全米女性学会2007報告/「反トランス」の立場に立つレズビアンフェミニストの矛盾

2007年7月2日 - 8:16 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

すでに斉藤正美さん山口智美さんが書いているけど、イリノイ州セントチャールズで開かれた全米女性学会で「日本におけるフェミニズムに対するバックラッシュ」に関する発表を、わたしを含めた3人にディスカッサントのノーマ・フィールドさんを加えたパネルをやった。去年の全米女性学会の模様は『バックラッシュ!』キャンペーンブログで紹介したので、今年もレポートする。

とは言っても、わたしが参加したのは発表当日の土曜日だけ。その日は朝8時にわたしたちのパネルがあったので、前日の夜会場となったホテルに集まって宿泊した。セントチャールズはシカゴから車で1時間と聞いていたので、当日の朝早くシカゴにある山口さんのアパートから来ることも考えられたのだけれど、結果的には前日来て正解。1時間のはずが延々と何もないーーというのは嘘で、途中何か訳の分からない中世の砦みたいなのがあったーー道が続き、あまりに遠いので道を間違えたかと思って思わずようやくみかけた店で地図を買ってしまった。

あとで聞いた話によると、女性学会はできればシカゴ市内で大会を開きたかったのだけれど、会場使用料が高くて離れた場所での開催となってしまったらしい。会場の様子はまさに山口さんの言う通り「いかにも中西部の田舎にあるリゾートホテル」。山口さんはベッド二つの部屋を予約したはずが一つしかない部屋をあてがわれた、と書いているけれど、周囲の話を聞いてみると同じ経験をした人が大勢いた。ていうか、ホテルレビューサイトの評判悪過ぎ。

ホテルの施設やサービスだけじゃなくて、大会参加者のうちレズビアンのカップルで参加していた部屋に嫌がらせの電話が複数あり、そのうち一部はホテル従業員の使う電話からかかっていたとか、ホテルの近くを歩いていたMTFトランスセクシュアルの人が「Faggot」と罵られたとか、黒人女性が物を投げつけられたとか、問題多発。将来の大会に向けて、会場選択の面で改善の余地ありそうだ。

それはともかくわたしたちの発表について。まずは山口さんが「ジェンダーフリー」をめぐる日本での混乱について話し、斉藤さんが富山市での学校給食における男女差別においてどのように「ジェンダーフリー」という概念が作用したかを語り、最後にわたしが一部保守勢力による『ブレンダと呼ばれた少年』の利用について発表した。わたしの発表はだいたい『バックラッシュ!』及び『週刊金曜日』掲載記事で書いたものと同じだけれど、特に「米国の白人男性エキスパート」の持つ権威がジェンダーフリーをめぐる国内の議論に利用されたことを中心に述べた。

わたしはエキスパートとして利用されたダイアモンドやコラピントにインタビューして、かれらの真意を発表することでそれに対抗したのだけれど、残念ながら「国内のフェミニストより国外の白人男性エキスパートの方が上」という価値判断は温存してしまったように思う。考えてみれば、かれらの意見が何であれ、日本における性差別問題やジェンダーフリーの問題についてほとんど知識も実績もないかれらの発言がそれほどまでに重要視されるというのもおかしな話だ。また、バックラッシュの間違いを修正するという作業に貴重な時間を割いてしまって、積極的に「こういう社会にしよう」「こういう教育にしよう」という主張や説得に集中できなくなってしまったことも、相手側に主導権を与えてしまったようなものであり、不十分だった。

ほかの二人の発表は、それぞれブログ等で発表してくれると思うので、任せます。

それ以外にわたしは3つのセッションを見たのだけれど、特に興味深かったのは「女性のためのスペース」をめぐるトランスジェンダーとフェミニズムの葛藤についてのパネル。企画したのは Joelle Ruby Ryan というMTFトランスセクシュアルの大学院生で、どういうわけだかレズビアンフェミニズムの立場からトランスセクシュアルの人に敵対的な発言で知られる Colorado College の女性学部長 Eileen Bresnahan も名を重ねている。わたしはこの Colorado College という大学に講演のため訪れたことがあるのだけれど、当時この女性部長は反トランスの信念から故意に FTM の学生を女性名や女性代名詞で呼んだりしたため、クィアの学生による団体と女性学部のあいだで全面対決が起きていた。また、彼女が女性学のメーリングリストにおいて「トランスジェンダーはレズビアンと違って保守勢力の保護を受けている」と主張しているのを見かけ、議論をしたこともある。

そういう経緯もあったので、この人は一体どういう発表をするのだろうかと不安に感じていたのだけれど、思っていた以上に価値のある内容だった。価値があるというのは、彼女の発言がトランスジェンダーの人たちに対して抑圧的ではないということでは決してないけれども、ラディカルフェミニズム・レズビアンフェミニズムの立場に立つ人がどういう論理でトランスジェンダーを否定するのかーーそれがわたしに言わせれば問題のある論理であり、どう考えても当事者を目の前にしてわざわざ本人が嫌がる呼称を使うことを正当化するほどのものではないとしてもーーきちんと説明していたという意味で、参加者にとって得ることの大きい発表だったのではないか。

そうわたしが感じたのは、ラディカルフェミニズムの論理を理解しないまま、「MTFの人を女性と認めないのは、生物学的本質主義だ」と決めつけて否定してみせるトランスジェンダーの論者やその支援者が後を絶たないから。ラディカルフェミニズムの論者の多くは確かに「女性を自認するMTFの人は女性として受け入れるべきだ」という要請を拒絶し、「いや、あなたは男性だ」と言うけれども、それは生物学的・生殖学的な状態をもって決めつけているわけではない。むしろかれらは、「わたしの性自認は女性なのだから、身体がどうであれ自分は女性なのだ」というトランスジェンダー側の発言に、生物学的なものとは違った種類の本質主義を見出し、批判する。かれらは男女の区分が構築されたものであることなど当たり前の前提としたうえで、「女性」として構築された集団の解放を目指しているわけ。

わたしはたまたまエリート校ではなくちょっと時代遅れの女性学部で勉強したおかげでラディカルフェミニズムの論理をちゃんと理解することができたのだけれど、有名大学になればなるほどラディカルフェミニズムは過去のものとして、あるいはカリカチュアライズされた批判対象として論じられるだけとなる傾向が強い。だから、最近のフェミニズム理論やクィア理論を元にしたトランスジェンダーの論者たちも、ラディカルフェミニズムを一枚岩で本質主義的で性を隠避していると不当に断じることが多い。(その一方で、Inga Muscio『Cunt: A declaration of independence』とか Eve Ensler『The Vagina Monologues』みたいな、70年代のラディカルフェミニズムから理論的には全く進歩しておらず、レトリック的には数段劣るような本や演劇が「新しい世代のフェミニズム」としてもてはやされるのだから、困ったものだ。)

