子ども向け劇場アニメが描く「マルチチュード的革命」/ジュディス・ハルバースタム講演報告

3/17/2008 - 10:57 am | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前回に引き続き、Lewis & Clark College にて開催されたジェンダー学シンポジウムの報告。今回紹介するのは、クィア理論家として有名な南カリフォルニア大学のジュディス・ハルバースタムさんによる基調講演の内容、すなわち近年多く作られるようになった子ども向け 3DCG アニメーション映画における「革命」的ナラティヴについて。先月5歳になった友人の子どもの「エンターテインメント係」を担当(?)しているわたしはこの種のアニメ映画をほぼ一通り見ていていろいろ思うところがあるので、ハルバースタムの発表は非常に興味深く感じられた。また、一部の映画については、ハルバースタムの批評を参考とすることによってわたしが漠然と感じていた不快観に説明が付いたと感じた。今回のエントリでは、そうした点について紹介したい。対象となるアニメを見ていなくても理解できるような記述は心がけるがネタバレは避けられないので、以下を読む場合はその点ご了承いただきたい。

ハルバースタムと言えば、一番有名なのは数年前の日本での講演でも話題となった「女性の男性性 female masculinity」の研究(そのままずばりの題名の本も出ている)だろう。しかしここ数年さまざまな学会や学術誌で見かける限り、近著『In a Queer Time and Place: Transgender Bodies, Subcultural Lives』で展開するような「クィアな時間、空間」というテーマの研究を多く発表している。

ここで言う「クィアな時間、空間」というのは、もちろんただ単にゲイやレズビアンやバイセクシュアルやトランスジェンダーや、あるいはその他のセクシュアルマイノリティの人たちがたくさん集まる時間や空間の話ではない。現代社会における後期資本主義や異性愛中心主義、アメリカ的な個人主義などを支える、ノーマルかつノーマティヴとされる生活や行動のモードーー例えば、子どもが成長して大人になって自立して就職し、結婚して子どもを産み育てることだったり、朝家を出て会社に出勤し、夜になると郊外の家に戻るというような、いわゆるフツウのあり方ーーにうまく乗らない、乗れない、どこかはみ出してしまった人たち、すなわちクィアな主体によって生きられ、そしてノーマルな生き方を揺るがすような時間や空間のことを指して言っている。今回わたしが聴くことができた講演は、子ども向けアニメーション映画の分析を内容とするが、理論的にはこのテーマの延長線上にある。

ハルバースタムが現在研究の対象としているのは、ピクサー・アニメーション・スタジオの各作品をはじめとする、3DCG 技術によって製作された子ども向けの劇場用映画の数々だ。中でも彼女が注目するのは、彼女が「ピクサーヴォルト」ーー代表的なプロダクションスタジオである「ピクサー」の名前に、革命を意味する「レヴォルト/レヴォルーション」を組み合わせた造語ーーと名付けた、クィアな主体がネグリ&ハート的マルチチュードと一体化して革命を起こすという構造を持った、一連の作品だ。どういうことか、まずはピクサーヴォルトの代表的な作品であり、なおかつ映像的にも最高峰の作品と考えられる『ファインディング・ニモ』を取り上げて説明してみよう。

この映画では冒頭、数日後に誕生するたくさんの卵を見守っていたクマノミの夫婦が他の魚によって襲われ、ただ一つの卵と夫マーリンを残してすべてが奪われてしまう。マーリンは生まれてきた子どもにニモと名付け、過保護なほど心配しながら育てるが、ある日ニモは人間によってさらわれてしまう。ニモを探してマーリンが海の中を冒険し、途中で出会った魚のドリーやその他の生物の協力を得て再会するというのが、表面的にみたこの映画のあらすじだ。

