ジェンダー学シンポジウム報告あれこれ

2008年3月16日 - 6:28 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

先週、モニカ・ルインスキーの母校として知られるポートランド市内の Lewis & Clark College という大学で、三日間に渡ってジェンダー学シンポジウムというコンファレンスが開かれた。これは毎年恒例で開かれるもので、今年でなんと27年目になる。今回も基調講演者として「女性の男性性」の研究で日本にも紹介されている南カリフォルニア大学のジュディス・ハルバースタムさんが登場するなど興味深いセッションがたくさんあったけれども、ハルバースタムの話(超面白かった!)は次のエントリに譲るとして、以下にはわたしが聞いた中で特に印象に残ったプレゼンテーションについていくつか簡単に報告する。
まず最初は、初日に行なわれた「ジェンダー学という領域」という題のパネル。ポートランド州立大学文学部の Hildy Miller さんの発表は、過去のフェミニズムを忘却した女性学の現状に対する強い批判がテーマだった…はずなんだけど、第二波フェミニストによるポストモダン・フェミニズムへの逆恨みみたいな内容になってしまっていた。彼女はさかんに「いまの女性学はポストモダン理論ばかりだ。若い人たちは、第二波フェミニズムのラディカルフェミニズムやカルチュラルフェミニズムの文献を読みもしないまま、ただ古いというだけでポストモダンの高みから否定している」と言うのだけれど、彼女のほうこそ「若い人たち」がどういう理由でラディカルフェミニズムやカルチュラルフェミニズムを否定しているのか理解しようとしていないように見えた。もちろん、きちんと理解せずに批判する人だっているけれども、それだけしかないように言われても困るなぁ。
Miller さんは、ポストモダンも結構だが、それと並んでさまざまな過去のフェミニズムの理論や歴史を女性学のクラスで教えるべきだ、と主張する。そこで早速手をあげて、こういう質問をしてみた。「あなたは今の女性学がポストモダンばかりを扱い、第二波フェミニズムの歴史や理論を教えていないと言うが、その女性学のクラスを教えているのはあなたたち第二波フェミニストの教員ではないのか。もし女性学の現状があなたの言う通りであるなら、どうしてそんな内容の授業ばかりするんですか?」 20人くらいいた他の参加者は爆笑してた。
それに対して Miller さんが言うには、90年代頃からアカデミアにおいてポストモダンと呼ばれる理論の影響力が強くなり、学者たちはみな自分の理論が本質主義だとか普遍主義だと批判されるのを恐れるようになった。そういった批判を受けるような論文は学術誌にも載せてもらえないため、フェミニズムなのに「女性」というカテゴリを使うことすらできなくなっている、という。女性学関係の学術誌すらそうで、彼女自身もそういった文章の書き方、授業の教え方を採用せざるを得なくなったという。でもそれは要するに、第二波フェミニズムを背景とする女性学の教員たちが一斉にアカデミア内の流行に乗ってバカをみた、というだけの話でしょ。それで責めるべきなのは自分たち自身の軽率さであるはずなのに、まるで今の若い女性が悪いみたいに言わないで欲しいものだ。
同じパネルに出ていた Aaron Raz Link は、FTM トランスセクシュアルとしてジェンダー学に要望をいくつか出していた。その内容は「ほとんどのトランスセクシュアルの人はジェンダーの脱構築なんて興味ないので勝手に理論を読み込まないでください」とか(わたし的には)当たり前の話だったのだけれど、かれが昨年出した本が面白い(これまで知らなかった)。「What Becomes You」というタイトルのエッセイ集で、前半がかれ自身、後半が女性学の講師でもあるかれの母親が書いたものだ。母親にとってみれば、フェミニストとして「女性だって努力すれば何にでもなれる」と言いながら育てた娘が、よりによって男性になってしまったのだから、ショックだっただろう。まだ前半部分を読み始めたところだけれど、面白そうだ。
クィア・コミュニティの境界をめぐるパネルの方では、同じく FTM のポートランド在住心理セラピスト、Reid Vanderburgh (著書に「Transition and Beyond: Observations on Gender Identity」)が70年代にレズビアン分離主義(女性のみのコミュニティを作り生活しようという思想ーーフルタイムでは無理でも、仕事の時間以外だけ分離主義という人も含む)に参加していた経験などを語った。会場から、自分のアイデンティティとは別に、思想的にどのように変わったのかという質問が出たが、その答えが素晴らしかった。
