「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだ
2006年5月29日 - 3:37 PM | |前回、伊田広行氏のパフォーマンスを批判した文章を書いたのだけれど、かれの考え方の中心理念らしい「スピリチュアル・シングル論」というのがちょっとよく分からなかった。唯一、斉藤正美さんによる「しかし、男性の立場性を見直すことをせず、自分だけは『スピリチュアル・シングル』であることを主張し、女はジェンダーに囚われていると説教する」といった間接的な記述から、「なるほど、自分は社会的属性から自由な個だと思い込むという、社会的強者にのみ許された『素朴さ』を肯定しちゃうモノなのか」みたいに受け取った。というのは、もちろん意地悪な解釈であって、伊田さんが読めば「全然違う」と言うということは、だいたい想像が付くけどさ。
社会保障制度の議論において、家族を最小の単位とする制度から個人を単位とする制度に変えようという意味の「シングル」単位論なら分からないでもない。でもそこに「スピリチュアル」がつくと突然「<たましい>」がどうしたとかいう話がでてきて訳が分からなくなる。ネットで見かけた伊田氏の記述の中には、かれがスピリチュアルだと感じる対象の中に障害者や性的少数者らが例示され、困難な状況に置かれたにもかかわらず人間性を失わずに果敢に生きている様子が描写されたりしているのだけれど、そもそもどうして障害者や性的少数者がそんな困難な状況に置かれているのかという考察が欠けていて腹立たしい。障害者や性的少数者の生き様に「<たましい>」を震わせられた、ああ素晴らしい体験をしたなどと言ってないで、さっさと障害者や性的少数者が直面する障壁の撤廃に全力を尽くせと言いたくなる。
そう思っていた時発見したのが、Act Against Homophobia のサイトに4月に掲載された伊田氏のコメントだ。ある程度詳しく「スピリチュアル・シングル」という立場を説明している文章としてはちょうど良いと思う。しかも、コメントのテーマがホモフォビアに反対して性的少数者の権利を守るという政治的課題であることも好都合。というのも、わたしはかれのスピリチュアリティの有り様に文句を付ける気は一切なくて、ただ「スピリチュアル・シングル」なるものが政治的な言説として有効かどうか検証したいだけだもの。
前置きが長くなったけれど、そのコメントから引用する。
異性愛者は、自分が異性愛者だとさえ考えていない。つまり、多数派は自分を多数派だとさえみていない。そういう意味で、まさに多数派の側の問題なのだ。自分のようなあり方が唯一の自然ではないという自覚は、つまりマイノリティの存在の自覚は、変化の第一歩だ。だが多くのマジョリティは、自分の自然・普遍性を疑わない。ホモフォビアの原初はそこにある。
マイノリティの人権を考えるには、マジョリティの人権の豊かな展開がいるし、そのためにはマジョリティ自身の抑圧性、差別性に自覚的になって自分のマジョリティ性を解体していくことが必要だという話なわけで、「ホモフォビアをなくす」とは、そうした多数派自身の解放の意味で理解されていく必要があるということを、まず確認しておきたい。 …
さらに、マジョリティの各人が自分の「性」「多数派としての男女二元制・ヘテロ性」を見つめるということは、同時に、マイノリティも含めたあらゆる人が自分の「性」「男女二元制への自分のスタンス」「ヘテロ性・カップル単位制・恋愛制度・結婚制度への自分のスタンス」などをみつめ、自分の権力性・加害者性・マジョリティ性をみつめるということでもある。
ここまでのところは、まったくもっともな話だ。マイノリティが困難に直面させられているのはマジョリティの側に問題があるのだから、マジョリティの側が率先して自らの権力性を見つめ直さなければならない。また、ある側面においてマイノリティである人も、また別の側面においてはマジョリティの側に立つのだから、そうした作業を全くしなくて良い人などどこにもいない。結局、誰もが複雑な権力構造の中において自分が持つ権力性やマジョリティ性を自覚することが、社会的不公正を是正するための第一歩になる。
「スピリチュアル・シングル主義」がおかしくなるのはここからだ。伊田氏はこう続ける。
それの意味するところは、実はなかなか深いところで、私は徐々にわかりかけてきた(いまだ途中だ)。各人が自分の「性」をみつめるとは、例えば、私は自分が「男性である」とか「異性愛である」という自覚の中に揺らぎを見出し、自分のそれと他者の「男性」「異性愛」との違いをみつめるような感覚に至ることだとわかってきた。つまり、こうしたほんとうに多数派の人それぞれも実は、一人一人異なる人であり、単純に多数派とはくくれない、男性とはくくれない、という、シングル単位感覚へ至ることこそ大事なんじゃないかってことだ。
結局、これを短く言うと、自分らしい、他者と異なる「X」の「性」としての自分になっていくということだ。換言すれば、自分のなかに「複数の性」、マジョリティの面とマイノリティの面、複雑性・複数性・流動性をみるということであり、私の感覚で言えば、繊細に自分の中の“声”をみつめるというスピリチュアルかつシングル単位な感覚にいたることになる。
そうして突き当たる「自分の“自由なあり方”とはなにか?」という問いを抱え、自分の〈たましい〉に向き合っていき、それを模索する旅に出て行くような生き方こそ、マジョリティ性の解体だと思う。
たしかに、一人一人異なる人なのだから、単純に「これが男性」「これがマジョリティ」と指し示すことができるわけではないのはその通りだ。マジョリティとマイノリティの関係は、権力を持っていないか持っているか、0か100かというものでもない。しかし伊田氏の言うように、わたしたちが自らの「個」にさえ目覚めさえすれば、「男」だとか「マジョリティ」だとかいう社会的属性は意味を失って解体していくのだろうか?
