『レミーのおいしいレストラン』の場合/「ゲイな映画」と「クィアな映画」のあいだ

2008年3月21日 - 10:40 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前々回公開した「子ども向け劇場アニメが描く『マルチチュード的革命』」エントリでは、ジュディス・ハルバースタムの講演を要約するかたちで彼女が言うところの「ピクサーヴォルト」ーークィアで雑多な主体が構成するマルチチュードによる革命を描いた3DCGアニメーション映画ーーについて解説した。その中で、ピクサーヴォルトに当てはまらない映画としてピクサー/ディズニーの『Mr. インクレディブル』は「アイン・ランド的世界観」に基づいた、異性愛中心主義・核家族的なイデオロギーを持つ、復古主義的な映画だという指摘を紹介した。

しかし『Mr. インクレディブル』は十分に魅力的だし、むしろ「本来の自分」を隠して生きることを強いられたマイノリティが自分を肯定する映画なのではないかという評価もある。そこで今回はそのあたりをハルバースタムに習って「クィアな映画」と「ゲイな映画」という区分によって再解釈するとともに、ピクサーの最新作『レミーのおいしいレストラン』についても分析してみたい(ネタバレします)。

『Mr. インクレディブル』について、セクシュアルマイノリティ擁護の立場から肯定的な評価を下しているのは、性同一性障害などに詳しい精神科医の針間克己氏だ。かれは、この映画についてブログで以下のように書いている。

ストーリーはというと。

この一家は、それぞれスーパー能力を持っている。

しかし、それゆえ、社会から異端視あつかいされるのをおそれ、その能力を隠して生きている。

だから、家族の自己評価も大変低い。

しかし、あるとき、その能力を積極的に使い出し、社会に貢献し、自己評価も高まる。

というわけで、自己肯定できないマイノリティが、他者との違いを肯定的に捉えるようになり、カミングアウトし、自己肯定できるようになる、というアメリカらしい、いい話ではある。

http://d.hatena.ne.jp/annojo/20050620

このあと針間氏は家族それぞれのスーパー能力がジェンダー・ステレオタイプに基づいている点を批判しているが、そうした点を考慮したうえでも、父親が敵に捕まって母親と子どもたちがそれを助けに行くとか、女の子の能力が敵から逃れるのに決定的な役割を果たすところなど、フェミニストの立場からも評価できるところはあると思う。

ハルバースタムの講演でもこうした異論は会場から出され、しばらくさまざまな意見の交換が行なわれたのだけれど、それを受けて最後に彼女が言ったのが、「『Mr. インクレディブル』がゲイな映画であるのは認める、しかしクィアな映画ではない」という発言だった。

一般社会の用法では、「クィア」とはもともと「奇妙な」程度の意味から転じて単なるゲイ男性に対する蔑称であり、また近年さらに意味を転換させて肯定的な文脈でも使われるようになったけれども、本質的にその指す対象がそれほど違うものではない。たとえば、人気テレビ番組「Queer Eye」(クィアの眼)を見ても、タイトルは「クィア」なのにゲイ男性しか登場しない。

それに対してセクシュアルマイノリティの運動においては、ゲイ男性だけでなくレズビアンやバイセクシュアルやトランスジェンダーをーー時にはもっと広い範囲の性的少数者をーー含めた言葉として「クィア」という言葉が使われるが、これも多くの場合「ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、etc.」とダラダラ言うのが面倒だから使われているだけに過ぎない。そのような用法にとらわれると、ハルバースタムが「ゲイな映画だけれど、クィアな映画ではない」と言った意味は理解不能だ。

実のところ、一般的には「ゲイ(・レズビアン〜)」と「クィア」の用法はそれほど変わらないとはいえ、両者を対比させた場合においてのみ特別な差異が生じる。すなわち「ゲイ」とは「性的指向が一般の人とは違うけれども、それ以外はごく普通の市民」として社会に溶け込むことを指向するーーだから、同性婚制度の導入が大きな政治的課題になるーーのに対し、「クィア」はメインストリームに溶け込むのではなく一般社会の側がより様々な生き方を認めるように変わるべきだという立場に立つ。クィア理論でいう「クィア」とはこのことだし、ハルバースタムが「クィアな時間、クィアな空間」として論じているのもこちらの方だ。

『Mr. インクレディブル』の主人公たちは、「社会から異端視あつかいされるのをおそれ」スーパー能力を隠して生きている。すなわち、社会のメインストリームに溶け込むために、自分たちの真の姿を隠して生きている。これは、家族や職を失うことを恐れ、ゲイ(やレズビアンやその他の性的少数者)であることを隠して生きる人の隠喩として観ることができる。そうした一家が、スーパー能力を活かして社会の危機を救うことでカミングアウトを果たし、自己評価を回復する。そうしたストーリーそのものが、「クィア的」ではなく「ゲイ的」な政治性を帯びている、とハルバースタムは言っているのだ。

さて、『Mr. インクレディブル』を監督したブラッド・バードがその次に担当した作品が、ピクサーの最新作『レミーのおいしいレストラン』だ。この作品の主人公レミーは生まれつき敏感な味覚と嗅覚を持ったネズミであり、『Mr. インクレディブル』のスーパーヒーローたちがどうしてその能力を得たのか説明されない(家族全員がスーパー能力を持っているということは、おそらく遺伝的なものと思われる)のと同じく、レミーがどうしてこのような能力を持っているのかは一切説明されない。ゲイに生まれた人がどうしてゲイになったのか説明できないのと同じく、レミーはどうしようもなく優れた味覚と嗅覚を持っているのだ。

