「バックラッシュ!」(2006)収録『「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走』全文公開

2015年4月17日 - 9:37 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

昨日に続いて、ハードドライブで眠っている古い原稿を公開します。以下に掲載するのは、双風舎から2006年に出版された「バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか」に収録された『「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走』の全文です。掲載にあたり久しぶりに読んだけど、八木秀次さんをはじめとする保守論者の文献引用がいい加減すぎて改めて呆れました。なお、文中で「性分化障害」と書かれている部分は、現在では「性分化疾患」という言葉が使われているので、読み替えてください。

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「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走

小山エミ

1966年、カナダ・ウィニペグ。生後8ヶ月の双子の一人、ブルース・ライマーの包茎手術中に器具が不動作を起こし、ブルースのペニスは破損される[1]。ブルースの将来を心配した両親は、当時著名な性科学者としてテレビ番組などで活躍していた心理学者ジョン・マネーに相談し、かれの勧めでブルースに性転換手術をほどこし女児として育てることを決意する。マネーの理論では、新生児は生後しばらくのあいだ性心理的に中立であり、適切な性器形成手術や思春期以降のホルモン療法をほどこすことによって元の性別とは関わりなく男の子として育てることも女の子として育てることも可能であるとされていたのだ。しかしブレンダと名前を変更されて育てられたブルースは、誰に教えられることもなく「女性」であることを拒絶し、十代半ばでデイヴィッドと名乗る男性として生きることを選択する。これが一般に「双子の症例」と呼ばれる事件のごく簡単な──そして表面的な──あらましだ。

間違った性科学と医療に翻弄されたデイヴィッド・ライマーの個人史を綴ったジョン・コラピント著「ブレンダと呼ばれた少年」(原題「As Nature Made Him」=自然の作ったままに)は、発売とともに米国でベストセラーとなり、またペニスの形成が不十分とされた男児に対する医療方針について医学界に再考を促すなど、大きな衝撃を与えた。しかし、日本では2000年の邦訳発売の翌年に出版元の無名舍の親会社が出版事業から撤退したため早々と絶版となり、その後2004年5月にデイヴィッドが自殺するという事件があったにも関わらず国内では大きな話題にはならなかった。

その「ブレンダ」が日本で一躍注目を浴びるのは、「新しい歴史教科書をつくる会」関係者や保守系言論誌「正論」などが中心となって「ジェンダーフリー」教育やフェミニズムに対するバッシングを激化させるようになってからだ。かれらは、「双子の症例」はフェミニストや男女共同参画行政による「ジェンダー=社会的・文化的に形成された性差」という論理の虚構を暴くものであるとして、マネーの理論が崩壊したいまジェンダー論は全面的に見直されるべきだと主張した。

時系列を追ってみていこう。保守メディアで「双子の症例」がはじめてジェンダー・バッシングの文脈で取り上げられるのは、調べた限りでは「正論」2003年6月号で軽く触れられるのが最初だ。続いて、「世界日報」2004年9月22日に掲載された脳科学者・新井康允とのインタビューにおいて、「双子の症例」についてインタビュアーが掘り下げて質問している。[2] 翌年1月発売の「正論」2月号では、「つくる会」会長(当時)の八木秀次が「嘘から始まったジェンダーフリー」と称して、ジェンダー論はマネーの学説に依拠しており、「双子の症例」の失敗が明らかになった以上、ジェンダー論に基づいている男女共同参画政策は抜本的に見直されるべきだと主張。さらに「世界日報」は2月16日付けで「双子の症例」の失敗を追跡調査によって明らかにした生殖学者ミルトン・ダイアモンドの長文に及ぶインタビューを掲載し、いまだにマネーの理論に依拠している一部のフェミニストは学問的に不誠実だとダイアモンドの口から批判させている。同月26日には「復刊ドットコム」というサイトにおいて「ブレンダと呼ばれた少年」の復刊を求める声が百票を突破したという記事を世界日報が掲載しているが、その投票の大多数は16日の記事以降に保守系の掲示板などにおける呼びかけで集まったものだ。次いで3月23日付けの「SAPIO」における「ジェンダーフリー狂騒曲」と題した特集に八木と並んで評論家の呉智英が寄稿し、「女性解放思想に取り憑かれた吉外科学者による恐怖の人体実験」を暴いた書として絶版中の「ブレンダと呼ばれた少年」を紹介した。

そうした動きを受け、2005年4月には「正論」と同じグループの扶桑社が「ブレンダと呼ばれた少年」の版権を獲得、5月の発売に漕ぎ着ける。無名舍版と比べ、扶桑社版ではサブタイトルや帯の文句が変更されただけでなく、訳者あとがきがアップデートされるとともに「ジェンダーフリーの『嘘』を暴いた本書の意義」と題する八木秀次による「解説」が追加された。帯の変化も興味深いのだが、それは後回しにするとしてここではまず八木の「解説」を検証していきたい。

「ブレンダ」がジェンダーフリーの「嘘」を暴いたと論じるうえで、まず八木はジェンダーフリーに親和的な論者とされる著者の書籍から「セックスが基礎でジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている」(大沢真理)、「今日では、生物的性別であるセックスが社会的性別であるジェンダーを決めるのではなく、社会的性別・ジェンダーが生物的性別・セックスを規定するのだと、女性学では言われています」(船橋邦子)といった見解を引用し、「これが男女共同参画社会基本法や各地の男女共同参画条例の中心概念である『ジェンダー』についての説明なのである」と解説している。そのうえで八木はかれらの主張を以下のように簡潔にまとめてみせる。

これまた生まれながらによって性別が決まるのではなく、人々の意識によって男女の性別が決まるということである。「氏」か「育ち」か、ということが言われるが、「育ち」すなわち「ジェンダー」によって男女の生物学的な性別も決まるのだという主張である。男として育てれば男に、女として育てれば女になる、どうにでも変えられるということである。

