タネのばれたトリックを繰り返す林道義氏の空虚な議論
2006年1月19日 - 1:56 PM | |やれやれ。なんのことかというと、前回わたしが掲載した林道義氏への再反論に、林氏がまたもや「幼稚で非良心的な学問の方法」として批判を寄せてきたことだ。林氏は大学も退職して毎日がヒマでヒマで仕方がないのかも知れないけれど(もっとマシな余生の過ごし方ないのかなー)、わたしの時間は林氏のトンデモ論法に延々と反論していられるほど無価値ではない。このブログの読者だって、そんなの望んでいないだろう。そうは言っても、一応自分が行った批判への直接の反論くらいには真摯に対応するつもりはあるので、あんまり元の論点からどんどん議論を逸らしていくのは勘弁して欲しいと思う。前回のエントリよりさらにくだらなさ50%アップでお届けします。
まず林氏は、こんな事を言う。
せめて私が出した宿題、拙著の中の、「文化的性差の積極的肯定的意味」に関する箇所だけでもよく読んでから反論を書いてほしかったと思う。
生得的性差と文化的性差の関係については、この者が最初の題名にもしている核心的な問題のはずである。とくに「ジェンダーの必要性」「二項対立の必要性」「男性文化と女性文化への分化の必要性」についての部分をよく勉強してもらいたい。
何を勘違いしているのだろうか。わたしはかれの学生でも弟子でもないから、「宿題」を出される覚えはない。本をわたしに読ませたいのであれば贈呈してくれれば目を通さないでもないけれど、ウェブサイト上でこれだけ支離滅裂な議論を読まされては、とてもわざわざ高い郵送料を払ってまで日本から林氏の著書を取り寄せたいとは思わない。それに、そもそもわたしは「文化的性差の積極的肯定的意味」を否定する主張をしていないのだから、それについて読んでみたところでどうなるのか。論点ずらしを狙っているとしか思えない。
論点ずらしと言えば、「ジェンダーの必要性」「二項対立の必要性」「男性文化と女性文化への分化の必要性」という部分にしてもそうだ。わたしはジェンダーが必要ないとか、二項対立が必要ないとか、男性文化と女性文化への分化が必要ないとか、そういった種の主張を行っていない。わたしが話題にすらしていないのに、まるでそれらの点についてわたしが何か思い違いをしている(だからもっと勉強するべきである)ような言い方をしているのは、林氏のほうこそ思い違いがあるのではないか。
わたしが最初の題名にしたのは、「生得的性差と文化的性差の関係」ではない。その点でも林氏は議論をすり替えている。最初の題名は「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」であり、文化的性差については一切問題としていない。あくまで問題としているのは、性自認(gender identity = 性同一性)についてであり、林氏が「混合名簿などのまぜこぜ教育」によって「性同一性障害」が起きると書いたことについておかしいと指摘しているだけだ。「生得的性差と文化的性差の関係」を林氏が論じたがっているのは分かったが、まるでわたしから先に言い出したかのように誤摩化さなくてもいいと思う。
その肝心の「性同一性障害」の問題について、林氏は混合名簿に代表されるような「男女まぜこぜ」の教育により「性同一性障害に陥る」とはっきり断言していたはずなのに、いまでは「間違った教育によって性自認に混乱が起きる」と言い換えている。前回の批判においてわたしが林氏の論法として「最初に過激な発言をしておきながら、批判を受けるとそれを弱めた妥当っぽい主張にすり替える」という点を指摘したが、懲りずに同じトリックを繰り返している。そうすることで、まるでわたしが「どんなにおかしな教育をしても、性自認は一切揺るがない」と主張しているかのように見せかけているが、わたしの文章を読めばそんな事はどこにも書かれていない。
極端に洗脳的な手法を取るなどの「教育によっては」性自認に重大な問題が生じる可能性が考えられることはわたしが一番最初に書いた批判の中でも触れているのだから、「間違った教育によって性自認に混乱が起きる」という弱めた主張ならば(実証されているわけではないとはいえ)特に異論はない。でも、ここで議論となっているのは無制限に洗脳的な教育の是非ではない。「男女混合名簿」に代表されるような、ただ単純に学校において男女の区別をことさらつけないことの是非だ。さらに、その結果として起きるか起きないかと議論になっているのも単なる「性自認の混乱」ではない。「性同一性障害」と診断されるに足る状態に陥るのか陥らないのかだ。仮に極端に洗脳的な手法によって「性自認の混乱」を生じさせることができるとしても、学校において混合名簿を使う程度の施策で「性同一性障害」が起こるという結論を導くのは論理的な飛躍が過ぎる。到底、かりにも学者を名乗る者の議論とは思えない。
