議論続行用エントリ

3/10/2005 - 3:25 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ええと、わたしが1週間入院しているあいだに「水原さんへのお返事」のエントリのコメント欄が議論で大変な事になってしまっているようなので、別に議論続行用のエントリを立てます。以降、関連の議論はこちらで行ってください。

57 Responses - “議論続行用エントリ”

  1. 水原文人 Says:

    入院されていたとは露知りませんで…。お大事に、というか大丈夫ですか?

  2. tert Says:

    水原さんのコメントを読んで初めて気づくとは、、、、、至極鈍感の至りです。
    Macskaさん、どうぞお大事にされてください。

  3. GBG Says:

    http://macska.org/index.php?p=77#comments
    「macska dot org 2/25/2005」で始まるページの、164水原君のコメント中の、
    >>(P.S.)2/15付記事(←これも君は今、頭に血が上ってるから意味がわからないみたいだけど、 
    >>http://macska.org/index.php?p=74 )のことだよ。これの君のコメント47は浸透力のあるすばらしい文章だと思う。

    >あの…。その記事は25日付けです。自分の方が頭に血が上って書き間違えたのが自明であることの責任を他人様に押し付けるなんて、君はどこまでメチャクチャなんですか?

    おかしいですね??? 上記のリンクをクリックすると左上に出てくるのは、
    「macska dot org 2/15/2005」じゃないですか???? 水原君の持ってるモニタではは2/25/2005って出るの?

    「2/25/2005」って出るのは、ぼくのモニタでは、http://macska.org/index.php?p=77#comments こっちの方なんだけど。
    2/25のほうの君のコメント47は、「a thousand さん、こんにちは」で始まる方に(少なくともぼくには)見える。

    不思議だな〜? (議論じゃなくて確認ね。こんな技術的なことで「議論」するのはばかげていますから)

    (ところで、「浸透力のある」名文も、書いている当人には浸透していないという皮肉なケースもあったりしてね。
    ま、君の「文章」が嫌いじゃなかったって言っているだけで、別に君という人間を好きだとか言っているわけじゃないので、(人間としての評価は「判断不能」です 笑)安心してくれたまえ。文章はいったん世に出ると作者の手を離れるんだから、誰が好こうが嫌おうが、もうどうしようもないんだからね。

  4. 水原文人 Says:

    >不思議だな〜?

    あ、ごめん。私の勘違い。

    >ところで、「浸透力のある」名文も、書いている当人には浸透していないという皮肉なケースもあったりしてね。
    ま、君の「文章」が嫌いじゃなかったって言っているだけで、別に君という人間を好きだとか言っているわけじゃないので、

    なにを勘違いしているのかシランが、君のような読解力のない倒錯した人間に私が書いたことが「好きだ」と言われたら、そんなの気持ち悪いってことなのだが?

    で、相変わらず「浸透力のある」名文に書かれていることを何一つ実践できないバカはいいんだが、スルーしている謝罪撤回はどうしたんだ?

  5. 水原文人 Says:

    >議論じゃなくて確認ね。こんな技術的なことで「議論」するのはばかげていますから

    そうだね、こんな話で君が自分が根拠薄弱な先入観から勝手に誤読したのにその責任を他人に押し付けた無根拠な誹謗中傷粘着を続けて荒しと化したことが誤摩化せるんだったら、そんなおかしな話はないよね(笑)。

    というか、何度反論されようがその反論にきちんと対応することもできずに、すでに論破された主張を馬鹿のひとつ覚えで繰り返すだけのGBG君がやってること自体、「議論」とはおよそ言えないんだけどね。

  6. 水原文人 Says:

    tertさん、74からの移項ですが、

    >しかし、亀井文夫・三木茂の「ルーペ論争」!!こんなに映画の奥行きを捉えるエピソードはありませんよねえ泣)!(ちなみに僕は瀬川順一の「ルーペ」は悔しいかな未見です)この葛藤がないから、デプレシャンは駄目なんだ!と叫びたくなってしまうのですが、、、暴言すみません。

    そういう問題ではないと思うんだけど…。ちなみに知らない方(普通は知らないような昔話)への説明を兼ねていえば、日本軍に従軍して中国で撮影していた亀井文夫が、虐げられた中国人の子供のアップを撮りたくて、本当にこどもを捕まえて羽交い締めにし、キャメラをやっていた三木茂に「三木君、これを撮るんだ!」と要求した事件がありまして、三木茂はそのとき撮れなかったので、その後亀井にボロクソになじられたという逸話なんですけれど、ドキュメンタリーとしてはいわば「やらせ」ではあるのかも知れないけれど、劇映画ではある種当たり前の話ではあるんですよね。とくに子役とか動物の演出では、わりと使われる手段です。『自転車泥棒』のラストで、デ・シーカが子役のポケットにこっそりタバコを入れて、いかにも見つけたふりをして「子供がタバコを吸ってるとはなにごとだ!」といじめぬいて泣かせた、とか。

    映画作家というのは撮るべき画をとるためには鬼畜にもなるわけで、その人自身が個人的にいい人であるかとうかと映画それ自体が伝えていることのあいだには、ある種の隔絶があります。フレーミングも、編集なんてのも、ある意味で不都合なものを排除した上で構成と物語を捏造するための手段とも言えるわけで、先の亀井・三木論争の話に戻れば、確かに羽交い締めしている亀井が写らなければ、虐げられた中国人の悲しみを伝える画は確かに撮れているわけだし、実際に同じことを意味する表情をした人々がたくさんいたのだから、映像で嘘をついたとは言いきれないわけだし。

    少なくともその映画作家の人柄の良さであるとかが映画それ自体に反映されるというのは、ある種の映像アニミズム的な神秘主義みたいな感覚がどうしてもしてしまって、私は好きではありません…という意味では、亀井に近いのかも知れない。逆にドキュメンタリーにおいてそういうことをはするべきではない、切り取った現実をなるべくそのまま見せるべきであるという考えから、私は長廻し多用派なのですが。

  7. tert Says:

    水原さん、再度ご返事ありがとうございました。僕が乱暴に引用しました「ルーペ論争」につきましても、十分な解説を加えてくださいまして、感謝しきりです。映画作家としての水原さんの立ち位置も垣間見えることができまして、深く思考を誘います。

    さて、「デプレシャン」(といってもこれは僕しか見てないようですので、もう避けた方がいいかもしれませんが)「ルーペ論争」について、異論・反論ではありませんが、現在の僕の思うところを述べたいと思います。

    ただ、ちょっといま時間がありませんので、また頭を冷やしまして、後ほど書き込みたいと思います。
    もったいぶってるようで、大したことは書くわけないと思いますが(笑)。水原さん、どうかまた宜しくお願い致します。ryu2netさんも、いくつかの発言に瞠目させられてしまいました。どうかこれまでのものにも、ご批判くださいましたら幸いなのですが、、、

  8. 水原文人 Says:

    > 僕が乱暴に引用しました「ルーペ論争」につきましても、十分な解説を加えてくださいまして、感謝しきりです。

    いや、持ち出したのはこの私…。こんなもんいわゆる「映画評論家」でも最近はあまり知らん話だわ…

    >さて、「デプレシャン」(といってもこれは僕しか見てないようですので、もう避けた方がいいかもしれませんが)「ルーペ論争」について、異論・反論ではありませんが、現在の僕の思うところを述べたいと思います。

    うーむ、私も当分見られそうにないんで、ネタばれはやめて下さい(笑)。って、あんなに絶賛されるほどの映画作家かなぁ、とは思うんだけど。

    関係ないけど、最近フランスでDVDになった『ルイ14世の権力奪取 La Prise du pouvoir de Louis XIV』がきっかけで、生涯何度目かでロッセリーニがマイ・ブームになっております(笑)。どうもルイ14世役の俳優にわざと台詞をギリギリまで渡さず、ひどいときには壁に台詞を書いた紙を貼って読ませながら撮影してしまったらしい…。鬼畜や…。『イタリア旅行』では夫役のジョージ・サンダースだけ別のホテルに泊まらせ、撮影期間中スタッフや出演者に彼とは個人的に口をきかないように命じたという…。やっぱり鬼畜…

    ちなみにMacskaさんへ、↑コレはアメリカではVHSが出ています。

  9. 水原文人 Says:

    > ちなみにMacskaさんへ、↑コレはアメリカではVHSが出ています。

    すごくヘンな映画ですが、政治権力というもののあり方を一見大ボケその実精緻極まりなく描いていて、ブラック・コメディとしてもかな〜り楽しめますし、90分ぐらいの軽い作品ですから、病後の静養がてら見るのはお薦め。お気軽に見ながらちゃんと歴史の勉強になるし、「政治におけるコスチュームの正しい活用法」の教科書としても、なかなか笑えます。ロマンチックのかけらもありませんが。

    英語題は『The Rise of Louis XIV』。

    病後にクリント・イーストウッドは絶対お薦めしません(笑)。

  10. 水原文人 Says:

    たいしたもんじゃありませんが、見た人によれば「癒し効果」はあるらしいんで…

    http://homepage.mac.com/conductor71/iMovieTheater3.html

    お大事に…

  11. tert Says:

    >> 僕が乱暴に引用しました「ルーペ論争」につきましても、十分な解説を加えてくださいまして、感謝きりです。

    >いや、持ち出したのはこの私…。こんなもんいわゆる「映画評論家」でも最近はあまり知らん話だわ…

    >>さて、「デプレシャン」(といってもこれは僕しか見てないようですので、もう避けた方がいいかもしれませんが)「ルーペ論争」について、異論・反論ではありませんが、現在の僕の思うところを述べたいと思います。

    >うーむ、私も当分見られそうにないんで、ネタばれはやめて下さい(笑)。って、あんなに絶賛されるほどの映画作家かなぁ、とは思うんだけど。

    水原さん!!!かなり真面目に熟考してたんですが、じゃあおりやめましょうか(笑)。デプレシャン如きを餌にしても、、というところでもありますかね(笑)。フランスには、ヌーヴェルヴァーグの大御所以外にも、惜しくも逝去してしまいましたがジャン=クロード・ビエット、FEMISの学部長を務めるジャン・ポール・シヴェイラック、エマニュエル・ベルコ、ユージャン・グリーン(発音わかりません)、俳優で知られるマチュー・アマルリック、アラン・ギロディーなど優れた作家がいくらかいるのに、この評価の状況は如何にも不可解です。

    ただ、「ルーペ論争」関係では少し思うところがありますので、しばらく後、また書き込みさせてください。宜しくお願いします。(ところで水原さんには、ヨーロッパでの土本評価を高める策はございませんか?やはり、今のところは、不当な扱いを受けているといった感じがしないでしょうか。)

  12. 水原文人 Says:

    tertさん、

    > 水原さん!!!かなり真面目に熟考してたんですが、じゃあおりやめましょうか(笑)。デプレシャン如きを餌にしても、、というところでもありますかね(笑)。

    いや、まあここは映画サイトぢゃないんだし…。もっと皆さんに興味のある話題の方が。

    >ただ、「ルーペ論争」関係では少し思うところがありますので、しばらく後、また書き込みさせてください。宜しくお願いします。

    これは「現実をどう表象するのか」に関わる極めて重要な示唆を含んだテーマですし、ことメディアに流れる映像が我々の世界に対する視野を大きく左右してしまっている現実を考えると、とても実のある話になるのではないでしょうか? 卑近な例では、「ヤラセ」は許されるのかどうか…(ってそこにカメラがある時点で、すでにヤラセ的要素、カメラがその前の現実に影響を与えることは避けられないんだから、その意味ではすべて「ヤラセ」なのかも知れないけど)とか。

    > ところで水原さんには、ヨーロッパでの土本評価を高める策はございませんか?やはり、今のところは、不当な扱いを受けているといった感じがしないでしょうか。

    まあ「運動の記録映画作家」イメージ(実はかなり違うんだけど)が強過ぎることが評価の阻害を生んでしまっている面がヨーロッパどころか日本に濃厚にあり過ぎるのがまず問題で、遥かに広い意味で世界の現代と切り結んで来た記録映画作家であるという認識をまず広めるところから始めなければならないでしょうな。私は当分「批評家」としては休業状態になりそうなので、みなさん頑張って下さい。

    かといって対象との関係性における誠実性とかやさしさの作家として論じるのも、今度は薄っぺらなヒューマニズムと映画神話的アニミズムの方向に誤解されそうな気もするんだが…。

    フランスの映画作家としては、もう死んじゃったけど(日本でまったく無視されている)モーリス・ピアラを忘れてはならないと、激しく思う今日この頃…

  13. ryu2net Says:

    実は今日、再度「ミリオンダラーベイビー」を見てきました。気になった点です。

    (1)Macskaさんが書かれていた(引用されていた?)「もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作っただけという話」というより、尊厳死の話である、としたほうがいいように感じた。プロットそのものも、障害者の権利を否定しているように見えないのではないか、と思った。(映像を見たあとでプロットだけの印象を想像するのはちょっと難しいけれど。)むしろ、尊厳死の選択肢を認めるという点では、権利の拡張のようにも見える。もちろんその点が、尊厳死を認めない人たちをいらだたせているのはよく理解できる。

    ※ちなみに、「もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作っただけという話」という部分は、実は僕がもっとも心が痛んだ部分・・・。水原さんが「魔女狩り」という強い言葉を使っていたけれど、その気持ちは分かります。

    (2)一般的に「社会が障害者に対して尊厳ある生を生きることを許していない」からといって、そうした社会の暗部を描かない映画=障害者の権利を認めていない、と判断するのはありだろうか、と思ってみなおしてみた。「障害者たちが社会に「殺されている」現実を隠蔽する方向に働く」映画なんだろうか。映画の中で、スワンクを引き受ける病院を探す描写では、なかなか病院がみつからない。もちろん障害者運動からは「それでは不十分だ」と言われるのだろうけど、障害者の現状を脳天気に描いている雰囲気は感じられなかった。というか、そういう映画の批判の仕方は、イデオロギーによる検閲じゃないかとも思う。内田樹風に言えば「縮減する読み」になってしまう。

