北米社会哲学学会報告4/「死ぬ義務」と「精子バンク」をめぐる医療倫理

9/28/2008 - 12:25 am | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

どんどん古い話になってしまってきているけど(学会あったの、もう2ヶ月以上前だよ)、あと少しなので北米社会哲学学会報告の続き。今回は生命倫理系の発表2つについて。具体的には、カリフォルニア教育大学ポモナ校の哲学部助教授 Michael Cholbi による「死ぬ義務」に関する考察と、アリゾナ州立大学哲学部の Shari Collins-Chobanian による「精子バンクの倫理」についての発表。

まずは「死ぬ義務」から。この「死ぬ義務」というのは重度の障害や病気によって快復の見込みがないまま周囲に負担をかけている人の権利と義務を巡って古くから議論されている問題だけれど、最近になって(といっても十年前だが)この議論を再燃させたのはテネシー大学の哲学者 John Hardwig が Hastings Center Report(生命倫理の専門誌)に寄稿した「死ぬ義務は存在するか?」という論文(Hardwig 本人のサイトに全文公開されている)。この論文で Hardwig は、ロバート・スコット率いる南極探検隊の一員だったオーツ大尉の決断をたとえに出しつつ、条件によっては「死ぬ義務」が生じることを主張している。

スコット隊は二十世紀のはじめにアムンセン隊と南極点到達を競った探検家で、アムンセン隊に遅れて南極点に到達したあと帰還中に全滅した。その途中、隊員の一人だったオーツ大尉は凍傷にかかり、仲間についていくことが困難な状況に陥った。オーツを助けようと一行全体がスピードを落とすと、全員が犠牲になってしまう。そこでオーツは早朝激しいブリザードの中自らテントを離れ、そのまま行方不明になることで、他の隊員の命を助けようとした。

Hardwig はオーツのこうした決断を英雄的で正しいものだったと認め、ある一定の条件の元ではオーツのように自ら死を選ぶ義務−−安楽死する権利などではなく、積極的に死を選ばなければいけない義務ということ−−があるとする。そしてそれは、南極探検隊のような極端な状況においてだけではなく、生き続けることで周囲に過度の負担をかけることを避けるために「死ぬ義務」が生じる状況は、医療において広く存在するのではないか、と主張した。

Hardwig によれば、ある人が自ら死を選ばなくてはいけない倫理的な義務は、周囲の人たちが自衛のためにその人を殺す権利と裏表の関係にある。すなわち、オーツの同行者たちは足手まといになるオーツを殺して先を急ぐ権利があり、その裏返しとしてオーツには死を選ぶ義務がある、という権利/義務の関係がそこにはあるという(自衛原則)。また、そうした「殺す権利」が認められるべき(すなわち、「死ぬ義務」が生じるための)要件は、必要性・緊急性・そしてその人の生存によってもたらされる負担の深刻さだ。

Cholbi はここで、Hardwig が挙げるような末期医療における決断といったシナリオが、かれ自身が掲げる「自衛原則」を満たしていないではないか、と指摘する。 Cholbi はオーツのような極限状況において「殺す権利/死ぬ義務」が成立することは認めるが、それに相当するほどの必要性や緊急性、そして負担といった要件が、社会の至るところに現出しているとは受け入れない。

Hardwig の言うところの「死ぬ義務」は、重度の障害や病気によって快復の見込みないまま医療技術によって「生かされている」状態にある人が、医療費や精神的な負担を過剰に周囲にかけている時に成立するという。でも現実に、そういう状態に置かれている人を経済的・精神的な負担に負われて苦しんでいる家族や関係者が勝手に殺すことは「自衛原則」において認められないし、従ってその裏側としての「死ぬ義務」も成立しないはずだ。Hardwig は、もしかすると意図的に「生存により、他者の生存を脅かす」ような負担のかけかたと、経済的・精神的な負担を混同しているように見える。前者において自衛原則が(法的にでなく倫理的に)適用されたとしても、後者でそれが成立しているようには思えない。

もちろん、医療技術による延命がもたらす負担は周囲の人たちが引き受ける医療費や精神的な負担だけではなくて、医療費の一部は公費によって負担されていることがほとんどだし、医師や看護士などの人材や医療器具や病室などの設備もその人が占有しているあいだは他の人が利用できない。それらを含めて大きな社会的負担が生じているのは事実だろうし、どこまでも最大限の医療を受ける権利が全ての人にあるわけではないから(そういった権利は実現不可能)どんなに立派な福祉国家でもどこかで「これ以上のリソースは分け与えられない」という事態になるのは避けられない。でもそこに「死ぬ義務」があるかというと、かなり疑問だ。せいぜい「生きるために無制限に他者に負担を押しつけられない」というだけのこと。

考えてみれば、オーツの場合もそれとあまり変わらないような気がする。仲間たちは、自分たちの命を危険にさらしてまで足手まといになるオーツを連れて行く義務はないが、かといってその場でオーツをいきなり射殺して良いとも思えない。つまり、オーツのような極限状況においてさえ、「自衛原則」は成り立っていないのではないか。もちろん、オーツにとっては仲間に置き去りにされその場で孤独に凍死するよりは、銃撃によって一思いに殺された方が楽かもしれないし、双方の交渉と合意によってそうすることはこうした状況においては倫理的に容認できるだろう。でもそれはやはり、オーツを殺す権利があるとか、オーツは自ら死を選ぶ義務があるというのとは、ちょっと違うと思う。

