実質マイナーアップデートだったサンスティーン『Republic.com 2.0』

9/21/2007 - 3:45 am by macska このエントリーを含むはてなブックマーク

先に別ブログで紹介したように、シカゴ大学の法学者キャス・サンスティーンが、2001 年に発表した代表作『Republic.com』(邦題『インターネットは民主主義の敵か』)をアップデートした、その名も『Republic.com 2.0』を出版した。実は前々回のエントリで集団分極化の話をしたのはこの本の話をする伏線というか、この本の話自体が来月発売の chiki さんの著書を応援するための伏線だったりするのだけれど、そういう大人の事情はさておき早速『Republic.com 2.0』を購入して読んでみた。というか『2.0』を注文してから届くまでの間に『1.0』の方を再読したうえで、『2.0』で新しくなった箇所だけさらっと読んだ。

とりあえずまず『1.0』から一貫している本書の主張をまとめると、サンスティーンが問題としているのはインターネットの影響下における民主主義の存続可能性だ。インターネットをはじめとする情報技術の発達により、これまでにない量と種類の情報が溢れるようになった。このことにより、これまでのメディアにおいて発言権を得られなかったような少数派の人たちーーそれが政治的なものであれ、宗教・民族的な共同体であれ、趣味によるものであれーーがお互いを発見し、また自らの存在を社会に訴えることができるようになった。

そしてそうした情報の氾濫に対応して、自分が興味を持つ情報や知りたい情報だけを選別し、他の情報を切り捨てるようなフィルタリングの技術や技法が発達してきた。このようなフィルタリングの高度化は、消費者としてのわたしたちにとっては歓迎すべきものだ。しかし民主主義を担う市民としては、フィルタリングによって人々が自分とは違う考えや自分があらかじめ興味を持たない対象に思いがけず出会ったり影響を受けたりする機会を失うことや、自分の好みのバイアスがかかった情報源から主にニュースや政治的意見を得るために政治的な課題について議論するための共通の土台が失われることは、民主主義の存続にとって危険であると主張する。なぜなら民主主義とはただ単に多数決で物事を決めることではなく、共通の土台の上で討議することにより、より優れた意見への合意を作り出していくことだからだ。

サンスティーンによれば、元来そのような「出会いの機会」や「共通の土台」は街頭における政治的な演説やデモなどを通して実現されてきた。それを可能にしたのは、公共の道路や公園などで市民が自由に発言することを認めた法制度ーーここでは法律だけでなく、判例や法文化まで含むーーだった。やがてその役割は、さまざまな意見や話題を提供するマスメディアによって担われるようになった。しかし人々が情報源としてインターネットに依存するようになると、民主主義に不可欠な「出会いの機会」「共通の土台」が供給不足になるのではないか、とサンスティーンは訴えている。

他者との出会いを失い、同じ意見の持ち主同士のコミュニケーションが活発になった時に起きる現象が以前にも取り上げた集団分極化だ。もともと同じ方向の意見を持つ人たちが集まって仲間内で話し合うと、話し合った後には同じ方向により過激な意見でまとまることが多い。その原因としては、集団内において良い評判を得たいという心理や同調圧力がはたらくだけでなく、自然と自分たちの意見に都合の良い情報ばかりを紹介しあい、都合の悪い情報はシャットアウトされるという構造がある。よって、リベラル寄りの人たちが集まって議論するとより強固にリベラルな価値観を示すようになるし、保守寄りの人たちの集団は話し合いによって強固な保守主義者を生み出すことになる。サンスティーンが懸念するのは、インターネットは自分と同じ意見の持ち主を発見し、自分と異なる意見の持ち主をフィルターすることをあまりに容易にするため、放っておけば異なる意見の持ち主同士が共通の土台で議論することすら難しくなるのではないか、ということだ。

正直言うと『1.0』のほうは、いま読むとかなり笑える内容が多い。それはサンスティーンが議論の前提としている 2001 年当時のインターネットが、いまのそれとはかなり違っているからだ。当時既にブログは存在したけれども(あの頃わたしは「ウェブログ」のことを略して「ブログ」と呼ぶのが恥ずかしくてしかたがなかったけれど、いつの間にか平気になっていた)今のように一般的ではなかったし、SNS の最初の成功例となりすぐに没落した Friendster すらまだ開設されていなかった。とっくの昔に潰れたドットコム企業への言及も哀愁を誘う。さらに上記の認識を踏まえたサンスティーンの提案も、「対立する意見のサイトと相互リンクしよう(政策としてそれを奨励しようーーもしかしたら強制しよう)」程度のもので、一年先に出た『CODE インターネットの合法・非合法・プライバシー』でローレンス・レッシグが民主的価値を守るために法がアーキテクチャを形作るコードにまで介入する可能性を語ったあとでは具体性に欠ける。というより、インターネットについてよく分かってないんじゃないかと思わせる。

