経済学S2/失業−−メカニズム解釈を経由して、共生にたどり着く

2008年11月28日 - 9:22 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前エントリではじめた「経済学シリーズ」、だいたい月一回くらいのペースを考えていたのだけれど、とりあえず最初はどういう狙いの連載なのかを知ってもらうために、最初だけ短いインターバルで書いてみる。また、既にブログやブクマコメントで批判的なコメントやツッコミをいただいているが、それらについても応えていきたいと思う。このシリーズ、とにかくリベラルあるいは左翼の側の人たちのあいだの経済学フォビアをなんとかしようというのが狙いなので、わたし自身も普段書いている内容に比べてあまり自分の知識や認識が確かではない領域に踏み入れて、間違いは指摘してもらいつつ学んでいこうというつもりでいる。
前置きはさておき、今回取り上げたいのは、失業について。失業が起きる原因を一言で言ってしまうと、労働市場が不完全競争だからということに尽きる。もちろん景気の上げ下げや技術革新、政府の政策などさまざまな要素が関わっているけれども、それでも究極的には「労働力」という商品の(あるいはある特定の技術や知識を持った「労働力」の)需要と供給がマッチせずに(供給過多になって)売れ残っているわけで、単純に言えばそれは市場が不完全だからということになる。
もちろん、完全競争というのは経済学におけるモデルにすぎなくて、実際のところ本当に完全な市場というのは労働市場に限らずどこにも存在しない。けれど、労働力という商品の持つ特殊な性質から、市場で売買されるほかのモノやサービスに比べて比較的「売れ残り」が生じやすくなっているのも確かだ。その特殊性には、労働力という商品そのものに由来するものと、政府の規制など社会的な側面に由来するものがある。まずは前者から見ていこう。
労働力という商品の最も分かりやすい特殊なところは、それが生きている人間から切り離せないことだ。実のところ、それを理由に労働力をほかの「商品」と同列に扱ってはいけないと主張する人もいたりする。また、それを「労働」と呼ぶべきなのか「労働力」と呼ぶべきなのかなど、さまざまな意見がある。でもここではそれを単純化して、「労働力」という特殊な「商品」がある、ということで話を進めたい。
労働力が生きた人間から切り離せないということは、人間としての生理的な制約を受けるということだ。たとえば、最近労働力がだぶついているからといって人間の供給を減らすことは−−失業対策として戦争をするということでもない限り−−ありえないし、逆に足りないからといっていきなり増やすこともできない(外国から移民や出稼ぎ労働者を受け入れる、ということはありえるが)。キャベツが売れ残っているけどトマトが足りないから来年は転作しますという風にはいかない。他の商品であれば、売れ行きを見ながら来期の生産量を調整したりできるのだけれど、人間の場合は労働市場に出荷されるまでのタイムラグが長過ぎてそうはいかない。
また、人間というのは一人一人性格も適性も違いすぎるという点でも、普通の商品とは大きく異なる。しかも個々の人間に関する情報は、雇用者の側から見てごく限られた部分しか分からない。つまり労働者は質的に均一でもなければ完全情報も得られない。個々の人間の持つ知識や経験や人脈、あるいは倫理的・感情的な「まともさ」など、あらゆる面において個別の判断を迫られる。このことは取り引きコストの上昇をもたらし、労働力という商品の流動性を弱める。
次に、政府の規制などに由来する面に注目すると、たとえば法定最低賃金や失業保険の存在など、とくに底辺の労働者の生活を保護するためのさまざまな規制が、労働者を雇用することのコストを高めて、逆にかれらから職を奪っている、と多くの経済学者は指摘する。たとえば法定最低賃金が時給700円だとすると、一時間の労働で平均700円以上の利益を生み出せない労働者はどの企業にも雇ってもらえなくなり、失業してしまう。仮にある人が一時間の労働で500円の利益なら生み出せるとして、企業がその人を400円で雇うことが認められていれば、失業せずに済んだはずだ。
同様の批判は、雇用者に年金の積み立て金や失業保険や健康保険の保険料の一部を負担させるような制度や、企業の都合による一方的な解雇や減給を規制する法律、あるいは労働組合による団体交渉によって労働者の待遇を保証しようとする動きに対しても向けられる。それらはすべて、雇用コストを押し上げることで、既に雇用されている人たちの既得権益を守り、後から来た人たちから職を奪っている、というのがその理由だ。
近年日本で騒がれている、派遣労働を含む非正規雇用の増加や、「ホワイトカラー・エクゼンプション」などは、企業の側が人件費を削減するために推進してきたものであるのは確かとして、同時にそれらの制度がなく労働者が手厚く保護されている状況においては失業していたはずの人に、何らかの職を与えてきたのも事実だ。そしてネオリベ論者たちは、こうした経済学の認識を踏まえて、より雇用を流動化させることにより、景気を活性化させるとともに、まったく何の職も得られないような状態にいる失業者たちを救うこともできる、と主張する。
しかしわたしは、かれらと全く同じ経済学的な認識を踏まえたうえで、別の考え方も取れると思う。それは、失業者が生み出されるのは、一部のサヨクが言うように「企業が、労働者を失業の恐怖に怯えた状態に保つことによって、かれらをより酷使することができるから」なんて理由ではなく、「わたしたち」一人一人が、「労働するなら、最低でもこういう条件でなければやっていられない」と思ったことの自然な帰結なのだという考えだ。
