北米社会哲学学会報告5/売買春、フェミニズム哲学、承認をめぐる闘争

9/30/2008 - 8:33 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

だんだんネタの鮮度がさがってきて最初ほど面白くないという噂もある北米社会哲学学会報告、今回はともにキャサリン・マッキノンの思想とフェミニズム法哲学に関連した発表二件について。「Toward a Feminist Theory of the State」などの著作を読んでマッキノンの主張を理解している人は別として、彼女の主張を「反ポルノ、反売買春」の文脈だけで見聞きして、そのおかしな主張(ごめん)がどういう理屈で成り立っているのか不思議に思っている人には、簡単なマッキノン入門編になるかも。あと、フェミニズム法哲学の弱点を乗り越えるものとしてアクセル・ホネットの承認理論を元にした「承認の法哲学」なるものも登場する。

第一の発表は、ポートランド大学哲学学部の Jeffrey Gauthier による、売買春の法的・倫理的な扱いに関して哲学者が取り得る立場の分析。とくに Gauthier は、対照的にとらえられがちなマッキノンの反売買春論と、マーサ・ヌスバウムの(ニューヨーク州のエリオット・スピッツァー知事が買春行為を暴かれて辞任した件に対するコメンタリで表明した)「反・反売買春」論を比較する。

Gauthier の中心的な主張は、売買春に対する主張は単純にリベラル対保守、あるいはラディカル対リベラルといった一元的な対立軸におさめられない、というものだ。かれは代わりに、「性規範的/性無規範的」「市場重視/公正重視」の二つの軸によって売買春についてのさまざまな論者の意見を分類する。表にすると、以下のようになる。

  性規範的 性無規範的
市場重視
公正重視

ここでいう「性規範的/性無規範的」とは、倫理的にあるいは社会のあり方として、「正しい性のあり方」を想定し、また推進するかどうかを指す。また「市場重視/公正重視」では、自由市場における自己決定を正統性の根拠として受け入れるか、それとも自己決定があったというだけではその取り引きが正当であるとはみなせないと考えるかという意味。

順にみていくと、まずAは保守主義を掲げる論者の多くが当てはまる立場だ。かれらは、売買春をはじめとする「乱れた性秩序」を道徳的・倫理的な観点から批判し、「正しい性のあり方」を推進する。もちろんかれらは、女性やその他の売春者に対する性的搾取や暴力といった理由によっても売買春に反対するが、かれらの批判においてそれらは副次的な理由でしかなく、仮に搾取や暴力が全く介在しない売買春が存在していたとしても反対するだろう。また、かれらは売買春における売春者の性的搾取には敏感だが、それを労働者に対する搾取として見ることはないので、その他の労働における搾取とは関連づけない。ある人が売春から足を洗い別の合法的な仕事を見つけたならば、たとえそれが法定最低賃金で福利なしといった条件であっても肯定的に評価する。

Bは一般的にリバタリアンと呼ばれる立場。自由市場における自己決定に基づく取り引きは、それがどんなものであろうと取り引き当事者双方に有益である−−もし有益でないのであれば、取り引きは行なわれない−−という前提に立ち、従って売買春も他の経済行為と同じく認められるべきだと考える。かれらが心配するのは、犯罪組織の介在などで自由な自己決定が行なわれないことで、人身売買やトラフィッキングのような形を取る売買春には反対するが、それ以外において政府が人々の自発的な取り引きを規制することも批判する。

Cにはマッキノンを含むラディカルフェミニストが含まれる。かれらは、Aとは違い性道徳的な立場から売買春を否定するのではないが、売買春の存在が−−女性の性と身体が、男性に買われる、という、売買春の大半を占めるあり方が−−ただ単に社会における男女間の非対称な権力関係を反映しているのではなく、「男性とは、女性とは、こういうものだ」という根本的な次元でそうした権力関係を作り出している要素だと考える。したがって、かれらにとって売買春の根絶は男女平等に至るための重要なステップだ。こうした考え方は、保守派による性道徳の押し付けとは違った意味で、特定の性のあり方を推奨し、それに反する売買春を否定する。

これらのアプローチに対し、Gauthier が支持するのはDの立場だ。この立場は、ヌスバウムによる次の言葉に代表される。(超意訳。文句があれば原文をどうぞ。)

