小谷野敦さんの回答を検証する(プラス小谷野さん専用コメント欄)

2006年7月9日 - 9:59 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

さて、改変につぐ改変を繰り返す小谷野氏に耐えかねてわたしが提示した7つの質問に対し、小谷野氏は一応の回答をよせてきた。今度はこの回答をあとから改訂するようなことはしないで欲しいのだけれど、順番に検証していく。なお、小谷野氏は「小山のコメント欄での議論は、小山と一対一でやれるならともかく、匿名の第三者が入り込んできたりして面倒なことこの上ないから、お断りである」と書いているが、なるほどこれはもっともなので、このエントリのコメント欄では小谷野氏(とわたし)以外の発言を禁じる。何か意見を書きたい人は、掲示板に書いてください(匿名の人の意見は、多分小谷野氏には無視されます)。
さっそく第1・第2の質問。

 小山エミというのが「マチカ」の名であることは、当人から前に聞いていたが、明かさなかったのは周知の通りである。さて、ミクシィに載せた『バックラッシュ!』への批判では、私はウェブ上のマチカ発言と、同書での小山エミの発言を混同している(ので削除訂正した)。ただどう見てもマチカ=小山エミであることは明らかなので、そういうことにして答える。
1)mixiで書いた第1の批判について。小谷野氏は、わたしが『バックラッシュ!』内でかれの「だいたいは生まれつきでジェンダーは決まる」という発言を批判したと書いているが、実際にはわたしはその発言を何ら批判していない。つまり、小谷野さんの批判は間違いであったということでいいですか?
answer: 上に書いたとおり。
2)小谷野氏は、「だいたいは生まれつきでジェンダーは決まる」ということへの反証としてわたしが「アメリカでも100人くらい、事後的にジェンダーが変わった例がある」と『バックラッシュ!』に書いている、と書いているが、実際にはわたしはそのような記述をしていない。つまり、小谷野さんの批判は間違いであったということでいいですか?
answer: 上に書いたとおり。

「上に書いたとおり」ということは、すなわち以前の議論で書いた話と『バックラッシュ!』の論文を混同して、『バックラッシュ!』とは無関係の批判を『バックラッシュ!』に対して行ったが、それは間違いだったと認めていることになる。それなら「間違いでした」とストレートに回答してくれたら良かったのだけれど、上の2点については解決したこととする。
第3の質問については後述ということなので、次に第4の質問に飛ぶ。

4)小谷野氏は小倉千加子氏の著書をわたしが取り上げないことについて「逃亡した」「避けている」「正々堂々とせよ」と批判しているけれど、前回議論したときに小倉さんについてわたしが既に立場を表明しており、またこうして議論に応じていることから言ってもちっとも「逃亡していない」ことを認めますか? (『バックラッシュ!』でも取り上げるべきだった、という批判については、わたしはそのような必要性があったとは思わないけれども、意見の相違としてそういう考え方もあるのだなと受け入れます。しかし、必要でないと思ったから言及していないことを「正々堂々としていない」と評価されるのは不当だと思います。)
answer: 小倉著を取り上げていないことで批判したのは荻上チキである。しかし、これだけ私が『セックス神話解体新書』について、前回の論争以来述べているのに、未だに当該書を読んでいないというのは、どうなのか。

つまり、小谷野氏は「小倉氏の著書を避けている」という批判は荻上チキ氏に対する批判であり、わたしに対する批判ではなかったのだから、撤回するまでもないと言っている。これが正しいかどうかは、以下のような小谷野氏の意見を読めば明らかだ。

