北米社会哲学学会報告3/フェミニズムによる中立国家リベラリズム批判

9/5/2008 - 12:35 am | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

例によって病気になって数日寝込んでいたのと、ファイトバックの会の泥沼に足を踏み入れてしまったのと、地元ポートランドで怪しげな事態が進行中なのでそっちに関わっていたのと(これはいずれ書こう)、まぁいろいろあってしばらく報告が中断されてしまったのだけれど、いい加減自分の記憶が怪しくなりつつあるので北米社会哲学学会レポートを再開する。今回は、フェミニズム哲学によるリベラリズム批判の発表について。

まず取り上げるのは、ネヴァダ大学リノ校哲学部助教授の Hye-ryoung Kang によるジョン・ロールズ批判。よく知られているように、ロールズは主著たる『正義論』(っていま絶版なの?)において、「無知のヴェール」によって自分の属する民族や性別といった属性についての知識を持たない「原初状態」において、人々が自らの意志で合理的に同意するであろうとする正義の原理を打ち出した。その「原理」の具体的な内容については、面倒なのでウィキペディアからそのまま引用

第一原理
 各人は基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。

第二原理
 社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。
 1. それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること。(格差原理)
 2. 公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。(機会均等原理)

ウィキペディアではこの「原理」に対する批判として「この正義の二原理は、『原初状態』や『無知のヴェール』といった概念を用いた思考実験から導出されているため現実から乖離したものになっている危険性がある」という論点を提示しているが、「現実から乖離したものになっている」理由は単にそれが「思考実験から導出されているため」だけではない。英国アカデミー会長でケンブリッジ大学の倫理学者 Onora O’Neil(という人には男爵の地位があるのだけれど、女性を男爵と呼ぶのは気持ち悪いし関係ないので省略)によれば、ロールズの正義論はその思考実験において完全に合理的で自立した「理想化された」個人を前提として成り立つため、その結果もとめられた原理は理想的でない現実の社会、現実の人間には当てはまらないもの−−少なくとも、誰がその「人間」に当てはまるかという水準で、必ずしも全てのヒトには当てはまらない−−になってしまっている。

理想化された「正義の原理」は、決して理想的な状況とは言い難い現実の世界、たとえば激しい南北の経済格差によって分断された現在の世界には当てはまらないのではないか−−この批判を受けて、ロールズは晩年に発表した『万民の法』において、より現実的な正義の実現のための「困難な状況における非理想的理論」を展開させた。しかしそこで示されるのも、「理想化された」民衆が「無知のヴェール」の元で打ち出すであろう「国際法の八原則」であり、非理想状況に対応するためのはずの理論が理想状況を前提とする矛盾に陥っている、と Kang は指摘する。

『万民の法』においてロールズは、経済的に貧窮しているため理想的な自由で民主的な社会を営むことができない人々を先進国の民衆が支援することを要請している。しかし、そうした貧窮状態がどうして生じているのか−−より的確には、どうしてそうした貧窮状態から脱することができないのか−−を考慮しないロールズは、貿易や国際金融制度のあり方を是正せよという途上国の訴えには耳を貸さない。いや、ロールズの理論は逆に、そういった国際的な取り決めを変革しようとする動きを「無法国家の蛮行」とみなし、軍事的な手段による鎮圧さえ正当化することになる−−ロールズによれば、自由で民主的な民衆は利己的な理由による戦争を望むことはないから、もし先進国が戦争をするならそれは必ず野蛮に対抗するための正当な戦争ということになる。

すなわち、ロールズの理論においては途上国の人々が求めているような国際経済体勢の変革は実質的に不可能であるばかりか、「野蛮に対抗するため」という口実のもとに行なわれる先進国の軍事行為に歯止めすらかけられない。自国が世界で最も大量破壊兵器を所有しているのに「イラクが大量破壊兵器を作っている恐れがあるから」として戦争をはじめ、グアンタナモ基地において拘束されている人々に拷問をくわえていると報じられた際「わが国は拷問を行なわない−−従って、グアンタナモ基地で行なわれた行為は拷問ではない」と言ってのけたブッシュ政権に歓迎されそうな理論だ。(日本だって、「憲法九条によって日本は武力行使を禁じられているから、自衛隊が行なう行為は武力行使ではない」という変なポストモダン論法があるわけだけど。)