ハルバースタムによれば、ニモ、マーリン、ドリーの主要キャラクタは、みなそれぞれがクィアな主体だ。ニモは生まれつき片方のヒレが小さいという障害を持っているし、マーリンは明らかに家族のほとんどを一度に失ったトラウマを抱えたシングルファザー(描写のされ方からは、「男性の女性性」と言ってもいいかもしれない)。ドリーは激しい記憶障害があってほんの少し前にあったことすら思い出せず、家族のことを語ろうとした途端に全て忘れてしまったりする。しかし家族を忘れることによって、彼女は強制異性愛主義に基づく核家族を生きる時間から解放され、クィアな時間を生きている。物語が終わる時点でも、マーリンとドリーは決して結婚したりはしないし、ドリーがニモの新しい母親になることもない。記憶がないからサメをみても怖がらないし、鯨と会話することだってできる。英語版でドリーの声を担当しているのは、米国の芸能界で最も有名なレズビアンであるエレン・デジェネレスだ。

一方、人間に捕まったニモは歯科医の部屋の水槽に幽閉されるが、そこでニモはさまざまな年上の魚と出会い、水槽から脱走するための戦略をあれこれめぐらせる。そしてついに魚たちは力を合わせることによって歯科医の部屋からの脱出に成功し、ニモは海の中でマーリンとの再会を果たすのだが、そこはこの映画のクライマックスではない。クライマックスは、出会ったばかりのニモとマーリンの目の前で、ドリーが他の多数の魚とともに人間が放った縄に捕まり、漁船に引き揚げられようとしている場面だ。ドリーを助けようと縄の中に入ろうとするニモの手をマーリンが掴んで離そうとしないが、「ぼくを信頼して」と訴えるニモについに折れて手を離す。そしてニモはマーリンやドリーとともに、魚たちに一斉に海底に向かって泳ぐよう訴え、その重みによって縄が船から外れて魚たち全員が助かる。

ニモは歯科医の水槽の中で年上の魚から、みんなで力を合わせれば自由になれることを学んだ。そして海に出たとき、学んだばかりの革命理論を実践し、ドリーや仲間たちの自由を勝ち取る。刑務所でブラック・ナショナリズムに目覚めたマルコムXみたいなものだ。しかしニモは決して特殊な能力を持っているわけではなく、むしろ身体的な障害を持ち、あまりに過保護なシングルファザーに育てられた、世間知らずでクィアな主体として描かれている。特別な能力を持つ個人の成長物語や栄光物語ではなく、またさまざまな違いやクィアの存在を認めない全体主義でもない、雑多な人々が共通の利害を通して連帯するマルチチュード的な革命運動がそこに描かれている、とハルバースタムは指摘するのだ。

ピクサーの映画で「クィアな主体」及び「マルチチュード的革命」のテーマがより正面から描かれているのは、3DCG 劇場アニメーションの初期の作品『バグズ・ライフ』だ。主人公は注意力散漫ですぐさぼったり周りに迷惑をかけたりしてばかりのアリで、アリたちが支配者であるバッタに差し出さなければならない収穫を失ってしまう。半ば邪魔者排除のような形で「助っ人を探す」使命を与えられて旅に出るが、強力な味方だと思って連れて帰ったのは実は旅を続ける芸人の虫たちの劇団だった。アリたちが資本主義社会における労働者階級だとすると、近代資本主義的な労働規範を持たない主人公や旅を続けて定住しない劇団員たちは、クィアな時間・空間を生きる「クィアな主体」だと言える。劇団員のテントウムシーー英語ではレイディバグーーは、男性なのにレイディと呼ばれることに反発してマッチョを装うが、終盤には自分の中の「男性の女性性」を受け入れるようになるという点でもとってもクィアだ。

劇中ではバッタ内部の会話シーンを通して、バッタたちはアリたちの労働をそれほど厳しく搾取しなくても必ずしも困らないことが明かされる。しかし何としても搾取しなければいけないーーなぜなら、少しでもアリたちに譲歩したり余裕を与えたりすると、自分たちバッタの権力を疑うようになり、自分たちより数の多いアリたちが団結して立ち上がるおそれがあるからだーーというバッタの指導者の発言は、現実社会に当てはめて考えてみれば刺激的だ。もちろん最終的には、クィアな主体であるアリと劇団員たちがノーマルなアリたちを巻き込んで協力してバッタたちを撃退することになる。

