経済学S1/自由貿易−−「現状をよりマシにすること」と「正しさ」の違い

2008年11月27日 - 1:38 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前からやろうと思っていたことなのだけれど、今回から「経済学シリーズ」として、当ブログで不定期連載をはじめてみたい。ここで「経済学シリーズ」と書いたけれども、わたしは経済学についてきちんとした勉強をしてきたわけではないので、読者のみなさんに経済学についてレクチャーしようというわけではない。この連載は、トマス・ソーウェルの言うところの「束縛的世界観」(エントリ「わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由」参照)を持ちつつも、社会的公正に強い関心を抱くリベラルであるわたしが、その「束縛的世界観」を前提とする(主流派)経済学の知見、そしてその延長にあるネオリベラリズムの論理をどのように受け止め、そのうえで何を主張していくか、という問題意識を元としている。
このような連載をはじめようと思ったのは、すこし前にブログ界の一部で繰り広げられたネオリベ系論者とサヨク系論者の論争を読んでいて、どうも議論が成り立っていないと感じたことがきっかけだ。また、少しまえにわたしと同じ歳の経済学者の飯田泰之さんが、メールマガジン「αシノドス」や鈴木謙介さんがメインパーソナリティを務める「文化系トークラジオ Life」に登場して、精力的に「経済学に基づいたリベラリズム」を主張をしていたのに、どうもそれがうまく通じていない印象が残ったことも、経済学の理解においてプロである飯田さんにはるかに及ばないことを承知のうえで、わたしが口を出そうと思った要因の一つだ。
その飯田さん自身、政治的にリベラルな経済学者として知られるポール・クルーグマンのノーベル経済学記念賞受賞を受けて、次のようにブログに書いている。

リベラル派の経済学者はともすると反経済学・反資本主義へと流されてしまいがちです. これは経済学界にとってのその人自身の人的損失にとどまらず,経済学そのものへの不信感を育てる元凶になってきた.でも,クルーグマンならかつてあそこまで罵詈雑言を浴びせ続けた方向へ流されると言うことはないでしょう.
日本で,しかも凡百の経済学者が「リベラルの主張が経済学的にも根拠がある」という主張をするのにはかなり勇気が要ります.左からは「そんなのリベラルじゃないやい!この新古典派め!」とののしられ,右からは「介入主義者チネ」と嗤われます.そんななかで(あまりにも雲の上の人ではありますが)それを粛々と実行し続け,評価され続けている人がいるというのはなんだか嬉しいのです.
祝♪P.R.クルーグマン!経済学賞受賞! – こら!たまには研究しろ!!

飯田さんがこのように言うのはよく分かる。わたしの場合はもちろん経済学界における評価はどうでもいいのだけれど、自分の周囲にいるリベラルな価値観を掲げる運動や論者の多くが経済学の基本を理解していないために、目先の現実にとらわれた単なる思いつきに過ぎないような主張を繰り広げ、その結果として意図せざる弊害に直面してパニックに陥ったり、経済学的な真理が自分たちの側にあると標榜する保守派に有効な批判を返せなかったりすることが、とてもやりきれない。それが、このような連載をはじめようと思った理由だ。何度も言うようにわたしは正式に経済学について学んだわけではないので、書いている内容におかしな部分があるかもしれない(というか、多分ある)が、できればみなさんの反論や批判を受けながら、学んでいけたらと思う。
前置きが長くなったが、今回はその飯田さんのシノドスにおけるセミナーの報告(αシノドス第13号掲載)を引用しながら、(主流派)経済学における交易についての基本認識についてツッコミを入れてみる。あまりに基本中の基本すぎて、ツッコミ入れるのにも勇気がいるのだけれど、まぁ大丈夫だろう。以下は、報告からの引用。

以上のごく簡単なことからすぐに導かれてしまう経済学の基本テーゼというのが、ここで資料のほうには「自発的交換は経済厚生を促進する」というちょっと硬い言葉で書きましたけれども、これは一番簡単に言うと、自由貿易が正しい、ということを言っているのと同じです。セミナーの雰囲気とかをあまり考えていなかったので、ちょっと硬めな言葉で書いてしまいましたけれども、これは具体的に言うと、自由貿易はつねに正しい、という話です。
(略)
なぜならば交換を行うときに、そのペットボトルとこのペットボトルをふたりが交換するというのは、お互いが交換したほうがよくなるからでしょ。「交換しませんか?」「あっ、いいですよ」っていう話です。前もって自分の満足度が下がるとわかっているのであれば、そんな交換に、「うん」とはいわないわけなんですよね。
したがって交換というのはつねに当事者双方の効用を上げる、そういう取引しか行われない、もちろんかつての奴隷貿易のように暴力を伴った場合、それは別なんですけれども、財産権っていうのが確立されているなかで行われる交換っていうのは、いつでも両者にとって得である。