Kang によれば、ロールズは国際法の原理を導くにあたって理想化された(現実にはありえない)「自由で民主的な民衆」を想定してしまったために、現実にあるような「そこそこ自由で、そこそこ民主的な」先進国の行為を不問にしてしまった。フェミニスト政治学者の Iris Marion Young は、非理想状況における正義の原理はロールズが立ち戻ってしまった理想状況からの思考実験によってではなく、現実に途上国の側や抑圧されている人々の側から起きている不正義の訴えを通し、それに応えるように形作られるべきだと論じている。 Kang もこれに同意したうえで、政治哲学や正義論を論じる哲学者自身のポジショナリティ−−多くの場合、豊かで自由な民主社会の恩恵を受けている立場にいる−−をも考慮に入れたうえで、そうした立場によって特定の現実や物の見方が遠ざけられている点にも留意すべきだ、と主張した。

続いてミシガン州立大学哲学部助教授の Lisa Schwartzman が、前回の報告でも取り上げた「中立原理」の問題についてフェミニズム哲学の立場から発表した。中立原理とはリベラリズムの基幹的な考え方で、競合するいくつもの価値観が存在する現代社会において、国家はどれか特定の価値観に肩入れするのではなく、人々がお互いの権利を侵害しない範囲において自分の思うような生き方や幸福のあり方を追求できるようにすべきだ、というものだ。(そういえば、無神論者で政教分離原則を専門としている法律家エディー・タバッシュを以前紹介したけど、かれのインタビューをポッドキャストで聞いていたら、「民主国家は特定の宗教の信者を優遇してはならない−−ただし、特定の宗教の信者を守るために作られた国家をのぞいては」と、露骨にイスラエルだけ例外規定する発言があってげんなりした。)

フェミニズムの立場からいち早くリベラルな中立国家を批判したのは、キャサリン・マッキノンだった。彼女は主著『Toward a Feminist Theory of the State』において、リベラリズムが想定する中立国家は幻想であり、「中立」という建て前のもと、実際には現実にある家父長制社会を温存させることに国家が協力しているではないか、と主張した。たとえば、「表現の自由」の名のもとにポルノグラフィを横行させることは、女性を男性支配の元に置いたままにすることと同義であり、真の社会正義を実現するためには、国家は中立の看板を下げ積極的に差別や抑圧の除去−−たとえばポルノグラフィの取り締まり−−に手を付けなければならない、というのがマッキノンの論理だ。

しかし、邦訳も多数出版されているマッキノンの代表作たるこの著作がいまだに邦訳されていないことにも象徴されるように、マッキノンや彼女に追従する(あるいは反論する)フェミニストたちの主張は「ポルノや売買春をどうするか?」といった特定の社会的論争における立場としてばかり注目を集め、中立国家論への異議申し立てとして正当に扱われることは少ない。ポルノや売買春についてどのような意見を持つにしても、中立国家が幻想に過ぎないことを指摘し、社会正義の実現のためには国家が積極的な介入を行なう必要があることを訴えたマッキノンの主張は正しく理解される必要がある。(そのうえで、わたしは「どうせ恣意的なのだから」と恣意性の不可避に居直って好き勝手するネオコンや、「どうせ歴史は物語なのだから」と自意識を国家の誇りで埋め合わせる「新しい歴史教科書をつくる会」的な歴史修正主義に飲み込まれないために、あえて中立性を手放さない必要性があると思うので、マッキノンの考えを危うく感じる。)