すなわち、大沢や船橋によるジェンダーの定義は「新生児は元の性別と関わりなく、男にでも女にでも育てることができる」というマネー理論に依拠しており、ダイアモンドの追跡調査によってマネー理論が否定されたいま、かれらの主張する「ジェンダー」概念そのものが失効したと言うのだ。

しかし、こうした八木の批判は大沢や船橋の主張を強引にすり替えてマネーの理論に引き寄せるという誤摩化しによって成り立っている。大沢・船橋が「ジェンダーがセックスを規定する」というとき、それはすなわち文化が言語を通して自然に存在する多様な性を「男/女」という二項に分節化(区分け、意味付け)しているということであり、「氏か育ちか」という古典的な議論における「育ち」が万能であるという説を主張しているわけではない。というより、そういった古典的な議論が「男/女」という二項モデルを暗黙の前提としていることに、大沢らは異議を申し立てているのだ。

マネーが「双子の症例」で示そうとしたことは、現代フェミニズムにおけるこうした議論とはまったく無関係だ。かれは生まれつき性別の判定が容易でない症状(インターセックス、性分化障害)を持つ子どもの発育に関する研究において、大多数の子どもが育てた通りの性別の自己認識を獲得することに注目した[3]。もし生まれつき性自認が決定されているならば、性別の判定が難しい子どもたちのほとんどが育てられた通りの性別を受け入れるということはとてもありそうにない。かなり高い割合で、性別判定の「失敗」が報告されてしかるべきだ。しかしそうならないということは、新生児の性自認は白紙かそれに近い状態であり、生まれて比較的早い時期であればその子の性別は任意に変えることができると考えたのだ。

それに対し、「性分化障害を持つ子どもたちは生物学的に男女どちらともはっきりしていないからどちらに育てることもできるのであり、そうした症状を持たない男女にその理論は通用しない」と反論したのがダイアモンドだった。しかしそういうダイアモンドの論拠は動物実験であり、そのデータがそのまま人間にも通用するという保証もない。もちろん、何の障害も持たない子どもの性別を任意に変更して結果を調べるといった人体実験が行えるわけもなく、マネーもダイアモンドも自説を実証的に検証することはできないでいた。

そういう状況にあったマネーにとって、ブルース・ライマーの症例が持ち込まれたことは自説を立証する理想的な機会だった。まず第一に、ブルースは性分化障害を持たずに生まれた通常の男児であり、もしかれを女児として育てることができればマネーの理論はかなり説得力を増す。第二に、このままではブルースは男性として普通の人生を送れないと両親が悩んでおり、また男性器形成手術は女性器形成に比べてはるかに困難とされていたから、ブルースを手術によって女の子へと性別変更することが当人や家族にとって当時の医療の技術と認識では最善の選択であるという口実があった。第三に、ブルースにブライアンという一卵性双生児の兄弟がいたことが、遺伝的要素ではなく育て方による影響を比較研究するのに特に望ましく思われた。

かくしてブルースはブレンダとして育てられ、マネーはその実験が成功したものとして大々的に発表する。性自認の発達に関するマネーの理論は、性科学の大きな発見として多数のメディアや教科書で取り上げられた。ダイアモンドによる追跡調査によってブレンダが子どもの頃からずっと「女の子」としての扱いを拒絶してきたこと、そして自分の意志で男性に戻り、子連れの女性と結婚して三児の父として生活していたことが明らかにされたのは、それから十年以上あとだった。

大沢ら現代のフェミニストたちによるジェンダー理論は、マネーによる「ジェンダー」概念とはかけ離れた概念であるばかりか、行政によって単純化された「社会的・文化的性差」という名目とも同一ではない。社会学者の千田有紀はこう説明する。

…マネーによる「ジェンダー」概念の定義は、近年のジェンダー理論による批判の対象である。むしろ近年のジェンダー理論の進展は、このようなマネー流のジェンダー概念を否定するところから、生じていると考えてよい。(中略) わたしたちの身体であるセックスは、まるでコートラックにコートを掛けるように、ジェンダーを身に纏っていくのではないということである。つまり、「セックスは身体的差異、ジェンダーは社会的・文化的に作られた差異」というお役所的スローガンは誤りであり、むしろジェンダーを社会的・文化的に作られた差異と規定することによって、身体的差異が遡及的に「起源」として構築されていくことになる。(「ブレンダの悲劇が教えるもの」大航海2006年1月号より)

こうして見ると分かる通り、マネーが「双子の症例」に関して主張していたことは大沢ら現在のフェミニストたちが主張するジェンダー論とはほとんど何の関係もない。そもそもマネーが問題としていたのは「ジェンダー」の中でも今日では「ジェンダー・アイデンティティ=性自認」と呼ばれる部分についてのみだし、人間の性別を「男/女」という二項に区分けするのがあくまで言語を介した社会的・文化的な営みであるという指摘は、生まれ持った生物学的な傾向があるのかないのか、あるいはそれが環境によってどの程度変更可能なのかといった議論に一切左右されない。性自認というものが「自分は男性(もしくは女性、その他)である」という自己認識である以上、それは言語体系や社会の中で自分がどこに位置づけられるかという認識であり、常に社会的・文化的な文脈に依存したものであるほかあり得ないからだ。マネーや八木が問題としている論点とは、議論の対象としているレベルが全く違っている。それなのに、八木は強引に「ジェンダーがセックスを規定する」を「育ちによって男女の生物学的な性別も決まるのだという主張」へと読み替えてマネーと結びつけている。

ちなみに、「新生児の性別は任意に変更可能である」としたマネーの理論はダイアモンドの検証をもって反証されたと言われているけれども、かといって逆に「新生児の性別は一切変更不能である」という理論が立証されたわけではない。実際医学誌 Pediatrics には、ブルース・ライマーとよく似たもう一つの症例について報告が掲載されているが、それによるとライマーと同じように正常な男児として生まれながら幼くして事故でペニスを失い女児として育てられた過去を持つ患者が、26歳になっても女性という自己認識のまま生活しているという[4]。ライマーの例とこの例と、どちらがより典型的な結果なのか判断は付かないが、一方的に生育説が否定されて生得説が証明されたわけではなく、たった1つや2つの症例を元に人類全体についての何か大きな結論を導き出そうとすることの愚かさが明らかになっただけだ。