林氏も、自分の主張があまりに論理性に欠けるものであると半ば気付いたのだろう、今回かれは「混合名簿などのまぜこぜ教育」が今の(あるいはジェンダーフリー批判が広まる前の)日本では「洗脳教育」と呼べるレベルに達している(いた)、という論理を主張してきた。
ジェンダーフリー(現場では事実上「性差否定」と受け取られてきた)という根本的な思想によって、男女の違いがあるものはことごとく槍玉にあげられ、そこから混合名簿、男女統一「さん」づけ、男女統一の制服・体育着、男女混合保健・男女密着体育(組体操、人間椅子、騎馬合戦)・身体測定、男女同室宿泊、性別役割意識を植え付けるとして童話の排除、あるいはストーリーの改変、家庭科、現代社会、倫理、政治経済、国語等の教科書におけるジェンダーフリーの推奨、さらに教師の自選教材によるジェンダーフリー授業などが、まさに歯止め無く次々と生まれていたのである。端午の節句や雛祭りの否定、「男らしさ」「女らしさ」の否定など、男女を分けるものは次から次へと槍玉にあげられた。これぞまさしく「生まれつきの性向に反する」洗脳教育でなくて何であろうか。
ここで林氏が挙げている例のうち、男女一緒の身体測定や着替えはただ単に男女別にするだけの施設が校内になかったり、教師がただ単に生徒の意識に無頓着だったために起きた事態であり、ジェンダーフリーとは無関係。また、端午の節句や雛祭りの否定や「男らしさ・女らしさ」の否定とされる部分は実際には「男だから、女だからといって押し付けはやめましょう」というだけの話であり、伝統行事や「男らしさ・女らしさ」自体が否定されているわけではない。男女同室宿泊に至っては八木秀次氏すら事実として確認されていないことを認めている。もちろん、林氏が列挙した中には事実の部分もあって、混合名簿、「さん」づけあたりは事実。また、わたし自身あんまり望ましいことだとは思わないけれど、古典的童話のストーリー改変くらいはあるかもしれない。で、そのどこが「洗脳」的なんですか?
どうやら、林氏はただ単に自分の考えに沿わない教育方針を「洗脳」教育と呼んでいるように見える。「性同一性障害」という言葉についてもそうだったが、心理学・心理療法を専門とするわりには「洗脳」という言葉の使い方がシロウト並みにいい加減だ。一般に洗脳と言えば、長い時間にわたって睡眠や摂食、視界を制限するなどして精神的抵抗力を奪ったうえで思想・信条を改造することを意味するけれど、男女混合名簿を使ったくらいで、あるいは男女共に「さん」づけで呼ばれたくらいで、それに匹敵するほどの深刻な影響が出るわけがない。しかも、「性自認」は「思想・信条」と違って強い生物学的な裏付けを持つのだとしたら、なおさらその程度の教育で「性同一性障害」が起きる可能性は限りなく低いはず。
ジェンダーフリー教育のあり方に林氏が危機感を抱いているのは分かった。個別のケースについて、もし行き過ぎがあるのであれば善処すべきだとは思う。でも、そこでいきなり「洗脳教育でなくて何であろうか」と言われても、突飛すぎて議論のとっかかりにすらならない。日本の現状を知るべきだとわたしに説く前に、自分のレトリックが本当に有効なのかどうか疑ってみてはどうだろうか。少なくとも、わたしから見て林氏のレトリックは「昔のサヨクが言っていたような、端的に恥ずかしい口調」にしか見えない。(とゆーか、林さんは当時は左翼だったんですね。なーんだ、サヨク時代の虚言癖が抜けてないだけじゃん。)
続いて「性同一性障害」の概念について、林氏は恥の上塗りをする。
私が提起した「先天的」「後天的」という分類法は、現代の精神医学の関心や発想からはまず出てこないものである。なぜなら、精神医学は目の前にある疾患を診断し治療するという関心を強くもっており(それはそれで必要だが)、そのために症状を整理し確認するための理念型としての「診断基準」をできるだけ明確にしようとする。そこには予防医学に当たる視点や発想はほとんど入り込む余地がない(本当ならば存在しなければならないのだが、現実にはほとんど存在していない)。