他人と違った特別な審美的感覚があるというのは、メディアにおけるゲイのステレオタイプの一つだ。先に言及した「Queer Eye」もそうしたステレオタイプを元に、ゲイであることを公表しているプロデューサによって製作されている。この番組はもともと「Queer Eye for the Straight Guy」としてはじまったもので、ファッション・インテリアデザイン・身だしなみ・文化などそれぞれの分野において優れた感性を持った(とされる)ゲイ男性が、イケてないストレートの男性をコーチしてカッコよくする、という内容で、助けてもらう人が女性や他のゲイ男性を含むようになったため番組名が変更された。

味覚と嗅覚において「ゲイ的な」レミーは、人間の台所に忍び込んでは食材を盗み出し、調理して食べる。そのことを知るのは実の兄のネズミ一匹だけであり、普段は隠している。しかしある事件がきっかけで仲間とはぐれてパリに到着したレミーは、テレビ番組で観たあこがれのシェフの店に忍び込み、料理を何も知らない新人シェフを帽子の中から操ることですばらしいレシピを編み出していく。メディアで知ったゲイ・コミュニティに憧れて、セクシュアルマイノリティへの理解がない田舎を飛び出した若いゲイの男性が、持ち前のファッションセンスを活かしてデザイナーやスタイリストとして活躍するという、ステレオタイプ的なストーリーそのままだ。

仲間のネズミとの再会は意外にも簡単に実現するのだが、ひとたび都会のレストランの厨房を知ってしまったレミーは元の生活には戻れない。そこに葛藤が生じる。しかし期待の新人として注目を浴びるシェフとも衝突し、居場所を失う。「家族と一緒にいるときはネズミの振りをし、厨房にいるときは人間の振りをしている、どうすれば何かの振りをせずに本当の自分でいられるのか」「料理と家族のどちらか一方を取るなんてできない、自分の半分を否定するなんて」というレミーの訴えは、多くのゲイ(・レズビアン・etc.)の人たちが共感できるものだろう。

「レミーのおいしいレストラン」を観ていてわたしが思い出したのは、FTM トランスセクシュアルで脳性マヒを持つ活動家・著述家の Eli Clare(著書の『Exile and Pride: Disability, Queerness and Liberation』は超お勧め)だ。かれは、森林伐採で生計を立てるオレゴンの田舎の出身で、平気で人種差別的な発言を繰り返す貧しい白人たちのコミュニティで育ったが、いまはリベラルな都会でクィア・コミュニティや環境運動に参加しており、また人種差別や環境破壊に嫌悪を感じつつも生まれ育った田舎の労働者階級社会に、森林伐採の香りにアイデンティティを寄せている。家族と一緒にいるときはある一面を演じ、都会においては別の一面を演じるよう周囲に迫られる中、「自分の半分を否定」しないような生き方をしようと葛藤している。

こうした主題は『Mr. インクレディブル』に比べて『レミーのおいしいレストラン』にはるかに強く描かれており、その意味で『レミーのおいしいレストラン』は優れてゲイ的な映画だ(ただし、子どもには分かりにくいかもーー単なる友情物語としてならなんとか楽しめるか)。クライマックスにおいてレミーは若いシェフと仲直りするとともに、仲間の一族とも和解する(かれらがレミーを助けてくれる)。自分に正直に生きて、なおかつ家族や仲間にも認められるというストーリーは、多くのゲイ(・レズビアン・etc.)の人たちを勇気づける内容だ。ハルバースタムは「ブラッド・バードはゲイに違いない」とまで言っていた。

ハルバースタムは『ファインディング・ニモ』のような「クィアな映画」ピクサーヴォルトを賞賛するあまり、『Mr. インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』のような良質な「ゲイな映画」を低く評価しているように見えたのだけれど、あらためて質問してみたところこれらの映画にもそれなりに優れた点があり、「ゲイな映画」と「クィアな映画」は両方必要なものだ、と応えていた。これらは子どもが観ても子どもなりに楽しいし、大人ならではの見方もできる作品なので、まだ観ていない人は是非。

3 Responses - “『レミーのおいしいレストラン』の場合/「ゲイな映画」と「クィアな映画」のあいだ”

  1. annojo Says:

    さすがの分析に感服しました。
    ゲイな映画とクィアな映画という、見方、なるほどと思いました。

  2. son of Lauren Says:

    ジュディス・ハルバースタムは最近知って、まだきちんと読めていないのです。
    が、HPで簡単な紹介記事などを目にしていると、その独創的で遊び心を持ち合わせた批評スタイルに注目しています。ゲイ映画としてセクシュアルマイノリティを「あちら側」と「こちら側」の間に引き裂かれた存在とし想定して論じているあたりがエキサイティングですね。 今後も展開を楽しみにしています。

  3. HAKASE Says:

    ども。同性愛者の自分ですが、macskaさんが整理されている、「ゲイ(・レズビアン〜)」と「クィア」を対比させた場合にのみ生じる特別な差異、として上げられている2つの立場でいうと、自分は「クィア」に近い「モノの考え方」をしてるんだなぁと思えます。
    自分がゲイかどうか、と、この2つの対比をしたときに、どちらの立場にたつのか、が、必ずしも一致しないところがなかなか興味深くて面白いなぁと思いました。
    『レミーのおいしいレストラン』も、見てみたくなりました(^^)

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