    (3)スワンクが死ぬ場面のあの笑顔も、尊厳死否定派をいらだたせるのかもしれない。あの表情のもたらすメッセージの強さはすごい。それを「ロマンチック」と呼ばれてしまったら、たぶんどうしようもない。現実の障害者のかたの苦労からすれば、実際には障害を持たないスワンクの「演技」が「ロマンチックである」ことは否定しようがない。

    (3)しかし、そんなことをいえば、あらゆる映画は「ロマンチック」のひとことでゴミ箱いきにできる。(たとえば戦争映画なんて、すべて「ロマンチック」な想像の産物だろう。)しかしそうでないことを僕たちは知っている。心を打つ映画は、たとえそれがフィクションであっても、迫ってくるものがある。

    (4)「ロマンティックに美化した映画」という批判を、イーストウッドの映画は回避できていると思うのだけど、それはひとことでいうと、フィクションに対する倫理観だろうと思っている。これは書くと長くなるので、問題意識だけ書いておきますが、要はフィクションがもたらすリアリティの形の問題。現実っぽいからリアルではなくて、カメラワークなどに作為がはいりこみながらも、それをリアルだと感じる心の動きが、人にはある。しかし、その作為が一線を越えると、受け入れがたくなる。その一線とはなにか。今回の議論を見ていて、この(4)の課題は、ある意味生産的な話につながりそうな気がしています。そして、ルーペ論争もここにつながってくる。(個人的には、越えるべきかどうかの「一線」の倫理観の問題ととらえています。)

  14. ryu2net Says:

    と書いておいて、ルーペ論争まで射程にとらえようとしたら、あまりの壮大さにめまいがしました・・・。すみません。ルーペはべつとして。

    フィクションを紡ぐ人間の、一番の倫理は、それがフィクションであることをきちんと刻印することだと思っています。最低限の倫理。で、それをイーストウッドはしっかり踏襲する。フィクションを刻印するというのは、これが物語であるということを宣言することであり、それはすなわち、すべて伏線が張られていると言うこと。そしてそれはさらにいえば、重大な出来事はかならず二度繰り返されると言うことです。たとえばイーストウッドが最後、スワンクを殺す=尊厳死を手伝う場面は、前半でしっかり、同様の場面が描かれています。

    イーストウッドが政治的な意図を否定するのも、こうした物語としての構成を忠実になぞっているからで、「私は物語をつくったにすぎない」という自負があるからだと思っています。そこへ、「現実の障害者の状況を描いていない」という批判は、この場合、映画が障害者をめぐる社会状況を描くことを目的にしていないだけに、いよいよ「検閲」の様相を強めていくわけです。(と僕は感じているわけです。)

  15. ryu2net Says:

    その点で、

    現実には主人公は死を望むのであれば医者にそう告げれば呼吸器を外してもらえたはずであり、コーチに頼まなければいけない絶対的な理由は一切無かった。さらには、主人公が療養していた施設には警備員もいなければ鍵をかけたドアもアラームもないなど、米国の同種の施設としては非常に不自然。殺害シーンをロマンティックに演出させることを最優先させた結果、一歩下がってみると非現実的な描写ばかりになっているとドレイク氏は酷評している。

    という指摘は、的はずれだと思っています。医者につげて呼吸器をはずしてもらう?!そんな伏線どこにはるんだよ、ってことなんです。それだったら、リングで鼻をおられたとき、イーストウッド「医者を呼ぶしかない」スワンク「いや、治せるでしょ」「だめだ」「お願い」というやりとりは逆になるのだろうか? 「医者を呼ぶしかない」「じゃあ呼んで」スワンク、病院に運ばれて敗退・・・。って物語としてありえない。

    現実の世界ではコーチに頼む絶対的な理由がなかったというが、物語の中では絶対的な理由があった。こういう批判をうけるのを避けるためにも、映画制作者は映画が正しく「フィクション」であることを宣言しておかないといけない。

    そして付け加えておきたいのは、現実もかなりの部分、物語であること。というか、物語として我々が記憶し、理解するということ。ドレイク氏がいう、「医者に告げて呼吸器をはずしてもらう」という行為も、そこにある種の「物語」が作用しているような気がしてならない(けどこれは今回の議論から離れますね・・・。)

    思わず連続投稿になってしまいました。すみません・・・。

  16. GBG Says:

    >>不思議だな〜?
    >あ、ごめん。私の勘違い。

    別に勘違いなのは誰にでもあるからそのこと自体はどうでもいい。

    ただ、君はこう書いていたわけだ。

    >自分の方が頭に血が上って書き間違えたのが自明であることの責任を他人様に押し付けるなんて、君はどこまでメチャクチャなんですか?
    (164)

    ま、「決まってる」や、「自明」といった言葉を使うときはもう少し慎重になるべきだと思うがね。「メチャクチャ」にならないためにもね。

    (以上この件は終了)

    >Celineさん。(2/25付の記事158についてのレスです)

    まず、Maggieが犬の話を最初にするのは事故の前です。ある事情で彼女とFrankieが
    彼女の実家に行き、(この家族がまたやな奴で、、、)その帰り道のガソリンスタンドで、たまたま、少女と犬が載った
    車が目に入ります。そこから、件のマギーの父親と飼い犬の回想が始まります。
    病室で始めて犬の話が出るのではありません。

    >>息子さんはお母さんに、殺人罪が適用される可能性の高い行為を依頼しており、またお母さんも殺人罪が適用される可能性の高い行為であることを実行しております。(a thouzandさん)

    >この「息子さん」を「マギー」に、そして「お母さん」を(父親代わりの)「フランキー」に置き換えたら、まさに『ミリオンダラー・ベイビー』の展開そのものですね。(水原君)

    まあ、そうだろうと思います。「行為」だけを論じればどちらも自殺幇助、ないしは『高瀬舟』的な「(積極的)安楽死」ですから、「展開そのもの」であります。
    しかし、「動機」にまで立ち入って「展開そのもの」かどうかと問われれば「分かりません」とお答えするしかありません。というか、あえて言えば、おそらく違うでしょう、とお答えすべきでしょう。a thouzandさんが出された母と子の例は何の動機も説明されていないわけですから。ただ、動機がまったく同じであろうはずもないから、「おそらく違うでしょう」ね。

    >マギーからフランキーへの「殺人依頼」はボクサーとして成就できない人生を絶つという動機がメインになっている

    死を選ぶ動機としては、私もそう感じました。なぜフランキーにたずねたかといえば、(母親や他の家族はろくでもない奴ですし、)、この2人はお互いに代理父・代理母的な関係で、しかも浜口さんとこみたいな父親に従順な娘ですから、彼にそれを依頼するのはこの映画の世界では至極自然です。他に頼れる人はいないのですから。ただ、ですので、飼い犬と「忠犬」(笑 うところではないが)的な関係もありえるという解釈も一概に否定できないと思います。(つうか、そう感じ取りたい人はそう感じ取ればいいと思います。)私はそこまでは思いませんでした。やっぱり自分以外が面倒を見ないなら飼い犬のQOLが下がるからそれは不憫で、、、といった解釈はしませんでした)
    それではやっぱりFrankieの苦悩は出てこないでしょう。
    一方、Frankieがなぜ最終的に彼女の願いを受け入れたのかといえば「自分が死んだら面倒見切れないから、死なせる」というのとは全然違うと思います。だって、仮に「自分が君を面倒見るから生きてくれ、誰にも渡さない」なんていったからといって、Maggieが死を思いとどまるとは思えないからです。そうではなく、「自分がそれをする運命にあるのだ」と彼が思ったからでしょう。
    彼には音信不通の実の娘がいるわけで、Maggieはその娘の代わりのような存在でもあるわけですから、彼女を失うことはいわば娘を二度失うようなものです。当然はじめは申し出を断ります。しかし、彼女の願いを断ることはそのような「娘を失いたくない」という自分の単なるエゴではないかといった葛藤もあります。
    しかし、彼女の願いを断ることはそのような「娘を失いたくない」という自分の単なるエゴではないかといった葛藤もあります。しかし最終的には彼女の願いを受け入れるのは「自分の感情はどうあれ」自分しかいないのだ、という使命感のようなものからではないかと思います。

  17. GBG Says:

    (訂正です)
    1.代理父・代理母→「代理父・代理娘」

    2.”しかし、彼女の願いを断ることはそのような「娘を失いたくない」という自分の単なるエゴではないかといった葛藤もあります。”
    この部分重複してます。すみませんでした。

    ついでに言うと、最後のシーンで、Frankieが「安楽死」を実行する際の手順には違和感を覚えたのは、その前にドレイク氏の記事を読んだせいもありますが、それ以前に私は、オランダの安楽死実行の瞬間も含めた特集を見たこともあります。そこでは、「安楽死」が許可される条件や実行の手順が詳しく説明され、また、その場面を見たALS患者や医師の拒否反応も取り上げられていました。(もちろん、賛同意見も取り上げられていました)また、親友の親が呼吸器につながれたままの時期に、その親友や家族の苦悩について聞かされたこともあるからです。ある意味、あの描き方だと、医療従事者の中にも違和感を覚える方もあろうと推測します。

    映画だと思って割り切って観れば感動的な映画であろうと思います。しかし、町山さんが言うように、
    >しかし、それでもなお、この映画は、同じ状況に置かれている人たちにとっては「死んだ方がまし」と言われているような気もするだろう。
    http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050215#seemore
    と私も思います。それが仮に「感情論」だとしてもね。
    一方で「そんな感情論だけでは障害者運動にとって帰ってマイナス」という批判も当事者の中から出てくるのではないかとも予測(期待)してします。

  18. 水原文人 Says:

    >ま、「決まってる」や、「自明」といった言葉を使うときはもう少し慎重になるべきだと思うがね。「メチャクチャ」にならないためにもね。

    人が言ってもいないことを喚き続ける誤読の王様、何度誤謬を指摘されようが同じことを来る返す病的ループ人間のGBGがそんなこと言うな(笑)。

    そんなことよりも、謝罪と撤回はどうしたんですか?

    あと

    それよりもいいかげんにスルーするの、やめたら?

    ・132番に答えてからにして下さいね。

    >なんで君の決めつけただけで私がぜんぜん言ってない一般論なんぞに私が答えなければいけないんだい? 本格的に発狂してるんじゃないですか?
    >80番をあと200回ぐらい読み直せば?

    こちらへの返答と、君が「滝に打たれたらわかる」とかナマぬかしたコレ・・・

    http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12783&range=1
    http://otd9.jbbs.livedoor.jp/987087/bbs_plain?base=12784&range=1

    …への回答は、最低限よろしく。

    >まあ、そうだろうと思います。「行為」だけを論じればどちらも自殺幇助、ないしは『高瀬舟』的な「(積極的)安楽死」ですから、「展開そのもの」であります
    (中略)
    > ただ、動機がまったく同じであろうはずもないから、「おそらく違うでしょう」ね。

    他人を貶めたいがためだけに、こいう意味不明のことを延々と書き続けるGBGであったとさ。私は外形的事実として分かる共通性を指摘してるだけなんだが?。

    一方で(ここからは真面目)「動機がまったく同じであろうはずもないから」と言ってそれでおしまいに出来るのなら、なぜ人類は叙事詩から小説、演劇に映画に至るまでの膨大な量の物語芸術を再生産して来たのでしょうか? GBGさんはなんのために映画を見に行ったのですか、って話にもなりますが。

    >一方、Frankieがなぜ最終的に彼女の願いを受け入れたのかといえば「自分が死んだら面倒見切れないから、死なせる」というのとは全然違うと思います。だって、仮に「自分が君を面倒見るから生きてくれ、誰にも渡さない」なんていったからといって、Maggieが死を思いとどまるとは思えないからです。

    これはさっぱり意味不明なんだが、どういうことなんでしょうか? 「Maggieが死を思いとどまるとは思えない」からということがどこでどうつながるのかさっぱり…。だいたい「「自分が君を面倒見るから生きてくれ、誰にも渡さない」なんて言葉だけの陳腐なことを言ってなにが始まるのか? 

    >それが仮に「感情論」だとしてもね。

    しかしその当時者でもないあなた自身が、他人の内面を安易かつ図式に想像しただけで、その「感情論」に囚われて映画館に座っていれば当然目に見え、聞こえて来るはずのことがらに対する感受性や思考能力を閉ざしてしまうなら、それこそ安易なセンチメンタリズム、「これは大人の、成熟した観客のための映画」と言われておしまいになるのだと思いますね。

    > 一方で「そんな感情論だけでは障害者運動にとって帰ってマイナス」という批判も当事者の中から出てくるのではないかとも予測(期待)してします。

    そういう次元だけで考えているとしたら、それだけでも大いに問題だと思うんだが。まさに「障害者」を“弱者”(=単にマイノリティの訳語としてでなく、文字通り”弱い者”)というカテゴリーとしてでしか見ずにそこにセンチメンタルな思い入れを押し付けているだけの図式がかなり見えて来る主張なんだが…。

  19. ryu2net Says:

    水原さん、

    さすがに厳しいツッコミですね(^^;

    テキストと読み手、映画と観客の間にはインタラクティブな関係がありますよね。映画から取り出したユニークな意味から、私は私自身について知るという働き。今回の映画で言えば、映画を見ながら「最愛の人がこうなったら僕はどうするだろう」という問いがわき上がることをおさえられず、そこで僕は僕自身について、「発見」とまではいかないけれども、何かにふれた感じがしました。そういう状況におかれたら、「ロマンチック」なんてとても呼べない、非常につらい状況だろうと。で、イーストウッドの映画は、こういう「テキストの読み」へと誘惑する。哲学用語でいうと「開かれたテキスト」なんだと思っています。(使い方が正しいか分かりませんが・・・。)

    哲学の知識もないままに書きつづりますが、物語の根本が繰り返しであるとして、優れた物語は、読者や観客の心の中、思考の中で、三度目の繰り返しを誘発する物語ではないだろうか、と思ったりもします。「ミリオンダラーベイビー」はその点で、三度目の繰り返しの強い誘惑を放っています。ふと自分の身に置き換えて考えてしまう。

    観客の心で繰り返された瞬間に、物語(フィクション)はリアルなものになるのだろうと思っています。フィクションそのものはフィクションにすぎない。でも「開かれたテキスト」が誘発する、三度目に起こる心の中の「物語」は、それはもうリアルです。それは「自分も同じ状況におかれたらどーなるだろう」という陳腐な形態かもしれませんし、映画への没入にともなう見終わったあとの心のなかの残響という形態をとるかもしれません。

  20. GBG Says:

    水原君へ。君の名文を再録すれば十分だね(笑)

    >他人のことを知りもせずに勝手な先入観だけで決めつけるのはやめてもらいたいんだがな? そんな先入観なぞ持ち出すまでもなく、ただそこに書かれている言葉だけを議論すればとりあえず議論そのものは成立するんだが、そんなことも分からんのか?