林氏が前回の記事であれだけ熱心に説明していた「先天的性同一性障害」「後天的(心理的)性同一性障害」という区別について、「現代の精神医学」からはまず出てこない発想であると決めつけたうえで、まるでそれが「現代の精神医学」の弱点であるかのように言っているけれど、要するに「現代の精神医学では相手にもされないようなトンデモを林氏がデッチ挙げている」ということを白状しているだけに過ぎない。もちろん、精神医学の主流の方が間違っていて、当初トンデモだと思われていた説が後に有力になる可能性だってあるから、珍説を提示したこと自体が悪いと言うつもりはない。ただ、他の誰にも認められていないような珍説(と言われるのが嫌なら、大幅に譲歩して「新説」と呼んであげてもいいよ)を提示するなら、一般の定義とは違う意味で概念を使っていることを明示すべきだ。
それなのに、林氏は何と言っていたか。元の記事で「先天的」と「後天的」では発生時期や原因だけでなく質的にも違う(批判を受けたあとの反論によると、後者は「自分がどちらの性なのか分からない」というような漠然とした不安や混乱であり、一般的な定義による「性同一性障害」とは違う概念らしい)という林氏オリジナルの説を一切説明しなかったにも関わらず、わたしの批判に対して「『性同一性障害』の理解が混乱している」「この者はどうやら『先天的性同一性障害』と『心理的(後天的)性同一性障害』の区別もできていないらしい」「この者は恐らくそのことを知っていなかったのではないか」「この者の読み違いが、一つには、じつに簡単なことの無知から来ていることが明らかになった」と、まるでわたしが性同一性障害について認識不足であるかのような書き方をしている。ところが実際には、林氏の使っている概念の方が、「現代の精神医学」からまったく見向きもされていないような、林氏の頭の中にしか存在しなかったものだったのだ。勝手に言葉の定義を自分独自に変えて使用しその説明すら怠りながら、他人がその意味を正確に理解しないのは相手が無知だからだと嘲り笑う林氏は、もはや論理どころか人格が破綻していると言っても良いのではないか。
さらに、林氏はこう続ける。
それに対して、私の関心と発想は、そうした症状が出現しないようにするにはどうしたらよいかという点に置かれている。その立場からは、症状が生得的か後天的かという区別は非常に大切な区別となる。というのは「先天的」と「後天的」とでは、予防の仕方がまるで異なるからである。(略)
要するに、この分類法をなぜ私が持ち出したか、というよりなぜ「後天的」な症状に注目したのか、という原点に立ち戻って考えなければならない。すなわちある症状群を、「成立の仕方」に焦点を合わせて「先天的」「後天的」と分類するという発想は、そもそもジェンダーフリー教育が、その「成立」に関係してしまうのではないか、という危惧と警告の意味を持っていたのである。
ここで林氏は、わたしが林氏が性同一性障害を「先天的」「後天的」に分類したことを問題視しているかのように書いているが、これもおかしい。林氏の主張はただ単に「性同一性障害には先天的なものと後天的なものがある」(もっと厳密には、「先天的な要因と後天的な要因がある」)というものではなく、「性同一性障害には先天的なものと後天的なものがあり、前者と後者では(発生時期や原因だけでなく)質的に違う」ということだったはず。またしても、当初言っていたはずの無茶苦茶な主張を取り下げて、それよりやや妥当な一般論にすり替えているわけだ。
もし性同一性障害の要因を「先天的」「後天的」に分類したいだけであれば、「性同一性障害」という概念の定義を勝手に広げる必要はない。これまで通りの定義を使いながら、そこに後天的な要因がある(かもしれない)ことを指摘すればいいだけの話。じゃあ、どうして「性同一性障害」概念の広く受け入れられた定義を捩じ曲げてまで「まぜこぜ教育」を「後天的性同一性障害」の要因として挙げなければいけなかったのか? 答えは明らかだ。林氏は「性同一性障害」の要因が何かという問題を真面目に調べているわけでも考えているわけでもなくて、ただ単に「混合名簿などのまぜこぜ教育」を叩きたいだけなのだ。そのためには、平気で「性同一性障害」という言葉を本来の意味から逸脱した形で使う。「自己認知が混乱する」と書くより、「性同一性障害に陥る」と書いた方が大袈裟に見え、不安を煽るのに都合が良いからだ。「洗脳」という言葉を一般の定義よりはるかに弱い意味で使ったのも全く同じ理由だろう。