また、関連した報告で、総排泄腔外反症を原因としてペニスを持たずに生まれてきた男児のうち新生児期に手術によって女性に変更された人たちの追跡調査では、14例中8例が男性を自認し、6例は現実に男性として生活していることが明らかにされた[5]。総排泄腔外反症とは骨盤や骨盤内組織の形成不全であり、男児はペニスを持たないけれども遺伝子的・ホルモン的には一般の男児と何ら変わらないため、胎児期における遺伝子やホルモンの影響を考えるうえでは一般の男児とほぼ同じ条件にあると言って良い。

ライマーと同じように手術によって女児として育てられた総排泄腔外反症男児のうち半数以上が後に「男性」として生きることを希望しているというこの報告は、マネーの主張した「新生児の性別は任意に変更できる」という理論のさらなる反例として医学界に大きな衝撃を与えた。しかし、逆に言えば14例中8例は男性として生活しておらず、6例は男性としての性自認を持たないのだから、マネー説とは逆の「新生児の性別は生物学的に決定されていて一切変更不能である」という説が立証されたわけでもない。

これらのことから言えることは、人間の性自認とは生得的な傾向と社会環境の双方の影響を受けて発達するものであり、どちらか一方だけで決められることはないという程度であろう。マネー説が否定されたからといってその逆が証明されたと考えるのは論理的にも実証的にも間違いなのだ。偏った科学理解を根拠におかしな政治的なアジェンダ(男女共同参画行政の見直し)を押し進めようとしているのは、大沢・船橋ではなく「マネーの学問的破綻に明らかなように、『生物学的宿命』から逃れようとするジェンダーフリーという発想は今日の科学では完全に否定されている」と主張している八木のほうではないか。

ここで興味深いのが、無名舍版と扶桑社版における帯の文句の違いだ。無名舍版には、次のような文句が書かれている。

「男性・女性という性別は、生まれる前から決まっているのか、あるいは環境によって変えることができるのか」ふつうの男の子として生まれた双子のひとりに、性医学の実験台と鳴る過酷な運命が待ち受けていた。本書は、今世紀の医学界でもっとも有名な「双子の症例」の真相を暴き、世界中に衝撃を与え続けている。

一見すると「性別は生まれる前から決まっているのか、あるいは環境によって変えることができるのか」という問題がこの本のテーマであるようにも解釈できるけれど、よく見ると鍵括弧がかかっていてそうした「氏か育ちか」といった性医学の関心というか視線そのものが「ブレンダ」の悲劇を生み出したという批判的な意識が感じられる。事実、無名舍版のあとがきにおいて訳者の村井智之はこう書いている。

本書は、「男はこうあるべき、女はこうあるべき」という固定観念に縛られた社会のなかで、肉体と精神の不具合に翻弄されつつも、自分の理論に取り憑かれた性科学者の圧力に打ち勝ち、一六歳にしてようやく本当の自分を取り戻すにいたった、ひとりの若者の魂の記録である。

… セックスとジェンダーの問題では先進国である欧米諸国においても、かつては(あるいはいまも)現代の日本で起きているような差別や偏見がはびこり、医学や科学の分野では相反する意見の衝突が見られた。人間が自分の性を自認する上で、氏と育ちのいずれが勝るかというジョン・マネー博士とミルトン・ダイアモンド博士の対立は、その代表図と言えるだろう。

あるいは本書の中心人物となるデイヴィッドにとっては、本来そんなことはどうでもよかったことなのかもしれない。自然のままの姿で、ありのままの自分として普通の人生を送れたら、それで十分に満足であったかもしれない。しかし不運にも、手術のミスで赤ん坊のときにペニスを失い、女の子に変えられたデイヴィッドには、当然のごとく普通の人生など待ってはいなかった。そこには耐えがたい苦しみがあり、深い悲しみがあり、自分の命を自分で絶とうとするほどの絶望があった。性別の差異が生得のものであるのか、あるいは養育の結果なのかという問題の真の答えはさておき、ここでただひとつ言えるのは、だれにもそんな人生を歩ませる権利などなかったということである。

そう、マネーが責められるべきは、たまたまかれが信じていた理論が間違っていたことなどではない。かれの大きな過ちは、自分の理論を過信するあまり、あるいはそれを証明するがために、一人の子どもとその家族をまるで実験用のモルモットのように扱ってしまったことであり、そして自分の理論の破綻を認めたくがないために明らかに女の子として生きることを拒絶していた「ブレンダ」の声を聞こうとしなかったことではないか。コラピントの記述を信じるなら、マネーは幼い「ブレンダ」に「女性として適切な役割を教えるため」と称して大人の男女が性行為を行っている写真を見せたり、双子のブライアンとともに性行為の真似事をさせるという「治療」も行っており、それら明らかに医療を逸脱した行為は仮に「ブレンダ」にめでたく女性としての性自認が発達してさえいれば正当化されるというものではない。仮に「ブレンダ」が女性として生きたとしても、そのような扱いを受けたことによって精神的トラウマを抱え込んでいたであろうことは疑えない。

ところが、扶桑社版の帯には「『男らしさ』『女らしさ』は操作できない」という文句が大書され、また出版社の意向を汲んだのであろうか、改訂された村井の「訳者あとがき」からはデイヴィッドの自殺に関する記述が加えられる一方、先に引用したようなデイヴィッドの人生を「氏か育ちか」という論争に動員することへの批判的な視点は省かれている。こうした扶桑社的・八木的な扱いは、マネーがおかした間違いと同種の間違いを、デイヴィッドの死後なおも繰り返すことではないだろうか。その点について、朝日新聞の科学医療部次長・高橋真理子は同紙2005年6月21日夕刊でこう書く。

