わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由

2008年1月29日 - 1:16 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

最近、このブログのコメント欄や別ブログの方でちょっとくだらない議論をいくつかやってしまったのだけれど、その中でわたしのことを「左翼」と決めつける人がいたり、また別の人が「左翼とは思わない」と書いたりと、わたしの政治姿勢そのものが議題となった。また、どちらのブログにおいても経済学に関連した話題を取り上げることが最近増えており、なぜフェミニズムやセクシュアリティなど社会的公正の問題を中心的に扱っているブログにこうして経済学の話が頻出するのかと疑問に思っている人もいるのではないかと思う。本来わたしがどういう思想の持ち主であっても言っている内容を議論するのに関係ないだろうとは思うのだけれど、左翼フェミニストだから云々と「隠れた意図」まで想像されてあれこれ言われているようなので、今回はそのあたりを以前にも軽く取り上げた Thomas Sowell『A Conflict of Visions: Ideological Origins of Political Struggles』を参照しつつ説明してみたい。古い本だし邦訳も出ていないようだけれど、スティーブン・ピンカーが著書で引用していたりするので知っている人もいるかもしれない。
Sowell が解明しようとするのは、教育や税制や外交や軍事などさまざまな政治的・法的課題をめぐるさまざまな論争において、それぞれの問題の間には特に直接の繋がりがあるとは思えないのに、どうしてある問題で同じ意見を持つ人たちが、他の問題でも同じ陣営にまとまることが多いのか、という問題だ。たとえば、福祉を拡充すべきか削減すべきかという問題と軍事的に強硬路線を取るべきか協調路線を取るべきかという問題では、予算配分の優先度という程度の繋がりはあっても、ある一方の問題における立場を決めれば他方の立場も決まるというような論理的な関係にはない。しかし現実には、福祉を拡充すべきだと主張する人は軍事的には協調路線を、福祉削減を主張する人は軍事的な強硬路線を主張することが多い。
そうした傾向の存在は、二大政党制において政策競争の必要上自然に作られる対立軸なのだという考え方も成り立つが、そもそもどうして二大政党制が成立したのかを考えれば疑問を解消したことにはならない。「女性の権利を主張するなら、環境保護にも積極的でなくてはいけなくて、平和主義を主張しなければならない」(あるいは「北朝鮮の脅威を訴えるなら、愛国的な歴史教育にも積極的でなくてはいけなくて、ジェンダーフリーを批判しなくてはいけない」)みたいな政策セットの押し付けは左翼にも右翼にもあるけれども、そうした押し付けを行なう左翼や右翼が存在すること自体、なにか別の理由があるはずだ。
Sowell は過去数世紀の欧米政治思想史を遡りつつ、そうした左翼と右翼ーーと言うより、進歩主義と保守主義と言った方がいいーーの対立の由来を、それぞれの陣営が前提とする根本的な人間観・世界観の相違に求める。かれによれば、進歩主義の土台には人間の限りない可能性を信じる「非束縛的」価値観があるとし、政治的・経済的環境さえ正しく整えれば人々はより優れた存在へと向上できるーーそして、そのことによってより幸福になれるーーという信念を持つ。逆に保守主義は人間は生まれつき与えられた能力や性質に制約されているとする「束縛的」価値観を前提とし、人々を向上させることではなく、それぞれの能力や性質に応じて人々を適切に配置することが政策的目標となる。
「非束縛的」価値観は必ずしも革命思想を帰結しないけれども、それと親和性が高いのは事実だ。革命思想というのは、政治的・経済的な環境を変化させることにより、社会的問題の根本的解決をはかろうとする考え方であり、その実施の過程で起きるさまざまな問題や矛盾は、革命の成就によってもたらされる大きな成果と比べればたいして重大ではないとされる。一方「束縛的」価値観においては問題の「根本的な」解決などというものはあり得ず、政治的・経済的な変化には必ずなんらかのトレードオフ(二律背反関係)が生じる。その頃ぼくらはそれが世界の真実だと信じていた…ってそれは関係ないけど、世の中は複雑なのでトレードオフが何であるのか明らかな場合ばかりではないし、どのような目的であればどれだけのトレードオフを許容できるかは政治的な論議が必要な課題であり、正しい目的のためだからといって自動的に政策的介入が正当化されることはない。