だが2000年にコラピントの『ブレンダと呼ばれた少年』が出て、マネーの実験が失敗だったことが明らかになると、翌年出た『セクシュアリティの心理学』で小倉は見苦しい弁明に終止し、上野千鶴子は小倉著を絶賛したのである。私はこの小倉著については繰り返し語っているのだが、フェミニスト連はこの点だけは常に黙殺する。なぜ誠実に「小倉著は間違っていました。でも」と言わないのか。荻上チキにしても、結局は逃亡した。小山エミもまた、しかりである。上野、小山、荻上は、小倉著について正々堂々と総括したらどうか。
[…]
その意味で、文庫で版を重ねている小倉著の影響力は絶大である。米国滞在の小山エミには、日本における「文庫版」というものの力は分からないのだろう。それにしても、八木秀次らとの鼎談でも私は小倉著をあげているのに、上野の『差異の政治学』ばかり問題にして、それにはなぜか触れないのは、どう見たって変なのは小山のほうである。確かに八木は小倉著を問題にしていない。しかし私はかねてから、上野著などより小倉著のほうが重大問題だと考えているし、言っている。矛先を私に向けるなら、小倉著について総括しなければアンフェアだろう。

どう読んでも、chiki さんだけでなくわたしも批判されている。名指しで明確に批判しておきながら、反論されると「あなたに対して言ったわけじゃない」というのは言い逃れだ。わたしに対して「逃亡した」「避けている」「正々堂々とせよ」と言ったことが間違いであったのであれば、撤回を求める。
つづいて第5の質問。

5)小谷野氏は、「いったいなぜ『性自認は事後的に変えられる』などと主張しなければならないのか」と書いているが、わたしは知り得る限りの科学的知識を元に妥当な合理的認識を示しているだけであり、特定の主張に固執してはいない。もし小谷野氏が「固執している」と言うのであれば、わたしが何か自説に不利な情報を排除しているとか、そういう具体的案根拠が必要です。小谷野さんは、わたしの動機を揶揄するに足りるような、具体的な根拠が存在しないことを認めますか?
answer: 認めない。『バックラッシュ!』が「フェミニズム」というイデオロギーの上にたった政治的な書物であることは明らかだからだ。私は八木らとの鼎談でも、上野千鶴子が、「ジェンダー」という概念は学問的に中立ではない、政治的な概念だと述べていることを批判している。小山は、「新しい歴史教科書をつくる会」や『正論』『諸君!』を「保守系」と括っているが、「新しい歴史教科書」そのものを読んだことがあるのだろうか? いったい、「科学的知識」において、「保守」という語はどのように定義されているのか、教えてもらいたい。

なんでこのような見苦しい言い逃れをするのか。「性自認は事後的に変えられるかどうか」というのはイデオロギーで決められることではなく、科学的に解明すべき問題であり、もしわたしがイデオロギー的にある答えに固執しているのであれば、それは批判に値する。しかし、わたしは知り得る限りの科学的知識を元に判断を下しているのであり、具体的にどのような科学知識を根拠としているかは文中もしくは脚注で述べている。それでも「固執している」と批判しているのであれば、例えばわたしが自説に都合の良い研究だけを取り上げ、都合の悪い研究を無視しているなど、具体的な根拠を述べるべきだ。それが述べられないのであれば、単なる邪推で中傷するべきではない。根拠が挙げられないのであれば撤回せよ。

6)小谷野氏は、上記の揶揄に続けて「まあ『女性学会』とかにいる人は、論文書かないと出世できないからね」と書いているが、わたしは女性学会のメンバーではないし、アカデミックなポストを持たないことは既に以前メールで小谷野氏に伝えた通りだ。すなわち、ここで小谷野氏はわたしについて単に邪推したにとどまらず、知っているはずの事実を知らない振りして印象操作を行っている。小谷野さんは、そうした印象操作を行ったことを認めますか?
answer: そういうつもりはなかった。ただ一般論として言っている。

これまた見苦しい言い逃れだ。普通の読者が「いったいなぜ『性自認は事後的に変えられる』などと主張しなければならないのか、別にそんな主張をしなくたって、男女平等や同性指向者解放は十分可能であろう。これはまさに朝鮮における儒教論争や、文化大革命みたいなもので、空理空論で争って目標を見失うの類である。まあ「女性学会」とかにいる人は、論文書かないと出世できないからね。」という部分を読めば、それは一般論ではなく誰か特定の論者に対する批判であると思うはずだ。そしてそれは文脈上、わたしに対する批判でしかあり得ない。なぜなら、少なくとも「性自認は〜」の部分はわたしに対する批判だと小谷野氏は認めており、だったらそれと同じ段落で唐突にわたしとは無関係の一般論が書かれているという解釈は不可能だからだ。一般論として言っているだけでわたしへの批判ではないのであれば、そのように明記して欲しい。