「お互いが交換したほうがよくなる」場合でないと交換が行なわれることはない(損をする人がいるなら交換を拒否する)から、交換は常に両者の状況を良くする、少なくとも両者とも状況が良くなると予想したうえで交換を行なう。これは、論理的に言ってまったくその通りだろう。もちろん、両者のあいだに力関係なんかがあったりして、どちらか一方が他方よりたくさん得をすることはあるけれども、比較的弱い立場にある側も、交換に同意しているのであれば必然的に、交換しなかった場合に比べれば少しは得をしている。これは飯田さんだけでなく、ほとんど全ての経済学者の共通認識だ。
ところがそれに対し、先進国と途上国の貿易においては、途上国の側が一方的に搾取されていき、先進国はますます豊かに、途上国はますます貧しくなるという主張もある。そうした主張−−「従属論」と呼ばれる−−に対して、飯田さんは次のように反論する。

たとえば、これは非常に概念的なんですけれども、たとえば羊羹があったとしましょう。これが取引の利益という羊羹なんですね。これをたとえばA国とB国ってとりわけていく。このとき情報格差によって羊羹の取り分は変わってくる。これは確かなんです。
しかし,この貿易から生まれる豊かさを分けるとき、分け方がものすごく不平等になったとしても、A国、B国ともに、もとよりはよくなっているっていうのが一番単純な答えだと思います。つまり、いい果実の部分の取り分、配分の問題は生じて、それが平等か平等じゃないかはわからないけれども、仮にこれがまったくなかったときと比べてどうかというと、まったくなかったときよりは改善されているはずだ、というのがひとつの答え。
もうひとつの答えが、これが、従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない部分ではあるんですが、昔はある国、たとえばある旧植民地国がアクセスできる先進国っていうのは、ひとつしかなかったんですよね。元宗主国.そうすると、B国が植民地国家だとしましょう。一方A国は、イギリス、フランスみたいな旧宗主国だったとしましょう。旧宗主国側の企業,とくに公社が独占的な買い手になることでさっきの羊羹の取り分を圧倒的に宗主国側に有利に決定する。
昔は、こういうことをやられちゃったんですけれども、現代ではこういう状況というのは非常に起きにくい。なんでかというと、アメリカがB国に対して、アメリカだけに有利な取引条件を押し付けていると、横からフランス、ドイツ、日本だのの会社が入ってきて、「うちならもうちょっといい条件でやってあげますよ」っていってしまう。
そうするとアメリカも、いくら有利な取引条件といっても、外国のほかの企業にもっていかれちゃったら元も子もない。「それじゃあ、うちはもうちょっと有利な」っていうふうに途上国側企業に利益を譲るようになる。企業間の競争——おせっかいにも、といいますか、もっと有利な取引条件を提示してくれたり、またはたとえば、これ全部自動車の会社だとしますと、GMの言ってくる取引条件や情報はめちゃくちゃだから、「うちが正しい情報を教えてあげよう、で、うちと契約しましょう」っていう方向に進むので、もともとこの不公正の問題というのもあまり起きにくい。
やはり従属論がひとつの根拠をもったのは、とくにアフリカに対しては、その旧植民地国にアクセスできる国というのがほぼひとつ、要するに、旧宗主国オンリーだったので、その時代は多少意味があったのかもしれない。しかし,取引相手があまり特定の国の特定の企業に限定されないとこの問題は雲散霧消してしまう。これがある意味、競争、競合のよいところになるわけなんです。

