「ネオコン左派」に転じる世俗的ヒューマニズムと「新しい無神論者」

2008年5月19日 - 4:00 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

本誌創刊号(四月十日発行)に掲載された「米国を席巻する『新しい無神論者』の非寛容と、ほんの少しの希望」では、米国オレゴン州で活動する「新しい無神論者」たちのグループの活動を紹介しつつ、ドーキンスをはじめとする「新しい無神論者」論客の一部に見られる理性至上主義が他者に対するーー特に移民や少数民族など、文化的・宗教的背景の異なる社会的弱者へのーー不寛容に転じることへの懸念を表明した。かれらは米国の宗教右派による女性や同性愛者の権利への攻撃や、イスラム原理主義をかかげるテロリズム、さらにはヒトラーやスターリンの犯罪までもがすべて「理性の欠如」によって起きているかのように言うが、みずからを「理性的」と規定して「非理性的」な他者を切り捨て殲滅しようともくろむ理性至上主義こそ、むしろ危険なのではないか。
「米国を席巻する〜」ではそのようなことを伝えたかったのだが、どうも単なる「無神論者批判」「ドーキンス批判」的に解釈した読者も多かったようで、もっとうまく文章を書けるようになりたいなあと思うのだけれども、そのレポートが本誌創刊号に掲載された直後、新著『Secular Conscience: Why Belief Belongs in Public Life(世俗的良心/信念はなぜ公共生活に属するべきか)』のプロモーションでポートランドを訪れた哲学者オースティン・デイシーの講演に参加することができた。ちょうど良いタイミングでもあるし、前回書き足らなかった部分を補完できると思うので、報告したい。
オースティン・デイシーは国際的な非政府組織 (NGO) Center for Inquiry (CFI) の国連代表だ。多くの読者にとって CFI という組織は初耳だと思うが、世俗的ヒューマニズムを推進する Council for Secular Humanism という団体と関連しており、その草の根活動的な部分を担当している団体だ。懐疑主義・疑似科学批判の立場から超常現象の主張を実証的に検証することで有名な Committee for Skeptical Inquiry (CSI)ーー以前はサイコップ CSICOP として知られていたーーもこの Council for Secular Humanism のグループに含まれている。実を言うと、わたしが前回レポートしたポートランドの無神論者グループも、もともと独自にソーシャルネットワークサイトを通して始まったものだが、今年のはじめに CFI に加盟しているので、わたしも間接的にそのメンバーということになる。CFI は国連憲章上の NGO としても認知されており、国連との連絡責任者がこのデイシーという人になる。
もうひとつ、「世俗的ヒューマニズム」という概念についても解説が必要かもしれない。ここでいうヒューマニズムとは単に「弱者保護、人権擁護」的な「人道主義」という意味ではなく、論者によって程度の差こそあれ、欧米の哲学的伝統に基づく理性中心主義的・個人主義的・自由主義的な価値観を含意する。「世俗的ヒューマニズム」は必ずしも無神論を前提としないが、超自然的な存在を信仰するかどうかに関わらず、世俗世界の問題は超自然的な力に頼るのではなく人間の理性と努力によって乗り越えるべきだという考え方を採用する。宗教者の中にもこの定義に当てはまる思想の持ち主は少なくないが(俗に「宗教左派」と呼ばれることもある)、わたしの周囲を見るかぎり CFI のような団体に参加して「世俗的ヒューマニスト」としての自己認識を持っている人の大部分は無神論者や不可知論者たちだ。
著書『世俗的な良心』においてデイシーは、政治や公共の議論において価値観の問題を語ろうとしない欧米のリベラル・左派勢力を激しく糾弾する。かれの考えでは、米国における「価値観」をめぐる言説のヘゲモニーはキリスト教原理主義を掲げる宗教右派勢力によって「奪い取られた」のではなく、リベラル・左派勢力の側がみずから宗教右派に「差し出した」のだという。リベラル・左派勢力はポストモダン的な相対主義に陥ったあげく価値の優劣を論じることを避け、価値観の問題を「個人の内面的自由」として公共圏の外側に放逐してしまったとデイシーは指摘する。そのうえでかれは、世俗的リベラリストは近代リベラリズムの原理であるところの民主主義・個人の尊厳・平等・理性といった価値観を信念を持って主張すべきだ、と主張している。
特にかれを苛立たせるのは、かれが「新たな全体主義」とみなすイスラム原理主義ーーここでは単にテロリズムや武力闘争に携わる集団だけにとどまらず、平和的・合法的な手段を取る人たちも含め、イスラム教に基づく神政政治を求めるあらゆる勢力を含むーーに対し、リベラル・左派勢力が文化相対主義を掲げて対立を避け、イスラム原理主義者による近代的価値の破壊に対して一方的に譲歩を続けようとする(ようにデイシーには見える)ことだ。
そのひとつの例として、かれはイランのアフマディネジャド大統領が米国コロンビア大学で講演した際の「イランにはゲイは存在しない」という発言に対する同大学のクィアの学生による団体の対応を挙げる。クィア学生団体はアフマディネジャド発言に抗議するとともに、発言について報道するメディアに対して「『ゲイ』や『レズビアン』という用語は文化的・歴史的に特定の文脈を持つので、イランにおけるそうした人々や行為について表記する際はより文化中立的な『同性間性行為』『同性間性的欲望』といった用語を使ってください」と要望したのだ。そのことを取り上げて、かれらは「イランにはゲイは存在しない」というアフマディネジャド発言にお墨付きを与えてしまっているではないか、とデイシーは批判した。
でも、コロンビア大学の学生たちが言っているのは人類学や歴史学といった学問の世界では当たり前のこと。なにもアフマディネジャド大統領に遠慮して譲歩しているわけではない証拠に、異文化における「同性間性行為」ではなく、自国の遠い過去(19世紀以前)の「同性間性行為」について言及する際だって「ゲイ」や「レズビアン」といった用語はーー一種の比喩以上のものとしてはーー使わないのが普通だ。もちろん、メディアのレポーターにそれを理解して正しく報道しろと要求するのは無茶だと思うけど、哲学者のデイシーが理解できないはずがない。学生たちの真意を十分に理解していながら、わざと学生たちの主張を単純化・陳腐化して「アフマディネジャド発言に同調した、これだからポストモダン左翼は駄目だ、相対主義は間違っている」と宣伝しているのだ。まるで欧米で使われている用語や用法こそが「普遍的」な価値を持つかのように。
