障害者向けシャトル・サービスによる社会参加――郊外に住むおばあちゃんのスタバ通いの例から

11/11/2011 - 8:13 am | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

今月発売された『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(生活書院)の著者であり、自身も知的・身体的に重い障害のある娘を持つ翻訳者・著述家の児玉真美さんが、八月にブログに掲載した記事において、米国での「障害者向けシャトル・サービス」について驚きとともに紹介している。そのブログ記事をきっかけとして、障害学研究ネットワークではこのシャトル・サービスについての議論が起こった。実はわたしもそのシャトル・サービスの一利用者かつ障害学関係者であり、議論を通していくつか考えをまとめることができたので、ここで報告したい。

このシャトル・サービスは、通常パラトランジットと呼ばれるものだ。もっとも厳密にはパラトランジットとは公共交通機関を補完するものという意味であり、児玉さんが紹介しているものはそのうち米国障害者法(ADA)に基づいて設置されているADAパラトランジットと呼ばれるものだが、パラトランジットと言えばADAパラトランジットのことを指すのが普通であるので、この記事でもパラトランジットと記述する。

パラトランジットは、障害のために公共交通機関を利用できない人のために、小型バスなどに乗り合わせる形で自宅から目的地まで送迎するサービスだ。前述のとおり、一九九〇年米国障害者法によってバスや電車を運営する公共交通機関には、その沿線3/4マイル(1.2km)の範囲において設置が義務付けられている。すなわち、全国どこでもバスや電車がある地域には必ずパラトランジットが存在する。障害があるために、バス停や駅までの行き来や乗り換えが困難な人や、目的地までの行き方やどの駅で降りたらいいかが分からない人がその対象であり、事前に(ほとんどの場合前日までには)旅程を申請しなければいけなかったり、乗り合いであるために遠回りをして時間がかかったりする不便はあるものの、一般のバスや電車を使えない人にとっては通学・通勤や日々の買い物、通院や娯楽まで、社会参加のためにはなくてはならない道具だ。

わたしの場合、基本的には通常のバスや電車を使うこともできるのだが、椎間板ヘルニアのために長距離を歩くことができず、また重い荷物を運ぶこともできないため、(最寄りのバス停から距離があるなど)行き先やその日の天候・体調によっては、どこかに行く予定を変更せざるを得ないことが頻繁にあったので、パラトランジット利用を申請した。わたしが認められたのは「条件付き利用許可」という資格だが、この「条件付き」というのは「常にパラトランジットが必要なわけではない」という意味であり、実質的にいつでもどこでも利用することはできる。そもそも、利用するためには前日までに予約を入れる必要があり、しかし当日の体調なんてその日にならなければ分からないのだから、いつどういう時に利用するかは当人の判断に任せるほかない。

パラトランジットは全国的に提供されており、またその運用ルールも連邦政府が定めているので、細かい違いはあるものの、だいたい全国どこでも同じ仕組みになっている。素晴らしいのは、自分の住んでいる街でパラトランジット利用資格を認められた人は、他の街に旅行したときも、それぞれの街において年間二十一日までという制限はあるものの、旅行先のパラトランジットを利用することができる。わたしは講演などで全国各地に出向くことが多いのだが、勝手の分からない旅先で――一日に歩くことができる距離が限られているわたしにとって、見知らぬ土地で道に迷うことは、かなりの恐怖だ――パラトランジットを使えることにはとても助かっている。

さて、当然のことながら、パラトランジットを運営する費用は公共交通機関にとってかなりの負担になっている。児玉さんが紹介しているワシントンDCの例だと、一人の乗客を目的地まで届けるために、片道で平均四十ドル(三千円強)のコストがかかっているらしい。利用者が払う運賃は、ワシントンDCだと片道三ドルだったのが最近値上げされて最大七ドル、ポートランドのパラトランジットだとわずか二ドルだから、費用のほとんどは一般のバスや電車の利用者と、助成金などによって負担されている。さらにポートランドの場合は、一般の公共交通機関と同じく一ヶ月のあいだ何度でも利用可能な定期券もあり、こちらは一月あたり五二ドル。社会保障制度による障害者福祉が月額七〇〇ドル弱であることを考えると、ほかに収入源を持たない多くの障害者たちにとっては決して安い金額ではないが、月にたった二度利用するだけで(一度の往復だけで)コストのほうが上回ってしまう。

わたしの聞いた話では、こんな例がある。ポートランドの中心部から三十分ほど離れた郊外に住んでいるおばあちゃんが、毎朝パラトランジットに乗ってポートランドの一番賑やかな場所にあるスターバックスにやってきては、コーヒーを一杯飲んで、またパラトランジットで家に帰るという。もちろん、スターバックスなんて郊外にも数えきれないほど出店しているし、それなりに人が集まっているところだってもっと近くにあるだろう。にもかかわらず、このおばあちゃんは毎朝わざわざポートランドの中心部までやってきているのだ。