フェミニズムに限らず活動家業界というのは、基本的に非束縛的価値観があたりまえの前提のように共有されている空間だ。もちろんそれは基本的に「左翼」の方が多いわけだけど、一般的に「右翼」と呼ばれるような保守思想を掲げる活動家たちも実は主張の中身が違うだけで、伝統的には進歩主義の側に多い非束縛的価値観を前提としていたりするからややこしい。とにかくわたしは、性暴力の被害者を支援する運動に関わったことからそういう活動家業界に入ったのだけれど、どうしてもその文化に馴染めない部分があった。それを一言で言うなら、「正しい動機」を元に「正しい目的」のために異論を排除したり必要なプロセスを省き、ある不公正を是正するための行動が別の不公正を生み出している可能性に無頓着な活動家たちの傲慢さだ。もちろん全ての活動家がそうなのではなく、尊敬できる活動家にもたくさん会うことができたが、団体や運動というレベルになるとどうしてもおかしなことばかり横行してしまう。
わたしがそうした違和感を感じたのは、もともとは思想的な分析によってではない。それは、たまたまわたしが、白人社会におけるアジア人というマイノリティであり、クィアであり、活動家業界のどこにも「自分と同じ人たち」ばかりが集まる居場所を見つけられなかったことに関係していると思う。どの運動にいても自分はマイノリティだという経験をずっと繰り返すと、最初は違和感を感じる自分がおかしいのではないかと思うものだけれど、次第にそうした運動のあり方の方が問題なのではないかと気付かずにはいられなくなる。そういう意味では、わたしがブログで再三行なっている「運動体における共同体主義」批判は、自分の個人的な体験から出発した立場であると言っていい(そしてわたしはもともとの動機というか契機がそのようなものであることを自覚したうえで、それが公共性をもつ妥当な政治的主張だと考えている)。
わたしのことを「左翼フェミニスト」と決めつけて批判した人は、左翼やフェミニストは口先で正義を語りながら実際にはこんなに腹黒い奴らだみたいなことを言っていたのだけれど、わたしが思うに問題はその逆だ。腹黒いだけの連中なら、利害によってはどちらにでも転ぶわけだから、まだ行動を予想・コントロールしやすい。問題なのは、活動家業界では「正しい動機」「正しい目的」が現実的なコスト計算やトレードオフの分析を押し退けて、ある行為の正当性の根拠とされてしまいがちなことだ。「左寄り」の読者にも分かりやすいように「右翼活動家」の似たような例を挙げると、石油利権による利益だけを狙う腹黒いブッシュ大統領と、中東の人々を圧政から解放して民主主義を導入することを本気で狙う理想主義者のブッシュ大統領のどちらが世界にとってより危険か、考えてみれば分かるだろう。
わたしが経済学(というか、米国において主流であるいわゆる新古典派経済学)に魅力を感じるのは、それが活動家業界における「正しい動機」「正しい目的」の横行を解毒するのに有効だからだ。なにしろ経済学によれば、市場がうまく働いていない特有の事情がない限り、社会問題を解決するために政府が何らかの政策を実施することは、基本的に経済の生産性を犠牲にすることになる。そこにどんな「正しい動機」「正しい目的」があろうと関係ない。生産性向上というと「労働者を低賃金で酷使する」みたいな冷酷な響きがあるけれども、生産性を高めることによって経済が成長し、人々の暮らしを豊かにできる(可能性ができる)のだから、一概に否定できない。それを承知のうえで、それでも看過できない不公正をただすために政府が介入するのであれば、それがどういうトレードオフをもたらすのか冷静に分析・論議したうえで、民主的な決定に委ねるべきだと思う。(民主的な決定というところだけを読んで「当たり前だ」と思うかもしれないが、わたしが言う民主的な決定とは冷静な討議を尽くしたうえでの評決であり、数の論理で持論を押しつけるのとは違う。)
