重度障害児に対する「成長停止」をめぐるワシントン大学シンポジウム報告(後編)

5/23/2007 - 12:54 pm | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

お待たせしました、「重度障害児に対する『成長停止』をめぐるワシントン大学シンポジウム報告」の後編です。以下を読む前に、必ず前編を先にお読みください。また、別ブログ *minx* [macska dot org in exile] の方にもいくつか関連したコメントを載せています。さらに、この問題について詳しく取り上げている別の日本語リソースとして名川勝さんのサイト及びブログも参考になります。

さて、昼食のあと最初に行なわれたパネルの主題は、対立するさまざまな利害のバランスをどう取るかについて。先のパネルでわたしが Woodrum の「自分は両親の味方である」という発言について問い詰めたときには「後で当事者間の対立する利害についてのパネルもありますから」と言われたのだけれど、残念ながら3人のパネリストのうち2人ーー看護士であり発達障害時の親としてキング郡(シアトル近郊部)Arc にも関わる Joanne O’Neill と、シアトル小児病院の呼吸器専門医 Ted Carterーーの発言にはまったくそれらしい内容はなかった。かれらはいずれも「両親と医師が、どのようにして子どものために最善の医療を選択するか」だけを話題としており、障害児本人の利害がかれらの利害と対立する可能性は全く考慮されていないように思えた。 Carter がプレゼンテーションに使った PowerPoint スライドが「利害の調整ーー親の代理決定、医者、コミュニティ」と名付けられていたことに象徴的だが、患者は、障害児は、どこに行ってしまったのか。 Carter は発言中、医療行為の目的として「家族にとってのクオリティ・オブ・ライフ(QOL)」という言葉を再三使っていて、わたしも家族全体のQOLを考えましょうという立場に反対するわけではないのだが、あまりに患者本人にとってのQOLが軽視されているように思った。

とはいえ、もう一人の発言者であり、医療歴史学者・医療倫理学者の Alice Dreger(『私たちの仲間ーー結合双生児と多様な身体の未来』著者)の発言は、2人の発言の欠点を補うのに十分な素晴らしいものだった。こう評価するのは、別に Dreger がインターセックスの当事者支援活動に長年関わっていて、わたしの団体にも寄附してくれたことがあるからでは決してない(けど、一応金銭が絡むのでフルディスクロージャーしておく)。彼女はまず、自身が過去に「身体を変えるより、社会を変えよう」をスローガンとして、インターセックス医療や結合双生児の分離手術のように社会的理由によって子どもの身体を改造する種類の医療を批判してきたことを紹介した。その上で彼女は、しかし自分自身が親となって子どもを育てたことで、より深くこうした問題を考えるようになったと述べた。

Dreger の考えでは、インターセックスや結合双生児の問題に比べてアシュリーの医療について倫理的に判断するのが困難な理由の一つは、彼女や彼女と同じような状況にいる人たちが大人になって、子どもの頃自分が受けた医療についての意見を述べる機会が永遠に来ないことだ。インターセックスや口唇口蓋裂症の外科手術についてであれば、子どもの頃手術を受けた経験のある大人にその感想を聞くことで、ある程度その医療行為が正しかったかどうか判断することができる。すなわち大人になった当事者の意見を聞くことで、インターセックスの手術についてはかなり問題がありそうだが、口唇口蓋裂症の手術の大半はOKみたいだ、といった判断が可能だ。しかしアシュリーの件については、彼女自身の意見によって医療の間違いが修正される可能性が遮断されている。

Dreger の中心的な主張は、彼女が「アシュリーと『利己心のない親』という危険な神話」というエッセイ(これ、あとで翻訳しようかなぁ)で述べたのと同じく、介護者のニーズは正当な課題としてきちんと論じるべきだということだ。彼女は、アシュリーの両親やアシュリーと似た状態の子どもを持つ親たちのブログ等での発言に、「不正直な」ーーここではそれを非難する意味ではないーー言説のパターンを見出す。それは例えば、アシュリーは「恵みであって、重荷ではない」という両親の発言であり、同様に重い障害のある男の子の親の「この子の面倒をみるのは大変だけれど、重荷だと思ったことは一度もない」というものだ。しかし、子育てをしている親が「一度も」それを重荷だと感じないというのは、現実的に言ってありえないことではないのか、と Dreger は問いかける。

