経済学S1/自由貿易−−「現状をよりマシにすること」と「正しさ」の違い

2008年11月27日 - 1:38 午後 | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前からやろうと思っていたことなのだけれど、今回から「経済学シリーズ」として、当ブログで不定期連載をはじめてみたい。ここで「経済学シリーズ」と書いたけれども、わたしは経済学についてきちんとした勉強をしてきたわけではないので、読者のみなさんに経済学についてレクチャーしようというわけではない。この連載は、トマス・ソーウェルの言うところの「束縛的世界観」(エントリ「わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由」参照)を持ちつつも、社会的公正に強い関心を抱くリベラルであるわたしが、その「束縛的世界観」を前提とする(主流派)経済学の知見、そしてその延長にあるネオリベラリズムの論理をどのように受け止め、そのうえで何を主張していくか、という問題意識を元としている。
このような連載をはじめようと思ったのは、すこし前にブログ界の一部で繰り広げられたネオリベ系論者とサヨク系論者の論争を読んでいて、どうも議論が成り立っていないと感じたことがきっかけだ。また、少しまえにわたしと同じ歳の経済学者の飯田泰之さんが、メールマガジン「αシノドス」や鈴木謙介さんがメインパーソナリティを務める「文化系トークラジオ Life」に登場して、精力的に「経済学に基づいたリベラリズム」を主張をしていたのに、どうもそれがうまく通じていない印象が残ったことも、経済学の理解においてプロである飯田さんにはるかに及ばないことを承知のうえで、わたしが口を出そうと思った要因の一つだ。
その飯田さん自身、政治的にリベラルな経済学者として知られるポール・クルーグマンのノーベル経済学記念賞受賞を受けて、次のようにブログに書いている。

リベラル派の経済学者はともすると反経済学・反資本主義へと流されてしまいがちです. これは経済学界にとってのその人自身の人的損失にとどまらず,経済学そのものへの不信感を育てる元凶になってきた.でも,クルーグマンならかつてあそこまで罵詈雑言を浴びせ続けた方向へ流されると言うことはないでしょう.
日本で,しかも凡百の経済学者が「リベラルの主張が経済学的にも根拠がある」という主張をするのにはかなり勇気が要ります.左からは「そんなのリベラルじゃないやい!この新古典派め!」とののしられ,右からは「介入主義者チネ」と嗤われます.そんななかで(あまりにも雲の上の人ではありますが)それを粛々と実行し続け,評価され続けている人がいるというのはなんだか嬉しいのです.
祝♪P.R.クルーグマン!経済学賞受賞! – こら!たまには研究しろ!!

飯田さんがこのように言うのはよく分かる。わたしの場合はもちろん経済学界における評価はどうでもいいのだけれど、自分の周囲にいるリベラルな価値観を掲げる運動や論者の多くが経済学の基本を理解していないために、目先の現実にとらわれた単なる思いつきに過ぎないような主張を繰り広げ、その結果として意図せざる弊害に直面してパニックに陥ったり、経済学的な真理が自分たちの側にあると標榜する保守派に有効な批判を返せなかったりすることが、とてもやりきれない。それが、このような連載をはじめようと思った理由だ。何度も言うようにわたしは正式に経済学について学んだわけではないので、書いている内容におかしな部分があるかもしれない(というか、多分ある)が、できればみなさんの反論や批判を受けながら、学んでいけたらと思う。
前置きが長くなったが、今回はその飯田さんのシノドスにおけるセミナーの報告(αシノドス第13号掲載)を引用しながら、(主流派)経済学における交易についての基本認識についてツッコミを入れてみる。あまりに基本中の基本すぎて、ツッコミ入れるのにも勇気がいるのだけれど、まぁ大丈夫だろう。以下は、報告からの引用。

以上のごく簡単なことからすぐに導かれてしまう経済学の基本テーゼというのが、ここで資料のほうには「自発的交換は経済厚生を促進する」というちょっと硬い言葉で書きましたけれども、これは一番簡単に言うと、自由貿易が正しい、ということを言っているのと同じです。セミナーの雰囲気とかをあまり考えていなかったので、ちょっと硬めな言葉で書いてしまいましたけれども、これは具体的に言うと、自由貿易はつねに正しい、という話です。
(略)
なぜならば交換を行うときに、そのペットボトルとこのペットボトルをふたりが交換するというのは、お互いが交換したほうがよくなるからでしょ。「交換しませんか?」「あっ、いいですよ」っていう話です。前もって自分の満足度が下がるとわかっているのであれば、そんな交換に、「うん」とはいわないわけなんですよね。
したがって交換というのはつねに当事者双方の効用を上げる、そういう取引しか行われない、もちろんかつての奴隷貿易のように暴力を伴った場合、それは別なんですけれども、財産権っていうのが確立されているなかで行われる交換っていうのは、いつでも両者にとって得である。

