熊田一雄「オルタナティヴな男性性のありか」はどの程度オルタナティヴか

3/20/2008 - 9:49 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

前エントリで「女性の男性性」以降のジュディス・ハルバースタムの研究を取り上げたが、その準備段階で「女性の男性性」について分かりやすく紹介しているブログかなにかないかなぁと探していて、愛知学院大学の宗教学者・男性学学者である熊田一雄さん(どうでもいいけどウィキペディアの自分の項目をプロフィールページ代わりに使うのはやめた方がいいのでは)の論文「現代日本の大衆文化における『女性の男性性』:オルタナティヴな男性性のありか」を偶然発見した。なんだか違和感ありまくりの変な論文なのだけれど、読むうちに「これはいくらなんでも酷いんじゃないか」と感じる部分が出てきたので、前回のおまけとしてコメントしておく。

熊田はまず、東京都知事の石原慎太郎が「忠臣蔵」ーー史実としてのそれではなく、演劇やテレビドラマとして語り継がれる物語としてのそれーーに見られる献身・自己犠牲の精神を賞賛し、ジェンダーフリー思想などに見られる「個々人の極端な肥大化」を批判する「バックラッシュ」的言説を引きつつ、そうした「滅私奉公」の価値観こそが近代日本における「覇権的男性性」だと指摘する。そして熊田は「個々人の極端な肥大化」への懸念には同調したうえで、それを「覇権的男性性」の復権によって埋め合わせようとする石原の主張をアナクロニズムとして退け、新しい「公共圏、共同性」の確立が課題であると述べている。

いきなり近代日本の覇権的男性性とは忠臣蔵である!みたいに決めつけちゃうのはどうかと思うのだけれど、そうした「覇権的男性性」に対して、それに抵抗する「女性の男性性」が日本ではどのようなものに見出されるのか、そしてそれは新しい公共性を支える「男性性」一般のモデルとなりうるのかどうか、というのがこの論文における熊田の主題だ。そこで「オルタナティヴな男性性」の候補として持ち出されるのが、熊田が好んで議論に参照する「美少女戦士セーラームーン」だ。

セーラームーンは、その後1990年代に日本では「国民的アニメ」としての地位を確立し、それだけでなく世界中に輸出されて現在では「世界的アニメ」となり、思春期までの低年齢の女の子の「お転婆」(tomboyism) に従来よりもはるかに強力で積極的なお墨付きを与え、世界の思春期までの低年齢層の少女たちのジェンダーに大きな変化をもたらす契機となった。セーラー戦士たちは、少女たちの「女性の男性性」を体現すると同時に、視聴者の少女たちが思春期以降、成人してからも、「女性の男性性」を抑圧せずに体現し続ける環境の地均しをしていると考えられる。
(略)
それでは、どのような条件の下では「女性の男性性」はオルタナティヴな「男性の男性性」のモデルになりうるのだろうか。私は、セーラームーンにそうした可能性の萌芽を感じるのである。
(略)
セーラームーン(第1シリーズ)の最終回「セーラー戦士死す」は、セーラー戦士全員が戦士する(ただし転生が暗示されている)という衝撃的な幕切れであったが、この最終回では、ウサギたちセーラー戦士全員が、家族の団らん・ボーイフレンドとの交流などを想起しながら死んでいく。誰一人として、「地球人類のために」を想起して死んでいく者はいない。ましてや、日本という近代的国民国家など念頭にすら置かれていない。

そりゃセーラームーンが「日本国よ永遠に!」とか「天皇陛下ばんざーい!!」と叫んで死んだら変だと思うのだけど、熊田はセーラー戦士たちの最期のシーンに現実の女性自衛官のインタビューにおける発言を併置する。

最後に、現代日本の女性自衛官にインタビューしたビジュアルアーチストの証言を、思想が運動に結びつき始めた徴候として取り上げておきたい。「少なくともこの時点(熊田注:『戦争は無い方がいいですが』『あってはならないことですが』という前提付きの時点)では、戦闘参加を言う人たちも、『防衛』以外のところでの戦闘というものは全く想像外だったようです。その『防衛』も『国を守る』というよりは『身近な人の命や生活を守るため』という言葉で語られていました。

でも、「身近な人の命や生活を守るため」という意識は特に新しいとは思わないし、戦士する間際に家族のことを考えるのは別にセーラー戦士だけじゃなくてどんな軍隊の兵士だってそうだろう。それに、「身近な人の命や生活を守るため」であっても自衛隊に入っている以上は国が必要だと判断するときに「国を守るために」ーーあるいは国益を守るという口実のもと、防衛以外の目的でもーー動員されることに違いはない。

