100年前に起きた「性別の自己決定」論の歴史的教訓

2/28/2005 - 11:12 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

ニューヨーク大学で客員教授をしているオランダ人歴史学者、Geertje Mak 氏が GLQ(クィア理論系の学術誌)最新号(volume 11, issue 1)に載せた論文「”So we must go behind even what the microscope can reveal: The hermaphrodite’s “self” in medical discourse at the start of the twentieth century」を読む。Mak 氏とは先週のシンポジウムで出会ってこの論文の存在を教わったのだが、歴史的な記述であるにも関わらず現代のインターセックス運動にも当てはまりそうな面白い内容。

インターセックスの歴史についてはミシガン州立大学の Alice Dreger 教授が「Hermaphrodites and the Medical Invention of Sex」という本で徹底的に書いているのだけれど、それによる分類では Mak 氏が研究対象とした20世紀前半は「性腺の時代」から「手術の時代」への転換期という風に分類されている。すなわち、人には必ず「真の性別」があるはずだ(つまり、本物の半陰陽なんて滅多にいない)という認識が共有されており、それは外見上の性や本人の性自認とは関係なく性腺のタイプによって医学的に診断される、と考えられていた時代が前者であり、一方「真の性別」なんてどうでも良くて、手術と生育環境によって一方の性であるとして育てればそれで万事上手く行くと考えられたのが後者の「時代」。Mak氏の論文は、こうしたパラダイム転換がどのように起きたかを明らかにしている。

Mak氏が参照する医療記録を辿って行くと、ある時期から「性腺の時代」に対する嫌疑を唱える医者が出てくることが分かる。そりゃそうだ。例えばアンドロゲン不応症候群を持つ人の場合、性腺は睾丸なので性別は「男性」と判定されたのだが、文字通りこの症候群のある人は男性ホルモンに反応しないので、外見上はどこからどう見ても女性に見える。もっとさかんに「性腺至上主義」が信じられていた19世紀中盤〜末期あたりだと無理矢理「お前は本当は男なんだ」と言いくるめていたのだけれど、そうした無茶な決めつけに疑問を抱く人が次第に増えてくるのは当たり前。

Mak氏によると、それで実際、20世紀初頭のヨーロッパの医学界の一部では「半陰陽に生まれた者については、大人になってからは当人に好きな性別を選ばせれば良いのではないか」という主張も聞かれるようになった。ところがもちろんそちらの方向には実際の医療は進まずに、新たに「性腺」に変わる「真の性」を表す物理的基準を探す競争がはじまる。そうするうちに、外科手術の技術がどんどん向上し、医療の焦点は「真の性」を探すことから、半陰陽であること自体を隠蔽しつつ「性別」を与えることに変化していった。「手術の時代」の到来だ。

面白いのは、ここ数年のあいだに「手術の時代」を支えたジョン・マネーらの「手術と生育環境によって一方の性であるとして育てれば全て上手く行く」という理論が急速に崩れると同時に、実は性自認はホルモン的に(William Reiner)もしくは遺伝子的に(Eric Vilain)決定されているのだという議論が力を得ていること。これは、「手術の時代」に続く医療パラダイムが、Dregerが期待を込めて描写したような「合意(自己決定)の時代」ではなく、新たな生物学的根源主義に逆戻りする危険を示している。20世紀前半にも、当事者の意志を優先すべきだという主張が生まれていながら、定着することなく別の医療パラダイムに押しつぶされてしまった経緯があるわけだから油断はできない。

そう考えるとインターセックスの運動は、医療の改革を訴えつつ、医療の外に突き出る形での自己解放ということもやっていかなくてはいけないな、とあらためて思った。不当な医療による被害者としてのポジションに留まっている限り、最大限うまくいって「より良い医療」の受動的な患者として医療システムの内側に取り込まれたままってコトになってしまいそうだから。それじゃ、次に起きる「医療の逸脱」を防げない。