7)小谷野氏は、「小山エミと荻上チキは、長谷川眞理子先生を「バックラッシュ派」として批判したらどうかね。そんなこと怖くてできないよねえ。生物学者に論破されたらおしまいだもんね。」と書いているが、どうして長谷川氏を「バックラッシュ派」として批判しなければいけないのか分からない。わたしは長谷川さんの文章をほとんど読んだ事がないのだが、具体的にわたしが長谷川氏との論争を避けていることを示す根拠があれば提示していただきたい。小谷野さんは、そうした具体的根拠を提示できないことを認めますか?
answer: 認めない。なぜ長谷川眞理子をほとんど読んだことがないのに、バックラッシュ派ではないと言えるのか。私は長谷川『オスとメス=性の不思議』を読んだが、長谷川著のどこを読んでも、小山が主張するような「性自認は生まれつきと環境で決まる」などと主張されているのを見たことがない。なお長谷川氏は、小山エミに批判されたとしても相手にしないだろうから、「論争を避ける」は当たらない。

話にならない。小谷野氏はわたしが生物学者である長谷川氏に論破されるのが怖くて批判できないかのように言っているが、そのように判断している根拠はあるのかとわたしは言っているのだ。「具体的根拠を提示できないことを認めるか」と聞かれて「認めない」と言うのであれば、具体的根拠を示すべきではないのか。それなのに示していないということは、結局本人が認めようと認めまいと「具体的根拠を提示できない」のだと判断せざるをえない。
なお、わたしは長谷川氏がバックラッシュ論者「ではない」と決めつけてはいない。わたしが読んだ限りにおいてそうだとは思わないというだけ。なるほど、『オスとメス=性の不思議』という本を読めば、わたしの認識とは違うことが書かれているのかもしれないし、実際に批判する部分もあるかもしれない。しかし、わたしは自分と意見が違うだけで相手を「バックラッシュ」と呼ぶつもりはない。現に小谷野さんのこともバックラッシュとは思っていないし、そう書いてきた。
さて、ここで第3の質問に戻る。

3)以前議論した際、わたしは遺伝子的・ホルモン的に完全に男性であるにも関わらず女児として育てられたケースについて具体的な研究を挙げながら、「大人になって男性として生きることを選択する人も多いけれど、女性として生きている人も4割いる」という事実を紹介しました。mixiにおいて小谷野氏は「2億人いるうちの100人程度なら、いないも同然」というような批判をしていますが、全部で100例ちょっとしか報告されていないうちの4割が女性として生きているという時に「2億人のうち40人だけ」という話をしても無意味であり、詭弁にすぎないことを認めますか?
[…]
さて、2億人中100人の問題だが、この下のコメントで、小山が挙げているのは特殊な例ではないか、という疑念が呈され、その途中で小山は「トランスジェンダー」の例を挙げているが、既に繰り返し言っている通り、トランスジェンダーは生まれつき、環境的には男/女として育てようとしているにもかかわらず生物学的性自認と異なる性自認を持ってしまうものだから、却ってジェンダーの先天的決定論を強めるばかりである。そのことは宮崎哲弥も言っているわけで、なぜ小山は宮崎を批判しないのか、あるいはスティーヴン・ピンカーを批判しないのか。