ここでわたしが注目するのは、どうして「従属論」は間違っているのかという部分ではなく、逆に飯田さんが「従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない」とした部分だ。正直言って、どうしてこれが「従属論にもある程度の根拠があるといっていえないことはない」例になるのか分からない。
飯田さん(だけでなく大半の経済学者)の議論によれば、取り引きによって生まれる利益=羊羹を切り分けるときに、分け方が「ものすごく不平等になったとしても」、どちらも少なくとも「まったく(取り引きが)なかったときよりは改善されているはず」だという。ところが、過去には従属論にも少しは根拠があったと言う文脈では、アフリカの旧植民地国(の個人や企業)は事実上旧宗主国(の個人や企業)としか交易が行なえなかったために、「羊羹の取り分を圧倒的に宗主国側に有利に決定する」ことがあった(しかし現代ではそういうことはあまりない)、従って当時においては従属論もまったく無根拠ではなかった、と書いている。これはおかしい。
もし「ものすごく不平等になったとしても」羊羹の切り分けが行なわれる限り「まったくなかったときよりは改善」されるのであれば、その論理は旧宗主国側が「羊羹の取り分を圧倒的に宗主国側に有利に決定」した時代でも、そのまま通用するはずだ。つまり、仮に旧宗主国としか取り引きできなくて、そのために圧倒的に不利な切り分けを受け入れるしかなかったとしても、それでも「貿易は旧植民地国にとって有益」であり従属論ははじめからずっとまったく無根拠だというのでなければおかしい。つまり、もし仮に「従属論は現在において間違っている」のであれば、旧植民地国が独立した直後においても従属論は間違いだったはず。逆に、もし当時の状況において従属論にも根拠があったのであれば、現在にもさまざまな力関係や不自由を理由とした不公平な「羊羹の切り分け」はあるのだから、従属論はいまだに有効だと言わなければおかしい。
従属論だけではない。飯田さんは上の引用部において「自由貿易はつねに正しい」と言ったあとで、「かつての奴隷貿易のように暴力を伴った場合」はその範疇に含めないとしているが、それだって実はおかしいのではないか。たとえばある人が奴隷として労働を強いられていて、逆らったりさぼったりすると体罰を受けたり殺されたりするとしよう。その人は、明らかに自由意志を奪われているが、しかしそこにはまだ「逆らうか従うか」という選択肢が残っている。従うことを所有者との「取り引き」と考えると、従うことで命が助かるし痛い目をしないで済むわけだから、取り引きが行なわれなかった場合に比べて奴隷は利益を得ている。所有者の側も、奴隷を殺しても何の利益もないわけで、命令に従って労働してくれた方が利益になる。このように、究極に不自由な状況としか考えられない奴隷制のもとでも、取り引きが「選択」されている限り、取り引きが行なわれなかった場合に比べて双方が利益を得ていると言える。
もう一つ極端な例として、ある人が別の人に暗闇で銃をつきつけて「命がおしければ財布を寄越せ」と脅迫した場面を考えてみる。この場合も、自由意志に基づく自己決定権が保証されているとは到底言えないが、「言われた通りに財布を出す(取り引き)か、抵抗する(取り引きに応じない)か」という選択肢がある。抵抗して銃で撃たれて死ぬことに比べれば財布を失うだけで済む方が被害者にとって利益になっているし、犯人にとっても財布を奪うために人殺しなんてしない方が良いに決まっている。この場合でも、やはり「取り引き」は「当事者双方の効用を上げる」ことに違いはない。
では、どうして経済学者たちは「従属論にも過去には根拠はあった」とか、「奴隷制度は含めない」とか、「財産権が確立されている限り」とか、「自発的」でなければいけないとか、いろいろ制約をつけたがるのだろうか。旧植民地、奴隷制、強盗犯の三つのケースを見る限り、どんなに不公平で不自由な状況であっても、交換するかどうかの選択が許されてさえいれば、「交換は常に当事者双方の効用を上げる」と言えるはずなのに! より広い現象を説明できるはずの理論を持ちながら、その適用範囲をわざわざ狭める理由がどこにあるのだろうか?
その謎を解く鍵は、飯田さんがこの報告で何度も繰り返す、「自由貿易は(つねに)正しい」という言葉だ。これまでの話では「自由貿易は、それがなかった場合に比べれば、当事者双方にとってより良い結果をもたらす」ということは十分に示されたと思うが、それが「正しい」かどうかはまた別の問題だ。何が正しいかという問いは、論理をたどれば誰でも自動的に同じ結論に辿り着くような問題ではなく、それぞれの価値観や倫理観によって判断が変わる、政治性を帯びたものだ。にもかかわらず、多くの経済学者は「自由貿易はつねに正しい」という主張を疑おうとはしない。そこには、「当事者双方にとってより良い結果をもたらす」ような取り引きは「正しい」のだ、という暗黙の前提が見出せる。こうした暗黙の前提のことを、イデオロギーと呼ぶ。
しかし、このイデオロギーは脆弱だ。なぜなら、上で挙げた植民地経済の例、奴隷労働の例、強盗の例などについて考えると、自然とわたしたちはそれらが「双方に利益をもたらす」、だから「正しい」のだ、という結論を下すのに躊躇するからだ。「いや、それらの例は適切ではない、当事者の一方によって不公平な構図が作り出されているではないか」という反論があるだろうが、強盗に銃を押しつけられることと、貧困によって選択肢を奪われることが、過酷な選択を強いられる側の人間にとってそれほど違うとは思わない。わたしが問題としているのは、取り引き以前にあって取り引き内容をあらかじめかなりの部分規定するさまざまな社会的・経済的・政治権力的な格差を、所与の前提として扱おうとする、歴史と文脈の忘却だ。
こうした忘却のもとに、経済学者の全てではないにしても、政治的な保守派あるいはネオリベ派と呼ばれるような経済学者は、さまざまな倫理的・政治的に論争を呼んでいる問題について、それがかれら自身の倫理的・政治的な立場であることを隠したうえで、まるで経済学に従えば自ずと正解を導き出せるかのようにふるまう。そうした問題には、たとえば次のような問いが含まれる。
1)労働者が劣悪な環境で長時間労働させられている工場で作られた製品を購入するのは「正しい」か?
2)先進国が途上国にお金を払って有害あるいは危険な廃棄物を引き取ってもらうことは「正しい」か?
3)生体移植を必要とするお金持ちが、貧しい人から臓器を買い取るのは「正しい」か?
4)医学の進歩のために貧しい人や途上国の人にお金を払って人体実験するのは「正しい」か?
ネオリベ的な経済学者は、労働者やその他の貧しい人たちが物理的な暴力によって強制されたり脅迫されていない限りにおいて、またかれらがその危険性について正しい情報を得られる限りにおいて、これらの「取り引き」に「同意」する権利を認めるべきだ、と主張する。なぜならそうした取り引きは、それが成立しなかった場合に比べれば、貧しい人たちの生活を少しばかりは向上する−−もししないのであれば、取り引きそのものが起こらない−−からだ。しかし、多くの人は、これらの問いにあっさりと「正しい」と断言するのには躊躇すると思う。
と同時に、単純にこれらの取り引きを禁止することが、世界のもっとも貧しい人たちが少しでもよりマシな生活をするための手段を奪うことになることも、少し考えれば分かるだろう。ネオリベ的に無制限に「自発的な」取り引きを認めるのも、認めないのも、どちらも「正しい」結果をもたらさない。それは、ネオリベラリズムが所与の前提としてまったく無批判に受け入れる「この世界における圧倒的な経済格差」そのものが不正義だからだ。不正義な前提のもとでは「正しい」結論ではなく「よりマシな」結論しか導き出せない。にもかかわらず、そこに「双方の効用が向上するのだから、その取り引きは正しい」というイデオロギーを押しつけるのが、ネオリベ論者の論法だ。そしてそのすり替えを成り立たせるためには、誰が見ても明らかにおかしい奴隷労働や強盗のケースをあらかじめ除外して話をする必要がなる−−植民地主義については、その境界上のことなので混乱が起きているのだろう。
ネオリベ論者は、「羊羹の切り分けに際して、力関係などを背景とした、利益の不公平な配分がありうる」ことを認める。それは植民地時代にもあったし、現在でもある。そのうえで、それでも交易は双方にとって有益なのだ、と主張する。かれらは、交易におけるそのような「不公平」の存在を認めることで、まるでわたしたちが上記のような「取り引き」に直感的に感じる不快感の原因がそこにあるかのように偽装している。その影で、圧倒的な経済格差という、本当の不正義が隠蔽されている。「植民地主義の影響で、不公平な配分があり得る(が、いずれにしても双方の利益になる)」と言うとき、植民地支配そのものの不正義は忘却されている。
無論、飯田さんはネオリベ論者だとは思わないし、そうした効果はかれが意図したものではないと思うけれども、経済学でスタンダードとなっている認識を経済学の語彙で説明しようとすると、どうしても主流派経済学に内在するイデオロギーがまるで客観的事実であるかのような、あるいは工学的に「有効」であることが倫理的に「善」であるかのような「語り」に巻き込まれてしまう。だから政治的にリベラルな人や左翼的な人にとって、経済学の理論や概念を学ぼうとしても「ネオリベの主張に、それらしい理屈をつけただけ」に見えてしまうのだけれど、それは経済学にとっても政治的リベラルにとっても不幸なことだ。
そういうわけで、これから不定期連載をやりながら、ちょっと「政治的リベラルのための経済学の使い道」を考えてみたいと思う。