講演中、かれは「原理主義的無神論者」を批判するクリス・ヘッジズ『I Don’t Believe in Atheists』に言及しながら、「無神論の原理主義なんて誰も怖がりはしないだろう、『もっと理性的に話をしよう』と言うだけなんだから」と嘲笑した。しかし現実に「新しい無神論」の代表的論客の何人かが、機会があるごとに米国のイラク侵攻を熱烈に支持する発言を続けている(ばかりか、イランが核兵器を持つ前に核で先制攻撃をしろとまで言っている人もいる)ことや、西欧におけるイスラム系移民排斥の口実がもはや「キリスト教文明を守るためにイスラム教徒を追い出せ」ではなく「女性や同性愛者の権利、言論の自由など近代リベラリズムの原則を理解しようとしないやつらを追い出せ、入れるな」となっているーーそれは要するに、近代リベラリズムの原則がイスラム系移民ら「市民」とみなされない人たちには完全に適用されないまま、体制への忠誠だけを求められていることを示しているがーーことを考えれば、楽観的に過ぎるのではないかと思う。
そこで、わたしはそういった例を挙げて「無神論や世俗的ヒューマニズムが、わたしたちの一人一人の中の排外主義的もしくは人種差別的な傾向と結びついて重大な人権侵害を引き起こすおそれはないのか」と質問してみた。ところがデイシーは「そのような例はまったく見たことも聞いたこともない、一体どこにそんな排外主義者や人種差別主義者がいるのか」と言ってのけた。そしてさらにかれは、「あなたはアヤーン・ヒルシ・アリをイスラム排斥主義者だとでも言うのか」と問い返す。アヤーン・ヒルシ・アリはソマリア出身の元オランダ議員で、無神論者として、そして女性として、イスラム社会における人権侵害と不自由を厳しく批判している人だ。しかし、わたしが質問していたのは特定の人物がどのような極端な思想を持っているかというようなことではなく、わたしたち一人一人の内にある「他者」「余所者」への恐怖や偏見が無神論や世俗的ヒューマニズムという「正しい」口実を得て噴出する危険だった。質問の意図をはぐらかされたように思う。
また、アヤーン・ヒルシ・アリについては、彼女自身が差別主義者だとは思わないが、彼女を搾取的に利用することで排外主義的もしくは人種差別的な言動を正当化する人はいると思う、と答えた。ところがデイシーはその件についても「そんな無神論者や世俗的ヒューマニストには、いままで一人も会ったことも見たこともない」と言う。「無神論や世俗的ヒューマニズムには、わたしたちの内なる排外主義的・人種差別的な不寛容さと結びつく危険があるのではないか」という問いかけを、黒人移民出身の無神論者の名を挙げて退けようとする、そうしたかれのふるまい自体が彼女の存在を搾取的に利用しており、すでにメタレイシズムのそしりを逃れないと思うのだが。
続いてかれはこう言う。「もしあなたが人種差別や排外主義を気にかけているなら、イランのような宗教国家の圧政のもと自由を奪われた人々のことをもっと考えるべきだ。われわれの国境の外側にいるからといって、かれらに自由はいらないとどうして言えるのか。」 わたしはそんなこと言った覚えはないのだが、だからといって安易に「民主主義を広めるため」と称する米国などによる軍事介入や敵対政策を肯定することはできない。ところがわたしがそう言うと、その時会場にいた別の参加者は「もしホロコーストが起きる前にヒトラーを止めることができたのであれば、軍事介入してでもそうするべきではなかったか」と言い出す。しかし、ホロコーストが起きた後だからこそ「あの時こうしていれば」と考えることができるのであって、ホロコーストが起きる前の時点で軍事介入が最適な選択だったと判断できたはずもない。「人権が侵害されているから」といって安易に軍事介入を肯定することは、それ自体大きな人権侵害や殺戮のもとにしかならない。
こうしたやり取りを振り返ると、やはり「新しい無神論者」の広がりや世俗的ヒューマニズムには、「ネオコン左派」に転じる危険を大きく内包していると感じないわけにはいかない。そして、米国より一足先に世俗的ヒューマニズムが広く浸透した西欧では、いままさにイスラム系移民へのバックラッシュを重要な、しかし唯一ではない背景として「世俗的ヒューマニズムか、多文化主義的ポスト世俗主義か」という論争がさかんになっている。リベラリストであるわたしは、もちろんメタ制度としての世俗的ヒューマニズムのさらなる波及を原則的に希望しつつ(宮台真司的に言えば「わたし自身もネオコンと同じ」部分が間違いなくある)、それに西欧中心主義・理性中心主義という負の面もあることにも敏感でありたいと思っている。
わたしがオースティン・デイシーの主張を危ういと思うのは、かれが自らの掲げる「ネオコン左派」的な普遍主義(西欧中心主義・理性中心主義)に何ら留保を付けているように見えない点だ。かれは世俗的ヒューマニストに「もっと信念を持ってみずからの価値観を主張すべきだ」と言っており、その点についてはそれで良いと思うのだけれど、わたしから見るとそれだけではまったく不十分だ。みずからの価値観を主張するだけでなく、対立する価値観や相容れない価値観との対話を通して、それらとのお互いに受け入れ可能な関わり方を紡ぎ出そうとするプラクティカルな努力が必要なのではないだろうか。そうした寛容さと謙虚さを欠いたとき、世俗的ヒューマニズムは米国による帝国主義的軍事介入路線と他国に対する経済的・文化的従属を翼賛する、単なる「ネオコン左派」に堕落してしまうのだと思う。
いずれにせよ、「新しい無神論者」の登場によって米国でもようやく世俗的ヒューマニズム的な主張の影響力は増しつつある。政治的にも、ここ三十年のあいだ勢力を拡大し続けた宗教右派がようやく権力の座から陥落しそうな様子だ。この新しい力を正しい方向に働かせることで、米国の軍事・外交政策の転換に世俗的ヒューマニストたちがうまく貢献できれば良いのだが。
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(この記事は、メールマガジン α-Synodos(アルファ・シノドス)第3号(5月10日発行)に掲載されたものです。編集部の了承を得て、全文公開しました。この記事が気に入った人は、是非α-Synodos を購読してあげてください。気に入らなかった人も、この記事だけでα-Synodos を判断するのは編集長のちきりんがかわいそうだからやめてあげてね。)