このようにわたしの主張を曲解するのは止めていただきたい。わたしはそのような文脈で「トランスジェンダー」の例を挙げてはいない(それは上野千鶴子氏であり、彼女に対する批判には同意する)。わたしが挙げているのは、遺伝子的・ホルモン的に正常な男児と全く変わらないとされている総排泄腔外反症男児であり、インターセックスでもトランスジェンダーでもない。かれらが女児として育てられた例が100件ほど報告されており、そのうち6割程度が男性として生きることをのちに選択もしくは男性としてアイデンティファイすると回答しており、残りは女性のまま生きている。このことから、生まれ持った遺伝子的・ホルモン的特徴の影響は強いけれども、それだけで性自認は決定されないことが分かる。
もちろん、総排泄腔外反症男児は特殊な例であり、正常な男児はそのようにはならないという可能性はある。しかし、現在性自認に最も大きな影響を与えるとされているのは胎児期のホルモンシャワーであり、総排泄腔外反症男児は通常の男性と同じホルモンシャワーを浴びて成長するため、少なくとも性自認に関しては通常の男児と限りなく近いと考えられている。これはわたしだけが言っていることではなく、関連分野の専門家はみんなそう考えている。少なくとも、正常な男児を強制的に手術によって性転換するという実験が到底認められない以上、できるだけそれに近い既存の例を参照することで正常の男児にとっての性自認発達についての有力な仮説を得ようとするのは当然のこと。少なくとも現時点では、「生まれも育ちも影響する」というのが学問的良心に照らして最も合理的な仮説であると判断するのが当然だ。
小谷野は「なぜ小倉を批判しないのか」「なぜ長谷川を批判しないのか」の次は「なぜ宮崎を批判しないのか、ピンカーを批判しないのか」と言うが、そりゃ何らかのきっかけがあればかれらに対して批判することもあるでしょうよ。別に何らかの理由があって避けているわけじゃない。現に宮崎氏が「週刊文春」に掲載したコラムについては、中村美亜著「心に性別はあるのか?」及び田中玲著「トランスジェンダー・フェミニズム」の解釈が間違っており、ことによっては批判しようかと思っていたところだ(ちなみに、わたしは中観派仏教に強い関心と共感を持っており、そうした立場から発言をしている宮崎氏には意見の是非を越えてシンパシーを感じている)。
それにしても、「2億人」を持ち出すことが詭弁であることには何の反論もしていない。反論できないのであれば、素直に認めるべきではないだろうか。それもできずに、他人に「正々堂々」を説くなと言いたい。
質疑応答はこれで終わりなのだけれど、「異性愛の擁護」について小谷野がまだおかしなことを言っている。

なお『異性愛の擁護』について、小山は、同性愛こそ正しい、というような風潮が米国に本当にあったのかと述べているが、これは人文系インテリの世界での風潮の話である。現に私は「異性しか愛せないなんて、かわいそうな人」と言われたことがある。

あのね、小谷野さんはたまたまそういう体験を一度しただけでしょ? 同性愛者が「同性しか愛せないなんて、かわいそうな人」というようなことを、どれだけ日常的に言われていると思っているわけ? 明らかに後者の方がもう比較にならないくらい圧倒的に強い風潮でしょ。「異性愛こそ正しい」という風潮はあっても、いくら人文系インテリの世界でも「同性愛こそ正しい」という風潮は一切ない。たまたま冗談まじりにそういう発言をする人がいたとしても、それは「異性愛こそ正しい」という風潮への反発もしくはパロディで言っているだけであり、風潮なんてものじゃない。
第一、「異性愛の擁護」は人文系インテリの世界について書かれたものなんですか? 違うでしょ。どこかのトンデモ系心理カウンセラーが、「このままでは同性愛者が正常で異性愛者が異常となってしまう」という、まったくあり得ないような被害妄想をはたらかせて自費出版した本でしょ。そのカウンセラーはどう考えても「人文系インテリの世界」の住人ではなし、「人文系インテリの世界」だけに存在する風潮について書いたわけでもない。
もし「人文系インテリの世界に『同性愛こそ正しい』という風潮がある」とするのであれば、それへの根拠として「異性愛の擁護」を挙げるのは完全に間違い。一般社会にそういう風潮がある証拠の1つとしてであれば挙げられるかもしれないけれど、一般社会にそういう風潮がないことは既に小谷野氏は認めている。つまり、小谷野氏の発言自体が、「異性愛の擁護」がトンデモ本であることと、かれの自説の根拠とならないことを同時に証明している。知らないことを知ったかぶりするから墓穴を掘るんだよ。
最後に、7月9日付けの日記にまたまた苦しい改訂。