ピクサー作品でもう一本、『モンスターズ・インク』をみてみよう。この作品世界ではモンスターたちはモンスターズ・インクという企業によって雇用されており、人間の子どもたちを驚かすことによって悲鳴をエネルギーに転換するという仕事をしている。労務管理は厳しく、成績によって待遇が大きく違うので、必死になって子どもたちを驚かせなければならない。ところがモンスターの世界に人間の子どもが紛れ込んだことをきっかけに、悲鳴ではなく笑い声からエネルギーを生み出せることを知りーー子どもとふれあうと危険だと労働者たちに思い込ませ、悲鳴をエネルギーに転換していたのは、効率だけを考えた利潤本意のやり方だったのだーーモンスターたちは毎晩子どもたちの部屋を訪れては、驚かすかわりに笑わせるようになる。

エネルギー源と言えば、現実社会では石油・石炭のように大気汚染や地球温暖化をもたらす化石燃料、事故や廃棄物の問題が解決されていない原子力、ダムの建設等に環境破壊が伴う水力など、いま主力とされているエネルギー源はどれもさまざまな弊害がある。その影響がどの程度のものになるのか完全には分かっていないけれども、ことによっては将来の子どもたちが悲鳴をあげてもおかしくない。しかしモンスターたちは人間の子どもとふれあうことにより企業の利潤本意のカラクリを暴き、クリーンなエネルギーへの転換と自らの労働条件の改善を果たす。

ここまでピクサー作品ばかり紹介してきたが、他者の作品にも同様なテーマは見出せる。たとえば、20世紀フォックスによる『ロボッツ』は、まだ十分に働けるのに予備のパーツの生産を打ち切られた旧式の労働者ロボットたちが、パーツが生産中止された背景にはニューモデルのロボットを売り込もうとする企業の計略があったことを知り、抵抗運動を起こしてリサイクル・プログラムを導入させる物語であり、マルチチュード的革命というテーマの他に、消費社会批判や環境保護のメッセージまで読み取ることができる。また、ドリームワークスの『Over The Hedge』では人間が住宅地建設のために森を切り開き動物たちの侵入を防ぐための大きな垣根を作ったことに「人間こそが侵入者だ」と動物側が抵抗し、垣根を取り払わせるストーリーだ。

もちろん、同様の技術で作っていてもピクサーヴォルト的な構造を持たない作品もある。最もピクサーヴォルトから遠いのが、ピクサーの『Mr. インクレディブル』だろう。この作品はアメコミのスーパーヒーローものーーといっても、アメコミ自体には複雑な構造を持つ作品も多くあるので、ここで指し示しているのはアメコミを原作とした一般向けの映画やテレビ番組などのことだがーーのパロディとして作られていながら、実際のところ「特殊な能力を持つ人間が、その能力を使って問題を解決する」というパターンをまったく裏切らない。

『Mr. インクレディブル』の舞台は、能力のある人が大衆に抑圧され、能力を隠して大衆に溶け込むよう強いられている、アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』的な世界だ。しかし最終的には、主人公たちがその能力を発揮して人々を危機から救ってしまう。主要人物の一家は異性愛カップルに子ども3人の核家族であり、ミッドライフ・クライシスを迎えた父親を家族みんなで支えましょうという、きわめてノーマルな時間と空間を前提としている。戦闘シーンの映像など子どもが喜ぶ部分はたくさんあるけれども、政治的に読むならば革命的というより逆に保守的・復古主義的な内容だ。「個性を大切にしましょう」という主張を肯定的に受け取ることもできるけれども、その実態は強者の「個性」を大衆が恐れつつ賞賛するだけだけだ。