ラディカルフェミニストの「反トランス論」は、「性別なんて社会的構築物で、社会的に男として育てられたけど『真の』性自認は女だなんてちゃんちゃらおかしい」というものであり、賛成できないけれども歯切れがいいし、かれらが「女性のためのスペース」からMTFトランスセクシュアルの女性を排除するのは論理的に筋が通っている(前提には異論があるが、論理展開は間違っていない)。でも「女性のためのスペース」におけるトランス排除を肯定する人たちの多くは、そこまでの理論や信念を持っているわけじゃない。あなたが女性であると言うのであれば女性であることは尊重するけど、それでも「女性のためのスペース」には入って来ないでくれ、という人が大半だ。こちらは、はっきり言ってまったく非論理的でわけが分からない。

そういう非論理的な相手と論争するトランスジェンダー活動家の側にも問題が多い。 Joelle Ruby Ryan は彼女の通う大学における Take Back the Night(性暴力に反対する集会&行進)が「女性のみ」の参加を認めていたことに対してFTMやジェンダークィアの参加を求める声が起きて論争になったことを紹介したが、内容的にちょっとどうかと思うような分析が多かった。彼女は Take Back the Night は「女性のスペース」ではなく「フェミニスト的なスペース」であるべきだと論じ、「男性が周囲にいると女性の安全が脅かされる、女性が自分が受けた性暴力の被害について発言しにくくなる」とする Take Back the Night 主催者の主張に対して「女性だけなら安全であり、安心して発言できるというのはおかしい、母親や同性パートナーなど女性によって傷つけられた女性はどうなるのか」と言っておきながら、最終的に「行進は誰でも参加可能、(被害についての発言などがある)集会は女性のみ」という妥協について「FTMやジェンダークィアも参加できるようになり、また集会における女性の安全も守られて良かった」と言ったりと、一貫性がなかった。「女性によって傷つけられた女性」の存在は、結局FTMやジェンダークィアが部分的に参加するための論拠として都合よく利用されただけなのだろうか。

それに比べて、「女性として生まれ常に女性として生活してきた女性のみ」とのポリシーによってMTFとFTMのトランスセクシュアルの人たちを両方とも排除しているミシガン女性音楽祭についての発表をした大学院生 Amy Barber の方がより説得力があった。彼女はミシガン女性音楽祭にまつわる多数の論争について研究していて、トランスに関わる部分はその一章なのだという。「トランスの女性はこういう面で違った経験をしているから(こういう特権を持っているから)排除しても良い」という主張に対して、それは全ての女性は同じ経験をしているとか、全ての女性が同じように抑圧を受けているという間違った認識を前提としており、不当であると彼女は主張する。そして、「女性」という社会的構築の境界はもともと曖昧なものであり、どのように定義しようとも明快な境界線を引くことは恣意的な権力関係を打ち立てることになると指摘するまでは良いのだけれども、それを元に彼女が提案するのは「自分は女性であると自認する人はすべて参加を認められるべきだ」というものであり、それ自体が一つの定義であり境界線であることに無自覚だ。

わたしは5年前に書いた論文で、「境界線の恣意性・権力性」という観点から、米国南西部におけるメキシコ国境のたとえを使ってこの問題を論じている。最近の非正規移民をめぐる米国内論争においても、まずそこに国境があり、それを超えてメキシコ人が侵入してくる、という図式がまるで自明のこととして論じられているけれども、これは順序が逆だ。もともとメキシコ人と呼ばれる人たちは米国西部からメキシコに渡る地域に居住していた先住民を祖先の一部に持つ人たちであり、カリフォルニアからテキサス、アリゾナ、ニューメキシコあたりはもともとメキシコ領だったのが、米国の侵略や国際謀略によって白人に奪われたものだ。すなわち、メキシコ人が昔から居住し自由に移動していた地域に、あとから国境が作られたのだ。

そうした国境を元のように戻すとすると、米国のほかの地域も全て先住民に返還しなければいけないことになり、それはどう考えても不可能だ。でも、かれらが単なる国内マイノリティや外国人ではなく「先住民」であることを考えれば、ビザや市民権の有無を問われずにいつでも自由に国境を行き来する権利くらいは、かれらにあって当然だとわたしは思っている。現在、安全に越境できる地点で米国が国境警備を固めたため、危険な砂漠地帯を通って越境しようとして死亡するメキシコ人移民が多く、毎年の死者数はベルリンの壁が存在した28年間のうちにそれを超えようとして殺された東ドイツ人の総数より多いが、かれらは「不法入国しようとしたから悪いのだ」と言われている。

トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちも、男性と女性の境界を侵犯する存在として、まるで国境を超えて米国に来るメキシコ人移民たちのように排除され、資格を証明しろと脅され、殺されても「性別を偽ったのが悪いのだ、自業自得だ」と鞭を打たれている。しかしわたしは、トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちは男女の境界を侵犯しているのではなく、男女の境界のほうがかれらを侵害していると考える。したがって、わたしはトランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちは、医療的診断や手術の有無を問われずに、いつでも自由に男性側にでも女性側にでも行き来する権利があると考えている。

わたしは、ミシガン女性音楽祭のような「女性のためのスペース」の存在を否定はしない。しかし、「男性/女性」というカテゴリに従って境界線を引くのであれば、そのどちらの側にトランスジェンダーやトランスセクシュアルの人が入るのかは、それぞれの個人がその時と状況に応じて自由に決めて良いはずだと思っている。 Barber が提案する解決策は、FTM やジェンダークィアを一律にーーすなわち、個々の事情や考え方や複雑なアイデンティティの在り方を問わずにーー排除しているという点で、また「性自認」という概念が階級的に特定の集団においてのみ流通しているものであるという点で、現状のポリシーよりややマシな程度の「明快な境界線」でしかない。

