北米社会哲学学会報告2/結婚制度、リベラリズム、中立原理の限界

2008年8月4日 - 9:09 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前回に続き、北米社会哲学学会@ポートランド大学からの報告。会場で取ったメモは全部で35ページあるのだけれど、前回の記事ではたったの5枚分しか紹介しきれなかった。このままのペースだと何回続くか不安だけど、うまいことまとめて5回くらいにおさまるといいなぁと思っている。ていうか、もともとはそれぞれの発表について1段落でまとめるつもりで書き始めたのだけれど、哲学の発表を1段落にまとめるのはさすがに無謀だった。
というわけで今回取り上げるのは、「結婚」をテーマとした二つの発表。まずは、これぞ哲学という感じにイマヌエル・カントの倫理理論と結婚観を「メール・オーダー・ブライド」と比較しつつ批判した、セントラル・ワシントン大学哲学助教授でカントを専門とする Matthew Altman の発表。メール・オーダー・ブライドとは、先進国の独身男性向けに、アジアや東欧・旧ソ連などの国の貧しい女性を結婚相手として紹介するサービスのこと。
よく知られているように、カントは他者の人格を「手段としてのみ」扱うことを厳しく戒めた。その一方で、かれは『人倫の形而上学』において結婚のことを、愛情や親密さの表現としてではなく、子孫を作るためだったり財産形成のためだったり、男女がお互いを利用しあう関係として規定した。それが倫理的に認められるのは、一方が他方を「手段としてのみ」扱うのではなく、お互いが相手に利益を与えるのと引き換えに便益を受け取っているからだ。そうした対称性によって、結婚制度は「手段としてのみ」扱われることによる人格的尊厳の損壊を免れている、とカントは説明する。
このようにカントは、結婚を男女の打算の産物として、まるでビジネス上の契約であるかのように論じており、特定の相手に向ける特別な感情をベースに結婚が成立するという現代的な解釈と比べると、ロマンスのかけらもないシニカルな考え方に見える。しかし、ここでメール・オーダー・ブライドの制度を考えると、それが先進国へ移住して豊かな暮らしを手に入れたい女性と、面倒な交際や駆け引きを経ずに結婚相手を手に入れたい男性との「打算の産物」−−結婚してともに生活する中で、そのうち恋愛感情が生じるということはあるだろうけれど−−であるという印象は、多くの人が抱くものだ。つまり、通常の結婚以上にメール・オーダー・ブライドはカント的だ。
また、カントはそのような契約に合意する能力があるとされる程度には女性の人格としての主体性を認めていたけれども(もし全く主体性が認められないのであれば、そもそも契約に合意する能力がない)、当時のほとんどの哲学者と同じく、女性を人格として男性と対等とみなしていたわけではなかった。カントによれば、女性は性質や能力において男性より劣るため、家庭内においては妻は夫に従い、夫は妻を支配しなければならない。
結婚相手をメール・オーダー・ブライドを呼び寄せる先進国の男性たちは、その動機として「先進国の女性はフェミニズムの影響を受けて自己主張をしすぎるようになってしまった、自分が結婚したいのは、もっと受動性や母性といった旧来の女らしさを持つ、フェミニズムに感化されていない女性だ」とよく言う。もちろん彼女たちは、愛のない結婚をして言葉も文化も違うところに移住してでも豊かさを手にしようという大それた野心を持つ人たちであり、ひたすら受動的でおしとやかな女性というわけではないだろう。しかし、メール・オーダー・ブライドの業者は彼女たちが「先進国では失われた、女の良さを持った女性」として宣伝し、そうした女性を求める男性が客となっている。この面からも、現代ではメール・オーダー・ブライドこそがカントの考える「規範的な結婚」の典型ではないか、とAltmanは指摘する。
ちなみにカントは、一方の当事者が他方の身体を手段におとしめ人格を傷つけるという理由で、愛人契約(愛人となることと引き換えに、金銭などの報酬を得ること)は倫理的に認められないと主張している。しかし、愛人契約と結婚がどう違うのか、少なくとも「他者を手段としてのみ扱ってはいけないが、契約によりお互いを利用し合う関係は許容できる」というルールからは、結婚は良くて愛人契約は悪いという判断は導き出せない。その扱いが違うことには、カントの女性観が影響していそうだ。
Altmanは、メール・オーダー・ブライドを「規範的な結婚の典型」とみなしかねない、カントの理論には問題があるとも言う。カントの時代なら、女性の社会的・経済的な自立は困難だったし、現代のメール・オーダー・ブライドの背景にも国際的な経済格差や植民地主義や人種差別や性差別の存在がある。カントは「お互い利用しあう契約に双方が自分の意志で合意した」ことを理由に、一方が他方を支配するような関係を正当なものと認めたが、さまざまな合意が成立する文脈を提供する社会的条件に注意を払わない点にカントの限界がある、とAltmanは主張した。
次に紹介するのは、カルガリー大学哲学部助教授の Elizabeth Brake による、「リベラリズムはどのような結婚制度を含意するか」という発表。こうした問いの背景には、近年先進各国で議論となっている同性結婚の問題がある。というのも、同性結婚の権利を主張する論者たちが「異性カップルだけを優遇して、同性同士のカップルで結婚したい人を結婚制度から排除するのは不当である」と主張するとき、それは「競合する複数の『善』(価値観)が存在するとき、政府は特定の『善』に肩入れせずに、中立を保たなければならない」とする、リベラリズムの「中立原理」が呼び起こされているからだ。