マネーはたった一人で、しかも85歳だけど、「フェミニスト」は次から次へと出てくるからね。ダイヤモンドだって、フェミ集団には遠慮するでしょう。

ダイアモンドがフェミニストに何ら遠慮しない証拠として、かれは最近ジュディス・バトラーが書いた「Undoing Gender」という本がかれの見解を曲解して紹介していると激怒していて、ことあるごとに批判していることが挙げられる。バトラーと言えば現代フェミニズムの超大物であり、今の学界ではマネー以上の権威。ダイアモンドは、そのバトラーを正面から批判しているのよ。小谷野さん、知らなかったでしょ? まったく知識がないくせに、こうした邪推とか揶揄ばかりするのはやめてください。まじめに議論している人たちの邪魔です。
なお、繰り返しますがコメント欄は小谷野さんだけに解放します。他の人の発言は全て削除するのでそのつもりで。もし他人が小谷野氏の名前を騙った場合は、小谷野氏からわたしにメールするか、ブログの方で「この発言は偽物」と書いてくだされば即刻削除します。以上。

6 Responses - “小谷野敦さんの回答を検証する(プラス小谷野さん専用コメント欄)”

  1. 小谷野敦 Says:

    お答えします。
    >どう読んでも、chiki さんだけでなくわたしも批判されている。
     そうです。それは、前回の論争であげたにもかかわらず、なぜ『セックス神話解体新書』を読んでいないのか、という箇所ではっきりさせています。
     また「保守」というのは科学的にどう定義されるのか、という質問に答えていませんね。このような発言をする小山さんが「政治的意図」を持っていると推定するのはしかたのないことです。
    >総排泄腔外反症男児は特殊な例であり、
     その通りです。だから「だいたいは生まれつきで決まる」と言ったのですが、間違っていますか?
    たとえば性転換手術などというものができる前は、性転換はなかったわけで、そのような医学技術の発達を前提とするなら、将来は男も妊娠できるようになるかもしれません。ところでこれはまったく虚心な(つまり論争的態度ではなく)お尋ねするのですが、小山さんが主張するようなことを、日本で述べている医学者、あるいは論文があったら教えてください。
     岩波書店の『文学』という雑誌が「ヘテロセクシズム批判」という特集を組んだことがあります。なるほど、ヘテロセクシズムというのは「異性愛中心主義」であって、異性愛を排除するものではない、と言えましょう。しかし『男同士の絆』より先に訳されてしまったセジウィックの『クローゼットの認識論』は、異性愛者こそカムアウトすべきだ、と述べています。ただ、これらは1990年代の話であって、今では同性愛解放運動は下火になってしまっており、私はむしろ日本でもヨーロッパ並みに同性婚姻法をたてるべきだと考えています。
     ジュディス・バトラーが権威だというのは、これまた人文学の世界でのことで、精神分析は既に医学の世界では疑似科学としか見なされていません。それに、ダイヤモンドが『朝日新聞』に自分から売り込んだ、と言っていたのは小山さんではありませんか?

  2. macska Says:

    こんにちはです。コメントありがとうございます。実はいま空港(パブリックWi-Fi)で、これから水曜日までラスヴェガスでコンファレンスに参加です。旅先でゆっくりとネットにつなぐ時間があるかどうかわかりませんが、遅くても木曜日にはきちんとお返事します。

  3. 小谷野敦 Says:

    では補足しましょう。
     小山さんは「新生児の性別は生物学的に決定されていて、いっさい変更不能である」という説が立証されたわけではない」と書いていますね。私はもちろん、そう主張しているわけではありません。だから「だいたいは生まれつきで決まる」と言ったのです。それに対して、そもそもの発端である『朝日新聞』のダイヤモンドのコメント「生まれつきと育て方の両方で性が決まる」というもの、これは、日本語の語感としていえば、男児でも女児のように育てれば性自認が変わるようにしか読めません。だから批判したのですが、どこか間違っているでしょうか?「総排泄腔外反症男児」が医学的処理によって女児として育つ、というのは「育て方」ではないでしょう。たとえば「宦官」というのは、ほぼ成人してから去勢したものですが、男性ホルモンの分泌が減少し、身体、精神が女性的になると言われています。もっとも、いずれのケースも、男から女への移り変わりです。胎児はもともとは女児なのだから、男が女になる、または近づくことはありうるが、逆はない、ということでいいでしょうか。
     なおスタンレーの「被害妄想」ですが、小山さんもご存知かと思いますが、たとえばフェミニストの教授が主催するゼミのような場にいれば、あたかもそこで「白人(または日本人)の男で異性愛」というのがなにか罪悪であるかのような雰囲気が作られることがあります。スタンレーが被害妄想を抱いたとすれば、何かそういう条件があったからだろうと思います。