「お互いが交換したほうがよくなる」場合でないと交換が行なわれることはない(損をする人がいるなら交換を拒否する)から、交換は常に両者の状況を良くする、少なくとも両者とも状況が良くなると予想したうえで交換を行なう。これは、論理的に言ってまったくその通りだろう。もちろん、両者のあいだに力関係なんかがあったりして、どちらか一方が他方よりたくさん得をすることはあるけれども、比較的弱い立場にある側も、交換に同意しているのであれば必然的に、交換しなかった場合に比べれば少しは得をしている。これは飯田さんだけでなく、ほとんど全ての経済学者の共通認識だ。
ところがそれに対し、先進国と途上国の貿易においては、途上国の側が一方的に搾取されていき、先進国はますます豊かに、途上国はますます貧しくなるという主張もある。そうした主張−−「従属論」と呼ばれる−−に対して、飯田さんは次のように反論する。

たとえば、これは非常に概念的なんですけれども、たとえば羊羹があったとしましょう。これが取引の利益という羊羹なんですね。これをたとえばA国とB国ってとりわけていく。このとき情報格差によって羊羹の取り分は変わってくる。これは確かなんです。
しかし,この貿易から生まれる豊かさを分けるとき、分け方がものすごく不平等になったとしても、A国、B国ともに、もとよりはよくなっているっていうのが一番単純な答えだと思います。つまり、いい果実の部分の取り分、配分の問題は生じて、それが平等か平等じゃないかはわからないけれども、仮にこれがまったくなかったときと比べてどうかというと、まったくなかったときよりは改善されているはずだ、というのがひとつの答え。
もうひとつの答えが、これが、従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない部分ではあるんですが、昔はある国、たとえばある旧植民地国がアクセスできる先進国っていうのは、ひとつしかなかったんですよね。元宗主国.そうすると、B国が植民地国家だとしましょう。一方A国は、イギリス、フランスみたいな旧宗主国だったとしましょう。旧宗主国側の企業,とくに公社が独占的な買い手になることでさっきの羊羹の取り分を圧倒的に宗主国側に有利に決定する。
昔は、こういうことをやられちゃったんですけれども、現代ではこういう状況というのは非常に起きにくい。なんでかというと、アメリカがB国に対して、アメリカだけに有利な取引条件を押し付けていると、横からフランス、ドイツ、日本だのの会社が入ってきて、「うちならもうちょっといい条件でやってあげますよ」っていってしまう。
そうするとアメリカも、いくら有利な取引条件といっても、外国のほかの企業にもっていかれちゃったら元も子もない。「それじゃあ、うちはもうちょっと有利な」っていうふうに途上国側企業に利益を譲るようになる。企業間の競争——おせっかいにも、といいますか、もっと有利な取引条件を提示してくれたり、またはたとえば、これ全部自動車の会社だとしますと、GMの言ってくる取引条件や情報はめちゃくちゃだから、「うちが正しい情報を教えてあげよう、で、うちと契約しましょう」っていう方向に進むので、もともとこの不公正の問題というのもあまり起きにくい。
やはり従属論がひとつの根拠をもったのは、とくにアフリカに対しては、その旧植民地国にアクセスできる国というのがほぼひとつ、要するに、旧宗主国オンリーだったので、その時代は多少意味があったのかもしれない。しかし,取引相手があまり特定の国の特定の企業に限定されないとこの問題は雲散霧消してしまう。これがある意味、競争、競合のよいところになるわけなんです。