多文化主義的リベラリズムの論者であるウィル・キムリッカは、中立国家が現実には存在しないことを認め、少数者の権利を保証するためのアファーマティヴ・アクションの導入や、先住民族が自分たちの文化を守るために一定の自治権を得ることを肯定しつつも、マッキノンの言うような社会正義の実現のための積極的な介入は完全主義(国家が市民一人一人の幸福を実現させようとする−−そのため、どうしても特定の「幸福」の構想を前提としてしまう)に繋がるとして否定する。完全主義国家を認めてしまうと国家が恣意的に特定の価値を奨励するおそれが強いので、現実的な路線として基本的に中立国家が目指されるべきだ、という考えだ。

これに対し、Schwartzman は「中立国家と完全国家の両極端だけが選択肢なのだろうか」と疑問を挙げる。しかしキムリッカの議論こそがその両極端の狭間により適切なバランスを見出そうとするものであり、「両極端だけが選択肢なのか」という問いはよく分からない。ポルノグラフィや売買春に対するマッキノンの考えに賛同するかどうかとは別の水準でマッキノンの国家論を論じることができるように、キムリッカが特定の政治的課題−−例えば、社会の多数派と違う言語を使う子どもの教育をどうするか、など−−について主張している内容への賛否は別として(フェミニストとして、キムリッカによる社会的少数者への配慮は不十分であるという考えは自然)、少なくともかれが中立国家というフィクションと完全国家という全体主義の両極端から距離を取りつつ、社会正義の実現に向けて現実的な提案をしようとしていることは評価できるのではないか。

最後に Schwartzman は Richard Thayler & Cass Sunstein『Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness』や Dan Ariely『Predictably Irrational: The Hidden Forces That Shape Our Decisions』などを通して行動経済学の知見を紹介し、中立国家が(家父長制が根強く残るからなどという理由ではなく)原理的に不可能である可能性を指摘した。すなわち、どれだけ中立になるような制度設計をほどこしても、人間の心理や行動は経済的合理性で説明のつかない理由で左右されるため、実際には中立にはならないという考えだ。完全な中立が不可能というのはその通りだと思うのだけれど、Ariely の著書が「予測可能な非合理性」であるように、人間の非合理性は確率論的に予測可能な事象としてその影響を最小化するように設計に盛り込むことが−−おそらくそんなことはないだろうけど、仮にそれを国家が意図するとしたら−−可能なはずで、中立国家の不可能性を主張するのにあまり良い例ではないように思える。

やばい、あんまり時間が空いちゃったので、記憶ほとんど途切れちゃってるよ。メモ見ても、自分が何を思って書いたのか分からないことばかりだわ。というわけで、中途半端だけど今回はこれで終わり。次回もしあれば、がらりと話を変えて生命倫理に近い話を紹介します。

One Response - “北米社会哲学学会報告3/フェミニズムによる中立国家リベラリズム批判”

  1. cider Says:

    ブックマークコメントで納得しているかのようなものがあるので、ひと言。
    Kangのロールズ批判は意味不明。補助線となる概念を導入して、理想的な推論手続きを踏めば万人が論理的に同意できるであろうものとしてのロールズの正義の原理には「……理想化された(現実にはありえない)……(なにごとか)……を想定してしまったために、現実にあるような●●を捉え損ねてしまった」などという批判はできない。
    多くの人が「現実に」間違えた数学の問題の答えが多数決で変更されることはないように、「政治哲学」として導出された原理への批判はその論証を反証する形でしか行えない。左派右派問わず、「(きびしい)現実」というタームがマジックワードとなっている以上、このての「現実」をたてにした「理論」への批判は「政治的」に非常に危険な結果を招くと思われる。ロールズが大臣や官僚として発言しているなら別だけど、Kangは「政治哲学」と「行政」の区別がついていないんだと思う。哲学者じゃない。

    無知のヴェールをかぶったブッシュはアメリカが世界最強の軍事力、経済力を保持していることも、(アメリカ合衆国)大統領が国内・国際政治上どのようなポジションにあるのかもわからない(棚上げされる)わけで、それでも軍事侵攻を正義の選択として正当化し実行するか、という話でなければおかしい(ブッシュといえどおそらくしない)。少なくとも日本のほとんどのロールジアンはブッシュのイラク侵攻を不正義と断じていたはず。

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