組織に無限の責任を負わせない「セクハラ対策」のあり方

2006年12月13日 - 6:55 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

普段見ないサイトだけど、偶然見てしまったのでコメント。 CNET Japan にブログの形で掲載されている「ギートステイト制作日誌」の最新号で、哲学者・批評家の東浩紀さんがいじめやセクハラ、ドメスティックバイオレンス(DV)といった文脈で最近関心を呼んでいる「精神的な暴力」という課題についてこういう発言をしている。

この「精神的な暴力」なるものはとても厄介な概念です。なぜなら、精神的な暴力については、どこまでが暴力でどこまでが暴力でないか、その境界画定がきわめて難しいからです。だれもが経験していることだと思いますが、同じ言葉、同じ行為が、あるときは暴力になったり、あるときは親愛表現になったりします。あとから解釈の枠組みが変わることもあります。「あのとき実は俺はおまえの言葉で傷ついていたんだ」と言われてしまったら、反論するのはきわめて難しい。そういう性質をもっています。
にもかかわらず、私たちの社会は、その「精神的な暴力」の管理を学校に求めようとしています。実はこれは、いじめだけの話ではありません。DVやセクハラ、パワハラなど、現代社会は、精神的暴力の管理にたいへんに敏感になりつつあります。
しかし、これはたいへんに難しい要求です。なぜなら、いま言ったように、精神的暴力については、なにが暴力でなにが暴力でないか、決定するのがきわめて難しいからです。 (…)
そして現在では、それはもはや単なる個人間の問題だとは見なされません。そのような環境を放置していた管理者側の責任も厳しく問われます。つまり、このコミュニケーションという、たいへん曖昧で、しかも本質的に計量化不可能なリスクの管理を、義務教育の現場に限らず、大学や企業をはじめ、あらゆる組織が求められるようになっているわけです。

こうした背景を説明したうえで、東氏はそのことから想定できる将来像を予測している。

この変化の行く末には、どのような社会が想定されるでしょうか。ひとつの可能性は、免責事項の整備による訴訟リスクの軽減です。たとえば、学校や企業が、あらかじめ生徒や職員に対して、「組織内で起こるハラスメントはすべて個人間のものであり、組織には責任はない」旨の免責条項を提示する、ということが考えられます。 (…)
しかし、もっともありそうなのは、コミュニケーションの記録の徹底化なのではないかと思われます。これは、コストが低く、しかもひとびとの心理的な抵抗も少ないと思われるからです。近い将来、私たちは、小学校の教室での子どもたちの会話、研究室での教授による学生の指導、会議室で行われる上司の部下への説教、それらすべてをとりあえず電子的に記録し、信頼できる第三者機関かなにかに預け、普段は見ることができないけれど将来「あのとき私は暴力を受けた」と苦情を申し立てられたときのために備えておく、そういう社会に突入するのではないか。そういう気がします。