Dreger は親としての経験から、自分自身のストレスを理由に子どもを別の部屋で長時間放置するなど決して子どもにとって最善とは言えないことをしたことがあるし、夜になったらスイッチを切ることのできる装置を子どもの頭に取り付けることができたらどんなに良いかと空想したことすらあるーーもちろんそれは技術的にも医療倫理的にも問題だろうがーーと告白した。もちろん、親のストレスが子どもに悪影響を与えることは事実だから、ストレスを低減させようとしたのは「子どものため」と言い張ることだって不可能ではない。しかしだからといって、全ては「子どものため」であると言い募り、「自分のため」の要因が大きな部分を占めていたことを否定するのは、正直ではない。問題なのは親が利己的な選択をすることではなく、親を追いつめる社会のあり方であるはずなのに、親が「自分のため」という動機を否定すればそうした社会の状況は永遠に温存される。

アシュリーの両親は、他にもこう書いている:「アシュリー療法についてよくある根本的な誤解は、これが親の利便のために実施されたというものだ。そうではなく、本当の目的はアシュリーのQOLを向上させることである。」 もちろんかれらはアシュリーのQOLを向上させることに重大な関心を抱いているのは確かだろうが、介護者である親の負担を軽減する目的は全く無かったとまで言い切るのはあまりに非現実的だ。こうした極端な「利己心のなさ」は、自分の子どもに対する「アシュリー療法」を求めている親の発言に繰り返し見られるパターンであり、それは社会が親たちーー特に母親ーーに要求する、完全に利己心のない、献身的な(母)親という非現実的な理想像あるいは神話の反映であると Dreger は指摘する。特に重度障害児を生んだ母親は、「お前は妊娠中にアルコールや煙草や麻薬を使用したのではないか、胎児の健康を損なったのではないか、全てはお前の責任だ」という世間の厳しい視線に晒されることで、なおさら「利己心のなさ」をアピールしなければいけないという強迫状態に囚われているのではないか。 Dreger は、介護者/親にも妥当なニーズがあることをきちんと直視して、「子どものため」という口実の裏にあるかれら自身の利己的な利害をきちんと表に出した方が良いのではないかと提案する。

Dreger が言わんとするのは、親の利己的な都合によって「アシュリー療法」を正当化して良いという意味ではもちろんない。そうではなく、親の利害をタブーから解放して堂々と主張できるようにすることにより、子どもと親の絡まった利害対立を解きほぐし、両者の対立をきちんと倫理的なジレンマとして議論できるようにすることが目的だ。また、親の利害を子どもの利害から切り離すことは、子どもの身体を改造することではなく、社会政策やコミュニティによる支援によって親のニーズが満たされる可能性を開くことにもなる。危険なのは、親の利己心をタブーとすることにより、全てが「子どものための最善」として扱われ、それによって歯止めが効かなくなることの方だというわけ。しかし困ったことに、シンポジウムの最後に各発言者の発言をまとめた Denise Dudzinski を含め、Dreger の「親のニーズを妥当なものとして認めるべき」という発言を「親のニーズのために子どもの成長を停止したり子宮を摘出することは許される」という意味に誤解した人がかなりいたようだ。

Dreger はさらに、アシュリーの症例において成長停止が「体重が軽い方が介護が簡単であり、結果的により良い介護を受けられるようになる」として、そして子宮摘出が「どちらにしても彼女が自分の意志で性的関係を持つことはありえないから」として正当化されたことに対して、次のように問う。アシュリーが自分の意志で子どもを持とうとすることがないように、彼女が自分の足で歩くことだってありえないのだから、両足を切断してしまえば良いのではないか? そうすれば身体はより軽くなり、介護も楽になるのではないか、と。たしかに、両親や医者の論理を徹底させれば、両足の切断こそが「当人にとって最善の選択」となってしまうかもしれない。もちろん、肢体の切断はおそらく子宮摘出より深刻な痛みやリスクを伴うものだろうから、それを理由に両足切断は却下される可能性もあるけど、果たして「子宮・乳腺摘出」と「両足切断」の違いはそれだけなのだろうか? すなわち、もし仮に痛みを伴わず、リスクを抑えたまま切断することが可能であれば、倫理委員会はそれを承認するのだろうか?