14 Responses - “経済学S1/自由貿易−−「現状をよりマシにすること」と「正しさ」の違い”

  1. okemos Says:

    どもです。経済学がらみということなので三つほど。
    まず第一に、奴隷貿易・奴隷労働は置いといてという話になるのは、それが現在の日本やアメリカにおける支配的イデオロギーにそぐわないからです。奴隷貿易・奴隷労働は悪とされる以上、経済学において取引の利点全般を説明する時にも、それらを認めるような事はしませんよというエクスキューズを置く必要があるんです。ここにあるイデオロギーは、経済学界のものではなく、余りにも自明なために透明になってしまっている奴隷制は悪というイデオロギーだと思いますよ。そして俺は現在の支配的な民主・人権思想におもねっている人間なので、その事に全く何の問題もないと思っています。
    第二もそのイデオロギーがらみです。経済学で何かが正しいという場合、それは厚生の向上がある、という事ですが、それを言う為には比較を行う基準の時点が必要になります。奴隷状態にすでにあったり、強盗によって頭にすでに銃を突きつけられているなら、macskaさんがおっしゃるように従う事が双方の取引関係者の利益になるでしょう。しかし、上でも書いた日本やアメリカの支配的イデオロギーは普通、比較開始時点としてそんな状態を選ぶ事を許容しません。そうすると、たとえば通行人が、強盗を目論む者と、被強盗状態となる取引を自主的に許容する事は(普通は)ありませんから、この時点で経済学の前提である自主的な取引に反します。
    三つ目ですが、macskaさんは取引が行われる際の所与をどこに置くのかの問題について触れられていると思います。外部性の問題がなく市場が効率的な結果を実現できる場合でも、それはあくまで所与の条件の元での効率性ですから、始めの時点での格差は大きな意味があります。ですので、現在の格差を所与のものとするなというのには同意します。ですが現在の問題の原因は過去にあるというのは正しくとも、じゃあ宇宙開闢のビックバンまで遡りましょうとなるはずもなく、となると過去のどこかを基準として選ぶことになりますよね。そうすると、これは以前、「北米社会哲学学会報告1/性的指向、ホモフォビアと、ディスオリエンテーションの可能性」についてmacskaさんが書かれた際にブクマしたこととも関わりますが、無限に選べる歴史の中の各時点のうち、どこを選ぶんでしょうか?もしくは特定の時点を選ぶ必要はない、ただ過去に不正(と現在のイデオロギーでみなされる事)があったことが十分だと?ではその場合、何が、そして特にどれだけ、行われるべきなんでしょうか?正直これは、普通の経済学者には手に余る問題です。ですので、一般的には現状を基準とすることを選ぶわけです。そのうえで、再分配などの手段で、現状のイデオロギーが許容するレベルまで問題の是正をはかる。ある意味逃げていると捉えられるかもしれませんが、昔サミュエルソンがいったようにイデオロギー間の争いという「神々の争い」には関わらないというのは、しかたのない処世術であることは多いと思います。