  21. ryu2net Says:

    テキストと読み手、映画と観客の間にはインタラクティブな関係がありますよね。映画から取り出したユニークな意味から、私は私自身について知るという働き。今回の映画で言えば、映画を見ながら「最愛の人がこうなったら僕はどうするだろう」という問いがわき上がることをおさえられず、そこで僕は僕自身について、「発見」とまではいかないけれども、何かにふれた感じがしました。そういう状況におかれたら、「ロマンチック」なんてとても呼べない、非常につらい状況だろうと。で、イーストウッドの映画は、こういう「テキストの読み」へと誘惑する。哲学用語でいうと「開かれたテキスト」なんだと思っています。(使い方が正しいか分かりませんが・・・。)

    哲学の知識もないままに書きつづりますが、物語の根本が繰り返しであるとして、優れた物語は、読者や観客の心の中、思考の中で、三度目の繰り返しを誘発する物語ではないだろうか、と思ったりもします。「ミリオンダラーベイビー」はその点で、三度目の繰り返しの強い誘惑を放っています。ふと自分の身に置き換えて考えてしまう。

    観客の心で繰り返された瞬間に、物語(フィクション)はリアルなものになるのだろうと思っています。フィクションそのものはフィクションにすぎない。でも「開かれたテキスト」が誘発する、三度目に起こる心の中の「物語」は、それはもうリアルです。それは「自分も同じ状況におかれたらどーなるだろう」という陳腐な形態かもしれませんし、映画への没入にともなう見終わったあとの心のなかの残響という形態をとるかもしれません。

  22. ryu2net Says:

    ごめんなさい、インターネットの接続が悪く、再送されてしまいました・・・。

  23. 水原文人 Says:

    >水原君へ。君の名文を再録すれば十分だね(笑)

    だからこそ君は謝罪・撤回する義務があるし、君の誤読への指摘に対しても説明なり弁解する必要があるんだが? また君が他人の言ったことを「誤解・誤読」と決めつける前に、ちゃんと反論しなければならないのだが、君はそれも一切できずにただ同じことを繰り返してるだけなんだが。

    つまりGBGはネット言論界の迷惑なんだな…

  24. 水原文人 Says:

    ryu2netさん、

    >で、イーストウッドの映画は、こういう「テキストの読み」へと誘惑する。哲学用語でいうと「開かれたテキスト」なんだと思っています。(使い方が正しいか分かりませんが・・・。)

    それを古典ハリウッド的な話法を突き詰めることでやってしまってることが凄いんですよね。異化効果というか、スタイルそのものへの自覚性を観客に突きつけてる映画としての自己言及性でテクストを「開く」という方向性なら、ウェルズとかゴダールとかスコセッシとかけっこういっぱいいるんですが、イーストウッドの存在は極めてユニークであります。

    元々俳優としても極めて不思議な存在で、ある意味で生きながらにして死んでいるようななにかを表象している…。別に高齢スターの仲間入りをする前から、そういう「死」の陰がいつもつきまとってる。『アウトロー』とか『ペイルライダー』なんて最初から”死んで”いるし。

  25. 水原文人 Says:

    追記、

    > ふと自分の身に置き換えて考えてしまう。

    物語芸術というのはまさにそういうものであり、こと映画というのは(ことラカン心理学系映画理論の分析によれば)とくにそういう力がその映像と言うフォルムそのものにある、ということになっていますね。

    ことイーストウッドのように「心理描写」(たいていの映画では、表層的感情のみを特化することで本当のところ心理を隠蔽するものでしかない)をほとんど自らに禁じている映画では、なにしろ人物は基本的にそこにいるだけになるので、ふと自分の身に置き換えて考えられるかどうかが、「大人の、成熟した観客」であるかどうかのバロメーターにもなってしまう、つまり観客自身が試されることにもなってしまうわけです。

    その時にまず先行情報で形成した先入観にひっぱられまくった末に、「「自分がそれをする運命にあるのだ」と彼が思ったからでしょう」とか、一見もっともらしく聞こえてその実なにも言ってない言葉に逃げるのでは、まあどうしようもないと…

  26. tert Says:

    皆さま

    「ルーペ論争」について所見を述べると宣言しておりましたが、いかんせんイーストウッド新作を見て折らず、じっくりとエントリーを読むと映画の楽しみを奪われる恐怖に襲われてきますので(笑)、仏公開の26日まで、もしまだここが継続しておりましたら、待ちたいと思います。それまで考えを重ねますが、また宜しくお願いします。

    水原さん、私信申し訳ありませんが、そういえば先日、ポンピドゥーセンターでピアラの全7話6時間『森の家』のリマスター版を見ましたよ。現センターの文化部門ディレクターであるドミニク・パイーニはシネマテークのディレクター時代からこの作品の上映のために奮闘してきたらしく、前説でも感慨深げでした。僕はピアラは(あまり見れてませんが)「巨匠」とは言えないと思いますが、映画表現の多様な問題を孕む、はずせない作家ではあると思ってます。ちょっと、好みでないのも正直なところなのですが、、、、うーん、けどこれから。

  27. GBG Says:

    >> ただ、動機がまったく同じであろうはずもないから、「おそらく違うでしょう」ね。
    >他人を貶めたいがためだけに、こいう意味不明のことを延々と書き続けるGBGであったとさ。

    別に君の事を「貶めたい」などという狭い了見で言っているわけはないさ。一人ツッコミ、一人ぼけも大概にしてもらいたいですね。「中学生並みの」自意識過剰ですか(笑)
    celineさんのご質問に答えているだけなので。「他人の心理を勝手に解釈してそれにいちゃもんをつける」ゲームを楽しみたいならどうぞご自由に。あっしには関わり合いのないことでござんす。

    >私は外形的事実として分かる共通性を指摘してるだけなんだが?。

    あ、そう。そうあなたが言うんならそうなんでしょうな。じゃそれでいいじゃん(爆) 誰がそれを否定しましたか?

    >「動機がまったく同じであろうはずもないから」と言ってそれでおしまいに出来るのなら、
    >しかしその当時者でもないあなた自身が、(中略)感受性や思考能力を思考能力を閉ざしてしまうなら、
    >そういう次元だけで考えているとしたら、

    「なら」「たら」「れば」のお話ですから、お答えのしようがないですね。
    これがいつの間にか、「から」といった断定にスリカエられることがあるの「なら」、困ったもんですね(笑)

  28. 水原文人 Says:

    > 別に君の事を「貶めたい」などという狭い了見で言っているわけはないさ

    あまりに意味不明だから、そうとでも解釈しないとなんでこんなに支離滅裂なこと書いてるのか理解できないのだが。それかGBGは単なるバカってことになる。

    >「なら」「たら」「れば」のお話ですから、お答えのしようがないですね。

    相変わらず日本語のレトリックが分かってないGBGであったとさ。

    そんなことより謝罪と撤回はまだですか? 君が勝手に誤読した挙げ句にさんざん粘着したんだから、責任はとってもらわないと(苦笑)。

  29. 水原文人 Says:

    >あ、そう。そうあなたが言うんならそうなんでしょうな。

    違うんだが(笑)。文言として現に外形的事実を指摘しているのでなければ、私が「そう言ってる」ことはウソってことになるのだが。

    (繰り返し)他人のことを知りもせずに勝手な先入観だけで決めつけるのはやめてもらいたいんだがな? そんな先入観なぞ持ち出すまでもなく、ただそこに書かれている言葉だけを議論すればとりあえず議論そのものは成立するんだが、そんなことも分からんのか?

    ↑自分で引用していながら、やはりその意味が相変わらず分かっていないGBGであった。

    だからバカはだめなんだよな。そんな調子だから先行して自分が得た情報を鵜呑みにして、映画館に行っても「映画そのものは見てない」状態になるのであったとさ。

    たとえばこんなのも、ダメダメの典型

    >最後のシーンで、Frankieが「安楽死」を実行する際の手順には違和感を覚えたのは、その前にドレイク氏の記事を読んだせいもありますが、それ以前に私は、オランダの安楽死実行の瞬間も含めた特集を見たこともあります。そこでは、「安楽死」が許可される条件や実行の手順が詳しく説明され、また、その場面を見たALS患者や医師の拒否反応も取り上げられていました。(もちろん、賛同意見も取り上げられていました)

    その番組がいわゆる「両論併記」の公平さを装ってるかどうかなんて問題ぢゃないんだが…。君の主観がどう判断したか、それをパブリックな場で表明することで君自身の主観(つまり、洞察力、感受性、理解力)が自動的に問われるってだけの話なんだが。

    > 親友の親が呼吸器につながれたままの時期に、その親友や家族の苦悩について聞かされたこともあるからです。ある意味、あの描き方だと、医療従事者の中にも違和感を覚える方もあろうと推測します。

    どっちかと言うとryu2netさんの記述から判断するに確かにその立場にある人に突きつけられるフィクションとしては特段に重い内容であるのだが、それを言うのならやはり誰に突きつけられても「重く辛い」ものであるのは最初から分かっていることであり、ただ重く辛いフィクションを突きつけられるのが「感情論」として嫌なのであれば、ロバート・ゼメキスでも見ていればいいというだけの話で終わってしまうのであった。

    >この2人はお互いに代理父・代理母的な関係で、しかも浜口さんとこみたいな父親に従順な娘ですから、

    予告編などで取り上げられている前半の展開が、当然ながら後半に継承しその前提になっていることすら、どうも分かってないらしい…

    >ryu2netさん、

    >(たとえば戦争映画なんて、すべて「ロマンチック」な想像の産物だろう。)

    これなんかたぶん、違います(なにしろ実体験だし)。

    http://www.amosgitai.com/kippur.php
    http://www.kino.com/video/item.php?film_id=582

  30. ryu2net Says:

    水原さん、的確なフォローをいつもありがとうございます。

    >>(たとえば戦争映画なんて、すべて「ロマンチック」な想像の産物だろう。)
    >これなんかたぶん、違います(なにしろ実体験だし)。

    うかつでした。確かにその通りですね。書いていたときは、「リアルな描写」が話題になったスピルバーグのプライベートライアンを想定していました。もしくは「プラトーン」のような演出か。あれらを「ファンタジー」とか「ロマンチック」と言うことは可能ですが、でもそう言う瞬間に、自分の貧困な感受性の告白になりかねない危険性もある。なので、それが「ロマンチック」な産物かどうかは、どこかできちんと見分けておかないといけない。

    一番のポイントは「開かれているか」ということ? たしかに自閉した作品に対しては「ロマンチック」の一言で片づけられるかもしれない。じゃあ、どこそれを見分けるのか、という同じ問いが繰り返されて・・・。

    とりあえず、ひとつの要素としてあるのは、感情についての「解釈」が容易でないこと。アンビバレントであること。そこから、見ている観客が登場人物と同じように、ふたつの感情に引き裂かれていくこと。GBGさんの言うとおり、「「自分がそれをする運命にあるのだ」と彼が思ったから」という解釈もありうるかもしれないけれども、もしかしたらそれではいい足りていない感じが常につきまとう。(ような気がしています。)

    だから、フィクションの場合、それが現実と同様に「リアル」であるかというよりは、こうした「開かれ具合」のほうが重要になってくる。「開かれている」ことのほうが、「リアル」に近づくポイントになってくる。「実際の尊厳死の手続きと違う」「病院の警備はあんなにヤワじゃない」というような指摘は、じゃあ実際の尊厳死の手続きと同じことを映画で表現すれば、それが「リアル」=(アンビバレントな感情を引き起こして、まるで現実に起こったことのように心を揺さぶり、深く考えさせる)ものになるのか、というとそうじゃないだろうと思うわけです。そういうことからも、ドレイク氏の指摘には、賛同できないんです。

  31. ryu2net Says:

    障害者運動に尽力しているドレイク氏が、ああいうかたちで映画を批判するのは、ドレイク氏なりの倫理観に基づいているのだということは理解できます。しかし、映画(フィクション)には映画なりの、また別の倫理観がある。もっといえば、あえて現実とは違う描写にすることで果たされる倫理観というものもあるのだと思うんです。現実のような設定にしたところで、フィクションはフィクションでしかない。だから別のレベルでのリアリティを求めるわけです。(書きすぎかな・・・)

  32. 水原文人 Says:

    ryu2netさん、

    >うかつでした。確かにその通りですね。

    いえ、違います。これは引っかけです。実は突っ込まれることを期待してました。

    > 書いていたときは、「リアルな描写」が話題になったスピルバーグのプライベートライアンを想定していました。もしくは「プラトーン」のような演出か。あれらを「ファンタジー」とか「ロマンチック」と言うことは可能ですが、でもそう言う瞬間に、自分の貧困な感受性の告白になりかねない危険性もある。なので、それが「ロマンチック」な産物かどうかは、どこかできちんと見分けておかないといけない。