痛みやリスクが技術的に解決されたとすると、論理的には子宮と乳腺の摘出が承認され両足切断が承認されない理由はないように思うのだけれど、わたしはそれを両親が求めるとも、倫理委員会や世間が容認するとも全く思えない。しかしそれは、女性の性と生殖の侵害ーーとくに障害のある女性に対する侵害にーーにいかに世間が寛容であり、また生まれつきあるいは事故や病気の結果として手足のない人たちに対していかに偏見を持っているかの反映ではないか。

最後に、Dreger は40人もの委員が名を連ねる倫理委員会において、はじめ「アシュリー療法」に反対する者が大多数だったのに、両親のプレゼンテーションを聞いてあっさりと全会一致で賛成にまわったという事実それ自体が、何らかの問題の所在を指し示しているのではないかと問いかけた。 Dreger は Woodrum が先のパネルにおいて「両親が説得力ある議論を出してくれたおかげで、わたしたちの仕事を代わりにやってくれた」と発言したことを挙げ、「倫理委員会は自分たちの仕事をきちんとやるべきだ」とごく当たり前の指摘をした。そして続けて彼女は、「両親はおそらく白人で中流階層の専門職で、PowerPoint を使ってプレゼンテーションしたのではないか」と推理する。つまり、医者らがそうも簡単に両親の立場にアイデンティファイ(同一化)したのは、人種や経済的階層や職種がかれら自身に近いからではないか、というのだ。そして彼女は、そういった社会的な要素が倫理委員会の判断に影響を与えるのは確実だからこそ、倫理学者なり法学者なりに依頼して「アシュリー療法」に反対の立場からもプレゼンテーションしてもらうべきだった、と主張する(これと同じことを法廷で行なうことを「敵対的審理 adversarial proceeding」と呼び、発達障害者の不妊治療を行なう際には必須とされている)。また、いまの時代になって倫理委員会に障害者運動や障害学の視点を持つ人たちが入っていないことは、まったく信じられないほどの過失だと指摘した。

批判された倫理委員会議長の Woodrum も黙っていない。かれは質疑応答の時間に再び登場し、倫理委員会には既に「障害者コミュニティの代表は入っている」と反論した(が、それが障害者であるとは言わなかったので、障害者の親が「代弁」する形で入っているのではないかという疑念は残る)。 Dreger 及び会場にいた著名な障害理論家・フェミニストの Adrienne Asche はそれに対し、倫理委員会に必要とされているのはただ単に障害のある人やその家族ではなく、障害者運動や障害学の歴史と視点をきちんと理解した人物なのだ、と主張した。 Ted Carter はそれに割って入り、倫理委員会がこれ以上大きくなっては機能しなくなるので倫理委員会に全てのマイノリティの代表者を含む事は不可能である、といった反論をしていたが、医療倫理において障害者の権利をどう保護するかは重大な問題であり、40人の委員の中に障害者運動や障害学を背景に持つ人を入れろと言っているだけなのに、なんとくだらない反論だと思った。

Woodrum はさらに続けて障害者に対する不妊医療の判断に裁判所を介在させる制度や法定代理人 guardian ad litem の仕組みを批判した。かれによれば、直接その症例に利害のない弁護士を連れてきても、完全に中立で客観的な人物なんて存在しないのだからまったく無意味だと言う。しかし法定代理人の役割は中立の立場で客観的な判断を下すことではないということを、かれは全く理解していないように見える。法定代理人の役割は、親や医師らの利害を度外視してでも患者当人の権利と利害だけを徹底して主張することであり、親や医者側の弁護士や法定代理人らの意見を聞いたうえで中立の立場で判断するのは裁判官の役割だ。親や医者の利害はかれら自身やその弁護士によって既に主張されているのに、子どもの利害だけはーー少なくともそれを最優先する形ではーー誰にも代弁されていなかったからこそ、そうした制度が生まれたのだ。