熊田は上に引用したような意識を「滅私奉公」的価値観に対する「革命宣言」だとしておおいに評価しているのだけれど、「滅私奉公」ではなく「自分とその周囲の人たちのため」のつもりであっても結局同じように動員されるのであれば、オルタナティヴとして不十分のように思う。オルタナティヴという以上は、ただ単に同じ事象の解釈を変えるというのではなくて、そうした動員そのものに抵抗するものであって欲しいと思うのだけれど。

しかしそれより酷いのは、「滅私奉公」的価値観の崩壊に対する懸念も理解できる、として、極端に利己的な、「市民的公共性を欠いた、悪い意味での『私化』へと転じていく危険性」について論じた部分だ。熊田はそうした「悪い意味での『私化』」の象徴として、なんと「社会的ひきこもり」を挙げる。

現代は、おそらく過渡期であり、「戦後日本的・企業的な公から悪い意味での私へと全面撤退する」一部の若者(特に男性)の病理、例えば既に100万人に達した「社会的引きこもり」も、新しいジェンダー文化と公共空間を生み出すまでの産みの苦しみだと考えられる。しかしながら、私が「公/私」コードの撹乱・反全体主義という用語で表現したいことは、「反公」だけではなく「反私化」・反エゴイズムとなるジェンダー文化とライフスタイル、新たな共同性のことである。

ここは文意が非常に読み取り辛い。男性が多数を占めるとされる「社会的ひきこもり」の問題に戦後日本社会における覇権的男性性の失効を見て取るまでは良いと思うのだけれど、どうもここでは単純に「私への全面撤回」「悪い意味の私化」「エゴイズム」が「社会的ひきこもり」と直結されているようだ。すなわち、過去の男性は滅私奉公の「公」に企業を据えて必死に働いてきたけれども、最近では「公」を否定して「私」だけを追求した結果、多くの男性が引きこもったという解釈になる。

けれど井出草平著『ひきこもりの社会学』などの分析によれば、これはまったくの勘違いだ。滅私奉公の価値観が否定されたからひきこもるのではなく、奉じる「公」が不透明になったのに滅私奉公しなければならないという価値観に囚われているからこそ、身動きが取れなくなっている、とわたしは理解している。市民的公共心の欠如ではなく、その過剰こそがひきこもりに結びついているのだとすれば、エゴイズムの例として「ひきこもり」を挙げるのはおかしい。

ほかにも、岩明均「寄生獣」の解釈とか、そもそもハルバースタム「女性の男性性」の解釈とか、おかしなことはいろいろあるのだけれど、文句を言い出したらキリがないのでとりあえずこれだけにしておく。ハルバースタムに関してはもう一度、もうちょっと面白い話を書くので今回はこれで勘弁。

7 Responses - “熊田一雄「オルタナティヴな男性性のありか」はどの程度オルタナティヴか”

  1. 熊田一雄 Says:

    macskaさま、こんにちは。熊田本人です。

    拙著をご購入の上読んでいただき、ありがとうございました。

     拙著で断っておいたように、あの本は言論活性化のために「粗削りな問題提起の本」として出版したので、ご批判いただけるのは大いにありがたいことです。ただ、「批判のための批判」ではなく「生産的な批判」をしていただけるともっとありがたいです。なお、私はフェミニストや「男性学者」を自称したことは一度もありません。周囲の一部がそうカテゴライズしているだけです。

  2. macska Says:

    熊田さま、

    ご本人のコメントをいただけるとは、ありがとうございます。

    一応誤解がないようにしておきたいのですが、わたしが読んだのは論文情報ナビゲータからダウンロードできる愛知学院大学人間文化研究所紀要に掲載された論文だけです。もしかしたら同じ論文が単行本にも収録されているのかもしれませんが、それ以外の部分については読んでいません。

    さて、コメントの内容についてですが、熊田さんはわたしの書いたものが「批判のための批判」におちいっていて生産的ではない、と判断されたようです。わたしとしては、軽く感想を書いた程度のつもりでしたので、たとえば熊田説より優れた別の議論を打ち上げたりはしていないという意味でしたら、たしかにそれほど生産的ではなかったかもしれません。しかし、「批判のための批判」と判断されてしまうというのは納得がいきません。

    たとえばわたしは、熊田さんが「オルタナティヴの男性性」として提示するものは、結局旧来の男性性と同じように国家に動員されてしまうのだからオルタナティヴにはなっていないのではないかと指摘しています。わたしの指摘が正しいかどうかは異論があるかもしれませんが、もし「オルタナティヴな男性性」として提示されたものが旧来のものと同様に国家主義や集団主義に動員されてしまうのであれば、それは「オルタナティヴな男性性」にとって致命的な問題であるはずです。つまりこの指摘は熊田さんの議論の中心的主張に対する反論であって、「批判のための批判」と呼ばれるようなものではないと思います。