ここまで取り上げてきた作品は、政治的な読みはさておき個人的には楽しめたものばかりなのだけれど、最近の作品で映像的には素晴らしいのにストーリーの点でどうしても楽しめない作品があった。ワーナー製作の『ハッピーフィート』がそれだ。主人公は歌を歌うペンギンの集落に生まれながらどうしようもない音痴でタップダンスを踊るのが得意なペンギンであり、周囲に理解されずに追放されてしまう。ここまでは『バグズ・ライフ』の主人公と同じなのだけれど、『ハッピーフィート』はあくまで一人のペンギンが自分探しを通して成長する物語として展開する。

それならその路線で最後まで行けばまだしもそれで良かったのだけれど、最後の方になって唐突に主人公は人間に囚われ、水族館で見せ物にされる。また、人間による魚の乱獲や環境破壊の問題が浮かび上がってくる。このあたりも『ファインディング・ニモ』や『Over The Hedge』と同じモチーフなのだが、主人公のペンギンはタップダンスに興味を持った人間たちが観察して調査するためにペンギンの群れに戻される。そして他のペンギンたちも突然タップダンスをはじめて、それをみて驚いた人間たちが環境破壊による影響ではないかと考えて、自然を守ろうと決意する。

要するにこの映画は、ヒットしたさまざまなピクサーヴォルトからモチーフを持ち寄っただけで、まったくまとまりがない。最後のシーンの「革命」モチーフに至っては、ペンギンたちは自分たちが革命を起こした自覚もなければ、そもそも危機が人間によってもたらされたことすら理解していない。このストーリーを無理矢理政治的に解釈するならば、政治のことなんて考えずに適当に楽しく歌って踊って過ごしていれば、問題は放っておいても勝手に解決されるという無責任なメッセージが見出せる。これはピクサーヴォルトが発する雑多なマルチチュードの連帯というメッセージとはまったく異なるものだ。

では、どうしてピクサーヴォルトが製作されるのだろうか。なんでもマルクス主義の陰謀論に結びつける一部の自称保守論客なら、ディズニーやドリームワークスといったハリウッドのスタジオには左翼が大勢いて、子どもたちを革命思想によって洗脳しようとこうした映画を作っているのだ、とでも言うかもしれない。しかしハリウッドのクリエータに左翼がいるというのは、しばしば反ユダヤ人主義思想と合流しながら赤狩りの時代から言われていたことであり、どうして90年代になってから3DCG技術の採用とともにピクサーヴォルトが量産されるようになったのか説明できない。ハルバースタムは、ピクサーヴォルトの誕生は3DCGという技術的な変化によるものだと考えているようだ。

彼女が言うには、米国におけるこれまでの平面的なアニメーションでは、描かなければいけないセルの枚数を抑えるためにある一方向から見た構図が多様され、ストーリー的にもドタバタの追いかけっこばかりが描かれた。しかし3DCG技術を採用したことで、さまざまな角度・方向からの視点を組み合わせることが容易になり、それは多様な視点を持つ物語を生み出すようになった。また、単純に無数の動物や昆虫が一斉に動くシーンを作ること自体、コンピュータを使わないアニメーションでは大変な労力だったはずだ。

さらに、国際的な分業が当たり前になり、世界各地に散らばった多数のクリエイターが協力してアニメーションの製作に関わるようにもなった。このこと自体、より協調と共生を描くような物語を作る要因となったとハルバースタムは指摘する。もちろん制作側だけでなく市場の側でも、グローバリズムの進展によってさまざまな国の市場に映画を売り込まなければいけない以上、アメリカ国内だけで通用するような「個人の自立と成長」の物語ばかりを作ってもいられない。