さてここで、失業についての、また別の説明もたどってみよう。それは、グローバリズムや技術革新によって、これまで国内の労働者が行なっていた労働が、より賃金の安い海外の労働者や機械によって行なわれるようになり、そのため国内の労働者が失業する、という説明だ。
なぜ企業がそうした「合理化」を行なうかというと、よりコストを下げることで利益を増やすためだが、他社も同じことをやってコストを下げるので価格競争が起き、「合理化」されて浮いた分の利益を全部資本家が吸い尽くすということはありえない。その企業が提供しているモノやサービスの価格が下がり、一般の消費者もその利益を受け取っている−−というより、市場が完全に近ければ近いほど、その利益のほとんどは消費者のものになっている。
消費者というのはつまり、この社会の成員全員だから、グローバリズムや技術革新による利益は、社会の全体によって広く共有されている。けれどそれが社会的な問題となるのは、コストの大半をごく一部の人たちだけが、「失業する」という形で支払わされているからだ。ここでもやはり、「わたしたち」一人一人がより豊かな生活を求めた自然な結果として、同時に失業者も生み出されている。
失業者の存在が、「わたしたち」一人一人がより良い労働環境や豊かな生活を求めた結果として必然的に生まれるものであるとするならば、「わたしたち」はその失業者に対して「気の毒なことをした」と思いこそすれ、かれらを落伍者として見下したり、あいつらは自分と違って努力や才能が足りなかったのだと切って捨てることはできない。正社員として一定の身分と待遇を保証された人も、そしてその賃金によって豊かな消費生活を送れる人も、自分が失業者ではなく正社員でいられるのは、自分が失業者の人たちと比べてはるかに有能で努力したからではないと理解できるはず。なぜなら、誰もがより安定した職や豊かな生活を求めて努力すれば報われるということはなく、逆に誰もがよりそれを求めるほど、それにありつけない人も必然的に生み出されるのだから。
もし、「わたしたち」の社会がそうした理解を広く共有することができるのであれば、「わたしたち」が失業者に対して示す態度は、大きく変わるだろう。それはたとえば、失業者を見下すような風潮を改め、かれらに対する社会的な保護を手厚くすることに繋がるだろう。そしてそれは、失業というイベントから失業者自身の尊厳を脅かすスティグマを軽減することにもなる。
失業者にとって厳しいのは、単にお金が足りないとか、将来が不安だというだけではなく、失業というイベントそのものがわたしたちの実存を脅かすことだ。たとえ失業した理由が、自分の能力や責任とは全く関係ない事情によるものだったとしても、たとえば自分が務めていた企業が経営陣の失敗で倒産してしまったというものであったとしても、その企業を選び、倒産するまで逃げ出そうともしなかった自分を呪ったり、いざ失業してみると再就職の口がなかなか見つからない自分のふがいなさに苛立ったりすることもあるだろう。
専門的な技術や能力を必要とする仕事をしている人は特にそうだが、多くの人は自分の仕事をアイデンティティに結びつけた自尊心を持っている。そういう人にとって、失業するということはただ単に収入を失うということではなく、自分のアイデンティティを否定された、あるいは落伍者の烙印を押されたと感じられるかもしれない。しかしグローバリズムや技術革新によって失われた職は基本的に「もう戻ってこない」タイプの職種であることが多く、したがってかれらがアイデンティティとしての職種に固執すれば、失業は長期化し将来の不安はますます深まってしまう。それはかれらにとっても不幸だし、社会にとっても無駄が多い。
社会が失業を「必然的に起きる現象」と理解すれば、そして失業者を「偶発的にその地位に居合わせてしまった人たち」と解釈すれば、それは失業者に対する経済的な手当てを行なう動機が生まれるというだけではない。失業をそのように理解することで、失業者たちに対する精神的・実存的な手当ても同時に供給されるかもしれないのだ。それを抜きにして、より現実の経済状況に即した再就職への動機付けは難しい−−だから、失業保険を打ち切るぞといった脅しによって不本意な就職を押しつけることになっている。
今回の議論において、失業が起きるメカニズムの理解は、わたしはネオリベ論者のそれと同じ解釈を採用している。しかし「雇用の流動化、労働者保護の廃止」によって失業を減らそうとするネオリベ論者の主張とは逆に、雇用の安定と労働者保護を評価するからこそ「失業とうまく共生する社会」を目指すという方向性もあるはずだというのがわたしの考え。職業に貴賤はないと言うけれど、正社員と失業者のあいだにだって貴賤はないという認識が広まれば、政策の優先順位がさまざまなところで変わるはずだ。
もちろん、実際のところ国家の予算は限られているし、あんまり税金を高くしたり保護を手厚くしすぎると働くインセンティヴを損なって社会全体が貧しくなり、かえって手当てするための原資が減ってしまったりするから、ある程度それは「どの程度の負担ならわたしたちが受け入れ可能なのか」みたいなこととバランスを取らなくちゃいけない。経済学者たちは、嫌になるほどそのことを叫び続けるだろうし、それがかれらの役割だとも思う。
でもそれと同時に、経済学の知見は、それを理解することによって社会の底辺に置かれた人たちに対する侮辱と偏見に満ちた視線を和らげ、かれらの生活と尊厳を少しだけでも守る方向に利用することができると思う。失業を個人の失敗と見なすのではなく、「わたしたち」自身の「より良く生きたい」という切実な希望が生み出した必然と捉えることができれば、それは失業者により温かい社会を作ることにも繋がる、というのは、その一つの例じゃないだろうか。