「例えば、当時の自分たちレズビアン分離主義者は、どうしてレズビアン分離主義に白人以外の女性が参加しないのか、どうしてかれらがレズビアン分離主義を人種差別的だと批判するのか理解できなかった。自分たちは仲間内でいろいろ議論した結果、おそらく非白人の女性は白人女性に比べて多くの子どもを生む傾向があるので、より男の子を育てている割合が高く、だから分離主義は現実的ではないと考えているのだろうと思っていた。実際に相手がどういう理由で批判しているのか、耳を貸そうとはしなかった… 今の自分は、レズビアン分離主義が人種差別的であるのはそんな理由でないことは分かっている。レズビアン分離主義が、非白人の女性に『性差別だけを問題として、人種差別の問題で非白人の男性と共闘するのをやめろ』と押しつけることがいけなかったんだ。」 内容的には当たり前の話なんだけれども、かつての自分はこんなに駄目だったというのを正直に発表するというのは勇気がいる。
性同一性障害という診断カテゴリについては、Vanderburgh はセラピストでありながら、性同一性障害のクライアントがホルモンや手術を受けるために必要な診断書に「性同一性障害」とは書かずに、「この人の性自認は〜で、〜といった生活をしている」みたいに書くようにしているとか。それで十分診断書の代わりとして通用するらしい。クライアントのためにどうしても必要なら診断名を書くけれど、できるだけ性自認のあり方を「障害」と表現するような書類は書きたくない、ということだった。
しかしかれは、続いてこんなことを言う。「米国においてトランスセクシュアルの医療に保険が効かないことは、経済的な理由により医療を受けられない人がいるという点では問題だが、ふたつの典型的なジェンダーカテゴリにおさまらない多様なジェンダーの形が追求できるという意味では利点もある。」 トランスセクシュアル医療が進んだ西欧各国では、10代のうちにホルモン療法を受けられるのが当たり前のこととなりつつあるため、多くのトランスセクシュアル当事者がごく普通の男性もしくは女性としてパスできてしまう。その結果、トランスセクシュアルの存在は社会において不可視化され、また男性もしくは女性以外の中間的なジェンダーを自認する人やホルモン投与をせずにトランジションする人は米国に比べて非常に少ない。
米国では、ホルモン療法や手術を希望しながら受けられない人が大勢いる一方で、どうせ医者に言われた通りにしていても医療は受けられないのだからと、伝統的な「トランスセクシュアルはこうでなければいけない」といった縛りはかなり緩くなっている。ポートランドのようなリベラルな都市では、世間の側でも「受けたくても受けられない人がいるのだから」と医療を受けているかどうかで「本当のトランスセクシュアル」かどうかを判断すべきではないという認識があるし、もともと「完全に男性化したいわけではないけど、少し声を低くしてひげを生やしたい」とか「胸が膨らんだらそれでいい」と思っている人も(代金を払える限り)門前払いはされていない。
けれど、もし医療保険改革によってホルモンや手術の費用が保険によって支払われるようになれば、そういった環境は大きく変わるだろう。どういう状態の人ならホルモンや手術の費用に保険が適用されるのかという審査によってトランスセクシュアル当事者のあいだに境界が引かれ、完全に身体を変化させたいとまでは考えていない人は医療から撥ね除けられるようになるかもしれない。医療保険が適用されないからこそ(そして、国民皆保険制度がないからこそ)、米国のトランスジェンダー・コミュニティが活発で多様性に溢れているという側面はたしかにある。ただわたしは、それを「保険が効かないことの利点」とまでは言いたくない。悲惨な事件によって素晴らしい芸術表現がインスパイアされることがあっても、それを惨劇の「利点」とは呼びたくないのと同じだ。
最後にもう1つ特筆しておきたい発表は、Lewis & Clark College の2年生によるある発表。ある日、彼女は住んでいるアパートの大家に呼び止められ、改築するので来月には退去してくれと言われる。ちょうどその頃は期末試験の直前にあたるので、学期が終わるまで待って欲しいと応えたら、次の日彼女のアパートのドアには30日以内に立ち退きを求める正式な書類が張られていた。異論がある場合には裁判で争うことができると知り、決められた日時に法廷に行くのだが、立ち退きをめぐる法制度は中流家庭出身の彼女の想像とは大きく違っていた。