わたしたちは性労働の何をそれほど問題に感じるのか? 法的な観点から言えば、彼女たちがたくさんの客とセックスをするということそれ自体は、仮にわたしたちが彼女たちの価値観に同意していないとしても、何も問題に感じるべき点はない。にもかかわらず、その事実こそがいまだにピューリタン的なアメリカには許容し難いのだ。 […] わたしたちが問題視すべきなのは、たとえば多くの女性たちが性労働をする時の労働条件が不健康なことだ。彼女たちはピンプに搾取され、どの客を取るか選択肢をほとんど持たない。警察官の嫌がらせを受け、かれらと性的な行為をするよう強要される。性労働のこうした特徴の多く(不健康な環境、選択権の少なさ)は、工場労働や清掃など底辺の女性が労働する他の職場と共通している。その他の特徴(警察による性行為強要)は、売買春が非合法であることの自然な結果だ。

全般的に、わたしたちは貧困と教育の失敗を心配すべきだ。わたしたちは、女性たちにとってまっとうな職の選択肢があまりに少なく、ようやく得られた職において彼女らの健康や安全を守る規制があまりに少ないことを心配すべきだ。そしてわたしたちは、男性が女性に対して意図せざる性行為を強要することを心配すべきだ。これらのことがわたしたちが心配すべき問題であり、まっとうな国が取り上げるべきことだ。しかし、限られた選択肢しか持たない女性からそのうちの一つを奪うことで彼女を罰すべきだという考えはグロテスクであり、複数の男性とセックスをする女性は悪に染まっており処罰されなければならないというアメリカにありがちな考え方の表れに間違いない。

ヌスバウムの立場は、売買春そのものが道徳的にあるいは女性解放の目的に鑑みて良いのか悪いのかという価値判断を下さない点で、Bの主張と似ている。しかしBが自己決定に基づく合意の存在(=両者が利益を得ていること)を理由にそうした合意をまったく不問にしているのに対し、ヌスバウムは自己決定の前提となる社会環境を問題としている。売買春を法的に厳しく取り締まることは、ただでさえ少ない選択肢を減らすことになるとして反対するが、売春という選択肢にさまざまな問題が含まれていることも無視しない。以前からこのブログを読んでくださっている読者(ありがとうございます)はとっくに了解しているように、わたし自身もヌスバウムと同じくこのDの立場を取るが、それでもなぜか Gauthier の発表には納得のいかない気がした。

どの部分に反発を感じているのか少し考えて分かったのだが、それはかれがCではなくDを主張する理由に納得がいかないからだ。かれはラディカルフェミニズムによる売買春批判(単なる女性差別の反映ではなく、それを作り出し維持する装置の一つである)が「議論の分かれる」ものであるとして、態度表明せずに素通りしている。しかし、もしマッキノンが正しいのであれば「性労働それ自体には問題はない」とするヌスバウムの主張は否定され、逆にヌスバウムが正しいのであればマッキノンの主張が否定されるのだから、一見判断を避けているようでいながら、Gauthier は無言のうちにマッキノンの分析を退けている。それなのに、マッキノンの主張を退ける理由が「議論が分かれるから」というのでは、理由になっていない。

わたしは、売買春が女性差別(というよりさらに広く、既存のジェンダー秩序)を形作る要素の一つであるという指摘を否定できない。もちろんヌスバウムの言うように「性的サービスの売買」そのものが悪いわけではないので、差別を補強しないような形の売買春だって理論的にはあり得ると思うけれど、現実の社会において売買春の大部分がそのような形になることは当面考えられない。しかし、だからといって性差別や抑圧的なジェンダー秩序を壊すために売買春を撲滅しようというのは短絡的すぎるし、政治的な目的のために現に性産業ではたらく人たちを犠牲にして良いとは思わない。

続いて、ミシガン州立大学の大学院生、Aaron Arndt による、マッキノン的なフェミニズム法哲学を批判的に発展させた「承認の法哲学」についての発表があった。マッキノンによれば、欧米におけるリベラルな法の伝統は根本的に家父長制に基づき、女性の体験や声を除外し、売買春やポルノグラフィや結婚制度を通した「私的領域」における男性による女性の抑圧を正当化するものだった。「無知のヴェール」によって覆われた「原初状態」を想定することで性差別や民族差別を脱しようとしたロールズの議論でさえ、実質的には男性中心主義的な視点をまるで中立で客観的な真理であるかのように偽装してしまった。ロールズによるリベラリズムは、手続き的な平等を重視するあまり、家父長制において不自由な状況におかれている女性が、実際に自由な自己決定を行なうのに必要な条件を十分に考えなかった、とマッキノンは指摘する。