伊田氏がここで指し示す「スピリチュアル・シングル」論の最も大きな間違いは、「権力性」「マジョリティ性」を単なるわたしたちの意識に還元してしまっていることだ。「権力性」とは、ただ単にわたしたちが個に目覚めていないから抱いている幻想のようなものではない。それは、社会構造のことだ。それは、不均衡な権力や権利の配分であり、意識の有り様ではないはずだ。そもそもマジョリティの側に立つ人間が「男性」「異性愛」という自覚に揺らぎを覚えたところで、一体世の中の何が変わるというのか。それは、マイノリティをダシにした、マジョリティのための自己啓発セミナーでしかない。
伊田氏はこう言う。
多数派が、自分のマジョリティ性を省みようとせず、居直ったとき、つまり、“自然”の名の下に、思考を停止して、国家や家族や伝統の物語を美化する陳腐な大声を出しはじめ、多様な違いを許容しなくなったとき、それを「非国民非難のナショナリズム」と呼び、「ホモフォビア」とよび、また「ジェンダーフリー・バッシング」と呼ぶ。
こんな時代だからこそ、各人が「私は“男らしく”なりたいのではない」「私は“女らしく”なりたいのではない」といえるようになることが大事なのだと思う。私がなりたいものは、そうした鋳型ではなく、私の個性が発揮できるようなスペシャルな「X」だからである。市場で勝ち残るエリートとしての私でも、国家や家族といった共同体に溶け込む私でもない、「非暴力的な、エンパワメント的な、多様性的な、シングル単位的な、スピリチュアルな、多様な私」になっていきたいと思う。それが「ホモフォビア」しない “私”なのだと思う。
なるほど、たしかに伊田氏は「自然」を根拠にあげることはない。しかし、「スピリチュアル・シングル」なる自己啓発セミナーを通して360度回転した挙げ句結局「自分のマジョリティ性を省みようとせず」自分は男性だとか異性愛者だとはくくれないんだと「居直ったとき」、それはホモフォビアと対してかわらない悪臭を放ち始める。
伊田氏は本心から自分の理論が人々の多様な個を解放すると思っているのだろうけれど、かれの言うところの「多様な個」のなんと無機質的なことか。そもそもわたしは個というものは他者との関係性の網の上に規定されるものだと思っていて、それが「伝統的」な共同体や家族(や国家)に限らないという点で保守派や伝統主義者と微妙に違うのだけれど、それはまた別の話。とにかく、伊田氏本人がどのようにありたいと願おうと勝手だけれど、他者が家族や共同体に溶け込む自由を認めなかったり、「スピリチュアル・シングル」な生き方を追求しなければ「マジョリティ性」に寄りかかった「ホモフォビア」的生き方だと恫喝するような振る舞いはやめていただきたい。それは、他者に対して僭越だし、現実のヘテロセクシスト(異性愛主義的)な社会構造や権力構造を改革するのに何の役にも立たない。社会保障制度の在り方についての議論であれば、シングル単位論を検討対象にしても良いけれどね。
2006/05/29 - 16:31:36 -
社会の成員全てがイダ化すれば或いは権力関係が解消していくのかもしれませんが、それこそアンチが糾弾する『ジェンダーフリー』そのものな感じ。
てか、日本女性学会なんてデカイ団体(ですよね?)を牛耳っている人間が、こういうことを声を張り上げて主張している以上、アンチが主張する『ジェンフリは性差無化だ』という主張を無碍に否定することは出来ないですよね。
2006/05/29 - 19:19:16 -
今、こちらで取り組まれている街づくりは「ユニバーサルデザイン」に基づくというか、目指しているというか、「ユニバーサル」という言葉がキーワードになっております。もともとの使い方ってわからないのですが、当地ではこの言葉には「性別に関わらず」という意味も込められています。