少し考えれば当たり前なのだけれど、「政府が異性愛の関係だけを特権化するのは中立原理に違反している」と言うのであれば、「愛情や性愛を絡ませた、一対一の排他的・半恒久的な関係」だけを特権化することだって、中立原理を逸脱しているように見える。ではリベラリズムの精神に照らして、結婚制度はどのように変革されれば良いのか、というのがBrakeの出発点だ。
Brakeによれば、中立原理を通して同性結婚の権利を主張する論者たちは、結婚制度とは「親密な関係にある大人同士が、お互いをケアし合うための法的な枠組み」である、と主張している。もし中立原理を極限まで推し進めるなら、結婚制度に限らず人間関係をことさら保護するような枠組みは全て不要に思えるかもしれないが、Brakeはあえて「特定の相手とのあいだに交わす関係」は政府によって法的に保護されるべきだと主張する。なぜなら、そうした関係は、リベラリズムの前提となる人々の尊厳の元となる基本財と考えられるからだ。
では、尊厳という基本財の分配に必要な機能を残しながら、どこまで結婚制度から特定の形をした関係の奨励や優遇をなくしていくか。特定の善を優遇しないということは、保護される人間関係が同性間のものか異性間のものか、何人からなる関係か、どのような動機で親密になっているのかを問わない制度が要請される。ここでBrakeが提唱するのは、「最小結婚」という概念だ。
「最小結婚」とは、中立原理と矛盾しない範囲において、「親密な関係にある大人同士の関係を維持するための法的な枠組み」だ。たとえば、世界の多くの国で法的な結婚が認められていない同性カップルたちは、財産を共同保有する権利、遺産を相続する/させる権利、意識を失ったときに本人に代わって医療上の決断を下す権利など、親密な関係を保護するための権利を持たないために、さまざまな不便や負担を強いられている。
現行の結婚制度では、これらの取り決めを全部バンドルして特定の異性一名とのあいだで交わすように決められているが、親密な関係を保護するために必要な範囲を大きく超えて特定の関係(異性、一対一、排他的、半恒久的、セクシュアル、etc.)を特権化している点で中立原理に違反している。Brakeが主張する「最小結婚」においては、それらの取り決めは個別の合意事項に分割され、自分が選んだ相手と選んだ取り決めを自由に結ぶことができる。つまり、意識を失った際の医療的な決断を任せる相手が遺産を受け取る相手と違っていても構わないし、それが同性でも異性でも、二人でも三人でも、性的に魅力を感じる相手でもただの友人でも、まったく同じ権益にアクセスすることができるような制度をBrakeは推奨している。もちろん、当事者の判断次第で、現行の「結婚」と同じ取り決めの組み合わせを選ぶことだってできる。
彼女の言う「最小結婚」のうち、意識を失った際の医療判断のような取り決めについて言うならば、「最小結婚」は要するに結婚制度がなくても個別の契約を交わすことによって実現可能なものを、より簡易にするだけなので、それほど問題がないように思える。しかし、彼女はほかにも「外国人のパートナーを呼び寄せ一緒に住む権利」や「州外から引っ越してきたパートナーが、州の住民として大学の授業を受けられる権利」(米国の公立大学では、州外から来た学生と州内の学生とでは授業料が大きく違い、引っ越した学生は新たな住所で最低1年住んでからでないと州内出身の学生とは認められないが、配偶者がその州に長く住んでいれば例外措置を受けられることが多い)を「関係を保護するための措置」に含めていた。
しかし、移民や教育における優先権を「その国にパートナーのいる人」「その州にパートナーのいる人」だけに与えることは、当事者間の取り決めだけで済む話ではなく、中立原理を逸脱しているように思える。だいたい、国境を自由に行き来する権利や教育を受ける権利は、現状でいきなり全面開放することはできないとしても、理想的には−−ここではそもそも理想の話をしている−−それ自体「基本財」として平等に行き渡っているべきではないのか。尊厳という基本財の配分に必要だからという名目で、ほかの基本財を特定の集団だけが与えられた特権に変えて良いわけがない。
また、理想と現実という話をするならば、理想状態を語ろうとするリベラリズムでは、現状のような理想からかけ離れた状況において理想論をふりかざすことの暴力性という問題も議論されている。結婚制度を例にとると、それがカントが言うような家父長制的な制度として女性を男性より劣位に押し込めただけでなく、社会的・経済的な自立が困難な状況に置かれた女性を経済的・人格的に保護する機能を果たしてきたこともまた事実だ。社会的・経済的な困難がまだ多く残る非理想的な状況において、結婚制度だけ理想化(最小化)しようとするのは、これまでわたしが批判してきた「社会的文脈の忘却」ではないのか。
メール・オーダー・ブライドの話題から共通して問題になっているのは、個人の自主的な意志による契約の自由度をふやすことが、かえって社会的弱者の自由をおびやかす−−社会的文脈を無視して自己決定権の範囲を拡大させることが、不利な選択肢を「自己決定」し「自己責任」を負うように弱者を追いつめる方向に機能する−−という、ネオリベラリズム批判でおなじみのテーマだ。メール・オーダー・ブライドや愛人契約を認めろというのも、これまで「結婚」というかたちにバンドルされていたさまざまな取り決めを分割して個別に好きな相手と結ばせろというのも、中立原理によれば圧倒的に正しく疑問を差し挟めない。しかしそこで議論を終えてしまっては、社会的公正の実現を求めてはじまったはずのリベラリズムの本義を見失ってしまう。
次回は、こうした「リベラリズムと中立原理の問題点」に切り込んだ発表を紹介することから社会哲学学会報告を続ける。

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