彼女はおそらく定期券を持っているだろうから、どんなに離れたスターバックスに毎朝通っても、追加の運賃はまったく発生しない。しかしパラトランジットを提供するコストは毎日確実にかかっているわけで、限られた公共のリソースが浪費されているようにも見える。少なくとも、往復で毎朝八〇ドルの費用をかけるにふさわしい便益をおばあちゃんが受けているかというと、かなり疑問に思える。もし仮に彼女に「現金で八〇ドル欲しいですか、それともスタバまで送迎してほしいですか?」と聞いたとしたら、彼女が毎朝送迎を選ぶとは考えにくい――すなわち、八〇ドルの公的資金が効率的に使われていない(もっとも片道四十ドルというのは平均費用であり限界費用ではないので、実際には彼女がスタバ通いをやめても八十ドル浮くわけではない)。

とはいえ、このおばあちゃんにとっては、都市の一番賑やかなところに出かけていって買い物客や旅行者らを観察することが、ささやかな楽しみなんだろうということは、想像に難くない。毎朝通っていれば、ほかの常連客や従業員とも顔見知りになるだろうし、世間話をする相手も見つかるだろう。彼女がそういう形で社会に関わっていけるようにしているパラトランジットは素晴らしいと思うし、彼女のような常連客がそこにいることで街に集まるほかの人たちの生活も少しだけ豊かになっているだろう。費用についても、彼女が郊外の自宅で孤立して元気をなくし頻繁に病院に担ぎ込まれるよりは、社会的に負担するコストの点でも長期的に見れば優れているかもしれない。

しかしパラトランジットを提供する費用が公共交通機関にとって大きな負担になっているというのは確かであり、とくに近年それらの交通機関を運営する各地の自治体が深刻な財政難に陥ってからは、利用者負担が拡大されるとともに、利用資格の審査が厳密化している印象を受ける。たとえば、わたしがはじめてパラトランジット利用を申請したのは五年以上前だが、当時は申し込み書に医者の診断を添えて提出したらすぐに認めてもらえた。しかし昨年ポートランドのパラトランジット利用者全員に「今後、利用資格を三年ごとに再審査します」という通知が届き、その再審査では実際の歩道やバス停、交差点などを模した施設を使った「実地調査」によって、実際にどの程度障害の影響があるのかなどを調べられた。わたしの場合、短時間の検査で歩けなくなるほどではないので、利用資格を取り消されるのではないかと不安だったのだけれど、思ったよりあっさりと三年間の資格延長が認められた。しかし、これまでパラトランジットを使っていたのに、再審査の結果、資格を取り消された人も何人か知っている。(検査の日、わたしは一部で有名な某地元ブランドのバッグを持ち歩いていたのだけれど、わたしの担当になった検査官がたまたまそのブランドのファンで、バッグの話題で盛り上がったのがいくらか影響したのかもしれない。)

児玉さんのブログでは、ワシントンDCのパラトランジットがそれまで一律三ドルだった料金を改め、距離などによって最大七ドルまでになる料金体系を採用したほか、通常のバスや電車を利用するためのクラスを開いたり、駅のエレベータが故障しているときには駅から駅までのシャトルを提供したりすることで、できるだけパラトランジットではなく通常のバスや電車を利用するよう促すキャンペーンを展開していることが紹介されている。パラトランジットにかかる費用を少しでも圧縮するための苦肉の策だが、こうしたキャンペーンによって通常のバスや電車のアクセシビリティが向上するのは良いことだと思う。

そもそも、一九九〇年米国障害者法によってパラトランジットが導入されたとき、障害学研究者や障害者運動のとくにラディカルな人たちは、パラトランジットに強く反発していた。なぜなら、「通常の」交通機関を「使えない人」に別の交通機関を提供することは、多くの人にとって使いづらい「通常の」交通機関を温存することになる、とかれらは考えたからだ。これまで当たり前のように「通常の」「使えない人」といった言葉を使ってきたけれども、よく考えてみるとこれらの概念はどこかおかしい。「使えない人」というのは、もともと「使えない人」として存在しているのではなくて、「通常の」バスや電車が登場した時点ではじめて、そこから排除された存在として生まれてきたものだ。たとえば、駅にエレベータが設置されていたり、車椅子対応のリフトが全てのバスに備わっていれば、「使える人」になれるのに、現実にはそれらの設備が不十分なために、「通常の」交通機関から弾きだされ、「使えない人」にされている人は多い。