  2. Says:

    すいません、まだ少ししか読んでいないのですが、触発されて、失礼を承知でちょっとコメントしたくなりました。
    羊羹の例えで言うなら、お茶のあてに羊羹をついばむことができる時、羊羹が嫌いでないなら、どんなにわずかでも羊羹をついばんだ方がよい(羊羹が嫌いなら、お茶だけすすっていてもよい。)。羊羹が食べられないだけでなく、お茶が水になると残念ではあるが、喉が渇いているなら、水がのめるだけでも、(渇きの状態と潤いの状態を比較すると)満足である。そういうことですかな?
    経済学は難しくてよくわかりませんが、序数的にしか捉えられないんじゃなかったかな(AとBがある規則に従い比較可能で、いつでも、AよりBが、この程度、よいと言える。)。
    飯田さん好きだよ。良い議論が良い果実を生むことを期待して。
    (素人は囃し立てるしかできなくて、申し訳ありません。)

  3. macska Says:

    okemosさん、コメントありがとうございます。
    三点とも、まったくもっともな話で、その通りです。そのうえで何でわたしがこのような問題提起をしているかというと、ネオリベ系の経済学者たちは、誰が見ても問答無用に悪としか思えないような例(たとえば奴隷労働)については「それを認めるわけではない」とエクスキューズを置いておきながら、近年の技術革新やグローバリズムの進展によって新たな問題として浮上してきた、そこまでの悪だという判断がまだ社会的に確定していない範囲の問題については、積極的に人権の範囲を後退させるような「政治的な」主張を、経済学という学問によって示される「正しさ」にすり替えて提示するからです。文中にあるような、スウェットショップ労働、公害輸出(ラリー・サマーズが世銀チーフエコノミストだった時にこれを提唱してましたね)、臓器売買、そして人体実験といった問題が、その例に当たります。

    ですので、現在の格差を所与のものとするなというのには同意します。ですが現在の問題の原因は過去にあるというのは正しくとも、じゃあ宇宙開闢のビックバンまで遡りましょうとなるはずもなく、となると過去のどこかを基準として選ぶことになりますよね。

    わたしは、過去のどこかを特異な時点として基準として選ぶことは不可能だと思いますし、それが必要だとは思いません。経済学の記述は、okemosさんの言う通り、あくまで「経済学においては」現時点を基準として厚生の向上があるかどうかを計る、という形で問題ないでしょう。
    問題は、そうした経済学における「正しさ」を、政治的な意味での「正しさ」にすり替えることです。引用した飯田さんのセミナーも、経済学における認識の議論をしているのではなく、「政策の問題をしていこうと思います」という文脈で「自由貿易はつねに正しい」と語られています。もしそれがすり替えであるというのが言い過ぎだとしたら、少なくとも聴衆の誤解を招く不用意な発言だと思います。

    ある意味逃げていると捉えられるかもしれませんが、昔サミュエルソンがいったようにイデオロギー間の争いという「神々の争い」には関わらないというのは、しかたのない処世術であることは多いと思います。

    イデオロギー間の争いに関わらないのであればそれで良いのですが、実際には、学問的真理を掲げつつ身体や健康を市場に乗せる方向に社会を誘導する、という形で政治的なふるまいをするネオリベ経済学者が多いので、わたしはそれを批判しているのです。経済学や経済学者一般を批判しているつもりはありません。
    「み」さん、
    少ししか読んでない状態ではお話にならないので、コメントするのはできれば全部読んでからにしていただけないでしょうか。

  4. brother-t Says:

    >ネオリベ的な経済学者は、労働者やその他の貧しい人たちが物理的な暴力によって強制されたり脅迫されていない限りにおいて、またかれらがその危険性について正しい情報を得られる限りにおいて、これらの「取り引き」に「同意」する権利を認めるべきだ、と主張する。
     少なくともこれは正しいのではと感じます。本当に「正しい情報が得られ貧しい人たちがそのリスクとをきちんとふまえたうえでの主体的な判断がなされる」のであればと言う但し書きがつけばですが。
    >こうした忘却のもとに、経済学者の全てではないにしても、政治的な保守派あるいはネオリベ派と呼ばれるような経済学者は、さまざまな倫理的・政治的に論争を呼んでいる問題について、それがかれら自身の倫理的・政治的な立場であることを隠したうえで、まるで経済学に従えば自ずと正解を導き出せるかのようにふるまう。
     多分間違っているのはこっちの方、何よりもmacskaさん自身と違和感を感じているリベラル派の人たちはそれ以上に間違っているのが客観的な正義や正解があると言う事なのではと感じます。ただmacskaさんの経済学では理屈は出てくるのですが世界像のようなものが殆ど感じられないような気がします。何故ネオリベの人たちが悪の筈の「自由貿易」を肯定するのか、多分今の世界は「豊かだが高齢化し、経済成長が停滞している先進国」と「貧しいが若く経済成長が盛んな途上国」と言う構図があって「先進国の豊かな生活」を守っていくのはそれこそ豊かになる為に「劣悪な環境下での長時間労働」も「有害廃棄物の引き取り」も「臓器売買」も「人体実験」も辞さない途上国の成長力と上手く付き合っていくしかないと言う判断があるからではないかと感じています。
     そう言った前提条件を考えずに理屈だけそろえても仕方ないような気がするのですがいかがでしょうか?