驚くべきは、マネー博士の自説への固執ぶりである。事実を見ようとせず、批判には耳を傾けない。

もっと驚いたのは、最後の解説だ。この例を男女共同参画に見直しを迫るものと位置づけているのだ。

マネー博士の説の間違いを指摘したハワイ大のM・ダイヤモンド教授に連絡をとった。「生まれつきか育て方か、一方ではなく、両方の相互作用が性を決めるのです」と教授は言う。そして「男とは、女とは、こうあるべきだといった自分の好みを他人に押し付ける権利は、何人といえども持っていない」と強調した。 これこそ男女共同参画の理念ではないか。痛ましい悲劇から汲み取る教訓を間違えてはいけない。

高橋の言うように、八木による解説は「痛ましい悲劇から汲み取る教訓を間違えて」いる。デイヴィッドの人生からわたしたちが学ぶべきは、本人の意志を無視して他人がかれの性別や生き方をあれこれ変えようとしたことや、「氏か育ちか」という論争に答えを出すための道具として本人に無断でかれの人生を踏み荒らしたことの過ちであるはずだ。デイヴィッドが勇気を奮い出してマネーの蛮行を告発したのは、性別が生まれつき決定されていることを証明するためではなかった。世間が抱える「男とは、女とは、こうあるべきだ」という思い込みのもとに傷つけられる子どもを少しでも減らしたいと思ったからだったはずではないか。

「解説」の後半で、八木は社会学者の上野千鶴子も大沢・船橋と同様にマネー理論に依存した主張をしているとして、次のように言う。

大沢氏、船橋氏がマネーの”学説”に依拠していることは既に見た通りだが、上野千鶴子氏も「ブレンダと呼ばれた少年」が刊行された後に出版した著作にさえ(中略)これまたマネーを無批判に評価し、極めて古い”学説”に依拠している。

これについてはマネーのうそを暴いた前出のミルトン・ダイアモンドが日本のメディアのインタビューに答えて「彼女(上野氏)は、全く学問的ではない。それがウソであることを明示した私の論文を知らないでいる。私は、その論文を一九九七年に書いた。その本(『差異の政治学』)を二〇〇二年に足したなら、五年間もの違いがある。全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、自分の主義主張を喧伝するために、利用できることは何でも利用しようとしている。正直ではない」と痛烈に批判しているほどである。

ここで引用されているのは先にも言及した「世界日報」2005年2月16日のインタビューだが、ダイアモンドの口から語られた上野に対する批判はまったく不当である。なぜなら、「差異の政治学」では「双子の症例」にまったく言及すらしておらず、マネーの「新生児の性自認は任意に変更可能」という理論になんら依拠していないからだ。この論文において、上野はマネーの研究のまったく別の部分──性同一性障害についてのもの──を紹介しているに過ぎない。上野はたとえば、マネーの研究を次のように記述している。

マネーとタッカーは性診療の外来で、性転換希望者の相談と指導にあたっていた。… カウンセラーは当初、患者の生物学的な性別に心理的な性別を合わせようとした。そのほうが「自然」だからである。それだけではない。性転換には、苦痛の多い身体改造がともない、時間もお金もかかる。かれらは現実を変えるかわりに、「気持ちの持ちよう」を変えるよう、患者にすすめたのである。だがかれらが発見したのは、患者の「性自認(ジェンダー・アイデンティティ)」はその年齢までに強固に形成されており、それを変えるのは容易でないこと、もしその「指導」を強制すれば、患者はアイデンティティの危機から自殺にさえ追い込まれかねないことであった。… つまり、セックスにジェンダーを合わせるより、ジェンダーにセックスを合わせるほうが、まだ抵抗が少なかったのである。

当時のマネーにとって、セックスとジェンダーの関係はのちの大沢らの理解と比べてはるかに単純だった。セックスとは生殖学的な性別であり、ジェンダーとは心の中で自分がどちらの性別であると自己認識しているかということ、すなわち今日で言う性自認のことだった。上野がマネーの業績として「生物学的還元説に対して、セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)とは別なものだとあきらかにしたこと」「だからといってジェンダーが自由に変えられるようなものでなく、その拘束力が大きいことを証明したこと」を挙げるとき、それはただ単に「生殖学的な性別と別個に性自認というものが存在しており、両者が対立した場合(すなわち、性同一性障害の人の場合)、後者を前者に合わせて変更することは困難である」という、現在でも性同一性障害の治療で常識とされている事実を紹介しているだけだ。論理的に考えれば、「双子の症例」の崩壊によってマネーの理論のうちの一部が否定されたからといって、マネーの全てが否定されたわけでないのは当たり前だ。

ところで、このように上野を不当に批判したダイアモンドだが、筆者がかれに直接電話とメールで確認を取ったところ、インタビューの当時ダイアモンドは上野の業績どころか名前すら認識していなかった。すなわち、かれは世界日報記者の山本彰が伝える一方的な「上野千鶴子」像──「双子の症例」を根拠に性自認の環境万能説を唱え、ダイアモンドの追跡調査すら知らない不勉強なフェミニスト──を前提として、「もしそれが事実であるなら」上野という人物は学者失格であると答えたに過ぎない。「双子の症例」の真実を暴いたという自分の業績が、保守系メディアによって日本における政治的な文脈において上野らフェミニストたちを中傷する目的で悪用されるとは、さすがのダイアモンドも想定していなかったようだ。ちなみに山本は、のちに出版される単行本「ここがおかしい『男女共同参画』」においてダイアモンドとのインタビューを再録しようとするが、そのための承諾を求められたダイアモンドは次のようにはっきりと断っている[6]。