経済学者の Sowell は当然保守派であり、政府よりも市場を信頼している。だからこの本を読んでいても保守主義の前提である「束縛的価値観」の方がより魅力的に描写されているような気もするのだけれど、わたしは読みながら「進歩主義のことを悪く言いやがって」と反発するのではなく、かれの言う「束縛的価値観」の方に強く共感した。そしてかれだけでなく、世界のさまざまな不正義や不公正の是正を心から願いつつも、左右双方の活動家業界が主張する短絡的な解決策から距離を取り、より現実的なトレードオフを政策として提示する経済学者たちに共感する。
もちろん現実には、単に進歩主義の短絡さを嗤うだけで、じゃあ自分ならどのようにして不公正を是正するのかというヴィジョンを持たない経済学者も多い。たとえば昨年出た本に『The Myth of the Rational Voter: Why Democracies Choose Bad Policies』(Bryan Caplan) というのがあって、タイトルを直訳すると「合理的な有権者という神話/なぜ民主主義は駄目な政策を選択するのか」となるけど、要するに有権者は経済学を理解しないバカばかりで、経済学から見れば明らかにおかしい経済政策をやたらと支持している、という内容。まぁ事実その通りなんだろうとは思うけど、どうして「おかしい」経済政策がそれほど支持を集めるのか、ただ単に「有権者が偏見を持っている」と言うばかりじゃ解決しないと思う。第一、Caplan は文中で「有権者は自分の一票で政策が変わることはないと分かっており、従ってどの候補に投票しても個人的なコストが生じないので、自分が持っている偏見を肯定してくれる候補に入れることで感情的に満たされている」とも分析していて、それは有権者として十分に「合理的な」行動じゃないかと思うんだけど、あのタイトルはなんなんだろう。さらに言うと、かれは「駄目な政策」をめぐり有権者の責任を問う一方で、その駄目な政策を掲げる政治家については「有権者の支持を得なくてはいけないのだから仕方がない」と免責していて、著者自身の「大衆」に対する偏見を露呈している。(ていうか、一般市民に学術的な見解をきちんと説明できない経済学者の責任はどう考えているのか。)
わたしのことを左翼だとか共産主義者だとか決めつける人がいて、まぁ定義によっては別に左翼でも構わないと思うのだけれど、どういう部分がどのように左翼なのかきちんと説明してもらえた覚えがない。ただ単にマイノリティの権利に肯定的だからとか、日本軍の戦争責任を追求するから左翼だというのは、はじめの方に書いた「女性の権利を主張するなら、環境保護にも積極的でなくてはいけなくて、平和主義を主張しなければならない」という政策セットの押し付けの裏返しでしかないように思う。てゆーか「左翼」はともかく、「共産主義者」というのはいくらなんでも違いすぎるだろう。
で、一応わたしの政治的な立場は「リベラリスト」ということにしているのだが、わたしの周囲にはなぜかアナキスト(無政府主義者)とか社会主義者とかラディカルな人が多く、その中で「リベラル」とは体制内改革派・同化主義者として唾棄すべき対象みたいな扱いを受けているから、わたしのことを同類だと思い込んだ人はわたしがリベラルを自称することを知って驚くことが多い。で、市場経済を支持すると言うとさらに驚かれる。ある時なんて、カリフォルニアのアナキスト団体連合みたいな組織が「州内10数カ所にある各地のアナキスト団体を廻って連続講演をやって欲しい」みたいに言ってきたのだが、その代表者と電話で一度しゃべったきり、その話は「なかったこと」になってしまった(アナキストと10連続論争なんてなかなか機会がないので楽しみにしてたのだが)。でもわたしにとってリベラリズムとは体制との関係でどの位置に立つかなんてことではなく思想的な立場のことだから、ラディカルに社会的公正を希求しつつリベラルな理念を主張することに矛盾は感じない。
というわけで、わたしを左翼と呼ぶにしても右翼と呼ぶにしても、とりあえず上記のことを踏まえて決めて欲しいなぁと思う次第。今回のエントリのコメント欄では、本文中に明らかにならなかったわたしの政治姿勢に関する質問に答えるので、まだ左翼か右翼か判別しかねている人は(笑)何なりとご質問ください。