3 Responses - “「ネオコン左派」に転じる世俗的ヒューマニズムと「新しい無神論者」”

  1. ラクシュン Says:

    >リベラル・左派勢力はポストモダン的な相対主義に陥ったあげく価値の優劣を論じることを避け、
    「ポストモダン的」という前置きに特別の理由があるのかどうか知りませんが、「相対主義」の考え方そのものは当然相対主義の否定まで視野に納めているはずですから、相対主義の悪影響がある(orあった)という前提から既におかしいと考えるのは私だけでしょうか?
    自己の否定まで認めるなら、その「主義」自体の情報内容はほとんど無くなってしまうわけですが、にも拘らずその主義の悪影響を論じる立場、っていうのが私にはちょっと…??
    ま逐語的に解釈すればですね。

  2. Josef Says:

    >「無神論の原理主義なんて誰も怖がりはしないだろう、『もっと理性的に話をしよう』と言うだけなんだから」と嘲笑した。
    この「理性」なるものへの信を共有しない者をどうするのかというところが気になりますね。ちゃんと暴力装置が準備されていて、世俗ヒューマニズムというプラットフォーム自体への反抗には容赦なく作動させる。そういうことでしょう。いわゆるイスラム原理主義なんかはそういう構造から生み出されるという面があって、これに言うところの「理性」や「ヒューマニズム」をぶつけてみてもマッチポンプだと思います。
    もちろん暴力性を内在していることそれ自体がいけないわけではなくて、そのことへの自覚が希薄なことがいちばん危険なのですね。

  3. バジル二世 Says:

    >他者に対するーー特に移民や少数民族など、文化的・宗教的背景の異なる社会的弱者へのーー不寛容
    「不寛容」といってもその種類が問題なんじゃないですか。人間だれしも納得できないことには「不寛容」な面があるわけで。それを、たとえば証拠もないのに罰してしまったり微罪に重罪を科したりとかする非「理性的」なやり方と、たとえばきちんとした言論を戦わせて自分の考えを受け入れさせるという「理性的」なやり方とでは全然違うと思います。

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