I would certainly want to help. But I am afraid that what I say might not be accurately translated and was disappointed to understand that I was quoted as saying some unflattering things about Dr. Chizuko Ueno. I don’t think my comments were placed in the context I thought appropriate.(お役に立ちたいとは思っています。しかし、あのインタビューではわたしの発言が正確に訳されていないように思います。というのも、わたしが上野千鶴子教授に対して何かひどいことを言ってしまったかのように引用されていることに失望しているのです。わたしのコメントが不適切な文脈に入れられたように思うのですが。)

さらに、山本からダイアモンドが朝日新聞の高橋次長に寄せたコメントが世界日報における論調と大きく違っている点について、「まるであなたがジェンダーフリーの考えを支持しているかのように紹介されているのは、読者を混乱させているのではないか」と告げられると、ダイアモンドはこう答えた。

Basically I do support gender-free ideas. I don’t think there is anything in the book “As Nature Made Him” that goes against that idea. (基本的にわたしはジェンダーフリーの考えを支持していますよ。「ブレンダと呼ばれた少年」という本のどこを読んでも、それを否定する内容は書かれていないと思います。)

八木の「解説」を読む限り、「ブレンダと呼ばれた少年」の内容は男女共同参画行政やジェンダーフリーの在り方に抜本的な見直しを迫るものであり、マネー理論の虚構を暴露したダイアモンドもそれに同調しているかのように読める。しかし実際には、ダイアモンドはむしろ高橋の解釈に同調しており、上野に対する厳しい批判も真意ではなかったのだ。ところが、そのことが明らかになった後に出版された「ここがおかしい『男女共同参画』」においても、山本はダイアモンドの意向を無視して朝日新聞の記述を「ダイアモンド教授を都合良く利用した」偏向記事だと批判している。

問題は、高橋記者が、「(マネー説の破綻を)男女共同参画に見直しを迫るものと位置づけている」とする八木秀次氏の「解説」が誤りだと証明できているかどうか、である。同「解説」が男女共同参画の見直しを迫っている理由は、共同参画の理念がマネー説に立脚していると考えるからだ。

だが、この記事は、ダイアモンド氏から「生まれつき(生物学的性別=セックス)と育て方(文化的・社会的影響)の両方で性(ジェンダー)が決まる」と聞きだしている。これは、ジェンダーは「社会的・文化的に形成された性別」とする男女共同参画の理念が、ダイアモンド教授のジェンダー論とは相反し、逆にマネー説に酷似していることを浮き彫りにするものである。

ここでまずおかしいのは、朝日新聞の記事からの引用という形態を取りながら、元の記事にはない「(生物学的性別=セックス)」「(文化的・社会的影響)」「(ジェンダー)」という但し書きが山本によって書き加えられている点だ。引用者による注であるならそのように表記するべきであろう。ダイアモンドの発言をごく普通に解釈するなら、人間にとっての性とは生まれつきの特性と社会環境による影響の組み合わせであるということを言っているだけなのに、わざわざ「生まれつきと育て方」の総合によって形作られる「性」を「(ジェンダー)」と決めつけることで、山本は「ジェンダーには生まれつきの要素もある」とこじつけているに過ぎない。

もちろん、ジェンダーとセックスは全く無関係に存在しているものではないし、千田の言う通り内閣府による「社会的・文化的に形成された性別」という語句はひどく単純化された不十分な定義だとは思うのだが、少なくともこのコメントを理由としてダイアモンドの見解が男女共同参画行政の見直しを迫るものだとすることはできない。既に紹介したとおり、ダイアモンドは基本的にジェンダーフリーや男女共同参画の取り組みを支持する立場の論者であるし、筆者が入手した別のメールではかれは学校における男女混合名簿の使用や男女ともに「さん」付けで呼ぶ取り組みなどにも支持を表明している[7]。

朝日新聞にダイアモンドが寄せたコメントが「ジェンダーフリー・バッシング」勢力にとって痛手であったことは、保守系言論誌「諸君」2005年12月号の鼎談において八木秀次が次のように言っていることからも分かる。

「フェミニスト」といえば、「ジェンダーフリー」ですが、ジョン・コピラントというジャーナリストが書いた『ブレンダと呼ばれた少年』が扶桑社から復刊された後の朝日新聞をはじめとする一部の報道には、辟易としました。… (略) 教科書問題と同じく、ある種の勢力は都合が悪い事実が出てくると、すぐに「正義」に駆られて海外にご注進に及びますね。海の向こうから、「お前の『生物学的還元説』がジェンダーフリーを邪魔している」なんて言われれば、さぞかしダイアモンド氏にとって「寝耳に水」だったことでしょう。 

これに答えて、評論家の小谷野敦もこう言う。

ジョン・マネーの実験の失敗をいち早く指摘したミルトン・ダイアモンド(ハワイ大学教授)が、朝日新聞や東京新聞の取材に対して、「生まれつきか、育て方か一方ではなく、両方の相互作用が性を決める」といった、中途半端なコメントをしている。「大体は生まれつきで決まる」というのが正確でしょう。(略) 「八木という日本の悪名高い“右翼”学者があなたの学説を利用している」と吹き込まれたのでしょうか。米国では「異性愛の擁護」などという本が出るくらい同性愛論者やらフェミニストやらが跋扈していて、彼らに下手に楯突くと「右翼学者」の烙印を押されるから、不安になったのかもしれません。

小谷野がこうして大袈裟に宣伝している「異性愛の擁護」という本が二十年以上も前にどこかのちょっと変わった心理カウンセラーが自費出版で出した本だったという笑い話はともかく(小谷野にこの本の内容について確認したところ、かれ自身この本を読んでいない様子だった)、ジェンダーフリーや男女共同参画に恐れをなして海外の識者(ダイアモンド)にあることないこと吹き込んで、強引に上野千鶴子に対する批判コメントを引き出したのは世界日報の山本のほうだ。山本や八木が先に「男女共同参画の見直しを迫る業績を残した海外の専門家」としてダイアモンドを巻き込んでおきながら、フェミニストの側が「すぐに海外にご注進に及ぶ」と決めつけて批判するのは筋違いも甚だしい。