市場側の事情についてさらに言えば、ハルバースタム的にはーークィア理論的にはーー子どもはヘテロセクシュアルでもホモセクシュアルでもなく、クィアな主体だ。世の中で当たり前とされることがあまりよく分からないし、自立した個人としての責任を果たすこともできない。だからこそ、過去の子ども向け映画ではかれらを大人にするーークィアから脱却させるーーための物語が作られた。しかしそうした「覇権的な男性性」という虚構の信頼性が揺らいだ今、親たちはそれとは別の物語ーークィアな主体が、覇権的な男性性に同一化しないまま、ポジティヴな役割を果たすことができるような物語ーーを子どもに買い与えるようになっている、というわけだ。

ピクサーヴォルトにおける「革命」を評価するハルバースタムに対しては、当然「あなたが賞賛する映画自体が、資本によって利潤目的で作られグローバルな市場に提供される、消費文化と文化侵略主義のエージェントそのものではないか」という批判が浴びせかけられる。ハルバースタムはもちろんそういったことに無関心なわけではないけれども、もしわれわれが現実の社会においてマルチチュードの連帯を欲するなら、社会に広く共有されたポップカルチャーの中からそういった物語を見出していかなければ運動としての広がりが持てないであろう、と反論する。

ハルバースタムはさらにそこから、一般社会から乖離した学会の中で、一般社会に届かない言葉の応酬を繰り返す学者たちのあり方についても厳しく批判する。「専門領域なんて必要ない、大きな関心領域を共有する中で、学際的に議論すべきだ」「大学教員の終身雇用なんていらない、学者は10年ごとに新しい知識を得るために授業を受けろ」「ティーチングロード(授業に必要な時間)が大変だなんていう学者は、一般の労働者がどれだけ必死に働いているのか全然分かってない、われわれ(正規採用の)学者がどれだけ恵まれた境遇にいるのか自覚しろ」と、言っていることはまったくその通り正しいのだけれど、彼女ほど学会内での地位が確立されていてはじめて言えることだというような気もしないではない。いずれにせよ、とにかくハルバースタムさんはカッコ良かった、という感想を抱きつつ、ここで報告は終了する。

一応念のためにいっておくと、上記はあくまでわたしが記憶・解釈するところのハルバースタムの議論であって、もしかしたら何か大きな勘違いがあるかもしれないので、ハルバースタムはこう言っている、みたいにどこかで引用したりとかはやめておいてね。「クィアな時間、空間」の先の話やピクサーヴォルトの議論は、彼女が現在執筆中の本で詳しく記述されるはずなので、今回のエントリはそれが出版されるまでのスニークプレビューとでも思っておいてください。

15 Responses - “子ども向け劇場アニメが描く「マルチチュード的革命」/ジュディス・ハルバースタム講演報告”

  1. Josef Says:

    ここで取り上げられている「ピクサーヴォルト」等の作品は何歳くらいの子どもを対象としているのですか?

    あと、

    >ハルバースタム的にはーークィア理論的にはーー子どもはヘテロセクシュアルでもホモセクシュアルでもなく、クィアな主体だ。

    このクィアというのはフロイトのいう多型倒錯(polymorph pervers)と関係しているのですか?関係しているとしたら、どういうふうな関係の仕方なのでしょうか?

  2. macska Says:

    こんにちはです。

    ここで取り上げられている「ピクサーヴォルト」等の作品は何歳くらいの子どもを対象としているのですか?

    制作者がどのくらいの子どもを対象としているかは知りませんが、3歳の子どもから大人まで十分楽しめるものだと思います。

    このクィアというのはフロイトのいう多型倒錯(polymorph pervers)と関係しているのですか?関係しているとしたら、どういうふうな関係の仕方なのでしょうか?