ここでわたしが注目するのは、どうして「従属論」は間違っているのかという部分ではなく、逆に飯田さんが「従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない」とした部分だ。正直言って、どうしてこれが「従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない」例になるのか分からない。
飯田さん(だけでなく大半の経済学者)の議論によれば、取り引きによって生まれる利益=羊羹を切り分けるときに、分け方が「ものすごく不平等になったとしても」、どちらも少なくとも「まったく(取り引きが)なかったときよりは改善されているはず」だという。ところが、過去には従属論にも少しは根拠があったと言う文脈では、アフリカの旧植民地国(の個人や企業)は事実上旧宗主国(の個人や企業)としか交易が行なえなかったために、「羊羹の取り分を圧倒的に宗主国側に有利に決定する」ことがあった(しかし現代ではそういうことはあまりない)、従って当時においては従属論もまったく無根拠ではなかった、と書いている。これはおかしい。
もし「ものすごく不平等になったとしても」羊羹の切り分けが行なわれる限り「まったくなかったときよりは改善」されるのであれば、その論理は旧宗主国側が「羊羹の取り分を圧倒的に宗主国側に有利に決定」した時代でも、そのまま通用するはずだ。つまり、仮に旧宗主国としか取り引きできなくて、そのために圧倒的に不利な切り分けを受け入れるしかなかったとしても、それでも「貿易は旧植民地国にとって有益」であり従属論ははじめからずっとまったく無根拠だというのでなければおかしい。つまり、もし仮に「従属論は現在において間違っている」のであれば、旧植民地国が独立した直後においても従属論は間違いだったはず。逆に、もし当時の状況において従属論にも根拠があったのであれば、現在にもさまざまな力関係や不自由を理由とした不公平な「羊羹の切り分け」はあるのだから、従属論はいまだに有効だと言わなければおかしい。
従属論だけではない。飯田さんは上の引用部において「自由貿易はつねに正しい」と言ったあとで、「かつての奴隷貿易のように暴力を伴った場合」はその範疇に含めないとしているが、それだって実はおかしいのではないか。たとえばある人が奴隷として労働を強いられていて、逆らったりさぼったりすると体罰を受けたり殺されたりするとしよう。その人は、明らかに自由意志を奪われているが、しかしそこにはまだ「逆らうか従うか」という選択肢が残っている。従うことを所有者との「取り引き」と考えると、従うことで命が助かるし痛い目をしないで済むわけだから、取り引きが行なわれなかった場合に比べて奴隷は利益を得ている。所有者の側も、奴隷を殺しても何の利益もないわけで、命令に従って労働してくれた方が利益になる。このように、究極に不自由な状況としか考えられない奴隷制のもとでも、取り引きが「選択」されている限り、取り引きが行なわれなかった場合に比べて双方が利益を得ていると言える。
もう一つ極端な例として、ある人が別の人に暗闇で銃をつきつけて「命がおしければ財布を寄越せ」と脅迫した場面を考えてみる。この場合も、自由意志に基づく自己決定権が保証されているとは到底言えないが、「言われた通りに財布を出す(取り引き)か、抵抗する(取り引きに応じない)か」という選択肢がある。抵抗して銃で撃たれて死ぬことに比べれば財布を失うだけで済む方が被害者にとって利益になっているし、犯人にとっても財布を奪うために人殺しなんてしない方が良いに決まっている。この場合でも、やはり「取り引き」は「当事者双方の効用を上げる」ことに違いはない。
では、どうして経済学者たちは「従属論にも過去には根拠はあった」とか、「奴隷制度は含めない」とか、「財産権が確立されている限り」とか、「自発的」でなければいけないとか、いろいろ制約をつけたがるのだろうか。旧植民地、奴隷制、強盗犯の三つのケースを見る限り、どんなに不公平で不自由な状況であっても、交換するかどうかの選択が許されてさえいれば、「交換は常に当事者双方の効用を上げる」と言えるはずなのに! より広い現象を説明できるはずの理論を持ちながら、その適用範囲をわざわざ狭める理由がどこにあるのだろうか?
その謎を解く鍵は、飯田さんがこの報告で何度も繰り返す、「自由貿易は(つねに)正しい」という言葉だ。これまでの話では「自由貿易は、それがなかった場合に比べれば、当事者双方にとってより良い結果をもたらす」ということは十分に示されたと思うが、それが「正しい」かどうかはまた別の問題だ。何が正しいかという問いは、論理をたどれば誰でも自動的に同じ結論に辿り着くような問題ではなく、それぞれの価値観や倫理観によって判断が変わる、政治性を帯びたものだ。にもかかわらず、多くの経済学者は「自由貿易はつねに正しい」という主張を疑おうとはしない。そこには、「当事者双方にとってより良い結果をもたらす」ような取り引きは「正しい」のだ、という暗黙の前提が見出せる。こうした暗黙の前提のことを、イデオロギーと呼ぶ。
