性的指向というレトリックと「性の序列化」

2004年10月27日 - 6:33 AM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前回 tummygirl さんのちょっと古いエントリーにコメントさせてもらったけれど(その際は、文意を少し読み違えた部分があったようでごめんなさい)、そうしているうちに tummygirl さんと HODGE さんとのあいだでちょっと面白い議論が起きているのでよその議論にちょっとだけ割り行ってみます。議論の流れは、ここからはじまってそれへの反論、そして再反論その1その2再々反論再々々反論といったところ。
さて、割って入ると言ってみたけれど、だいたいわたしは tummygirl さんと同じ立場なので、実は議論の本筋に付け加えることは特になかったりする。時と場合と相手によっては「同性愛/異性愛/両性愛」といった「性的指向」を「SM」その他の「性的嗜好」と区別することが有効な戦略で有り得ることは確かだけれど、それは同時に「性的嗜好」による差別や性の序列化を正当化する論理になりかねない(というか、確実になる)のも事実だと思うし、戦略的な理由のほかに本質的に「性的指向」の方が「性的嗜好」より根源的であるとかより「生まれつき」のものであるという理由は特にない。
「性的指向」と「嗜好」の違いについて HODGE さんの使用しているレトリックを読んでいて気になる部分は、SMを選択可能な「行為」と捉える一方、自身の性的指向については「選択した覚えがない」もの、すなわち「体験」として論じている点だ。もちろん、SMプレイをするかどうかは確かに「選択可能な行為」であろうが、例えば縄で縛られたり縛ったりすることに魅力や快感を感じるかどうかは、同性に性的な魅力を感じるかどうかと同じように「選択した覚えがない」ものとして体験されるのが一般的ではないか。また、同性に性的な魅力を感じること自体は「選択した覚えない」体験であったとしても、実際に同性とセックスするかどうかは「選択可能」な「行為」に違いない。それどころか、「異性愛」や「同性愛」すら、実際にセックスする相手の性別とは関係なくロールプレイの題材という形で「異性愛プレイ」「同性愛プレイ」が可能なのだ。
HODGE さんにとって、ある性的行為に魅力や快感を感じるかどうかという時、一番重要な要素は相手の性別なのかもしれない。全く同じ行為でも、それが「同性に対して」ならば「ときにOKだ」というのはそういうことなんだろうと思う。しかし、世の中には相手の性別が一番に重要だと感じる人だけではなく、「SM的シチュエーションや髭のある/なし」が重要だという人だって存在するわけで、それが同性愛であっても異性愛であっても、相手の性別を最も重要と感じる人の主観だけを尊重するべき理由はない。同性愛に対する差別や偏見との闘いは、性の序列化との闘いの中に位置づけるべきだとわたしは考える。
ここで「性の序列化」という言葉を持ち出したのは、意味がある。それは、HODGE さんが取り上げている「ペドフィリアの問題」にまで射程を伸ばすためだ。誤解を受けかねないのを承知で言うならば、HODGE さんが紹介しているように、異性愛のペドフィリアは異性愛そのものへの批判と繋がることがないのに、同性愛攻撃の根拠として同性愛とペドフィリアが強引に関連付けられておとしめられている現状に根本的に対処するためには、ペドフィリアを同性愛や異性愛と対等な性的指向(あるいは嗜好)として認める必要があると思う。
もちろん、それは大人と子どもの間の性行為を正当化あるいは合法化するということにはならない。わたしは一般論として「子どもの頃大人とセックスした子どもは何らかの被害を受ける」とは思わないけれど、あまりに大きな権力の格差や性に対する子どもの理解の欠如を考慮したとき、成人と未成年のあいだのセックスについては(その区切りをどう決めるかはともかく)禁止するのが正しいと思う。その点、何ら禁止されるべき合理的な理由がない「合意ある成人同士の性行為」と扱いが異なるのは妥当だ。でも、禁止すべきはあくまで「選択可能な」ペドフィリア行為であって、「選択した覚えがない」体験、すなわち性的指向(嗜好)としてのペドフィリアではない。同性愛者の多くが同性に対して魅力を感じることを「選択できない」のと同じく、ペドファイルの多くが未成年に対して魅力を感じることは「選択できない」。いくら同性愛を禁止しても同性愛者がいなくなることがなかったように、ペドフィリアをいくらタブーとして扱ったところで性的指向としてのそれが無くなることは有り得ない。せいぜい地下に潜ってより危険になるだけだ。
わたしは以前、性暴力に関するホットラインで働いていたので、子どもへの性的虐待や子どもとの性行為によって逮捕されたペドファイルに対する矯正プログラムの内容をいくつか知っているけれど、どのプログラムもあまり成功しているとは言えないのが現状だ。せいぜい、性的ファンタジーを洗いざらい報告させて罪悪感を抱かせたり、子どもへの性的魅力を心理的に何らかの苦痛と関連づけて「パブロフの犬」状態にすることで抑止しようとする程度であり、一旦プログラムを「卒業」してしまえばそれまでの話。かつて同性愛者に対する心理的な「治療」が行われたけれど一切効果がなかったのと全く同じ。そういう方法では、性的指向としてのペドフィリアを矯正することだけでなく、行為としてのペドフィリアを減らすことすらできない。
もしわたしたちが本気でペドフィリアの「行為」を減らそうとするのであれば、ペドフィリアという性的指向を認めた上で、彼らの欲求を実際の子どもが介在しない形で満たすように導くしかない。具体的には、合意ある成人とのロールプレイなり、アニメやコンピュータゲームといったメディアで彼らの欲求を満たす手段を提供するとともに、もし実際に子どもに手を出したらそうした手段を失ってしまうという「現実感覚」を彼らに身につけてもらうしかない。つまり、社会的に容認できる形で彼らの欲求を満たす方法を提供することができれば、それは社会的に容認できない行為に対するペナルティとしても同時に機能するということだ。
同性愛者への攻撃材料の1つとして「ペドフィリア」が持ち出されるのは不当であるという点では、わたしは HODGE さんに全面的に賛成する。けれど、だから同性愛という指向はペドフィリアという嗜好とは違うのだという論理では、ペドフィリアに対する差別・偏見を助長することになり、それは結果的にペドフィリア「行為」による被害を減らす努力に逆行することになる。同性愛が単なる「選択可能な行為」でないのと同じく、SMに対する嗜好だってペドフィリアだって「選択した覚えのない」ものなのだ。それはもちろん、そうした嗜好や欲望が「社会的に構築された」ことを一切否定するものではないけれど、少なくとも異性愛者が異性愛を「選択した覚えがない」のと同じ程度に、それらが単なる「行為」ではなく「体験」であるのは確かだろう。
tummygirl さんは最新のエントリの最後で以下のような問いかけを行っている。