  5. optical_frog Says:

     こんにちは.こちらでは「はじめまして」ですね.
     飯田先生の「自由貿易は正しい」発言が経済学的な“正しさ”を政治的なそれにすり替えている(または誤解させている)とのことですが,それは言い過ぎだと思います.
     第一に,発言の文脈からみまして,これは明らかに「自発的交換は経済厚生を促進する」(したがって貿易政策として正解である)を平たく言い換えたものです.
     第二に,経済学で「政策」を論じるということは,一定の政策目的(価値判断)プラス経済学的な事実の組み合わせで議論するということです.飯田先生の発言の場合,経済学の慣例から政策目的は“社会的厚生の向上”として定義されているととるべきでしょう.
     この2つを踏まえれば,「自由貿易は正しい」という発言が政治的な正しさへのすり替えだという解釈の余地はありません.かりに誤解する人がいたとしても,責められるべきは飯田先生でなくて誤読した読者の方でしょう.ましてその誤読を広めるような言動はつつしむべきです.
     経済学者の政策提言は“政策目的Xには政策Yが有効である”という形式になりますが,だからといって政策目的Xが無条件に正しいと押しつけるものでもありません.価値判断によって政策提言の内容が変わることが経済学の教科書に書かれているのは macskaさんもご存じのはずです.
     また,政策目的が暗黙なのがいけないという議論も場合によってはありうるでしょうけれども,そうした議論が成立するのは対案となる目的が考えられるときです.いまの例であれば,“社会的厚生の向上”にかわる貿易政策の目的をmacskaさんが提案なさるのでなければ,議論のための議論にしかならないかと存じます.
     macskaさんが懸念されているように,議論の余地がある政策目的をあたかも無条件に正しいかのように提示しているケースがあるなら,それぞれ個別に指摘していけばよいのではないでしょうか.

  6. macska Says:

    brother-tさん、

    少なくともこれは正しいのではと感じます。本当に「正しい情報が得られ貧しい人たちがそのリスクとをきちんとふまえたうえでの主体的な判断がなされる」のであればと言う但し書きがつけばですが。

    わたしはそれが「正しい」とまでは思いません。そうした権利を否定するほどの倫理的資本をわたしが欠いている−−そうした取り引きに反対するより先に、もっとやるべき事があるではないか−−とは思いますが。

    何よりもmacskaさん自身と違和感を感じているリベラル派の人たちはそれ以上に間違っているのが客観的な正義や正解があると言う事なのではと感じます。

    客観的な正義や正解があるとは思いませんが、わたしが容認しがたい不公正と考える状態はいまの社会にたくさんあって、わたしはリベラルな立場を自認していますから、不公正を全部無くすことはできないにしても、少しでも和らげていきたいと思っています。一方、ネオリベ論者にもかれらなりの公平観や倫理観があるので、リベラルとネオリベの間では論争が起こります。
    ところが問題は、主流派経済学者の多くがネオリベ的な政治思想の持ち主であるために、まるで経済学を理解すれば自然とネオリベが正しいかのような印象が作られています。一方、リベラルな論者は反経済学とか怪しげな方向に吸い寄せられてしまったりして、経済学はリベラルにとっての武器にもなると思っているわたしとしては、非常にふがいないわけです。

    そう言った前提条件を考えずに理屈だけそろえても仕方ないような気がするのですがいかがでしょうか?

    いやだからですね、「前提条件を所与のものとするな」とわたしは言っているわけで… 所与のものとするなというのは、つまり前提条件−−現状の世界のあり方そのもの−−における不公正の存在にちゃんと気を配るべきだ、ということです。
    optical_frogさんも、コメントありがとうございます。

    飯田先生の「自由貿易は正しい」発言が経済学的な“正しさ”を政治的なそれにすり替えている(または誤解させている)とのことですが,それは言い過ぎだと思います.

    飯田さんについては、かれがすり替える意図でそう語ったわけではないと思います。むしろ、経済学の語彙や思考法に引きずられて、意図せずそういう形になってしまったのではないかと思います。
    しかしそれは、かれが他のところで主張していることや書いていることと総合して見たときに、かれがそういうことを作為でする人ではないとわたしが思っているというだけであって、あの文章を普通に読めば「経済学的には正しいが、それが現実の政策として正しいかどうかとは別の問題である」というようにはとても解釈できませんよ。自由貿易はつねに正しいのだ、ということが、客観的な事実として提示されていますから。

    飯田先生の発言の場合,経済学の慣例から政策目的は“社会的厚生の向上”として定義されているととるべきでしょう.

    そのとおりでしょう。しかしどういう政策目的を設定するかは政治的な課題であって、経済学の外に向けて発言するときに、経済学の慣例だからといってそれを自明な前提とするべきではないと思います。

    macskaさんが懸念されているように,議論の余地がある政策目的をあたかも無条件に正しいかのように提示しているケースがあるなら,それぞれ個別に指摘していけばよいのではないでしょうか.