そのあたりは、障害学だとか、ACT-UP の運動だとかに関わっていれば、まぁ当たり前のことなんだけど。

3 Responses - “100年前に起きた「性別の自己決定」論の歴史的教訓”

  1. Jose Yacopi Says:

    >「半陰陽に生まれた者については、大人になってからは当人に好きな性別を選ばせれば良いのではないか」という主張も聞かれるようになった。ところがもちろんそちらの方向には実際の医療は進まずに、新たに「性腺」に変わる「真の性」を表す物理的基準を探す競争がはじまる。

    問題は、インターセックスを医療の観点から”病気”と捉えるのか、あるいは単にスタンダードからずれた”亜型”として捉えるのか、ということでしょう。

    糖尿病でも診断技術の向上によって、一型か二型か、その他の病因が簡単にわかるようになった。医療の進歩は診断技術の向上と相まって、糖尿病の病因の理解から内科的な療法、外科的な医学的処置を施す、という流れになっている。
    このように医療の側からインターセックスを理解しようとすると、「性腺」が診断のメルクマールにならないために、それに変わる、より正確な基準として遺伝子診断、ホルモン診断などが登場した。

    ところが、糖尿病の治療などの場合は、病因が診断され対処療法的に治療することが可能であるが、インターセックスの場合は、大抵の場合、発育過程の後期で発見されることから、すでに発見された時には、異常が起きた原因がわかっても根治治療にはなりえない。つまり発生の初期段階で性差を決定するようなプログラミングからはずれた場合、発生後に、その部分だけを”修復”することは困難になる。そこで医療の側からできることは、完全な治療ではなく、半陰陽であること自体を隠蔽しつつ「性別」を与えることにならざるを得ない。この点において、診断技術が向上しても医療の限界があるのがインターセックスの”治療”の特徴でしょう。

    この部分を無視して、医療は個人の意志を踏みにじり、強引に性の認知を押しつけようとしている、と非難するのはちょっと的はずれのような気がするが如何でしょうか?

  2. celine Says:

    Jose Yacopiさん、はじめまして。celineです。

    横レスになりますが・・・

    > インターセックスの場合は、大抵の場合、発育過程の後期で発見されることから、すでに発見された時には、異常が起きた原因がわかっても根治治療にはなりえない。つまり発生の初期段階で性差を決定するようなプログラミングからはずれた場合、発生後に、その部分だけを”修復”することは困難になる。そこで医療の側からできることは、完全な治療ではなく、半陰陽であること自体を隠蔽しつつ「性別」を与えることにならざるを得ない。この点において、診断技術が向上しても医療の限界があるのがインターセックスの”治療”の特徴でしょう。

    > この部分を無視して、医療は個人の意志を踏みにじり、強引に性の認知を押しつけようとしている、と非難するのはちょっと的はずれのような気がするが如何でしょうか?

    ひと口にインターセックスといっても生物学的、医学的観点からいえば様々な状態があって、時にはそのインターセックスの原因になった遺伝的要因、異常が、性発現のあり方とは別に、生死に直接関わる「異常」をもたらす場合もあると思います。私的には、そのような生死に大きくかかわる問題を解決することに治療的観点が向けられることには、素直に受け入れられるのですが、通常からははずれた性発現のあり方の、どこを、そして何を「異常」と見なし、それを医療(治療)の対象とするかということが専ら医療(者側)によって決められることには大きな疑問を持ちます。人類の長い歴史を見ても、心や体の「病気」について何を「異常」とし、「治療しなければならない対象」とするかは、時代と文化のしがらみによって大きく変遷してきたわけです(1)。「完全な治療ではなく、半陰陽であること自体を隠蔽しつつ「性別」を与えることにならざるを得ない」などは、失礼ながら、私には医療(者側)の傲慢な言い分に聞こえます。

    このような問題は障害の出生前診断や遺伝子治療といった生殖医療(生命操作)の問題などとも密接に絡んでくると思いますが、生命科学、生命倫理学などの観点からも広く議論されるべき問題ではないかと考えます。

    (1) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788507595/249-0830032-0742763