次の部分にも、ここと同様のすり替えがある。
macska 大先生の論旨はこうである。その「診断基準」には、私の分類概念の「先天的」「後天的」という言葉は出てこない。したがってそれは一般的でないどころか「珍説」である。つまり私が「macska は後天的な性同一性障害について知らなかったのだろう」と言っているが、私が言っている「後天的な性同一性障害」はDSM-IVによれば「性同一性障害」の中には入っていない、と主張している。
このように目的の異なる概念装置同士を同じ平面で比較すること自体がそもそも無理なことをしているという自覚がない。一方を基準にすれば他方はバカのように見える。用語さえ存在しないということになる。しかし macska が持ち出している「診断基準」というものは、唯一でもなければ絶対でもないのである。その絶対でないものを絶対の権威のようにして、それで他を裁断するという方法を取っているのである。
林氏はわたしが「先天的」「後天的」という区分が DSM-IV に含まれていないことをもって林氏の主張を珍説と決めつけているかのように書いているけれど、もちろんこれも間違い。性同一性障害については過去に「中核群/周辺群」「同性愛的/自己女性化愛的」という分類が精神医学の中で議論されてきたことをわたしは指摘しており、それらの分類だって DSM-IV には記述されていないけれど、かといってそれが珍説だとわたしは言っていない。つまり、わたしが「DSM-IV に出て来ない分類は珍説だ」と主張しているわけではないことは明らかだ。問題なのは、林氏の提案する分類が DSM-IV に記述されていないことではなくて、林氏の言う「後天的性同一性障害」というのが仮に存在するとしても、それは DSM-IV の基準では「性同一性障害」には含まれない、ということだ。
また、DSM-IV が唯一絶対などとは誰も言っていない。ただ単に、日本でも米国でも最もよく使われるのが DSM-IV なのだから、それから大きく違った意味で「性同一性障害」という言葉を使うのであれば最初からそう説明するべきであり、説明を怠ることで読者の危機感を煽るような記述はおかしいと指摘しているのだ。ところが林氏は「macska は自分に都合のよいもの(私を否定するのに都合のよいもの)『だけ』を引き合いに出したのである」と決めつけたうえで、「自分に都合のよいものを選んでよいというのであれば、私もやってみよう」として ICD-10 における「小児期の性同一性障害」の診断基準を挙げている。
64.2 小児期の性同一性障害 Gender identity disorder of childhood
・女性の場合には、
A.少女であることについての持続的で強い苦悩と、少年でありたいという欲求の表明(単に、文化的に少年である方が有利だからというだけの欲求ではなく)、または自分が少年であるという主張。
B.つぎの(1)・(2)のいずれかがあること。
(1)あたりまえの女らしい服装を明らかに持続的に嫌悪し、型どおりの男らしい服装、例えば少年の下着や他のアクセサリーを着用すると言い張る。
(2)女性の解剖学的構造を持続的に否認する。それは次のうちの少なくとも1項に示される。
(a)自分にはペニスがある、またはペニスが生えてくるだろうという主張。
(b)座った姿勢での排尿の拒絶。
(c)乳房の成長や月経を望んでいないという主張。
C.思春期にはまだ入っていないこと。
D.この障害は、少なくとも6ヶ月存在していること。
・男性の場合には、
A.少年であることについての持続的で強い苦悩と、少女でありたいという強い欲求、またはより稀には、自分が少女であるという主張。
B.次の(1)・(2)のいずれかがあること。
(1)女性の定型的な行動に心を奪われる。これは女性の服を着たり、女装したりすることを好むこと、あるいは少女のゲームや遊戯に参加することに強い欲望をもつ一方、男性の定型的な玩具やゲーム、 活動を拒絶することで示される。
(2)男性の解剖学的な構造を持続的に否認する。それは次の主張の繰り返しのうちの少なくとも1項に示される。