質疑応答で、参加者から「この全米女性学会において『女性のためのスペース』の問題はどうなっていますか?」という質問があり、ラディカルフェミニストの Eileen Bresnahan が「レズビアンフェミニストの間に、女性学会内部においてレズビアンだけの集まりが必要だという声がある」と答えた。すかさずわたしは手を挙げて、質問してみた。「その『レズビアンだけの集まり』が実現したとして、それに参加できるのは『レズビアンとして生まれたレズビアン』だけですか? それとも、過去に異性愛の関係を経験し、異性愛者としての特権を享受した『レズビアン』も、レズビアンとして認められるのですか? もし認められるのだとすると、どうしてMTFのトランスセクシュアル女性であるレズビアンは認められないのですか?」

実のところ、70年代にレズビアンフェミニストとなった人たちには、実際には今でいうレズビアンではなかった人が多い。例えばある著名なレズビアンフェミニストのミュージシャンは、「わたしがレズビアンフェミニストになるのは辛かった、なぜならわたしが男が好きで、男とセックスするのが大好きだったからだ」と言っている。つまり、かれら「レズビアンフェミニスト」の少なくない人たちは、もともとレズビアンではなかったけれど、性的指向としてではなく政治的な選択として「レズビアンとして生きる」ことを選んだ人たちだということ。だから、Bresnahan は決して「一度でも男性と恋愛した人あるいは性的関係を持った人はレズビアンではない」とは絶対に言えない。

でも、もし「元異性愛者で、異性愛者としての特権を享受していながら、自分の意志でレズビアンになった人」がレズビアンであると認めるのであれば、「身体的に男性として生まれて、男性としての特権を享受していながら、自分の意志で女性として生きる人」が女性ではないという主張が怪しくなってくる。もし「レズビアン生まれでレズビアン」以外のレズビアンも「レズビアンのためのスペース」に参加しても良いのであれば、「女性生まれの女性」以外の女性だって「女性のためのスペース」に参加して良いはず。 Bresnahan の主張の矛盾に気付いた会場が一斉に爆笑する中、彼女は「それは話が全然違う、昔男性と付き合ったことのあるレズビアンをレズビアンではないという人はいないけれども、MTFトランスセクシュアルを女性だと認めない人は大勢いるから違うのだ」と主張するのだけれども、「あることを認めない人がいること」は「認めないことが正しいこと」の論拠にはならないのでまったく無意味。彼女の発言を不快に感じていたトランスジェンダー当事者やトランスに好意的な参加者の溜飲はさぞ下がったことだろうと思う。

報告は以上。

斉藤さん、山口さん、ノーマ・フィールドさん、いろいろありがとうございました。また一緒になにかやりましょう。

26 Responses - “全米女性学会2007報告/「反トランス」の立場に立つレズビアンフェミニストの矛盾”

  1. ふぇみにすとの雑感@シカゴ Says:

    全米女性学会パネル報告…
    すでに斉藤正美さん、macskaさんが報告しているが、全米女性学会の土曜日の朝8時から、日本のフェミニズムに対するバックラッシュについてのパネルを行った。ディスカッサン (more…)

  2. みずすまし Says:

    Bresnahanさんの議論は,つまり「あなたがオカマなのは,(あなた個人の選択なので?)フェミニズムの関心である社会的・構造的な女性差別とは関係がない」ということでしょうか?
    うーん,「フェミニズムの関心のある問題と,トランスの人たちが問題だと感じていることは,別々の問題なので,別々に取り組みましょう」というのは一つの立場として成り立つかもしれない。ただ,それなら,別々の問題に取り組む別々の社会改良家(?)同士として相互に敬意を持とう,という結論でもよいはず。

  3. macska Says:

    みずすましさん:

    Bresnahanさんの議論は,つまり「あなたがオカマなのは,(あなた個人の選択なので?)フェミニズムの関心である社会的・構造的な女性差別とは関係がない」ということでしょうか?

    そうではないです。ラディカルフェミニストは男性ジェンダーに適応できない「男性」(とかれらが見なす存在)が出てくるのは「個人の選択」どころか必然的だと考えていて、そういった人たちはオカマとしてジェンダー制度と闘うべきであり、「女性」という抑圧的なカテゴリに適応すべきではない、と考えるわけです。MTFトランスセクシュアルの人たちが規範的な男性ジェンダーから疎外されていることには同情しつつも、だからといって女性として生きようとするのは古典的な女性ジェンダーの規範を強化するだけで間違いだとかれらは考えます。
    その先に考え方としては二つあって、一つはMTFトランスセクシュアルの人たちは男性ジェンダーに適応できない被害者であって、医療によって間違った救済を与えられて騙されているというもの、もう一つはかれらは父権性を支える男性の一部として、女性の連帯と尊厳を破壊するために女性の身体をフェティッシュ的な対象として構築することに加担しているというものです。これは、かれらラディカルフェミニストの性労働者に対する態度が「性暴力の被害者」もしくは「男性の性的欲求を肯定する裏切り者」に二分することと似ています。
    FTMに対しては、父権的な社会における女性の生きにくさを、社会変革によってではなく特権者たる男性側になることで個人的に解消しようとする試みであるとして批判しています。
    このあたりは、Sheila Jeffreys の「Unpacking Queer Politics: A Lesbian Feminist Perspective」を読むとよく分かると思います。

  4. みずすまし Says:

    なるほど。解説ありがとうございます。
    あー,耳学問で想像している「ラディカルフェミニスト」のモデルとしっくりきました。

  5. ラクシュン Says:

    [(…)「社会」構築主義、あるいは何かが「社会的に」構築されているといういい方は、人為に左右されない現象と思われている事柄(セクシャリティや病気や科学的事実や自然環境)についてはともかく、文化/社会的にしか構築されようがない現象(ジェンダーや家族やエスニシティや国家)について論じるときには、まったくの同語反復になる。]
    『社会構築主義のスペクトラム』 より

  6. makiko Says:

    まず、Janice Raymondとそのフォロワーが、生物学的本質主義に立っているというのは、彼女の著作をいかに読んでないかの現れですね。それからジェンダーアイデンティティに関する純粋主観主義というのも、それが脳の性分化説と結びついているかどうかはともかく、私はとりたくない立場ですね。ジェンダーアイデンティティは少なくとも、もっと間主観的なものだと思いますので。
    で、
    > しかしわたしは、トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちは男女の境界を侵犯しているのではなく、
    > 男女の境界のほうがかれらを侵害していると考える。したがって、わたしはトランスジェンダーやトランス
    > セクシュアルの人たちは、医療的診断や手術の有無を問われずに、いつでも自由に男性側にでも女性側にでも
    > 行き来する権利があると考えている。
    と書かれているのには、ものすごく感銘を受けるのだけれども、『バックラッシュ!』以降、境界がすでにあることを前提として、こちら側とあちら側の格差をさんざん論じられてきたことからして、かつてこちら側にいてあちら側に来た人と、もともとあちら側にいた人の格差については、暗黙のうちに論点にされているわけですよね? そう考えると5年前と違って、現時点でこう書かれるのには、かえって物凄い違和感を感じるところがあるのですが。
    というより、この場に居合わせられたのかどうか知りませんが、斉藤さんや山口さんの見解も聞いてみたいです。あるいは聞かない方がよいのかもしれませんが(苦笑)。

  7. macska Says:

    makiko さん:

    それからジェンダーアイデンティティに関する純粋主観主義というのも、それが脳の性分化説と結びついているかどうかはともかく、私はとりたくない立場ですね。ジェンダーアイデンティティは少なくとも、もっと間主観的なものだと思いますので。

    今回はなんだか話が合いますねー。
    そのあたりを makiko さんにもしっかり書いて欲しいです。
    既に書いていたら、どこで読めるか教えてください。

    『バックラッシュ!』以降、境界がすでにあることを前提として、こちら側とあちら側の格差をさんざん論じられてきたことからして、かつてこちら側にいてあちら側に来た人と、もともとあちら側にいた人の格差については、暗黙のうちに論点にされているわけですよね? そう考えると5年前と違って、現時点でこう書かれるのには、かえって物凄い違和感を感じるところがあるのですが。

    米国とメキシコの国境は恣意的・権力的な構築物ですが、両国のあいだのさまざまな差異ーー例えば経済格差ーーを論じることは可能であるばかりか、必要なことではないですか。その時に、「いやカリフォルニアはかつてはメキシコの一部だった」と言い出しても仕方がないわけで。そこに矛盾を見出すと言うのであれば、議論のレイヤーが違う話を混同しているように思います。
    斉藤さんと山口さんは、その時まったく別のパネルに行っていました。
    どういうパネルを見に行ったのか、確かに聞いてみたいですね。

  8. ラクシュン Says:

    >そうわたしが感じたのは、ラディカルフェミニズムの論理を理解しないまま、「MTFの人を女性と認めないのは、生物学的本質主義だ」と決めつけて否定してみせるトランスジェンダーの論者やその支援者が後を絶たないから。ラディカルフェミニズムの論者の多くは確かに「女性を 自認 するMTFの人は女性として受け入れるべきだ」という要請を拒絶し、「いや、あなたは男性だ」と言うけれども、それは生物学的・生殖学的な状態をもって決めつけているわけではない。むしろかれらは、「わたしの ・性自認 は女性なのだから、身体がどうであれ自分は女性なのだ」 というトランスジェンダー側の発言に、生物学的なものとは違った種類の本質主義を見出し、批判する。かれらは男女の区分が構築されたものであることなど当たり前の前提としたうえで、「女性」として構築された集団の解放を目指しているわけ。
    ラディカルフェミニズムがMTFを認めないのは、文字通りの「女性」としてなのか「フェミニスト」としてなのかはハッキリしませんが、おそらく両方なのでしょう。 しかしいずれにしても、「「女性」として構築された集団」とは、結局、生物学的性別・性自認・社会的役割付けの3つの条件を満たした集団でしかないとすれば、「「MTFの人を女性と認めないのは、生物学的本質主義だ」と決めつけて否定」するMTFの論理は筋が通っているのということではないでしょうか? レズビアンを入れたとしても、ラディカルフェミが同胞と認める対象は、一応普通の「女」として確定記述的に同定されてしまいますから。
    >ラディカルフェミニストの「反トランス論」は、「性別なんて社会的構築物で、社会的に男として育てられたけど『真の』性自認は女だなんてちゃんちゃらおかしい」というものであり、賛成できないけれども歯切れがいいし、かれらが「女性のためのスペース」からMTFトランスセクシュアルの女性を排除するのは論理的に筋が通っている(…)
    普通には、<性別なんて社会的構築物で、自分は社会的に女として育てられた>と言いor考えながら、陰でコツソリと<自分を「女」として自認>しているラディカルフェミニストの方が「ちゃんちゃらおかしい」ですよ。(笑)
    #ここで笑わなきゃ、もう笑えない(笑)
    #この可笑しさだけは誰も止められない(笑)

  9. ラクシュン Says:

    >でも、もし「元異性愛者で、異性愛者としての特権を享受していながら、自分の意志でレズビアンになった人」がレズビアンであると認めるのであれば、「身体的に男性として生まれて、男性としての特権を享受していながら、自分の意志で女性として生きる人」が女性ではないという主張が怪しくなってくる。
    というかBresnahanにとっては、「レズビアン」かそうでないかの区別は「生物学的」性別の範疇内の出来事ということですから、「生物学的」性別の境界を侵犯していないということでmacskaさんの主張とは次元を異にしていると思います。だからこそ上記の[Bresnahan的立場]についてのmacskaさんの肯定的見解があるのでしょう?
    >米国とメキシコの国境は恣意的・権力的な構築物ですが、両国のあいだのさまざまな差異ーー例えば経済格差ーーを論じることは可能であるばかりか、必要なことではないですか。
    気持ちは理解できます。 しかし、「トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちは男女の境界を侵犯しているのではなく、男女の境界のほうがかれらを侵害している」ということのメタファーやアナロジーとして「米国に来るメキシコ人移民」を使うなら、前者には後者と同様の時系列的因果関係があることを証明する必要があると思うのですが。
    太古の昔には、そんな因果関係(ジェンダー)なんて無かった、とか…。

  10. ラクシュン Says:

    あっ、存在論的に先だということなら解るような気はします(?)けど。

  11. ともみ Says:

    あー、いきなりご指名が!斉藤さんも私もこのパネルの時間帯は women of color feminismパネルに行っておりました。(友人が出ていたので、、)斉藤さんはぜんぶ出られたと思いますが、私は途中で抜けて、遠くに停めてあったクルマをとりにいったりなど、モロモロの活動をしていたので、このパネルもちゃんと見れていません。クイア関係のパネルも行ったけれど、私が遅刻したのと、ドタキャン報告者が多かったのもあり、肝心な報告部分はミスってしまったし、あとは「白人版ジェンダーフリーフェミニスト」っぽい方々のパネルに行ってしまってすぐ退場したりと(笑)パネル的にはいまいち恵まれませんでした。
    いづれにせよ、私の見解聞かないほうがいいかも、、ということですが(笑)macskaさんのパネル報告と感想を長い長い帰りの車の中でたっぷり聞かせてもらうという贅沢な(?)時間を過ごし、macskaさんの立場に単に賛同していたのでした。というわけで、あまりエキサイティングなリアクションができないのですが(笑)、『バックラッシュ!』書いた時は、その前のリブ映画ツアーの影響が色濃く残っていた時期だったのもあって、アイデンティティがらみのことについては、本質主義的っぽいこと書いちゃったかなーというのは、今からみれば反省点のひとつでもあります。

  12. いけだ Says:

    …う〜ん。たしかに居心地が悪いなぁ。自分の考えと対立するものであっても良い論考は読んでいて気持ちが良い事が多いのだが…
    わたしは基本的には自然科学の人間なので思想家の文章には余り詳しくないが、分類に関してはそれなりに考えるところがある。
    わたしの中のおんなとおとこはふたつのピークを持つ確率分布として表現される。そのように考えると様々な事柄を上手く説明できるからだ。
    だから完璧なおんな、完璧なおとこという存在はエンドメンバーとして仮定されてはいるが、自然界には存在しない。わたしはそう思っている。そうでなければ理解は勿論の事、おんなとおとこは会話も難しいものになってきてしまう。
    むしろ別の種として記載したほうが、その場合には適切だと思う。
    だから「オレは男だ!」そう叫ぶ論拠は確率論的因果性に基づくものと考えたほうが良い。
    自分の中に存在する男からはみでるもの、自分の中に存在する女、それを排除せずに認めてやったほうが良い。少なくとも人生が楽しくなる。

  13. いけだ Says:

    あ、書いているうちにともみさんのコメントが付いてしまった。
    このコメント欄、削除機能や編集機能って無いのですか?
    どうせなら付け加え
    同じ「生物学的本質主義」(って一体なんですか?生物畑でこのような言葉を耳にすることは滅多に無い)であったとしても、そのエンドメンバーを「男」と表現するか、分布のピークを「男」と表現するかで意味が相当違ってきてしまいます。よりファクターの多い分類法では更に混乱を招くばかりだろうと想像できます。
    いずれにしろ分類のどこに境界を置くかは恣意的で、その恣意性に妥当性をくっつけるのはいつも権威。その権威が上手く機能してこなくなると権力が露骨に顔を出す。そんな印象を持っています。

  14. macska Says:

    ラクシュンさん:

    しかしいずれにしても、「「女性」として構築された集団」とは、結局、生物学的性別・性自認・社会的役割付けの3つの条件を満たした集団でしかないとすれば、

    そうではないのです。
    ていうか、ラディカルフェミニズムの文献を読みもしないで「生物学的本質主義だ」と決めつけるのがおかしい、という趣旨の文章を読んでおきながら、まさにその「おかしい」ことをやってしまうんだからねぇ。

    普通には、<性別なんて社会的構築物で、自分は社会的に女として育てられた>と言いor考えながら、陰でコツソリと<自分を「女」として自認>しているラディカルフェミニストの方が「ちゃんちゃらおかしい」ですよ。(笑)

    だから、ラディカルフェミニストが実際に何と言っているかを読みもせずに、「自分を『女』として自認している」と決めつけるのはおかしい、とわたしは言っているのですが。

    というかBresnahanにとっては、「レズビアン」かそうでないかの区別は「生物学的」性別の範疇内の出来事ということですから、「生物学的」性別の境界を侵犯していないということでmacskaさんの主張とは次元を異にしていると思います。

    しかし Bresnahan は「生物学的性別」を本質とは認めておらず、性別も性的指向も社会的構築であるという立場なのです。
    いけださん:

    このコメント欄、削除機能や編集機能って無いのですか?

    ごめんなさい、ありません。
    もし訂正・削除したいことなどがあれば、その旨書き込んでくだされば大抵の場合はこちらで処理します。

  15. ラクシュン Says:

    >そうではないのです。

    >ていうか、ラディカルフェミニズムの文献を読みもしないで「生物学的本質主義だ」と決めつけるのがおかしい、という趣旨の文章を読んでおきながら、まさにその「おかしい」ことをやってしまうんだからねぇ。
    上野千鶴子がラディフェミ(マルフェミはオマケ?)なら少しは読んでいますよ。
    というか、その読まれていそうもない、ラディカルフェミニズムの解説らしきものであるmacskaさんの文章を読んだ上で書いたのです。一抹の不安は胸を過りましたけど。
    >しかし Bresnahan は「生物学的性別」を本質とは認めておらず、性別も性的指向も社会的構築であるという立場なのです。
    そうなると、私が書いたことは、単に世の中の多数派が承認する判断にすぎないということに格下げされてしまうんですかね。
    しかし、これにしたってヘンな話ですよ。だったら何よりも先に、レズビアンがどのように社会的に「構築」されるのかを説明する義務がこの人にはあるはずでしょう。それも多くの女ではなく、極めて少数派の女にだけその性指向性が「構築」されてしまうメカニズムについての説明です。
    面白そうですね。(笑)
    はっきり言えば、説明もできない構築について語ること自体が的外れです。
    つーか、macskaさんはそんな理屈をマジで受け止めているんですかね。
    これまでの、なんとなくの経験からですが、Bresnahanの立場をそれとなく利用しているようにも思えるんですけど。

  16. ラクシュン Says:

    もし仮に、何だって区別の境界は曖昧だからといった理由で、「男性ジェンダーに適応できない「男性」(とかれらが見なす存在)が出てくるのは「個人の選択」どころか必然的だと」するのがBresnahanの持論だとしたって、男性ジェンダーに適応できない男性が、「オカマとしてジェンダー制度と闘うべき」理由が差し当たり見当たりません。
    「男性ジェンダーに適応できない「男性」」≡「オカマ」
    などという法則はないと思いますから。

  17. ラクシュン Says:

    >FTMに対しては、父権的な社会における女性の生きにくさを、社会変革によってではなく特権者たる男性側になることで個人的に解消しようとする試みであるとして批判しています。
    しかし、性別と性自認と性役割の対応付けを「構築」されたものだとして批判的にあつかうなら、FTMの人たちは、その人為的であるはず(?)の「構築」から脱却した素晴らしい人たちとして賞賛されるのが筋ですよね。しかし現実はそうではない。
    だとすれば、やはり本にあるとおり、「構築」という用語には一時的なショック効果しかないということでしょう。

