしも悪いことばかりではない。そして、その濫用を防ぐために、権力関係を明示化し、専門家に対する苦情や要望を出せるような制度的取り組みが考えられる。

けれども、専門家でもファシリテーターでもなく、同じ「ピア」として参加している人の大多数が白人で、残りが非白人であるとき、人種における権力関係を牽制するために、いったいどのような対処ができるというのか。もちろん、差別的な発言や行動をさせないための仲間内の取り決めを作ることはできる。けれどもどのような取り決めを作るかも、それに従うかどうかも、すべてマジョリティの側が選択権を握ってしまう。それにそもそも、問題はあきらかに差別的な発言や行動ではなく、サポートグループという環境が必然的にマイノリティの経験を抑圧してしまうことだ。

先に専門家の権力は必ずしも悪ではないと書いたが、グループ内におけるマジョリティがマイノリティをないがしろにすることを防ぐことこそ、そうした権力の使いどころの一つだと思う。しかし、マイノリティが特有の経験を本当に尊重されることがあるならば、それはマジョリティの側にとっての「共通経験を通した分かり合い、支え合い」というサポートグループの醍醐味を消滅させることになってしまう。

また、ここでいう「マイノリティ」の側だって、多くの場合「ある側面においてマイノリティであること」を含め自分と同じ経験を持つ他の人たちとの分かり合い、支え合いを求めているわけで、「自分がマイノリティに入る側面では特有の経験を尊重しろ、しかし自分がマジョリティに入る側面では共通経験を重視しろ」という、矛盾した欲求を抱えていることは同じ。結局、サポートグループに人々が希望する条件そのものが、権力関係の不可視化と多様な経験の抑圧を必須としているわけで、だからわたしはセラピーであれセルフヘルプであれ、サポートグループというのに不信感がある。

とはいえ、わたし自身がそういう認識に至ったのだって、サポートグループに参加して「どうしてこんなにサポートグループってイラつくんだろう」と考えてのことであり、ある問題における当事者同士の「分かりあえなさ」を身をもって認識するために、あえてサポートグループに参加するべきだという考え方もありえないわけではない。ただ、いまサポートを必要としている人たちが、わざわざそんな趣旨のグループに参加するなんてことは、なかなかありえないだろうけれど。

とにかく、次に機会があればこの本は入手するつもり。実際に読んだら、また何か書くかもしれない。

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