(a)自分は成長して女になるであろう(単に役割においてではなく)。
(b)自分のペニスや睾丸が嫌だ、または消えてなくなるだろう。
(c)ペニスや睾丸はないほうが良い。
C.思春期にはまだ入っていないこと。
D.この障害は、少なくとも6ヶ月存在していること。
さて、これを読んでみても、どう解釈すれば林氏にとって「都合がよい」のかさっぱり分からない。前回のエントリで説明した通り、DSM-IV における「性同一性障害」には重要な要件が2点あり、それは「生殖学的な性(セックス)とは違った性別としての継続的な自己認識」と「自分の生殖学的な性に対する嫌悪感や不適正感」だ。林氏が引用した ICD-10 の要件は、これとほとんど完全に同じ内容を、子どもの発達・認知程度に合わせて書き直しただけだ。こうした症状が先天的であるのか後天的であるのか、あるいはそのどちらもあるのかという点に触れていないというところも DSM-IV の記述と同じだし、ただ漠然と「自分がどちらの性か分からずに迷っている」状態はここで引用された基準も満たしていない。 DSM-IV と ICD-10 のいずれを採用したとしても、決して林氏の主張を裏付けることにはならない。いやむしろ、どちらも共に林氏の主張を否定する内容だ。
そもそも、ICD-10 を参照するのであれば、林氏が「後天的性同一性障害」と呼ぶような「自分がどちらの性か分からずに迷っている」状態がピッタリ当てはまるカテゴリが存在する。前回のエントリでも紹介した通り、それは「性成熟障害」(F66.0) だ。性成熟障害の診断基準は「性同一性あるいは性的指向が曖昧なことに悩むものであり、それが不安や抑うつを引き起こしている」という単純なものだが、「性成熟障害」と「性同一性障害」の診断基準を読み比べれば林氏が問題としている状態が前者によりマッチしていることは明らかなはず。こんな杜撰な議論をしておきながら、相手の議論について「とうてい専門家のそれではないし、学問に携わる人間の態度ではない」とケチをつける林氏は、学問に携わる人間どころか一般人並みの理解力も論理構成力もないとしか思えない。
これで重要な論点は終わりだけれど、おまけとして林氏が「この場合ユングは関係ない」と言っている点について。林氏の本をいくつも出版している会社の記述なら間違いないだろうと思って引用したのだけれど、どうもそれでは不十分らしいのでもう1つソースを出す。林氏自身の書いたものだ。林氏は、フェミニズム批判をはじめたところ内田樹氏に「まるで専門違いのところに踏み込んで」と批判されたのに対し、以下のように反論している。
私のフェミニズム論を「まるで専門違いのところに踏み込んで」と書いているが、これも大間違い。私がフェミニズムに関わらざるをえななったのは、『主婦の復権』の冒頭にも書いてあるとおり、私が専門としているセラピーやカウンセリングをしてあげた専業主婦たちが、あまりにもフェミニズムに悩まされ、自信を失い、迷わされているのを知って、その根源を批判しなければならないと思い、始めたことである。私の著書は『父性の復権』『母性の復権』をはじめ、すべてそのようなセラピーの実践の中から(現実の問題に関わる中から)問題意識を感じて研究した成果ばかりである。『フェミニズムの害毒』にしても、専門と密接に関わっている。私の専門と実践とをよく理解もしていないくせに、「まるで専門違い」というのは無責任な批評と言わなければならない。
林氏にとって、フェミニズムやジェンダーの問題は専門外の分野ではなく、セラピーやカウンセリングの実践と密接に結びついた専門的な関心領域だという。そしてもちろん、林氏はエリック・エリクソンのような発達心理学者ではなく、ユング心理学を中心とした深層心理学・臨床心理学の専門家を自称しているのだから、かれによるセラピーやカウンセリングの実践はユング心理学と無関係ではないはずだ。上記の引用と林氏のプロフィールのページをフツーに読めば、誰でもそう思う。ところが林氏は、わたしがそう解釈したことに対して「これまで私はジェンダーの問題をユングと関係づけたことは一度もない」「ユングと関係あるだろうという想像や当て推量で物を言うべきではない」という仰天発言をする。だったら、内田氏の批判を「無責任な批評」と決めつけたことはどうなるのか。とにかく論敵を罵倒することしか考えず、行き当たりばったりに論旨のすり替えばかりに頼っているから、こういう情けない結果になる。