  3. Jose Yacopi Says:

    celineさん、初めまして、早速ありがとうございます。

    >常からははずれた性発現のあり方の、どこを、そして何を「異常」と見なし、それを医療(治療)の対象とするかということが専ら医療(者側)によって決められることには大きな疑問を持ちます。

    ここで問題提起していることと、私が冒頭で問題提起したことは全く同じことです。

    「問題は、インターセックスを医療の観点から”病気”と捉えるのか、あるいは単にスタンダードからはずれた”亜型”として捉えるのか、ということでしょう。」

    議論を整理する目的で、前者の医療の観点から捉えた場合、どのように解釈されるのか、ということから話を展開しました。それぞれの見方でアングルが違えば、インターセックスの理解はこのように異なるだろうと言いたいわけです。ですから医療の観点から見た見方が後者に比べて絶対的に正しいという結論を導き出すための文章ではありません。
    但し、近代医学の進歩の流れから見た場合、好むと好まざるとに関わらず、疾患の病因を知るためにカテゴライズしなければなりません。1型の糖尿病患者に2型の処方を下して、病気を悪化させることは避けなればなりません。そのためにはちゃんと診断をして病因を明らかにしてカテゴライズしなければなりません。
    何を「異常」と見なすか、はある程度診断技術の向上とともに、インターセックスになる原因の理解として、医療(者側)が探る責任があります。しかし、それを医療(治療)の対象とするかは患者側(と家族)の意志に委ねられます。
    単にスタンダードからはずれた”亜型(バリアント)”であり、医療の対象ではないと判断すれば拒否することも当然できます。

    >完全な治療ではなく、半陰陽であること自体を隠蔽しつつ「性別」を与えることにならざるを得ない」などは、失礼ながら、私には医療(者側)の傲慢な言い分に聞こえます。

    celineさんの文脈から察すると、「半陰陽であること自体を隠蔽しつつ「性別」を与えることにならざるを得ない」という医療の限界を患者に提示して、「手術等で「性別」を与える」選択肢以外ない、とインターセクシャルに押しつけることで、その選択肢を医療の現場が強要していると理解し、それを傲慢と考えているのであればわかります。
    しかし、ここで提示しているのは、医療の側の治療には自ずと限界がある、という”事実”です。医療の限界を医療従事者が知ることは極めて重要です。医療の傲慢とは、多くの場合、この限界を知らないことから起きることは例を出すまでもありません。問題はあくまでも、患者との間にインフォームドコンセントがあって、患者側の利益に沿ったかたちで選択できる環境を医師側が作り出せるか、ということでしょう。これはインターセックスだけの問題ではなく、治療における全般的な問題です。

    >性自認はホルモン的に(William Reiner)もしくは遺伝子的に(Eric Vilain)決定されているのだという議論が力を得ている

    発生過程における、性決定のための遺伝子ネットワークの詳細は最近になってわかってきました。その結果、性決定の重要な部分が遺伝子支配を受けていることは明白です。しかし、そのプログラミングが破綻しインターセクシャルになる場合、性決定(性自認)を遺伝子レベルやホルモン濃度で判断できる程、まだ診断は進んでいない、というのが実情ではないのでしょうか?
    必ずしも、前者と後者はイコールではないはずです。つまり、性決定のプログラミングが破綻した場合、男女の間のグラディエント上のどこに位置づけられるかは、診断技術の向上でこれから明らかになるでしょうが、性自認の問題はさらに複雑な問題でしょう。私は医療の側はそこまでは踏み込めないと考えます。従って医療の側のあるべき姿とは、可能な限り情報を開示して、間違った判断を患者が取らないようにすることです。
    もし、それを踏み越えて、当事者の意志が優先されず一方的に医療の側が判断を押しつけるということがあれば、私は、Macska さんの意見に賛同しますが、ム合意(自己決定)の時代ではなく、新たな生物学的根源主義に逆戻りする危険を示している。ムと言えるほど、危機的な状況が来ているとはとても思えないのですが、認識不足でしょうか?

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