  18. macska Says:

    ラクシュンさん:

    上野千鶴子がラディフェミ(マルフェミはオマケ?)なら少しは読んでいますよ。
    というか、その読まれていそうもない、ラディカルフェミニズムの解説らしきものであるmacskaさんの文章を読んだ上で書いたのです。一抹の不安は胸を過りましたけど。

    話になりません。例えば、「生物学的本質論ではない」というのは、一つの例として「こういう誤解に基づく批判がよくあるから、ちゃんと読んでから批判すべきである」という事を言うために解説したのであって、読まなくても良いように解説したつもりは一切ありません。

    しかし、これにしたってヘンな話ですよ。だったら何よりも先に、レズビアンがどのように社会的に「構築」されるのかを説明する義務がこの人にはあるはずでしょう。

    説明くらいしているでしょ。あなたが読もうとしないだけ。

    それも多くの女ではなく、極めて少数派の女にだけその性指向性が「構築」されてしまうメカニズムについての説明です。

    ラディカルフェミニズムでは、極めて少数の女性だけでなく、全ての女性に開かれたものとしてレズビアンというものを考えます。文中にある通り、「男が好きで、男とセックスするのが好き」だという人までレズビアンなんですから。

    はっきり言えば、説明もできない構築について語ること自体が的外れです。

    「説明もできない」と勝手にあなたが決めつけているだけですね。

    つーか、macskaさんはそんな理屈をマジで受け止めているんですかね。

    理解もしていないのに「そんな理屈」と呼ぶのはどうかと。
    わたしはラディカルフェミニストではないので、ラディカルフェミニズムをラクシュンさんにも理解できるよう分かりやすく解説しようという動機がありません。ただ、文中で書いたように、トランスジェンダーの活動家やその同調者がラディカルフェミニズムを批判するときに、ラディカルフェミニズムを読みもせずに誤解したまま批判するということについては注意しています。なぜかというと、そういった批判は相手に届かず、相手の側に「こういった批判があるが、誤解に基づいており、自分たちは正しい」と思わせてしまうからです。
    現実にラディカルフェミニストが今でも存在していて、フェミニズム全体における割合は非常に少ないのだけれども、トランスジェンダーの問題だけでなく性労働の問題とかDVとかその他わたしが関わるところでことごとく対立するので、対抗せざるを得ないです。どんな馬鹿げた理屈でも、それがある程度の政治力を持てば相手にしないわけにはいかない。

    「男性ジェンダーに適応できない「男性」」≡「オカマ」
    などという法則はないと思いますから。

    法則じゃなくて、定義じゃないんでしょうか。
    もしかしてラクシュンさんは、オカマとは男性同性愛者のことだと思ってるのかな。

    しかし、性別と性自認と性役割の対応付けを「構築」されたものだとして批判的にあつかうなら、FTMの人たちは、その人為的であるはず(?)の「構築」から脱却した素晴らしい人たちとして賞賛されるのが筋ですよね。しかし現実はそうではない。

    構築から脱却することは無条件に素晴らしい、というのはラクシュンさんオリジナルの思想ですか? ここまで何も知らず理解していないことに自信をもって発言できるというのも、珍しいですね。
    ラクシュンさん、以前書き込みを遠慮していただいたはずですが、今回少し甘く見たらやっぱり失敗でした。内容も単なる無知によるトンデモ解釈だけで、相手にするだけ無駄ですし、かといって相手にしなければバカの感染源を放置することになってしまいます。大量に連続コメントするパターンも迷惑。というわけで、今後書き込まないでください。トラックバックは受け付けます。

  19. Yugui Says:

    えっと、まずは”The Transsexual Empire”を読もうとは思うけれども恐くて手を出せないでいるMtFトランスセクシュアル、という立場からのコメントです。
    ラディカルフェミニズム「反トランス」の仮定する前提を受け入れるならその立場には筋が通っていると思います。なので、私もつい先ほどまでその立場に由来するトランスセクシュアル排除を批判はしないつもりだったのでした。今回、
    > 「元異性愛者で、異性愛者としての特権を享受していながら、自分の意志でレズビアンになった人」
    との類似性の指摘に、もう一度考えてみるべきかもしれないと思いましたけれども。
    私の周囲の状況に関して言うならば、確かに「わたしの性自認は女性なのだから、身体がどうであれ自分は女性なのだ」という本質主義を通じて構築された観念の強化に加担するということにおいて、トランスセクシュアルは無実ではないですね。「性自認は女性なのだから…」というナイーブな主張に本人が賛同しているかどうかは別として、個人の選択の問題に矮小化する圧力へ対抗するための政治的な選択としてこの種の本質主義的主張は有効です。
    気になりましたのは、
    > その先に考え方としては二つあって、一つはMTFトランスセクシュアルの人たちは男性ジェンダーに適応できない被害者であって、医療によって間違った救済を与えられて騙されているというもの、もう一つはかれらは父権性を支える男性の一部として、女性の連帯と尊厳を破壊するために女性の身体をフェティッシュ的な対象として構築することに加担しているというものです。
    というふたつの立場です。私からすると、人間の自己同一性において身体の把握は重要なものであると思えます。例えば(技術的に可能であったとして)任意の個人の身体を交換した際に必ずしもその状況に適応可能であるとは思えない。なので「医療によって間違った救済を与えられて」いるという彼らの解釈には賛同しかねます。
    第三の立場として、医療的な救済は必要だけれども自己の女性性の根拠として性別役割への不適応だけをクローズアップするような論は認められない、といったようなものは彼らにとってありえないのでしょうか。では何が根拠なのかという話になるんでしょうか。

  20. macska Says:

    Yuguiさん、はじめまして。

    えっと、まずは”The Transsexual Empire”を読もうとは思うけれども恐くて手を出せないでいるMtFトランスセクシュアル、という立場からのコメントです。

    あれは凶悪ですからねぇ。周囲にその手の人たちがいて対抗上必要とかいうことでもなければ、無理して手を出さなくてもいいんじゃないかと思うんですが。

    ラディカルフェミニズム「反トランス」の仮定する前提を受け入れるならその立場には筋が通っていると思います。なので、私もつい先ほどまでその立場に由来するトランスセクシュアル排除を批判はしないつもりだったのでした。