ま、それはともかく結論。林氏は自分が言ったことはどんどん「より弱めの主張(より妥当な一般論)」にすり替えて自己弁護する一方、議論相手の指摘は批判されているポイントをずらして誤摩化そうとしている。何のことはない、わたしが前回のエントリで指摘したのと同じトリックをバカみたいに何度も何度も繰り返しているだけで、前回にもまして内容が薄い反論だった。また、論点にもなっていないことについて「俺の本を読め」と押し付けているけれど、そもそも論点と無関係なのだから読んだからといって今回の議論には何の影響もない。あーくだらない。とっとと「『ブレンダと呼ばれた少年』の打撃をフェ理屈でごまかす人」書いてそれで満足したらどっかに消えてよね。それから、どんなつまらない事を書いてもいつまでも相手をして貰えると思わないように。
2006/01/19 - 20:59:58 -
泣かされた子供みたいだね。macskaにとってマトモな論理力をもった人間というのは、macskaに媚びる人間だけでしょう。決着は明らかなので、林道義氏はもう貴重な時間を費やす必要は無し!
2006/01/20 - 03:42:28 -
そう思うはずのお前が「貴重な時間」を費やしてどうする(嘲笑)。
まあ、林道義の「自分を名誉教授にしてくれない」泣き言を読むと、
キチガイにしかみえないけどなあ。
2006/01/20 - 16:26:56 -
まちゅかさんはまたずいぶんしんぼうづよくお相手なさってて。ご苦労様です。
なんとなく、人種差別をジェンダーステロタイプに読み替えながら以下。
Tell children racial prejudice is wrong: They’ll be less likely to be prejudiced
http://www.eurekalert.org/pub_releases/2005-03/sfri-tcr032105.php
Stereotypes can impact self-assessment and learning ability
http://www.psychologicalscience.org/media/releases/2004/pr041213.cfm
Bias taxes brain, research finds
http://www.boston.com/news/nation/articles/2003/11/17/bias_taxes_brain_research_finds/
The price of prejudice: Interactions with minorities can sap mental capacity
http://www.eurekalert.org/pub_releases/2003-04/pu-tpo043003.php
日本は差別対策後進国ですし。
2006/01/21 - 05:39:38 -
ドーギタン新作キター♪今度は早いな。
29 (2-3)単なるハッタリ屋 ( macska への反論 1-3)
(平成18年1月21日初出)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/femi36-2-3.html
ナンバリングが複雑でよくわからんのだけど、まだ続きがあるのだろうか。。。それにしてもこんなに暇を持て余してるのなら、
もっと社会にとって有意義なことに時間を使って欲しい。
2006/01/21 - 10:56:56 -
読みました。いま遠方から友人が訪ねていて林氏の相手をしていられないので、詳細な反論が必要なら面倒だなぁと思いましたが、あの程度の誤摩化しなら放っておいて構わないでしょう。
いや、構うかな。かれの言うような「ジェンダーフリー教育とはこうなのだ」というデマを無批判に信じ込んでしまう信者が絶えないわけですからねー。信仰なので、いくら無根拠でも、都合の悪い証拠があっても、「フェミニスト」による嘘の弁解だとかいうサヨク的というか幼稚な陰謀論を持ち出せば、信じたいモノを信じてしまうわけで。
ま、客観的な証拠を無視して進んでデマを信じたがる人に何を言っても無駄なので、これ以上どうしようもないですが(笑)
2008/11/04 - 05:22:06 -
おまえは底なしの低脳だ。以上。w