それでもこの本が重要だったのは、レッシグの『CODE』と並んでサイバーリベラリズムと呼べる立場を打ち出したから。それまでネット上の言論ーーとくに技術に長けた熟練ユーザのそれーーに多かったのは、サイバーリバタリアンとでも呼ぶべき立場、すなわち、インターネットはこれまでのどのメディアよりも自由な言論が可能な空間であり、あらゆる政府の規制はその自由を脅かすものだという勇ましい考え方だった。しかしレッシグはそうしたインターネットの「自由」が何ら必然的なものではなく商業主義の要請によって奪われかねない危機にある(だから場合によっては法による介入も必要)ことを指摘し、サンスティーンはその「自由な言論」そのものがさまざまな政府の保護や助力や制限によって実現したものであり過剰な「消費者の自由」は市民としての自由を妨げかねないことを主張した。これらの議論は、インターネットが決して自由で民主的なだけのユートピアではないこと、そして民主的な価値観を守るためにこれからも政府が適度な介入を続ける必要があることを指し示す。そうした意味において、サンスティーンの著作は重要な意味を持っていると思う。

前置きが長くなってしまったけれども、『Republic.com 2.0』でも内容そのものはあまり変わっていない。レッシグ『コモンズ ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』やヨハイ・ベンクラーの大著(本重過ぎて持ち上げて読む気が出ない)『The Wealth of Networks: How Social Production Transforms Markets And Freedom』など 2001 年以降に出版された本からの引用や新たな研究の紹介、そして 2001 年以降注目を浴びたウェブサービスやブログ(YouTube、Wikipedia、DailyKos、Instapundit など)への言及があるのだけれど、提案の方も「ブログロールに対立する意見のブログを入れよう」みたいにほとんど変わっていない(特に無謀な提案だけ消えている)。

『2.0』ではブログについて新たに一章が追加されているけれど、分析としてはほとんど新しいものはない。サンスティーンによれば、マスメディアの失態(ラザーゲイト事件)やマスメディアが報道しなかった問題(トレント・ロット上院院内総務の失言)がブログによって取り上げられ大きな反響を起こすなど新しい可能性はあるけど、結局のところ意見の近いブロガー同士がお互いの考えを強化し合うだけのことが多い。政治的なブログではたまに異なる意見が紹介されることがあっても、その大部分は相手を非難したり嘲笑するためのものであり、そうした「出会い」は決して自分たちに再考を迫らない。

『1.0』と『2.0』を通して読んでみて、サンスティーンはやや先走りしすぎているのではないかという感想を持った。サンスティーンが取り上げている問題ーー情報源のフィルタリングによる社会の分断と分極化ーーは確かに存在するし、それが民主主義にとって危険だとは思うけれども、そうした傾向を推し進めているのは少なくとも現時点ではインターネットでもブログでもないように思う。わたしが危惧するのは FOX News や Wall Street Journal の論説面(報道はまとも)であり、AM ラジオの政治トークショーだ。これらはみな保守系だが、保守論者の側から見ればリベラル系の「危険な」メディアも存在するだろう(わたしの主観から見ると、リベラル側でこれらに相当するのは Air America Radio くらいしか思い当たらないけれども)。

サンスティーンはブログの影響としてマスメディアが取り上げなかった問題をブログが取り上げて反響を起こした例をいくつか挙げているけれども、それらは一部のブログで話題になっていることをマスメディアが取り上げたからこそ大きな影響力を得たケースとも言える。また、政治的なブログの話題は何らかの形でマスメディアの記事をソースとしたものが多く、明らかにマスメディアに依存している。結局、これだけブログが一般的になったとはいえ、実際に大きな影響力を持つのは現時点ではまだ既存のマスメディアの方だろう。

米国では 1980 年代まで、ラジオやテレビにおいて社会的・政治的な論争となっている話題を取り上げる場合には正確かつ公平な扱いをしなければいけないと定めたフェアネス・ドクトリンというものがあり、、公共の電波において批判された人やグループは、批判者と同じフォーラムにおいて反論する機会が与えられることになっていた。新聞や雑誌においては認められなかった「反論権」がラジオやテレビにおいてのみ認められた理由は電波の周波数に限りがあり、既存のラジオやテレビに不満を持つ人が新たな放送局を作ることが困難だったからだ。そしてケーブルテレビや衛星放送、そしてもちろんインターネットの登場により周波数の「稀少さ」が相対的に軽減した現在では、仮にフェアネス・ドクトリンを復活させようとしても違憲判決が下るだろう、とサンスティーンは言う。