    それも必要だと思いますが、問題は「一部の経済学者が経済学を悪用している」というレベルではありません。決してネオリベ的な立場に立つわけではない飯田さんのような経済学者ですら、経済学の語彙と思考法を用いることで、それらに潜む政治性に引きずられてしまう、ということを示したかったのです。

  7. 田中 Says:

    >「命がおしければ財布を寄越せ」と脅迫した場面
     この事例は、昔、宮台真司さんがいっぱい行列書いて論じてましたねえ。なつかしい。経験上、「リベラル」な人に反論するときに効果の高い事例であることはたしかですね。
     羊羹の切り分けかたが「正しい」かどうかについては、人は自分の取り分だけでなく全体の分配状況をみて判断するものだという心理学的な実験結果があるという話をどこかで読んだような。このため、多くの人は、実験場面では、経済学的に見て「不合理な」行動をとり、自分の取り分が増えるはずの選択を拒否して、より低い取り分に甘んじるのだとか。

  8. brother-t Says:

    >macskaさん
    >わたしはそれが「正しい」とまでは思いません。
     なるほど、ただ
    >>本当に「正しい情報が得られ貧しい人たちがそのリスクとをきちんとふまえたうえでの主体的な判断がなされる」
     と言う事が可能かどうかはどうでしょうか?多分問題の本質はここにあるように感じられるのですが。
    >リベラルな論者は反経済学とか怪しげな方向に吸い寄せられてしまったりして、経済学はリベラルにとっての武器にもなると思っているわたしとしては、非常にふがいないわけです。
    >いやだからですね、「前提条件を所与のものとするな」とわたしは言っているわけで… 所与のものとするなというのは、つまり前提条件−−現状の世界のあり方そのもの−−における不公正の存在にちゃんと気を配るべきだ、ということです。
     前提条件を考えるのは何も前提条件を所与のものとする為ではなく、ネオリベの人たちが何故ああいった結論に達したかを考察し、それに対抗する為です。何気にかかれていますが「不公正と考える状態」にいる人たちが何故そうでなくても得るのが難しい「正しい情報」を得られるのでしょうか?

  9. 中山 Says:

    はじめまして。optical_frogさんのコメントに少し横入りさせて頂きます。
    α-Synodosの購読者層って人文系についてはリテラシーの高い人が多いと思いますし社会学なんかも詳しい人が多そうですが、経済学や法学なんかはどうなんでしょう。例えば、optical_frogさんのコメントに出てくる「経済厚生」と「社会的厚生」の定義および両者の関係とか、みな常識として知っていると考えて良いのでしょうか(検索すれば出てくるのは分かってますよ)。読者のレベル・予備知識の前提が違っていれば、飯田氏の書き方がミスリードを誘うものなのかそうでないのかだいぶん変わってくると思います。少なくとも義務教育で習うような事柄ではありませんから「誰でも知ってて当然」の知識ではないと思います。
    ちなみに、わたしは購読してない人間であり、経済学の素養もありません(大学でも1単位も選択しなかった)。そして上記の2つの言葉の定義・関係は分かりません。当然、ここで引用された飯田氏の文章を「経済学における正しい=社会的厚生が向上(ないし促進)する」と読解することは出来ませんでした。これでも私は博士号持ってるんですけどね(自嘲)。
    私はアホに合わせろと言いたいのではありませんが、飯田氏は一般向けの書籍も多数書いており語り口も柔らかなので、「正しい」なんて日常語彙は日常と同じ用法と受け取られる可能性もかえって高くなってしまうのではないでしょうか。

  10. optical_frog Says:

    > 中山さん
     こんにちは.
     経済学の知識・素養を脇においても,まさに人文的なリテラシーによって,「すり替え」や「イデオロギー」だという読み込みを“控える”または“保留する”ことはできると思うんですよ.
     と言いますのも,先のコメントで書きましたように,この発言は他でもなく日常的な表現へのラフな言い換えとして出てきているのが文脈からはっきりしていますので.
     もちろん,日常のことばに近づけたためにあいまいさがでているのは確かです.
     macskaさんは,そのあいまいさが何か暗黙のもの(「イデオロギー」)を表しているとお考えになっているのに対して,ぼくは文意があいまいなら判断を保留する方がよいという立場です.また,協調的に読めば誤解の余地はないと考えています.
     他の「ネオリベ的」経済学者のケースではどうであれ,具体的にこの発言には問題はないと思います.
     ひとまずこれがぼくの思うところです.ご指摘へのお返事になっているとよいのですが.
     最後になりましたが,たびたびお邪魔して失礼しました > macskaさん

  11. macska Says:

    田中さん、

    この事例は、昔、宮台真司さんがいっぱい行列書いて論じてましたねえ。なつかしい。

    それは知りませんでした。どんな論旨だったんでしょうか?