7 Responses - “経済学S2/失業−−メカニズム解釈を経由して、共生にたどり着く”

  1. macska Says:

    稲葉振一郎センセイから、ブクマコメントで「それはピグー的失業であって、ケインズ的失業の話がないよ」と指摘されちゃいました。そりゃその通りだけど、それは政府にちゃんとマネージしてもらうしかないわけで。
    わたしがやろうとしているのは、ネオリベ的な論者が「(新古典派)経済学の理論からは、必然的にネオリベラリスティックな政策が導き出せる」かのようにふるまうことへの抵抗です。ケインズを持ち出せば、たしかに直接かれらの経済学的な理論に対抗することができるでしょう。しかしそれでは、「こちらの理論の方が正しいんだ」という話にしかならない。経済学の議論ならそれで良いのですが、政治的リベラリズムの実践としては不十分だと思うのです。
    わたしが狙っているのは、(新古典派)経済学の理論を前提としつつも、必ずしもネオリベラリズム的な政策が導き出せることではないことを示しつつ、政治的リベラリズムにおける包摂・共生といった理念との整合性を描き出そうということです。
    それがうまくいっているか、あるいはこれからうまくいくかどうかは、わたしの知識不足や文章力不足とも相成って、いまのところよく分かりません。稲葉さんの著作では『「資本」論』と、立岩真也さんとの共著『所有と国家のゆくえ』を読ませていただいており(他にも読みたいのですが二冊だけでごめんなさい−−米国在住でお金もないので日本の本はあまり取り寄せられないのです)、少なくない影響を受けました。今後もまた何か気付いたことがあれば、一言でもアドバイスをいただけるとうれしいです。