    素材が実体験であったり、実際の証言であったりすることも一つの要素ですが、それは補助的かつ他で挽回可能な部分でしかなく(そしてどっちにしろ観客にはその実あまり関係のないことでしかなく)、より重要なのはテクストとしてどのように提示するかではないでしょうか? フィクションであれドキュメンタリーであれ、テクストとして提示するには再構成が必要です。その再構成は、実体験である場合には、実は自分がどのように記憶しているかの時点ですでに始まっているとも言えるでしょう。ryu2netさんはすでに

    >そして付け加えておきたいのは、現実もかなりの部分、物語であること。

    と15番でおっしゃっておいでですが、人間はある意味、大なり小なり現実を物語としてしか理解し、記憶することができない意識の構造を持っています。実体験い基づいたフィクションを作ったりする場合、それが「開かれた」テクストになるのかどうか、「ロマンチック」を拒絶できるかどうかのひとつの契機は、その「私の物語としての私の体験」をどこで「私の物語」からある意味切り離すのか、であると思います。

    「実体験だからリアル」、あるいはドキュメンタリーとして「現実」を撮っているから「リアル」というのは至極図式的で分かり易い話です。しかしその「リアル」は、「観客の心で繰り返された瞬間に、物語(フィクション)はリアルなものになるのだろう」というようにryu2netさんがおっしゃっている「リアル」とは別次元の問題でしょう。

    一方で観客の側がある種”調教”されていればいるほど、戦争なら戦争に想定される「リアル」をあらかじめ前提にしている部分があるでしょう。『プライベートライアン』はある意味で同じ前提を作り手であるスピルバーグの側が共有している部分が相当にあるし、実体験に基づく『プラトーン』ですら、クライマックスでウィレム・デフォーが両腕を振り上げる、あのポスターにもなっているイメージなどは、オリヴァー・ストーンの脳内で再生産された物語としての「リアル」であるのか、あるいは黒木和雄の『美しき夏キリシマ』(やはり自伝モノ)で最後に主人公が米軍に竹槍で「突撃」するシーンのような、実際にはやらなかった自分の願望の反映としてのフィクションであるのか、微妙な問題ではあります。

    ご紹介したアモス・ギタイの『キプールの記憶』の戦争映画・自伝的映画としての特異性は、それが実際に自分の体験に基づいていること以上に、それをどうやって映像と音声のテクストとしようとしているか、そのプロセスにあっていかに「私の物語としての私の体験」を映画作家としての自分から切り離そうとしているか、にあるのだと思います。これはもう、見てみなくてはどうしようもないのですが、分かり易い言葉を挙げるのなら、監督自身がインタビューで「戦争映画では常に憎しみや敵意、勝利の栄光や戦争の悲しみが語られる。私の体験ではそんなことはなかった。私が感じていたのはただひたすら、疲労だった」と言っていました。で、見れば分かるように「憎しみや敵意」も「戦争の悲しみ」もなく、ただひたすら即物的に戦争があり、そのなかで人々が疲れきっている映画であったりするわけです。

    > じゃあ実際の尊厳死の手続きと同じことを映画で表現すれば、それが「リアル」=(アンビバレントな感情を引き起こして、まるで現実に起こったことのように心を揺さぶり、深く考えさせる)ものになるのか、というとそうじゃないだろうと思うわけです。

    もっとも僕であれば、そのプロセスを気が遠くなりそうなほど徹底して詳細にこだわって延々と見せる、ってことをやるかも知れません。それも長廻しでネチネチと。ただそれもひとつのやり方であって、それをやるには『ミリオンダラー・ベイビー』みたいな物語はたぶん使わないでしょうし。

    閑話休題。ここで「ルーペ論争」に戻れば、これは実はふたつの問題を内包しているわけで、一方には苦しみを表現するためとは言えその苦しみの被害者に対して自分たちがそこまで鬼畜として振る舞っていいのかどうか、という人道的・倫理的な問題があるわけですが、これは作り手の側のみの問題ですからこの場ではあまり関係ないのでおいておいて…(どうもtertさんはそこがごっちゃになっている気がします)。

    もう一方であるのは、ドキュメンタリーであってもその「現実」を通してなにかを表現したい、あるいはなにかが自動的に表現されてしまうものであるときに、その表現のためにどこまで現実の再構築としての「物語」に向かうのかという問題であると思います。つまり、亀井はすでに泣く中国の子供はいっぱい見ていて、それを映画にアップとして入れたいのに、ただ自分とは直接関係なく泣いている(本当に日本軍の、戦争それ自体の被害で泣いている)ことのアップを撮ることが不可能であったから、自分で羽交い締めにして怯え泣かせたそのアップを「撮れ」と言ったわけです。その意味で彼がやろうとしたことは「ヤラセ」になるのかも知れないけれど、彼が中国で見た現実を自分としてほとんど無意識に再構築している「物語」には忠実であると言う意味で、別に「嘘」をついているわけではない。演出家はその画を撮った直接の状況だけでなく、映画全体のことを常にどこかで念頭に於いていますし、「いい画」を撮ること以上に「いい映画」にすること−−この場合、そこで自分が見た中国戦線の悲惨を表現すること−−が優先されるわけですね。そこで三木に対して「キャメラマンはしょせんルーペの中しか見てないから」って話になる。

    その点で、亀井の主張は、彼が見たものから「物語」として再構築される映画としてはまったくの正論になるわけです。しかし「開かれた」テクストを意識するというより現代的な思考からすれば、たとえば僕なんかはそういう方法論はやらない。むしろ自分にとって撮れない/見えないものについては、その撮れない/見えない自分をその映像のなかにどこかで表現することに意識が向かう。つまり僕が見せるものは僕が見たものに過ぎず、そこも含めたより大きな「物語」を観客がそれぞれに自分のなかに再構成する契機を内包する、というようなことで。

    >そういうことからも、ドレイク氏の指摘には、賛同できないんです。

    彼の映画に対する評価は、たぶん映画をみてもことごとく賛成できないことになるんでしょうけど、あれは彼が自分が見た映画の細部から必死で自分にとって受け入れられる「物語」を捏造しようとしている姿までさらけ出してしまっている点では、読み甲斐のある文章でした。その意味で本人が意図せざるところで「開けて」しまっているのかも・・・。というか読む側が意識的であれば「開けて」しまうというか。

  33. 水原文人 Says:

    追記

    >もっとも僕であれば、そのプロセスを気が遠くなりそうなほど徹底して詳細にこだわって延々と見せる、ってことをやるかも知れません。それも長廻しでネチネチと。

    というかある意味で(それを淡々とやることでたぶん伝わるであろうことの表現は)、すでにやられてしまってる気もするけど…。もう十数年前に…↓

    http://www.zipporah.com/23.html

    ↑しかも上映時間6時間もかけて…。一応ドキュメンタリーなんだが「私の映画は現実に基づいているけどフィクションだ。小説のように構成されている」ってカントクも言うておるし…

    一応日本語字幕付きでレンタルできます↓

    http://www.acejapan.or.jp/film/list/ws/ws.html#11

    ↑(字幕の訳はイマイチだけど…)

  34. 水原文人 Says:

    たびたびすみませんが、整理すると…

    >>>>(たとえば戦争映画なんて、すべて「ロマンチック」な想像の産物だろう。)
    >>>
    >>>これなんかたぶん、違います(なにしろ実体験だし)。
    >>
    >>うかつでした。確かにその通りですね。
    >
    >いえ、違います。これは引っかけです。実は突っ込まれることを期待してました。

    つまり「実体験」という「リアルであるという言い訳」を担保にした「痛みを感じた私の物語」の神話性を前にしたときにオートマチックに武装解除してしまうなら、その神話性を常に「私の物語」の正当性の担保にできてしまうのなら、極端な話我々は「9-11で傷ついたアメリカのテロとの戦争、対イラク戦争」にも、「ホロコーストを経験して民族殲滅の恐怖を体感しているユダヤ人によるイスラエルの自衛の戦争としてのパレスティナ占領」にも、たぶん「新しい教科書を作る会」にも本質的な批判の手段を失うし、「障害者運動に尽力しているドレイク氏が、ああいうかたちで映画を批判する」ことについても、「障害者運動の倫理」対「映画(フィクション)映画なりの、また別の倫理観」でしか対抗できなくなるわけであり、それは「人それぞれにいろんな意見があるわけだし」という本来なら出発点であるところで思考停止していることになってしまうわけです。

    しかし実は、ほとんどあらゆる戦争が(ナチスの反ユダヤ主義ですら)その「痛みを感じた私の物語」を自己正当化の補償として行われて来ている、言い換えればその時点であらゆる戦争が「私の物語」としては「正義の戦争」であり、その時点で止まってしまっていては議論と戦争の違いはただ暴力的手段が用いられず、死者が出ないというだけの違いしかなくなってしまう。そして直接の暴力の行使がない以上、お互いの「私の物語」が不可侵の神話性を帯びるのであるのなら、議論や表現は問題解決の手段、人間とその世界を少しでも高めて行く手段としての有効性を、持たないことになってしまうわけです。あるいは二項対立が絶対的に二項対立であることの確認作業でしかない、本来コミュニケーションのチャンネルであるはずのものが、そこにコミュニケーションがあり得ないことの確認手段にしかならないで終わってしまう。

    フィクションであってもドキュメンタリーであっても、「他者の物語」を観客が自らのうちに取り込んで「観客の心で繰り返された瞬間に、物語(フィクション)はリアルなものになるのだろう」(ryu2netさん)という契機となり得る「開かれたテクスト」としての物語芸術は、本来なら「自分対他者」、たとえば「健常者対障害者」でもいいのですが、その二項対立を脱構築できる力を、本来なら持っているはずです。ただし観客にとってその本質的なコミュニケーションが可能になるには、「自分」という物語、「自我」というテクストの総体がまた開かれてなくてはいけない。

    「私は映画の専門家ではないから映画評論を書いたはずがない」というのは、自分というテクスト、「私の物語」を専門性という枠のなかに閉じ込めた形で閉じきってしまった態度でしかない。その自分の「私の物語」というテクストに引きこもっていては、極端な話他者とコミュニケートするという本来人間が他者と共存して生きて行くために絶対に必要なチャンネル、生きて行くすなわち常に自分が変わり続け、前進していくという意味を殺してしまうことにもなるのかと思います。そういう人の人生のなかに、「芸術」や「表現」は実は必要ではありません。ただ閉じこもった自我のなかで「私の物語」を呪文のように再確認して繰り返すことにしかならないのですから。

  35. 水原文人 Says:

    すみませんが、さらに補足

    >「私は映画の専門家ではないから映画評論を書いたはずがない」というのは、自分というテクスト、「私の物語」を専門性という枠のなかに閉じ込めた形で閉じきってしまった態度でしかない。

    逆に「ドレイク氏は障害者運動家であるからその倫理は理解するが、私は障害者運動家ではないから」という態度のうちに自分を閉じてしまうのもまた、同様にコミュニケーションのチャンネルを自ら閉じてしまっていることになります。そうではなく、我々の前には「ドレイク評」という、我々が読者として「開く」ことができるテクストがあるのですから。もっとも、それを「開く」ことを遠慮してもらった方が、「ドレイク評」というテクストから「熱心で危機感に満ちたドレイク氏に共感する私」という「私の物語」に自己陶酔できる人にとっては有り難いのでしょうが。

  36. ryu2net Says:

    水原さん、
    引っかけとは思わず、素直に反応してしまいました。うーん、意地悪ですよね〜(^^;
    コメントを、いくつか書こうとしては、消してしまいました。

    > 「ドレイク氏は障害者運動家であるからその倫理は理解するが、私は障害者運動家ではない
    > から」という態度のうちに自分を閉じてしまうのもまた、同様にコミュニケーションのチャ
    > ンネルを自ら閉じてしまっていることになります。

    このことはしっかり心にとめていかないといけないですね。

    まず、自分の物語をいつも、括弧にいれてみる必要がある。フィクションであることを認識する必要がある。ただ、やっかいなのは、それが「フィクション」であることを知りながら、あえて「信じる」という行動もある。9.11(や教科書問題)は、それがフィクションであることをどこかで知りながら、それを「あえて信じる」ところに怖さを感じます。そこでは、それがフィクションであることを指摘しても、なんの進展もありません。そして、どっちのフィクションを信じるか、というような選択の問題にすり替えられてしまうわけです。

    でも、どこかで、それは選択なんて問題ではないだろうと感じています。選択の問題とした時点で、二項対立に問題が矮小化されてしまう。ここで「開かれているかどうか」という問いが、重要になってくるわけですよね。

    だから、映画監督が問われていることも同様で、物語がフィクションであると認識していること、さらに物語が開かれる契機をとらえているか、ということなんだろうと思います。ドレイク氏がほんとうに突きつけなければならなかった問いは、このふたつだったのではないだろうか。そして、その問いはすぐさま、ドレイク氏自身へと問われることになる。(そしてももちろん、このコメントを書いている僕自身にも跳ね返ってくる。)ここでは、もはや問われるのは「立場」ではない。問い/問われる関係性のなかに放り込まれた、一人の人間がいるだけなのである。(ちょっと感傷的すぎますね・・・。)

  37. 水原文人 Says:

    ryu2netさん、

    >引っかけとは思わず、素直に反応してしまいました。うーん、意地悪ですよね〜(^^;

    いやぁ…すみません。多少は「ツッコミどころ」を入れとかないと議論が先に進まないだろうと思って、つい…。悪意はなかったのでありますが、ごめんなさい。

    > )ここでは、もはや問われるのは「立場」ではない。問い/問われる関係性のなかに放り込まれた、一人の人間がいるだけなのである。(ちょっと感傷的すぎますね・・・。)

    いや、実存主義的なのだと思います。

    日本で所得を得ているフリーランサーは今日中にカクテイシンコクというものを済まさねばなりませんで、また後ほど…

  38. celine Says:

    > 水原さん

    忙しくてちょっとご無沙汰してしまいましたが、まず、例の「膨大な量の無駄な言葉」について、水原さんの文章を全く誤読してしまったことにお詫びを申し上げます。失礼な物言いをしてしまいましたm(_ _)m

    ドレイク評に絡らんだ映画のプロットについていただいた異論や反論につきましては、そういう解釈や理解もあるということで受け賜っておきたいと思います。私としては自分の考えを充分に書き、意見交換もそれなりにできたと考えております。映画が公開されたら当然観に行く予定です。その時に「映画」についてまた書き込みをしたいと思っていますので、どうぞよろしく。

    > GBGさん

    ということで、いただいたレスにお応えできるような書き込みは今回できせんが、どうかよろしく^^;

  39. 水原文人 Says:

    Celineさん、

    >原さんの文章を全く誤読してしまったことにお詫びを申し上げます。失礼な物言いをしてしまいましたm(_ _)m

    いえいえ、分かればいいことなんでどうぞお気になさらず。

    >映画が公開されたら当然観に行く予定です。

    一応6月公開って聞いてます。

    > その時に「映画」についてまた書き込みをしたいと思っていますので、どうぞよろしく。

    映画のことはそれはそれでいいんですけど、どちらかというと「障害」と「生きる尊厳」の問題についてはもう少しお話を続けられたらいいなぁ、とは思っております。『ミリオンダラー・ベイビー』とはまったく無関係に。

  40. ryu2net Says:

    >いや、実存主義的なのだと思います。

    うーん、1日悩んでしまいました。ナイーブすぎるんですよね・・・、僕は。「自己」とか言っちゃいそうで。映画という形式と自己の間には、一種の緊張関係があって、「映画を通じて自己を表現する」なんてヤワな話ではなくて、自己は映画という形式に絡め取られかねない。「自己表現」だと思っていたら「映画表現としての作られた自己」だったりして。だから映画は、形式を徹底していくなかで、形式を突破する、という方法がアリなんですよね。というか、そういう方法を通じて、「自己」を発見するのかもしれない。

    イーストウッドは、ハリウッド形式を踏襲して、途中までは優れたボクシング映画として見せてしまう。そして一見、型破りなエンディングですが、物語としての形式をしっかりと踏襲している。それでいて、形式を「つきぬけた」感じがするのはなんでだろう。乱暴に言えば、彼の映画は自己表現ではなく、探求なんですよね。←これも、いまいちな表現ですが・・・。

  41. Baad Says:

    お久しぶりです。
    水原さんとMacskaさん以外の方にははじめまして、ということになるのでしょうか。

    40.の前段の内容を読んで、ryu2netさんもものを造る立場の方なのかなと思って気になったのですが、あるいは映画の読みとして解釈をする過程でそう言う作業をしてしまうと言うことなのでしょうか?

    >一見、型破りなエンディングですが、物語としての形式をしっかりと踏襲している。それでいて、形式を「つきぬけた」感じがするのはなんでだろう。乱暴に言えば、彼の映画は自己表現ではなく、探求なんですよね。

    それと私は「ミリオンダラーベイビー」は未見なのですが、イーストウッドの場合数本しか見ていないにも関わらず、「自己表現」どころか、表現する主体自体が自己を越えた何かじゃないかと思ってしまいとまどうことがあります。とくに、「ミスティックリバー」や「真夜中のサバナ」にはそう言う要素を強く感じました。水原さんは、作品中のキャラクターが作家を動かすと言うようなことをおっしゃっていましたが、作品中のキャラクターも作家ではない別の何かの意志によって突き動かされているようにすら見える。上手く言えないけれど、自己表現とか自己探求というより宇宙のどこかをひっかいて生きるためのテリトリーを広げているような感じがします。

    そんなこともあって、こちらで議論が続いている障害と尊厳の問題が何故イーストウッドの映画と絡めて論じられているか、というのは今までの作品を見た印象からはなんとなくそぐわないものを感じます。もう一つの「海を飛ぶ夢(モThe Sea Insideモ日本では春休み明けに公開)」のほうがメインで「ミリオンダラーベイビー」はついでというのならいっそ解りやすいのですが。主演のハビエル・バルディムは数年前に「夜になるまえに」に主演していて、最近TV放映されたのを見たのですが、これもやはり最期に友人に助けてもらって自殺するというラストですね。その辺がステレオタイプと言う言葉を導き出した遠因かとも思ったのですが・・・(cf.「ミリオンダラーベイビー」ネタバレの70番)

  42. 水原文人 Says:

    >主演のハビエル・バルディムは数年前に「夜になるまえに」に主演していて、最近TV放映されたのを見たのですが、これもやはり最期に友人に助けてもらって自殺するというラストですね。その辺がステレオタイプと言う言葉を導き出した遠因かとも思ったのですが・・・

    ステレオタイプもなにも、あれも伝記映画(実在の人物/実話)だがや…

  43. 水原文人 Says:

    ryu2netさん

    >乱暴に言えば、彼の映画は自己表現ではなく、探求なんですよね。←これも、いまいちな表現ですが・・・。

    あらゆる表現は、探求ですよ。その探求する主体が「作家」という自己であるので、結果として自己表現になるだけです。個人的には、この「自己」の部分は”いやなんだけど仕方なく”って感じですらあります(笑)。

  44. 横山好雄 Says:

    多忙のため反論が遅くなりました。ROMの皆様、今後も場合によっては間が空くこともあろうかと思いますが、“必ず”反駁は上げますのでよろしく。

    先ず、前回の私の反論(前エントリー97番)のうち水原さんが「完全スルー」した指摘を再掲し、改めて回答・反論を要求しておきます。(ここまであからさまに、みっともなく逃げ回って、この人は本当に恥ずかしくないんでしょうか…。憐れなものです。)

    【スルー1】
    >今まで、Macskaさんとのやり取りの中の水原語録には基本的にとやかく言ってこなかったわけですが、そちらさんのご希望ですからこっちにとっては好都合です。
    >とりあえず第一点、何故“映画も観ていないのに”以下のようなことが断言出来るのですか? 
    >
    >>で、『ミリオンダラー・ベイビー』はその選択をそのまんま、肯定も否定もせずに描いてます。
    >
    >ちゃんと説明して下さいますか?

    「映画を観ずに論評すること」自体を非難していた水原さんは、「自分も全く同じことをやっているではないか」との指摘から逃げ出したわけですね。観もせずに何で[肯定も否定もせずに描いてます]などと断言出来るのか?、ちゃんと説明する義務があるでしょう。(パブリック、パブリックね、笑)
    ちゃんと説明して下さいますか?

    【スルー2】
    >>そんなあなたの自己中なルールになぞ従うつもりはまったくありません。ネット上の掲示板というのは原理原則としてオープンでパブリックなものなのでね。
    >
    >これのどこが自己中のルールなのか?(爆) 
    >問い合わせが無い以上、説明など出来ないではないか(笑)。また時制無視かよ。

    [問い合わせが無い以上、説明など出来ない]と私は本気で思っているが如何か? 具体的に、この場合、私はあなたにどんな説明をせよと言うのか教えてほしい。
    付言するが、あなたの言う「アク禁かけられた」のデマ・嘘・被害妄想については、たまたま2ちゃんでの転載を見て知ったわけで、それを見逃していれば、その後もっと長い期間そんなデマがばら撒かれていること自体に気づかなかっただろう。
    で、そんな状況で、具体的にどのような説明責任が管理者に発生すると言うのか? 
    (ちなみに2ちゃんでの評判は、「論争からトンヅラするのに水原のやり方は使えるな」というもの。「本人さえそう言い張れば覆す方法が無いから」(笑)。要するに卑怯者との評価が水原に新たに加わったということ。)

    【スルー3】
    >あのねぇ…(疲れるわ)、エバートが賛成するとかしないとか、イーストウッドが自分ならそうするとかしないとか、そんなことが何の関係があるのかね? あなたは他者の倫理観で左右されて、「映画の評価がコロコロ変わる」のかね?

    ホント、何の関係があるのかちゃんと答えてもらえます?
    こういう点を拘って問い質していかないと、あなたは自分の都合で論点をコロコロ変え、いつまでたってもこちらはそのすり替えられた論点に付き合っていかなければならないので。

    【スルー4】
    >それとついでに言っておくが、水原さんはよく町山氏の、そこの部分だけをいいように引用するが、その後にはこうもある。
    >>しかし、それでもなお、この映画は、同じ状況に置かれている人たちにとっては「死んだ方がまし」と言われているような気もするだろう。
    >何読んでるの?( ©水原文人 )

    一人の人間が「両論併記」で論評しているのだから、そちらを無視するのはかなりバイアスのかかった引用方法ではないか? 古今東西、卑怯者のやり口ではあるが。

    【スルー5】
    >>だから「これは大人のため、成熟した観客向けの映画で、そのなかで人物がやる行動は必ずしも我々の賛成するものじゃない」ってエバートは言ってるわけでしょうが…。映画全体がその主人公の選択を否定しているのかも知れんでしょうが…。そんなもの見いてみないと分からないって話を、何度したら理解するんでしょうかねぇ? 最初っからあなたがスルーしてるのは、まさにこのもっとも肝要な論点なんですけどねぇ…
    >
    >だ、か、ら、観ていない水原にそんなこと言われて誰が納得するのかって話なんだよ。 (celineさんもそういう意味合いで83を書いたのだと想像する。あくまで想像だけど。)
    >Macskaさんは“現に観た人”の論評・評価を紹介し、それに賛意を表明しているに過ぎない。それのどこに問題があるのか? そりゃ[主人公の選択を否定しているのかも知れん]。が、まだ観ていないあなたにそれを言う資格など一切ないではないか。「観た上」で、その主人公の選択を否定していたよと指摘するのならまだしも。
    >頭おかしいのかアンタ。

    これはそのまんま。あんたの理屈では[まだ観ていないあなたにそれを言う資格など一切ない]となるのだが? 本当に頭がおかしいのか…。

    【スルー6】
    >現に観た人(ドレイク)の先行批評をちゃんと紹介し、自身はそれに納得したからそこから敷衍してそう結論づけたわけだろが。
    >大体の話、[ロマンティックに美化]は、別に、あるカットの演出云々の話ではなく、現実から『ミリオンダラー・ベイビー』を逆照射した時に明らかになる滅茶苦茶さを婉曲に表現しているわけだよ。だから、「実際にそのシーンを観なければロマンチックがどうか分からない(言えない)」なんていう水原さんの物言いにはあきれ返るしかないわけ。もうバカかと、アホかと。
    >(この辺りのことはthousandさんがうまくまとめてくれています。84番)

    [ロマンティックに美化]を、勝手に、(当然観なければ論評出来ない)「演出」に絡めてトンチンカンな批判をし出したのが水原だということ。ここしかすがる所が無いのは分かるが、こういう指摘(私一人ではないのだ)を完全スルーしてしまう厚顔さは何とかならないか。

    【スルー7】
    >>大有りですな(苦笑)。ロマンティックとか美化ってのは大いに主観の問題でして、それを「先行批評」に売り渡しちまったら、ただの受け売り屋のプロパガンダで、およそ信頼性のある批評とは言えませんわ(爆笑)。
    >
    >「ロマンティックとか美化」については上述。
    >しかし、こんなことは水原本人にも当てはまることではないか。先にもちょっと述べたが、水原さんはエバートや町山の先行批評を根拠にして必死に抗弁している。自分は観てもいないくせに(大爆笑)。構図は全く同じなのだが?

    [構図は全く同じ]だということを認めるのか? 認めるのであればその旨「言質」を、否であれば「どう違うのか」をちゃんと説明してほしい。こっちは「水原お得意のダブスタ」を批判しているわけで、スルーしてりゃ有耶無耶になるって話ではない。

    【スルー8】
    >>で、横山氏の発狂した捏造論点に戻って言えば、そもそも権利として「見ないで批評してはいけない」なんて誰も言っていない。別に禁止しているわけではなくって、そんな批評をしたって説得力ないから、やるだけ無駄ですよっていう可能か不可能かの原則論の話でしかない。
    >
    >何か随分後退しちゃいましたなぁ(笑)。
    >[そんな批評をしたって説得力ないから][やるだけ無駄]云々って言うのは、それぞれそれを読んだ読者自身が判断すればいいことですよ。何でわざわざ水原さんが、ここのROMの代表のような顔してMacskaさんにそのことを諭さなければならないのでしょうか? Macskaさんの文章を読んで上のような理由で「説得力がない」と感じた人がいたとしましょうや。しかしまた、全然そんなふうには感じない人だっていたでしょう。要はそれぞれでしかないわけ。自分の「主観」を客観的とでも思っているのでしょうか水原さんは(笑)。

    これもそのまんま。何でわざわざ水原さんが、ここのROMの代表のような顔してMacskaさんにそのことを諭さなければならないのでしょうか? お答え下さいな。
    また[〜それぞれそれを読んだ読者自身が判断すればいいこと]についてはさすがに認めるか?(笑)  そして、あなたは[自分の「主観」を客観的とでも思っているの]かについてはどうなのか?
    あなたの論拠の大本が崩れかねない指摘だからって、スルーってのはないだろう。みっともない。

    【スルー9】
    >>ところが「そんなやり方では説得力ないだろーが」という意味での「やってはいけないこと」でしかないのを、アホ横山氏はどこをどう勘違いしたのか「権利はあるはずだ!」とブチ切れているわけですね。
    >
    >そりゃそうでしょう。だって水原さんの言っていることをはそういうことですもん。視覚障害者は映画を論じちゃいけない。聴覚障害者は音楽を論じちゃいけない。そうにしかならない。
    >大体一番最初に私はそのことを問うています。
    【再録】
    >>見ないで映画に対する評価として受け取られることを書いておいでだからです。
    >突き詰めれば、水原さんが言っているのはこれだけなんだけど、一体何故それがいけないのでしょうか?
    (中略)
    それとも水原さんは、「観られない」境遇の人は一切映画についての論評・評価はしてはいけないという主旨を開陳したいのでしょうか。(実際そういうことになるわけですが。この辺の「健常者至上の差別意識」もものすごいですね。)
    【再録以上】
    >それに対してどう答えたか。
    >>現に見えないんだからしょうがないでしょう? 
    >
    >これじゃ「排除の論理」と批判されても仕方ないでしょう? 後だしジャンケンはいい加減にしてほしいものです。