インターセックスの子どもの権利を守る法律家団体 Institute for Intersex Children and the Law(これも一応フルディスクロージャーしておくと、わたしはこの団体の理事をしている)の代表者でもある Anne Tamar-Mattis は、Woodrum がアシュリーの件において法廷の審理を省いたことを、まるで一つ形式的な手続きを忘れただけの軽いミスのように言うことに対して、次のように反論する。「子宮が摘出される前に法定代理人によって裁判所で自分の利害を代弁されることは、アシュリーにとって法律と憲法で保証された基本的な権利だ。その権利が両親と医者の判断で踏みにじられたことは、彼女自身がその権利を理解できるかどうかとは無関係にーーそして、仮に最終的な結論に何ら影響を及ぼさなかったとしてもーー彼女に対する重大な人権侵害である。決して軽微なミスではない。」

多くの医者がこの法定代理人制度についてよく分かっていなかったようなので、この日最後のパネルにおいて成長停止・子宮摘出と法制度の議論があったのは良かった。最初の発表者はアシュリーの症例において違法行為があったことを病院に認定させた Washington Protection & Advocacy(来月から Disability Rights Washington に改称)の David Carlson。かれはかなりの切れ者で、落ち着いた調子で障害者に対する不妊治療が法的にどのように扱われているのかを分かりやすく解説していた。かれは法廷は倫理委員会を置き換えるものではないことや、法定代理人が任命され法廷で審理されることになっても親や医者がそこから排除されるわけではないこと、そして弁護士や裁判官も医師らと同じく家族を持つ普通の人間であることなどを話した。もっとも、その弁護士や裁判官たちが医師らと同じように親の側にアイデンティファイして患者の権利を軽視しないように、今後どのように専門的な知識のある代理人を養成していくかも課題となりそう。まあ当面は、Carlson に代理人を務めてもらえば安心できそうだけど。

次に発言した Greg Loeben はアリゾナ州フィニックスにある Midwestern University に所属する小児科医。かれのプレゼンテーションは、病院内において倫理委員会がどのように機能するかで、問題点もいくつか指摘していた。かれによると問題点とは、委員会が自分たちだけで議論しがちで問題となっている分野の外部の専門家の意見をなかなか聞こうとしないこと、議論の時間があまりに限られていることなど。かれはさらに Dreger の発言を受けて、倫理委員会に障害者運動の視点を取り込むことの必要性を訴えたけれども、具体的な話がなかったので、かれ自身が働く病院においてどの程度それが実現しているのかは不明。

この日最後の発表者はワシントン州発達障害委員会の Ed Holen という人物。発達障害委員会というのは州政府の一部で、政府の中で発達障害のある人たちやその家族を支援したり、発達障害のある人に関係しそうな法案について専門的な見解を提供したりするのが役割らしい。しかし残念ながら、かれ自身どうしてこのシンポジウムに呼ばれたのか分かりかねているようで、発言内容は障害者の権利や地位向上運動について一般論ーー例えば、「障害者 disabled people」ではなく「障害のある人たち people with disabilities」という言葉の方が望ましい、みたいなーーを述べただけだった(わたし個人はどちらの表現も使うが、「disabled people」という表現の方が「社会が特定の身体を disable している」というニュアンスーーつまり、障害は自然にそこにあるのではなく、社会による行為であるという意味ーーを含めることができるので好きだったり)。