    ラディカルフェミニズムにとって「反トランス」の立場は必ずしも根本的なイデオロギーではなく、少なくともMTFの人たちについては「ラディカルフェミニズムで、なおかつ親MTFトランス」という立場は可能です。が、わたしはラディカルフェミニズムはそれ以前の根本の部分で致命的に間違っていると思うので、トランスセクシュアル排除の有無に関わらず徹底して批判する立場です。

    第三の立場として、医療的な救済は必要だけれども自己の女性性の根拠として性別役割への不適応だけをクローズアップするような論は認められない、といったようなものは彼らにとってありえないのでしょうか。

    基本的にありえないでしょう。性同一性障害関連の医療行為は、本来であれば社会に適応できないからこそ社会の変革へと向かうはずの人たちを、身体を変更することで社会に適応させることだというのがかれらの考え方ですから。ここで社会への適応といっているのは性別役割の問題だけではなくて、男女二元制そのものが適応を迫る社会的抑圧だとかれらは考えるわけです。
    仮に男女二元制とは全く関係なくて、なんとなく身体改造してみたいからペニス取っちゃって、みたいなケースだとどうなるんだろうという気もしますが、基本的にラディカルフェミニズムは医療技術に批判的なので多分認めてもらえないと思います。ラディカルフェミニズムは「虚偽意識」(本人があることを望んでいたとしても、実際には社会によってそう思わされているだけであり、本当にその人の考えだとは認められない、という考え方)を認めるので…

  21. makiko Says:

    なんか荒れてますが(汗)
    macskaさん
    > そのあたりを makiko さんにもしっかり書いて欲しいです。
    > 既に書いていたら、どこで読めるか教えてください。
    いや、まだ書いていませんし、近々というスパンでは書こうとも思っていません。
    書くとすればきっちり実証研究にすべきだと思いますので。
    というか、今の情勢では下手にやると個々の当事者には明らかに不利な方向に利用されてしまうと思います。それを回避する力は今の私にはないです。
    > 例えば経済格差ーーを論じることは可能であるばかりか、必要なことではないですか。
    これも「FtMはDQNが多い」とか、ステレオタイプな議論との闘いになってくると思いますので、印象批評は慎むべき論点だと思います。
    まあ、私自身もおそらくそう思われているのでしょうけど、カネと権力欲丸出しのMtFとかがいるのは明らかですし、そういう意味では身体的適合性以上に、性同一性障害の「早期発見・早期治療」は重要なのかもしれませんけど(w
    ラクシュンさん
    一点だけ
    > 普通には、<性別なんて社会的構築物で、自分は社会的に女として育てられた>と言いor考えながら、
    > 陰でコツソリと<自分を「女」として自認>しているラディカルフェミニストの方が「ちゃんちゃらおかしい」ですよ。(笑)
    いや私も、いわゆるラディカルフェミニズムとアイデンティティ政治の関係というのはあまり整理できていないのですが、暗黙の前提として、女性アイデンティティを共有していること、というのがあったと思います。ただ、この点は(日本では)つい最近まであまり注目されていなかったということですね。
    ともみさん
    > アイデンティティがらみのことについては、本質主義的っぽいこと書いちゃったかなーというのは、今からみれば反省点のひとつでもあります。
    本質主義的かどうかでなくて、アイデンティティを基盤とするかどうかが問題だと思うのですが。
    この辺はきっちり論をたてさせて頂いた方がよろしそうですね。
    Yuguiさん
    > えっと、まずは”The Transsexual Empire”を読もうとは思うけれども恐くて手を出せないでいるMtFトランスセクシュアル、という立場からのコメントです。
    いや、あれはいい本ですよ(笑)。
    医療批判という点では、あれの右に出る本はないと思います。もちろん、最近の障害学をふまえたものでは全然ないですが。
    macskaさんが書かれている「性同一性障害関連の医療行為は、本来であれば社会に適応できないからこそ社会の変革へと向かうはずの人たちを、身体を変更することで社会に適応させることだというのがかれらの考え方」というのは、私は全然否定するつもりがなくって。
    ただ、彼女の論理からすると、男として生まれた者は一切女の領域に踏み込むな、という結論になるわけで、結果的にMtFの存在そのものを否定することになりますね。
    田中玲さんのようなFtMの立場からすれば、フェミニズムとトランスジェンダリズムは整合性をもちうるのかもしれないけれども、MtFというポジショナリティからすると、フェミニズムとトランスジェンダリズムは根本的なところで相容れなくて、ジェンダーフリーによる懐柔とか、性同一性障害概念による棲み分けを行わなければ、理屈の上では、議論を徹底すればするほど対立が深まるようにも、最近は感じていますが・・・。

  22. macska Says:

    makikoさん:

    いや、まだ書いていませんし、近々というスパンでは書こうとも思っていません。
    書くとすればきっちり実証研究にすべきだと思いますので。
    というか、今の情勢では下手にやると個々の当事者には明らかに不利な方向に利用されてしまうと思います。それを回避する力は今の私にはないです。

    そうですかー、残念。

    これも「FtMはDQNが多い」とか、ステレオタイプな議論との闘いになってくると思いますので、印象批評は慎むべき論点だと思います。
    まあ、私自身もおそらくそう思われているのでしょうけど、カネと権力欲丸出しのMtFとかがいるのは明らかですし、そういう意味では身体的適合性以上に、性同一性障害の「早期発見・早期治療」は重要なのかもしれませんけど(w

    うーん、なんだか話がずれているような。
    makiko さんが話していたのは、「男性と女性の差異」ですよね? 境界が恣意的だと言いながら、差異を論じるのはおかしいんじゃないか、みたいな。なんでトランスの人たちのステレオタイプの話がここで出てきたんだろう。

    いや私も、いわゆるラディカルフェミニズムとアイデンティティ政治の関係というのはあまり整理できていないのですが、暗黙の前提として、女性アイデンティティを共有していること、というのがあったと思います。