    今後はこういった「後だしジャンケン」はしないようお願いします。ちゃんと読み返しゃいいだけなんだから。そんなことは小学生だって出来ますよ。

    【スルー10】
    >>たとえば健常者vs障害者、みたいな一元的な二項対立構図に還元してしまえば、そうなるんでしょうね。
    >
    >何故今頃になってのうのうとこういうことが書けるのか本当に理解に苦しみます。水原さんは一体Macskaさんにどう詰問してきたでしょう?
    >
    >>>この映画のヒロインは「障害者」なんですか、それとも「女ボクサー」なんですか?
    >
    >しつこい位、Macskaさんにこう問うていました。さんざん[健常者vs障害者、みたいな一元的な二項対立構図に還元]してきたのは水原自身ではないですか。
    >本当に頭がおかしいのではないか。

    ええと、これもあなたの根本が問われる指摘なんで逃げずにちゃんと回答するうに。
    [たとえば健常者vs障害者、みたいな一元的な二項対立構図に還元してしまえば、そうなるんでしょうね]なんて他人事のように言ってますが、当の本人(水原)が一貫して「二項対立構図に還元」してきたわけで、その辺りの整合性についてちゃんと説明するように。

    【完全スルー】についてはとりあえず以上。(瑣末な箇所は割愛した。)
    さすがに今回は長くなりますので投稿を分けます。

  45. 横山好雄 Says:

    >> 結局水原さんが言うような実例が「障害者を不便にしている」というだけの話なんだよ。
    >
    >だから現実問題として不便であるのだから、出来る限りバリアフリーを押し進めればいいだけの話であり、そうは言っても現実的にまだまだ難しくて実現していないのなら、出来る限りバリバリお手伝いすればいいだけの話だ、と申し上げているのですが? 「社会が差別している」なんて当たり前のことはわざわざ言及するほどのことですらなく、そんなもん共通理解に決まってますが?

    アホ人〜(嘆息)。
    ちょっと煩雑になりますが前回の水原文を再掲します。

    >たとえば東京は実は丘陵地が多くて、中央線以北の古い町並みには階段でしか移動できないところがゴマンとあるの。山手線の主要駅では、たとえばうちの最寄り駅の高田馬場でさえバリアフリーに完全には対応しておらず、車いすの人が来れば駅員が何人も出て来て階段のリフトを開いて、って世界なの。で、私が住んでいる部屋はエレベーターなしのマンションの4階。ちょっと身の回りを見回すだけで車いすで不便なところなんてすぐに見つかる。車いすでなくとも杖とか松葉杖でも十分に不便。それが客観的に見て不便なのは現実であって、だからそれに気づいたら少しは手助けはできるしどんどんやるべきって話をしているのに、なんだねこの返信は?

    ここで水原さんは、[だからそれに気づいたら少しは手助けはできるしどんどんやるべきって話をしている]と言っています。今回言うのも、[出来る限りバリバリお手伝いすればいいだけの話だ](笑)そうです。もうバカかと、アホかと…。
    「困っている人を見たら手助けしようね」なんてことを合意したいらしいのです、このアホ人さんは。ここは小二・道徳の授業か、お前はカブスカウトかっ。
    ったく、ここまでのバカを相手にしてきたのかと思うと情けなくって涙が出てきます。もうこの論点で「直接対話」をしても無駄でしょう。読解力がありませんからこの人。

    というけで、以下何段かはROMに向けます。
    上記[結局水原さんが言うような実例が「障害者を不便にしている」というだけの話なんだよ]の直後に、私はこう書いている。

    >[階段でしか移動できないところがゴマン]とあるのは障害者側の問題ではなく、この健常者社会が最初から障害者などいないものとしてこの社会を設計してきたことの証左・帰結に過ぎないんだから。だから本質は、「車椅子だから不便」なのではないのだ。車椅子では移動出来ないような社会構造が「不便を作り出した」わけ。
    >だから、「不便ですね、気の毒ですね」っていう水原さんのような意識で障害者に手を貸している限り、この健常者社会の障害者差別は永遠に消えることはないって話をしているのだ。
    >(誤解してほしくはないが、勿論手を貸すこと自体は当然のことだぞ。)
    >「障害学」を少しでも勉強してみれば、上のようなことは恥ずかしくて書けないものなのだ。

    勿論こういった認識は、「障害者当事者」及び「支援運動」が長年の格闘を経て辿りついた地平であって、決して私(やMacskaさん)の脳内の話ではありません。そういう意味では[自己陶酔はやめて少しは現実を見て、当事者の視点で考えてみたら?](アホ人/104番)なんて物言いに対しては、「勿論そうしているが?」と応えるしかない。
    (それこそアホ人こそ、当事者の本、「障害学」の一冊くらい読んでからぬかせって話ですわ。)

    実際「エレベーターが無いから不便」、は、じゃあ「エレベーターがあれば不便ではない」わけで、その時点で「車椅子」か否か(つまり障害があるか無いか)など問題の本質ではないことなどすぐ分かるではないですか。それを障害者の「身体」だけに収斂させて、「不便」だと言い、「気の毒」だと言い、あげくは「可哀想」とまで言う。そうさせているのは誰なのか。(私や、今読んでいるあなたも含めた)この健常者社会ではないか。だから私は、水原を、「そんな物言いは健常者側の悪質なマッチポンプだ」とかつて批判したわけです。

    結局水原がやっていることは、それらの犠牲を全て障害者の「身体」に還元することで、結局この健常者社会自体の差別性を隠蔽するという役割をしか果たさないのですね。
    それを白日の下に晒したのが「障害学」だという話をしているのです。
    だから、[それが客観的に見て不便なのは現実であって、だからそれに気づいたら少しは手助けはできるしどんどんやるべきって話をしている]なんてのが如何かに幼稚な物言いか、これで十分わかるでしょう。あぁ情けない。

    それにしてもコイツの障害者差別は半端じゃありません。「視覚障害者は映画について語れない/語っちゃいけない」(大意)なんて主張にもそれはよく表れていますし、今回『ミリオンダラー・ベイビー』に抗議活動をした「障害当事者」たちに対しても悪意のこもった憶測をしたりしている。そういう点では「整合性」があるのですね。ったく、虫唾が走るのはこっちなわけで。
    [出来る限りバリバリお手伝いすればいいだけの話]というのも、きっと「障害者に手を貸す優しい自分」というのがその最たる目的なんでしょう。
    健常という立場から障害を「不便、気の毒」、また、「弱者とみなし可哀想、可哀想」と言い続けても「現に物理的に不便」なんだから差別ではないとまで言いはなった男だから、さぞや優越感に浸りながら手を貸しているのでしょうね。死ねや。

    >で、現に不便であるのと、「幸福かどうか」はまったく別問題なのに、「そしてそういったことを殊更「不便」の内実として「当たり前・かわいそう」と喧伝する。これが「差別的」でなくて一体何でしょう」なんて曲解で自分が気に入らない他人を貶める手段として現に困っている人たちをダシにしたりするから、あなたの存在そのものに虫酸が走るというレベルに不快感が達しているわけですね。

    「曲解」と言えば願いが叶うわけじゃないんでね。
    これも無いオツムで考えた印象操作なんでしょうが、先ず、はじめに「不便・便利」を持ち出してきたのがアホ人だということ(きっちり反駁済み、「万流」からは未だ遁走中)。それへの反論として「幸・不幸」を対置・比肩させて水原のトンチンカンさを指摘したのが私だということ。こういった流れを無視し、都合のいい曲解をしているのが水原なんですね。

    [自分が気に入らない他人を貶める]についても一言。
    元々穏やかに話し合っていた「万物流転」という掲示板にいきなり喧嘩腰で乱入してきたのがアホ人だということ。私は批判されたので再反論をしているだけ。「自分が気に入らない」について言えば、それこそ元々の水原の行動がそうなわけで、自分のしたことをこちらに投影されても困る。
    そうそう、Macskaさんに喧嘩腰で喰ってかかった今回の一連の騒動も[自分が気に入らない他人を貶める]行動の最たるものでしょうね(横山に好意的な奴は全部俺の敵だぁ〜笑)。全部「自己投影」ってやつなんですよ。

    >> [階段でしか移動できないところがゴマン]とあるのは障害者側の問題ではなく、この健常者社会が最初から障害者などいないものとしてこの社会を設計してきたことの証左・帰結に過ぎないんだから。
    >
    >なにを分かりきったことを今更叫んでいるのでしょうか? じゃあそのなかで現に困っている人についてなんとかしなくちゃいけないのに、その困っていることに気づくことすら拒絶してるのがあなた様なんですが?
    >もう、メチャクチャですな(失笑)。

    誰だって気づきますよね? そういう場面に遭遇すれば手を貸せばいいでしょう。もう、バカバカしくて失禁しちゃいました。

    >>スルーも何も、あなたの脳内の、[このブログのコメント欄でなにが具体的に問題になっているか]なんて話は、もうとっくにMacskaさんのレスで解決済みです。
    >
    >何度同じことを指摘してもスルーするわけですね(爆笑)。あなたが蒸し返しさえしなければMacskaさんに対して大変に気の引ける指摘を繰り返すのはやめておきたいんですがね…
    >あのぉ…。ぜんぜん撤回しないでいっそう力を込めて
    >「というか、触れられていても、個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任。」
    >なんて書くから、そんなことなぜ断言できるねん? って僕が介入しただけなんですけど? なんだか重要な具体的な論点をぜんぶすっぽかした詭弁だらけですねぇ…

    全部Macskaさんが説明してるんですけど…。それに対して具体的な反論も返さず、当初と全く同じ主張を繰り返しているだけから批判されてるんですけど?
    また頭っからやります? 私はそれでもいいけどさ。

    >だから
    >「というか、触れられていても、個人の努力で「尊厳」を勝ち取れ的な扱いは無責任。」
    >なんて書いておいて片付くわけがないだろうが(爆笑)。

    全てあんたの「誤読」(曲解?)なんだが? また頭っからやります? 私はそれでもいいけどよ。

    >>「便利」「不便」も[個々人の価値観に関わることで一概には言えない]のだよ。エレベーターがある場所ならそれを使えば、無い場所なら「人手」を使えば、「不便」なんて概念は少なくともその場面では吹っ飛ぶ。
    >
    >現にない場所がいっぱいあるんだからその点では不便、ってだけの話なんですが? 

    「現にない場所がいっぱいあ」って、単に「その点では]なんて話なのであれば(またまた随分後退しやがって、徹底して竜頭蛇尾だなコイツは)、「障害者」というだけで一括りにし、ステレオタイプに「不便、気の毒、可哀想」なんて声高に喧伝するのは止めたらどうか。健常者社会のそういった物言いが、もう過去何十年にも渡って障害者のスティグマとなってきた事実を少しは省みたらどうなのか。そういった物言いこそを私は批判してきたのだから。(今までの流れを「万流」に遡って一度全部読み返してみろ。)

    >>だから、何故言えない(言っちゃいけない?)のかがさっぱり分からないんだよ。
    >
    >だからあなたがそもそもこういう強引であり得ない質問をし出すことの背後にあるであろう日本の教育の問題にまで言及しておきましたが? いい加減「言っちゃいけない」なんて権利だか禁止だかの他人が言ってない「一般論」にすり替えるのはおやめ下さい。

    「一般論」だと認めたのはアホ人なんだが? もうそれは既に論証してあるのだが? 頭おかしいのかテメエ。
    ちゃんと説明してくれるというのであれば改めてその論証箇所を再掲するが、如何か? ←みっともないスルーは止めてね。

    >はあ? ただ実例を挙げただけでして、こんなのは知識なんてなくても見れば分かることの類いでしかないんですが?

    ねっ、予想どおり結局「映画知識」での逃げに頼り出したでしょ?(笑)

    >>>脚本のできが悪い、って書いてあるんですけど(笑)。
    >> だからそれが傲慢なんですよ。
    >どこが?

    「どこが?」?
    「その脚本をどう描くのかの演出によって、そこから読み出される意味はまったく違う」からに決まっているでしょう?
    「演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映像というメディア」だからに決まっているでしょう?

    >>その脚本をどう描くのかの演出によって、
    >>そこから読み出される意味はまったく違うのですから。
    >>演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映像というメディアです。
    >
    >そうですよ。だから?

    ほう。上は全てアホ人本人の言葉ですから、この返答によってMacskaさんへの批判の論拠は全く無かったことが証明されたわけですね。だって、[そうですよ]にも関わらず、アホ人さんはその当該作品をぼろくそけなしてもそれはOKなんですから(笑)。(多分ロジックの構図がわかっていない、頭悪過ぎ…。)
    ちなみに、「未見」では、
    >見ていなければ肯定するんでも「期待できる」、否定的に言うんでも「あまり期待できない」とか「つまらなそう」程度のことしか言えないわけです
    が、アホ人さんはこの基準を自分にだけは適用しませんから[とても出来が悪く、馬鹿げている。映画批評家としての僕であればこのようなものを批評すること自体を断る]とまで罵倒してもそれはOKなわけです。楽ちんな人生でいいですな。

    >逃げるも何も、脚本としてひどいから脚本としてひどいと書いてあるだけですが? なにループしてんの?(爆笑)

    だからそれが傲慢なんですよ。
    その脚本をどう描くのかの演出によって、
    そこから読み出される意味はまったく違うのですから。
    演出ひとつ、カメラワークひとつである物事を肯定的にも、否定的にも描けるのが映像というメディアです。(大爆笑)

    >>無い場所なら「人手」を使えば、
    >
    >だから誰の人手を使うんだよ? 