シンポジウムの全般を通して、重度発達障害のある子どもを持つ親が再三発言し、「アシュリー療法」がいかに自分の子どもにとって最善の選択であるか力説していた(Diekema のオフィスには自分の子どもに「アシュリー療法」を希望する親の問い合わせが絶えず、かれが決めた「生後6ヶ月以下相当の知能」という条件が厳し過ぎるという批判も多いらしい)。かれらにとって、アシュリー療法に反対する障害者たちはーー自分の意志で反対の意見を表明できるだけの知能があるということは、アシュリー療法の対象とされる層とは違うのでーーまったく無関係な部外者であり、親と医師によって決定されるべき治療方針に介入するのはそれこそ人権侵害だという。しかし、アシュリーに比べてはるかに軽度な障害のある人たちも、頻繁に医療や人生における自己決定権を侵害されているのであり、アシュリー療法の先に待ち構えているかもしれないものは、かれら自身にとって極めて現実的な危機でもある。もちろん、軽度の障害を持つ人たちが重度障害者の代弁を一方的に買って出るのもどうかとは思うが、親だけによって代弁されるよりはさまざまな利害関係者が関わった方がよりマシであるようにわたしには思える。

これだけ多くの母親たち(父親の発言者はいなかった)が、障害をもって生まれた子どもたちの成長停止や生殖器摘出を要求するのは、それがかれらが抱える苦労や困難の大きさの反映であると分かりつつも、いろいろな意味で息苦しかった。ただ単に介護の辛さや将来への不安というだけでなく、Dreger が言ったように、かれらは世間の「そんな子どもを生むとは、あなたは一体妊娠中何をやったのだ?」という視線に日々晒されてきたのだろう。そうした親たちが、「子どもにとって最善」という偽善を掲げながらであっても、大勢の人の前で自分の苦しさを訴える場というのは非常に貴重だと思うのだけれど、それを目の前で見なければいけなかった障害者も辛いはずだ。わたし自身にとっても、全てを「子どものため」と、まるで親自身のニーズとは全く無関係であるかのように成長停止や生殖器摘出を求める声を聞いて、それが障害とジェンダーにまたがる様々な社会的な偏見や社会政策の失敗の産物であると分かりつつも、親の立場に素直に共感できなかった。

もちろん、このような非常に濃厚な論理と感情の入り交じったシンポジウムに参加できたことはとても良かったとわたしは思ったし、また Alice Dreger さんや Anne Tamar-Mattis さんら話の通じる仲間と一緒に参加できたことは幸運だった。また、パネルで発言した人だけでなく会場には多数の障害者やその支援者がかけつけており、そのことにも力づけられた。しかし、今回の件に対して抗議活動の中心を担った Feminist Response in Disability Activism (FRIDA) や ADAPTNot Dead Yet の人たちがパネルに招かれなかったーーかれらは、わたしが連絡するまでシンポジウムの存在自体知らされていなかったーーのは残念。あまり知られていないが、かれらはシカゴにあるアメリカ医師会の本部前に座り込むなどの直接行動により、史上はじめてアメリカ医師会CEOと障害者団体の会談を持つことに成功している。 Adrienne Asche が言った通り、障害者なら誰でもいいからパネルに呼べば良いというわけではなく、障害者運動や障害学の歴史や視点を熟知した人が必要だったはず。その意味では、今回かれらを招かなかったことで、シアトル小児病院は貴重な対話の機会を一つ無駄にしたと思う。

報告は以上だけど、ここだけの話。実は当日わたしの3つ横の席に、アシュリーの父親が座っていた。かれは何も発言しなかったけれど、パネルで発言を終えた Diekema 医師がその男性に近寄って、「あなたの娘の件についての報告はあれで良かったですよね」と話しかけているのが聞こえたから分かったのね。もちろん、さすがのわたしもアシュリーパパに話しかける勇気はなかったです。一方、今回はじめて以前から尊敬している Adrienne Asche さんと会うことができたので、自己紹介&握手してきました♪

ところでこの報告、どこか紙媒体のところで出版できるところはないですかね? かなり労力かけたし、資料として残したいので。原稿用に文体はちゃんと書き直すので、誰かそちらの方面に詳しい人がいたらメールで教えてください。

