同性愛者は「名誉白人」の立場を目指すのか?

2004年10月28日 - 3:50 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前回のわたしのエントリに、早速 HODGE さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。でも、それを読んでも HODGE さんが tummygirl さんの発言をよく理解していないのと同じように、わたしの発言についてもよく理解されていないように感じます。というのも、わたしが書いた

また、同性に性的な魅力を感じること自体は「選択した覚えない」体験であったとしても、実際に同性とセックスするかどうかは「選択可能」な「行為」に違いない。

に対する「反論」として、HODGE さんは、

もちろん「実際にセックスをするかどうかは」選択です。しかし、僕が言っているのは、実際にセックスをするかどうかは問題ではなく、同性に「欲望」を感じること、それ自体が「非決定」、すなわち「選択をしていない」ということです。

と述べられていますが、わたしにはどこが反論なんだか全然わかりません。わたしが「性的な魅力を感じることは『選択した覚えがない』ものだが、実際にセックスするかどうかは『選択』である」というのに対し、HODGE さんは「実際にセックスをするかどうかは『選択』だが、同性に欲望を感じる事は『選択してはいない』」と言っておられるのですが、これらの発言は順序が逆になっているだけで全く同じことを言っているように思います。それが反論だと言われても、一体わたしの主張のどの部分に反論しているのか不思議に感じます。

tummygirl さんと HODGE さんのあいだの議論でも、同じようなことがありました。 tummygirl さんの「○○○と言っているわけではない」という発言への「反論」として、HODGE さんが「○○○はおかしい」と批判していたりして、端から見ていて一体どの部分に異論があるのか全く分からないのです。もしかしたら「性的な魅力」と「性的な欲望」程度の表現上の小さなニュアンスの違いなのかも知れませんが、少なくとも「性的欲望の選択」についての議論において、わたしや tummygirl さんと HODGE さんのあいだに大きな意見の違いがあるようには思えません。「すれ違い」があるとすると、何度も同じ説明を受けているのに HODGE さんが「納得がいかない」と空回りの「反論」を続けていることが「すれ違い」ではないかと思います。
わたしは「欲望」に何か「複雑なメカニズム」が介在するといった話はしていません。もちろん、厳密に議論するならば欲望に複雑なメカニズムを読み出すことも十分に可能なのですが、少なくとも個人の主観における「欲望」や「性的に魅力を感じること」は、選択のしようもなくただ「体験される」ものだとわたしも tummygirl さんも一貫して言っています。ただ、わたしたちは「縄で縛られることに欲望を感じる」のも、あなたが男性のエロティックな姿態を見て興奮するのと同じことであると言っているのです。また、あなたがその「欲望」を実際の「性行為」にするかしないか「選択」しうるのと同じレベルで、SMプレイに欲情する人もその「欲望」を実際の「行為」にするかしないか「選択」できます。
つまり、同性愛もSMも、「本人の意志や選択とは関係なく欲望が一方的に起きる」という「体験」のレベルと、「実際にその欲望を追求するかどうか選択する」という「行為」のレベルの両方が存在しています。ところが、前回わたしが指摘した通り、HODGE さんの議論は「同性愛は『体験』でありSMは『行為』であるから両者は全く別のものだ」と決めつけるものでした。別のいい方をすると、「同性愛は『選択ではない』けれどSMは『選択』である」という決めつけです。しかし、それは同性愛の「体験」とSMの「行為」だけを恣意的に取り出して比べるという、全く不当な比較だったのです。同性愛にもSMにも「体験」と「行為」の両方のレベルがあるのですからね。

僕は<指向>を主張することが、即ち他の<嗜好>の「抑圧」には必ずしもならないと思うし、逆にすべてを<嗜好>で「表現」することが最善であるとは、今でも思っていません。

誤解があるといけないのですが、ここで問題とされているのは個人が「自分はこういう性的指向である」と表明することではなく、「嗜好」との差異によって「指向」の正統性を主張しようとする一部の同性愛者(など)のレトリカルな戦略です。「異性愛」だけを特権化してそれ以外の性のあり方を「異常」「変態」とみなすような現状の「性の序列化」の構図を放置したまま、「同性愛」だけを「異性愛」と対等の地位に引き上げようとする、一部の同性愛者による身勝手な戦略は、白人至上主義を温存したまま日本人だけ「名誉白人」として扱うよう求めるのと似た行為であるとわたしは思っています。
そもそも、性的嗜好という言葉は、人々が持つさまざまな「性的な好み」全てを包括する、幅広い意味を持つ言葉です。その中で、どうして「相手の性別」という一面だけ特権的に扱う必要があるのでしょうか。おそらく多くの異性愛者・同性愛者たちにとって「相手の性別が何であるか」はその相手に性的な欲望を感じるかどうかに大きく関係する重要な要素なのでしょうが、世の中には「相手の性別」よりも他の要素、例えば「相手の年齢」であるとか「SM的シチュエーションの有無」といった要素が重要であるという人たちもいます。
「相手の身長」が重要だけれど「性別」にはこだわらないという人がいた場合、その人は一般的には「両性愛者」であると認知されますが、これほど不当なことはありません。本人の性的嗜好を尊重するならば、「長身愛者(もしくは短身愛者)」として認知される方がフェアではないでしょうか。それは、「相手の身長にはこだわらない」という同性愛者を「両身愛者」であると決めつけるのと同じくらい不当です。自分の関心の中心は「身長」ではなく「性別」なのに、どうして「身長至上主義」を前提とした基準でラベルを押し付けられなければいけないのか、と怒るでしょう。さまざま「嗜好」の中で「性的指向(相手の性別)」だけを特権化するということは、それだけの不当な扱いを他のさまざまな「嗜好」の持ち主に強いているということです。
仮に「指向」と「嗜好」といった区別を温存しつつその抑圧的な作用を解消するのであれば、最低限「指向」という言葉の指す意味を変更する必要があるとわたしは思います。すなわち、「嗜好」とは単なる好き嫌いで本人の性生活の充実に必須とまでは言えない程度のものを指し、「指向」とは満たされなければ性生活に支障が出るような強い欲求のことだと再定義するのであれば、わたしはそれでOK。そう再定義した場合、「異性愛」「同性愛」に加えて「長身愛」や「ペドフィリア」や「黒ストッキング愛」という「性的指向」も存在するようになり、また「どちらでもいいけど、どっちかというと同性が好き」という人にとって「同性愛」は「嗜好」のレベルに留まることになります。そうなった場合でも、嗜好より指向の方が上等だとか、指向差別は駄目だけれど嗜好差別なら良いといった言説が生まれる可能性があるので、それらに抵抗し続ける必要があります(だって、「抑圧にしないこと」がわたしが「使い分け」を容認する条件なんですから)。
最終的に全てを「嗜好」と呼ぶようになったとしても、「指向」と呼ぶようになったとしても、あるいは新しい定義を用いて「嗜好」と「指向」を区別するようになったとしても、わたしは構わないです。わたしにとって問題だと感じられるのは、「指向」による差別を解消しようとするあまり、それが「嗜好」よりも根源的であるとか、尊重に値するとして特権化する戦略なのです。
P.S.
tummygirl さん、勝手に「わたしたちは」みたいに代弁してしまってすみません。わたしの理解が間違いでしたら是非指摘してください。

One Response - “同性愛者は「名誉白人」の立場を目指すのか?”

  1. Yoko Says:

    今日のNYタイムズ社説
    EDITORIAL Marriage and Politics (New York Times 2004/10/29)
    http://www.nytimes.com/2004/10/29/opinion/29fri3.html

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