    お前のだよ。私のだよ。駅員のだよ。
    こんな反問してて恥ずかしくはないのか。

    >その人が「困ってる」「不便だろう」って認識を持たないで、誰が気づいて手を貸すんだよ?

    話のベクトルが違うんだよタコ。カブスカウト並みのアホ人のレベルにまで付き合ってはいられない。
    そういう場面への遭遇を仮定すれば[「困ってる」「不便だろう」って認識]など誰でも持っている。当たり前だろ、バカ。しかしその原因を障害当事者の「身体」に求めるのは間違っている、それはこの社会構造の「差別性を隠蔽するだけだ」と批判しているのだ。分かったか。

    >まあどうせアホ横山様なんかは、困ってるかもしれないことに気づきもしないんだろうか?

    こんなこと書いてて本当に恥ずかしくないか? 相手の主張の一部分すら理解出来ず、分からないなりに聞きもせず、既に反駁されているのとまったく同じ主張をただただ延々繰り返すだけ。アホ人は「パブリックな場での議論」というものを一体どう認識しているのか?

    >で、たぶん手伝ったことなんてないから知らんのだろうけど、こちらが手伝える杖のレベルの場合、手伝いとか申し出たらだいたい半々の確立でひどく恐縮されたり遠慮されたりもするもんなんだが? つまり先方は先方でひどく気を使われたりするわけなんだが?

    そりゃアホ人のように優越感プンプンで近づいてこられた日にゃ誰だって遠慮したくなるだろう。
    「車椅子の身体障害者の目の前に行って、『車椅子の人には憐憫を禁じ得ませんな』と発話出来る」ほどに障害者差別の塊のアホ人だもん、そりゃそんな奴に手を貸してもらいたくはないわな。こんな差別意識のアホ人じゃ、隙見て階段から落とされかねないし。嗚呼、くわばらくわばら。

    >おひおひ、いつになったら日本語読めるようになるんだ?(爆笑)。
    >「「ロマンチックに」も「美化」も、演出に関わる問題であって、まして脚本そのものを読んだわけでもない」
    >どうやったらこれが「[脚本そのものを読んだ]のであれば、別に観ないで論評してもよい」と読めるんだ?ついに発狂したのか??

    発狂してんのはアホ人かと。こんな「結論だけ提示」じゃ誰も納得しないでしょう。一度位議論の流れを提示して、「そうは読めない」ことをちゃんと論証してみたら如何ですか?(嘲笑) アホ人はそういうことをする能力がないから、結局いつもこうやって罵倒のみでROMの印象を操作しようとするわけですね。進歩の無い奴…。

    >なおかつ、
    >その1。そもそも「(一般論だぞ)」もなにも、一般論なんてあなたの都合に合わせてやる必要が何処にあるんだ?(これ何度目だ?)

    アホ人自身が一般論だと言っている。(これ何度目だ?)

    >その2。脚本を読んだだけであなたが何を感じようがあなたの勝手(これは2回目か3回目)。

    はぁ。意味がよう分からん。だから脚本だけでその映画をどう論評しようが自由ってのがこっちの主張なわけだが。「ついに発狂したのか?」(爆)

    >その3。ただし脚本を読む訓練と能力がなければ、そもそも「論評」できるほどには読めません。脚本は内部資料のテクニカルな文書で、特殊な書式で書かれているし、そもそも出来のいい脚本ほど演出の解釈に向けて開かれているから(これは一応、新ネタ)

    アホ丸出し。映画関係者でもない一般の人間が脚本を読むといった場合、市販のシナリオ集や雑誌掲載のものになるわけで、それらは9割方決定稿。[内部資料のテクニカルな文書で、特殊な書式で書かれている]ケースなど(絶無とは言い切れんが)まぁ少ない。事実手元にあるシナリオ選集や雑誌『シナリオ』を繰ってみても、ごく普通にト書きと台詞で構成されている。全然特殊な書式じゃない(笑)。また虚言癖か…。(アホ人、いさんで喰いついてくるよきっと。こういう瑣末、でも映画関係の所にはね。)

    >その4。どっちにしろ脚本だけでは、演出は分からない。(これ何度目だ?)

    アホ人〜。また頭に戻すのか? 未見なんだから、そもそも観なけりゃ分からない「演出」に関することなんてその論評に出てくる筈がないだろが。どうしょうもねぇなコイツ。
    で、Macskaさんの文章を勝手に「演出」に絡めて、「観ていないのに〜」などとトンチンカンに絡んだ(横山への私怨で、横山に好意的な別の人に攻撃性を発揮した)のがアホ人という構図。これ何度目だ?(笑)

    >>【Aさん、あなた自分のことを同性愛者って言わない方がいいよ。ほかの同性愛者が迷惑するから。】
    >>
    >> 何故これが「差別発言」なのか説明して頂きたい。
    >>http://otd3.jbbs.livedoor.jp/372472/bbs_plain?range=1&base=2865
    >
    >なんで同性愛者であるというだけで、こんなバカなことを言う自己満足似非市民運動系の自我が未成熟なワガママ女(ちなみに、これを実際に発言した実在の人物)のお気に入りのペットかなにかに貶められなければならないんだ?(爆笑)それが差別でなくてなんだって言うんだ??

    どういう読み方だ!? アホかお前。
    「同性愛者」の部分を例えば銀行員に変えても同じロジックでこう↑言うのか? 

    >ホモであるだけで「いい人」でなければならないなんて、それだけで十分な差別になるんだが? 性格がよかろうが悪かろうが、そんなのはホモである個々人の勝手。なんでヘテロなら性格悪かろうが自我が未成熟なワガママ父権制かしづき女の気に入られようが気に入られまいが、ヘテロ全体の「迷惑」になぞならないのに、ホモであれば「迷惑」であるなんて言われなきゃいけないわけ?

    何だよ、結局「テメエが傷ついた」ってだけの話かよ(笑)。これ読んでこんなバカな読解をする同性愛者が他にいるのなら連れてこいや。
    じゃ聞いとくが、「あなた自分のことを銀行員って言わない方がいいよ。ほかの銀行員が迷惑するから」だった場合、「銀行員であるだけでいい人でなければならないなんて、それだけで十分な差別になるんだが」とでも言うのか? 本当にこれは「銀行員差別発言」になると思っているのか? これは次回ちゃんと回答するように。みっともなくまたまた逃げ出すなよ。

    すさまじく長くなりますので、一端ここで投稿します。
    残りのアホ人投稿にも突っ込み所は満載ですので、暇見て追々論駁していくことにしましょう。

  46. 水原文人 Says:

    >「映画を観ずに論評すること」自体を非難していた水原さんは、「自分も全く同じことをやっているではないか」との指摘から逃げ出したわけですね。

    Macskaさんが引用している町山評にそう書いてありますが? 文脈上Macskaさんがそれを引用している以上、それに基づいて議論が進んでいるのは自明ですね。

    >[問い合わせが無い以上、説明など出来ない]と私は本気で思っているが如何か? 具体的に、この場合、私はあなたにどんな説明をせよと言うのか教えてほしい。

    問い合わせしようがしまいが関係ないわけですね。あなたの掲示板が現に「アク禁」であるという表示をしたんだから、そのことについて何を言われようがあなたの責任なわけです、ってことがなぜ分からんのか?

    >>あのねぇ…(疲れるわ)、エバートが賛成するとかしないとか、イーストウッドが自分ならそうするとかしないとか、そんなことが何の関係があるのかね? あなたは他者の倫理観で左右されて、「映画の評価がコロコロ変わる」のかね?

    蒸し返すのもイヤなんですが、Macskaさんが「もともと障害者の権利に否定的な人物が、障害者の殺害をロマンティックに美化した映画を作ったというだけの話であり、いかに登場人物の心理が丹念に描かれていても納得できない」と書いている以上、その議論に対する反論として関連するのに決まってますね。

    まったく何度同じことを説明させるのやら、バカバカしい。

    以下全部この調子なので、無視させて頂きます。ああバカバカしい。

  47. Macska Says:

    今さらなんですけど、思いがけない偶然が重なって映画「ミリオンダラー・ベイビー」観てしまいました。というのも、先週講演のために訪れた某大学、「ダウンタウン」に店が10件くらいしかないようなド田舎にあったのですが、たまたまわたしの泊まっていたその町唯一のホテルの隣がボロい映画館でこの映画(もちろん一本のみ)をやっていて、料金がなんと3ドルという激安にも関わらずほとんど人が入っていなかったのね。で、他に娯楽もなくてヒマだし、人が少ないなら安心なので行ってきました。

    でも、特に前に書いた意見を変える必要は感じないです。映像も音響も悪いボロ映画館で観たとはいえ、映画としてよくできているし、演技も素晴らしい(イーストウッドが上手いのは当たり前として、スワンクも良かった)のは認めるけど、わたしが問題としていたのはそういう部分じゃないものね。むしろ、うまくできた映画だからこそ、その裏にある社会的な問題が見えにくくなるという事もあるわけで。現に、障害学の方面に明るくない知り合いと話していると、この映画を絶賛したりするので気が重いです。

    まぁ、どちらかというと書く前に観ておいた方が良かったというのは確かだけど、観なければ書けないような内容を書いたつもりはないので、何も訂正する必要は感じませんが、一応映画製作者に対する義理は果たしましたよ、というコトで。

    ところで関連した話題で、ここ数日政治的な大問題になっているケースがありますね。

    脳にダメージを受けて、もうここ15年間も意識のない女性が栄養補給装置に繋がったままずっと生かされているというケースで、栄養補給装置を取り外して死亡させることを主張する夫と、宗教的理由(カトリック)から彼女を生存させ続けることを主張する両親が対立しているという問題で、裁判所が再三栄養補給装置の取り外しを認めたにも関わらず、それに反対する宗教右派の圧力を受けて政治家が介入しようとしています。

    今回のケースで一番問題なのは、本人の意志が確認できないことです。死を希望するという本人の意志が確認できない場合は生を希望するものとして扱うのが医療の原則ですから、できるだけ生かそうとするのは原則論としては正しい。脳に障害があるからといって殺しても良いと判断して良いわけがありません。ただし、無制限に生かすべきなのかというとそれも怪しいわけで、長年に及んで機械的に生かされて来たことや回復の見込みがないことなどを総合的に考慮して、最終的に裁判所が栄養補給装置を取り外すという決定(原則に対する例外)を下すのは仕方がないのかもしれません。

    そうだとしても気になるのが、この問題がこの女性の「死ぬ権利」の問題として扱われていること。本人に「死にたい」という意志がある(あった)と確認できるのであればとっくの昔にその意志に沿った行為が行われているはずなので、ここで問題となているのは「死ぬ権利」ではなく「死をもたらすことの妥当性」であるはず。なのに、ニュースなどで「死ぬ権利」という言葉を聞くたびに、障害を持つ人たちに無理矢理「死」を押し付けた挙げ句それを「本人の選択」であると偽装する社会的なパターンを感じて嫌な思いがします。

    あともう1つ、死に至る薬を処方するなどして積極的に死をもたらすのは殺人だけれど栄養補給装置を取り外すだけなら消極的な死だから構わないという基準が非人道的だなぁという感想も持ちました。彼女のケースの場合、脳以外は正常に機能しているわけで、栄養補給装置を外すと、健康な身体がだんだんとやせ細って餓死に至るわけで、とても尊厳死とは言えないです。どうせ裁判所に例外として「死をもたらすこと」を認めてもらうなら、同時に薬を使うという例外も認めるよう求めて欲しかったと思います。

  48. ryu2net Says:

    Baadさん
    はじめまして。お返事が遅くなりすみません。

    >40.の前段の内容を読んで、ryu2netさんもものを造る立場の方なのかなと思って気になったのですが、
    >あるいは映画の読みとして解釈をする過程でそう言う作業をしてしまうと言うことなのでしょうか?

    大学時代は映画を撮っていましたが、関係しているのかどうか・・・。それよりは、この問題こそがポストモダンの主要なテーマらしい、というところからです。たとえば蓮実重彦先生が阿部和重の作品をして「形式主義を通じて形式を乗り越えた」とか「阿部さんはポストモダンを踏まえたうえで、あらためてモダンを見すえている」みたいな評をするときに、ふとイーストウッドのハリウッド形式へのこだわりが頭に浮かぶんです。

    水原さん
    > あらゆる表現は、探求ですよ。その探求する主体が「作家」という自己であるので、結果として自己表現
    > になるだけです。個人的には、この「自己」の部分は”いやなんだけど仕方なく”って感じですらあります(笑)。

    なるほど。
    実は、この一連の議論でも、僕自身、いろんな発見がありました。このじたばたしているプロセスそのものが、僕の「自己表現」になってしまっている。お恥ずかしい限りですが(笑)。

    Macskaさん、映画をご覧になったんですね。

    ご指摘の問題は、この「ミリオンダラーベイビー」に限らず、映画(というかフィクションすべて)に関わってくる問題だと思います。たとえばMacskaさんの指摘されていた「社会的な不公正の問題」は、ほとんど語られることがない。ただ、「物語」がものを語るという行為ならば、当然、その一方で「語られないこと」が発生するのはほとんど必然です。逆に、「社会的な不公正の問題」を語ることによって、語られなくなる他の問題も発生するかもしれない。たとえば、宗教の限界を指摘することについては、「それは宗教の問題ではなく、社会の問題であり、尊厳死は認めるべきでない」と読まれる可能性があるかもしれない。

    Macskaさんが、http://macska.org/index.php?p=74で

    麻痺しているからといって尊厳ある充実した生が送れないというのは間違いであり、現実的に多くの障害者が尊厳ある充実した生を送れていないとすると、それは社会的な不公正の問題であると考えるのが、障害者運動・障害学研究の見知

    と書かれていたのですが、物語の中でマギーが尊厳ある充実した生をおくれなかったのは、やはり「社会的な不公正の問題である」として描いたほうがよかったとお考えでしょうか? 逆に、「本人の意思による尊厳死」についてのプロバカティブな議論が立ち消えになってしまわないでしょうか? 