    羊羹の切り分けかたが「正しい」かどうかについては、人は自分の取り分だけでなく全体の分配状況をみて判断するものだという心理学的な実験結果があるという話をどこかで読んだような。このため、多くの人は、実験場面では、経済学的に見て「不合理な」行動をとり、自分の取り分が増えるはずの選択を拒否して、より低い取り分に甘んじるのだとか。

    それは、さまざまなアンケートでも、行動経済学的な実験でも、確認されていますね。
    一般論として、わたしたちは現状よりはもっと「合理的に」になった方がいいと思っています。保護貿易主義で両方損するよりは、多少自分の側の方が利益の分配が少なくても、自由貿易によって全体のパイを大きくした方がいい場面って多いと思うんです。
    でもそれは、「現状では不公平な取り引きでも受け入れた方がマシ」と言っているだけであって、それが不公平である事実から目を逸らしてはいけないと思います。自由貿易が「双方の厚生を向上する」ことを「正しい」と表現するのは、やはりその不公正を黙認することになると思うのですね。
    brother-tさん:

    >>本当に「正しい情報が得られ貧しい人たちがそのリスクとをきちんとふまえたうえでの主体的な判断がなされる」
     と言う事が可能かどうかはどうでしょうか?多分問題の本質はここにあるように感じられるのですが。

    鋭いところをついていると思います。モデルとして成立する論理だけれど、まったく現実味がないわけですよね。もちろん単純化されたモデルを使うことで経済学はさまざまな成果をあげているわけですが、それが現実社会における人々の決定を正しく描写していると勘違いしないようにしないといけないと思います。
    optical_frogさん:

    他の「ネオリベ的」経済学者のケースではどうであれ,具体的にこの発言には問題はないと思います.

    問題があるかないか、擁護できるかどうかというだけの話であれば、「問題はない」という立場にもそれなりの言い分があると思いますが、わたしが飯田さんに抱く期待水準というのはそれより上なのです。あいまいなら判断を保留するというのも一般論としてはそうかもしれませんが、わたし的には飯田さんにはネオリベ的に解釈可能な部分を明快に断ち切って欲しかったです。
    ていうかそもそも、あくまで「双方の厚生を向上する」の言い換えであってそれ以上の含みは全くないと言うなら、どうして奴隷契約の話はそこに入らないとか、植民地独立直後の頃には従属論にも正当性があったとか言うのかなぁ… それらも含めて「正しい」と経済学者が言うのであれば、その「正しさ」は政治的・道義的なそれとは関係ないという説明を素直に受け入れられるんですが。

  12. Says:

    難しいお話なので、とりあえず、マルクス嫌いの僕が、『コミュニタリアン・マルクス』(青木孝平,社会評論社,2008)を読み始めました。(ちなみに、エントリ「わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由」も拝見しました。)
    『資本主義のための革新』(小室直樹,日経BP社,2000)も読んでいるけれど、そういうことかな。

  13. bemwero Says:

    はじめまして。目からうろこがおちるような気がしました。
    ただ、アフリカ諸国でIMFによる構造調整の押し付けが何をもたらしたかを見るにつけ、「現状では不公平な取り引きでも受け入れた方がマシ」という理屈で取引を受け入れることが、「不正義」そのものである「圧倒的な経済格差」を補強・増幅することになってしまう悪循環を進行させてきたという現実にも気づかざるをえません。本当に「マシ」と言ってよいのか疑問に感じました。

  14. anomalocaris Says:

    飯田さんが従属論に関して語ってる内容を理解できてないと思われます。
    飯田さんが前段で語ってる内容は自由な交換がパレート最適になるということの説明ですが、後段で従属論に一定に意義を認めてるのは独占と言う問題があるからです。
    買い手独占の場合、競争均衡で決まるよりもより低い価格で取引が成立します。
    この買い手が売り手に対しより利益を得るという意味で不公正と言えるのは競争均衡を前提にしてのことなんです。
    例えばある商品が1社だけによって供給されているとすれば、その企業からしかその商品を買うことができなくなります。
    その価格は競争均衡価格よりも高くなりますが、その企業からしか商品を購入することができないので購入しないよりも購入することのほうが両者の効用を高めるといえますが、競争価格と比べると買い手がより少ない利益を得るという意味で不公正だと言えるのです。
    あと自由な交換によって得られる利益(パレート最適)について奴隷制や強盗について例を出してますが、自分でも気づいてると思いますが的外れです。
    奴隷や強盗はまさに自由な交換ではなく強制による取引です。
    これは奴隷にされる人や強盗される人が、奴隷にされることによりまたはごうとうされることにより、そうでない場合に比べて明らかに両者のマイナスの効用は増大します、そうなると奴隷にする側や強盗する側の効用が増大しようが社会全体として効用が増加しているとはいえません。
    それであなたの変な想定ではない労働者の劣悪な労働条件や臓器売買や有害な廃棄物の移転に関してですが、これらの取引がなされた場合、契約者双方の効用は増大するといえます。
    それが意味することは劣悪な労働でも働けなかったり、臓器を売れなかったり、有害廃棄物を受け入れないほうがより効用が減るということなんです。
    一方この契約がなされないことによりその貧しさが少しでも緩和されるわけではない。
    要はあなた方がこれらの政策を禁止したとすると、貧しい人々の効用を減らすだけになります、それは強盗や奴隷制がなくなることによる効果とまったく異なってます。
    もちろん経済学者でも臓器売買や廃棄物の売却や人体実験を認める人は少ないでしょう、パレート最適は絶対に従わなければならないというものではないからですが。

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