私が批判したかったのは、「同性愛は性的指向であって他の嗜好とは違う」という「同性愛者」ではなく、そのような主張を必要とさせる体制であり、私が試みようとしたのは、このような主張ではない別の主張によってこの体制に抵抗する可能性を探ることだったのですが、それでもなお、「現時点においてもっとも激しい抑圧を受けているセクシュアリティ」としての「同性愛者」の一部の主張を、私は何はさておき支持すべきなのでしょうか。私が受ける抑圧が比較的小さいものであるという理由によって、私はこの件に関しては口をつぐんでおいて、実際に「指向」が完全に定着し、それによって新たな抑圧が激しく顕在化したとしたら、その時にはじめて異議を唱えるべきでしょうか。戦略的にはその方が正しいということになるのでしょうか。

tummygirl さん本人は以前のエントリで「私は自分がヘテロセクシュアルであるとはどうしても思えないのだけれども(略)性やパートナーシップとかかわる私の行動は、それこそ『自己申告』がなければ保守的なヘテロ規範のそれと外見においてはなんら変わりがない」と明かしている通りの位置に立っており、従って外見的に同性愛者として生活している人が受けている抑圧の多くを回避することができている。強制異性愛主義社会におけるマジョリティの一員であると決めつけるのは強引だとしても、社会からほとんどの場面においてマジョリティに近い扱いを受けているのだと思う。
一方、社会全体から見ると同性愛者はマイノリティの位置にいるが、当たり前の話だけれど全ての同性愛者が同様に抑圧されているわけではないし、同性愛者以外にも強制異性愛主義によって抑圧を受けている人はたくさんいる。マイノリティ・コミュニティの中にも幾重にもマジョリティとマイノリティの階層が重なったり交わったりしており、マジョリティに近い位置に立つ人が本当にマイノリティの支援を行うのであれば、マイノリティ・コミュニティの中の誰の主張をバックアップするかというのは重要な問いかけだと思う。そしてそれは、おそらく答えの出る問いかけではなく、常に問い続けなくてはいくことが、(準)マジョリティとしていわゆる「マイノリティ問題」に関わる際の最低限の礼儀とされるような問いかけだとわたしは思っている。
わたしは「同性愛者」が「現時点においてもっとも激しい抑圧を受けているセクシュアリティ」だとは思っていないし、その「同性愛者」の一部が言っている主張を他の「抑圧を受けているセクシュアリティ」より優先すべきだという理由もないと思っているけれど、だからといって上の疑問に「いや、そんなことはない」と答えれば済むような話ではない。だって、それを言い出すならマイノリティ・コミュニティの中の階層をどこまで下に降りて行っても、やはりもっと「激しい抑圧を受けている」人はいるんだもの。
マジョリティがマイノリティ・コミュニティの中における主流派、すなわち「マイノリティの中のマジョリティ」と安易に共闘して「マイノリティの中のマイノリティ」の抑圧に加担するのは困ったものだと思うけれど、マジョリティの一員がマイノリティを支援しようとする限り、必ずどこかでそういう構図は成立しているはず。それを一概に駄目だと切って捨てると、今度はマジョリティはマイノリティの支援なんて何もできないという事になってしまう。しかし、傍観が最善の策だとは思えないのだ。
つまり、よりマジョリティに近い側の人がマイノリティの支援をしようとする時、それが全く問題を起こさないなんてことはありえないのだけれど、かといって何もしないというのも許されない。そうであるなら、マジョリティに近い立場の人間は、善意に基づく支援が何らかの大きな問題を起こしかねないことをはっきりと自覚した上で、そうした危険をチェックすべく自分の行為がもたらす功罪を常に問い続けるべきだと思う。重要なのは、マイノリティ・コミュニティの中の何を支持するべきかという結論を導き出すことではなく、反論に常に丁寧に対処し考え続けるというプロセスの方ではないかとわたしは考えている。
P.S.
一応両者の最新エントリにトラックバック出しときますけど、また文字化けしたらすみません…