パラトランジット導入前後の障害学研究者や障害者運動家たちは、パラトランジットの存在が「通常の」交通機関のアクセシビリティを向上しない口実となり、米国憲法史において悪名高い「分離すれど平等」な制度となることを懸念していた。「分離すれど平等」というのは、米国において一九六〇年代まで教育や公共施設などにおいて白人と黒人を分離するために持ち出された論理であり、形式的には人種平等の建前を取りながら、実際には黒人に対する隔離政策と差別待遇そのもの。パラトランジットもそれと同じく、障害者を「通常の」交通機関から隔離・排除し、不平等な扱いを恒常化する口実だとして批判されたのだ。

しかし実際に制度が導入されると、障害運動や障害学に関わっていない大多数の一般の障害者たちは、パラトランジットを大歓迎した。さまざまな問題はあったが(いまもあるが)、平等な交通アクセスをめぐる観念的な論争とは別の次元で、これまで行けなかったところに自由に行けるようになり、これまでできなかったことができるようになったわけだから、多くの人が歓迎したのは当然だろう。

一九六〇年代までの人種隔離政策と決定的に異なっていたのは、当時の人種差別的な政治家たちとは違って、バスや電車の運営者はべつに差別心から障害者を隔離しようとしていたわけではなかった点だ。すなわち、かれらがエレベータや車椅子用リフトの設置に積極的でなかったのは、コストがかかるからであって、コストがかかるから障害者を排除しても構わないという発想そのものは差別的だけれども、少なくとも隔離そのものが目的ではなかった。ところがパラトランジットの提供が法律によって義務付けられた結果、エレベータやリフトを設置しないほうが――それはすなわち、より多くの人がパラトランジットに依存することになるのだから――コストがかかるようになってしまった。

結局、「パラトランジットは通常のバスや電車のアクセシビリティを悪化させ、障害者を一般社会から疎外する」という一部の障害学研究者や障害者運動家の懸念とは裏腹に、パラトランジットの存在は、公共交通機関が積極的にアクセシビリティを改善させることを促した。結果的に、パラトランジット利用者だけでなく、それ以外の障害者たちにとってもより使いやすい交通機関を生み出すという恩恵があったということになる。パラトランジットが公共交通機関とは別の福祉サービスとして提供されたのではなく、公共交通における「平等なアクセス」として通常の公共交通の運営主体に義務付けられたからこそ、こうした効果があったのだと言える。

パラトランジットと最も直接競合する民間のサービスは、タクシー業界だろう。もしパラトランジットが存在しなかったとしたら、ポートランド郊外に住むおばあちゃんが毎朝タクシーで市内のスターバックスに通うことはおそらくなかっただろうけれども、食料品の買い出しや病院への通院などではタクシーを使っていたかもしれない。わたしだって、もしパラトランジットがなかったとしたら、旅先の空港からホテルまでスーツケースを持って通常のバスや電車で移動していたとは考えにくい。そういう意味では、パラトランジットの導入によってタクシー業界はかなりの損失を被っていると思うかもしれない。

しかし実際のところ、話はそう単純ではない。公共交通機関を運営する自治体の多くは、パラトランジットの運営を民間に委託しており、それをタクシー業界の関連企業が受注していることが実は多い。また、それとは別に、時間や地域によってはパラトランジットに使われる小型バスやバンが足りなくなったり、バスの故障や事故などで予定通りにパラトランジットを提供できないことがよくあるが、そういった時にはやはりタクシー会社が下請けとしてパラトランジットを補完することになっている。郊外に住むおばあちゃんは毎日八〇ドル自腹で払ってタクシーに乗ってスターバックスに通うことはないだろうけれども、日によってはその八〇ドルが公共交通機関からタクシー会社におばあちゃんを送迎する代金として支払われているのだ。すなわち、タクシー会社にとってパラトランジットは競合相手であるとともに、安定的な収入源でもあるということになる。

このように、パラトランジットはそれを利用する人たちに社会参加の機会を与えているだけでなく、利用者でない障害者やその他の人たちにもより使いやすい公共交通機関をもたらした。しかも、制度導入に一番抵抗しそうなタクシー業界をも取り込むことに成功した。制度設計時点でどこまでこれらの効果が意図されていたかは分からないが(少なくとも、多くの障害学研究者はそうした効果を予見できなかった)、後から見れば非常にうまくいった例だと思う。もっとも、コスト配分の問題としてパラトランジットへの投資が効率的かどうか(ほかの使い方をすれば、人々をより幸せにできたのではないか)は、あまりにいろいろな要素がありすぎて、よく分からない。しかし、郊外に住んでいるおばあちゃんが、市内中心部のスタバでいつもの指定席に座り、馴染みの常連客と世間話をしている場面を思い浮かべると、パラトランジットがあって良かったとわたしは感じる。

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(この記事は、メールマガジン α-Synodos(アルファ・シノドス)第86号(10月15日発行)及びシノドスジャーナルに掲載されたものを再掲しました。)

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