マッキノンの提唱するフェミニズム法哲学は、性別間に手続き的な平等ではなく実質的な平等を実現するために、現実に女性が抑圧されていることを直視し、法が積極的に性差別を解消すべく介入することを主張する。しかし Arndt は、実社会における女性の経験に即してジェンダーによる抑圧のみを対象にしている点でフェミニズム法哲学は不十分であるとし、より普遍的な解放の論理としての「承認の法哲学」を主張する。「承認の法哲学」は、あらゆる抑圧は個人や集団に対する「承認」の欠如によって起きるという前提に基づき、承認の欠如から人々を守ることを根本に置く法哲学である、と Arndt は言う。

この「承認」という用語で Arndt が参照するのは、現代フェミニズム哲学の代表人物のナンシー・フレイザーとの対論を「承認か再分配か? (Redistribution or Recognition?)」として出版したドイツの哲学者アクセル・ホネットの一連の主張だ。フレイザーは、ロールズらリベラルな論者が階級的闘争と経済的な再分配ばかりに関心を持ち、社会的・文化的な差異の「承認」の重要性を軽視していると批判してきたが、ホネットは逆に「承認」をあらゆる社会的公正や政治闘争の根底に位置づけ、経済的な再分配もまた「承認をめぐる闘争」の一側面にすぎないと主張する。

ホネットはヘーゲル哲学の人間理解を足がかりに、「自己」が社会的に構成されることを重視し、個人の自己決定を尊重するだけのリベラルな国家によっては間主体的に形成される「自己」のあり方が十分に守られない、と主張する。ホネットにとって「承認」は社会制度や秩序によって支えられており、不公正な制度において承認の分配が不均衡になることが「承認をめぐる闘争」の原因だ。「承認の法哲学」は、したがって社会的・文化的な承認の恒常的な不均衡を無くすために、たとえば性差別や民族差別といった社会的な抑圧に積極的に介入することを推奨する、と Ardnt は論じる。

マッキノンらによる「フェミニズム法哲学」は何を置いても女性が現実に経験している差別的待遇(とかれらがみなすもの)に即して構想されるため、具体的にどのような行動が必要とされるのか分かりやすい。売買春やポルノグラフィの話は置いておくとしても、たとえばセクシュアル・ハラスメントを「女性が平等に教育を受ける権利や労働する権利に対する侵害」として平等権の問題として提起したり、家庭を「私的領域」とみなしてきた風潮を批判して夫婦間のレイプやドメスティック・バイオレンスを公が介入すべき「社会問題」として訴えるなど、フェミニズム法哲学がリベラルな国家に与えた影響は大きい。

(ところで、9/24 付けの The New Republic に掲載されているジョー・バイデン上院議員/副大統領候補と「女性に対する暴力法 VAWA = Violence Against Women Act」に関する記事は必読。バイデン議員が「女性に対する暴力は、被害を受けた当人に深い傷を残すだけでなく、ある時間以降特定の場所に出入りしないとか、犯罪者に狙われかねない服装を避けなければならないなど、その他の多数の女性の行動の自由も奪う、したがってこれは平等権の問題である」という信念を VAWA に盛り込み、その条項を必死で守り抜こうとしたことが書かれている。バイデンの平等権理解は、明らかにフェミニズム法哲学の影響を受けている。)

これに対し、Ardnt の「承認の法哲学」は、理念が先行しているイメージがあり、具体的にどのような介入が行なわれるのか想像しにくい。その点について、Ardnt は「特定の集団を優遇しているように見えたとしても、抑圧には法で対抗しなくてはならない」と言うばかりで、具体的な例が出て来なかった。学会の発表というのは発言時間が限られるので(この学会は一つのセッションあたり発表者が二人と、なかなか良心的だが)、もしかしたら論文では具体例を挙げて論じているのかもしれないけど、発表を聞いた限りではちょっと物足りない感じがした。

さて、ここまでで35枚のメモのうち28枚まで終了。次回、感動の最終回になりそうです。その次は、アラスカDVネットワークの報告にするか、それともジジェク講演の報告(『ダークナイト』はアホ、『カンフーパンダ』はイデオロギーそのもの、とかそんなの)にするか…

One Response - “北米社会哲学学会報告5/売買春、フェミニズム哲学、承認をめぐる闘争”

  1. りょう Says:

    私もDの立場です。ポルノ反対の立場に立っていたこともありましたが。

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