しかし、このイデオロギーは脆弱だ。なぜなら、上で挙げた植民地経済の例、奴隷労働の例、強盗の例などについて考えると、自然とわたしたちはそれらが「双方に利益をもたらす」、だから「正しい」のだ、という結論を下すのに躊躇するからだ。「いや、それらの例は適切ではない、当事者の一方によって不公平な構図が作り出されているではないか」という反論があるだろうが、強盗に銃を押しつけられることと、貧困によって選択肢を奪われることが、過酷な選択を強いられる側の人間にとってそれほど違うとは思わない。わたしが問題としているのは、取り引き以前にあって取り引き内容をあらかじめかなりの部分規定するさまざまな社会的・経済的・政治権力的な格差を、所与の前提として扱おうとする、歴史と文脈の忘却だ。
こうした忘却のもとに、経済学者の全てではないにしても、政治的な保守派あるいはネオリベ派と呼ばれるような経済学者は、さまざまな倫理的・政治的に論争を呼んでいる問題について、それがかれら自身の倫理的・政治的な立場であることを隠したうえで、まるで経済学に従えば自ずと正解を導き出せるかのようにふるまう。そうした問題には、たとえば次のような問いが含まれる。
1)労働者が劣悪な環境で長時間労働させられている工場で作られた製品を購入するのは「正しい」か?
2)先進国が途上国にお金を払って有害あるいは危険な廃棄物を引き取ってもらうことは「正しい」か?
3)生体移植を必要とするお金持ちが、貧しい人から臓器を買い取るのは「正しい」か?
4)医学の進歩のために貧しい人や途上国の人にお金を払って人体実験するのは「正しい」か?
ネオリベ的な経済学者は、労働者やその他の貧しい人たちが物理的な暴力によって強制されたり脅迫されていない限りにおいて、またかれらがその危険性について正しい情報を得られる限りにおいて、これらの「取り引き」に「同意」する権利を認めるべきだ、と主張する。なぜならそうした取り引きは、それが成立しなかった場合に比べれば、貧しい人たちの生活を少しばかりは向上する−−もししないのであれば、取り引きそのものが起こらない−−からだ。しかし、多くの人は、これらの問いにあっさりと「正しい」と断言するのには躊躇すると思う。
と同時に、単純にこれらの取り引きを禁止することが、世界のもっとも貧しい人たちが少しでもよりマシな生活をするための手段を奪うことになることも、少し考えれば分かるだろう。ネオリベ的に無制限に「自発的な」取り引きを認めるのも、認めないのも、どちらも「正しい」結果をもたらさない。それは、ネオリベラリズムが所与の前提としてまったく無批判に受け入れる「この世界における圧倒的な経済格差」そのものが不正義だからだ。不正義な前提のもとでは「正しい」結論ではなく「よりマシな」結論しか導き出せない。にもかかわらず、そこに「双方の効用が向上するのだから、その取り引きは正しい」というイデオロギーを押しつけるのが、ネオリベ論者の論法だ。そしてそのすり替えを成り立たせるためには、誰が見ても明らかにおかしい奴隷労働や強盗のケースをあらかじめ除外して話をする必要がなる−−植民地主義については、その境界上のことなので混乱が起きているのだろう。
ネオリベ論者は、「羊羹の切り分けに際して、力関係などを背景とした、利益の不公平な配分がありうる」ことを認める。それは植民地時代にもあったし、現在でもある。そのうえで、それでも交易は双方にとって有益なのだ、と主張する。かれらは、交易におけるそのような「不公平」の存在を認めることで、まるでわたしたちが上記のような「取り引き」に直感的に感じる不快感の原因がそこにあるかのように偽装している。その影で、圧倒的な経済格差という、本当の不正義が隠蔽されている。「植民地主義の影響で、不公平な配分があり得る(が、いずれにしても双方の利益になる)」と言うとき、植民地支配そのものの不正義は忘却されている。
無論、飯田さんはネオリベ論者だとは思わないし、そうした効果はかれが意図したものではないと思うけれども、経済学でスタンダードとなっている認識を経済学の語彙で説明しようとすると、どうしても主流派経済学に内在するイデオロギーがまるで客観的事実であるかのような、あるいは工学的に「有効」であることが倫理的に「善」であるかのような「語り」に巻き込まれてしまう。だから政治的にリベラルな人や左翼的な人にとって、経済学の理論や概念を学ぼうとしても「ネオリベの主張に、それらしい理屈をつけただけ」に見えてしまうのだけれど、それは経済学にとっても政治的リベラルにとっても不幸なことだ。
そういうわけで、これから不定期連載をやりながら、ちょっと「政治的リベラルのための経済学の使い道」を考えてみたいと思う。


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