もちろん東氏は「こうあるべきだ」ではなく「こういう未来が来るかもしれない」ということを予測しているのであり、またいまの常識では考えにくいような近未来の社会を予測することがそもそもギートステイトというプロジェクトの目標だとは思うのだけれど、この将来像が「組織は全く関与しない」もしくは「組織が全てを監視する」という両極端のオプションしか想定していない気がするのはわたしだけだろうか。
これはわたしがセクハラについてこのブログで書かなくてはいけないとしばらく思っていたことにも関連するので、本来の論旨からはずれるけれどそちらの話をしたい。というのも、セクハラを無くすことを要求して様々な運動を続けてきたフェミニストや労働運動家が求めているのは、東氏が想定しているような完全たるコミュニケーションの管理ではない。また、かれらが管理側に対して引き受けるよう要求している責任は、組織内の全てについて無制限の責任を負えということでもない。
セクハラについて管理側に求められている責任というのは、なによりも第一に予防措置だ。ここにはまず、セクハラについての適切な知識を伝えるなどの社員教育やスタッフ教育のようなものが含まれる。そこで伝えられる情報の中には、組織内の誰かにとって不快なできごとがあったときに誰に相談すればよいのか、どのように処理されるのか(後述)といった内容も含まれる。
第二に、組織の中で誰かにとって不快なできごとが起きたときに、その人の相談を受け付け、それをエスカレートさせずに解消するための仕組みだ。東氏に言われるまでもなくコミュニケーションというのは本質的に曖昧で複数の解釈を可能とするものだから、よほど酷いケースーー例えば、犯罪として対処するほかないようなものーーを除いては、この時点ではミスコミュニケーションとしての扱いとなる。すなわち、「加害者と被害者」という前提でものを見るのではなく、ある人の言動が別の人にとって不快と感じられたのであれば、どうすれば両者が気持ちよく仕事や学問に打ち込めるかという形で仲介する。
もちろんこうした扱いには程度問題があり、一方に明らかに悪意が認められる場合や、誰が見ても一方的な加害行為である場合などは、仲介は不適切だろう。また、両者が気持ちよく働ける方法に合意したあとで問題が続くようであれば、その時はじめて合意違反があったかなかったか、あるいは追加の合意が必要であるかという判断をすることになる。また、仲介を求めたことに対する報復があったと認定されれば、それも問題とされる。一定以上の規模の企業や大学であればセクハラ対策の方法を特別に訓練されたスタッフを雇うことができるはずだし、そうでなければ外部の専門家に委託するという方法もある。
この場合、組織に求められる責任というのは、社員教育などの形でセクハラ予防プログラムを実施すること、特別な訓練を受けたセクハラ対策スタッフを用意して相談や仲介にあたらせること、そして明らかに悪意が認められる場合・誰が見ても一方的な加害行為である場合・また仲介を受けての合意に違反した場合などにおいて、加害者を処罰すること、程度があげられる。そのうえで、それだけの対策をしておけば組織の責任は問われないような法律もしくは司法判断があれば十分ではないか。逆に言うと、もし組織の責任が問われるとすれば、それは合理的な対策を怠ったことについて問われるのであって、「組織内で何かが起こった」というだけでは組織の責任にはならない。
「誰一人、まったく傷ついてはいけない」という極端な要求をすれば、極端にパターナリスティックな監視社会か極端な自己責任社会のどちらかを帰結するのは当たり前。わたしが説明している考え方のポイントは、予測可能・回避可能なリスクだけを組織に負わせるということ。コミュニケーションが時に不快で人を傷つけ合うことになることを当たり前の前提としたうえで、それが組織において(特に、組織内の地位などの権力関係と交錯して)エスカレートしないような方策を取るのが正しい対処ではないか。それ以上の責任を組織に求めるのは無謀だ。
問題があるとすれば、精神的な圧迫から相談すらできずに泣き寝入りしていた人が、あとから訴えることができない(証拠が残らない)ことくらいか。たしかに、上司と部下、指導教官と学生といった関係では、いくら「相手を加害者と決めつけるわけではない」といっても第三者の仲介を頼むことには抵抗があるだろう。この点については、まず仲介を前提とせずに相談だけでもできる窓口があると良いし、「仲介を頼んだ」ことにたいする報復を厳しく罰することも効果があるはずだ。また仲介を担当する専門スタッフがきちんとした訓練を受けているなら、加害者かもしれないと名指しされた人が暴発しないようなケアも果たせるかもしれない。
もちろんこれは「こうあるべき」という議論。現実には、企業は「対策に手を抜いてコストを浮かせる」ことを選択するなり、逆に訴訟リスクを最小限に抑えようと過剰に介入的なポリシーを取ったりすることが考えられる。前者については、対策の手を抜いた時のリスクを上昇させれば済む話であり、要するに訴訟で敗訴したときに賠償金をごっそり取るなどが考えられるが、そうすると今度は後者の危険が増えてくるような気がする。過剰な介入、たとえば東氏が想定している「どこでも監視カメラ」を実現させた場合、組織の生産性はやや下がるかもしれないけれども、訴訟に比べれば安定かつ予測可能なコストだもの。
そうした問題を防ぐ合理的な方法となると、セクハラ対策スタッフの認定制度でも作って、問題のある担当官は再訓練を受けるまで資格を剥奪されるようにでもするか… そうすることで、きちんとセクハラ対策をやっておけば組織の責任は問われないということがはっきりすれば、過剰な介入は避けるかもしれない。うーん、昨日からちょっと熱気味で、そこまではちょっと頭が回らない。とゆーか、わたしの考えている近未来ってせいぜい10年くらい後の話でしかないな。それより先は10年後に考えることにします。
【追記】
ちなみに、DVにおける「精神的な暴力」の認定はそんなに曖昧なものではないです。その手法は出版されている論文でもきちんと説明されていますし、特にクィアDVに関わっている人のあいだでは広く使われています(異性愛カップルのDVでは、支援者のあいだに「女性が言うことが正しい」という予断が根強いためあまり使われていない)。研究者の方で詳しく知りたい人がいればメールください。

5 Responses - “組織に無限の責任を負わせない「セクハラ対策」のあり方”

  1. 田中 Says:

     東浩紀さんの文章のその部分は、セクハラを無くせとかとは関係なく、単に冤罪の防止ということでしょう。コミュニケーションを記録することで暴力の発生を抑止する、という発想は読み取れません。病院で、手術を撮影しておいて、医療過誤訴訟に備えるとかいうのとおなじ感じでしょう。それ自体は、証拠をそろえられないと負ける、というだけの話なので、精神的暴力がどうとかも関係ないのです。
     そして、そのサービスをだれが購入するのかは明示されていません。教員や管理職が保身のために個人でそういうサービスを購入するという可能性は別に排除されていないような。実際、原文の後のほうでは「ひとびとが、幸せな家庭を作るために、あるいは社会的な信頼を得るために、自発的にお金を払って購入する」というサービスが想定されています。ハラスメント被害者が購入するということもありえるでしょう。証拠集めのために小型録音機材を持ちあるくというのはすでに広くおこなれているところですから、あれになにか証拠能力を高めるような機能を付加して売り物にすればいいのですよね。
     東浩紀さんの議論にあたらしいよそおいがあるとすれば、「記録」をいつの間にか「監視」にすりかえているところです。しかしそこがあまりにも強引。最初は「信頼できる第三者機関かなにかに預け、普段は見ることができないけれど将来「あのとき私は暴力を受けた」と苦情を申し立てられたときのために備えておく」となってたのが、いきなり「児童虐待やDVを自動的に関知〔ママ〕し、行政か民間の福祉サービスに通報するシステム」に化けてる……「境界画定がきわめて難しい」というのがそもそもの問題だったはずですが、なんでそんなものを自動的に判定できるんでしょうか。だいたい、必要なのは、DV等の申し立てに反論できるだけの証拠能力を備えた記録をのこしておくことだけなんですから、自動通報なんてのは余計な機能でしょう。多少想像力を飛躍させすぎのようです。
     余談ですけど、なにかあったときのアリバイ証明になるからというので、買い物をしたときはとにかくレシート (日付・時刻入り) をもらって捨てずにおいておく、という人の話を思い出しました。

  2. macska Says:

     こんにちはです。

    東浩紀さんの文章のその部分は、セクハラを無くせとかとは関係なく、単に冤罪の防止ということでしょう。

     ええ、しかしそういう冤罪が懸念される理由として、組織に対して「セクハラを無くせ」「組織内で起きたセクハラの責任を負え」といった要求が寄せられることが原因とされていませんか? しかし少なくともセクハラに関しては、セクハラを問題としてきた人は東さんが想定するほどの全く予測不可能なリスクを負えとは要求していない。

    教員や管理職が保身のために個人でそういうサービスを購入するという可能性は別に排除されていないような。

     それはそうですが、そういうサービスをみんなが購入しなければならない社会というのは、やっぱりあんまり望ましい社会だとは思えないのです。
     東さんの言う通り、「精神的暴力」に対する関心が高まることは、そうしたサービスへの需要を拡大させると思います。身体的な暴力であれば、傷跡なりその他の物理的証拠が残るはずなのでまったくのデタラメで加害者に仕立て上げられる危険はそれほど意識されないけれども、「精神的暴力」であればちょっとしたミスコミュニケーションによって「傷つけられた」とあとから糾弾されかねない。それが不安だから、コミュニケーションの客観的証拠として証拠記録サービスが要求されるわけですね。
     しかしそれは、やはり「傷つけられた」の一言で糾弾されてしまうという仕組みの方がおかしいとわたしは思うのです。人間同士が何らかの関係を持つ以上、お互いにいつか何らかの形で傷つけ合うことは避けられないわけで、それが一方的にエスカレートしないようなフォローが必要だというわけ。

  3. バジル二世 Says:

    このエントリはかなり共感します。

    たしかに、上司と部下、指導教官と学生といった関係では、いくら「ち相手を加害者と決めつけるわけではない」といっても第三者の仲介を頼むことには抵抗があるだろう。この点については、まず仲介を前提とせずに相談だけでもできる窓口があると良いし、「仲介を頼んだ」ことにたいする報復を厳しく罰することも効果があるはずだ。

    まあ、セクハラについて疑問点はあるにはありますが、本当に被害に遭っている人たちに対してこうした制度を整備することは大変妥当であるように思われます。

  4. バジル二世 Says:

    で、今後10年の近未来については、セクハラの嘘の噂を流された人たちなどにもこれは有効たりうるのだとも。
    ところで、被害者の側も異動させられているのがつい最近聞いた事例でのことです。被害者がそういう処置をどう受け止めているのか分からないので、いいとも悪いともいま言うことができないのですが、こうしたことに今後どういう答を出すのか、関心がありますね。

  5. がじゅまる Says:

    macskaさん、はじめまして。私は、DV被害当事者支援に関わる仕事をしています。どのようにメールを差し上げていいか分からなかったので、コメントとして送らせていただきました(スミマセン。読んでいただいたら削除お願いします)。
    この記事の【追記】に書かれている、DVにおける「精神的な暴力」の手法に関して詳しく知りたいのですが、関連論文等について教えていただけないでしょうか。
    よろしくお願いいたします。

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