小谷野は朝日新聞の記事を「非常に政治的」であると批判しているが、政治的な意図からダイアモンドの真意を捩じ曲げた記事を掲載した山本を先に批判すべきではないか。また、朝日新聞の高橋は少なくとも、デイヴィッド・ライマーの自殺に至る悲劇にきちんと思いをやってそこから同様の悲劇を繰り返さないための教訓を汲み取っているのに対し、八木の「解説」はただただライマーの生と死を嬉々として「フェミニズムバッシング」「ジェンダーフリーバッシング」に政治利用するだけのものだ。 八木は、ダイアモンドによるマネー理論の反駁を補強する科学的事実として、新井康允や田中冨久子といった脳科学者による著作を頻繁に引用する。いくつか例をあげよう。

マネーの学問的破綻に明らかなように、「生物学的宿命」から逃れようとするジェンダーフリーという発想は今日の科学では完全に否定されている。最新の研究によれば、「男らしさ」「女らしさ」の意識は生得的なものが基礎にあってのことであり、そのことは例えば、脳科学の権威、新井康允氏の「脳の性差 男と女の心を探る」(共立出版、1999年)などによって明らかにされているところである。(八木秀次「解説 ジェンダーフリーの『嘘』を暴いた本書の意義」より)

 

新井康允氏は、「脳がホルモンシャワーを浴びることによって男性脳、女性脳に分かれる」ということを明らかにしているわけですけれど、船橋氏・大沢氏はそういうことにはまったく言及していません。とにかく、外性器以外は男と女には生物としても何の違いもない、ついているかいないかの差にすぎない、ということを言っているのです。女性学というものがどれほど非科学的なものかということがわかろうというものです。(八木秀次・西尾幹司「新・国民の油断」より、八木発言部分)

 

…脳科学者で横浜市立大学医学部長の田中冨久子氏は、生物学的要因を否定し「遊びにおける性差は社会の影響によって作られる」というアメリカの女性生物学者、A・ファウスト・スターリングの見解(「ジェンダーの神話」工作舎、平成二年)について、「彼女が女性擁護から…生物的結論を否定したいとするならば、それは科学を否定することになるのではないだろうか」と述べています(「脳の進化学」中公新書ラクレ、平成十六年)。同じ批判が大沢氏、上野氏、船橋氏らに対しても向けられるべきだと思います。(同上)

しかし実際に新井や田中の著作を読むと、八木はかれらの文章から選択的に引用することで文意を歪めていることが分かる。まず「脳の性差 男と女の心を探る」から新井の真意が分かる部分を引用してみよう。

生殖機能を調節する脳の働きには、はっきりとしたちがいが認められる。動物の性行動を考えてみても、雄と雌が同じような行動をやっていたのでは生殖活動はうまくいかない。そこには自ら雄と雌で役割分担があり、行動的にちがいがあるのは当然のことである。このような行動的な性差を生ずる背景には、雌雄で脳がハードウェア的に異なるところがあるからである。

しかし、人間の性役割の成立には、生物学的なものばかりでなく、社会的・文化的要因が加わっており、いわゆるジェンダーの役割を考える場合には、社会的・文化的要因のほうが重視される。したがって、男らしさ、女らしさを考えるときに、動物の場合のようにそう単純にはいかない。

すなわち、新井はたしかに雄と雌で脳に違いがあると書いているが、それを八木の言うような「生物学的宿命」と解釈するのは誤読だ。人間の行動は「生物学的な基盤」という根本的な部分で男性型と女性型に分離されているのではなく、生物学的な要素と社会的・文化的な要素が複雑に混じり合って性差がうみだされていると新井は指摘しているのだ。続いて、ホルモンシャワーによる脳の性分化についても、新井は次のように言う。

脳の性差が生ずる誘因として、本書では周生期における性ホルモンの働きを重視して述べてきた。しかし、ヒトの行動の性差、特に性的嗜好などに関して、ホルモンの働きのみで、その行動の異常が決まるというほど単純なものではないだろう。生物学的側面があることは事実であって、おそらく、それに加えて何かきっかけになる社会的なインプットが握っているかもしれない。この点に十分考慮する必要があるだろう。

ホルモンによる影響が存在することはほとんどの論者にとって周知のことであるが、八木の言うようにホルモンシャワーによって「男性脳、女性脳に分かれる」という単純な話ではない。人間の性差や性行動について考えるうえでは、生物学的な要素に加えて社会的・文化的な要素も考慮する必要があるというのが、脳科学者としての新井の誠実な記述なのだ。

これだけでなく、八木は田中冨久子の「脳の進化学」も文脈から引きはがすことで歪曲的に引用している。田中によるもとの記述はこうだ。

女の子よりも男の子の方が遊びけんかが好きなのは事実だが、この要因には2つの可能性が考えられる。その第1は、生物学的なもので、胎生期に男の子の精巣が分泌するアンドロジェンが脳を男の型につくりあげるため、第2は、脳が生後の養育や教育を学習し、適応してきたため、つまり社会化による、ということができる。

前述した女性生物学者A・ファウストスターリングは、科学者かつフェミニストの目で見ると、動物実験ではありえても、ヒトでは違うのだ、と主張する。私は、心ならずも、ラットに多大な犠牲を強いつつ研究を行っている女性科学者である。動物実験の結果を即ヒトに演繹するこには危険があるかも知れないが、ヒトと動物はひとつながりの線上にあると考えなければ動物実験はありえない、と考えている。もし、彼女が女性擁護ゆえに第1の生物学的結論を否定したいとするならば、それは科学を否定することになるのではないだろうか。少なくとも、現時点では2つの可能性がある、と理解しておくのが科学的な思考であるように思う。