街づくりにおいて性別、年齢別、人種や国籍、言葉や文化の違いなどで、必要のない枠をはずすという部分も当然ありますが、それと同時にこれまでマイノリティーであるとして無視されたり切り捨てられてきた、本当は必要なのに、という部分をどう掬い上げて取り込むかも大切なんですよね。でもそれを実現するのは結構大変なような気もします。膨大な作業にもめげず、しかも斬新なアイデアが次々と出てくるようでないとね・・・。
伊田さんのご主張としてこれまで私が知っていたのは、税金とか年金とか、社会制度上のシングル志向でしたので、「スピリチュアル・シングル」ということばで伊田さんが何をおっしゃりたいのか・・・。 Macskaさんの説明を読んで理解した(つもりの)「スピリチュアル・シングル」だったら、「ユニバーサルデザインの社会作り」に取り組む人間には、ひょっとしたら役立つのかな?って気がするんですど・・・。
あ、書き込みスペース、これ以上は広がらないですか? あと1行か2行分(^^;
2006/05/30 - 00:28:03 -
> しゅうさん
女性学会、そんなにデカくないです。
それから、仮に伊田氏の主張が性差無化だったとしても(そうだとは思いませんが)、それはジェンダーフリーが性差無化だというわけじゃなくて、スピリチュアル・シングル論がそうだというだけの話。明らかにかれのジェンフリ理解は特殊というか、はっきり言うとかれ自身のイデオロギーの部品にされてしまっています。
2006/05/30 - 05:24:08 -
あまりここでは指摘されていないことですが、私は伊田氏の国家性善説にどうも弱くて。
2ちゃんねるで言われているような、伊田一派が国策である男女共同参画を傘に着て、マイノリティである大峰山や、「負け組」男性を抑圧しているというほど、その「国策」は強いものではないと思いますが、彼の国家依存、行政依存っぷりを見ると、彼の言う「スピリチュアル・シングル主義」は、おそらくは非常に統一のとれた国家の存在を前提にしているのではないか、と見るのは穿ちすぎでしょうか(笑)。
以下の文は3年前に書いたものですが、今になって書いておいてよかったと思っています。
http://homepage2.nifty.com/mtforum/br005.htm
2006/05/30 - 06:08:09 -
[独白]これからしばらく「社会的強者」のことを「スピリチュアル・シングル」と呼ぼうか
macska dot org » Blog Archive » フェミニズムを私物化する男性ジェンダー研究者 macska dot org » Blog Archive » 「スピリチュアル・シングル論」は、マイノリティをダシにしたマジョリティのための自己啓発セミナーだより 「スピリチュアル・シング
2006/06/01 - 07:46:57 -
[fem]<スピ・シン>イダ氏の発言について、あえて「ココロの問題」として語ってみる
成城トランスカレッジ!さんでも紹介があるように、今度出るらしいバックラッシュについての本に関連したブログエントリーでイダヒロユキ氏が山口智美氏のことを「フェミニズムを誤解している」と唐突に非難したことをきっかけに、ちょっと前に斉藤正美氏のところで行われて
2006/06/28 - 20:41:06 -
「頼りにならん、おっさんや」と、(オマエが言うな)
「スピリチュアル・シングル」は少し信仰の部分を含んでいるので、
「そんなもん、信じられまへんで」と言われれば「そら、しゃーないわ」で済まされそうな気がする。
「スピリチュアル・シングル」は強者の理論と言うより強者におもねっていると思う。
大峰山の件にしても「女が登って何が悪いねん」みたいな開き直りがあっても良かったような。
当事者性と言うか、当事者感が足りないって思う。
気になるのはマイノリティを『かわいそうな存在』みたいに思われているフシがあるところ。
確かにかわいそうな立場におかれているかもしれないけど。
マジョリティの自己認識を変えてまで理解してもらうというのは無理がある。
なかなか、仙人みたいに霞を食って生きてるわけにはいかんの。
マイノリティの中にある、強さ、逞しさが見えてくれば良いかもしれない。