    フロイト苦手なんですが(というか精神分析方向は全部苦手)、クィア理論的に言うならば、これは性的指向の話ではなくて(どんな対象にセクシュアリティを向けていたとしても関係なく)、強制異性愛主義や結婚・核家族思想、資本主義的な労働規範などといった、近代社会を支える諸制度にまだ適合していない、という意味だと思います。

  3. cider Says:

    macskaさんの要約力はすごいけど、ハルバースタム先生の発表自体はちょっと懐かしいカルチュラルスタディーズ的な枠組みのメディア分析だと思いました(いや面白かったですが)。最近はスチュアート・ホールじゃなくてネグリになるんですね。
    消費市場のグローバル化の議論と大学批判はカルスタの十八番ですが、しかしCGが多面的な視点からの物語製作を可能にした、というくだりは文化理論としても映画理論としてもありえないと思いました。視点の多面性との格闘が映画(技術)を成立させたとも言えるわけで。
    イギリスのカルスタでは、さらにそのようにして形成された多様で多面的な新しい主体が、新たな消費者としてどこに売り渡されるのかまで分析していたと思いますが、なぜかアメリカでは分析がオプティミスティックに終わる傾向があるようです。

    あと、紹介されたピクサー作品はすべて観ていますが、ドリーが「重度の記憶障害」という説明は、ちょっと客観的過ぎるかなと(確かにそうなんですが)。記憶がないフリをして過酷な旅に沈みがちな皆を元気付けている、とか。もちろん、このような「読み」の投入によって社会的、文化的な位置が決まってくるのでしょうが。

  4. Josef Says:

    質問に答えていただきありがとうございます。
    3歳から大人まで、ですか。macskaさんの丁寧な紹介を読むと大人が楽しめそうなのはよく分かるけど(私の趣味ではないが)、3歳はどうなのかなあ?という感じです。見てないから何とも言えませんが。

    >クィア理論的に言うならば、これは性的指向の話ではなくて(どんな対象にセクシュアリティを向けていたとしても関係なく)、[中略]近代社会を支える諸制度にまだ適合していない、という意味だと思います。

    うーん、かなりロマン主義入ってますね。

  5. macska Says:

    Josefさん:

    3歳から大人まで、ですか。macskaさんの丁寧な紹介を読むと大人が楽しめそうなのはよく分かるけど(私の趣味ではないが)、3歳はどうなのかなあ?という感じです。見てないから何とも言えませんが。

    実際に3歳の子どもに見せたら喜んでたので… ここで書いているのはかなり特殊な見方であり、純粋に冒険やアクションや映像の美しさを楽しむなら、政治的な立場等関係なくかなり多くの人が楽しめると思います。是非一度ご覧ください(個人的には『ニモ』が一番のお薦めです)。

  6. crafty Says:

    クィア理論でのクィアの範囲って広いんですね。
    結婚や核家族から排除されていると言う意味では
    某赤木さんみたい人なんかもクィアの範囲に入ってしまうのですか?

  7. macska Says:

    クィア理論はアイデンティティ政治ではないのですが、もしご本人が自分はクィアだと思うなら他人が「それは違う」とは言えないんじゃないでしょうか。もっとも赤木さん本人はクィアとして生きることではなく、結婚〜核家族のライフコースを希望されているようですが。

  8. crafty Says:

    結婚や核家族というモデルケースから排除されているヘテロ男性は、
    客観的にみて、クィアな時間・空間を生きていることになるのですか?
    それともハルバースタムさんがアニメを分析するようには、客観的に判断できない問題なのでしょうか。
    または個人の希望がクィアとして生きることを拒んでいたらクィアな時間・空間を生きているとはいえなくなるのでしょうか。

  9. macska Says:

    craftyさん、

    1)実在する人物の私生活を批評の対象とするのはどうかと思います。
    2)批評にそこまでの客観性を求められても困ります。事実の提示については客観性が求められるでしょうが、その解釈・批評の部分については客観的に決定できるものではないと思います。
    3)craftyさんが言うようなケースに当てはまるキャラクタについて言うなら、それがクィアな時間・空間を生きていると言うことは可能であると思います。しかし可能だからといってそれを言うことがより作品解釈に深みをもたらすかどうかは別の話です。そこは、批評者のセンスが問われるところです。