    ちなみに、こうした物語にまつわる問題に対する、作家としての倫理的な態度として、「ハリウッド形式という物語の形式に徹する」という方法を、イーストウッドは取っているようにもみえます。

    ちょっとまとまっていませんが、投稿してみます。

  49. Macska Says:

    > 物語の中でマギーが尊厳ある充実した生をおくれなかったのは、
    > やはり「社会的な不公正の問題である」として描いたほうがよ
    > かったとお考えでしょうか?

    いや、物語がこう描かれるべきだった、という事はわたしは一切主張していません。仮にあのストーリーに唐突に「社会的な不公正の問題」を入れると、物語として前半は何だったんだというだけでなく、観客全員の共犯関係を指摘するのと同じことですから、非常に後味の悪い映画となっていたはずです。

    ただね、どのような表現をしてもそこから省かれる部分があるというのは事実ですが、障害を描く映画が一貫して「個人の事情」「個人の努力」ばかりを描き、結果的に社会的不公正(および、そうした不公正への観客の共犯関係)を隠蔽するはたらきをしているというのは事実だと思うのね。そういうパターンに、「ミリオンダラー・ベイビー」は何の疑問を突きつけることもなく乗っかっているわけで、その点は指摘されるべき。でも、「ミリオンダラー・ベイビー」の物語を書き換えろなんてわたしは言っていないです。

    > ちなみに、こうした物語にまつわる問題に対する、作家としての
    > 倫理的な態度として、「ハリウッド形式という物語の形式に徹す
    > る」という方法を、イーストウッドは取っているようにもみえます。

    それは彼自身の哲学というか美学なのかも知れませんが、それじゃ何の助けにもならないのよね。
    とゆーか、障害者の権利を制限せよと議会でロビー活動したのはどう考えても汚点でしょう。

  50. ryu2net Says:

    Macskaさん、返信ありがとうございます。

    > 障害を描く映画が一貫して「個人の事情」「個人の努力」ばかりを描き、結果的に社会的不公正
    >(および、そうした不公正への観客の共犯関係)を隠蔽するはたらきをしているというのは事実だ
    > と思うのね。

    なるほど。ただ、Macskaさんのいう「社会的不公正」は描かれなかったかもれいないけれども、観客には「愛する人があなた自身の手による尊厳死を求めているときに、手をくだせるか」ということが突きつけられていて、それは別の部分の「社会的不公正」を指摘していたようにも思うんです。それを、ある部分の「社会的不公正」が描かれなかった、ということで手落ちだと指摘するのはどうなのでしょう。たとえば、母親があれだけ酷く描かれていて、それは貧困のせいであるのだから、その貧困を放置している「社会的不公正」を黙認しているじゃないか、というような話だってありうるわけです。だから、きつい言い方をしてしまうと、Macskaさんが主張したいことのためにそう読み取っているように見える。僕には「障害を描いた映画」であり、「障害者に降りかかる社会的不正を見逃している」映画と読むよりは、「尊厳死を描いた映画」であり、「尊厳死に対する倫理的葛藤(および宗教の無力)を描いた」映画に見えるんです。

    その点、
    > 「ミリオンダラー・ベイビー」の物語を書き換えろなんてわたしは言っていない
    というのはもちろん、そのとおりです。(僕の質問が悪かったですね・・・。)
    僕が言いたかったのは、物語の「読み」を変えてみるのはどうなんだろう、ということでした。でも、たぶんこれは平行線ですよね・・・。くどくどとすみません。

    あと余談ですが、最近思うのは、障害者のでてこない他のハリウッド映画の不自然さ。アメリカに住んでいると、軽度の障害者が働いている場面に遭遇したり、車いすの人も積極的に外にでてバスを利用したりしています。でも、普通の映画で、障害者が普通にでてくることがほとんどない。一定数のマイノリティを出すことがひとつの倫理コードになっているハリウッド映画に対して、一定数の障害者を出演させる倫理コードの確立、みたいな戦略もあるかもしれません。もうやられているのかもしれませんが、そういうレベルでの「無意識の排除」を指摘するのは、有効だったりしますよね。(この議論の最中、「Be Cool」という映画を見てきたのですが、「映画の政治性」についてあまりに鈍感で、うんざりしました。脳天気でくだらない映画だからこそ、制作者の無意識が露呈するんでしょうね・・・。)

    あと、
    > とゆーか、障害者の権利を制限せよと議会でロビー活動したのはどう考えても汚点でしょう。

    これは仮説なのですが、もしかしたらこのロビー活動の経験が、今回の映画のテーマに向かわせた可能性もあるかもしれませんね。マギーが病院を移り、そこでリハビリを助けるシーンなどでは、過去の主張や行為が、イーストウッド自身のなかで反芻されているはずです。イーストウッド演じるフランキーが、障害を負ったマギーのために優れたリハビリセンターを探し出し、市民講座を紹介しては充実した生活もあり得ると諭すというのは、実はものすごく複雑な事柄かもしれません。もちろん、過去のロビー活動を基準に「欺瞞」と断罪することも可能ですが、僕は判断を保留しておきたいです。

    ちなみに、映画批評的には「作者」と「作品」を切り分けるべきだとか、「倫理コード」は逆に差別を隠蔽、強化するみたいな議論もあるんでしょうけれど・・・。

    なんだか歯切れが悪いコメントですが・・・。

  51. Macska Says:

    > ただ、Macskaさんのいう「社会的不公正」は描かれなかったかもれ
    > いないけれども、
    (略)
    > それは別の部分の「社会的不公正」を指摘していたようにも思うんです。

    んーとね、だから何度も言う通り、この映画はこうあるべきだったという話はしてないの。
    わたしは、障害が描かれる映画の大半が一貫してある特定の政治的な作用(社会的不公正及び観客によるその不公正への共犯関係の隠蔽)をもたらしている、という問題を指摘しているのね。だからこそ、わたしは映画を批評しているんじゃなくて、そういう一貫した傾向の背景にある社会自体を批評(批判)しているんだって言ってるわけで。

    > 僕には「障害を描いた映画」であり、「障害者に降りかかる社会的
    > 不正を見逃している」映画と読むよりは、「尊厳死を描いた映画」
    > であり、「尊厳死に対する倫理的葛藤(および宗教の無力)を描い
    > た」映画に見えるんです。

    尊厳死の問題と障害者の権利を切り離して考えることはできないとわたしは思っています。歴史的前例から言っても、あるいはここ数日米国で大騒ぎになっているケースにしても、「本人の意志に関わらず、周囲の都合で障害者を殺す」あるいは「本心では生きたいと思っている障害者が、周囲の圧力で死を選択させられる」ことを隠蔽するレトリックとして「尊厳死」「死ぬ権利」という言葉が使われる例がたくさんあるわけですから。「尊厳死についての映画」によって観客がどのような影響を受けるかによっては、障害者の生命に関わる問題になり得るのね。

  52. ryu2net Says:

    > んーとね、だから何度も言う通り、この映画はこうあるべきだったという話はしてないの。

    繰り返しになってすみません・・・。ということで、この映画は無罪放免(多少、なんらかの罪があるとしても執行猶予付き)ということでしょうか。ちなみに、「こうあるべきだった」という話はしているのではなくて、「こう読まれるべきじゃないか(ドレイク氏は、自分の意見をいうために曲解しているのではないか)」という話をしていました。伝え方が悪くてすみません。

    > 「尊厳死についての映画」によって観客がどのような影響を受けるかによっては、障害者の生命に関わる問題になり得るのね。

    そうですね。受け取り手の問題という指摘は納得です。たとえば、「尊厳死のプロパガンダ」とみる宗教関係者がいることは間違いないです。ただ、そういう受け取り手がいるからって、映画が批判されるいわれはないですもんね。「尊厳死」の選択に、あれだけの葛藤を描いておいて、しかも殺したあと暗闇の中に行方をくらませないといけない。そんな表現の中に、単純な「尊厳死礼賛」を読み取って批判を行うひとがいたとしたら、センスを疑ってしまう。そこはやっぱり一歩引いて、Macskaさんのおっしゃる社会批評のレベルで語るべきだし、それは映画そのものを批判するよりも、映画をそのように曲解して読んでしまう、その読みの問題を指摘することが重要なんじゃないかと思っています。

    くどくどとすみませんでしたが、そういうこともあって「この物語(フィクション)がいかに読まれるべきか」ということを書いてみたという次第でした。

  53. tert Says:

    Macskaさん、こんにちは。

    フランスではこの水曜日から封切りになり、ダッシュで見てきました。

    気が付いた一点だけ、反論として指摘させてください。あとの点に関しては全く同意なのではないかと思っています。

    『ミリオン・ダラー・ベイビー』というこの作品、暗に(露骨に?)「障害」と「老い」を結びつけて提示してますよね。どうしたって見ていて痛々しい程に感じられる、イーストウッド自身の若作った演技と存在感が、画面で起こる全ての出来事に、あるリアリティを与えている。(余談ですが、イーストウッドが主演賞を獲れなかったのは仕方がないと思いました。「上手」とはとても言えない。そういえば、ある時期、役者引退宣言ともとれる発言をしていた気がします。)つまり、この作品って、実際に「障害」の人間によって作られた映画だと言えるはずだと思います。

    ですので、Macskaさんのおっしゃった、

    >障害を描く映画が一貫して「個人の事情」「個人の努力」ばかりを描き、結果的に社会的不公正(および、そうした不公正への観客の共犯関係)を隠蔽するはたらきをしているというのは事実だと思うのね。

    ということは、これまで見てきた経験上(幾多の障害者問題を扱ったドキュメンタリー「番組」ならぬ「映画」も含む)、多くの映画に関しては当てはまると思いますが、

    >そういうパターンに、「ミリオンダラー・ベイビー」は何の疑問を突きつけることもなく乗っかっているわけで、その点は指摘されるべき。

    ということはなく、『ミリオン・ダラー・ベイビー』はそれに当て嵌まらないと思いました。真逆だと思います。そこにこそイーストウッドの狙いはある。

  54. ryu2net Says:

    tertさん、

    そういう意味でいけば、モーガン・フリーマンが視界を失っている「必然」がみえてくるようにも思います。また、知恵遅れのようにみえる弱々しい若者が虐待されるシークエンスの意味も、別の意味合いを帯びてくるかもしれません。あれこそ「社会的不公正」に対する、強烈な問題提起と読めますよね。これは曲解?

    でも、ようやくすっきりしました。「そういうパターンに、「ミリオンダラー・ベイビー」は何の疑問を突きつけることもなく乗っかっているわけで、その点は指摘されるべき。」というMacskaさんの指摘は納得していなかったのですが、うえのコメントではそのあたり、譲歩(日和見?)してしまっていましたが、まさにtertさんの指摘の通り、「社会不公正」の告発として読むべき箇所がいくつもあります。

    もちろん、「老い」も「ちょっとした知恵遅れ」も「左目の失明」も、マギーの負った「障害」に比べれば小さいものですが、いずれも、それによって引退、いじめ、不本意な生活などの社会的な負い目を負うわけです。

    すごく納得です。

  55. Macska Says:

    ryu2netさん:
    > ということで、この映画は無罪放免(多少、なんらかの罪がある
    > としても執行猶予付き)ということでしょうか。

    映画そのものを非難することにそれほど意味はありません。そういう意味では、有罪か無罪かと迫られれば、無罪と言わざるを得ません。有罪なのは、社会の総体であってその部品ではないですから。

    ただ、この映画が社会の総体の一角を占めており、また有力な監督による作品という事で一般社会に対する影響力が大きいことも確かです。

    > 単純な「尊厳死礼賛」を読み取って批判を行うひとがいたとした
    > ら、センスを疑ってしまう。

    さすがに、単純な「尊厳死礼賛」だと思う人はいないでしょう。それでも、「悪」だと断定することなく尊厳死を描いている以上は、「尊厳死は殺人である」という明快な信念を持つ宗教右派の連中が抗議するのは当たり前です。

    障害者運動の方はもうちょっと複雑で、当人が死を希望している以上、彼女の尊厳死の権利自体は否定していません。

  56. Ryu2 Republic Says:

    「ミリオンダラーベイビー」にまつわる議論から
    macska dot org: it’s all about cats. ‘ce…

  57. ryu2net Says:

    うえの僕のコメントをすこし補足します。

    マギーは一度の敗北で尊厳死を選ばざるをえない状況になってしまうのですが、物語のもうひとつのメッセージは、「一度なら負けてもいいんだ」というもの。「知恵遅れ」の青年が、「健常者」と文字通り「同じリング」にあがって破れるわけですが、そこで彼自身も視力を失う障害を負っているモーガン・フリーマンがそのメッセージをいうわけです。

    「現に、障害学の方面に明るくない知り合いと話していると、この映画を絶賛したりするので気が重いです。」とMacskaさんはおっしゃるのですが、そうでもないかもしれない、と感じます。(もちろん「描写の正確性」を絶賛されたらうんざりされるかもしれないですが。)

    同様に、「ミリオンダラーベイビー」が、現在の社会においてもたらす「悪影響」も、(これは微妙な議論になりますが)かなり限定されているのではないか。というか、すくなくとも、うえのような物語をマギーの物語と平行させるあたり、制作者はかなり配慮しているようにも見える。プロットのレベルでも。

    「尊厳死」がまだまだ認められていない現在の社会状況から行くと、「社会的に障害者が敗北させられている現状」を描きながら、「(宗教的な禁止をやぶって)尊厳死を選ぶこと」を描くことは、どれほどの悪影響が(現在の社会において)あるのだろうか。たとえば、本人に「尊厳死を強要する社会」というのは、映画の責任ではなく、ふたたび「社会的に障害者が敗北させ」てしまうような社会の想像力の欠如ではないだろうか、とも思うのです。

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