しかし現実には、いくら多様なメディアがあっても実際に大勢の人の目や耳に届くのはごく一部でしかない。稀少なのは周波数ではなく、人々の視線ではないのか。そういう意味では、希少な電波を使うメディアだから規制できて紙やインターネットはできないという区分ではなく、例えば同じ24時間以内に100万人以上のユニークな視聴者・読者・ビジターを得ているメディア、くらいの区切りでフェアネス・ドクトリンに近いものを再生することはできないものだろうか、と思う。なにも反論権でなくてもいい、せめてウソやや虚報ーー例えばオバマが少年時代イスラム教原理主義の学校に通っていたとか、イラクのフセイン大統領が 9/11 事件に関与していたとかーーを訂正する義務くらいは負わせられないものだろうか。

9/11 事件のついでに言えば、『2.0』になって一番酷いと思ったのがこの事件について書かれた部分だ。サンスティーンは、9/11 事件の直後に多くの米国人が「なぜわれわれ(米国)は憎まれるんだろうか?」と自問したことに触れたうえで、このように言う(かなり意訳、文句ある人は原文読むこと)。

ここまで読んできた読者ならば、その答えの一部はイスラム教や宗教に特有なことでも、オサマ・ビンラディンの言辞でもなく、集団分極化のプロセスをはじめとした集団心理的なものだと分かるはずです。(中略) 貧困でも、きちんとした教育を受けていないことでも、不利な扱いを受けていることでもなく、集団心理こそが重要な役割を果たすのです。
Since the attacks of September 11, 2001, many Americans have been focused on a simple question: Why do they hate us? We should now be able to see that part of the answer lies, not in anything particular to Islam, to religion, or even to the rhetoric of Osama Bin Ladin, but in social dynamics and especially in the process of group polarization. […] Social dynamics–not poverty, poor education, and disadvantage–play the key role.

つまりサンスティーンによれば、アルカイダは集団分極化によってほぼ説明が付いてしまうことになってしまうのだけれど、はっきり言って支離滅裂だと思う。そもそも集団分極化というのはもともと米国に敵意を持つ人が仲間内で話をするうちにより過激な反米主義者になることを説明できても、どうしてそんなに米国に敵意を持つ人がいるのかを説明できないわけで、「なぜわれわれは憎まれるのか?」という疑問への回答には全くなっていない。むしろこれは、サンスティーン自身が他国の視線に無頓着な「普通の米国人」という集団内において「アメリカが嫌われるのは嫌っている奴ら自身の問題で、自分たちに悪いところは全くない」というカスケードに巻き込まれていることを示しているように思う。

「貧困や教育が原因ではない」という部分では、9/11 事件の犯人は貧しい家庭の出身でもなく高等教育を受けたエリートだった、という記事が論拠なんだけれども、自分は虐げられた人々の中のエリートだという意識を持った人が自分の文化や民族のために使命に目覚めるというのはあっておかしくない。実行犯となった当人んたちが貧困層出身でなかったというだけで、例えば占領下で不自由な生活をしなければならないパレスチナ人や経済制裁によって引き起こされた医薬品不足で死んでいくイラク人たちの状況と「アメリカへの敵意」が無関係ということにはならないだろう。

この他にサンスティーンがも 9/11 事件に関連して取り上げるのは、事件の当日国防総省に旅客機は衝突していなかったという説やその他の陰謀論がどう広まったかという話ばかりで、例えば「フセインが 9/11 事件に関与していた」とか「占領下のイラクで米軍がフセイン大統領時代の大量破壊兵器を発見した」というような米国以外では誰でも嘘だと知っているようなデマは取り上げられていない。これらが主にインターネットのブログではなく、FOX News をはじめとした保守系メディアによって広められたものだから、本の趣旨に都合が悪かったのかもしれないけれど、せっかく集団分極化が民主主義に危機をもたらす話をしながら、その危機を外国のテロリストグループと同一視してしまうと、米国の民主主義を守るための教訓にはならない。

そういうわけで、サンスティーンの他の著作は(出し過ぎでちょっと内容薄いのもあるけど)評価しているのだけれど、『Republic.com 2.0』に限っていえばやや期待はずれ。『1.0』が出た時には、具体的な部分で多少違和感があってもその中心的な主張がかなり重要に思えたのだけれど(そういえば昔、同じようなことを書いて当時ネット礼賛状態だった河上イチローさんに批判されたっけ)、ブログや YouTube といった言葉だけ付け足したような『2.0』にはちょっとがっかりした。なんてゆーか、アップグレード料金取りたいがためにマイナーアップグレードなのにバージョン番号上げるなよ、みたいな。

ま、消化不良な分は、来月出る chiki さんの本に期待するとしよう。発売されたあとで、「chiki さんの言説がよいのかわるいのかという価値判断ではなく、chiki さんが声をあげることそのものに共感しているのです!」とかわたしに言わせないでね。> ちきりん

1 件のコメント - “実質マイナーアップデートだったサンスティーン『Republic.com 2.0』”

  1. 荻上式BLOG のコメント

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