結局、他人を意図的に傷つけようとしている人を「自衛のために」殺さなくてはいけない状況は想定できても、傷つける意図はないのに生存自体が他者の生存を脅かすために「殺されても仕方がない」人というのは、思考実験としては可能でも、現実の医療問題に適用できる考え方とは思えない。 Hardwig は医療という希少なサービスの効率的かつ公正な分配を巡る議論に寄与するつもりでこの論文を書いたのだろうが、かえって混乱させてしまっただけのように思う。

続いて、精子バンクと精子バンク経由で生まれた子どもたちについて調査をしている Collins-Chobanian の発表から。彼女は精子バンクをめぐる倫理的な問題として、1) 精子バンクによる分散型優生主義、2) 精子提供者の責任を問わない精子バンク制度、3) 精子バンク経由で生まれた子どもたちの権利、といった論点を挙げる。このうち最初の点については既に多くの議論が交わされていて、さまざまな問題が指摘されているけれども、彼女の発表の面白いのはその先だ。

まず彼女は、精子バンク制度において「ドナー」という言葉をやめようという。精子提供者は十分な報酬を受け取っており、厳密には「ドナー」(donate=寄附する)ではない、と言う。これは細かい話だが、「ドナー」ではなく「金銭の見返りに精子を提供する人」と見なすことで、彼女が続いて挙げる「精子提供者はどうして生まれてくる子どもに対する責任を何ら負わないのか?」という疑問を受け入れやすくなる。

たとえば、養育費というものについて考えると、それを受け取るのは育て親の権利ではなく、子ども本人の権利だ。育て親はそれを代理で受け取り、子どものために使っているにすぎない。例えば離婚する夫婦がいたとして、主婦をやっていた妻が子どもを引き取ることになったとしたら、たとえ彼女の実家がお金持ちで養育費なんて欲しくないと思っていたとしても、それを受け取る権利そのものを放棄することはできない。なぜなら養育費を受け取るのは彼女ではなく子どもの権利であり、親が勝手に子どもの権利を放棄することはできないからだ。

だとすると、どうして精子バンクに精子を提供する人たちは養育費を払わなくても良いのか? もし精子バンクを経由する代わりに知人の男性に直接精子を提供してもらったとしたら(たまに子どもを生みたいレズビアンがやってる)、たとえ女性に懇願されてボランティアのつもりでやっていたとしても、いざその女性が法に訴えれば養育費の支払いを命じられる。何度も言うように、それは養育費の受け取りは子どもの権利だからだ。しかし精子バンクを経由させれば、そのような心配は一切ない。それは、精子バンクを成立させるために、わざわざ政府が特例を認めているからだ。政府はどうしてそこまでして精子バンクを優遇しなければならないのか?

Collins-Chobanian のこうした問題提起は面白いのだけれど、よく考えてみれば「精子提供」の法的扱いは養子を出すことと同じだ。自分の子どもを養子に出した親も、その子のための養育費を払う義務から解放される。その意味では、特に精子バンクだけが優遇されているとは言い難い。精子バンクそのものの是非については賛否両論があって良いが、「精子提供者に養育費を払わせろ」と訴えることが何か意味を持つとは思えない。

しかしここで、Collins-Chobanian は第三の論点−−精子バンク経由で生まれた子どもたちの権利−−をたたみかける。精子バンク制度が養子制度とよく似ているとするならば、精子バンク経由で生まれた子どもたちには養子に出された子どもたちと同等の権利が認められるべきだろう。けれど現実は、養子に出された子どもたちに近年広く認められつつある権利、たとえば成人した時点で自分の生物学的な親が誰なのか、あるいは自分の生物学的な親族にどのような病歴があるのかを知る権利などが、精子バンク経由で生まれた子どもに対してはまだ全く保証されていない。

Collins-Chobanian によれば、精子バンク経由で生まれた子どもの多くはアイデンティティ形成において困難を抱え、自分の父親が誰だったのか知りたいと願っている。また、なかには、精子バンクを経由して生まれたことを屈辱に感じており、精子バンクは閉鎖されるべきだと考えている人もいる。たまたま勉強ができたり音楽やスポーツに才能があっても、母親がそういう精子を選んだだけかもしれないと悩み、自分に自信が持てない人もいる。同じ父親を持つ兄弟姉妹が何十人いるか分からないという事実を嫌悪する人もいる。あるいは、生物学的な繋がりがないことを十年以上も隠し通してきた「父親」を信頼できなくなった人がいる。またそうした問題を抜きにしても、ほとんどの人が自分の親族の病歴からどのような病気に気をつければ良いのか知ることができるのに対し、精子バンク経由で生まれた人は自分の家系の半分を知ることができないために、他の人より健康面で不利になる。

精子バンク経由で生まれた人たちは、最近になってようやくネットで自助グループを作り、お互い交流するようになってきた。こうした動きは、二十年先行した養子運動や十年先行したインターセックスの運動にもよく似た経路を通っているように見える。精子バンクをめぐる医療倫理の論争は、単に優生主義の脅威を理論的に論じるだけでなく、今後かれらの視点や関心事をどんどん取り入れていかなければいけないだろう。

今回はここまで。次回はもう一度キャサリン・マッキノン周辺に戻り、フェミニズムと法権力の話をするかも。もし続いたらね。

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