    いや、それは無理矢理トランス的な意識を当てはめて「暗黙の前提」を見出しているだけでしょう。だって、ラディカルフェミニズムにおけるアイデンティティの捉え方は、トランス業界におけるそれと全然違うもの。
    トランス業界では、女性を自認することを「female-identified」のように言うことがあります。しかしラディカルフェミニズムの文脈で「female-identified」というのは、「女性のことを最優先に考える」という意味であって、女性であっても男性中心主義に疑いを持たない人や、時にはヘテロセクシュアルの女性を「male-identified」だと呼んで批判します。
    これからも分かる通り、ラディカルフェミニズムの文脈でアイデンティティという時、それは自分は男なのか女なのか他の何かなのか、みたいなこととは無関係で、政治的に「女の側か、それとも男の側か」という意味になります。今で言う「性自認」という意味のアイデンティティなんて認めてなかったし、現に少なくないラディカルフェミニストは本気で「家父長制を打倒すれば、男も女もない社会になる」と考えていたはずです。
    女性アイデンティティ云々の話は、ラディカルフェミニズムより後のカルチュラルフェミニズムのあたりなら通じるんじゃないかと思いますが。

    いや、あれはいい本ですよ(笑)。
    医療批判という点では、あれの右に出る本はないと思います。もちろん、最近の障害学をふまえたものでは全然ないですが。

    トランス当事者による医療批判もそこそこあるのに、そこまで言いますか。
    最新エントリにも書いてますが、Julia Serano の本よろしくね。

    田中玲さんのようなFtMの立場からすれば、フェミニズムとトランスジェンダリズムは整合性をもちうるのかもしれないけれども、MtFというポジショナリティからすると、フェミニズムとトランスジェンダリズムは根本的なところで相容れなくて、ジェンダーフリーによる懐柔とか、性同一性障害概念による棲み分けを行わなければ、理屈の上では、議論を徹底すればするほど対立が深まるようにも、最近は感じていますが・・・。

    そのようにはわたしは思わないですけど、そのあたりも makiko さんに論文としてきちんと書いて欲しいですねー。って希望ばかり出してますが、それだけ期待しているというコトで。

  23. makiko Says:

    > なんでトランスの人たちのステレオタイプの話がここで出てきたんだろう。
    これは単に世間側の話です。私がそう論じるのでなくて。
    > これからも分かる通り、ラディカルフェミニズムの文脈でアイデンティティという時、それは自分は男なのか女なのか他の何かなのか、みたいなこととは無関係で、政治的に「女の側か、それとも男の側か」という意味になります。
    うんうん、理念としてはそうだけど、だったらそこに男性やMtFがいてもかまわないはずで。
    もちろん、かれらが「女の側」であると証明する立証責任の問題とすることもできるけど、そんな簡単な問題でもないですよね?
    カルチュラル・フェミニズム(エコロジカル・フェミニズム含む)なんかは確かに女性アイデンティティがあって女性文化が存在し、みたいな感じですよね。昔、日本のいわゆるエコフェミ論争について調べたことがありますが、ともすれば主流のLGBT運動に近いものがある(だからこそ批判的に見ておく必要がある)ようには思いますね。
    ところで、macskaさんのラディカル・フェミニズム批判は、どこかにありますか?(英文可)
    > トランス当事者による医療批判もそこそこあるのに、そこまで言いますか。
    文脈からして、フェミニズムからのという留保つきで。
    でも、アメリカもむしろ日本に近づいて、当事者と医療の全面対決を避ける傾向が強まっているように思えますが、思い違いでしょうか。
    > そのあたりも makiko さんに論文としてきちんと書いて欲しいですねー
    田中さんの本の書評として書こうとは思っていたのですが、時期を逸したという感じですね。というか、ある団体の運営方針をめぐる対立そのものだったから、あんまりおおっぴらにすべきものでもないですし・・。
    論点は違いますが、伏見さんのもtummygirlさんとこで書くと宣言したっきりですし、「バックラッシュ」の山口さんの論文についても等々・・いろいろたまってます(苦笑)。

  24. macska Says:

    どもですー。

    うんうん、理念としてはそうだけど、だったらそこに男性やMtFがいてもかまわないはずで。

    ラディカルフェミニズムは男性がフェミニストになっても構わないという主張に同意するはずですが、なにか。

    昔、日本のいわゆるエコフェミ論争について調べたことがありますが、

    ああ、日本のはいろいろ違うところがあるみたいですからねー。

    ところで、macskaさんのラディカル・フェミニズム批判は、どこかにありますか?(英文可)

    メールで出しておきました。

    でも、アメリカもむしろ日本に近づいて、当事者と医療の全面対決を避ける傾向が強まっているように思えますが、思い違いでしょうか。

    そもそも医療との全面対決なんてしていなかったと思いますが… 対立しないとしても、医療に従順なんじゃなくて逆に医療の権威を気にしないから対立もしないだけ、みたいな感じもあるんじゃないかと思いますし。医療の側も改善しているのは事実ですし。「The Transsexual Empire」における批判のかなりの部分はアップデートを迫られるはずです。

  25. makiko Says:

    > ラディカルフェミニズムは男性がフェミニストになっても構わないという主張に同意するはずですが
    だから、それがなんで分離主義に結びついていったのか小一時間ry
    ここには論理的な脈略はない、ということでよいのですね?
    別の板で問題になっている、りかちゃん男キモイと同じような、そういう次元の話なのでしょうかね?
    > メールで出しておきました。
    ありがとうございます。ではこちらの分はメールで。(数日かかると思います)
    > そもそも医療との全面対決なんてしていなかったと思いますが
    DIDの話をトランスジェンダーにも持ち込んでいくための伏線と理解させていただきます。
    そろそろ日本のGID研究会で発表なさってはいかがですか?w

  26. macska Says:

    makikoさん:

    だから、それがなんで分離主義に結びついていったのか小一時間ry

    ラディカルフェミニズムは必ずしも分離主義を要請しませんが、そもそもレズビアンフェミニズムにおける分離主義というのは男性の拒絶ではなく女性を関心の中心に据えることなので、男性の場合、分離主義的なコミュニティに入れてもらえなくても、その外側で分離主義的な実践=女性を関心の中心に据えることは可能なはずです。

    DIDの話をトランスジェンダーにも持ち込んでいくための伏線と理解させていただきます。

    乖離性人格障害 (dissociative identity disorder) ですか? というのは別として、文脈上 Disorders of Sex Development のことですね。そうだとして、どうしてわざわざその話をトランスジェンダーに持ち込まなくちゃいけないのか。トランスジェンダーを中心に世界が回っているわけじゃないんですよ。

    そろそろ日本のGID研究会で発表なさってはいかがですか?w

    そんな、米国で開かれる WPATH (HBIGDA) やらトランス系研究会でも発表しないのに。
    日本は makiko さんに任せますからー♪

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