田中によると、現時点では生物学的要因・社会的要因という2つの可能性があり、生物学的な要因を一方的に否定してしまうことは問題がある。しかしまた一方で、社会的要因の側を抹消してしまったり、あるいは生物学的な要因の方が圧倒的に優位な「宿命」なのだと断言するような主張も「科学的な思考」とは言いがたい。田中の記述は科学者としてあるべき慎重な思考を促すものなのに、八木は恣意的な引用によって生物学的決定論の側からの社会的影響論を否定する発言であるかのように偽装しているのだ。 八木と同じくデイヴィッド・ライマーの生涯を参照しながら、八木よりさらに劣化した「フェミニズムバッシング」を繰り広げるのが、2005年10月に発売された林道義著「家族を蔑む人々 フェミニズムへの理論的批判」だ。林はこう言う。

「ブレンダと呼ばれた少年」という有名な本がある。(略) この題名を見る(聞く)と、欧米の人たちならすぐに「異様な事態が起きたのだな」と理解できる。なぜなら「ブレンダ」という名前は女性の名前と決まっているからである。(中略)つまり少年が女の子として扱われ、または育てられたということが即座に理解されるからである。 だから少年がブレンダと呼ばれたというだけで。「なぜ?」「どうして?」という興味がわく。この本は題名のせいもあってか、たいへん話題になり、ベストセラーになった。ところが日本ではほとんど注目されないまま、絶版になってしまった。(最近、扶桑社から再出版された)。フェミニズムにとって都合の悪い内容だったためと、フェミニズムの害悪について世間の問題意識が高まっていなかったせいもあるが、題名をそのまま使ったのが失敗だったと思う。日本人は少年が「ブレンダ」と呼ばれたと言われても、「?」と思うだけで何も感じないからである。手にとってみようと言う気も起こらないだろう。

言うまでもなく、「ブレンダと呼ばれた少年」というのは無名舍が付けた邦訳のタイトルであり、原題は「As Nature Made Him」だった。そのことを一般の読者が気付かなかったというだけなら別におかしなことではない。しかし、欧米でベストセラーになった理由の一つとしてタイトルの巧妙さを指摘し、日本でそれほど注目されなかった失敗要因として出版社が文化背景を考えずに「題名をそのまま使った」ことを挙げるのであれば、原題が本当に邦題と同じかどうかくらい普通なら事実関係を調査するのではないか。

このことをまず指摘しているのは、なにもかれの単純ミスを指摘して揚げ足を取ろうというわけではない。素人でも少し調べれば分かる程度のことすら調べずに思いつきだけでモノを書くという、この著者に顕著な傾向をよく示していると思うからだ。少し調べれば無名舍版「ブレンダと呼ばれた少年」が早々に絶版となった理由は同社が出版事業から撤退したからだということが分かるのに、「フェミニズムにとって都合の悪い内容だったため」とまるで何らかの妨害工作を受けたかのような話を匂わせているのも、その一例と言える。

林は、八木そのままのやり方でマネーの「双子の症例」と日本のフェミニストの主張をこじつける。

こうした不幸と非道を引き起こしたのは、一つの誤ったイデオロギーである。そのイデオロギーとは、「ジェンダーアイデンティティーを決めるのは性器と教育だ」という考え方を基礎にしている。「性転換手術によって性器を変え、女の子として育てれば、その子は女の子として適応できる」という理論である。

この考え方はいまの日本のフェミニストのあいだでも幅を利かせている。欧米の極左フェミニストの「ジェンダー」概念を輸入し、単純化・大衆化して普及させ、定着させたのが上野千鶴子氏と大沢真理氏である。

しかし、既に見てきた通り、上野も大沢もマネーの「双子の症例」に依拠した主張は一切行っていない。というより、「ジェンダーアイデンティティーを決めるのは性器と教育だ」とする「日本のフェミニスト」をわたしは一人も知らない。そもそも、一方の性の性器を持ちそれと同じ側の性として育てられたにも関わらず別の性に移行して生きたいと望む性同一性障害の人が存在するという事実一つをもってしても、性器と教育が万全でないことが現在では誰の目にも明らかではないか。これもおそらく、基礎的なチェックすらせずに八木の解釈あたりを鵜呑みにしてそのまま書いたのだろう。

こうして「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるトンデモ保守論者の迷走を見てきて思うことは、かれらは二重にも三重にも重なった勘違いをしているのではないかということだ。脳科学の見知や上野らの主張に関する我田引水的な「勘違い」はもちろんだが、それ以前の次元で「人間の性差とはこうである」という事実認識の問題と「社会政策や教育はこのように行うべきである」という政治的アジェンダの問題を混同しているような気がする。

もっとも、こうした混同をしているのはかれら保守論者だけでなく、一昔前のフェミニストたちも同じような誤解をしていた。すなわち、50年ほど前に生み出されたジェンダーという概念が多くのフェミニストたちの注目を集めたのは、かれらがそこに「性差」が生物学的に決定されたものではなく社会的に学習もしくは構築されたものであるならそれは「宿命」ではなく変更可能であるという希望を見出していたからのはずだ。

しかし性同一性障害に関するマネーの研究が明らかにした通り「心の問題」ならば容易に変更できるというわけではないし、現代のフェミニストたちや新井ら脳科学者も認める通り「生物学的な傾向」は不変の「宿命」だとは限らない。より単純な生物とは違い、人間の性とは生物学的な要因と社会的な要因が複雑に絡み合い影響し合う中で意味を与えられるものだ。

そうであれば、男女のあいだには生物学的な差異があるから違った扱いをするべきだとか、いや差異は社会的に形成されるものだから無くすべきだという論理は、どちらも短絡的だ。極端な話、生物学的な性差を全面的に認めたうえで「それでもできる限り差を埋めるのが文明」とする主張もあり得るし、逆に生物学的な根拠が全くない区別に固執し保存することが「われわれの伝統文化」であると言うことだって論理的には可能だ。というより、「生物学的な宿命」を主張する論者だって、社会的・文化的な扱いによっては「宿命」であるはずのものが変化してしまうと恐れているからこそ──家族や共同体のありかたが、かれらが理想とする形態とは違ったものになってしまう可能性を予感するからこそ──フェミニズムやジェンダーフリーに反対するのではないか。