  10. crafty Says:

    なるほど、今回話題にされている「クィアな時間・空間」というのは、飽くまで作品批評のための概念なわけですね。

  11. macska Says:

    なんか引っかかる反応しますねー。もちろん批評が現実社会と完全に切り離されているわけがありませんよ。

    実のところわたしが queer temporalities という概念にふれたのは、昨年の Cultural Studies Association でハルバースタムがオーガナイズしたパネルを聞いてからなので、わたしの解説では言い足りていない部分がたくさんあると思います。もし興味があるのでしたら、とりあえず GLQ 13(2-3):177-195. に昨年掲載された Theorizing Queer Temporalities というラウンドテーブルあたりから読み進められてはいかがでしょうか。

  12. crafty Says:

    私が「クィアな時間・空間」が作品批評のための概念か、それとも現実の人間を分類できるのかという点にこだわっているのは、
    私自身軽い精神障害持ちでその結果非正規社員だからです。
    自分はヘテロ男性でもあるので今まで自分がクィアなどとは考えもしなかったのですが、
    今回のハルバースタムによるクィアな時間・空間という概念からすると、
    もしかしたら自分もクィアになるのでは?と言う点が気にかかっているからです。

  13. macska Says:

    そういうことでしたか。

    「クィア」というのは、もちろん現実の人間にも当てはまる概念です。しかしそれは、基本的に自称として名乗られるものであり、何らかの客観的な基準に基づいて分類できるものではありません。

    自称でないとしたら、キャラクタ批評、人物評論という形で、たとえば「ニモはクィアな主体である」という指摘がなされることがあります。しかしそれは、ハルバースタムという批評者がそう捉えているのであって、これこれこういう基準に当てはまるからニモはクィアなのであると客観的に示すことはできません。

    ヘテロ男性がクィアを名乗っても全然おかしなことはありません。が、大抵の場合名乗っても何の得もないばかりか、余計な軋轢を呼び込んでしまう恐れが大です(世の中には、特定の相手を名指しで変態変態と呼んで喜ぶバカもいますからね)。それでももしcraftyさんがクィアを名乗りたいのでしたら名乗れば良いですし、いやクィアなんてなりたくないと思うなら関わり合いにならなければ良いのでは。

  14. crafty Says:

    質問に答えてくださってありがとうございました。
    今現在の時点での一般的な「クィア」という言葉の認識下では、クィアを名乗ることによる軋轢というよりは誤解や混乱が怖いですし、
    就学就労には苦労したものの、ヘテロ故セクシャリティ絡みでほとんど苦悩や排除を受けていない自分が
    クィアを名乗るのはセクシャルマイノリティの人に悪いのでは?という意識もあるのでクィアを名乗るのは先送りにしたいと思います。

    とりあえず、クィアは近代を支える制度から排除された主体であるという認識がもっとコンセンサスになったら、クィアを名乗ろうと思います。

  15. C plus M | I Am Not ガチ Of Any Kind Says:

    […] もしそうだとすれば、ボクがかわるがわるオファーされ続けて来た数々の場所は、重力の場のようなものだ。ヘテロ、ホモ、バイ、 etc. という性的指向の重力のいずれかに??しかもどれか一つに??引き寄せられること、そしてもっとも近くにある質量に同化すること(それがたとえ、中心からずれていたとしても)。それを考えたとき、ボクはつい macska さんの言う: 現代社会における後期資本主義や異性愛中心主義、アメリカ的な個人主義などを支える、ノーマルかつノーマティヴとされる生活や行動のモード??例えば、子どもが成長して大人になって自立して就職し、結婚して子どもを産み育てることだったり、朝家を出て会社に出勤し、夜になると郊外の家に戻るというような、いわゆるフツウのあり方 -macska: macska dot org: 子ども向け劇場アニメが描く「マルチチュード的革命」/ジュディス・ハルバースタム講演報告 […]

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