6 Responses - “わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由”

  1. macska Says:

    誰もコメント書いてくれないので、勝手にブクマコメントにコメント。

    2008年01月29日 Gomadintime politics LakoffとかJonathan Haidtの話かと予想したが違った。内容はわかりすぎるぐらいわかる。リベラルについては、語が右派のコードワード化したアメリカの特殊事情も考慮すべきか。
    http://b.hatena.ne.jp/entry/http://macska.org/article/215

    Sowell と似た主題を扱っている George Lakoff 『Moral Politics: How Liberals and Conservatives Think』は読んでるけど、家族メタファーにちょっと乗れなかった。あと Lakoff の他の著書はリベラル寄りの偏向が激しくて、ちょっと著者への評価に問題が。リベラルな意見の持ち主なのは構わないというか大歓迎なんだけれども、保守派の描写がフェアでないのはよくない。あと、現代政治の分析だけに特化していて、思想史的な厚みが足りないと思う。
    Haidt『The Happiness Hypothesis: Finding Modern Truth in Ancient Wisdom』の方は、知ってるけどちょっとポップすぎる印象があって読んでない。読む価値あると思います? ていうか Gomadintime さんの言うのはこの本のことじゃないのかな?

  2. Gomadintime Says:

     はじめまして。ブクマで思わせぶりなコメントなんかしてすみません。
     レイコフは自分も読んだのは”Moral Politics”だけです。政治関係の他の民主党応援本みたいなの?は読んでません。
    “Moral Politics”は、なぜリベラルと保守派は話が通じないか、またmacskaさんが文中で述べている「政策セット」のようなものが形成されるのはなぜかという疑問に対して、1つの解答を与えていてなかなか印象的でした。
     HaidtのほうはNYTの記事“Is ‘Do Unto Others’ Written Into Our Genes?”で読んだのですが、彼も同じ問題に取り組んでいるようです。最近ピンカーが書いたエッセイThe moral Instinctでも採りあげられていたので、ひょっとしたらmacskaさんの話もこれかなと思ったのです。

    Working with a graduate student, Jesse Graham, Dr. Haidt has detected a striking political dimension to morality. He and Mr. Graham asked people to identify their position on a liberal-conservative spectrum and then complete a questionnaire that assessed the importance attached to each of the five moral systems. (The test, called the moral foundations questionnaire, can be taken online, at http://www.YourMorals.org.)
    They found that people who identified themselves as liberals attached great weight to the two moral systems protective of individuals — those of not harming others and of doing as you would be done by. But liberals assigned much less importance to the three moral systems that protect the group, those of loyalty, respect for authority and purity.
    Conservatives placed value on all five moral systems but they assigned less weight than liberals to the moralities protective of individuals.
    Dr. Haidt believes that many political disagreements between liberals and conservatives may reflect the different emphasis each places on the five moral categories.

     目次とか公式ページとかをごく大雑把にみたかぎり、”The Happiness Hypothesis”ではこのことは書いてないようです。記事のこの部分のもとになっているのは“When Morality Opposes Justice: Conservatives Have
    Moral Intuitions that Liberals may not Recognize”
    (.pdf)でしょう。
     レイコフの家族メタファーは他の学問領域の知見と接続するのが困難ですが、Haidtの理論は本人も記事中で素描しているようにいろいろ発展性がありそうで期待しています。

    Dr. Haidt believes that religion has played an important role in human evolution by strengthening and extending the cohesion provided by the moral systems. “If we didn’t have religious minds we would not have stepped through the transition to groupishness,” he said. “We’d still be just small bands roving around.”
    Religious behavior may be the result of natural selection, in his view, shaped at a time when early human groups were competing with one another. “Those who found ways to bind themselves together were more successful,” he said.

     ここは個人的に非常に興味深かったです。

  3. macska Says:

    Gomadintimeさま、
     コメントありがとうございます。再読してみると青臭くて恥ずかしくなるようなエントリですが、それをきっかけにおもしろそうな記事を教えてもらったことで「書いてよかった」と思えました。ピンカーのエッセイはどこかで読んだと思うのですが、その先読み進んでいなかったのであらためて読んでみようと思います。その分類でいくと確かにわたしはリベラルっぽいなぁ。
     取りあえず今夜は Tim Harford のリーディングに参加して、先週聞いた Michael Shermer の話との接続を確認してきます。 Harford の新著のテーマは「一見非合理に見えるところに合理性を見出す」もので、「合理的でない行為に進化心理学の観点から説明をつける」内容の Shermer の新著とかなり重なるのです。 Harford も性選択の話とかしてるし。