法廷には、同じように立ち退き請求を受けた人がたくさん集まっていた。中でも多いのは、子どもを引き連れた女性だ。しばらくすると全員が起立させられ、裁判官が入室する。そして裁判官はいきなり高圧的に命令しだす。「この法廷では、名前を呼ばれたら大きな声で返事しなさい。声が小さい人の訴えは却下します。」 「あなたたち借り手はもともと毎月ごとの契約で家に住んでいるのだから、大家が何か不正を働いていると証明できない限り全ての立ち退き請求は正当だと認めます。一度裁判所によって立ち退き命令を受けた人は、今後一切まともな住居に住むことはできなくなるのでそのつもりでいなさい。これからしばらく、大家側と直接交渉する時間を与えます。」
彼女は耳をすませて周囲の会話を聴いてみた。「すみません、今月の家賃が遅れているのは分かっていますが、いまどうしてもお金がないんです…」「先月、仕事にどうしても必要な車が故障して、修理にお金がかったので…」「2ヶ月前に仕事をクビになって…」「先月子どもが病気になって、病院に入院させたので…」 真面目に働いていても事故や病気にあうだけで住居を失ってしまう人がこんなに大勢いるのに、法制度は契約を文字通り執行するだけで何の救いの手も差し伸べてくれない。彼女は大家側の弁護士の言うまま、期日通りの退去に同意する署名をして、悔し涙を流しながら帰宅した。そしてそれをきっかけに、経済格差と住居の問題を詳しく調べるようになったという。そして最後には、「毎週月曜日から金曜日まで、裁判所の建物のこの部屋でこの時間から立ち退き命令の審査は行なわれています。みなさんも一度そこで何が行なわれているか見に行ってください」と結んだ。
内容的にはどうってことないのだけれど、身のまわりで起きた物事をきっかけとして社会の厳しい現実に向き合い、大学で学んでいるジェンダーや階級や人種の問題と組み合わせてじっくり考えた、学部生らしい良い発表だと思った。最初にでてきた第二波フェミニストの教授も、「今の若い女性は〜」みたいなことを言ってないで、彼女のような学部生の研究をサポートして欲しいところ。
ほかにもいろいろいい発表はあったんだけど、もともとわたしがよく知っている分野の話だったりで、特に印象に残るほどではなかったのでこれで終わる。あ、そういえば一人だけ、どこかの大学の博士課程の人とかで、一般にはよく知られていないようなクィア・ヒストリーについての発表をしていた人がいたのだけれど、クィア理論に詳しい人が見ればすぐに独自の発見も視点も何もないと分かるような、他人が既に発掘して解釈した史料をそのまま紹介しているだけみたいな内容だった。質疑応答の時間に、「あなたが今話した中で、あなた独自の研究はどの部分ですか?」って言うのをなんとか我慢したんだけど、何も知らない連中が「素晴らしい研究だ、新しい事実を知って驚いた」とかコメントしてるのを聞くと、やっぱり何か言っておくべきだったかと思ってしまった。

One Response - “ジェンダー学シンポジウム報告あれこれ”

  1. きっさこ Says:

    はじめまして。
    米国のgender studies やactivism等々について活きた情報を読む事ができるので、
    いつも楽しく読ませていただいております。
    私も過去に、第二波を自認すると思われる、Anti-pornographyの立場の米国人フェミニストの方が第三波フェミニズム・フェミニストについて敵意を感じさせるような言い方をしたこと(「第三波はポルノについてなにもしてはいない」、等)に強い違和感を覚えたことがあったので、今回のエントリに共感を覚える部分がありました。私自身は第三波フェミニズムに心情的に強くコミットしており、けれどもその他の先だったフェミニズムを「嫌う(≠批判する)」ということはなかったので、<「第二波視点」からみた「第三波」に対するいらだち>を目の当たりにして驚いたことを思い出しました。macskaさんの突っ込み質問、会場で直接聞いていたら、私もきっと爆笑しただろうと思います。
    Judith Halberstamの講演についてのレポートのアップも、楽しみにしてます!

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