  4. macska Says:

    たった今ラスヴェガスから帰宅しました。泊まったホテルの部屋は、いまどき Wi-Fi でもEthernetでもインターネット接続がなかったばかりか、電話のコードが外れないようになっていたのでダイアルアップ接続すらできませんでした。酷すぎ。そんなに安い部屋じゃなかったんですが。おかげで、せっかく持って行った iBook を一切ネットに繋ぐことができませんでした(コンファレンスの合間にちょっとだけ仕事はできたので全くの無駄ではなかったのですが)。
     というわけで、お返事は次に書きます。が、小谷野さん日記消しちゃったのね? 議論を辿りにくくなっちゃうから途中で削除するのは止めて欲しいんだけどな。

  5. macska Says:

    こんにちはです。
    では回答です。

    なぜ『セックス神話解体新書』を読んでいないのか

    興味もないし、取り寄せるのも大変なのに、小谷野氏が言及していたというだけの理由でどうして読まなければいけないのか。だいたい、再三自分から話題にして自説の根拠にしている『異性愛の擁護』を読んでいない小谷野氏に、なぜ小倉氏の著書を読んでいないからといってそんなに非難されるいわれがあるのか。
    そもそも、小谷野氏の批判は以下のようなものだった。

    小山エミ(引用者注:macska の筆名)は、アメリカでも100人くらい、事後的にジェンダーが変わった例がある、と、小谷野敦の「だいたいは生まれつきでジェンダーは決まる」という発言を批判しているが、2億人のなかの100人なら「だいたい」でしょ。「だいたい(On the whole)」を否定するなら、2億人中3000万人くらいは事後的にジェンダーが変更されてなきゃダメでしょ。そもそもジョン・マネーのブレンダ実験を援用して、ジェンダーなんて曖昧なものなのだという話を広めたのは小倉千加子の『セックス神話解体新書』。だがこの連中は決してこの本に触れず頬かむりである。(mixi)
    だが2000年にコラピントの『ブレンダと呼ばれた少年』が出て、マネーの実験が失敗だったことが明らかになると、翌年出た『セクシュアリティの心理学』で小倉は見苦しい弁明に終止し、上野千鶴子は小倉著を絶賛したのである。私はこの小倉著については繰り返し語っているのだが、フェミニスト連はこの点だけは常に黙殺する。なぜ誠実に「小倉著は間違っていました。でも」と言わないのか。荻上チキにしても、結局は逃亡した。小山エミもまた、しかりである。上野、小山、荻上は、小倉著について正々堂々と総括したらどうか。(猫を償うに猫をもってせよ)

    どう読んでも、「小倉著を取り上げていないことで批判したのは荻上チキ」であり、わたしに対する批判はただ単に「いまだに小倉著を読んでいないこと」だけとは読めない。仮に「macska には小倉著を読んでおく責任があった」としても(そんな責任ないけど)、「決してこの本に触れず頬かむり」「正々堂々と総括したらどうか」という批判は一切あたらない。間違った批判をしたのだから、まずそれを撤回したうえで別の批判をするべきです。

    また「保守」というのは科学的にどう定義されるのか、という質問に答えていませんね。

    議論に無関係だから答える必要ないと思ったのですが、あえて答えると普通に一般の意味で使っていますよ。八木氏らが保守系の論者であることや、「正論」が保守系言論誌であることは一般常識だと思っていたのですが、どこか違いますか?
    だいたい、わたしは自分に「政治的意図」がないとは言っていない。学問的良心というのはまったくどのような政治的意図も持たないということではなくて、どんな思想信条を持っていたとしてもそのために科学的事実を捩じ曲げたり、自分に都合のいい事実だけ選択的に採用したりはしないことを言うのではないんですか?