  4. Apeman Says:

    Sowell は未読なのでこちらでの紹介を拝見しただけでのコメントで恐縮ですが、Lakoff の場合家族メタファーについての議論の部分と道徳概念システムについての議論とは(彼自身がどう考えているかは別として)相当程度分離可能なんじゃないかと思います。同じ要素的な道徳諸価値が異なる仕方(優先順位)で組み合わされることにより異なる道徳概念システムができる(だから同じ言語を語っているようで「リベラルと保守派は話が通じない」ということになる)…というはなしが後者で、前者は要素的な道徳諸価値が構造化されるプロセスについての Lakoff の仮説です。そしてこちらを別の仮説で置き換えても道徳概念システム論の基本的な部分は維持可能ではないか、と。だから家族メタファー以外の部分で Sowell のモデルと記述力・予測力がどれくらい違うかに関心があるのですが、そのあたりどう評価されておられるのでしょうか?
    もう一点、
    >一般的に「右翼」と呼ばれるような保守思想を掲げる活動家たちも実は主張の中身が違うだけで、伝統的には進歩主義の側に多い非束縛的価値観を前提としていたりするからややこしい。
    という現象は Sowell のモデルからはどのように説明されることになるのでしょうか? Sowell はそうした事態を想定していないのか、一般に言うところの右/左の対立と Sowell が分析対象とする「進歩主義と保守主義」の対立との間にはずれがあるということなのか、それとも Lakoff のモデルが想定しているような保守内、リベラル内のヴァリエーションを Sowell のモデルも想定しているということなのか…といった可能性をとりあえずおもいついたのですが。

  5. macska Says:

    Apemanさま、
     コメントありがとうございます。

    だから家族メタファー以外の部分で Sowell のモデルと記述力・予測力がどれくらい違うかに関心があるのですが、そのあたりどう評価されておられるのでしょうか?

    どちらも読んだのはしばらく前なのであやふやな印象で書いてますが、わたしは Sowell の議論の方がより長いスパンで欧米の政治思想史を分析していることを評価しています。90年代の米国政治だけを対象とするのであれば Lakoff の方が分かりやすいとは思いますが、現時点でははやくも古くなりかけているように思います。その点 Sowell は現在の状況にピッタリ当てはまらないとしても、将来的にもそれほど外れないように思います。

    という現象は Sowell のモデルからはどのように説明されることになるのでしょうか? Sowell はそうした事態を想定していないのか、一般に言うところの右/左の対立と Sowell が分析対象とする「進歩主義と保守主義」の対立との間にはずれがあるということなのか、それとも Lakoff のモデルが想定しているような保守内、リベラル内のヴァリエーションを Sowell のモデルも想定しているということなのか…といった可能性をとりあえずおもいついたのですが。

    「保守内、リベラル内のヴァリエーション」が正解ですね。というか一人の論者の中でもどちらか一方の価値観で一貫しているわけではないことを具体的な思想家の名前を挙げ文章を引用しながら説明していたりして、そんなに柔軟なのだったらモデルが成り立たないんじゃないのかと不安になったりします(笑)
    わたしも Sowell と Lakoff を比較しながら読んだわけではないので、そのつもりで読めばもっと何か言えるんじゃないかと思いますが、なにしろどちらもかなり前に読んだのでこの程度ですみません。

  6. Apeman Says:

    さっそくのお返事ありがとうございました。
    >その点 Sowell は現在の状況にピッタリ当てはまらないとしても、将来的にもそれほど外れないように思います。
    思想史的なアプローチの利点、ということになりますかね。個人的な関心としては、必要なアップデートを施したうえで道徳概念システム論のコアな部分がどれくらい批判に耐えうるものなのかを考えてみたいと思いますが。
    >そんなに柔軟なのだったらモデルが成り立たないんじゃないのかと不安になったりします(笑)
    かといってモデルにあわせて現実を無視するわけにもいきませんからね。
    Lakoff のモデルのよいところの一つは、この「保守内、リベラル内のヴァリエーション」をけっこう旨く説明できるところじゃないかと思っているのですが、Sowell がどう対処しているのか興味が湧いてきました。

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