    また「社会的ひきこもり」の部分については、市民的公共心の欠如やエゴイズムが引き起こした事態として「ひきこもり」について語ることが、世間の俗情的偏見に与するものであり、事実とは違うと感じるので、批判しました。これについても、異論はあるかもしれませんが、もし熊田さんの議論が特定の社会集団に対する偏見を助長するようなものであるなら、それを批判することには意味があるはずで、「批判のための批判」として切り捨てて良いとは思いません。

    ようするに、熊田さんはあまりに簡単に「お前の批判は批判のための批判である」という判断を下しすぎではないでしょうか。「批判のための批判」はたしかに無益ですが、あまりに簡単に「批判のための批判」という言葉を使ってしまうことで、必要な議論をしないまま批判を素通りする口実にしてはならないと思います。もちろん熊田さんは、わざわざ「批判のための批判」と言って素通りするくらいなら、はじめから何のコメントも書かなくても良かったはずで、口実にしているつもりはないのでしょうが…

  3. 熊田一雄 Says:

    レスをいただき、ありがとうございます。

    1.議論の文脈という問題もありますので、できれば拙著をご笑覧いただければ幸いです。
    2,私は近代日本の覇権的男性性を「集団主義」と「意地の系譜」の2点において特徴づけているの ですが、macskaさまは後者の論点を看過なさっているように思います。
    3,「引きこもりの社会学」は未読ですが、「引きこもり」についての私の言及は確かに軽率でした。  反省します。

  4. macska Says:

    熊田さま、

    1.議論の文脈という問題もありますので、できれば拙著をご笑覧いただければ幸いです。

    できれば読みたいと思いますが、こちらからは入手が難しいので… 文脈の問題も分かるのですが、ある媒体において単体で発表された論文なのですから、単体で評価できないことはないはずだと思いますし。

    2,私は近代日本の覇権的男性性を「集団主義」と「意地の系譜」の2点において特徴づけているの ですが、macskaさまは後者の論点を看過なさっているように思います。

    なるほど、それはその通りです。「意地の系譜」というのは、正直わたしにはよく分からなかったので… 熊田さん自身、「意地」は人間に普遍的な心理であって諸外国にもあるとしたうえで、しかし日本人は「この心理に独特の美的情緒をほどこし、それを政治的・社会的に活用する方法をあみ出した」ことをもって日本独自の「男性性」の特徴とされているのですが、それが日本独自のものであるという点が納得いきません。

    さらに言えば、セーラームーンや「寄生獣」に「意地の系譜」がないというようにも思いません。従って、その点においても従来の覇権的男性性と比べて、熊田さんの言う「オルタナティヴな男性性」がどれだけ違うのか、はっきりしないのです。もしかするとこれは、わたしが「忠臣蔵」に見られるとされる「意地」の「美的情緒」をよく理解していないだけなのかもしれませんが。

    3,「引きこもりの社会学」は未読ですが、「引きこもり」についての私の言及は確かに軽率でした。  反省します。

    この点は了解しました。

    お返事ありがとうございました。

  5. 熊田一雄 Says:

    レスをいただき、ありがとうございました。

    >これは、わたしが「忠臣蔵」に見られるとされる「意地」の「美的情緒」をよく理解していないだけなのかもしれませんが。

     失礼ですが、私の説明不足(もともと、あの論文は学会の査読論文で、枚数制限がありました)もありますが、基本的にはそうなのではないかと思います。日本で男性中心の組織の中で仕事をしていないと、「忠臣蔵=プロジェクトX的男性性」の日本社会における拘束力の強さは、実感しにくいのだと思います。佐藤忠男の「忠臣蔵ー意地の系譜」(朝日選書、原著1976年)は、「意地」と「甘え」文化の関係を抉り出した日本文化論の隠れた名著です。

     Halberstamさんのお仕事は、私も高く評価しています。個人的にもよく存じ上げています(日本にもお招きしました)。今、Female Masculinityの翻訳が進んでいると思います。翻訳が出れば、日本のジェンダー研究は一気に活性化されると思います。

  6. ともみ Says:

    「忠臣蔵」に「甘え」に、、と、昔懐かしの「日本人論」と何が違うのやら、、という感じがするのですが。ルース・ベネディクトも『菊と刀』で忠臣蔵扱ってたしなあ。

  7. 熊田一雄 Says:

    ともみさん、はじめまして。熊田です。山口智美さんですか?

    「昔懐かし」の日本人男性文化の持続力を甘く見ない方がいいと思います。
    フェミニストぶりっこしているマスコミ精神科医の斎藤学氏や斎藤環氏も、依然として基本的には忠臣蔵幻想の人です(精神科医だからこそ、保守的なのでしょうが)。斎藤環氏は、石原慎太郎を絶賛している人です。Halberstamさんに近い問題意識をもった日本人研究者がいなかったか探してみたら、異端の民俗学者の赤松啓介さんが「非常民の民俗文化」(明石書店、1986年)「女頭目論」を展開していたのですが、継承されていないように思います。

    http://blogs.yahoo.co.jp/bxr074650401/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=9

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