【追記】spitzibara さんのブログにおいて、倫理委員会に40人もいたというのは誤報ではないかという指摘がありました。両親がブログで「40人いた」と書いたことが事実としてさまざまな報道に引用されてしまっているのだけれど、どうやらそれは誇張のようです。そんなに多いのはおかしいと直感的に感じつつも、わたしも報道に騙されてしまいました。訂正します。

3 Responses - “重度障害児に対する「成長停止」をめぐるワシントン大学シンポジウム報告(後編)”

  1. 結城美知 Says:

     貴重なレポート、ありがとうございます。しかも短時間に手際よくまとめ、発表する力量に感嘆します。
      私は、障碍者の「両足切断」への医療の傾斜を危惧します。アシュリー氏(ちゃん)は、内臓疾患がないのですね。ですが、腎や肝機能の低下がみられる、心臓肥大で現状の五体維持がむつかしいような、もうひとりの「アシュリー」について、医師から診断され、親権者が肢体の切断に賛成、または同意することは、十分ありえると感じます。処置したあと、社会の目が気になれば、「アシュリー」に義手義足を装着させ、長袖手袋、長ズボン靴下を履かせればいいでしょう。
      本記事、出版のご希望があるとのこと。一読ですが、その価値を認めます。具体的には、雑誌メディアをお望みですか? それとも本ですか? 
      雑誌あるいはブックレットなら、すこし手を入れれば、よろしいかと存じます。私見では、このレポートに関しては、貴方の言う「残りのパネル」についての記述がほしい。このシンポジウムの全体の「雰囲気」、そのなかでのアシュリー案件の位置づけを明らかにしてほしいこと(成長抑制・停止技術で、いまどこまで可能なのか、やろうとしているのか、も知りたい)。倫理委員会の委員の階層・性別・人種などの情報がほしいこと(貴方がご指摘のとおり、40人の委員がなぜ、こうも容易に「逆転移」したのかを示す鍵になるかもしれません)。
      望蜀ですが、アシュリーの案件とシンポジウムについての関係者あるいは識者のコメント、貴方のインタビューあるいは対談によるフォロー・アップに十分な数量がほしい。
      過去3年の流れと、これらを容れると、おおよそ新書のボリュームになりましょう。相当なたいへんです。ですが、そこまで貴方がおやりになるのであれば、私はこの芳書を読んでみたい。
     私は現場を離れていますが、紹介の労はとれます。
      

  2. macska Says:

    結城美知さん、コメントありがとうございます。

    本記事、出版のご希望があるとのこと。一読ですが、その価値を認めます。具体的には、雑誌メディアをお望みですか? それとも本ですか?

    雑誌を考えていました。一般誌でも、障害者の問題や医療倫理の専門誌(みたいなのがあれば)でも。

    この問題を掘り下げて本として出版するのは、わたしより他に適任者がいると思います。わたしはそういう人のための資料を紙媒体で出しておくべきだと思いました。

    例えば以前、『ブレンダと呼ばれた少年』の内容が「男女共同参画行政の見直しを迫るもの」としてかなり曲解されて紹介されていた時に、その本の著者にインタビューした記事を週刊金曜日に掲載させてもらったのですね。掲載された雑誌自体は発行部数も少なくていろいろな評判もあるわけですが、ブログではなく雑誌に載ったことで、その後いろいろな書籍や論文で引用・紹介されるようになったと思います。そういう感じに、今回の報告も紙媒体で出すことで、新たな影響力を持ち得るのではないかと思ったわけです。

    ところで、倫理委員の情報ですが、性別がほぼ半々であるという他は、なかなかはっきりしたことが教えてもらえないんですよね。もうちょっと近ければ、わたし自身が立候補して中に入ってやろうと思うんですが(そしたら多分守秘義務とかできて自由に書けなくなるか)。

  3. りぼー Says:

     『障害学研究』(発行:障害学会/発売:明石書店)でよろしければぜひ掲載させていただきたいのですが。一応書店流通。『週刊金曜日』どころでない発行部数ではありますけども。次号(第3号)は今秋発行予定です。選択肢のひとつとしてご検討願えれば幸いです。ご関心をおもちの場合はメールくださいませ。よろしくお願いいたします。

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