  2. macska Says:

    あー、あとでもうちょっと考えたんだけど、わたしは重大な考え違いをしていたのかも。というのは、上で書いたように、わたしの意図はネオリベ論者に対して「あなたと同じ前提から出発しても、あなたとは全然違う結論を導き出すこともできますよ」と示すところにあったから、「あなたの前提が間違っています」という話は意図的に避けていたのね。だって「あなたの前提が間違っています」と言ってしまうと、どちらの理論が正しいのかという真理をめぐる論争になってしまって、それは経済学者にとっては意味のある論争かもしれないけれど、わたしの狙いとは違うわけ。
    でも、仮に本当に問題なのがケインズが指摘するところの総需要不足であったとしたら、本来なら失業しなくてもいい人が失業しているのに、「失業は仕方がないので受け入れて、うまく共生しましょう」なんて言うのは的外れになってしまう。で、いまの世界経済においてより問題になりそうなのは、明らかにそっちの方の要因。大規模な財政・金融介入が必要とされているときに、失業は仕方がないから受け入れようなんて話をしていたら、どんどん不況が進んで大変なことになっちゃうかもしれない。
    そういうわけで、多少わたしの本来の趣旨から外れていても、安易に「仕方がない」と受け入れちゃいけない失業もあるっていう話は、きちんとやっておくべきだったと反省。書籍版では直します。って書籍出るのかよ!(ウソですごめんなさい) 真面目な話、これからもいろいろ勉強させてください>みなさま。

  3. optical_frog Says:

     こんにちは.
     S1 と S2 を拝読して,「狙い」については理解できますし,とくに左派およびリベラルの「経済学フォビアをなんとかしよう」という部分には賛成です.ただ,ご批判の対象とされる「ネオリベ論者」が具体的にでてこないのが気にかかっています.該当する論者の主張を引用しながら論じていただけると有り難いです.

  4. bemwero Says:

    こちらの説明には少し納得しにくい部分がありました。
    「コストの大半をごく一部の人たちだけが、「失業する」という形で支払わされている」という指摘はそのとおりと思うのですが、実際には利益の方も社会全体によってというよりも、その大半がごく一部の人たちによって独占されているという構図があるのではないかと思うのです。地球規模で見たときの話ですが。世界の金持ち上位400人ほどの総資産が、世界の下層20億人の総収入の合計と同じだと聞いたことがあります。

  5. ゲンゲン Says:

    >仮に本当に問題なのがケインズが指摘するところの総需要不足であったとしたら、本来なら失業しなくてもいい人が失業しているのに、「失業は仕方がないので受け入れて、うまく共生しましょう」なんて言うのは的外れになってしまう。
    ケインジアンなら、もともとは失業率2パーセント以下が完全雇用の状態といっていたわけです。今の日本なら失業率は3.9%くらいか。アメリカは6.7%か?
    macskaさんはケインジアンにも右派と左派があったようにネオリベにもそれがあるという論調ですが、失業が常態化している社会を是認するネオリベ左派としては、失業率は何%が適当な社会なんですか?

  6. macska Says:

    そういう具体的な数字は本職の経済学者の方にお任せしますです。

  7. anomalocaris Says:

    私たち一人一人がより良い労働環境を求めて様々な労働規制があるなんて当たり前なんですよ、そうじゃないと思ってる人がいるの?。
    問題はその規制がその目的とは異なる効果を生んでるということ。
    企業は労働者を短期では解雇できないから、労働者をより厳選して選ぶことになる、そのことは労働者にとっては参入障壁が高くなることを意味している。
    具体的には新卒や即戦力への需要の集中につながり、一度そこから外れてしまった人はチャンスを与えてもらうのも難しくなるわけで、またこの作用には正のフィードバックがかかります。
    また雇用保険の長期化にはフリーライダーの問題が常に付きまとうもので、まともに就職する気のない人間がより利益を得ることになり、そのことが納税者の失業保険制度全般への不満につながります。
    以上の作用が失業者への社会からの不信や侮蔑を強化するものであり、実際労働市場が流動的なアメリカよりも日本のほうが失業という事実によって精神が傷つく人が多いといわれてます。

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