    だから「だいたいは生まれつきで決まる」と言ったのですが、間違っていますか?

    間違っています。そして、間違っているということが科学的に妥当である根拠をわたしは述べてきました。わたしの見解がおかしいというなら、小谷野さんも根拠をきちんと挙げてください。

    小山さんが主張するようなことを、日本で述べている医学者、あるいは論文があったら教えてください

    米国の医学論文なら関連するものは一つ残らず読んでいますが、日本でどのような医学者がいるのかわたしは知らないです。小谷野さんは英語が分かるのだから、総排泄腔外反症と性自認の研究では最も有名なオクラホマ大学病院の William G. Reiner 氏あたりに電話してみてはいかがでしょうか。

    ジュディス・バトラーが権威だというのは、これまた人文学の世界でのことで、精神分析は既に医学の世界では疑似科学としか見なされていません。

    だから、ダイアモンドがその人文系のフェミニストや同性愛者の圧力に弱いと決めつけたのは小谷野さんのほうでしょ。それへの反証として、ダイアモンドはフェミニズムや人文学の大権威を堂々と批判しているじゃないかと言っているのに、精神分析が医学でどのように見なされているかを論じたところで一切反論になっていません。議論を逸らしているとしか思えない。「ダイヤモンドが『朝日新聞』に自分から売り込んだ、と言っていたのは小山さんではありませんか」というのも、今の議論にどのような関係があるのか。

    そもそもの発端である『朝日新聞』のダイヤモンドのコメント「生まれつきと育て方の両方で性が決まる」というもの、これは、日本語の語感としていえば、男児でも女児のように育てれば性自認が変わるようにしか読めません。

    そうとしか読めないとしたら、小谷野さんは学者を引退すべきです。もしダイアモンドが「育てだけで性が決まる」と言ったのであればそのように読むのが正しいけれど、育てだけではなく生まれつきの傾向も重要であると言っているのだから、小谷野さんの解釈はおかしい。って、どうしてそんなバカみたいなことをわざわざ説明しなくちゃいけないのか。

    「総排泄腔外反症男児」が医学的処理によって女児として育つ、というのは「育て方」ではないでしょう。

    育て方と生物学的要素とどちらも重要だというのがダイアモンドの立場であり、わたしもそれに同意しているわけですが何か?

    胎児はもともとは女児なのだから、男が女になる、または近づくことはありうるが、逆はない、ということでいいでしょうか。

    よくないし、今の議論に無関係。まったくもう、文学研究というのはこんなに感性だけで何でもかんでも決めつけていいわけですか?

    たとえばフェミニストの教授が主催するゼミのような場にいれば、あたかもそこで「白人(または日本人)の男で異性愛」というのがなにか罪悪であるかのような雰囲気が作られることがあります。スタンレーが被害妄想を抱いたとすれば、何かそういう条件があったからだろうと思います。

    小谷野さん、言う事がコロコロ変わり過ぎ。最初はアメリカに「同性愛の方が正しい」という風潮があると言い、次にそれはインテリの間だけだと訂正し、さらに「異性愛の擁護」の著者がどう見てもインテリではないと分かると、たまたま大学で受けた授業の1つにおいてそういう雰囲気があったのではないかと言い出す。どっちにしても、もし小谷野さんの言う通りであればこの自費出版本は著者の被害妄想の産物でしかないわけで、そんなのを根拠に何かを主張していたのは根本的に間違いでしょ。余田話はまず間違いを認めてからにしてください。
    ちなみに、この自費出版本の著者ってかなりのご年輩では。フェミニズムが猛威をふるう時代に大学に通ったとはちょっと思えないのだけれど。

  6. macska dot org Says:

    小谷野敦『すばらしき愚民社会』文庫版加筆部に見る「ニセ科学」…
    以前このブログで議論の相手として登場した小谷野敦氏が、文庫化された『すばらしき愚民社会』の加筆部分でその議論に関連してわたしの悪口を言っていると chiki さんに教え (more…)

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