いろいろ曲解がされているが、地方自治体においてジェンダーフリーや男女共同参画を推進している人たちの大半は、「男女の区別を無くせ」ではなく「性別に関わらず個人として扱え」という部分に重点を置いている。男子も女子も同じ色のランドセルを使いましょうというのではなく、それぞれ自分が好きな色のランドセルを使っていいじゃないかという考え方だ。

そういう世の中であれば、幼い子どもが不幸な事故によってペニスを失ったからといって(事故を防ぐ最大限の努力はなされるべきだが)「このままでは将来普通の男性として生きることができない」と両親が悲観することもなかったはずだし、机上の空論を元とした人体実験のようなプランに望みを託すこともなく、ブルースがある程度成長するまでしばらく様子を見て本人の意志を尊重することもできたはずだ。また、仮に女の子として育てられたとしても、ドレスを着たり女の子らしい遊びをすることを強要されていなければ、そして明らかに「女の子」として生きることを拒絶しているのに女性ホルモンを飲むよう強制されなければ、どれだけかれの精神的トラウマは少なくて済んだだろうか。

千田有紀はこう問う。

ブレンダの悲劇は、<性>を奪われた[[奪われた、に強調符]]ことにあるのだろうか。(略)

ブレンダから奪われた<性>というのは、男性、とくにペニスをさすのだろう。しかし、ペニスを無くすという事故は、すでに起こってしまった事故である。ブレンダにとっての真の悲劇の本質とは、ペニスを失ったことにあるのではない。自分がしっくりこないジェンダーを押し付けられ、混乱させられたことに尽きるのではないか。

わたしはこれに、ブレンダとブライアンに性行為の真似事をやらせるなど、性的虐待と見分けがつかないようなマネーの「カウンセリング」行為や、14歳になるまで周囲の大人たちが真実を隠し通したという信頼に対する「裏切り」を付け加えたい。もし仮にマネーの学説が正しくて、ブレンダが女性としての自己認識を獲得することに成功していたとしても──「<性>を奪われた」こと自体が苦にならなかったとしても──幼い子どもにそのような体験をさせることが正当化されるわけではないはずだ。

人間の性差がどの程度生物学的に影響づけられるのか、またどの程度環境によって変容させることができるのかという論争は、それなりに学問的な意義があるだろう。しかしそれは、イデオロギーではなく実証的な研究を通して冷静に論じられるべきであり、いかに男女のあいだに性差があるからといって──それは実際には「男性」「女性」という集団間の平均値の差に過ぎず、個体差の方が大きいことが多いが──あらかじめ固定的な性役割や性別のあり方(「男らしさ」「女らしさ」など)を押し付けたり、性別によって違った扱いをする理由とはならない。

ましてや、デイヴィッドの悲痛な叫びをくだらない政治的アジェンダに回収してしまうことは、かれの人生を学術的な論争を決着させるための道具として扱ったマネーの行為を後から再生産していることになるのではないか。 もしわたしたちがデイヴィッドの訴えを真摯に受け止めるなら、もしかれと同じように苦しむ子どもが今後出ないようにしたいと願うのであれば、かれをそこまで苦しめたものが何であったのか正しく理解しなければいけない。「ブレンダと呼ばれた少年」の悲劇は、マネーの理論がたまたま間違っていたから起きたわけではない。千田や高橋が言うように、それは特定のジェンダーのあり方が本人の意志と無関係に幼い子どもに押し付けられたことによって起きたのだ。

*****

[1] ブルースとブライアンの双子は、どちらも包茎であり手術が必要とされた。しかし当時必要と思われていた幼児に対する包茎手術の多くが現在の医学的見知では不必要と判断されており、もし現在かれらが生まれていれば手術を受けたかどうかは分からない。

[2] 新井の名誉のために付け加えておくと、かれは単純に「性差には連続性があるとする上野千鶴子は間違い」「ジェンダーフリーはマネーを論拠としていておかしい」といった単純な結論を引き出そうとする世界日報・山本彰記者の質問に対し、上野の主張も「ある程度正しい」認めたり、「男らしさ、女らしさにとらわれなくてもよいが、あってもよい」とジェンダーフリーの理念に肯定的な回答をするなど、出来る限りの抵抗をしつつ学問的に誠実な回答をしている。明らかに政治的偏向のある質問者に対してこのように上手に回答する姿勢には感銘を受けた。

[3] インターセックスという用語は、2006年現在「性分化・発達障害」(DSD = disorders of sex differentiation and development)という新しい用語に置き換えられつつある。その最大の理由は、インターセックスという語が「男でも女でもない第三の性」を想像させるのに対し、大多数はごく普通の男性もしくは女性としての自己認識を持つ当事者やその家族の多くが反発していることだ。

[4] Bradley SJ, Oliver GD, Chernick AB, Zcker KJ. 1998. “Experiment of nurture: ablatio penis at 2 months, sex reassignment at 7 months, and a psychosexual follow-up in young adulthood.” Pediatrics. July; 102(1):e9.

[5] Reiner WG, Gearhart JP. 2004. “Discordant sexual identity in some genetic males with cloacal exstrophy assigned to female sex at birth.” New England Journal of Medicine. Jan. 22; 350(4):333-41.

[6] このメールはダイアモンドから直接提供を受け、全文公開することを条件に引用を認められた。全文は http://macska.org/diamond-emails-pt-1 から読むことができる。

[7] このメールの全文は http://macska.org/diamond-emails-pt-2 参照。

なお、この記事を執筆するにあたり、乙川知紀氏、 ミルトン・ダイアモンド氏、 牧波昆布郎氏の各氏から資料や情報の提供を受けました。各氏の協力に感謝します。

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