憲法24条の「異性愛主義」を隠蔽する「メタ異性愛主義」言説

2005年1月6日 - 12:54 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

fem-general メーリングリストで話題となっている憲法24条について。自民党の憲法改正プロジェクトチームが発表した「論点整理(案)」において「婚姻・家族における両性平等の規定(現憲法24条)は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである」と明記されたのに対し、「男女平等と個人の尊厳を憲法から消させない」として「STOP! 憲法24条改悪キャンペーン」が発足し、集会などを開く。そして京都で開かれた同趣旨の集会にひびのまこと氏が「憲法を改正しよう!」というビラを持って乱入(じゃなかった、参加)したというのが話の発端。

話の前提になるので、憲法24条の条文をここに挙げておく。

日本国憲法 第24条

1. 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

2. 配偶者の選択、財産権、相続、住民の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

ひびのさんが「憲法を改正しよう」と呼びかける理由はたくさんあるけれど、24条に限って言えば(必ずしもひびのさん自身の言葉ではないが)「性別二元論」「異性愛主義」「婚姻中心主義」「モノガミー中心主義」といった点が挙げられる。こうした24条の文面は、この憲法が制定された当時(あるいは今でも)当たり前であった社会認識をそのまま反影しているが、「わたしたち」はそのような認識を変えるよう促す側に立つべきであり、これらの間違った問題を放置したまま「家族の中の男女平等」を守ることだけに集中するのはおかしいというのがひびのさんの批判の内容。現に他国の多くでは今まさに同性愛者の権利をめぐって「結婚の定義を変える」作業にフェミニストたちは取り組んでおり、日本のフェミニストだけが「現状の定義を保守する」ことに固執するのは、わたしから見ても奇異に感じる。

ところが、フェミニズム系のメーリングリストであるはずの fem-general においてすら、話が噛み合わない。同性婚の実現を支持する論者ですら「そんなの不要」としてひびのさんの提案を軽く撥ね除けるばかりか、「せめて24条が異性愛主義であることだけでも同意できないのか」というひびのさんに対し、反応は非常に鈍い。普通の読解力で読めば「両性」「夫婦」といった言葉が「男1人と女1人の組み合わせ」を意味しており、それが異性愛家庭を標準とみなす異性愛主義の産物であるのも明らかなのに、そういった当たり前のことを認めようとはしない人が多いのだ。

かれらが頼るのは、24条を歴史的文脈に位置づければ、戦前・戦中時代の「男性による家族の支配」を否定し、「個人の尊厳」と「両性の平等」を重視しようというのが24条の意図なのであるから、同性婚の否定であるとか同性愛者差別と解釈するのは間違いであるとする論理だ。ひびのさんも紹介しているが、福島大の中里見博さんがこれに関連して「24条の積極的価値」について記述した文章が、「STOP! 憲法24条改悪キャンペーン」の公式サイトに掲載されている。以下に、そこから引用する:

24条をめぐっては、それが法律婚主義や異性婚主義を採っているという批判が市民の間にある。[…] しかし学界では、24条は婚姻家族の存在自体を国家が保護することよりも、家族構成員の「個人の尊厳」を重視した条文であり、法律婚尊重主義ではない、という解釈が近年有力に唱えられている。

また24条を異性婚主義と決めつけることもできない。24条の婚姻に関する原則は、「当事者主義」「同権」「相互の協力」(1項)、さらには「個人の尊厳」「両性の本質的平等」(2項)にあり、同性婚の積極的な排除にはない、という主張は十分に成り立つ。むしろそれら諸原則は、論理的に突き詰めれば同性婚に親和的であるとすら言えるだろう。

また、ベアテ・シロタによる24条草案に「婚姻と家族とは・・・男性の支配ではなく」とあったように、24条が否定しようとしたことの一つに「男性の支配」があったことはもっと重視されてよい。異性婚主義は異性愛主義(ヘテロセクシズム)を前提とするが、異性愛主義が「男性支配」の社会的産物であることを、現代のフェミニズムは教える。「男性支配」を否定する原意をもっていた24条を同性婚に親和的な条文とみなすことは決して不可能ではない。

このように24条は現代的な課題にも応えうる積極的な価値を持っており、24条を擁護することは法律婚・異性婚を保守することを意味しない。

法学的な解釈についてはわたしより中里見氏のほうがよっぽど専門なので問わないことにするが、こうした言説が述べられているコンテクストに注視すべきだ。というのも、もし中里見氏が、同性婚の実現を目指す運動や、法律婚以外の家族の権利を訴える運動の中でこうした論理を主張するのであれば、まったく問題ない。しかし、ここでは憲法24条を積極的に擁護する文脈でこうした論理が援用されており、誰の目にも明らかな「24条の文面は異性愛主義である」という事実を隠蔽するための詭弁として機能している。

中里見氏は、24条を異性愛主義と決めつけるのは間違いであると主張する。その理由は、24条は「男性支配を否定する」内容のものであり、「異性愛主義が『男性支配』の社会的産物であることを、現代のフェミニズムは教える」からであるからだそうだ。

しかし、この「異性愛主義は男性支配の社会的産物である」という言説そのものが、異性愛主義的である。もうちょっとトレンディな言葉を使うなら、反異性愛主義を標榜する異性愛主義という意味で「メタヘテロセクシズム」と呼ばれる異性愛主義の亜種である。なぜならそれは、男性支配という1つの抑圧的な社会的な仕組みが、異性愛主義というもう1つの抑圧的な社会的装置より本質的であり、他方はそれに対して従属的・副次的であると規定しているからだ。こうした言説は、例えば社会主義運動の中で「男性中心主義は資本主義制度の社会的産物なのである」という言説を利用して、運動内部の男性中心主義の問題を棚上げし、また男性中心主義への批判を資本主義の打倒のために動員しようとする行為と構造的に同じだ。

中里見さんの意見が公式サイトに掲載されている事から分かるように、この運動体は24条擁護に役に立つなら「異性愛主義批判」的な主張を載せることを躊躇してはいない。つまり、一部の人が言うように、「自民党案に反対という1点でまとめるために、他の問題については意図的に口を閉ざしている」というわけではないようだ。しかし、24条の不十分な点を指摘するような「異性中心愛主義批判」の主張だけは絶対に認めようとはしない。それは結局、運動内部の異性愛主義の問題を棚上げし、また異性愛主義への批判を自民党案打倒のために動員しようとする、「メタ異性愛主義的」行為である。

3 Responses - “憲法24条の「異性愛主義」を隠蔽する「メタ異性愛主義」言説”

  1. ayakudo Says:

    はじめまして。「メタ異性愛主義」!なるほど!改憲派に抗うときに自分たちの内に潜む異性愛主義を看過すれば、まさにその潜在的異性愛主義によって改憲派がたちあげようとする国家主義に回収されてしまいかねません。そのことを説明するのに「メタ異性愛主義」という概念は有効ですね。どうもありがとうございました!

  2. ばらいろのウェブログ Says:

    どうしていつも「男と女」なの?
    異性愛中心主義を問う企画をします!いろんな意見の人で討論をする予定です。2005/4/2(土)@ひと・まち交流館(京都)

  3. salivanJA Says:

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