2 Responses - “性的指向というレトリックと「性の序列化」”

  1. tummygirl Says:

    ああ、こう書けばよかったのかな、という点も含めて、色々と反省しきりです。自分が(今回のやり取りで)どう振舞うべきだったのか今でも良くわからないし、今後どう振舞うべきかも、それが正解のない問いであるとは言え、やはり完全に暗中模索という感じです。
    しかし、
    >反論に常に丁寧に対処し考え続けるというプロセス
    そうかあ。最新のエントリで一応打ち切ったのですが、あれは良くなかったかなあ。新しい批判点が出るのではなく、こちらの書いたことを全く読んでいただけていない状態での批判が中止だと私は感じたので、もうこれ以上は無理かなと思ったのですが。でも、あちらも同じように感じていらしたかもしれないですよね。
    再び激しく反省。反省だけはするんですよ、猿なみに。
    それにしても、ペドフィリアについて、やはりMacskaさんはすごいなと感嘆です。私も基本路線はMacskasaさんと同じで、ペドフィリアの欲望それ自体を批判する根拠はないが、便宜的でしかないにせよ「同意年齢」をたてた上で「行為」は制限せざるをえない、と思っているのですが、いきなりブログにそれを書いてしまう勇気がちょっとなかったのと、「そうする方が本当に問題になる被害を減らせる」という具体的な裏づけの知識を欠いていたのとで、ちょっと書けませんでした。

  2. Macska Says:

    おつかれさまです。
    > 最新のエントリで一応打ち切ったのですが、あれは良くなかったかなあ。
    同じことの繰り返しじゃ続けても仕方がないので、新しい論点が出たらまた始めるということでいいんじゃないでしょうか。わたしから見ても、HODGE さんの批判は tummygirl さんの発言をあまりよく読んでいないか、あらかじめ「精神分析批判」「現象学批判」に無理矢理当てはめているように見えました。 HODGE さんの発言中、「研究者の地位」が持つ暴力性・抑圧性を批判している部分など、同調できる部分もあるのですが、それが tummygirl さんの言説にどう当てはまるのかよく分からなかったです。
    > それにしても、ペドフィリアについて、やはりMacskaさんはすごいなと感
    > 嘆です。私も基本路線はMacskaさんと同じで、ペドフィリアの欲望それ自
    > 体を批判する根拠はないが、便宜的でしかないにせよ「同意年齢」をたて
    > た上で「行為」は制限せざるをえない、と思っているのですが、いきなり
    > ブログにそれを書いてしまう勇気がちょっとなかったのと、「そうする方
    > が本当に問題になる被害を減らせる」という具体的な裏づけの知識を欠い
    > ていたのとで、ちょっと書けませんでした。
    本当にわたしに勇気があれば、「そうする方が本当に問題になる被害を減らせる」という部分は書かない方が良かったかもしれません。だって、被害が減ろうと増えようと、禁止の対象はあくまで「行為」であって、当人の「欲望」まで否定するのは「性の序列化」でありおかしい、と言おうと思えば言えますもん。でも、さすがにそこまでいきなりブログに書いてしまう勇気はわたしにもなかったので(笑)、言い訳がましく「その方が被害を減らせる」と付け足してしまいました。世間のペドフィリアへの偏見に迎合してしまったというか、わたし自身の偏見をさらけ出してしまったと思います。

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